[書評]「ブッダ」(手塚治虫)
「Yahoo!ブックストア」で2013年6月4日まで、手塚治虫の「ブッダ」全14巻が無料で読めると聞いて、ああ、懐かしいなと思った。ニュースをざっと見ると、アンドロイド端末アプリを使うらしいので、持っているけど、あれで漫画を読む気にならないと思った。が、ふと気になってもう一度見ると、iPhoneアプリにも対応しているらしい。それでも画面が小さくて読む気にはならないが、もしかしてiPadで読めるのかもと思って試したら、読めた。そして、つらつら14巻を読んだ。他に、「火の鳥」全16巻と「ブラック・ジャック」全22巻も同期日まで無料らしい。そちらはいくつか覗いてみた程度。
手塚治虫の「ブッダ」が、潮出版社の少年漫画雑誌「希望の友」に連載開始されたのは1972年のこと。僕が中学二年生の時だ。すでにその頃、僕は亀井勝一郎の「親鸞」(参照)とか、鈴木大拙の「日本的霊性」(参照)や梅原猛の「地獄の思想」(参照)とか読んでいた。中村元の「ブッダのことば―スッタニパータ」(参照)や金岡秀友の「仏典の読み方」(参照)なども読んでいた。仏典の原典も読んでいた。無駄な暗記力もあったので般若心経とかも覚えていた。それなりに仏教については知ったつもりでした。この手の知識分野への傾倒は、当時の学生によるあるタイプで、僕より一つ年上の大川隆法(ペンネーム)がご教祖様として出て来たときは、そういう世代だよなあ、なんか自分もちょっとしたきっかけでああなっちゃたかなという印象もあった。ああいう才能はなかったが。
潮出版社はあらためて言うまでもなく創価学会系の出版で、当時住んでいた地域には創価学会の住民も少なくないことから普通の書店でも「希望の友」は売っていて立ち読みもできた。創価学会系で「ブッダ」かよと、当時ですら思ったものだった。が、「希望の友」はその前年から横山光輝の「三国志」も連載していて、なんというのか、いわゆる少年漫画でもないし、大人漫画でもないあたりを狙った、それなりにメジャーなコミック誌でもあった。
「ブッダ」の連載は出版社は変わらないもの「少年ワールド」から「コミックトム」と続き、連載が終わったのは1983年。自著「考える生き方」(参照)にも書いたけど、僕はもうそのころはほとんど廃人状態だった。中二の思春期から人生オワタの25歳まで、考えてみると、手塚治虫「ブッダ」をずっと読み続けていたことにはなる。
ずっと単行本で揃えていた。今でも思い出すのだが、後半に来て、たぶん「コミックトム」への移行の時期のせいだろう、長い休載があった(実際は半年ほど)。休載が明けると、主人公であるブッダの相貌が、いかにもお釈迦様になっていて、なんか物語のトーンも変わったような気がしたものだった(記憶違いかもしれないが)。
手塚治虫「ブッダ」から感銘を受けたか。そこがなんとも微妙だ。結局ずっと関心を持ってリアルタイムで読んできたのだったが、最初から、これは仏教じゃないよなあ、でもなんとなく手塚治虫教でもいいじゃないかと思っていた。
青年期になると、なんかもう惰性で読んでいたように思うし、最後のほうは関心も薄れていた。
描かれているブッダの真理より、自分の人生オワタ境遇のどん底感が大きくなっていたように思う。その後は、書架に並べてあって、たまに読んだ。不思議なことだが、オウム真理教に傾倒する人達がこの漫画を好んでいるらしく、おまえらなあ、みたいな感想も持ったものだった。沖縄に転居する前ころ処分して、以降読んでいない。もう20年近くになる。
で、久しぶりに読んだ。いくつかのシーンはリアルに覚えているが、記憶のシーンと微妙に違うので、初出との正誤を取りたいような気もしたが、まあ、めんどくさい。
この年になって中二のころなど思い出しながら読むと、感慨深い。また、後半の物語の断絶感は今読むとどうだろうかとも思ったが、意外と違和感なかった。そもそもこの物語の実質の主人公はタッタであり、ブッダはむしろその背景であってもいいのだろう。
また読みながら、ブッダのいわゆる悟りのシーンとか後半での真理の気づきみたいののズレ感から、ははあと思った。手塚治虫は創価学会系でもないし(共産党のメディアにも描いていた)、法華教信者でもないが、この作品は実質的に五時八教説をなぞっているわけだ。教相判釈に沿っていると言ってもよい。執筆にあたって、創価学会の影響は直接的にはなかっただろうが、結果的には天台系の思想になっているのだなと思った。
描かれている手塚治虫流仏教は、言い方は悪いが、仏教とは似ても似つかない奇妙な思想だが、それでも、教相判釈でもあり、強烈に本覚思想でもあり、つまり、そういう点では、日本仏教の亜流と見てもよいのだろう。死後の霊魂もあるし、生まれ変わりもある。いやいや、むしろこれこそ日本の仏教か。
ブッダ全12巻漫画文庫 (潮ビジュアル文庫) |
普通に作品として見たとき、女の描き方にいろいろ心惹かれた。これは手塚治虫の他の作品でもそうだ。あの暗い想念とエロスへの渇望感みたいなのは、昭和という時代のものでもあるが、手塚治虫の個人的な資質でもあっただろうし、そのあたりに手塚治虫の秘密があるようにも思えた。あと、女を介した親子の葛藤なども、時代的といえばそうだが、そのあたりも、年取って読むとじんとくるものはある。
cakesの書評がもう少し続けられるなら、いずれ手塚治虫も取り組みたいと思う。それは「ブッダ」かなあ、としばし考え込んだ。個人的には「アポロの歌」(参照)のような気がしているが。
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コメント
うんこ
投稿: ああ | 2013.06.03 09:41
大学で仏教を学んでいるものです。僧籍を持っているわけでも長く勉強したわけでもなく、知識不足も甚だしいのですがたまたまこの記事を拝見いたしました。
気になる箇所があったのでご質問させてください。
>この作品は実質的に五時八教説をなぞっているわけだ。教相判釈に沿っていると言ってもよい。
とありますが、具体的にはどういった場面に表れていますでしょうか。
私が読み取れたのは小乗から大乗への転換(阿難の説得の場面です)くらいで、五時も八教も特に見つけられませんでした。
特に八教に関しましてはやや煩瑣な哲学教理であり、物語としての表現を重視している(と私には思われる)この作品においてそれに沿うことはあまり適切ではないように思えます。
もし作者がそのことを踏まえた上で、さりげなくそうした教理事項を描いていたとしたら私には読み取れませんでしたので、後学のために教えてくださればと思います。
また、重箱の隅をつつくようですが、教相判釈は必ずしも五時八教に限ったものではないので「天台の」教相判釈に沿っている、というのが正確な表現かと思います。
では失礼いたします。
投稿: 事事無礙 | 2014.10.05 15:25
事事無礙さんへ。「実質的に五時八教説をなぞっている」ということで、五時八教説を解説しているわけではありません。悟りに深みの段階を採用し仏陀の人生に投影し、これを法華経的な宇宙観に収斂させていく考え方というくらいです。
投稿: finalvent | 2014.10.05 15:32