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2013.06.04

[書評]フランシス子へ(吉本隆明)

 まさか吉本隆明が最後の最後にこんな傑作を残していくとは思わなかった。晩年のテレビ講演などを見ると、もうほとんど惚けているとしか思えない恍惚感まで浮かべていて、死ぬ前から著作物はもう期待されないだろうと思っていた。それがまさかのまさか。

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フランシス子へ
吉本隆明
 亡くなる三か月前までの肉声を伝える、この本、「フランシス子へ」はすごかった。老人惚けのような語りと極限まで押し詰められた思念が一つの純粋な言語の結晶となっているのだ。語りがそのまま詩になっている。
 吉本さんがこんな白鳥の歌を残していたんだと、読みながら、涙があふれてきた。それでいて、可笑しくて、笑いもこぼれる。こんな本ってあっただろうか。
 タイトル、「フランシス子へ」というのは、「フランシス子」と名付けられた猫(ばななさんが命名した)の死に捧げたものである。吉本さんの死に先立つ九ヶ月前のことだった。16歳4か月だったという。猫としては高齢の部類では入っていただろう。吉本の傍に寄り添って、そのまま死んだのだという。

 フランシス子が死んだ。
 僕よりはるかに長生きすると思っていた猫が、僕より先に逝ってしまった。

 一匹の猫と一人の人間が死ぬこと。

 どうちがうかっていうと、あんまりちがわねえって感じがします。
 おんなじだなあって。
 どっちも愛着した者の生と死ということに帰着してしまう。


 愛猫ということだが、猫好きの吉本隆明がこれまで多数の猫と過ごしたなかでも、まるで自分とまったく同じじゃないかと思えるほど、心が一体になってしまった猫だったという。それでも普通の猫だったとも言う。

 とりたてなんにもいいところがねえよっていえば僕自身がそうだったわけで、そう思ってあらためて思い出してみると、痩せた体も、面長な顔も、自分とそっくりだったという気がしないでもない。


 僕は、自分の子どもに対してもそういうかわいがりかたはしたことがなかったと思う。長年連れ添った夫婦であっても、ここまでのことはないんじゃないか。そのくらい響きあうところがあった。


 もう、この猫とはあの世でもいっしょだというような気持ちになった。
 この猫とはおんなじだな。
 きっと僕があの世に行っても、僕のそばを離れないで、浜辺なんかでいっしょに遊んでいるだろうなあって。

 泣けた。
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なぜ、猫とつきあうのか
吉本隆明 (河出文庫)
 唯物論者で、親鸞すら浄土なんてものは信じてはいなかったと喝破してきた哲人・吉本隆明が、今や、静かに浄土というか天国を彷彿とさせているのは、その命のありかたを猫と同じまで掘り下げたからであって、老人として惚けていたわけではない。なんだか手塚治虫の「ブッダ」のタッタみたいだ。「最後の吉本隆明」とでもいうべき思想の行きつく姿でもある。
 猫の話から、そよ風のように話題は逸れ、ばななさんの息子、つまり吉本隆明は孫に移り、孫にも自分を見ていた。

 人が立っているときに寝転んでいたりとか、座って聞いていりゃいいのに立ったままで聞いていたりとか、なんだかへんちょこりんなかたちでさかさまになっている孫の状態を見ていると、僕とそっくりだなあ、よく似るもんだなあって。


 僕なんかは、今でもあのくらいの年の子とおんなじ、そっくりなんじゃないかって気がします。

 吉本さんという人はそういう人だった。
 いつでも、ずっとがきの心を持ち続けていた。というか、読みながら、ああ、俺も長生きできたとしても、がきの心のままくたばるんだろうなと思った。吉本さんは、いつも、俺だった。

 僕は、自分のやったことに積極的な意味をみだりにくっつけたりしたら、自分はもうだめだって思ってやってきました。
 なんでそうなるかっていったら、要するに自分は何かをいっぱしにやろうとしたところで、世間並みには振る舞えないってことがいちばん根底にあるだと思います。

 それから話は村上一郎にも移る。僕は、村上一郎を直接知る人から彼のことはいろいろ伺っているので、この話も興味深かった。死期ちかく吉本も村上のことを思うのだなと、思った。
 本書の面白さといえば、フランシス子との交わりもだが、中盤に出てくる「ホトトギス会」もけっこうなものである。いわく、ホトトギスは実在するのか? 執拗に問いかけるのである。なんだそれ。
 読んでて、吉本さんが何を言っているのか理解できない。ホトトギスがいるのは当たり前じゃないか。こないだも見たぞ。テッペンカケタカ、ホトトギス、だろ。いるよ。実在しているよ、よく見るじゃん、と僕などは思うのだが、そういう話ではなく、古典文学の文脈ということなのだろうか。
 このあたりから、村上春樹の小説のように話がシュールになってくる。いや、表向きは抽象的になる。

 これは何も「ホトトギス」に限ったことじゃないんでね。
 確実に「そんなものはいるわけはない。伝説さ」って言えるだけの根拠があれば、そういうことなんだけど、根拠はなくて、ただ疑いだけがある。
 そういう場合はどうするのかって問題でもあるんです。

 それはわかる。よくわかる。
 僕は、日章旗の起源は琉球旗でありさらにそれは蛇の目だろうと疑っている。古事記は偽書だと疑っている。聖徳太子あたり以前の日本史は全部デタラメだろうと疑っている。源氏物語の作者は紫式部ではないだろう。土佐日記の作者は紀貫之のわけないだろう。さらにお釈迦様は実在しなかっただろうとも疑っている。が、通説に反対するほどの確固たる根拠があるわけでもない。そういえば、福一原発事故の危険性(四号機プール)は依然まったく変わらないなとも疑っている。

 みんなはそう言っているし、反対するほどの根拠もないんだけど、自分はどうももやもやするんだよなあとか、いかにもよさそうなことだから反対もしづらいんだけど、なんか胡散臭いとかね。

 そこから親鸞の話に移る。
 僕も中学生のことは親鸞に傾倒したし、それなりに親鸞の関連は学び、吉本さんの親鸞物もよく読んだ。でも僕は結局、親鸞にはしだいに関心を失い、なぜか道元に傾倒するようになった。まあ、それは人それぞれということだろうけど。
 ただ、本書の親鸞は房総半島の旅の姿で描かれている。僕も一時期房総半島をよく旅していて、親鸞の足跡がこんなところにまであるんだと感心したことがあった。
 そして本書の最後にまたホトトギスの話になる。どうやら編集者がホトトギスの声を録音かなにかで吉本さんに聞かせているらしい。このようすだと、ほんとうに吉本さんはホトトギスの声聞いたことないのか? これって手の込んだ冗談か。まあ、その真偽もどうでもいいや、あははという感じで終わる。笑いが、いい。笑いを残してくれるのは、いいことだ。吉本さんは死んだんだなあとじんと胸に迫る。
 本書のゲラを直したのは、長女のハルノ宵子さんのようだ。僕と同い年である。って会ったこともないけど。
 このハルノさんの「鍵のない玄関」という後書きがよい。

 吉本ファン諸君よ! 私はあなた方とはなんの関係もないのだ。
 私は訪れる方々に、これからも父の生前と変わらず対応していこうという気持ちと、父の蔵書も資料も原稿もろともすべて、ブルトーザーでぶっ潰して更地にしてやりたいという、"黒い誘惑”との間を振り子のように揺れている。

 いいなあ。それでこそ。吉本隆明の娘さん。
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開店休業
ハルノ宵子
 というか、吉本和子さんの娘さん。隆明の背中に生えた悪魔の翼がばたばたするのをじっと見ていた女の目だろう。
 
 

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