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2013.06.20

老いの、身体が壊れて死に至るという意味合い

 人はいつから年を取るか。自分の場合は、20歳になったときも年取ったなあと思ったし、35歳を過ぎたとき、村上春樹の短編「プールサイド」(『回転木馬のデッドヒート』収録・参照)のようにも思った。
 40歳過ぎたときもがくっときたものだし、50歳のときは漱石の年を越えることに怖れのようなものもあった。昨年55歳になったときは、父親の世代ならもう定年退職だなと思って、自著『考える生き方』(参照)も書いた。この本でも触れたが、この年まで生きられなかった人も少なくないのだから、あとの人生はちょっと別の視点で生きていこう、というか、自分を退けて、若い世代の邪魔にならないように生きるほうがよいだろうと思った。まあ、そんな感じ。
 でも、ちょっと違うかなあという感じもしている。違うかなというのは、本格的に「老い」というのが襲ってくるのはまだ先というか意外とそこまでがきついのかもしれない。『開店休業(吉本隆明・ハルノ宵子)』(参照)で吉本さんがこう呟いているのを読んで、そう思った。


 何歳くらいから、老いの自覚がやってくるのか。それは人によってさまざまだろう。
 勤務先の定年によって、生活のリズムが変わったとき、という人もいるだろう。足腰が痛くて身体を折りたたみするのがままなくなった七十歳代のとき、という人もいるにちがいない。老いなんてものは気にもしなかったのに、八十歳を過ぎた途端、これはいかんと思うようになったと告白する人もいるはずだ。

 そう言われてみると、祖母が身体の不調を訴えたのは八十過ぎてからだった。気丈な人だったが、身体も頑丈な人だったのだろう。若い頃、ドイツ人の看護婦の補助みたいなこともしていたらしく、健康には乳製品をしっかりとるという人でもあった。それはさておき、吉本さんだが。

 私の場合は七十歳と八十歳の間で、少し八十歳に近いくらいの頃だったような気がする。

 ふと、七十八という年を思った。邱永漢さんがたしか、そんころの平均寿命を目安にだったか、その頃を死ねばいいという話を書いていた。彼はその後も矍鑠と長生きしたわけだが。
 吉本さんの老いの自覚は、ちょっと意外に思える記述になっていた。

 そのとき、何が自分のなかで変わったのかを、思いつくまま挙げてみると、ひとつは、自分より年寄りだとわかれば、性別や世間的な因縁に関係なく、敬意を表すようになったということ。いきおい、近所で出くわすおばあさんやおじいさんに対して、ということになる。

 そういう感覚があるのかと読んで思った。そして、それは70代半ばにでもならなければわからないのかもしれないとも思った。
 が、それに比べればまだ若い自分でもふと似たことを思う。似たというのは、60歳過ぎた人は、どんな生き方であれ、ちゃんと60年という歴史の経験を刻んでいるだなという感覚である。その人々のなかに、なんというか、本当の歴史の経験というのがきちんと維持されているのだという、ある敬意でもある。
 これは、なんというのか、吉本さんの文脈からはずれるのだけど、性的な意味での若さが結果的に削られることにも関係している。
 老いと性の感覚というのは、実は相当にやっかいな問題なんだろうというのの半面、現実問題としては、性の感覚は若いころとは大きく違う。石田純一のような例外みたいな人もいるし、案外少ないわけでもないのだろうが、概ね50代半ばになれば現実的な意味での生殖とは関わりはなくなる。終わったというか。あるいは別の局面に移るというか。いずれにせよ、生物的な意味での生殖からは解放されてしまった人間の存在として、自分を見つめるとなる。これは奇妙な感覚ではある。人間というのは、なんとかそこまで生きて、ある種、精神的な存在になるべくしてなるようにできているのだろうか。よくわからないが。
 吉本さんの老いの話は、続いて、歯が浮くことに移る。いわゆる身体の衰退でもあるが、娘ハルノの話では60代から入れ歯だったようでもある。
 吉本さんは糖尿病でもあった。30代のころに発症している。そういえば、邱先生もそうだった。糖尿病は(糖尿病と限らないが)恐ろしい病気で、結局、吉本さんも晩年それに苦しむことになる。歩けなくなり、失明もする。
 ハルノの話では1990年代末には、尿漏れもあったらしい。

尿モレはダイレクトに人間のプライドを挫く。そこで実験好き薬好きの父のことだ。『ユンケル(のかなり高価なヤツ)』と『QPコーワゴールド』と、あるカゼ薬の組み合わせで、尿モレが軽減することを発見した。

 そのあと、それはエフェドリンのせいだろう。そして肝臓に悪影響が出たと続く。それからさらに大腸癌手術の際に、履くタイプのおむつを使うようになった。その後、吉本さんはそれを履き続けたという。
 このあたりの身体の、ある種、崩壊の感覚は、心底怖いなあと思う。自著にも書いたが私は別の方面で神経系が崩壊していくので似たようなものなのだが、それをふと忘れて他の人のことも思う。
 ハルノは続けて、こう隆明を評する。

 ある一線を越えた瞬間から意地をかなぐり捨て、限りなく自分を赦す――というのも、父の珍妙な特質だと思う。

 吉本さんは、そういう人だったのか。
 そんなはずはないとは思わない。人間というのは不可避の一本道を辿るだけだと言う彼にしてみれば、どうしようもない道はそこを辿るしかないし、それは傍からは「意地をかなぐり捨て」のようにも見えるかもしれない。が、「限りなく自分を赦す」というのはどうなのだろうか。娘が父をそのように見ていたというのは、それはそれで偉大な父だったということではないのか。
 江藤淳が死んだとき、たしか吉本さんは、そのいさましい自決の文章より、前立腺炎に注目した。いや、そのあとの脳梗塞もあっただろう。そこで、その地点で吉本さんは、彼の自殺もわからないではないとしていた。
cover
開店休業
 老いて、しかも、ほぼ完全に身体が崩壊させられ苦しむとき、死を選んでしまうということもあるだろう……そういう同情の心の動きのなかに、考えてみれば「赦し」というのもあるようには思える。
 考えてみれば、吉本の文学者としての一つの業績は、「追悼」を著すことでもあった。多くの死に出会い、死を貯め込んで、死を自分の身体に煮詰めて煮詰めて、それが直接の原因ではないにせよ、自身も身体を崩壊させていった。
 俺はあと何年生きるだろう。そしてその最後は、吉本や江藤のような境涯に至るのだろうかと思うと、また恐怖のようなものも沸いてはくる。が、それもまた逃れがたいものなのだというとき、人生とはなんだろうなと思う。それは、本質的に誰にも逃れがたいものであるのだろう。
 老いて、精神として生きる、という裏側で、そういう新しい局面というか、崩壊していく身体を抱え続けるという苦しみはあるのだろうな。
 
 

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コメント

年をとると、めっきり、たんぱく質をとる量が減ってしまうのが原因では。酒を飲む人は、中年でも減っていくとおもうし。日本人はもともと、たんぱく質はギリギリ生活だから、差が大きくでると思う。ま、多すぎても、ボロボロにはなるとは思うけど・・・

投稿: | 2013.06.20 17:56

あなたのブログを3年ほど読んで初めてコメントさせていただきますが、(もう二度と書きませんが)

もうそんな状態になってもまだしがみつかなきゃいけないものがあるんですか?
目覚めもせずにこのままグダグダおしゃべりを続けて死ぬおつもりですか?

あなたは本当の自分を知らない、だからたとえどんなに物事を知っていようとバカ者です。私でさえ気づいてるのにです。


uttiSThata jaagrata praapya varaannibodhata!

(立て!目覚めよ!賢者の下へ行き!悟れ!)


グルが呼んでいますよ
今生でチャンスを逃したらあと次のチャンスはいつになることやらです…


自分は男ですがもうこんな恥ずかしいコメントさせないでくださいね笑

finalventさん!

投稿: himaalayaatprasaadH | 2013.06.21 01:01

男性ならではの感じ方かなぁと思って読んでましたが、そうでもないのでしょうか?(先のコメントなど。)

賢くないので上手く表現出来ませんが、そのままでもいいんじゃないですかね。

しがみつこうが、執着しようが、それが人間ってもんかなと。

投稿: ひできの嫁 | 2013.06.21 22:03

himaalayaatprasaadHさんに一言

失礼なコメントにびっくり


人気ブログには

このようなことが

あるのですね

投稿: 通りすがりの者です | 2013.07.21 11:23

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