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2013.06.03

[書評]手塚治虫の『ブッダ』読本(潮出版社編)

 昨日のエントリーで手塚治虫「ブッダ」を久々再読した話を書いた。きっかけは、「Yahoo!ブックストア」で2013年5月28日から2013年6月4日まで(ということは明日までか)無料で読めるとのことで、無料かあ、ほんとかなあ、以前全巻持っていたが、久しく読んでないから、この機会に再読してみようかということだった。

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ブッダ全12巻漫画文庫
(潮ビジュアル文庫)
 読み返してみると、いろいろ思うことはあった。ツイッターの反応で「仏教じゃねぇ批判はよく聞くけど、お釈迦様を主人公に、これだけ面白い漫画はないのでそこを評価してほしい」というのがあったけど、ああ、それはすまなかった。批判しているつもりはなかったし、面白い漫画だというのは前提のつもりだった。そうでなければ、思春期から青年期まで読み続けることはないよ。というか、cakesでの書評のようにきちんと評価を中心に描くべきだったかなとちょっと反省した。ええ、手塚治虫「ブッダ」は面白いですよ。女の描き方が、父親の描き方が……うーん、それじゃまた、ちょっと的が外れた感じかな。
 そういえば、コメント欄でも「ああ」さんというかたら「うんこ」という一言を貰ったが、気に入らなかったのかな。最近もまた、この手のたわいない罵倒コメントをよく頂くようになった。がんばってブログ書く気を無くしていきますので、よろしくね。
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手塚治虫の『ブッダ』読本
 この本の再読のついでに、「手塚治虫の『ブッダ』読本(潮出版社編)」(参照)も読んだ。こちらは無料ではない。でも、アマゾンでは古本で300円からと出ている。
 ざっと見たところ、これの電子書籍はないようだ。ずいぶんと以前の出版物かと思ったら、2011年6月4日刊で、東北大震災以降である。出版のきっかけは、本書にもあるが2011年5月28日に全国ロードーショーとなった「手塚治虫のブッダ 赤い砂漠よ!美しく」(参照)に合わせたもののようだ。この話も本書に書かれているが、ええ?「ブッダ」ってこれまでアニメ化されてなかったのかと逆に不思議な気がした。たぶん、「火の鳥」のアニメ化と記憶がこんがらがっているのだろう。

 そういえば、このブッダのアニメ映画化のポスターを見た記憶があるなあ。震災のどたばたのなかでなんか忘れていた。ちょっと調べたら、映画としては成功の部類だったようだ。

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手塚治虫のブッダ
赤い砂漠よ!美しく
【blu-ray】
 アニメ映画では原作の第2部全9章までらしい。
 来年、2014年2月に、第2弾の『BUDDHA2 手塚治虫のブッダ 終わりなき旅』が公開予定とのこと。全体では三部作になるそうだ。
 映画の物語としては、二部までは作りやすいだろうが、三部は難しそうな気がする。タッタの伏線を原作以上に重くしないと、終決部を原作でなぞっただけでは、映画としては不燃焼なものになるだろうから。
 ブッダの映画といえば、ベルトルッチの「リトル・ブッダ」(参照)は見たことある。というか、あれもあれで面白いと思った。こちらの作品は、手塚治虫のような大乗仏教的な枠組みというより、もろにチベット仏教的な枠組みで、映像も「ラストエンペラー」(参照)や「シェルタリング・スカイ」(参照)のような絢爛なエキゾチシズムがよかった。
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リトル・ブッダ
[Blu-ray]
 余談が多くなってしまった。「手塚治虫の『ブッダ』読本(潮出版社編)」だが、簡単にいうと、これまで「ブッダ」の巻末にあった著名人の「解説」などを再録したもの。その意味では錚々たる執筆者が並んでいる。逆にいうと、錚々たる執筆者がけっこう書き飛ばしているのもわかる。
 萩尾望都の文章が一番熱がこもっているが文章はこなれていない。岡野玲子が手塚眞と結婚するまで手塚治虫を読んでなかったというエピソードも面白かった。1960年代生まれの彼女が手塚漫画を読んでいないということがあるのだろうかとも思ったが、あるんだろう。手塚眞はそのあたりに安堵する思いがあったのではないか。ちなみに手塚眞は1961年生まれ。父親と微妙な距離を置いている感が以前はあったが、気質としては父親とよく似ているんじゃないかと思うようになった。
 また話が少しそれてゆくのだが、今回手塚治虫の「ブッダ」を再読しながら、こっそりと自分の年齢を手塚治虫に重ねていた。
 本書に寄せた大林宣彦・映画監督の1993年の文章に「この「ブッダ」が描かれたのは手塚さんの四十三歳から五十五歳の間である」とある。実は私もそれは知っていた。ああ、自分も、手塚治虫が「ブッダ」を描き終えた年齢になったなあと思っていたのだった。そのせいか、自分と同い年の手塚治虫の人生観みたいなものがこの作品からじわじわ感じられた。それほど難しい話でもない。この作品のなかに描かれている「父」像に焦点を当てればわかるだろう。あの苦悩の王たちの父親としての苦しみに手塚治虫の55歳の思いが滲んでいる。タッタが父になるシーンなどもにもそれはあるだろう。
 手塚治虫は大正15年生まれ、私の父と同い年だったせいもあり、その点からも独自の関心を持っていた。父親世代の一つの典型に見えたからである。が、亡くなって直後、年齢詐称、というのでもないだが、実際の生年が発表され、1928年(昭和3年)生まれであることがわかった。江藤淳も死んで一年補正されたが、生年の公開には微妙な陰影があるものだ。
 本書には、錚々たる執筆者の解説文の他に、手塚自身を含めた関連インタビューが掲載されていて、興味深い。1980年5月「コミックトム」では、全体でどのくらいの長さになるかと問われて、「やめようと思えば、いくらでも早くやめられるんだけど(笑)。問題は、お釈迦さまにいつ年をとらせるかということなんですね」とあり、ああ、そこは考えていたのかと私は今になって知った。
 釈尊を描くことの本質的な難しさも当初から理解されていた。「お釈迦さまの教義とか本質といったものは、漫画にならないんですね。それを描くと、解説漫画になってしまう」とある。その意味で、あれは仏教ではないとかいう批判は最初から意味がないし、読者もそれは織り込んでいたはずだった(そうでもない人もいるが)。
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シッダールタ (新潮文庫)
 執筆に至る裏話もあり、意外だったのは、手塚自身から当初、日蓮を描こうかという意図もあったようだ。しかし、創価学会系ではあるのに編集サイドからは、その前にヘッセの「シッダールタ」のような作品を、という提案が出されて、「ブッダ」となった。やはり、「シッダールタ」は意識されてはいたのだろう。ちなみにこの作品も面白いといえば面白い。絶賛する人もいれば、小説としてはつまらないという人もいる。私はといえば、やはり、女の描き方と父の描き方に興味をもつ。
 手塚治虫の年齢の話に戻ると、本書に1977年のエッセイがあって、50歳を越えた彼の述懐がじんとくる。

 人間五十を越えるとがぜんエネルギーが衰えます。五十という年齢は、会社ならば管理職、訳書でも役付で、会議に出向いたり人に会うことが多くなってくるわりに、こまかな作業ができなくなってくる。ことにこまかい絵をかく作業は無理になります。
 エネルギーの喪失です。だから、現在の僕のペースは今までで最低だし、コンディションは最悪でしょう。

 ああ、それわかるなと思った。五十を過ぎてずーんと沈む感じというか、死のせまる感じは、自著「考える生き方」(参照)にも描いたけど、じんわりとくるものだ。手塚治虫は60歳で死んだが、僕もあと5年も生きたらいいかあなの感じはする。
 
 

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コメント

ブラック企業とかよばれてる経営者たちは、いっそのこと、お金儲けをやめて出家すれば、尊敬を集めると思う。あと、ひきこもりの人たちも、期間限定で出家してみるのもいいかも。結局、明治以降、出家と在家の境界線があいまいになってしまって、わけのわからない道徳観に縛られているんじゃないかしら。まぁ、ようは、家出していないから、グローバルにちっともならない。本来の仏教なら、のーーーーんびりした国になるのにね。なんだか、ネットも家になってしまって、つまらないことでケンカして。その流れで公道にでて、見えない敵と戦いつつ、架空の家を守ろうと必死で。

あと、ついでに従軍慰安婦問題は、政治家と官僚が、不倫したり、ノーパンシャブシャブにいったりすることを、絶対にしなくならない限り、いいがかかりをふっかけられるのだろうな。だいたい、おかしいでしょ、民主主義なら家族が主体なのに、家族を裏切るようなことをやっていて平気というのは、それでいて、若者には、夜中は踊るな、ふしだらな漫画はみるなとか。

家族を大切にできないなら、出家してほしい! で、まとまったか、あはは。

投稿: | 2013.06.03 16:09

うんこ(^^)

投稿: アーリマソ | 2013.06.03 19:56

自分はこの漫画で自身が変わったのを強く感じました。

おかげで、幸せが増えて、色々なことに役立ちました。

ある意味、この漫画を信仰しているような・・・

投稿: 白蛇教 | 2013.06.13 23:12

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