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2013.06.17

[書評]太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで(イアン・トール)

 太平洋戦争とはどのような戦争であったか。なぜ日本は米国と戦争をしたのか。こうした問いに答えることは、容易でもあると同時に困難である。
 容易というのは、すでにレディメードな解答が用意されているからだ。だがこの容易さは、どれほど学問的な装いをしていても、連合国軍総司令部(GHQ)が指導した戦後神話の影響を受けているのではないかという疑念が伴う。なにより「大東亜戦争」という呼称が上書きされている。もっともこの呼称は「支那事変」を含めていると見てよいこともあるだろう。
 さらに戦後神話は近年では、太平洋戦争そのものの意味合いさえ薄め、「十五年戦争」的なアジア侵略を際立たせている。軍国主義日本といった思考の枠組みが優先されるからだろうか。「日本は戦争をすべきではなかった」から演繹されたような光景にも見える。
 困難であるとすれば、戦後神話を除いたとき、太平洋戦争がどのような光景に見えるか、と問うことだ。
 史実は史観を外して問われるものではないかもしれない。それでも型にはまった戦後神話の霧を晴らしたとき何が見えるだろうか。いや。そうした問いかけがまた別の神話への誘惑ではないのか。それも困難さの延長のようだ。
 容易さと困難さの振り子のなかで知性がかろうじて渇望するのは、史実の編み直しと新しい視点の可能性である。関連する個々の事象を丹念にかつ合理的につなぎ合わせる地味で緻密な編み上げ作業とともに、より大きな歴史の背景の奥行きのなかで視点を据え直してみることだ。市民が知りたいのはそこである。戦後神話でもなく、軍事史のディテールでもなく、実証的に理解できる歴史の意味である。

cover
太平洋の試練
真珠湾からミッドウェイまで
 本書『太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで』(参照上巻参照下巻)は、読後その要望に当てはまるにように思えた。
 おそらく真珠湾攻撃の70周年を睨んでだろう、2011年に米国で出版され、話題となったとき(参照)、1967年生まれと見られる46歳の若い米国人著者が、太平洋戦争をどのように問うたか、私は興味を持った。が、大著であり英文で読み通すほどの英語の力量のない私が読むことはないだろうとも思った。しかし2年経ずして翻訳された。
 読んでみると、叙述が明晰に展開されているうえ、翻訳がよいせいもあるのだろうが、こう言うのも変な言い方ではあるが、存外に読みやすい。大学生でも読み通せる。おそらく戦争に関心を持つ日本人であれば、今後読むべき歴史書の古典として残るだろう。
 本書は、表層的な戦後神話の部分は平明に除去され、事実が手際よく記されている。また通常の戦記物とは異なり、戦闘の意味を歴史の全体像のなかで読み取ろうとしている若い筆者の知的作業が読解を助ける。
 本書の内容の時代範囲は、表面的には副題にもあるように「真珠湾からミッドウェイまで」である。そして帯にあるように「米国が戦争に負けていた180日」を描いている。
 言うまでもない。太平洋戦争はその開始から半年は日本が勝っていた。米国からすれば、米国は日本に負けていた。本書はいわば、米国版『失敗の本質』(参照)である。現代米国人も失敗の歴史から学ぼうとして、本書が読まれたとも言える。
cover
失敗の本質
日本軍の組織論的研究
(中公文庫)
 『失敗の本質』という書籍は日本側から見た太平洋戦争の敗戦原因追及であり、ノモンハン事件、ミッドウェイ作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ沖海戦、沖縄戦という6つの個別の戦闘が描かれているが、これらの戦闘を経時的に並べ変えても総合的な太平洋戦史にはならない。複数著者も弱点になる。戦争の全体を問うのであれば、一人の統一的な視点のほうがわかりやすい。
 本書が扱うのはミッドウェイ海戦までであるが、個別の戦闘は太平洋戦争という全体の流れのなかで、統一的にかつ通史的に描かれている。著者は本書の以降の戦史についても三部作として執筆する予定らしい。数年後には翻訳で読む日を期待したい。
 本書が明確に提示するのは、太平洋戦争初期において日本は明確に勝っていたことと、それがなぜ敗北に至ってしまったかということだ。
 戦後神話であるなら、そもそも戦争が悪であるうえ、国力に大差のある米国にそもそも日本が戦争をして勝てるはずもなかったということになる。あるいは、真珠湾攻撃という卑怯な奇襲によって米国が初期には怯んでいただけで、それが克服されれば日本は負けるべくして負けたのだと思いたくもなる。だが、本書の史実を読めばそれが神話に過ぎないことがわかる。
cover
太平洋の試練
真珠湾からミッドウェイまで
 本書は、日本軍がなぜ米国に勝っていたのかについて、特に米国の内情に踏み込んで、かなり明晰に描いている。日本側からすれば、日本軍の戦略が優れたからとも読める。連合艦隊司令長官・山本五十六が優秀であった。
 山本は、日本が米国と戦争をすれば負けるとわかっていた。彼はなによりも日米戦争を避けようと奮迅した中心的な人物であることも、本書はくっきりと描き出している。その彼が、なぜ太平洋戦争を引き起こしたのか?
 勝てると踏んだからである。そして実際に勝っていた。
 「しかし、太平洋戦争全体としては負けたではないか、『失敗の本質』を読め」という指摘もありそうだが、敗戦の理由付けは、敗戦を後から戦後神話と整合させる弁解として機能しやすく、勝利の側面を含めて総合的に描きにくい。
 太平洋戦争開戦時の課題に立ち返るなら、重要なのは戦争の勝利そのものではなく、勝利の意味にあった。本書にも記されているように、この点では山本の認識は明確であった。この戦争が維持できるのは、「せいぜい一年半」だったと彼は考えていた。ゆえに短期間に徹底的に米海軍を叩きつぶし、講和に持ち込むことが勝利の意味のはずだった。それでこそ米国と長期戦を避けることができる。だが、講和はできなかった。
 日本が講和の機会を失した最大の理由は、南方での石油確保もあった。が、そもそもそれは短期決戦という戦略と整合していない。このあたりの国家意思のぐだぐだ感は、現代の日本でもお馴染みである。
 ぐたぐだはあえて置くとしよう。結局、山本は正しかったのか? 山本の意図どおりに戦闘を進めたら講和に持ち込めて、日露戦争のように勝利できただろうか。これも、本書を日本人が読むときのスリリングな問いかけである。
 本書は明示的には答えていないが、結果的に答えていると言ってよい。無理だった。講和に必要なのは、緒戦で圧倒的に勝利することだったからだ。
 真珠湾攻撃について、本書は日本語で読める文献としては特徴的とも言えるほど辛酸を極めた描写によって、日本軍の攻撃が容赦なかった印象を与えているが、それでも、甘い。短期決戦であるなら、ハワイを立ち直れないほどに壊滅に追い込まなくてならなかった。
 そのビジョンにおいて山本は甘かった。真珠湾攻撃の態勢においてさらなる追加攻撃もだが、それ以前に日本軍の総力をもってハワイ攻撃に注力し、壊滅させるべきだった。それでこそ、講和に持ち込めた。山本にそれができなかったのは、妥協の限界だったか、智略に溺れたか、内面怖かったからだろうか。
 本書は後半、日本軍の緒戦攻撃の甘さを突いて、米軍が命を吹き返してくる様子が刻々と描かれる。米軍の僥倖もいろいろあったようだ、その後の米軍の戦略は総じて見事だ。東京を叩くあたりもだし、特に情報戦において顕著だが、米軍の攻撃はしだいに組織的になってくる。
 本書はミッドウェイ海戦で終わる。ここから日本にとっては敗け戦の始まりであるが、その記述を読んでいくと、類書とは異なり、太平洋戦争全体での重要性は低いとされていることに気づかされる。そうしたくだりを含めて、本書では具体的な戦闘の評価において意表を突く点がある。
 
 


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コメント

題字が太平洋でなく 大平洋 になっています.

投稿: U-tan | 2013.06.18 19:14

つまり君はどんな歴史書を読む時も、いちいち「この呼称は当事使われていたのか、もし使われてないなら信用できない」と思いながら読むわけだ。具体例をいくつか挙げてもらえる? 「当事の呼称を調べてみたら、違っていたので、その本は信用できないと判断した」みたいな具体例をさ。古代・中世あたりからも出してほしいね。あの辺は呼称の変更多いから。たくさん具体例あるんだろ?
てか先史時代に関する記述とか、外国語圏の歴史の日本語記述なんて何も信用してないわけね。前者は名前の無いものに後の人が名前つけてるし、後者は後の時代の日本人がほぼ全名前を変更してんだから。「し、仕方ないじゃないか」が言い訳にならないのは分かるな? それ結局「信用できない記述になるのは仕方ない」と言ってるだけで、「信用できない」が事実であることは認めてるんだから。
あとさ、根本的に、当時の人の作為でつけられた呼称を用いた記述が、後の人の作為でつけられた呼称による記述より信用できるのは何故?
ちなみに2013年現在の人が「太平洋戦争」を使うのは、「巷でそう言われてるから」という理由が大半だよな。戦時中の日本人が「大東亜戦争」を使うのと感覚的に変わらない。この2013年にわざわざ「大東亜戦争」という呼称を選択することとは大違いだ。
それからさ、仮に呼称で記述の正しさの程度が推測できるとして、それはあくまで憶測。結局その憶測が当たってるかは記述そのものを読み込んで裏を取って調べるしかないが、君はそれをしたんだよね? 読んだ書物を教えてもらえるかな? そしてどういう点で「ほら、推測どおり、間違った記述だったじゃないか」と分かったのかも。
この作者が日本人でなくアメリカ人の作為で作られたPasific Warという呼称を選択した意図をどう考えてる? その意図でこの本が書かれているんだよね?

投稿: はや | 2013.06.19 02:16

「GHQが言いそうな事(あの戦争に関する、日本に否定的な説)ならば、たとえGHQ以外の者(日本人の歴史学者とか)が言おうとも信用できない」て無敵論法じゃねえか。要するに「あの戦争で日本を悪く言う説は、日本を悪く言うがゆえに信用できない」って言ってるんだから。
それに比べてイアン・トールを信用するハードルはなぜそんなに低いんだ? トールが、トール自身にとって好ましい説を作り上げてる、もしくは自身の好きな者・敬う者・背後にいる者の影響を受け、彼らにとって都合の良い説を作り上げてる可能性をなぜ考えない? まさかさっきの逆、「あの戦争で日本を良く言う説は、日本を良く言うがゆえに信用できる」て考えなのか?
で、君が「GHQが、嘘でなく事実を力で広めた可能性」「そもそもGHQの強制力など、だいぶ前から無い可能性」「GHQ的な教育を受けた者たちが、まともな理性を失っていない可能性」「日米の主流の歴史学者が、GHQを鵜呑みにせず、ちゃんと自分で研究した上でGHQに近い説を採ってる可能性」をすごーく低く見積もる根拠は何なんだね? そりゃ君が時空を超えて物事を見通す目でも持ってるなら、その目で正しい歴史を見、「GHQは間違ったことを言うバカ。それと似たような事を言う学者どももバカ」みたいな判断を下すこともできるのだろうが、君にはそんな超能力は無いよねえ? 根拠を教えてくれよ。あ、根拠は長くなると思うよ? だって君はGHQ的なことを言う人すべてについて、上のような可能性を低く見積もってるわけだろ?個人個人の経歴とか言動・理論は当然様々なので、一人一人について根拠の説明が必要だからね。
それから、トールについては「トールは誰かから間違ったことを習っておらず、誰かから言論を強制されておらず、妙な教育などでまともな理性を失っておらず、何かを鵜呑みにせず自分で研究した上で結論を出してる」可能性を極めて高く見積もる根拠は何かなあ? 教えてちょ!

投稿: たべ | 2013.06.19 10:07

「総合的な太平洋戦史」「戦争の全体を問う」「統一的な視点」…ずいぶん漠然とした抽象的なことを書くねえ。これらのフレーズが具体的にどういう性質の物事を指すのか言ってくれんかね? このままじゃ、君がどうやらこれらを肯定的な意味で書いてるらしい、てことしか伝わらんよ。つうか「指している物事」なんてあんの? 単に「失敗の本質」をけなしてトールの本を褒める為だけに作った「意味の無い、聞こえが良いだけの単なる文字列」なんじゃね? まともな人間から見ればその可能性が大なんだが。だって、明らかにそのままじゃ意味が伝わらない漠然とした言葉を、解説も無く使ってるわけだからな。
以下、君の言った意味不明な言葉に、意味が分からないなりに聞いてくよ?
「総合的な太平洋戦史」について。「総合的な太平洋戦史」じゃないからダメっていうのがワケ分からん。「失敗の本質」が「総合的な戦史」と銘打って書かれたならともかく、そうじゃないんじゃないの?そもそも一部の戦争しか描いてないし(いやね、“総合的な”て言葉の一般的イメージには反すると思うんだよ。君が“総合的な”をどんな意味で使ってるかを教えてくれないからこーゆー疑念が湧くわけよ)。イギリス史の本を読んで「ドイツ史が分からないからダメ」と言うようなもんじゃないか。これじゃ、君が「失敗の本質」の内容を正しいと内心認めているが、感情的には気に入らないので無理矢理ケチをつけてるようにしか見えないぜ。これについて君の見解どうぞ?
「戦争の全体を問う」について。まあこれも「失敗の本質」が「戦争の全体を問う」なることを銘打って書かれてるのか?という疑問がある。これに答えてもらおう。次に、そう銘打ってると仮定して、「それって何で複数著者じゃできないの?」と聞きたい。「複数の人間が共通の知的目的の為に集まり、 個別の作業・研究←→集まって情報交換・話し合い をしながら、それを達成していく。まるで“脳や身体のキャパシティの大きい1人の人間”のように」ということなんてどこの研究機関や企業、役所でもやってるわけだ。「戦争の全体を問う」に類する目的のもとに複数著者が集まり、それを達成する、ということが何故ありえないのかね? 普通に考えて、「戦争の全体を問え」ているかどうかは、内容からしか判断できないことであり、「複数著者?はいダメー」て判断はおかしすぎるんだが。答えてね。このままだと、「失敗の本質」の内容にケチをつけられない者が、苦し紛れに考え出した無意味なイチャモン、にしか見えないよ?
「統一的な視点」について。これも意味の分からん言葉だが、まず何故「統一的な視点」とやらでなきゃいけないのか? てこと。確認だが、「統一的でない視点」てのは複数著者が互いに矛盾したことを言う、て意味じゃないよな? 君の言い方だと「複数著者だと必然的に、統一的でない視点になる」わけだが、複数著者が互いに矛盾したことを言わないことは大いにあることだからねえ(つうか編者がちゃんと仕事しさえすりゃそうなるだろ)。ああそれから、上と同じで、「失敗の本質」は「統一的な視点」なることを銘打って書かれてるのか、そして「統一的な○○の視点で書こう」って目的のもとに複数著者が集まり、それを達成する、ということが何故ありえないのか、答えて欲しいね。それから最後に、そもそも「一人の統一的な視点」て言うけど、その「一人」がバカなら「統一的な視点」とやらも全くバカなものになるんでないの? 「一人だから良い」とは言えないはずだが。「一人だから良い」なんて言っちゃったら、やはり普通に考えて、「失敗の本質」の内容にケチをつけられない者が、苦し紛れに考え出した無意味なイチャモン、にしか見えないわけで。答えてくれよ。
以上、回答を求む!

投稿: な | 2013.06.20 01:35

トールはアカデミックな世界の住人でなく私家研究者らしいんだが、私には、君が本職の学者たちの主流を「信用ならん」と簡単に切って捨てる一方で一人の私家研究者の一般書を「古典」と持ち上げる根拠が全く分からないんだが。そりゃあ君が学者たちよりも歴史に詳しい人物なら、そーゆー判断もできるのかもしれんが、そうじゃないよねえ? 単に都合のいいものを持ち上げてるだけじゃないの?
それからトールの言う事って、君が「戦後神話」と呼称する説(こんな新しい呼称作ってるあたり、君が政治的狙いにより歴史を語ってるのは明白だね)とそんなに矛盾してるのかね? アメリカではどうか知らんが、少なくとも日本では「最初の頃は圧倒的に日本が勝っていた」という説は常識だと思うが?
あとさ、「戦後神話であるなら、そもそも戦争が悪であるうえ」とあり、「それが神話」と言ってるけどさ、あとの文をどう読んでも、トールが戦争を悪でないと言ってることを示す部分は見当たらないんだが。「実はトールはそんな事言ってないが、戦争が悪ということを否定したいレビュー主が、ついでにさりげなく“そもそも戦争が悪であるうえ”をねじ込んだ」という疑いが強まるなあ。そういや古森義久の書評には、トールは満州事変以降の日本を断罪してる、と書かれてたような…。
最後に、君は「真珠湾を徹底的に叩いてれば日本は勝てた、とトールは言いたいに違いない」て言うけど、そう思える根拠が分からない。ならなんでトールははっきりそう書かなかったのさ?だって「日本が勝てたシナリオ=アメリカが負けてたシナリオ」なんて、この上なく興味をひくテーマじゃん。はっきり言って「最初の頃は日本の圧勝でした」という説よりもずっと興味を引く。もしトールが「こうすれば日本は勝てた」みたいな確信を持ってたなら、あえてそれを書かない理由があるのかねえ? まあ「俺らに分からない理由があったのかも」と疑うことはできるが、それを疑うなら同時に、トールが何らかの理由で「真珠湾を徹底的に叩いてても日本が勝てたかは分からない」あるいは「叩いてれば勝てたが、それは後知恵にすぎず、真珠湾攻撃の時点でその選択は難しかった」みたいに思ってる可能性も考えねばならんだろう。
以上、君はこれらについてどう思うね?

投稿: まいきー | 2013.06.20 09:02

ブログの筆者は何よりも、


緒戦の勝利(米国の敗北)の過程を米国の内側の事情を絡めながら具体的に分析している視点に、


今までの太平洋戦争の分析、観点からは抜け落ちていた感触を得ているように読めます。


そこに新鮮な観点の発見があった、そう私には読めます。

投稿: ボンボン太郎 | 2013.08.01 20:53

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