軍都東京・東京陸軍航空学校のこと
先日、ひょんなことから東京陸軍航空学校の逸話を聞いて、驚いたというのではないけど、感慨深く思ったことがあり、こういう話、現代の若い人にはどう知らせているのだろうかと気になって、わかりやすそうな本として、ムック本だが、『知られざる軍都東京』(参照)、『知られざる軍都多摩』(参照)、『知られざる占領下の東京』(参照)を読んでみた。
![]() 知られざる軍都東京 ( |
東京陸軍航空学校についてはウィキペディアなどにけっこうしっかりした記述があるだろうと思って見たら、自分が思っていたよりは薄い(参照)。
勅令第599号「東京陸軍航空学校令」(昭和12年10月22日、同年12月1日施行)により、1937年(昭和12年)12月に埼玉県大里郡に設置された後、1938年(昭和13年)8月に東京府北多摩郡へと移転した。
本校の目的は、14歳から16歳の生徒に少年飛行兵となるため一年間の教育を行うことであった。その後、操縦の実技訓練は熊谷陸軍飛行学校で、技術の訓練は陸軍航空技術学校で実施した。通信はのちに水戸陸軍飛行学校で教育されることとなった。
簡素過ぎて込み入った間違いもしようにないが、私はちょっとこれは違うかなと思う部分があり、実は先のムック本でもその情報がなくて落胆したのだった。
![]() 知られざる軍都多摩 |
この東京陸軍航空学校にこだわることの一つは、戦前から戦後に繋がる「公共」の隠された姿にも関心があるからだ。都下で施設がある戦跡の場合、その領域は戦後、ほぼそっくり別の公共施設や教育施設に代替化されることが多い。東京陸軍航空学校については現在、石碑などはあるにせよ、事実上跡形もなく撤去され、代替の施設が見当たらず、施設再活用の経緯も感じられない。あたかも過去を抹殺するかのようになっているのはなぜなのか、疑問に思っている。名目上は、食糧難に備えるために畑・保安林・採草地とされたことだが、地方のにわか仕立ての飛行場が農地・森林に戻るというのでもない。
とはいえ関連施設についてはまったく無くなったわけではなく、村山陸軍病院域が東経大になっているのと、どうやら村山医療センターが村山陸軍病院の継続のように見えることだ。
また、東京陸軍航空学校の領域を詳しく見ていくと(参照PDF)、武蔵村山の四中、七小、四小、さらに大南公園、屎尿処理施設が含まれていることがわかる。だが、学校については番号から見て戦後すぐのものではないだろう。
他にも先のムック本をぼんやり見ていて、東京陸軍航空学校と日立航空機立川工場が近いことに気がつき、こちらの銃弾の残る変電所遺跡がもしかすると、東京陸軍航空学校の慰霊的な意味を持たされているのかと思った。もちろん、日立工場自体で、1945年2月17日から3回の爆撃を受け、111人が殺害されているのでその慰霊というのが一義的ではあるだろう。
こうした歴史は該当市町村の資料に当たらないとなかなか詳細がわからないので、調べるとなると手間暇かけることになる。が、考えてみると情報とは元来そういうもので、グーグルで検索して終わりというものでもない。
ムック本を見ていてもう少し知りたいなと思ったのは、特に地図で俯瞰して思ったのだが、鉄道網の変遷が現代の地図からはわからないことだ。こうした都下の軍史跡は、往事は鉄道など交通網との強い関連があったと思われる。そうしたロジスティクス的なものや、歓楽街との関連も知りたいと思った。というか、歓楽街が深く軍に関連しているというのが冒頭の逸話でもあった。
![]() 知られざる占領下の東京 |
| 固定リンク
「歴史」カテゴリの記事
- 荒地派のスペクトラム(2016.02.15)
- 新暦七夕のこと(2004.07.08)
- 一番大切なものが欠落していた戦後70年談話(2015.08.15)
- 日本国憲法の八月革命説について(2015.08.11)
- 日本国憲法の矛盾を考える上での参考書……(2015.08.02)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント