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2013.04.29

「帚木」のことなど

 このところ小林秀雄のことなどを思い出しては考えたりする。きっかけの一つは『考える生き方』(参照)を書いたことがある。この本で55歳の小林秀雄について少し触れた。そういえばと、彼がまだ50代で『本居宣長』(参照)を書く前のこと、59歳の声を『現代思想について―講義・質疑応答 (新潮CD)』(参照)で聞くと、なんとも心に迫るものがある。
 59歳と言えば、けっこうな年齢だが、自分も今年は56歳となり、それ近い年齢にもなりつつある。彼はこの時期、後の『本居宣長』を構想していた。その後の新潮での連載は、僕が高校生時代に話題だったものだが、あのころを回想すると、数度、長期の休載があった。
 休載の理由はなにかと言えば、源氏物語を読み返していたらしい。源氏物語といえば、同書の冒頭に折口信夫の思い出の挿話が印象的だが、さて、50代にもなって源氏物語を読み返すというのはどういうことだろうか。自分も読み返してみたい気になり、ぽつりぽつりと読むに、なかなか微妙な心持ちになる。
 光源氏自身は、もちろん虚構の人物だが、「幻」から見るに52歳を過ぎたころ亡くなった。55歳には届かなかっただろうから、私なぞ差し詰め物語を眺むる死霊のごときではある。そういう立場から源氏物語を読むと人間の一生の奇妙な味わいを感じるし、どことなく村上春樹が64歳で書いた『色彩を持たない多崎つくると巡礼の年』(参照)にも似た基調を感じる。
 「帚木」の雨夜の品定めなども、この年齢になると、年長をもって弁じる左馬頭なども30歳くらいだろうか、それでも年齢的には若いものだなと思うし、しかし、この女への男の感性は現代では45歳くらいだろうかなどとも思う。
 ところで、これがエントリーの話題なのだが、「帚木」は後半、方違えの話題から、後の空蝉との出会いに転じていくのだが、ここで、あれれと思った。
 源氏が紀伊守の屋敷にくつろぎ、夜中、その父・伊予介の後妻(空蝉)の寝所に闖入して一夜を過ごすのだが、さて、このとき、つまり、やったのか?
 この時の源氏は17歳くらいだろう。対する空蝉の年齢なのだが、弟・小君が12歳くらいだろうから、そう年は離れていないとは思いつつ、既に一女は儲けているので、19歳くらいなのではないか。
 僕が高校三年のときだが、どういう趣向だかしらないが、教頭が古典の時間枠で源氏物語を教えた。枯れた感じであまり色気のある爺さんではなかったが、今思うとどことなく色気があったかな。そういう面を高校生には出さなかったが、自分も年を取るとちょっと思うことはある。で、その頃というか、それ以降もだが、空蝉は「帚木」では源氏にスカを食わしたとばかり思っていた。
 どうなんだろうか。どうも描写がよくわからない。


消えまどへる気色、いと心苦しくらうたげなれば、をかしと見たまひて、「違ふべくもあらぬ心のしるべを、 思はずにもおぼめいたまふかな。好きがましきさまには、よに見えたてまつらじ。思ふことすこし聞こゆべきぞ」とて、いと小さやかなれば、かき抱きて障子のもと出でたまふにぞ、求めつる中将だつ人来あひたる。

 ちなみに与謝野訳。

当惑しきった様子が柔らかい感じであり、可憐かれんでもあった。「違うわけがないじゃありませんか。恋する人の直覚であなただと思って来たのに、あなたは知らぬ顔をなさるのだ。普通の好色者がするような失礼を私はしません。少しだけ私の心を聞いていただけばそれでよいのです」と言って、小柄な人であったから、片手で抱いて以前の襖子からかみの所へ出て来ると、さっき呼ばれていた中将らしい女房が向こうから来た。

 この「かき抱きて」というのは、現代語の「お姫様だっこ」というやつなのかよくわからない。与謝野訳だと「片手で抱いて」とあるが、ちょっと状況が想像つかない。右腕で小脇に寄せて歩かせたのだろうか。とすると、空蝉もそれに従って歩いたというシチュエーションなのだろうか。
 問題はむしろその先だ。

心も騷ぎて、慕ひ来たれど、動もなくて、奥なる御座に入りたまひぬ。障子をひきたてて、「暁に御迎へにものせよ」とのたまへば、女は、この人の思ふらむことさへ、死ぬばかりわりなきに、流るるまで汗になりて、いと悩ましげなる、いとほしけれど、例の、いづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ、あはれ知らるばかり、情け情けしくのたまひ尽くすべかめれど、……

 与謝野訳だと。

こう思って胸をとどろかせながら従ってきたが、源氏の中将はこの中将をまったく無視していた。初めの座敷へ抱いて行って女をおろして、それから襖子をしめて、
「夜明けにお迎えに来るがいい」
 と言った。中将はどう思うであろうと、女はそれを聞いただけでも死ぬほどの苦痛を味わった。流れるほどの汗になって悩ましそうな女に同情は覚えながら、女に対する例の誠実な調子で、女の心が当然動くはずだと思われるほどに言っても、女は人間の掟おきてに許されていない恋に共鳴してこない。

 情事があったとすればこの過程だろうと思われるのだが、どうもはっきりしない。やったのか、やってないのか。
 というあたりで、「流るるまで汗になりて」という描写は、心理描写じゃなくて、実際に、源氏と空蝉が、ぎしぎしとやりあって、汗、汗、汗、という描写じゃないのかと読み返す。いや、文法的には、心理描写ではあるから、与謝野晶子の訳が違っているというわけではないが。
 それにしても、空蝉が本当に嫌だというなら、やってきた中将(女)に助けを求めるか、源氏に恥じをかかせるような動向をとるかするはずだが、そうでない理由はその前に、一応こうある。

並々の人ならばこそ、荒らかにも引きかなぐらめ、それだに人のあまた知らむは、いかがあらむ。心も騷ぎて、慕ひ来たれど、動もなくて、奥なる御座に入りたまひぬ。


並み並みの男であったならできるだけの力の抵抗もしてみるはずであるが、しかもそれだって荒だてて多数の人に知らせることは夫人の不名誉になることであって、しないほうがよいのかもしれない。

 相手が源氏だし、大騒ぎして人に知られるのもいやだから、受け入れちゃったということなのだろう。ふーむ。しかし、これは現代的には単なるレイプだなという感じはするなあ。
 変なところに拘るようだが、ここで一発やっているといないとでは、空蝉の物語の意味合いは随分違うような気はするのだが。どっちなんでしょうかね。
 というか、古典を読むというのは、こういう部分で解釈を決めるコードが存在していて疑問を持たない、ということかもしれないとは思う。「たけくらべ」などでも、美登利の変心をどう取るかでもめていることがあったが、一葉には特定のコードが存在したかもしれない。こういうコードというか、社会コンテキストの評価が文学では難しいところだなと思う。
 ただ、なんというか、この年になってみると、源氏と空蝉は、とりあえず汗だくつゆだくになってやっちゃってから、相見ての後の心をうだうだと応答しあっていたという解釈が正しいような気はする。
 
 

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2013.04.27

抹茶モナカについて

 僕がモナカのアイスクリームを買う理由は二つある。一つは、食べやすいからだ。そのまま囓ることができる。バーのアイスだと、ガリガリ君とかね、暑い日だと食べていると、溶けた部分が棒をつたって手に垂れてくるでしょ。あれが苦手。モナカだとそれがない。でも、モナカだってすごく暑い日には、最後のほうになると、ぶにょっとして手にだらっとたれてしまうこともある。この問題はいまだに解決しないけど、よほど暑い日のことだからしかたがないかなと思っている。
 もう一つの理由は、半分に割ってわけて食べることだ。まるまる一つモナカ食べられないときとかあるし。え?だれと分けるか?そこはけっこう問題。それに分けた人が本当はまるまる一個食べたかったんだということもあるかもしれない。これも難しい問題だけど人間関係ってそういうものじゃないかと諦めている。
 どんなモナカのアイスが好きかというと、チョコのだな。本格的なチョコをモナカのアイスに期待することこはできないし、そこまで求めるべきじゃない。ラクトアイスの白い部分にちょこっとチョコがコートしているモナカでいい。これだと味や食感のアクセントがあっていい。ところがこの夏、いやまだ夏じゃないか、僕が直面したモナカのアイスクリームはといえば、抹茶モナカのアイスクリームなのだ。
 ことの発端はセブンイレブンだった。いつものとおり、たとえば松屋でスパイシーカレーを食べて駅まで遠いの歩くのめんどくさいなちょっと暑いなというとき、最寄りのセブンイレブンでモナカのアイスクリームを食べようと思った。分ける人はいたかって?いないのだけど。
 セブンイレブンではたいていの場合、モナカのアイスがある。その日僕が見つけたのはしかし普通のじゃなかった。抹茶モナカのアイスクリームだった。めずらしいなと思った。手にしてみるまでもなくセブンのマークがついているのでセブンブランドだったとわかったので、これはちょっとお安いのかなと思ったら、198円。え?ふつうだと100円とか120円くらいじゃないか。さすがインフレターゲット効果とか円安のせいなのかよくわからないけど、ちょっと高いな。だけど、それなりに美味しいからその値段なのじゃないかと、こういうときはとりあえず買ってみた。「抹茶もなか」とモナカのところがひらがなで書いてある。
 封を開けると、モナカの皮がグリーン。皮にも抹茶が練り込んであるのかと思って、囓ると、かりっときた。おおっ、こ、これは、モナカ? そりゃモナカである。でもこの感触、本物の最中に似ているじゃないか。
 そうなのだ。モナカのアイスクリームというのは、和菓子の最中を真似たもので、皮のところが同じと言ってもよいのだけど、普通に最中って売っている最中の皮は、あれは本当の最中の皮じゃないと常々思っている。本格的な和菓子の最中というのは、皮がかりっとして香ばしくて、ほほぉ、この皮が本体なのだと思わせる。それに甘味を添えるようにあんこが入っているものだ。それに栗とか入れてもいい。ようするに和菓子の最中というのは皮で勝負するものだとつねづね思っていたけど、もう何年もそういうのに当たらないし、そんなに高望みするものでもないから、ずっと忘れていた。本当のモナカの皮のおいしさというか、かりっいうのを。
 ところがこいつ、セブンの抹茶モナカの皮、かりっとするじゃないか。な、なんだ、これと思った。すごいな、ああ、これだけで200円近い金額でもいいや、かりかりと食って、駅についたのだった。けっこう幸せである。
 抹茶の味ほうは? 上品な感じ。ほんのりというか。もうちょっと上手にお茶の香りを活かしていいとは思ったけど。
 それから数日後。似たようなシチュエーションだった。初夏を思わせる空だ。駅の立ち食い蕎麦で残念なタイプのコロッケそばを食べて(それがどのように残念だったかについて語る気にはなれないのだけど、たぶんあなたが先日食べたそれみたいなものだろう)、なんかちょっと美味しいものがいいな、セブンの抹茶モナカだと考えついた。きっとどこのセブンにもあるだろうと最寄りのセブンイレブンに入ると、きちんとあった。
 二度目は喜劇であるという不吉な法則が当てはまる結果だった。どういうわけなのかわからないけど、これ、モナカの皮がかりっとしないのである。かにちゃん、という感じの促音のないオノマトペの世界なのだ。どうしたんだ、これ。さらに囓ると、やはり、かにちゃん。泣けそう。呆然としてでも半分くらい食べたら、途中あたりで、かしゃっという感じの部分があって、これでもう少し生きていけるぞと思ったけど、終盤もかにっちゃんという感じに戻ってしまった。
 同じ商品なのだろうか。なにか管理法の違いがあるのだろうか。それとも最初がとてもラッキーなタイプの「抹茶もなか」だったのだろうか。それから数日後にまた似たようなシチュエーションになったというか、今日だね。ゴールデンウィーク初日。眠たくなるようなバスを下りたらお昼だったので、松屋で牛飯を食って、空を見上げて、うーん、抹茶もなかぁと呟いた。この世界には正しい抹茶モナカと残念な抹茶モナカがある。そしてそれは一つの世界のなかで混じり合っているのだろうけど、今日の僕はなんかそういうに耐えられそうにないので、困ったなと思っていると、ファミマがあった。ファミマというのは僕は年に数回くらいしか入らない。でももしかしてそこには抹茶モナカがあるんだと、抹茶モナカの神様のお告げを受けたような気持ちがしたので入ってみたら、あったのだ。抹茶モナカ。別の。
 これがすごいんだ。どれのくらいすごいかというと名前がまず凄いんだよ。「宇治抹茶練乳あずき最中」というのだ。なんだか昭和浪漫ポルノみたいな感じの圧倒感とその文字が金地に浮かび上がっているのだね。すごいなあ。それに「遠赤外線焙煎強火製法」って書いてある。どうしてアイスクリームを遠赤外線の強火に当てるちゃうのかもうわけがわからないし、そしてあの文字を見なかったら、僕は怯んでその場で終わっていたと思うのだけど、その蒼々たる文字の羅列の上に白地に井村屋とあったのだ。井村屋。僕のごひいきの甘物菓子じゃないか。井村屋の甘物はどれも明確にくっきりはっきりと、これが井村屋の甘みだという明確な、少し刺すような甘みがある。すると、これにもあの井村屋の甘みがあるんだろう。そこを頼みに食ってみようかなと考えて買って食った。
 うっ、あんこ。うかつだった。あんこが入っていたのだった。考えてみたら、井村屋だよ。入っていておかしくないよ。というか、パッケージの写真よく見ろ。ちゃんとあんこが写っているし、そもそも「宇治抹茶練乳あずき最中」だろ。ああ、意味まで考えてなかったんですよ。そして、あんこに並んで練乳ソースも入っている。やるなあ井村屋。ここまで徹底するのか。ソースのおかげで抹茶の味や香りも強い。あんこはもうばっちり井村屋である。すごいなあ、いくらだったっけ、170円くらいか。皮のほうは、普通のモナカのアイスクリームと同じ。特にどってことない。
 で、半分食って、ぐったり来た。これもう半分は食べられないよ、大すぎだよ。分ける相手もいないよ。呆然として、とぼとぼ歩いて、でもなんとなく後半も食べちゃったのだけど、のろのろ食っているから最後は持っている指にでろっと解けちゃって、泣きたい気分になりました。人生いろんなタイプの孤独というのがあって、こういうのもあるんだよなと思った。抹茶モナカのような孤独っていうか。
 
 

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2013.04.26

[書評]学校では教えてくれない! 国語辞典の遊び方(サンキュータツオ)

 先日高校生から、古語辞典はどれがいいのかと問われて、わずかに考え込んだ。古語辞典ということでその場で頭に浮かんだのは、大野晋他『岩波古語辞典』(参照)と山田俊雄他『新潮国語辞典―現代語・古語』(参照)だが、ここで苦笑されるかたもいると思うが、この二つは癖がありすぎる。鈴木先生のことを思い出して、鈴木一雄他『全訳読解古語辞典』(参照)もいいかなと思った。が、そのあたりで、「ああ、文学が読みたくて古語辞典というのではないのだな、受験用か」と察し、ベネッセの『全訳古語辞典』(参照)がいいんじゃないかと勧めた。以前書店で見て、現代の古語辞典はこうなんだろうなと思った記憶があったからである。
 それから「学校や塾の先生の意見も聞いたほうがいいよ、僕はもう受験のことわからないから」と加えた。その後日。ベネッセに二つ古語辞典があるという。調べて見ると『ベネッセ全訳コンパクト古語辞典』(参照)があった。それでもいいかというので、現物を捲ってみた。よさそうだったので、いいんじゃないのとした。他でも勧められたらしい。
 そのおり、ふと国語辞典は、問われてはいなかったのだが、どうかなと思った。自分では最近は『明鏡国語辞典』(参照)を使っている。広辞苑(参照)や大辞林(参照)も使うが、これらは国語辞典とは言いがたい。あと、先日『考える生き方』(参照)を校正しているとき、手元のKindle HDにも国語辞書入れとこうと思って、たまたま『三省堂国語辞典』(参照)のアプリを購入した。使ってみて悪くない。

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学校では教えてくれない!
国語辞典の遊び方
 ついでにベネッセの国語辞典はどうかと思って、『新修国語辞典』(参照)をめくって見たが、さほど特徴がわからなかった。国語辞典ってなかなか特徴がよくわからないものだなと思っていたやさき、この本『学校では教えてくれない! 国語辞典の遊び方(サンキュータツオ)』(参照)を見つけたので読んでみた。
 軽く書かれているが、けっこう実用的でもある。筆者もちゃんと学識のある筆者のようだ。若い人向けに塾の講師が書いたのだろうかとなんとなく思っていたが、著者名「サンキュータツオ」ってなんだろうか、あとで経歴を見たら、「居島一平とのお笑いコンビ「米粒写経」として活躍する一方、一橋大学非常勤講師もつとめる」とあった。へええと思った。「日本初の学者芸人」ともある。すごいな。博士号があるのかはよくわからなかった。そういえば、水道橋博士という人は博士号があるのかと調べたら、なさそうだった。
 イラストが印象的で軽く読みやすいが、実にオーソドックスに書かれている。大槻文彦や新村出などの、本書で採用されている挿話はたいていは既知のものだったが、個別の辞書評の着眼は新鮮だった。各国語辞書のキャラ分けも面白い。あまりこうしたことは意識してなかった。

 これ読んで、手元にあったらどうかなと気になったのは『表現・読解国語辞典』(参照)である。この本でもかなりお勧めになっている。先にちょっと触れたベネッセので『新修国語辞典』とは別のらしい。というわけで、紀伊国屋に行って現物を見ようと思ったら、ない。書店員に聞いた話では、絶版でしょうかのとことだった。そうなるとさらに気になるので、やっきになって調べて回って現物をチェックしてみた。なるほど特徴的な辞書だなというのと、なるほど「表現」に配慮している印象はあった。
 実際、自分が文章を書いていて表現で気になることがあるので、この辞書で調べてみたのだけど、その点ではちょっと残念だった。たまたま自分には合わないということだろう。余談だが、自分で辞書を作ることはできないけど、重要語句の語釈についての本を書きたいなとちょっと思っているのだった。話がずっこけた。文章書きに役立つ表現用の国語辞典というのがあるといいなとは思っている。
 本書で著者が学者さんぽいなと思ったことのひとつは、森田良行『基礎日本語辞典』(参照)に熱弁を振るっているふうなところだった。これの元になる『基礎日本語』を私も高校生のころ買ったものだった。面白くてかつ日本語を教える人には必携だよなと思ったものだった。
 辞書作りの話も本書に言及されていて、そういえば昔まだ二十代だったが、某書店の辞書担当の年上の女性に会って紹介されたことがある。同席者からあとで、ああいう人タイプでしょ、とか、言われて、やたら照れまくってしまったのだった。
 
 

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2013.04.24

簡単に幸福になる20の方法

 気がついたら、ブログを8日間も書かないでいた。これじゃちょっとブロガーとは言いがたい。ということをこの間、気がついてはいた。ネタがないわけではない。ブログは書いてなかったどツイッターとかはしていて、そっちにその時々の面白そうなネタをピックアップしていた。じゃあ、ブログはということだけど、なんとなく暗い感じのネタや重たい感じのネタを書きたくない気分というのがあった。まあ。
 それでちょっと軽い話題。昨日だったか、ネットで見かけた「簡単に幸福になる20の方法」(参照)という話。この手のネタはライフハックものとしてよくブログ用に翻訳されるから、ここですることはないかなとも思ったけど、なんとなく見かけない感じ。だったらなんとなく軽くていいんじゃないか。拾っておこう。
 べたに翻訳してもいいのだけど、大した英語でもないし、ネタだけ頂いて、自分のコメントかにしときます。正確に内容が知りたかったら、元ネタ見てくださいね。
 では、簡単に幸福になる20の方法。そんな簡単に幸福になれるものかよ、と思うかもしれないけど、案外、なるかもしれませんよ。

1 ゲームをしよう(iPhoneのじゃなくて)
 そう、これね。ゲームといっても、人が集まってするやつ。『考える生き方』(参照)にも書いたけど、ドイツボードゲームとか面白い。最近は負けが続いてて、うへぇ、俺の時代は終わったかと思うけど、それでも勝つことが目的でもないし。負けるというのは、常勝戦略みたいのが終わったわけだから新しいドミニオンの時代さ。暗黒時代。
 初心者には、草原ルール抜きでカルカソンヌ(参照)とかいいですよ。トランプのブラックレディ(参照)とかも面白い。慣れたら、スペードが面白いよ。

2 スマイル
 スマイルですね、マック。しかし、沈んでいるときにスマイルなんかできるかよと思うかもしれない。元ネタには書いてないけど、動物とか鳥とかぼけーっと20分くらい見ているとなんかスマイルっていう気分になることは多いです。当社比。

3 散歩しよう
 先日cakesに『知的生活の方法』(参照)の話書いて、あれ、渡部昇一先生だからそれだけでカチンとくる一群の人はいるだろうとは思ったけど、それはそれとして、高校生んときこれ読んで、いくつかいろいろヒントがあったけど、散歩もそう。渡部先生は70歳過ぎても一日一時間くらい散歩されていた。90過ぎたころの吉行あぐりさんもそう言っていた。年寄りから学ぶことは多いものです。

4 友だちに電話
 メールじゃなくて、声で電話、と。うーん、これはちょっと反省する部分があって、昔パソ通しているころは電話もよくしていたけど、最近は電話というのはあまりしなくなった。それでも社会的な面では誤解がありそうなときは、メールじゃなくて電話ということは多いかな。現代だとSkypeとかになるんだろうか。

5 新しいことをしてみる
 元ネタには新しいレストランとかジムとかある。僕がよくするのは、1時間以内で動ける、まだ行ったことの街の散歩かな。そしてそこでなんか買ってくる。最近は、公共施設や遺跡みたいのがいろいろ整備されているので、その点検がてらに散歩とかする。もうちょっと時間があったら、昔懐かしいところを散歩してみたりする。

6 アンプラグ
 「アンプラグ」っていうのは、コンセントを抜けということで、元ネタの感じだとコミュニケーションメディアをオフにせよということ。意外と大切かな。一日まるで触れないというのも難しいけど。

7 声を出して歌う
 最近よくやる。Wii Uカラオケやってる。英語の歌が多いかな。シェナンドーとか。レオンラッセルとか。カーペンターズとかね。あとユーミンはある時期まではほとんど歌えるので、しかたない歌うか。サザンものとか。ヒッキーの歌なんかはどうよと思ったけど、ま、最近は歌っちゃってます、55歳。

8 ヴォランティア
 昨年ちょっと地域関連のやって疲れたのでしばしお休み。また少ししたらなんかしようかなとは思っている。

9 感謝のリストを作る
 特にやっていない。考えると、いろいろ感謝すべきものはある。年とってから、信仰心もないのに神に感謝するような感情がおきることはある。

10 食べる
 え?とか思う。ポテチとかか? 元ネタは、空豆とか食えとかある。余談だけど、人によっては空豆は体によくない。ちなみに、今日の夕食はチレ・レジェーノ。

11 ヨガをする
 これも本に書いたけど30代のころは初級インストラクター向け講座とか受けていてそれっぽかったくち。だけど最近はおろそか。若い頃のヨガはもう無理かなという感じはあるな。

12 休憩
 普通に休憩。いろいろありますね。

13 目標にワンステップ
 夢に向かってちょっと努力ということ。自分だと、また最近、英語をちょいと勉強しているかな。苦手なんで。

14 楽しくキッチン
 これはよくする。料理はなんとなく趣味になっているし。料理はどんどん飽きるので、なんか新しいのはないかなと試す。

15 瞑想
 これはたまに。以前は真面目な感じだったけど、最近は適当。自分の心を見つめて、じっと思いがまとまってくるような感じがあるときはじっとしている。

16 褒めよう
 そう思うな。褒める機会があったら褒めよう。

17 整理整頓
 これは頭が痛いところだ。やらないといけなといいつつ、伸ばし伸ばし。

18 今を生きる
 これって当たり前だけど、具体的には過去のこととか考え出したら、おしまいって自分の脳みそに言うことにしている。

19 軽いお昼寝でリセット
 パワーナップっていうやつですね。眠くなったらしかたないよね。

20 きっとよくなると思う
 これはそう。今日まで生きてきたんだから、これまでよかったんだろうと思う。ダメになたらそれはそれから先のこと。

 というわけで、なんか参考になるのはありましたか?
 大したことないなあと思う人もいるかもしれないけど、僕は思うのだけど、大したことないことで幸せな気分になれたら、それはそれでいいんじゃないかって思いますよ。そして、そういうことをけっこう忘れがちなものです。
 
 

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2013.04.16

[書評]ピンチョス360°(ホセ・バラオナ・ビニェス)

 先日、人とうまい物や料理の話をしていた際、レシピの話の流れだったかと思う、「クックパッドって、見ますか?」と聞かれた。即座に「見ないですよ」と答えたが、全然、見ないわけではないのに気がついて、「ああ、見ることはありますし、さっと読んで参考にすることはありますが、あれで料理を作ったことはないですよ」と補足した。こうすればいいよとリンクで人に知らせたことはあったかもしれないけど、たぶん、あれで何か作ったことはなかったと思う。
 クックパッドのレシピが悪いとはまったく思わないし、よく知らないけど、たぶん、カリスマ的な料理研究家さんもいるのではないか。でも、そうであったらむしろ、クックパッドじゃなくて、自分でブログに掲載するとか、レシピ本でも出せばいいのではないか。
 料理を媒介にしたSNSとしてクックパッドは面白い試みだと思うけど、私にしてみると、なんというのか、現状だと中途半端に実用的なわりに、オーソドクシーや料理を通して何か訴えかけてくるものが見えないので、参考にしていると、なんか自分を見失っちゃうような感じがする。とま、そんな話もしたと思う。
 それから、市販のレシピ本の話になって、「でも、クックパッドのせいでレシピ本が売れないんですよ」ということを聞いて、ちょっと驚いた。そんなことがあるのかと、知らなかった。
 私は人の料理本とか好きで、結果的に趣味の一ジャンルになっているし、今でもよくレシピ本は買う。面白いレシピ本、多いと思うけどなあ。

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ピンチョス360°
 私が面白いと思うレシピ本には二種類あって、一つは変わった料理。もう一つは、見ていてうっとりするようなの。その場合だと写真がきれいなのがいい。
 というわけで、比較的最近ので、飽かず眺めているのが、これ、『ピンチョス360°(ホセ・バラオナ・ビニェス)』(参照)である。表題どおり、ピンチョスの本。「360°」とあるのは前書きでも補足されているように、「全方位」ということ。各種のピンチョスのサンプルがきれいな写真で掲載されている。
 ピンチョスというのは、一口サイズの軽食。バゲットにカットトマトを載せたりとか、串に刺した小さなハンバーグみたいのとか、よくホテルの立食パーティとかに出てくるあれ。
 日本人の感覚からするとちょっとした洋酒のおつまみみたいな感じ。つまんで食べられるから、フィンガーフードとも言うらしいこともこの本に書いてある。
 元来はバスク地方のバーから広まったものらしい。ピンチョスの名前から分かるように、ピンチということで、元々はおかずをパンに串刺し(ピンチ)したものらしい。スペイン語だから、タコスがタコとも言われるようにピンチョにもなるらしい。スペインなんで軽食のタパでもあるそうだ。まあ、そんな話は野暮なこと。
 とにかくかわいい。きれいだ。うあ、食べたいと子供のように思える。


バゲットに載せていく

 いろんな種類がある。バゲットに載せたり、潰してこんがりさせたパンに載せたり、ポテトに載せたり、野菜や果物に添えたり、一口スープと合わせたり、スイーツや、焼きおにぎりもある。ということで、この感覚だと、江戸前寿司も十分ピンチョスになるというか、ピンチョスだったのですね、寿司やおにぎりって。サモサや春巻きもピンチョス・ピンチョス。
 それにしても見ているだけで楽しい料理の本だ。作り方については、後半に簡素にささっとまとまっている。基本的にどれもそんな難しいものではないから、作り方も簡素。でも、「ああ、あれとあれを組み合わせるのか」と感じることが多く、他の料理のレシピを考えるときのヒントになる。そう、料理を考えるときのヒント満載の本だ。
 作り方については簡素と書いたが、後半にある「ピンチョスの味のベース」として数ページだけど重要な調理が解説されている。自分もよく作るけど、パプリカを真っ黒に焼いてから皮を剥いてマリネした「エスカリバーダ」は美味しいですよ。
 この本はスタイリッシュに出来ているけど、このネタを数品用意して、クラッカーに載せてるとアメリカン。ということで、ピンチョス風のネタを数点用意して、クラッカーに載せると簡単にパーティー料理になるし、簡単な朝食や昼食にもなる。
 
 

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2013.04.15

ファイナル・レモンドリンクとレモンコフィチュール

 気温が暖かくなりちょっと冷たい飲み物でも飲みたい季節になってきたが、市販の清涼飲料水が、きつい。甘すぎたり、香料がきつかったり。では好みの飲み物を自分で作るかということで、お手製のレモンドリンクと、そのついでに出来ちゃうレモンコフィチュールの話でも。
 レモンドリンクという言い方は正確ではない。何と呼んでいいかよくわからない。まずレモネードとかレモンジュースとどう違うのかということになる。飲んでいただけたらすぐにわかるはずだけど、甘みと酸味がしっかりという飲み物ではない。もちろん、酸味も甘みもある。でも、どっちかというとそれはほのかな程度に抑えて、レモンの香りが漂うというレモン水といったものである。じゃあ、レモン水でいいじゃないのというと、それもちょっと違う。大人の苦みがしっかりしている。仮に、ファイナル・レモンドリンクとしとこう。
 ポイントは香り。そしてレモンの香りは皮、ピールにある。それとレモンの味のいいところは苦み。これは皮の内側の白いワタみたいな部分にある。皮の香りと味をどう引き出すかということだ。レモンの価値は皮にある。ところが、輸入物の安価なレモンだと、皮の部分の安全性がちょっと不明。きれいに洗えばどうってことはないとも思うけど、よくわからないなあと思っていた。が、最近、国産の無農薬のレモンが比較的安価で販売されるようになって、それでじゃあ、ピールを活かそうと思った。
 作り方。レモン二個をがーっとミキサーにかける。丸のままだとミキサーに入らないことがあるので、適当な大きさにナイフでカットする。私はまず半分にしてそれからその半分をさらに四分の一にしてからミキサーに入れる。ミキサーのガーは適当。5ミリくらいのピースになったらそれでよし。みじん切りである。ミキサー使わずナイフで細かく切っていってもいいし、薄い輪切りでももちろんいい。
 レモンのみじん切りを適当なサイズのビンに入れて、砂糖を入れる。ビンは雑貨屋さんとかに売っている1リットルちかいの大きめなのがいいと思う。
 砂糖の量は、レモン2個に大さじ10くらいかな。すごい砂糖の量と思うかもしれないけど、これで最終は2リットルくらいになる。
 レモンのみじん切りと砂糖をビンに入れてまぶすように揺すって、あとは一日くらい冷蔵庫とかに置いておくと、砂糖がとけてレモンのエキスが出てくる。このビンに水を適当に入れて(200mlくらいかな)、揺すって漉す。漉すのは金網みたいなのでいい。


こんな感じ。

 漉したエキスをさらに好みの甘さと酸味に薄めれば、ファイナル・レモンドリンクはできあがり。酸味と甘みと苦みが自然で、ほんのりとして美味しいですよ。炭酸で割ってもよし。
 なお、酸味も甘みも要らない、レモンの香りだけのレモン水がいいというなら、生のレモングラスを刻んで水に入れておくとよいです。これは沖縄生活のとき、庭でレモングラスを育てていて作りました。というような話は『考える生き方』(参照)にも書きました。
 次はレモンコンフィチュール。レモンジャムと言ってもいい。漉されたレモンのみじん切りのほうを使う。この時点で、種をできるだけ除くといい。
 これに砂糖を大さじ8くらい入れ、弱火で煮る。私はスロークッカー(参照)の弱で2時間くらい煮る。すると、レモンコンフィチュールができる。とろっと香り高く、苦みのあるジャムができる。甘みは十分。ただし酸味は足りない。酸味はドリンクのほうに行っているからだ。酸味を補うにはどうするかというと、クエン酸を2gくらい足す。クエン酸はたいていの薬屋さんで売っているのでそれを使う。
 クエン酸を足すのかよ、と思うかもしれないけど、酸味の調節には煮上がってからクエン酸を使ったほうがいいし酸味も引き立つ。クエン酸は持っていると、料理にも使えて便利。
 できたレモンコンフィチュールは普通にパンにつけて食べてもいいし、ヨーグルトに入れてもいいし、チョコと合わせても食べても美味しい。好みはあると思うけど、ポークソテーや鶏の唐揚げのソースに使っても美味しい。ヨーグルトと合わせてシャーベットにも。紅茶に入れても可。
 煮るのにスロークッカーを使わない場合は、弱火で10分くらい煮ればできるんじゃないかと思うけど、試したことがない。よくあるレモンコンフィチュールのレシピだとレモンから煮始めるみたいだけど、最初に砂糖に浸しておくと煮やすくなっているはず。

 材料:レモン2個。砂糖(200gくらいかな)、クエン酸(食用)
 用具:蓋付きビン、スロークッカー、ミキサー(なくても可)


気がついたらあっという間にほとんど空っぽになってました。
 
 

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2013.04.14

にゃんこ大戦争が終結

 今朝、にゃんこ大戦争終結の日を迎えた。
 始めたのはいつだっただろう。毎日ログインしてもらえる経験値とかが今朝終わったのだ。30日目ではないか。一か月間、けっこう没頭してやっていたわけだ。55歳、『考える生き方』(参照)の著者・finalventです。こんにちは。
 最後に貰ったのは、「ねこりんりん」である。経験値が余っていたのですぐに「猫ギャング」に進化させた。でも、まあ、もう数日前に戦闘は実質終わっていた。
 「にゃんこ大戦争」というのは、昨年10月だったかに発表された、しょーもない対戦ゲームだ。犬だとかヘビとか羊とかゴリラとかが左端の拠点から攻めてくるから、右端の猫拠点から各種の変な猫を繰り出して戦うという一次元ゲーム。線上の戦場なわけ。
 戦場となる場所は、日本の都道府県で九州から始まる。これ、あれでしょ、百鬼大戦絵巻とかのギャグか。
 最初、やってみて、バカみてー、なにが面白いんだよ、とか呟いていたのだけど、大分県あたりだったか、おや?と思った。面白いのですよ。微妙に戦略があることがわかった。
 また、繰り出すねこのキャラがいちいち、おかしい。よくこんなキャラ考えたなあと思う。
 第一章は比較的軽くクリアというか、最終の西表島でちょっと手こずったけど終わった。
 第二章。最初は楽。なんだ同じことの繰り返しじゃないかと思ったが、島根県あたりだったか、あれ?とか思う。そのうち、戦うネコの特性をよほど考えて繰り出さないダメなんだな、これ。
 というわけで、もうけっこう必死というか夢中でやりましたね。それと、経験値というのをアップしてキャラを育てていかないといけない。いやあ、キモネコとかほんと強くなりました。
 すっかり本気になったんで、第二章の沖縄まではがちがちと進めて、あー、そのお、東北から北海道に進むと最後沖縄から西表島というふうに進むわけです。で、この西表島で出てくる敵のニャンダムが、つおーい。そういえば、東北あたりで出てくるクマとかもけっこう強かった。
 それでもこっちはもう本気ですよ。勝ちましたよ。ネコヴァルキリーもゲットですよ。ずさっ。第三章に入る。
 第三章ってなんか意味あるのか?と疑問も多少思ったけど、このあたりで、お宝率が響く響く。お宝率というのは、戦場の各県をクリアするとお宝というのが出てくるのですよ。粗悪な鰹節とか。それを地域毎にできるだけ質のいいお宝で貯めないといけない。これが、たるいぜ。同じ戦場を何度もやるわけで、たるいたるい。お宝、出ねえ出ねえ。
 私、これでも高校生のとき皆勤賞を取ったくらいなディリジェントな人なんですよぉ。ブログだって10年近くも書いてます。女性にはあまりマメではないんですが、なんの話だっけ、にゃんこ戦争。なんとかお宝率も上げてきました。ふっ。
 最後、第三章の西表島。なんですか、これ。ぶんぶん先生。ありえない強さじゃないですか。無敵のキャラでしょ。勝てるんすか、これ。
 いやあ、この時点で、インターネットつうものが世の中にあることを思い出した私もブロガーです。ようつべに攻略法というチートがある。ちーと覗いてみると、3キャラで倒せると。
 やってみた。ダメ。でも、やっているやついるじゃん。やってみる。だめ。無理だわ。
 無理な理由はですね、まだお宝が足りなかったのと、やはり、微妙な技術があること。ネコドラゴンが多ければいいわけじゃないし、最初に地味に防戦して時間を稼ぎ適切な数のネコドラゴンを貯めて……おっと、まあ、けっこうめんどくさい攻略法が必要なんです。
 てか、よく考えられてるわ、このゲーム。ぶんぶん先生とか考えたヤツ、すごいわ、と思った。
 結局、3キャラの攻略法は難しいんで、ヴァルキリを混ぜて、ついに、釘付けにしたぶんぶん先生を倒しました。やったね。やればできるよ、うん、金正恩。
 つうわけで、先週くらいに、だいたいゲームも終わったけど、それとは別にチャレンジモードというのがあって、これがまた、無敵な強さで攻めてくる地獄のバトル。
 4億点くらい出せるようになったんで、もういいかと思ったら、これもっと出るんじゃないかということで、ちょっと入れ込んで、7億5千万点を出しました。まあ、ほぼ限界じゃないでしょうか。金使わないでやると。

 というわけで、無課金でやりました(ネコギャングが映ってますが)。
 課金に違和感はないんだけど、課金してクリアしちゃうのって自分の流儀じゃないし、このゲームそもそも無課金で出来とるんかというのが知りたかった。
 だいたい終わってから、ところで「神様」も使ってみるかなと思って、ちょっとやってみました。笑った。黒い太陽がもう消えません。

 課金キャラは使わなかったけど、たまにネコ缶というクーポンみたいのを貰うので、だいたい終わりに近くなってから「ネコの箱詰め」を貰った。使ってみると、これがあればゲームが楽になるっていうものでもないなと思った。MRはちょっとチートっぽい感じがするけど。
 っていうわけで、おしまい。にゃんこ大戦争は終わって、日本に平和が訪れたわけです。やぁ、平和って本当にいいもんですね~。


 
 

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2013.04.13

[書評]色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(村上春樹)

 ブログの便宜上、[書評]としたけど、以下、それほど書評という話ではなく、読後の印象のような話。
 きちんとした書評を書くにはまだ読み込みが足りないのと、きちんと書くとなるといわゆるネタバレが含まれることになるので、現時点では避けておきたい気持ちもしている。一般のメディアに掲載される書評というのはどうしても広告的な側面があり、ネタバレは避けるのがお約束なので、きちんとした文芸批評的な書評を書くなら媒体を変えたい感じもしないではない。それはそれとして。

cover
色彩を持たない多崎つくると、
彼の巡礼の年
 前評判の高かった『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(参照)だが、普通に面白かった。普通というのは、村上春樹ということを意識しなくても読めるし、彼の過去の作品群を知らなくても普通に読んで面白い小説だということ。村上春樹作品をこれまで読んだことがない人でも読まれるとよいと思う。高校生と30代半ばの人には独自な印象を残す大切な小説になるはずだ。
 作品内の基本の話は、36歳になるサラリーマン建築技師・多崎つくるが、自分の結婚願望の転機をかねて高校から大学時代に壊した友人との関係を修復しようとすることだ。
 友人といっても彼を含めて男三人と女二人の五人グループである。が、ある日突然、つくるは他の四人から絶交を言い渡され、彼は自殺したいほどに沈む。その後、なんとか社会人として生きてきたので、青春のつらい思い出は忘れようとしている。そんな日々、新しい恋人から過去を修復したほうがいいと勧められ、それまで被害者だったと思っていた自分を見直していく。その過程がリストの名曲「巡礼の年」に重ねられてこの作品で描かれている。タイトルの「色彩を持たない」というのは、登場人物の名字の比喩もあるが、つくるが、グループのなかで個性という色合いを持たない凡庸な自分だった、という意味合いがある。
cover
Liszt: Annes de Plerinage
MP3形式
 私の、個人的にだけど、そして宣伝みたいだけど、「ああ、これは自分が書いた『考える生き方』(参照)と同じだな」と思った。そう思うのは書いた本人くらいかと思ったらツイッターでそう思ったという感想を寄せてくれる人もいた。
 私の場合は大学院にいたときのことだったけど、実質大学関連の友だちすべてから見捨てられてしまった。自殺は思わなかったけど離人症になった。多崎つくるの症状も自殺志向というより、これは自分と同じ離人症に近いようだ。そして36歳まで結婚もせず、空っぽな人生を送っていた。僕の本を凡庸でくだらないと評した人もいたけど、自分はまさらに凡庸そのものの絶望に浸っていたし、春樹さんのこの小説も同じ、凡庸な人間の苦悩という線を描いていると思った。
 もちろん違いはある。一番の違いは、この小説では主人公が過去の修復に向かうところだ。
 35歳を過ぎて、自分の人生半ばだなと思う人たちが新しく生き始めるには、過去の修復は大切なことかもしれないし、それにぐっと押し出す感じのメッセージを出すあたり、こっそりと春樹さんも老いたなあと思った。衰えたというのではない。老いが見せる人生の真実の展望をぐっと表現するようになってしまったなということである。そのあたりも、自分が書いた本の思いと通じる。
 その意味で、現在30代の読者なら、この小説を普通に読みながら、自分にとって人生の修復とはなんだろうという、個人個人の人生の課題に向き合う大きなきっかけになるだろう。
 ただし現実の人生は、私もそうだったけど、この小説のように過去の友人と打ち解けるとは限らず、思いがけない他者に遭遇することのほうが多い。その点では、多崎つくるの巡礼は異例かもしれないが、そうした、過去の修復における隔絶した他者については、この作品では、シロと呼ばれる女性に集約的に表現されている。
 もう一つやや個人的な話になるけど、今回の話題の出版に合わせて、cakesからの提案で、『村上春樹の読み方』(参照・途中から有料)として初期の四部作について書評を書いた。この力を入れた書いた書評で、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の文芸的な読解の重要点は、結果的に押さえた手応えはあった。
 ちょっと偉そうな言い方になって嫌がられるかもしれないけど、今回の作品の秘密は『風の歌を聴け』の秘密に強く関連している。むしろこの作品は『風の歌を聴け』と同じテーマが隠れている。一言で言えば「直子問題」である。関心のある人は、cakesの連載を読んで頂けたらと思う。
 現状ではcakesの連載は、『風の歌を聴け』の前編で、これに次週以降、中編と後編が付く。粗原稿で一万字ほどだった。その後、『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』と続く。いずれも粗原稿は仕上がっていてどれも一万字ほどになった。現状の路線で公開できれば、cakesの連載としては12回分になりそうだ。まだ公開は未定ではあるけど。
 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』との、初期作品との関連でいうと、主人公をインスパイアする女性を使った構成は、『ダンス・ダンス・ダンス』とよく似ている。今回の作品を読みながら、沙羅との関係の結末は、ユミヨシさんになるかという予想は持ってしまった。また、沙羅は『ノルウェイの森』のレイコさんにも近い。また金太郎飴になるかと思ったが、その点は配慮されていた。
 いずれにせよ、こうした春樹文学の背景を知らなくても『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は読める。こうした話題はこれからの読者には必要なことではない。
 この作品の本格的な書評はひとまず置くとして、文学作品として心惹かれた点をメモ的に挙げておきたい。
 まず大学時代の友人・灰田とその父の挿話の重要性がある。この作品は時代が曖昧に書かれているが、多崎の父もだが灰田の父が村上春樹自身の全共闘世代に重ねられる。つまり、村上春樹の想像上の息子の物語になっている。
 『1Q84』では設定年代にもよるが、主人公たちには春樹さん自身が重ねられていたが、今回の作品では、時代を経ることの意味が付与され、息子的な他者の距離感があり、その基調は興味深かった。私も55歳になって自分の子供の世代を思うことにも関連しているせいもあるが。
 灰田にまつわる物語の系列は、この作品に重要な副旋律になっているが、この作品では十分には回収されていない。その点でいうなら、沙羅の物語も回収されていない。
 村上春樹は、未回収のテーマを別作品にすることが多いので、そうした点からすると、この作品は、あるべき作品の半分なのだろうと思えた。続編という形で出てくるか、あるいは沙羅の物語として出てくるわからない。あるいは別の作品系列になるかもしれない。いずれ出てくるだろう。それでも村上春樹も64歳なので、そのころは70歳に近い。それだけの作家の体力が維持できるかは多少疑問はある。
 この作品の一番の文学的な価値は、性の扱いにある。村上春樹の一時期の作品、特に『ノルウェイの森』や『1Q84』のような普通にポルノグラフィーでも通じるような描写はなく、さっぱりとしている。だが、『海辺のカフカ』をもう一つ推し進めて、性の意識の深い問題に触れるようになっている。灰田との独自の関係や、沙羅との不能状況、シロの妄想とクロの意識といった部分である。
 精神分析学的に言えば、土居健郎『甘えの構造』(参照)で提出された前エディプス期の同性愛的な問題の延長である。漱石的な話題とも言える。老婆心ながら土居が示すのは日常的な「甘え」という意味ではない。
 ラカンが縷説するように、前エディプス期の同性愛的親密性がエディプスの暴力性によって断ち切られるところに、他者の秩序が形成される。半面、そこが失敗すると泥のような不定形の暴力と狂気が露出する。
 この半面の微妙な部分が、作品の主要な話題の背景に語られていて、文学的には、人生の修復や和解といった倫理的なテーマよりも興味深い。しかもその部分で『1Q84』のリトルピープルの概念とも接触している。
 前エディプス期の同性愛的親密性は、土居が指摘するように日本人の情愛やホモソーシャルな権力によく適合していたのだが、現代という時代は、この情愛とそれが必然的にもたらす憎悪が、先進国の知識人全体に蔓延している。
 その点でこの作品は、欧米などの若い世代にも感覚的によく理解されるだろう。中国などの場合は、日本と同じ同性愛的なアジア的な心情も共有するのでそこでの理解もあるだろう。
 古典的に言えば、この悲劇は、ラカンが言うようにファルスの登場で解決されるはずだが、現代社会ではなぜかそうはいかない。むしろ、ファルス的なものは、滑稽で暴力的な倫理に転換し、倒錯した形で反体勢側でホモソーシャルな権力に転換する。まさにリトルピープル的に。
 この現代の人間の根源的な課題を、感性的に描き出しているという点で、村上春樹は現代の文学のそのものの最前線にあるのは疑いようがない。
 
 

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2013.04.11

振り込め詐欺はなくならないだろうと思った

 先月、警視庁が「振り込め詐欺」の新名称募集をツイッターでしていた。何に決まったのかとちょっと関連のニュースを見たが、まだ決まってはいないらしい。「振り込め詐欺」では多様な詐欺実態に合わなくなったこともあるだろうが、警視庁としては、ネタとして盛り上げて社会に注意を促したかったのだろう。とはいえ私としてはそれほど関心のある話でなかった。
 以前は「オレオレ詐欺」と呼んでいたように記憶している。昔から親族をいつわった詐欺というのはあっただろうが、2004年頃から、ある程度組織的に「オレオレ詐欺」のような詐欺が展開され、社会問題となったのだろう。
 それしても、と当時思った。世の中には、子供や孫が「おれだよ」とだけ言って、親や祖父母に電話して金を無心するというのがあるのかと、うらやましかった。
 私は、そもそも親に「おれだよ」とか電話したことはない。ではどう電話するかというと、名前を名乗る。それが普通だと思っていたのだが、若い頃世の中に出て仕事をしているとき、たまたま職場から親のいる自宅に電話をかけることがあり、そのとき、同僚から「今の電話の相手、お母さん?」と聞かれたことがある。
 「そうですよ」と答えると、「お母さんにいつもああいうふうに話をするの?」とさらに聞かれた。どうやら、同僚は親にはそういうふうに電話はしないらしい。その話を聞いて私のほうが驚いたものだった。私は、親に「おれだよ」とか言わない。
 思い出すと、親に対する電話の応答は、社会に出る前でもそうだった。なので、大学とかの友人で、その親に電話するのを聞いたとき、方言に変わって親密に語りだす人がいて、そうか彼は地方出身であったかと思ったものだった。
 私にはそういう方言はない。生まれたころからいわゆる標準語(共通語)を日常使っていた。家族間でもそうだし、親密な友だち間でもそうだった。若い頃の恋愛とかでも恋人に「おまえ」とかその名前を呼び捨てにすることはなかったように思う。正確には忘れちゃったけど。
 話をもとに戻すと、「オレオレ詐欺」っていうのが会話として成立してしまうのが、自分にとってはなんとも不思議な世界だった。さらに親密な関係で金銭のやりとりが簡単にできてしまうというのも不思議だった。たぶん、私の親であれば、そういう金の無心に乗ることはそもそもない。
 社会に瀰漫する「オレオレ詐欺」はその後、手法が変わり、「オレオレ」だけでなくなったので「振り込め詐欺」と呼ばれるようにはなったが、実態にある種の親密な会話がベースになっていることは変わらないようだった。しかし、新種の手法として、税務署などお役所というか公的機関を真似た詐欺が増えてきたようだった。これは私も二度ほど経験がある。
 一つは税務署を名乗った電話だった。が、私は昔からナンバーディスプレイを使っているので、その電話番号が税務署とは思えないなと奇妙に思って、話を聞いていた。
 最初から詐欺だろうと思ったわけではなかった。相手は、若い人の声だがお役人らしくきちんと話しかけてくるのだが、私はというとそれに輪をかけてきちんと話す人なのである。そのうち、相手が「これはなんだか変だぞ」と思っている、奇妙な動揺のような印象が伝わってきた。
 なんというのか、化けの皮が剥がれるかもしれないという不安のように、言葉が崩れだしてきた。そのあたりで、ぶちっと切れた。
 そのあと、ついでなんで税務署には、そういうことがありましたよとは一応報告した。市民の若干の役割のようなものだろう。
 もう一つの事例は、なんかよくわからない公的機関を名乗っていた。なんだろう、それ、と思ったが、私の丁寧な対応は特に変わらない。そして展開は同じようになってきて、相手の言葉にちょっとほつれが出て来た。この人、たぶん、日常はそういう会話してないんだろうなと私は思った。そのうち、なんだかよくわからないが相手が奇妙な理由を付けて切った。ボロが出ると思ったのだろうか。
 以降、この手のよくわからない公的機関からの電話はなかったが、先日、NHKの調査会社を名乗るアンケート調査と称する電話があった。以前の詐欺電話っぽい人のように若い男性ではなかったし、それほど丁寧は口調でもなかった。
 話を聞くに調査はNHK本体によるものではなく、NHKが外部に委託したようではあった。団体の名前は忘れたが、ナンバーディスプレイには0120で始まる番号が表示されていた。
 なぜフリーダイヤルから電話がかかってくるのだろうと少し疑問に思った。また委託団体に私の電話番号という情報伝えてよいと私がNHKに許可したことがあっただろうかとも疑問に思った。
 それでも、アンケートくらいは答えてもいいだろうと快諾を伝えたところ、テレビを付けてNHKにチャンネルを合わせて、どうたら操作をしてくれという。地上波のチェックをしたいらしい。
 その説明手順と意図がよくわからないので、正確に聞こうとすると、かなり細かいことを言い出したのだがさらに理解しづらい。困惑した。NHKの受信料はきちんと払っているので痛い腹を探られるということはないのだが、こうした相手からの指示に従っていくと、洗脳商法のように、次第に関連の指示に従うことに疑念が薄れてくるものだ。まずそれが嫌だった。私は基本的に他人から動作を命令されても納得しないとしないのである。
 このまま操作しても疑念などもあって途中で躓きそうだし、そうなってから、その操作は嫌ですとかいうのもめんどくさいことになりそうなので、その時点で、「口頭で答えられるアンケートには答えますが、操作を必要とするアンケートにはお答えするのはお断りします」と述べた。
 相手がどう出るかと思ったが、さらっとわかりましたと引き下がったのでほっとした。
 あれはなんだったのだろう。疑問のポイントは、本当にNHKからのアンケート調査だったのだろうかということだ。相手の0120で始まる電話番号は記録されているので、メモをしてNHKに問い合わせてみた。問い合わせは、よくわからないが通常の電話料金に加えて有料になるらしいが、それで疑問が解決できればいいかと思った。
 結果だが、NHKが正式に委託したものらしかった。電話番号もそれであっているとのことだった。つまり、さっきのアンケートは不審な電話ではなかったのである。
 新種の詐欺ではなかったのだなと思ったが、もう一つ疑問が残った。電話をかけた人が本当にNHKから委託の調査員であることは、どのように口頭で証明したらよいのだろうか、ということだ。
 公的な機関から電話があったとき、それが本当にその機関からの電話だということを、私はどのように知ることができるのだろうか?
 既知の間柄であればわかるが未知の人からの電話の本人を、その人が語るようなスターテスであることはどのように信頼できるのだろうか。
 しばし考えたのだが、私の中間的な結論は、なし、である。
 相手が偽装されているかどうか、知ることはたぶんできない。ナンバーディスプレイは多少役立つだろうが、それでも十分だとはいえない。
 その先思ったのは、私にかかってきたNHK委託の調査員はそれでいいとしても、これを詐欺に応用することは可能だ、ということ。しかもそうした応用に遭遇すれば、少なからず人が信頼してしまうのだろう。
 現在の「振り込め詐欺」などはまだATMといった戸外の装置を使っているが、いずれ携帯電話を含めて自宅の電子機器で金銭の授受などは可能になるだろう。というか、すでに携帯電話からでも金銭授受がからむ契約は可能だ。
 そうした場合、相手が本当に名乗っているとおりの人であるかはわかりえないのだから、新種の詐欺もまた防げない。
 公的な機関が、通信媒体を介したとき、信頼できないというのは、困ったことだし、解決策もなさそうだ。
 ツイッターとかなら本人認証マークみたいなものも取得できるが、そうした仕組みを公的機関にどう導入したらいいのか、わからない。
 これではいつまでたっても、「振り込め詐欺」のようなものは、名前をいくら変えても、なくならないだろうと思ったわけである。
 
 

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2013.04.06

再びフィナンシャルタイムズによる黒田日銀総裁評価とアベノミクスの道標

 2日に「フィナンシャルタイムズによる黒田日銀総裁評価とアベノミクスの道標」(参照)のエントリーを書いた。3月29日付けのフィナンシャルタイムズ社説から日銀の動向の指針が簡素に表現されていたからである。実際、その後の日銀の動向を見ていると、ほぼフィナンシャルタイムズ社説の指摘通りになった。
 よってフィナンシャルタイムズとしてはさらに加えるべきこともないだろうと見ていたら、4日付けでまた同じ話題「Japan embraces monetary change(日本は金融政策変更を容認した)」(参照)が出て、今回の日銀決定の評価とさらに現状の課題をまとめていた。
 とりわけ新知見といったものはないが、国内報道を見ているよりも、すっきりとまとまっているのでこれも簡単に紹介しておきたい。私の見落としかもしれないが、前回のフィナンシャルタイムズ社説の邦訳を見かけなかった。これも邦訳されない可能性があるかもしれないという懸念もある。
 まず、フィナンシャルタイムズは黒田日銀総裁が率いる日銀の決定を支持している、というか、前回同様、それ以外に道はないでしょうということだ。


True, even this large-scale stimulus may have no effect, or worse, have adverse consequences. The truth is that there was no alternative.

なるほど、この大規模な刺激さえ効果がまったくないか、より悪化して、逆効果を生むかもしれない。だが、選択肢がまったくなかったことも真実なのだ。


 黒田日銀の決定は、やりすぎたのだろうか。フィナンシャルタイムズはそうでもないと見ている。

Mr Kuroda could have been even bolder, for example targeting foreign assets.

黒田氏は、外債購入なども視野に入れ、もっと大胆でもよかった。


 とはいえ、黒田日銀がもう一段踏み込めなかった理由をフィナンシャルタイムズは二点推測している。

  1. 海外が日銀に円安操作の懸念を持つこと
  2. 新日銀支持がまだ盤石ではないこと

 行政府の側としては、これに歩調を合わせてて、成長戦略を採るべきということもフィナンシャルタイムズは付け加えている。
 目新しい意見ではないが、毎度のフィナンシャルタイムズの主張を確認しておくのもよいだろう。行政府がすべきことして。

This means putting together a credible plan of medium-term fiscal consolidation. Domestic investors have so far purchased the bulk of public debt but there is no guarantee they will continue to do so in the future. The government should also pass structural reforms to boost trend growth. The remedy, which includes raising women’s participation in the workforce and encouraging immigration, has been known for years. Just as with bolder monetary policy, now is the time to act.

行政の役割は、中期財政再建を信用できる計画にまとめることだ。日本国内の投資家はこれまで公債の大半を購入してきたが、彼らが将来にわたりそうし続ける保証はまったくない。成長傾向を推進するために政府は構造改革にも着手すべきだ。対応策は何年も語られてきたように、女性の就労推進や移民の促進が含まれる。大胆な金融政策と同様、行政が行動するのは、今でしょ。


 「Now is the time to act」の意訳にはちょっと洒落を入れていたが、どうもフィナンシャルタイムズの社説子は、案外日本のCMとか見ているんじゃないかな。
 それにしても、「Now is the time to act!」って英語のフレーズ、日本でも流行りそうな感じがするな。

 Now is the time to act!


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2013.04.02

フィナンシャルタイムズによる黒田日銀総裁評価とアベノミクスの道標

 3月29日付けのフィナンシャルタイムズ社説に「黒田の警告(Kuroda’s warning)」(参照)として、事実上、黒田日銀総裁就任の国会発言に言及して、その評価が掲載されていた。該当社説は当然、日経新聞かJBPressなどに翻訳記事が掲載されるだろうと思っていたが、現状自分の見た範囲では見つからなかった。特に興味深い話題というわけではないし、今後のアベノミクスを考える指針の参考程度ではあるが、メモがてらに簡単に言及しておきたい。
 大ざっぱに「アベノミクス」という呼称を借りると、「アベノミクス」は大筋としてどのようになるか? 困難を伴う、というのがフィナンシャルタイムズの評価である。


How does Japan get from here to there? “With difficulty,” is the answer.

現時点から到達すべき点までの間、日本はどのようになるのか。「困難を伴う」というのがその解答である。


 冒頭いきなり"there"として「到達点」が示されるのだが、これは私の予想に反して、つまり、日本の成長路線といったものではなく、「リバランシング」であった。が、成長と同じ意味であることは、その後の文脈で察せられる。

Just how difficult Japan’s rebalancing act will be was laid out by Haruhiko Kuroda, the new governor of the Bank of Japan, in remarks to parliament this week.

黒田東彦・新日銀総裁は今週国会で、日本のリバランシング政策がどれほど困難となるかについて述べた。


 「リバランシング」はバズワードだったとフィナンシャルタイムズも別記事で昨年述べている(参照)が、後段からはそれほど曖昧なものではない。概ねプライマリーバランスを適正にすると理解してもよいだろう。

Policy makers must restore economic growth, turn deflation into controlled inflation and eliminate the fiscal deficit, without destabilising the bond or currency markets. These are tough challenges. Yet Japan simply must meet them.

政策立案者は経済成長を回復しなければならない。つまり、債権と為替の市場の市場に混乱をもたらすことなく、デフレを制御可能なインフレに変え、財政赤字を除くことである。これはきつい課題であるが、日本は立ち向かう以外にない。

 事実上、アベノミクスと称される金融緩和を慎重に推進するしかなく、財政赤字の問題はその線上にある。逆ではない、というのが重要である。
 この難しい課題に対して援助となるものはなにか。フィナンシャルタイムズは日本国民の政府への信頼だとしている。若干、皮肉なトーンも感じられるが。

Fortunately for the Japanese government, it has patient and trusting creditors: the Japanese people. The 10-year government bond recently touched a low of 0.53 per cent, while the 20-year bond dropped to 1.41 per cent. These extraordinarily low rates are an opportunity, since they make the huge debt mountain manageable. But they are also a threat, since they could jump if expectations of inflation and short-term interest rates were to rise significantly.

幸いなことに日本政府には、日本国民という忍耐強く政府に信頼を置く債権者がいる。先日、十年物の国債金利は0.52パーセントにまで、二十年物は1.41パーセントまで落ちた。この異例な低金利で、巨額の債務が制御可能になるのは、好機ではあるが、同時に脅威でもあるのは、インフレ期待と短期金利が著しく上昇すると、国債金利も跳ね上がるからである。


 インフレによって国債金利が上がるのは当然のことではあり、フィナンシャルタイムズもまどろっこしいことを言っているだけなので、たいした意味はない。が、要点は、債権者である日本国民の政府に対する信頼という点にあると指摘していることだ。
 そこで、フィナンシャルタイムズの論調は、政府が国民の信頼を損なわないようにするにはどのような条件があるかと議論を進めていく。4点を挙げている。


  1. インフレ期待を形成すること。具体的には、国債引き受けと外貨購入(monetisation of fiscal deficits and purchases of foreign exchange)である。加えて過熱したインフレへの対応の明示。
  2. 国債の償還期間の延長。
  3. デフレ終了後の財政健全化と民間部門を含めた構造的黒字の解消。
  4. 成長戦略のための構造改革。

 特段に変わった意見はないものの、フィナンシャルタイムズのこのまとめかたは、さすがに簡素に見通しよくまとまっている。
 3点目と4点目は、デフレの終了後の話題であり、この「デフレ終了」は事実上、2パーセントマイルドインフレと見てよく、その達成は、新日銀および安倍首相は2年後と想定している(安倍政権がその見解でまとまっていないのが残念ではあるが)。
 1と2が当面の課題となるが、このあたりで、ごたごたともめそうな気配はあり、実際のところ、アベノミクスの試練はこのあたりで起きることになるだろう。
 加えて個人的な印象でいえば、「民間部門を含めた構造的黒字の解消」には政治的な敵対勢力が強く出現するのではないかと思われる。
 TPPについては、現状の安倍政権に大きな失点はなく、二年スパンで見た日本の課題としてはそれほど大きなものではない。が、対抗勢力はここを突いてくることは想定され、それにこの政権が対応できるかというと、どうなんだろうかという疑問は残る。
 
 

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2013.04.01

北朝鮮が最大級の軍事機密を公開した

 北朝鮮が米国を標的とした攻撃態勢に入るなか、その最大の軍事機密が、威嚇的な意図もあってか、国際的に公開された。その軍事的な意味合いについて簡単に考察を加えておきたい。まず状況の整理をしておこう。
 国内でもすでに一昨日のNHK「北朝鮮 「米攻撃できる状態で待機指示」]
参照)で報道されているが、米軍が韓国軍との合同軍事演習でB2ステルス爆撃機を投入したことを受け、北朝鮮では3月29日未明、朝鮮人民軍の作戦会議が緊急招集された。北朝鮮の国営通信によると、会議で金正恩第一書記は「米国をミサイルで攻撃できる状態で待機するよう指示した」。
 報道で注目すべき点は、通常、軍事機密と見られる具体的な敵国への攻撃の手法までもが公開されたことだ。明白に米国本土が目標となっている。


 この中でキム第1書記は、アメリカ本土と、ハワイ、グアムなどの太平洋地域や韓国にあるアメリカ軍基地を、「いつでもミサイルで攻撃できる状態で待機するよう指示した」として、攻撃に関する準備計画に署名したということです。国営通信が公開した写真の1枚には、弾道ミサイルが飛行するルートを示したとみられる地図が写っており、そこには「アメリカ本土攻撃計画」と書かれています。
 北朝鮮が、軍の最高司令部で開いた作戦会議の様子を明らかにしたのはこれが初めてとみられ、アメリカを重ねて威嚇するねらいがありそうです。

 29日未明の朝鮮人民軍の作戦会議の写真については、共同通信「戦力情報、誤って公開? 北朝鮮、正恩氏の背景に」(参照)でも取り上げられている。
 朝鮮人民軍の作戦会議の写真からは、米国本土を狙う大陸間弾道ミサイルによる攻撃ルートを示す地図に加え、朝鮮人民軍の戦力一覧が見て取れる。
 この件について韓国では、朝鮮中央通信が写真配信の際、チェックのミスで秘密情報が公開されたのか、何らかの意図を持って公表されたのか、あるいは発表を三日急いだのか、といった各種の議論が展開されている。


29日未明、朝鮮人民軍作戦会議を緊急招集した金正恩第一書記(中央)。背景には米国本土を狙う大陸間弾道ミサイルによる攻撃ルートが写っている(朝鮮中央通信)

 NHK報道「北朝鮮 作戦会議の公開は心理戦か」(参照)では、韓国国防省は「ミサイル発射の動きがあるかどうか集中的に監視している」としつつも、北朝鮮の作戦会議写真の公開は心理戦の側面が強いという見方を示している。


 韓国国防省のキム・ミンソク報道官は、29日、記者会見で、キム第1書記が開いたという緊急の作戦会議について、北朝鮮が今月26日に「戦略ロケット部隊」などを「第1号戦闘勤務態勢」に置くと発表したことに続く措置だという見方を示しました。
 そして「アメリカの情報当局と連携して、北朝鮮でスカッド、ノドン、ムスダンなどの中長距離ミサイルが発射される動きがあるかどうか集中的に監視している」と述べ、警戒を強めていることを明らかにしました。
 そのうえで、報道官は「通常、軍の作戦は秘密にするのが原則であり、作戦を指示したと公開するのは心理戦の側面がかなり強いだろう」と指摘しました。

 北朝鮮による心理戦が含まれているとの見方は妥当だろう。
 しかしそのことと、すでに公開されている軍事情報の評価とは異なるものであり、国家の防衛上、公開された軍事情報の解明は必要になる。米国ではニューヨーカー誌などもこの問題の全体をまとめている(参照)。
 特に、北朝鮮の大陸間弾道ミサイルの攻撃目的とされた米国では、各種報道で具体的に、北朝鮮からのミサイル攻撃ルートの地図を元にして防衛議論が展開されている。別の共同記事「北ミサイル、攻撃目標はテキサスか」(参照)は、北朝鮮が米国を狙う複数の攻撃ルートについての話題を伝えている。

 北朝鮮の攻撃目標はテキサスか-。米メディアは29日、朝鮮人民軍の作戦会議とされる写真の分析から、北朝鮮が米南部テキサス州を攻撃の標的の一つにしているのではないかとの臆測を伝えた。
 朝鮮中央通信が同日配信した写真の背景に「米本土攻撃計画」とされた図があり、これに米国の地図を重ねると、首都ワシントンなどに加え、テキサス州の州都オースティン付近を狙っているように見えるという。

 該当の情報はすでに公開されているので、ブログでも議論が可能である。具体的に、北朝鮮が米国本土を狙う大陸間弾道ミサイルの攻撃ルートについて検討してみよう。まず該当部分を拡大してみよう。

 一見すると問題のない直線的な飛行ルートに思えるかもしれないが、この直線ルートに北朝鮮軍部の最大の秘密情報が隠されていると言ってよい。
 そう推測できるのは、北朝鮮以外に大陸間弾道ミサイルを保有する国において通常のミサイルであれば、最短距離を直進するにも関わらず、北朝鮮のミサイルには明らかな独自性が見て取れるからである。仮に通常の大陸間弾道ミサイルが北朝鮮から米国に向けて発射された場合を想定すると、地球は球体であるため、以下のように北極圏に近いルートを通る。

 この最短距離となる直線ルートを日常よく利用されるメルカトル図法のような平面地図で表現すると、次のように上向きの大きな弧を描くことになる。

 球体上の直線は、平面的に表現した世界地図上では弧を描くことになるのだが、北朝鮮作戦会議で公開された地図上の大陸間弾道ミサイルのルートを見るとわかるように、垂直線で描かれ、上向きの円弧を描く最短ルートは通っていないことがわかる。直線のルートを示す写真を再掲しよう。

 北朝鮮が公開している大陸間弾道ミサイルのルートを取るためには、ミサイルは最短距離のルートから南の方向に歪んだ円弧となって迂回して飛行しなければならない。
 つまり、北朝鮮の大陸間弾道ミサイルには、メルカトル図法のような平面に表現された世界地図上で直線に飛ぶように、南向きの円弧による迂回ルートを取る、特殊な飛行補正機能が装備されているのだろう。
 ここで疑問が起きる。なぜ、北朝鮮軍部はそこまでして、丸い地球を平板な世界と見なしているのだろうか。世界をフラットにしたいという願いでもを持っているからだろうか。共産主義による公平理念の世界地図上表現だろうか。
 米国内でも、北朝鮮が大陸間弾道ミサイルによる奇っ怪な迂回ルートについて、いくつかの議論がある。ごく一部ではあるが、「もしかして北朝鮮軍部は、地球が丸いという事実をそもそも受け付けないのではないか」という極論もある(参照)。
 北朝鮮のミサイルは、大平洋地域の米軍基地も目標にしており、当然、韓国や日本もそこに加わる。北朝鮮が日本内の米軍基地を狙う場合は、近隣国でもあるので、特殊技術による迂回飛行装置が装備されているかについては、現状ではわからないし、これまでの軍事演習の実態からも想定できない。おそらく日本国内の米軍基地がミサイルで狙われる場合は、円弧の補正が狂い、あらぬ所に着弾する可能性もあるだろう。
 最後に、特殊な迂回ルートを取って飛行する北朝鮮のミサイル攻撃について、ブログを通して日本市民の些細な願いを付け加えたい。

 北朝鮮の世界観は、もっと丸くなってほしい。四角四面に世界を捉えることはやめてもらいたい。
 
 

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