花咲く小道で
世の中には見てはならないものがある。例えば……おっと、それを語っていいのだろうか。語る分にはかまわないか。語ることと見ることは違うからな。例えば、花見客のおっさんが夜陰で……おっと、見るのはいけないが書くのはいいともいえない。いやいや、例なんかどうでもいいといえばいいんだ。とにかく世の中見てはいけないものがあると僕が、今日夕暮れの桜の小道を歩いていて思ったのには、ちょっとしたわけがある。
一通でもないのに自動車がすれ違うのはちょっと無理だろうという、歩道もないような小道を歩いていると、なにやら向こうから、接近するのだった。あれがピンク色だったら、きっとカービーだと思っただろう。でも緑の色だった。緑の玉のような、それでも人間だったのだけど、ようするにけっこう太った感じの人だった。太っていようが本人の自由だと思うし、僕は目が悪いんで、より接近して見たら、それほど太っている人でもなかったのだけど、同時に、その人が女性だということに気がついた。その気づきというのか、ああ、いけない、見、見ちゃったと思ったのだった。
見てはいけないものを見ちゃったんじゃないか、僕は。とっさに喉にくぅと詰まる感じがあった。で、見たもの。それは、何かって。簡単にいうと、おっぱいだった。乳房というのか、それも特大の乳だった。いや、もちろん、乳房がそのまま露出していたというのじゃない。緑のセーターのようなものに覆われてはいた。
巨乳とあれを呼んでよいのだろうか。ちょっと違うような気がする。光景を思い出すたびに、モグラ叩きゲームのように頭をこづかれているような感じもするけど、なんというのだろう、あれはふたつ、大きな乳がぶら下がっているという感じだった。こう言うと、別にそれほど、どうっていうことないじゃないか、という感じにもなる。お相撲さんだってそんな感じだよ、とか。
ちょっと違う。それは、明らかにブラをしてない感じだったのだ。とても馥郁と豊満で豊潤な何かが、雨に濡れた新緑の色のセーターの下に、そのままアジアの大自然のように広がっている、という感じだった。それは、もう、生の乳、百パーセントという圧倒的な存在感で僕を打ちのめした。それは地球の重力の本来的な力のありかたのように、ぶぶぶぶらーんと揺れていた。見ちゃいけなかったのにと愕然と思ったけど、遅かった。僕の目は数秒だったけど、ロックインされていた。
本当にブラをしていなかったのかどうかは、今となっては確かめようもない。そもそもそんなこと確かめようものない。だけど、たぶん、ブラをしていなかった。なぜあれほどの巨乳がブラをしてなかったのだろうか。それから呆然と立ち尽くして、けっこう夕暮れの街は薄暗くなっていることに気がついて、それからまた桜の小道を歩きながら、巨大な豊満なあの乳のことを思っていたのだった。
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コメント
藤原正彦さんのアメリカ留学記『若き数学者のアメリカ』を思い出しました
1972年のアメリカですでに主義主張としてのノーブラは存在したので現代日本でも珍しくはないのかもしれません
私の知人にもノーブラ主義者が1人おります
投稿: | 2013.03.24 01:25
こんばんは。
はじめまして、と、
書き始めると神妙になるからいけませんな。
だけど、初めての訪問です。
「がん幹細胞」をググっていて辿り着きました。
おもしろいですね、貴兄の文章。
これからも、立ち寄らせていただきます。
まずは、ご挨拶まで。
投稿: beetle | 2013.03.24 20:35
なんですかこれww
しかし、容姿に関係なくあそこへ視線が行ってしまうんですよねぇ。
年をとってもそれはかわらないのか…
投稿: | 2013.03.25 12:24