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2013.02.17

[書評]捕食者なき世界(ウィリアム・ソウルゼンバーグ)

 先日と似たような切り出しになってしまうが、「137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史」(参照)の書評のおり、同書について「人類はどのように進化し」と書いたが、実は、人類がどのように進化したのかについても同書には書かれていない。

cover
捕食者なき世界
 全体的として書かれていないわけでもないだが、ホモ・サピエンスの起源については「この人類の祖先がどんな類人猿で、どこに棲んでいたかは、最大の謎であり、その答えは今も捜し求められている。」と、まあ、逃げている。
 「逃げ」というのは、それに対する説がないわけではないが、定説がないのでお茶を濁しているという意味だ。著者が不誠実なわけではなく、むしろ過度に誠実なのだろう。
 ホモ・サピエンスを特徴付ける二足歩行については、同書は一章を割いている。が、これも仔細に読むと要領を得ない。そこで、「結局、ルーシーのような猿人が直立歩行するようになった理由は今もわかっていない。」と書くに留めている。しかたないといえばしかたない。
 ただ同書は、二足歩行なら道具が使えて便利だということで、人類の祖先を「狩り」のイメージで描いていく。このあたりは、事実上の定説とも言えるだろうが、どちらかというと曖昧な常識か思い込みのようなものである。
 関連して重要なのは、ホモ・サピエンスが雑食であることだ。しいていうと、肉食をする。類人猿がなぜ肉食をするのか? 同書では、こう話が続く。

 こうして、非常に重要な進化の連鎖がはじまった――大きな脳は大きなエネルギーを必要とする。それには肉を食べるのが一番だ。確実に肉を手に入れるには、動物を狩ればいい。

 こうした叙述の順序はわからないでもない。ところが、少し考えてみると、これは変だということは、小学生でも気がつく。
 進化の過程で、いったいどのように「狩り」が始まるのだろうか?
 最初から、二足歩行で、狩りの道具をもって走り回る猿人が想定できるだろうか。そんなはずはないだろう。少なくとも最初は、道具はない。では、どうやって、この猿人は狩りをするのか。
 あるいは、道具が出来てから狩りをするようになったのか。「これでネズミを仕留めてやるんだ」とか想像してやりを作ってから狩りに行ったのか。まあ、無理だろう。
 普通に考えたら、ホモ・サピエンスに至る猿人は、ハイエナのように死肉を漁っていたと考えたほうが妥当だ。
 つまり人類の祖先は、ライオンや虎みたいな獰猛な捕食獣と付かず離れず暮らして、その死肉を漁るスカベンジャーだったと仮定したほうがよい。二足歩行も、死肉を争うためにマラソンするのに向いている形態であり、毛が生えてないのも、マラソンの汗で冷却するためだろう。
 そう仮定すると、必然的に、この猿人も食われやすい状況に置かれたことになる。捕食の対象になりやすいのだ。人類の祖先は、それこそ、死肉を食うために、食うか食われるかの状況にいたのだろう。化石からも食われた形跡は出て来ている。人間というのは、食われやすい動物だったから、他の猿人に比べて、多産という性質もあるのだろう。
 そうなのか?
 科学というのは仮説を立てたら、実験してみることだ。というわけで、これをマジでやった話が、前振りが長かったが、本書「捕食者なき世界」(参照)に出てくる。

 一九六八年、野生生物学者ジョージ・シャラーと人類学者ゴードン・ローサーは、アウストラロピテクスは主に死肉をあさって生きていたと仮定し、その検証を試みた。東アフリカの捕食動物がたくさんいるセレンゲティ平原に入り、アウストラロピテクスになったつもりで武器をもたず徒歩で死肉と獲物を探し始めた。

 笑える。この先読むと、腹がよじれる。これこそ科学だ。
 どうだったか。
 実験とはいえ物理学の実験とは異なる。「コンティキ号探検記」(参照)のように実験して感動的な物語になったけど、間違いでした、というのもままある。ここで、え?っていう人いませんよね。
 この死肉漁りの実験、まさに必死の実験で、死肉漁りというのが不可能ではないことがわかった。
 このことから当然ながら、ホモ・サピエンスもまた最初は捕食者ではないことになる。
 同書では触れてないが、おそらく人類の祖先では、死肉漁りから、狩りの原型が出来たと考えるべきだろうし、そうして殺傷性のある道具を手にしてから、ホモ・サピエンスは捕食者の側に回るようになったのだろう。
 で、このホモ・サピエンスという捕食者はそれから地球で何をしたか。
 ご存じのとおり、他の強力な捕食動物を絶滅させてきた。
 それでどうなったのか。
 地球環境が破壊されたのである。
 捕食動物、なかでもその頂点にいる頂点捕食者(Top Predators)は、実際には、その生息環境全体の調整役になっている。それを壊したら、全部壊れてしまう。
 本書は、その実態がわかるまでの科学史、その実態、また反発について、物語風に丹念に描きこんでいる。面白いし、引き込まれる。
 たとえば、狼を絶滅させてしまえば、鹿の天敵はなくなり、結果、鹿は草や樹木の若芽を食い尽くしてその自然環境を破壊してしまう。この連鎖で水源も破壊される。
 すると、こう思う。だとすれば、鹿を適性の数に制限するように狩猟が求められる、という話にもなる(参照)。
 それで済む話ではない。というところが本書の醍醐味で、鹿が狼と共存することで、鹿は狼の存在という恐怖に適した行動を取り、これが環境を保全する効果につながる。つまり、適切に狩猟をすればよいというものでもない。
 じゃあ、狼を再生して野に放てばよいのか。当然、そういう議論も書かれている。単純な答えは出ないが、示唆的な話が多い。
 地球環境破壊というと、現状では、温室効果ガスや、PM2.5など公害などが議論されるが、根幹にあるのは、人類の生存が地球環境に影響を与えたということであり、なぜそのような影響を与えるに至ったかというと、単純な話、人間が増えたからである。
 人間を狩る捕食者がいなくなったので、人間が膨大に増えて、しかもそれが他の頂点捕食者をほぼ絶滅させたからである。
 じゃあ、これから地球や人類はどうするのか、ということになるが、本書はその問いを投げかけて終わる。
cover
Where the Wild Things Were
 読後、ぼんやり思ったのだが、地球が一種の自律システムなら、人間の捕食というシステムは作動しつつあるのではないだろうか。まあ、それは本書からそれる話題ではあるが。
 なお、オリジナルのタイトルは"Where the Wild Things Were"(参照)ということで、センダックの童話「かいじゅうたちのいるところ」(参照)のシャレになっている。Kindle版もすでに安価に出ているが、邦訳は読みやすいし、オリジナルにない挿絵や写真があって楽しい。
 
 

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