『考える生き方』に書かなかったブログ論の一部
今回出版した自著『考える生き方』(参照)は、当初、現在の書籍のコンセプトと少し違って、ブロガーなのでブログ論のような部分から始まっていた。まあ、finalventというのはブロガーだしね、ということでもある。
考える生き方 |
この市民というのは、具体的には、私の理解では、普通の人ということである。普通の人がどう市民として生きるのか。
当初はこれを原理論的な枠組みで考えていた。が、途中、「で、それって自分が語りかけたい人に通じるの?」という疑問がわいてきた。ブログと本は違うだろう。
こんな堅苦しいブログみたいなことを本で書いても、意味ない。
本なら、もっと広い層にまで通じるように書きたい。
それと実際のところ、ブロガーとしての自分を普通の人、市民の一例の人生として見たとき、もっと、見やすい構図のほうがいいのではないかと思うようになった。たとえば、「自分語り」というような。そのほうが実感を込めて書けるし。
で、そのシフトをした。初期原稿を大幅に改稿した。
が、そうなるとそれはそれで、「うぁ、自分の人生なんなんだ」ということになった。訥々と自分語りをしても、歳寄りが自費出版でだれも読まない自伝とか警世の書を出したりするのと変わらない。
でも、そう読まれてもよいとも思った。
自分の、「市民としての人生」という特殊事例のなかに、どれだけ市民原理が啓示されているだろうか、できるだけその視点を維持できればいいだろう。
まあ、そんな次第で、以下は、そうしたシフトをする前の初期原稿の一部です。
ひっぱり出して読み返すと、これは、普通にブログ向きのありがちな話ですね。
『考える生き方』に書かなかったブログ論の一部
ブログを書き続けることの罠
人によってブログを書く立脚点は違うものだ。社会のなかで置かれている場所も違うからだ。しかし、共通点もある。それは自分が何かを「正しい」と思う感覚だろう。
私が見てきた範囲では、誰でもブログを書いて表現するとき、「なにが正しいのか?」が問われている。そこが、誰にも見せない日記とは違うし、お金をもらって仕事として書くというのも違うところだ。
そして長くブログを書いていると、誰もが「なにが正しいか」という感覚が強くなってくる。そもそも、そういう中心的な感覚がないと、ブログは続かないからもしれない。
自分の感性や経験や、またとりとめのない思いをブログに書きながら、その過程で、じっと自分の「正義」みたいなものの感覚を持つようになってくる。
人は自分が正しいと思うことしか語れないし、語り続けるためには、正しいことを必要としてしまうのだろう。
正義なら、他者が読むだろうという、孤独からの逃避もあるだろう。
正義を語ってしまいたくなる
私がブログを10年も書いていて気がついたこと、そして自分なりに突きつめてことは、そうした自分の「正義」に、どのような根拠があるのだろうか、という謎だった。
なぜ正義が気になるか。ブログの世界では、正義を語ることが当たり前の人がたくさんいる。
誰もが自分勝手な正義を持っているから、ぶつかり合うし、言葉の喧嘩のようにもなる。
しかし私は、正義を語ることは、一種の罠だと疑うようになったし、それ自体間違いかもしれないとも思うようになってきた。
正義を語っていると、人はよいことをしている気分になる。しかし、「語られた正義」というものは、実は、他の人でも語れることだ。
正義を語ろうとすればするほど、他の人でも語れる話になる。
例えば、女性の天皇を認めるか、認めないか。認める人も認めない人も、どっちも、誰かそれなりの人が理屈を付けて正義として語っている。そしてブログで語られているのは、そうしたありきたりの正義の文章を多少表現を変えて切り貼りしているだけだ。
「日本の原子力発電はどうあるべきか」と考えるとする。すぐに賛否の正義が思い浮かぶ。ブロガーは、つい原子力発電の推進派か反対派かということが、文章の読み手の側の関心でもあると予想する。
ブロガーは、はそのどちらかの正義に自分を重ねてしまう。その正義を繰り返し述べていくことがブログの内容になってしまう。
人によっては政治的な話はブログで表現するような話題ではないかもしれない。しかし、アイドルグループやアニメ映画について語っても、正義を語る罠は潜んでいる。
どの分野にも正義の、ありきたりの表現が潜んでいる。
どんなテーマにも対立する正義があって、それを上手に語る人がいて、そして、ブログはその、上手に語られた正義を、自分の表現だと思って語る。
だが、そんな正義をブログで語る意味があるのだろうか。
しかも、誰かが上手に語った正義を、結局真似して語ることで、自分らしさはどんどん消えてしまう。
どうしたら、ブログで正義を語らないでいることができるだろうか?
自分を問いの形で見つけ直す
ブログで何かを主張したいとき、主張したいがための正義が先行するようになる。
そして、自分の思いが、その正義のおまけになってくる。そこに本質的な錯誤がある。
長くブログを書きながら私は、しだいに正義を書くという罠に落ちてしまうのをできるだけ避けるにはどうしたよいかと考えるようになった。
それには、正義といった結論を避けて、自分を問いの形で見つけ直すことが重要になる。
答えではなく、問いを出すことだ。
自分で出した問いに、自分で不格好でも自分だけの答えを書いてみる。それをブログで表現してみる。
問うことに重点を置いて考えなければ、いくら自分が正義だと思っていても、ありきたりな正義のなかに自分は埋もれてしまう。
自分ではない誰かが書きそうなことは、書かないことだ。
どんなに立派に、正義に見えても、それは避けたほうがいい。するとどうなるのだろうか。
ブログの裏側の自分
本書はブログの延長というわけではない。
ブログというのは、建前上、誰かが読んでくれることを意識して書かれている。不特定な読者の前に、文章の形で立つことになる。
すると、あたかもレストランにドレスコードがあってちょっとおしゃれをしていくように、自分を気取ってみせたり、あるいは逆に偽悪的に装ったり、少し自分を演出する部分ができてしまう。
ブログやネットの持つ罠がそこにある。自分を演出したくなる。
もちろん、演出がすべて嘘というわけでもない。文章の形で他人の目の前に立つことで、普通よりも自分らしさが表現されることがある。それは文学の仕組みに似ている。およそ文章表現というのは、そうしたある種の「気取り」の上に成り立っている。気取りを崩したかに見える文章もまた、それも一種の気取りにすぎない。
太宰治の『人間失格』という小説には、太宰治その人と思えるような主人公として大庭葉蔵という人が出てくる。彼は作者の太宰治自身とよく似ているし、そう思わせるようにも書かれている。だが実際に太宰治の人生を知ると、『人間失格』の主人公とは違うことはわかる。すると、小説の主人公は作者の太宰治を偽装しているとも言える。しかし逆にそうした文学の偽装を通して、作者である太宰治のもっとも本質的な部分が語られるようになる。それが文学でもある。
ブログは文学ではないが、たとえ本名で書いても、現実生活の自分とは違ってくる。書き続けていくと、ブログの人格のようなものが現れてくる。およそ、文章で自分を表現しようとすると、そうなるものだろう。
人によっては、ブログでの人格と自分との間に違いを感じない人もいる。それでも、何年もブログを書いていると、そのなかで自分から分離した別の自分を見つけるようになるだろう。
ブログを書きながら、私自身がその書き手の人格である「ファイナルベント」さんに向き合うことになった。
自分にとっても、finalventとは誰なのだろうかという疑問は、二月の夜の雪のように積もっていった。
いったい、自分はどこから表現しているのだろう。何かを書いて表現することは、自分の立脚点が自然に問われることになる。
ブログを通して市民になる
矛盾が起きる。ブログで大切なことは、自分ではない誰かが書くことを書かないことだとすると、自分だけが知っていることとして、自分の私生活的な部分だけを書くことにもなりかねない。しかし、そんな自分のことなど普通は誰も関心を持たないし、読まれることすらない。
誰かに読まれる価値のあることとは、どういうことなのだろうか。そう考えるしかない。
それには、書く人と読む人が同じ場所にいることが原点になる。
表現する人と、それを受け止める人が同じ場所にいること。共通に理解しあえる場所にいること。みんながみんなに語れる場所。言葉の表現にみんなが等しく立つ場所。
それがきっと「公共」ということの一番基本的な意味だろう。
「公(おおやけ))や「パブリック(public)」といってもいい。それが「社会」であれば、「私」と「あなた」は双方にとって、「市民(citizen)」になるということだ。
ブログを書く「私」と、ブログを読む「あなた」は、同じ「市民」として立つということになる。
「市民」というと、現代日本の言論風土では、「プロ市民」という皮肉な言葉によく現れているように、左翼的な政治の立場を推進する人たちの意味になりかねない。しかし、そうしたありきたりの意味は重要ではない。「市民」という言葉が重要なのではないからだ。
ブログの書き手と読み手が、公共の言論の場を意識するとき、互いに平等になる。その意識を持つことが、「市民」ということだ。
ブロガーの原点が「市民」だということから、言論の「公共」ということも、あらためて見直される。
公共の二つの層
「公共」には、二つの層がある。
一つは、「国家」である。日本人ということだ。その意味では、「日本人として語る」ということが、市民として語るということになる。これは簡単に「国民」と言ってもいいだろう。
ブロガーが公共を意識していけば、それが国民の声となる。
これまでは、テレビなどマスメディアや新聞などジャーナリズムが、国民の声の代わりをしていた。代わりのふりをして、実際には国民の声とはちがう特定の意見をまきちらしてもいた。しかし、ブログが公共を意識して発言するようになれば、マスメディアやジャーナリズムとは違った、明確な国民の声になる。
もちろん、ブログが国民の声だからといって、同じ意見になるわけではない。違いはある。それでも、違いは共通する「公共」のなかで接近していくことができるし、合意を求めていくこともできる。正義を語って争うのではなく、同じ国民として利益を摺り合わせていけるようになる。
しかし、「公共」は日本という国で終わりだろうか。そんなことはない。
「公共」の、もう一つの層は、普遍的な人間である。
つまり、「人として」ということである。より、明確に言えば、国家を越えた「人権」を見つめて、自分の意見をブログで述べるということだ。日本国内での人権問題という限定の人権ではなく、日本を越えたところで、どの国家の国民にも当てはまる人権の意識である。
難しいことのようだが、これは普通に日本国憲法のなかに、日本人としての宣言として含まれているものだ。日本国憲法は国際的な人権の意識に支えられている。
「われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」
日本人のひとりひとりが、この普遍的な人権意識を「公共」の言論の原点とするとき、争うためだけの正義が克服可能になる。
あまり堅苦しく考えることはないが、日本語でブログを書いたって、世界の人が誰でも読もうと思えば読める時代になった。英語でなければ世界に発信できないということはない。英語だろうが日本語だろうが、世界の国のどの人でも原理的には読める。だから、その「公共」の原点の人権の立場が、ブログの原点になる。
(以下、略)
| 固定リンク
「書籍」カテゴリの記事
- 『ツァラトゥストラはかく語りき』の思い出(2018.03.21)
- [書評] コックリさんの父 中岡俊哉のオカルト人生 (岡本和明・辻堂真理)(2017.12.12)
- [書評] 東芝解体 電機メーカーが消える日(大西康之)(2017.06.18)
- [書評] 学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで(岡田麿里)(2017.04.15)
- [書評] 李光洙(イ・グァンス)――韓国近代文学の祖と「親日」の烙印(波田野節子)(2015.09.24)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
個人の知りえる事など、世の中の極々限られたものなのでしょう。そんな範囲の中で絶対の正義等語りようもないと思います。帰納的に考えれば、一つの見落としで結論がかわる事もありますし、捕食者なき世界のような圧倒的な物語にはどんな正義も陳腐な事のように思えます。人間が現代の様に膨大な情報に触れる時代は例外であって、人は自分の知りえる範囲での正義を信じていくしかないのだという気も致します。客観性を求めすぎれば何も語れなくなってしまうと思います。読者はfinalventさんならどう考えるのかという事に興味があるのであり、それ以上でもそれ以下でもない。人は皆自分の思う正義を主張する権利があると私は思っています。共感しない相手は無視しても良いし、それを多様性と思って議論するのも良しで、ストレスがたまらなければ良い様なきも致します。私等は文章が苦手なのでブログ等とてもつづけられませんが。「考える生き方」アマゾンで買わせてもらいました。finalventさんがどの様な背景をお持ちの方なのかも知りたかったからです。二月の夜の雪ってすごくきれいじゃないですか。
投稿: hiro matsuura | 2013.02.24 21:52
こんばんは。本、今朝届いて読みました。
シフトして正解ですよ。
私はfinalventさんより10歳ほど年下ですが、finalventさんの人生、予想を超えて面白かったです。
というか、まあやっぱり人生よくわかりませんね。
よくわからんので、考えちゃいますね。
と思いました。
投稿: | 2013.02.24 23:40
ツイター論希望!
投稿: 虎にペガサス | 2013.02.25 07:58
きもすぎだこいつw
日本人は拉致事件でサヨクのウソを知ったんだよ。
人権だの平和だの、反省だの償いだののウソをな。
しかも、マスゴミがそのウソを一切改めず逆にエスカレートさせて
政権交代まで逝っちまったんだよw
だから怒りがいっこうに収まらないんだろーが。
人を殺し、独裁国家を信じたサヨクは
言論世界の死刑囚だと知れよクズが。
ネットで俺らに死ねとか言われても、どうってことないだろ。
ほんとに人を殺したお前らとはちげーんだよ。
本当に人をさらって口を塞いだお前らとは、俺等はちげーんだよ。
寿命が来たら死ねやクズ。
投稿: 通りすがり | 2013.02.27 19:37