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2013.02.18

番外編の番外編『さらば国分寺書店のオババ』

 先日cakesに椎名誠の『さらば国分寺書店のオババ』の書評を書いたが、当初の想定より長い文章になり、前編(参照)と後編(参照)に分けた。それでも当初の想定ではもう一つ個人的な思い入れがあり、それを番外編(参照)とした。
 まあ、そこまで書けばいいではないか、それどころか、すでに余計なことを書きすぎではないか、とも思った。が、同書を読み返し、また同書が出版されたころを想い出し、またこの機にいろいろ調べたせいか、まだ少し思うことが残っている。些細なことなので、書くほどでもないが、書かずにいるとなんとなく心に沈んでくるので、そのあたりの残余みたいな話を、ちょっとブログに書いておきたくなった。
 cakesの書評のほうでは、『さらば国分寺書店のオババ』という本について、冒頭、新潮文庫版を、その書影と合わせて掲げている。編集部への不満という意味は全然ないのでその点誤解されたくないが、原稿では新潮文庫版を指定したわけではなかった。自分の念頭にあったのは、情報センター出版局が出した初版である。違いは判型もだが、書影にあった。


さらば国分寺書店のオババ
スーパーエッセイパート1

 湯村輝彦の絵である。これが書店に平積みされる光景は強烈だった。
 椎名誠の「スーパーエッセイ」や後に昭和軽薄体とも呼ばれる文体は新潮文庫版では味わえるが、この書影の、ある種まばゆい光景は、オリジナル独自のものである。しかも中の挿絵は、いしいひさいちであった。それだけで、80年代の夜明けを、ドーンと示すものだった。これらは他版では失われてしまった。
 椎名の同書が出版されたのは1979年で、翌年、同じく情報センター出版局から湯村輝彦は糸井重里とコンビで『情熱のペンギンごはん』(参照)を出した。このコンビによる、というか糸井重里の処女作といってもよい『さよならペンギン』(参照)のオリジナルが出たのは1976年だが、あの時代の印象としては、これらの情報センター出版局の書籍のビジュアルは湯村を軸としていた印象があった。
 ちなみに、いちいひさいちの傑作『がんばれ!!タブチくん!!』(参照)が出たのも、『さらば国分寺書店のオババ』と同じ、1979年だった。
 cakesの書評を書く際、同書と限らず、自分の蔵書の他に、各版も入手して参照するのだが、版が異なると、表紙や挿絵というのは変わってしまう。書籍というのは、もちろんテキスト(本文)が命ではあるのだが、書籍という物としての出会いにおいては表紙や挿絵といった要素の印象が決定的なこともある。
 類似したことは後書きや文庫の解説などにも言える。各版が存在するとそのおりに著者がちょっとした後書きを追加するのだが、そのなかに、作品の決定的なイメージがさらっと書かれることもある。『さらば国分寺書店のオババ』についていえば、情報センター出版局と新潮文庫版の中間に三五館(参照)があり、後書きは興味深いものだった。なお現状、同書は新潮文庫版は絶版となり、三五館版はまだ絶版となっていない。
 たぶん次回のcakesの書評では五木寛之の『風に吹かれて』を扱う予定だが(というか原稿のベースは書き上がっているが)、あれだけ各社から主に文庫として出版された同書も今となっては絶版が多く、現状、絶版していないと確認できたのはベストセラーズ版(参照)だけのようだった。どこの出版社がこれらの新しい古典を絶版から守っているかというのは、それだけでなかなか興味深い事柄でもあった。
 『さらば国分寺書店のオババ』の「オババ」本人については、cakesの書評でも言及したが、その後どうされているかについても、それなりに調べてみた。公式なとろでは日経新聞2010年7月24日夕刊10面に関連記事があり、その情報では、国分寺を去った後、兵庫県赤穂市のマンションに、日経記事の言葉を借りると「パートナーの女性」、と引っ越したとのことだ。2010年時点の存命についての記載はない。また「パートナーの女性」についての記載もないが、『さらば国分寺書店のオババ』にもある、通称「国分寺書店」の後の陶器店経営の女性なのかもしれないとは思った。なお、同書店のビルは「オババ」の甥に売却したとのことだ。
 この陶器店経営の女性なのだが、今回cakesの書評を書くおり、同書評でも記したが、1977年の「本の雑誌」掲載の同タイトルのエッセイと比較したのだが、この女性の描写部分はだいぶ異なっている。なぜ初出と書籍版で書き換えが必要だったのかは、よくわからない。初出の印象では20代後半のようにも受け取れる。
 「オババ」に甥がいたことは確かだが、お子さんはいらしたか。いらしたようだ。不確かな情報なので、個人的に調べようかとも思ったが、そこまで調べる意味があるのかためらった。
 書籍版の『さらば国分寺書店のオババ』を読むと、椎名とオババの関係は、まるで赤の他人といった印象であるし、実際に赤の他人ではあるのだが、初出エッセイでは、オババの若日頃の写真が掲載されている。渡辺真知子を連想させる若い女性が日傘を差している写真である。ご本人の写真をお借りしているのだろうと想像されるので、1977年時点で、椎名と「オババ」には実は親交があったのだろう。ほか、初出エッセイ冒頭には猫背の老婆の写真があるが、この老婆が誰であるかの説明はない。
 椎名と「オババ」の関わりは『本の雑誌血風録』(参照)にも記されているのだが、こちらの話では、書籍出版にあたり「オババ」と面談したという話になっている。実際とは異なる話ではないかという心証を持った。
 まあ、どうでもいい話ではあるが、自分にしてみると、心を捉えてはなさい話題ではあった。
 
 

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