[書評]中の人などいない @NHK広報のツイートはなぜユルい?(NHK_PR1号)
ツイッターについて自分なりに読んできた本のなかでは、「中の人などいない @NHK広報のツイートはなぜユルい?(NHK_PR1号)」(参照)が一番面白かったと思った。
中の人などいない @NHK広報のツイートは なぜユルい? |
NHK_PR1号さんがただ者ではない理由もわかる。いきなり結論めいたことをいうと、ツイッターは「バカ発見機」とも言われる面の対極に、とても優れた人を見つける仕組みでもある。NHK_PR1号さんのツイートを読みながら、「ゆるい」「いじられキャラ」としての楽しみのなかで、多くの人が実は、新しい日本社会のなかで、どう言葉を使ってどう関わるべきかを学んでいる。これはすごいことなのだ。
この本は時系列的に書かれているので、時系列的に理解しやすい。出版されたのは2012年10月25日。後書きにNHK_PRのツイッターアカウントを始めて丸三年になると懐古的に書かれているが、私もツイッターにすっぽり浸かっていた人間なので、ツイッターでは三年前はけっこう遠い過去だという感覚は共有できる。
あのころはツイッターがどういうメディアなのか多数の人が模索していた。本書のNHK_PR1号さんも、このメディアが何であり、そしてどう使うのかということを、三年前の当初からかなり意識していたことがわかる。この本の前三分の一くらいに及ぶ、新しいメディアへの意識のありかたの考察も興味深い。おそらく、ソーシャルと呼ばれているものの、まだ微妙な本質に触れている。
大げさな言い方になるが、ある意味で奇跡なのだろう。NHKみたいな組織がどうしてこんな先進的なソーシャルメディアの活用ができたのか。
本書でも触れているが、キャラのひな形になったのは「生協の白石さん」である。そのあたりは、こういうと良くないが、広告屋さんあたりが企画書を書きそうな部分だ。が、その企画がどんなに上手に出来ても実現しないのは、このソーシャルなメディアは決定的に、人を要求することろである。
発言する・発信する人、その人のすべてがきちんと反映されてしまうということだ。「生協の白石さん」的なスタンスを一つの標準として意識することはできても、演じることはできない。演じたら、嘘になるし、嘘ははっきり出てしまう。その人が素でダイレクトに出てくる。このことをNHK_PR1号さんが初期の活用時点で模索しつつ自覚していくところも本書を読み応えあるものとしている。
その自覚が東北震災や福一事故を挟んで問われるシーンの記録は読みながら、なかなか手に汗握る。重く書かれているわけではないが、NHK_PR1号さんが明確に、これでNHKから処分されてもしかたないとけっこうすごい覚悟をしていることが伝わってくる。この覚悟の核にあるのは、NHK_PR1号さんのツイッターを読まれる人への信頼である。自分の発言を信頼し、NHKを信頼している、そして言葉も交わしたことのある、そういう人の信頼を原点に置いたとき、危機にどうあるべきか。それが意識できちゃう人というのは、これはすごいやとしみじみ思った。福一一号機の外壁がなくなったときのこと。
どう見ても事故だ。これは放射性物質が放出されたというレベルじゃないよ。建物の外壁がなくなっているんだから。とんでもない事故が起きてしまったに違いない……。これ、ツイートしたほうがいいよね……。どこからもまだ正式な報道はありません。こうした状況で、確認のとれていない情報を発信することに、私はこれまで受けたことのないプレッシャーを感じていました。本当にツイートしてもいいのかな。
でも、もし本当に事故が起きていたら私はきっと後悔する。津波で多くの人が亡くなっていくのを、悲鳴のようなツイートを、ただ見ていることしか出来なかったあの時のような思いはもういやだ。あんな後悔はしたくない。だったらツイートしなきゃ……。
私が一瞬迷ったその時、一人の解説委員が放送で「重大な事故が起きた可能性がある」と言い切りました。この人も覚悟を決めたんだ。よし私も覚悟を決めよう。
そして発言をし、そしてそれから四日後には、ゆるいツイート(発言)に戻る決意をする。その心の動きがいちいち人間的であり個性的であり、その人間性を求める関係性がソーシャルメディアにかつて見たことのない劇として演じられている。
いや、読後しばらく思ったのだが、この感触はかならずしも初めてではないかもしれない。最近ではあまり聞かなくなったが、私はNHKのラジオ深夜便を長く聞いていた。そのなかで、今回のような危機の場面ではないものの、アナウンサーの一人一人は独自の個性の持ち味をうまく生かしていた。そうか、NHK_PR1号さんは、スタンスとしては、ラジオ深夜便のアナウンサーに似ているなと思った。広義には、70年代以降のDJ文化が社会の全域に及んだ結果でもあるだろうが、かつては若者の文化だったが今は、もっと広がりがある。
一人の市民として言葉を発し、一人の市民が言葉に耳を傾ける。放送の原型がなんども言葉を介して問い返される。その流れで、NHKが公共放送であるということはどういうことなのか?
この問題意識が、NHKの中の人々によって明確に自覚され、ときおりそれが個性の顔をもって現れる。「公共」というもののまだよくわかっていない、それでいて大切な何かを表現しようとしている。
本書タイトル「中の人などいない」は本書にもあるように吉田戦車のマンガの台詞に由来し、そしてそれがおそらく年代も暗示しているが、メッセージとしては、NHKという公共放送が中の人として区別されず、中から外という公共に接する意識をしゃれているものだ。
余談だが、NHKのこうした新しい公共への自然な、個性的な取り組みは、言葉として見えやすいNHK_PR1号さんの活動以外に、映像の作りや子ども番組などにも見られる。これらは普通に作品のクオリティの高さとして見えるものの、その裏側に作り手の個性の裏打ちも感じられる。
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コメント
平清盛も上質でしたね。
投稿: richmond | 2013.01.07 11:02