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2013.01.28

「米有力紙に尖閣問題は棚上げ」報道について

 昨日、「米有力紙が尖閣問題は棚上げすべき」との社説を出したということがニュースになった。結論から言えば、報道に明確な間違いはないのだが、なぜ今回、これが日本で報道されたのか、報道の詳細はどうだったか、検証しておいたほうがよいように思えた。
 すでにどこかのメディアなりブログなどで検証しているのかもしれないが、それがないとすれば、二次的な日本報道が一次的な「米有力紙」のままのように残る懸念もある。拙いながらこのブログでも記しておこう。
 国内報道だが、NHKでは27日付け「米有力紙 尖閣問題は棚上げすべき」(参照)があった。報道検証なのであえて全文引用する。


 アメリカの有力紙、ワシントン・ポストは26日付けの社説で、沖縄県の尖閣諸島を巡る日本と中国の対立について取り上げ、不測の事態から日中間の軍事衝突に発展する可能性に懸念を示したうえで、「当面はこの問題を棚上げすべきだ」として、鎮静化に向けてアメリカも支援すべきだという考えを示しました。
 ワシントン・ポストの社説は、尖閣諸島を巡る問題について「日本と中国の間でこれまで棚上げされてきたものの、去年9月に日本政府が島を国有化したことで中国側に激しい反発の口実を与え、中国による挑発行為がエスカレートしてきた」と指摘しました。
そして、不測の事態から日中間の軍事衝突に発展し、日本の同盟国であるアメリカが介入を余儀なくされ、衝突に巻き込まれる可能性が以前より増していると懸念を示しました。
 その一方で、社説は公明党の山口代表が25日、安倍政権の幹部としては初めて、中国の習近平総書記と会談したことについて「事態の鎮静化の兆しだ」と歓迎しました。
そして、来月訪米する予定の安倍総理大臣に対し「中国側の挑発に応じるのではなく、緊張緩和の道を探るべきだ」とするとともに、「当面はこの問題を以前のように棚上げすべきだ」と訴え、鎮静化に向けてアメリカも支援すべきだという考えを示しました。

 概ね間違いはないと言ってよいのだが、NHKによる「日本と中国の間でこれまで棚上げされてきたものの、去年9月に日本政府が島を国有化したことで中国側に激しい反発の口実を与え、中国による挑発行為がエスカレートしてきた」という表現からは、日本側に非がある印象を与える。
 時事にも報道があった。「尖閣問題の棚上げを=米の支援で-Wポスト紙社説」(参照)である。

 【ワシントン時事】26日付の米紙ワシントン・ポストは社説で、安倍晋三首相に沖縄県・尖閣諸島をめぐる中国との緊張緩和を模索するよう求めた上で、米国の支援で尖閣問題を棚上げすべきだと主張した。
 社説は、尖閣問題で中国が挑発行為を強めていることや、安倍政権の対中強硬姿勢に懸念を表明。こうした中で、公明党の山口那津男代表が安倍首相の親書を携えて訪中したことを、緊張緩和の兆しとして歓迎している。
 その上で、2月に訪米する安倍首相に対し、緊張緩和の方策を模索するよう要請。米国が尖閣をめぐる日中の軍事衝突に巻き込まれる危険が高まっているとし、尖閣問題の棚上げを支援すべきだとの見解を示している。 (2013/01/27-01:53)

 時事は報道が短くなっている分、「尖閣問題で中国が挑発行為を強めている」ことについて、日本側の非についての含みは読み取れない。
 原文はどうだったか。
 該当のワシントンポスト社説は「Political climates in Japan and China ratchet up island dispute(日中間の政治情勢が島論争を過熱させる)」(参照)である。
 該当個所を読んでいこう。まず前提的な説明がある。

The Senkaku Islands, called the Diaoyu by China, have been under Japanese administration since 1895; for decades, China agreed to leave its claim to them on a back burner. But Japan’s nationalization in September of three of the islets — undertaken in an attempt to head off an attempt by a nationalist politician to gain hold of them — provided China’s military and Communist leadership with a pretext for rabble-rousing.

中国が釣魚島と呼ぶ尖閣諸島は1895以来、日本の管理の下にある。ここ数十年間、中国はその領土主張を後回しにすることに合意していた。しかし日本が9月、うち三島を国有化したことは、中国軍部と共産党指導者に大衆煽動の口実を与えることになった。日本政府としては、国家主義政治家がこの島を支配しようとしたのを阻もうとして目論まれたものだった。


 どうだろうか。原文は、NHK報道の「日本と中国の間でこれまで棚上げされてきたものの、去年9月に日本政府が島を国有化したことで中国側に激しい反発の口実を与え、中国による挑発行為がエスカレートしてきた」というのは違う印象を受けるのではないか。特に、NHKがまとめる「反発の口実」ではなく、原文は「中国軍部と共産党指導者に大衆煽動の口実」とされている部分に注目したい。
 続きを見てみよう。

In recent weeks Beijing’s provocations have escalated from dispatching surveillance ships to the islands to scrambling warplanes in response to Japan’s. China’s state-controlled media have been whipping up something like war fever, with one paper declaring that a military fight is “more likely” and the country “needs to prepare for the worst.” Disturbingly, this provocative and dangerous campaign has been overseen by the new Communist leadership under Xi Jinping, which has ample motive to divert attention from domestic problems.


この数週間、中国政府の挑発は、諸島への監視船の派遣から、日本の対応に呼応した戦闘機の緊急発進にまでエスカレートした。中国の国家管理下にあるメディアは、戦争にかられた熱病のような状況をかき立ててきている。その一紙は、軍事衝突は「可能性が高い」とし、「最悪の事態に備える必要がある」とうたいあげた。不穏なことに、この挑発的かつ危険なキャンペーンは、習近平指導下の新しい共産党指導者によって、国内問題から関心をそらすという十分な動機をもって、監督されているのである。


 細かく見ると、ワシントンポストの「in response to Japan’s」という表現だと、日本が先行してスクランブルをしたかようだが、その理解でよいものか疑問には思う。
 いずれにせよ、ワシントンポスト社説の論点は明確で、尖閣問題で戦争騒ぎをかき立てている張本人は、習近平指導下の共産党の新指導部であり、目的は中国大衆の関心を国外にそらすためである、としていることだ。つまり、ワシントンポスト社説はけっこう、この事態の本質、つまり中国の危険性を突いている。だが、NHKや時事など日本の報道からはこの認識は欠落したようだ。
 日本について非についての指摘はないのか。短くあるにはある。

The political climate in Tokyo, too, gives cause for concern. The new prime minister, Shinzo Abe, is a nationalist who has packed his cabinet with politicians who share his aims of boosting Japanese defense spending and standing up to China. Japan has refused negotiations over the islands, declaring that there is nothing to discuss.

日本政府の政治情勢も懸念を引き起こす。新総理大臣、安倍晋三は国家主義者であり、彼の望むように防衛支出を増強し中国に抵抗する政治家で組閣した。日本は尖閣諸島についての交渉を拒絶し、議論することは何もないと宣言した。


 日本について非とされるのはこの部分だけだ。
 まず不可解なのは、尖閣諸島についての領有権問題はないとまず鮮明にしたのは、野田前首相とその内閣であるのに、なぜ安倍首相がとりわけ名指しされるのかは理解に苦しむ。また、防衛増強についても前民主党政権の動向と変化はない。
 つまるところ、安倍政権へのワシントンポスト社説の非難は、内閣人事に国家主義者が多いというだけになる。確かにこの点は問題だが、ワシントンポスト社説の懸念は臆断によるものでしかないと言えるし、安倍晋三が国家主義者だというのも彼の前政権の実績から判断されるものでもない。
 もう一つの論点、NHKが言うところの「米国が尖閣をめぐる日中の軍事衝突に巻き込まれる危険が高まっている」についてはどうか。つまり、オバマ政権はどう見ているというのか。

The Obama administration has been trying to defuse the dispute, dispatching a senior State Department official to Tokyo last week to call for “cooler heads to prevail.” But Secretary of State Hillary Rodham Clinton has also reiterated a position the administration first adopted two years ago: A security treaty binding the United States to defend Japan against attack applies to the islets. That public stance may have been intended to deter China from provoking a crisis, but it also magnifies the stakes for Washington. Should China attempt to seize control of the territory, Mr. Obama could have to choose between backing Japan in a military confrontation and a climb-down that would undermine the “pivot to Asia” he has placed at the center of his foreign policy.

オバマ政権は、言い争いを沈静させようと、国務省高官を日本政府に派遣し「頭を冷やす」ことを求めた。しかし国務長官ヒラリー・ロダム・クリントンのほうは、オバマ政権が二年前に初めて採った立場を繰り返した。攻撃から日本を防御することを米国に義務づけている安全保障条約は、この島々にも適用されるというのだ。この公的な立場表明は、中国が危機を引き起こすのを思いとどまらせる意図だったかもしれないが、同時に米国政府の賭け金を吊り上げたかもしれない。中国が万一、この領域の支配を試みるなら、オバマ氏は、日本を支援するための軍事対決か、あるいは、その政権が外交の中心的方針とした「アジアへの軸足」を蝕むことになる軍事譲歩のいずれを選ぶことになりかねない。


 この部分は一番理解が難しいところだ。
 まず、ワシントンポスト社説は、日米安保の根幹を理解していない可能性がある。同社説は、オバマ政権の沈静化策とクリントン国務長官による言明を対立したものと理解しているが、これは端的に間違いである。正しくは、現状は沈静化を望むが、原則では日本の施政権下の領域は日米安保に含まれるということである。
 ワシントンポスト社説が、国際政治に無知であるなら批判をするのは空しいが、むしろ、このような誤解が米国中枢部の意見として同社説で示されている点に重要性がある。
 やや奇妙にも思えるのだが、この社説からは、米国がアジア戦略を展開する上で、日本への軍事支援を確約するのも困るし、中国への対応にくじけてしまえばアジア諸国との関係がまずくなって困る、という意見が読み取れる。
 普通に考えるなら、日本を支援し、そのことでアジア諸国の信頼も得ることで、なんら問題はないようだが、それが問題であるかのように語られているのは、「米中関係をまずくするのもなんだな」という懸念なのだろうか。
 
 

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2013.01.24

アルジェリア、イナメナス人質事件について

 事件で犠牲になった各国の人々に哀悼します。

 アルジェリアのイナメナスで起きたイスラム過激派による人質事件がひとまず収束した。事件の全貌はいまだにわからないが、報道などに触れてきた範囲で思うところを書いておきたい。
 事件の背景には、フランスによるマリ空爆と、リビアの崩壊の二つがある。
 一点目に関連するマリ情勢については、このブログでは昨年4月(参照)と12月(参照)に言及した。
 今回の事件は2か月ほどの仕込み時間があったので、フランスによるマリ空爆を待っての事件ということではなかったが、マリ情勢はこのブログでも触れたようにすでに不安定化しておりフランスの介入も想定される事態だったので、関連がないとは言えない。
 また日本ではマリ情勢について報道が少なかったが、この地域のアルカイダに関連するイスラム過激派の活動は一昨年あたりから活発化しているので、その点でも今回の事態も想定されないものではなかった。
 むしろ、この地域の武装民兵勢力は資源開発に来る外国人を人質にしてはカネを稼ぐというのが、ルーチン化した、ある意味ではしょぼいビジネスになっているので、今回は規模が大きかったが特例とはいえない。アルカイダ系ではないが、また日本では報道されなかったが、今年に入ってスーダンの中国人労働者が6人拉致される事件があり、この解決はおそらく中国政府を介した身代金によるものだっただろう。中国政府としてもこうした支払いは、事実上一種のルーチン化したビジネスとして扱われている。
 ここで「ある意味ではしょぼいビジネス」と書いたのは、全体傾向として見ると、アルカイダなどイスラム過激派の活動が以前に比べて活性化しているということはないからだ。むしろ、この地域の武装民兵は資源不足と分派に悩んでおり、今回の事件も、大枠では、ジリ貧ビジネスの立て直しと、「オイラが一番さ」の宣伝効果を狙ったものだと見てよい。
 背景のもう一点であるリビアの崩壊だが、これは、この地域の状況を見てきた人にはほとんど自明でありながら、なぜかマスメディアで語られず、なんだか壮大な茶番のように苦笑を禁じ得ないことでもあった。簡単にいうと、今回の事件は、米国オバマ政権が当初隠蔽を計ろうとした「ベンガジゲート」(参照)と関連が想定されていた。
 イナメナスの位置を見てもわかるが、リビア国境に接していて、ほとんどリビアと言ってよい場所である。以下の地図のA地点にあたる。正確にはそこはイナメナスの市街で、プラント施設はもう少しアルジェリア内陸寄りにはなる。

 今回のイスラム過激派はリビア側からやってきた(一部ニジェールから)。基本的に今回の事件の根幹は、リビアにあり、リビアの統治が事実上崩壊していることにある。
 リビア統治崩壊の理由は、西側がリビアのカダフィ政権を武力で潰したからであることは言うまでもなく、リビア崩壊がこうしたこの地域治安の不安定化をもたらすことはすでにブログでも言及してきたとおりだ。
 加えて、カダフィ政権が保持していた武器がリビア崩壊によって流出し、その傭兵が獲得しために、一時的にこの地域の武装民兵勢力の武力が強化されることになった。マリの動乱もこれに関連している。
 こうしたリビアの不安定化が露見したのが、ベンガジの米国領事館襲撃事件だったが、当初米国オバマ政権はこれを、マホメットを侮蔑した映画による大衆デモであると情報操作した。これが「ベンガジゲート」である。この事件については昨日もクリントン米国務長官が議会で吊し上げをくらっており、オバサンのヒステリックな非論理的な弁明が香ばしい(参照)。
 この襲撃事件の時点でリビア内での、イスラム過激派の行動を見ていると、同種の次の事件が想定されることは明白であり、今回の事件も基本的に識者の側からは、その関連が疑われていた。すでに22日のニューヨーク・タイムズではアルジェリア政府高官から情報としてこの点は報道されている(参照)。その上で、米政府側がさらなる糊塗をするのかが注目点でもあった。
 意外にもというほどでもなく、隠蔽がむずかしいと見た米オバマ政権は、「ベンガジゲート」のリスク回避の一環なのだろうとも思われるが、報道があったことを認めている。ベンガジゲートの中心人物、クリントン米国務長官自身がこの関連を早々に言明した。NHK「実行犯の一部 米大使殺害関与か」(参照)より。


 アルジェリアで起きたイスラム武装勢力による人質事件について、アメリカのクリントン国務長官は、実行犯の一部が去年、リビアでアメリカの大使らが殺害された事件にも関わっていたという情報があることを明らかにしました。
 クリントン国務長官は23日、去年9月、リビアでアメリカ領事館が襲撃され大使ら4人が殺害された事件について、議会上院の公聴会で証言しました。
 この中でクリントン長官は、アルジェリアの人質事件について、拘束したテロリストの取り調べで、実行犯の一部がリビアの事件にも関わっていたという情報があると、アルジェリア政府から伝えられていることを明らかにしました。

 よくこの情報を握りつぶさなかったというほうが多少驚きで、もしかすると、この情報は正確ではないとかいう面白いオチが想定されているのかもしれない。その可能性もゼロとは言えない。だが、大局的に見れば、今回の人質事件は、カダフィの呪いとでもいうか、カダフィ政権崩壊の連鎖によるもので、この政権崩壊に荷担した国々がちゃんと後片付けにまできちんと関与すればよかった問題だと言える。
 いや、それどころではない。始末はリビアだけではない。シリアの情勢でも、アサド政権に対抗している勢力はリビアに関連したアルカイダが主流化している。これもまたリビア崩壊の余波と見てよい。
 米国のブッシュ・ジュニア大統領時代、なぜ米国がフセイン大統領(当時)のイラクに侵攻しその統治を不安定化させたのかというのが、厳しく問われたものだった。しかし、オバマ政権になって、ほぼ同質の事態が展開されているのに、そうした声はあまり聞かれない。
 米国内では多少議論されている。18日付けのワシントンポスト社説「Stiffing an ally in Mali(マリとの同盟を強固にせよ)」(参照)に指摘があった。

The administration’s balking might be more understandable if there had been no previous U.S. involvement in the north African state. But the United States already has spent years and millions of dollars attempting to stem Islamic extremism in Mali — and its failures helped to precipitate the current crisis. Last year counterterrorism forces trained by the United States defected to a rebel movement of ethnic Tuaregs, which then allied itself with al-Qaeda and its local allies. The rebellion was boosted by Tuareg fighters who streamed into Mali after the regime of Moammar Gaddafi, which employed them, was deposed thanks to an intervention by NATO. Meanwhile a U.S.-trained officer led a coup against Mali’s democratic government.

米国が以前からこの北アフリカの国に関与してこなかったのなら、オバマ政権が躊躇しているのもわからないではない。だが米国は、マリのイスラム過激派をせき止めようと数年をかけ、数百万ドルを費やしてきた。失敗の数々が押し固まって、今回の危機を招くことになったのだ。昨年は、米国が訓練してきた対テロ戦士らが離脱してトゥアレグ人の反抗勢力になり、これがその後、現地のアルカイダと結託した。北大西洋条約機構(NATO)の侵攻でアマル・カダフィ政権が排除されたのち、その傭兵だったトゥアレグ人戦士はマリに流入し、反乱が拡大する一方、米国が訓練したマリの将校のひとりが、民主制のマリ政府にクーデターを起こした。


 マリ北部の反抗勢力を育成したは米国であり、結局、米国がアルカイダをここでも育成してしまった。また、民主制のマリにクーデターを起こした将校を育てたのも米国である。
 ただし、ワシントンポストのこの論調はそのまま受け取るべきではない。アフリカ地域のイスラム過激派の脅威を煽っている目的は、おそらくエジプトを中心としたこの地域への関与強化であろう。
 実際のところ、シリアの問題を放置した状態で、しょぼいビジネスの、アフリカ地域のイスラム過激派の脅威を騒いでも大局的な意味はない。
 今回の事件で、日本のメディアもとたんにアルジェリアでのイスラム過激派に目を向けたが、シリアの内戦の現状にはあまり言及していない。
 
 

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2013.01.14

クルーグマンのアベノミックス評

 ニューヨークタイムズに掲載されている、「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞」受賞者でもある、経済学者クルーグマンによる、素朴なアベノミックス評があり、現状の日本の論壇にとっても、なかなか含蓄があると思われるで、全文訳はあまり好ましいことではないけど、ちょっと試訳してみた。意訳なので、検証用に原文も添えておいた。ご参考までに。

  ※  ※  ※  ※

Is Japan the Country of the Future Again?参照
日本はまたも「未来の国」なのか?

In the broad sense, surely not, if only because of demography: the Japanese combine a low birth rate with a deep cultural aversion to immigration, so the future role of Japan will be severely constrained by a shortage of Japanese.

日本が「未来の国」だなんて、長期的に見るなら大きな間違いだ。人口動態だけ見てもわかる。日本には、出生率の低下に併せて移民への嫌悪まである。日本人労働者が不足するのだから、日本の未来に選択の余地はないだろう。

But something very odd is happening on the short- to medium-term macroeconomic front. For the past three years macro policy all across the advanced world has been dominated by Austerian orthodoxy; even where there haven’t been explicit austerity policies, as in the United States, fear of deficits has led to de facto fiscal tightening, while monetary policy has fallen far short of the kind of dramatic expectation-changing moves theoretical analysis suggests are crucial to getting traction in a liquidity trap.

とはいえ短期から中期的に見るなら、日本のマクロ経済に現状、とても奇妙なことが起きている。この三年間、先進国の金融政策といえば、旧守主義による財政引き締め政策が支配的で、それほど露骨でもなかった米国ですら、財政赤字の恐怖から事実上の引き締め政策が実施されてきたものだった。しかしこの間、理論分析の示唆からして、「流動性の罠」からの脱出に欠かせない、インフレ期待値の変化をもたらす劇的な対応が、まったく不足して金融政策は失墜し続けていた。

Now, one country seems to be breaking with the orthodoxy — and it is, surprisingly, Japan:

現下、一国が、この旧守性を打ち破ろうとしている。驚いたことに、日本なのだ。ニューヨークタイムズ記事より。

The Japanese government approved emergency stimulus spending of ¥10.3 trillion Friday, part of an aggressive push by Prime Minister Shinzo Abe to kick-start growth in a long-moribund economy.

日本政府は、この金曜日、10兆3000億円の緊急刺激支出を承認したが、これは長く瀕死状態だった日本経済を成長に向けて始動させるための、安倍晋三総理大臣による積極的な攻勢の一環だった。

Mr. Abe also reiterated his desire for the Japanese central bank to make a firmer commitment to stopping deflation by pumping more money into the economy, which the prime minister has said is crucial to getting businesses to invest and consumers to spend.

加えて、経済により多くのマネーを送り込むことでデフレを止めるよう、日本銀行に明確な関与の要望を安倍氏は繰り返した。安倍首相の要望は、企業投資と国民の消費活性にとって決定的に重要である。

“We will put an end to this shrinking and aim to build a stronger economy where earnings and incomes can grow,” Mr. Abe said. “For that, the government must first take the initiative to create demand and boost the entire economy.”

「私たちは、経済の収縮を終らせ、収益と収入が増加する、より強い経済を築くことをめざす」と安倍総理は語った。「それのために、政府は最初に、需要を創出し、経済全体を活性化するために主導しなければならない」。

This is especially remarkable because Japan has been held up so often as a cautionary tale: look at how big their debt is! Disaster looms! Indeed, back in 2009 there were many stories to the effect that the long-awaited Japanese debt catastrophe was finally coming.

これは特に注目すべきことだ。というのも、日本はしばしば反面教師だったからだ。「日本の巨大な財政赤字を見ろよ。災難迫り来る」というものだった。実際、2009年を振り返れば、巨額の財政赤字の影響で、日本の財政破綻が遂に現実になるといったお話が多数語られた。

But, actually, not. Japanese long-term interest rates rose in the spring of 2009 because of hopes of recovery, not fear of bond vigilantes; and when those hopes faded, rates went back down, and are currently well under 1 percent.

ところが現実はというと、別。日本の長期金利は2009年の春に上昇したが、再生の期待からであって、債券動向に目を光らせているやつらの怯えからではなかった。同時に期待が潰えると金利は下がった。現在も余裕で1パーセント以下だ。

Now comes Shinzo Abe. As Noah Smith informs us, he is not anybody’s idea of an economic hero; he’s a nationalist, a denier of World War II atrocities, a man with little obvious interest in economic policy. If he’s defying the orthodoxy, it probably reflects his general contempt for learned opinion rather than a considered embrace of heterodox theory.

ここで安倍晋三、登場。ノア・スミスが伝えるように、彼は経済学の英雄のイメージとは違う。彼は、国家主義者であり、世界大戦時の虐殺の否定者でもある。経済政策にはほとんど関心がない人物ですらあるのだ。彼が金融政策の旧守性を否定するとしたら、たぶん、通説ならなんでも軽蔑するという性向を反映したからであって、異端とされてきた金融政策理論を考慮してのことではないだろう。

But that may not matter. Abe may be ignoring the conventional wisdom on spending, and bullying the Bank of Japan, for all the wrong reasons — but the fact is that he is actually providing fiscal and monetary stimulus at a time when every other advanced-country government is too much in the thrall of the Very Serious People to do something different. And so far the results have been entirely positive: no spike in interest rates, but a sharp fall in the yen, which is a very good thing for Japan.

とはいえ、そんなことはどうでもいい。まったくとち狂った思い込みから、安倍は、財政支出についての常識をはね除け、日銀を叩いているのかもしれない。しかしなんであれ、「ヤケに深刻ぶった人たち」のおかげで、他の先進諸国の政府がそろいもそろって旧守主義に隷属状態にあり、別の手法を試みることができないなか、安倍氏が現状、財政と金融の刺激策を採っているというのは、事実なのだ。しかもこれまでのところ、結果は全体的に好ましい。長期金利が跳ね上がることもなく、円は急落した。つまり、日本にとって大変に好ましいことなのだ。

It will be a bitter irony if a pretty bad guy, with all the wrong motives, ends up doing the right thing economically, while all the good guys fail because they’re too determined to be, well, good guys. But that’s what happened in the 1930s, too …

痛いところを突く話になりかねない。いい人なんだけどねという人が、いい人すぎて失敗し、逆に悪い思いをもった悪いやつが、結果的には、経済的に正しいことをすることになれば。しかしこうしたことは1930年年代にも起きたことなのだし。
 
 

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2013.01.13

Kindle Fire HD リターンズ

 その後のKindle Fire HDはどうかって? それが意外にも奇跡の復活だよ。Kindle Fire HD リターンズ!

cover
Kindle Fire HD
 どうやって短期間に10キロも痩せたかって? 違う。もともと太ってないよ。どうやってあのダメダメのくそくそのKindle Fire HDが復活したのか。キリストの奇跡ってか。そもそも、あれ、復活したからってどうなるものじゃない、のでは?
 まあ、そう矢継ぎ早に言われても困るな。番号を札を取ってそこの自動のお茶サービス機で玄米茶でも飲んで一息ついて……いや、そんなに待つことはない。
 まず、諸問題の根源がどこにあったかだ。
 単体で使う分にはいい。グッドならラジカセだ。
 でもそれだったら、Kindle Fire HDの意味ないよなあ、ということだった。なんなのこのナンセンス。値段以外、最初からNexus 7に負けているじゃないか、ということだった。
 クラウド側に問題があるのだろうと、いろいろチェックしてみた。
 その間、いろいろバグの元みたいものを見つけては、クラウドサービス側のデバッグに役立つようにアマゾンにも知らせたんだけどさ、あれなんだよ、アマゾンの対応のお姉さんたち、口調はやさしいのだけど、基本的に、「このおっさんクレーマーだろ。そんなトラブル聞いたことねーよ。なおせるわけねーじゃん」な雰囲気がふわふわ漂ってきて、そのぉ、つらいものですね。いや、もてたいわけじゃないって、いやいや、違うって、違う。
 ようするに実機デバッグで、クライアント側でできることはいろいろやってみた。いろいろわかったのだけど、結論、クラウド側に問題ないと言えないことはない。
 私のトラブルケースは、レアケース。オーディブルとか含めて米国サービスをそれなりに使ってから日本サービスに切り替える人ってそんなにいないしな。そもそも、Kindle Fire HDってご親切に送付の際に基本設定してあるけど、これね、レアケースな人には、しないほうがよかった。
 で、なにが結論?
 つまり、最初の送付時の設定ミス。これに加えて、設定情報の解除がクラウドを含めてややこしいこと。なので、完全にKindle Fire HDを工場出荷時に戻して、クラウドの設定もゼロから、えっちらおっちら、やりなおすとなんとかなった。
 これまでも、Kindle 3とKindle Paperwhiteを使っていたから、初期化イコール再登録だと思っていたのだけど、それだと完全に登録情報が消えない。この残便感はあるけど肛門内視鏡を使わないとわからないようなところに、ちょこちょっこと最初の登録情報が残るらしい。これがクラウド側でひっかっていたようだ。
 もうちょっというと、本のクラウドサービス、アプリのクラウドサービス、音楽のクラウドサービス、ドキュメントのクラウドサービスの認証やデータベースの構造が同型ではなく、認証がそれぞれ別になっているみたいで、たぶん、よってたかって作った状態だったのだろう。
 とにもかくにも、ゼロからパズルのような手順で、やりなおしたらなんとかなりましたよ。人生みたいなものです。ホリエモンさんががんばってくださいね。彼はゼロからではなさそうだけど。
 復活したKindle Fire HDだけど、快適です。
 最高のラジカセです。ラジカセかよ。
 うん、ラジカセ。Kindle Fire HD、音いいし。
 でも、ラジオ機能は? ラジコもらじるも入らないというか、アマゾンのアプリストアーで売ってないという惨状なわけでしょ?奥さん。奥さんどうでもいいですから。
 調べるとどうやら別マーケットで落とせるらしい。落としてみた、動く。
 しかしなあ、別マーケットは怖いよなあ、ウイルスとか入れた危ない再パッケージとかあるだろうし。
 そういえば、僕はアンドロ機あと数台持っていたのでした。数台っていうのが泣けるけど。ほいで、そっちで普通に再パッケージしてKindle Fire HDに持ってきたら、けっこうのアプリが動きますね。動かないのもあるけど。ラジコとらじるは動いた。これでラジオ完璧じゃん。
cover
120 Bill Evans' Essentials
Remastered Version
 ついでに、アマゾンで200円くらいでクラシック100曲みたいなものをごさごそと買って、クラウド側から流すと、昔使っていた、有線のクラッシックチャネルみたいで便利です。ノンストップでコマーシャルなしでヴィバルディとかヴェルディとか聞けるわけですよ。ビル・エヴァンス120曲で600円ですよ(参照)。ぼっちカフェ~♪。
 これだけでも、けっこう満足。
 クラウドのラジカセである。普通のラジカセから進歩した感じだ。
 あと悩んでいるのは、Foreignerの昔のアルバムが5枚組で1800円で売っているのだけど、これどうなんだろ(参照)。Foreigner好きなんですかとか聞かれた、恥ずかしいじゃないですか。

 知らなかったのだけど、Kindle Fire HDって、今日の無料アプリというサービスもある。へえ。
 無料ならとりあえず貰って、つまんなかったらクラウドに入れとけとか思って、とりあえず貰っていると、ゲームが多い。それもつまらないゲームが多い。上から落ちてくるウサギをキャッチするとか、猫から逃げてウサギでロケット発射とか、意味不明。
 それでもいちどはやってみるうちに、ゲームづいてしまって、そうだ、あれどうなったかな、アングリーバードの第二弾というやつ。
 調べると、バッド・ピギーズとかいうのらしい。250円。まあ、いいか。
 やってみた。
 今度は、豚が変な乗り物作って宝の地図を探しに行くという設定なのだけど、この乗り物の作成と操縦が鍵。乗り物といっても扇風機やふいご、傘、ペットボトルとか、いちいちがらくたで笑える。そして、やたらと壊れる。壊れても目的が達成できればいいというゲーム。
 やっていくと、この乗り物と操縦が、ばかばかしくて、おかしくて、笑って、おなかがよじれる。なんで、俺、こんなバカなことしているんだ、ほんとおかしい。こういうゲームってこれまでなかったんじゃないか。

 というわけで、Kindle Fire HD なかなかいいですよ。マイクロMDMI接続で大画面でも見れましたよ(参照)。
 これなら、負けないですよ。
 ふふふ(参照)。
 かつやで待っているからな。
 
 

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2013.01.12

「南方週末」新年特集号・年頭社説書き換え事件

 広東省が拠点の週刊紙「南方週末」新年特集号・年頭社説が、当局の指示で中国共産党賛美の内容にすり替えられた事件について、ざっと日本の大手新聞社説などを見回してみると、ややピンぼけの印象があった。補足がてら、その理由を少し書いておこう。
 まず、中国には政府の意向から独立したジャーナリズムは存在しないので、今回の事態も、特段に不思議なことではない。今回の抗議運動では、年間1000記事以上の書き換えがあるとも言われた。中国の報道ではこの手のことは日常茶飯事である。
 むしろ、なぜ今回に限ってこれが問題となったのかということが、事件だと言える。
 ゆえに、そこを議論しないと、この事件についてはまったくわかったことにはらない。なのにそのあたりの解説が日本国内の報道ではほとんど見られなかったように思えたし、大手紙の社説はピンぼけしていた。
 別の言い方をすれば、例えば、10日朝日新聞社説「中国の検閲―言論の自由とめられぬ」(参照)のように、上から目線で「自由を求める声は弾圧で消せるものではないことを、知るべきである」とかいうお説教などは、そもそもどうでもいい話である。
 ただし、この超上から目線の朝日新聞社説は、別の意味で非常に興味深い。同紙社説の過去の関連経緯を見ると、あらかた北京政府の胡耀邦系の人脈とのアコードをとる傾向がある。ということは今回の事態についても、共青団系の勢力が「弾圧を是としていない」というメッセージを漏らしていることになる。この系統の意向が朝日新聞にだだ漏れする点で、同紙はなかなか貴重な情報源でもある。
 ちょっと飛躍するが、共青団を構図に入れるなら、今回の事件、つまり、「なぜ今回に限って騒がれたか」というのは、太子党・上海閥の系統への政治的な対立を背景にした政治事件、というのが大きな構図になる。
 しかし、そうした権力構図だけが今回の要因ではないというのも、この事件の本質に関係している。これはあとで触れる。
 その前に他紙社説も軽く見ておこう。
 10日付け産経新聞社説「中国の報道統制 「異様な社会」を直視せよ」(参照)は、「共産党一党独裁下では当然の帰結だが、こうした異様なやり方がまかり通っていることを日本は直視しなければならない」というように、中国脅威論というつまらない文脈に帰着している。読む価値はない。
 12日付け日経新聞社説「醜悪な中国のメディア統制」(参照)も基本朝日新聞社説に近いが、上から目線お説教というより、事実に目を向けている。たとえば。


 ただ、楽観はできない。デモ参加者の一部を当局は拘束し、暴行を加えたとさえ伝えられる。共産党政権に近い新聞は言論統制を正当化する社説を掲載し、宣伝部門はこの社説の転載を他の新聞に指示して新たな反発を招いている。醜悪というよりほかはない。
 別の事件も起きている。開明的な知識人が結集して発行している雑誌「炎黄春秋」のサイトが、閉鎖を余儀なくされたのだ。
 就任して間もなく、習総書記は「共産党は憲法と法律の範囲内で活動すべきだ」と呼び掛けた。そして中国の憲法は言論の自由を明記している。習総書記と共産党政権の言行一致が問われている。

 この「習総書記と共産党政権の言行一致が問われている」というのは、ちょっと中国に関心ある人なら、尖閣諸島問題で胡錦濤政権が中国共産党としての言行一致が問われていたのと同じ構図であることがわかる。現実問題は弥縫策であっても現実的に対処したほうがよいのに、声高に大義を語りかけて政治問題にするというのは、毎度の中国劇である。
 さて、今回の事件だが、中国を見ている人なら気がつきそうなものだが、週刊紙「南方週末」新年特集号・年頭社説が問題というわけではなかった。エレガントな指桑罵槐とはいえないまでも、罵槐で騒がれたなかに、別の指桑があった。何か。
 国内報道を見渡すと、8日付けNewsポストでジャーナリスト・富坂聰氏が、今回の週刊紙「南方週末」と一見関わりなく書いていた話題(参照)が重要である。これが指桑に関わっていると見てよいのはエコノミストなどの指摘からもわかる(参照)。
 富坂聰氏によると。

 政権交代を終えたばかりの中国の年の暮、共産党の足元を揺るがすような話題がネットを舞台に湧き上がった。
 発信源は、中国の大学教授や弁護士など約70人からなる知識人のグループであった。
 彼らがインターネットを通じて発表した要望書は、〈改革共識倡議書〉と題されていた。共産党政権に求めたのはズバリ「政治改革」だった。
 政治改革の中でも彼らがとくに指摘しているのは、「党と政府の分離」や「自由な選挙」、そして「報道の自由」など西側社会では至極当たり前なものだが、そもそも共産党政権にとっては絶対に認められないものばかりである。
 ネットを通じて突きつけられたこの要望に対し、党は現在のところ静観していて何のリアクションも示していない。

 改革共識倡議書を当局側(おそらく太子党・上海閥)が静観したのは、富坂聰氏も言及しているが、これは起草者・劉暁波をいまだ獄に繋ぐことになる「〇八憲章」のような革新性がないからだった。革新性がないから、問題になるというのはどうことか。

 起草者の一人である北京大学の教授はメディアの取材に対し、「要望書の中身は、1982年に改正された中国の現行憲法にある内容に沿ったもので現実的な提案だ」と語っている。
 このニュースの興味深いところは、中国が憲法などで歌っている民主的な部分を「実行してほしい」と要求している点だ。中国は憲法の上では非常に民主的であるはずなのだから、実際にもそのようにすべきだと、建前だけのきれいごとは許さないと婉曲的な批判をしているのだ。
 彼らが指摘した一つひとつはすべて共産党には頭の痛い問題だが、いずれも自ら憲法にうたっていることだとなれば、こうした要求を突き付けた者を裁くわけにはいかないというわけだ。

 共産党の建前上、改革共識倡議書に対して動くことはできない。そこで静観(事実上の黙殺)決め込んでいたのだが、これを静観させまいとする派が、週刊紙「南方週末」新年特集号・年頭社説の書き換え事件を使って、これに着火して、問題化させたのである。
 今後の動向はどうなるか。
 はっきりした動向は見えないが、誰が言っても正義の主張、例えば日本だと「教育現場での暴力は許せない」といった自明すぎる正義の主張で、しかも、バッシング対象が明確になっている主張というのは、ネットを動員しやすい。
 おそらく、中国でも、ネットを通して週刊紙「南方週末」新年特集号・年頭社説の書き換え事件の小型版がぼそぼそと展開され、これが共青団の政治勢力として利用されていくことだろう。
 それでもよいではないかという見解もあるが、中国という国の統制がそれで取れるかどうかが問題であり、各政治権力の死活問題も関わっているので、思わぬところで、大粛清的な事件が起きてもおかしくない。
 
 

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2013.01.11

カレントTV売約とか

「あれ、どうなの? ゴアの?」
「17世紀に起きたとされたインドの戦争って話?」
「それじゃなくて」
「マグマ大使?」
「ベタな漫才やりたいわけじゃなくてさ、アル・ゴアがカレントTVを売ったって話なんだけど」
「何か問題でも?」
「あれどうなのかなと思って。日本の報道とか見ててもよくわかんないし、以前ゴアのことで騒いだ人も、この件で特に目立って何も言わないみたいなんだけど」
「アルジャジーラにメディアを売ったのが何か問題とでも?」
「あれ、2005年にリベラル層をターゲットに開局したテレビ局でしょ。なんかさ、偉そうなこと言って、結局、カネ儲けだったのかな」
「カネ儲けが悪いとでも? いいじゃん。これでゴアはロムニーよりも大金持ちになるれるだぜ」
「そんなに!」
「だいたいリベラルっていうのは、どこの国でもその手のカネ儲けの上手な人たちだよ。日本だって……ああ、まあ、そのぉ……下手に批判とかすると変な嫌がらせされから言わないけど」
「すごいカネだけど、カネ儲け自体が悪いとは思わないんだよ……ルールに則っているなら」
「じゃ、あれかな、カタールが産油国で、つまり化石燃料で儲けたカネが使われるのが心に引っかかるとでも?」
「そのうわまえのおカネでリベラル・メディアを買ったというのが、どうなんだろう」
「ゴアの『不都合な真実』とか言いたいわけね」
「ちょっと納得できないんだよね」
「二酸化炭素排出をやめろとか言って、国民当たりでみると二酸化炭素をばこばこ出しているカタールにそのメディアを売るというのは矛盾しているとか言いたいわけね」
「矛盾していると思うんだよ」
「気にすることないよ。この手の問題、矛盾とか気にしていたらきりがないよ」
「投げやりだなあ」
「買ったアルジャジーラはカタール首長の支配下にあるんだけど、首長は最近、ガザ地区のハマスに4億ドル、ぽーんと出しているんだよ。アルカイダ主体のシリア反対派にもカネを投じている。ハマスにもゴアにもアルカイダにも、カネを惜しまない。これが中立かつリベラルっていうことでいいじゃないか」
「ひどいこと言うなあ」
「現実だけど」
「なんか批判しているみたいに聞こえるけど」
「全然。これでアラブ圏の人にも『不都合な真実』とか広まるきっかけになっていいことだよ」
「本当にそう思っている」
「もちろん。しいて言えば、アルジャジーラが報道機関としてもう少し独立性があってもいいと思うけど」
「そこも気になるんだよね。アルジャジーラって、君がいうように、カタール首長の支配下にある権力側のメディアでしょ。中国なんかのメディアと変わらないと思うんだよね」
「それを言うなら日本だってそれほど変わらないよ」
「それもそうか」
「そうだよ」
「なんか、でも、嫌な感じだなあ」
「慣れるよ」
 
 

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2013.01.09

[書評]困ってるひと(大野更紗)

 「困ってるひと(大野更紗)」(参照)は感動もしたし、考えさせられもした。ただ、自分が受け止めたコアの部分をちょっとどう書いていいかわからないうちに、けっこう月日が経って、そのうち文庫本も出てくるようになった。多数の人に読み継がれるのは、とにかくいいことだろうと思う。

cover
困ってるひと (ポプラ文庫)
 実際、よく読まれているらしい。大半は肯定して受け止められいる。が、たまたまたアマゾンを見たら、きびしい評もあった。何にでもなんくせつける人はいるものだということではなく(したかないよね)、意外とこの本の受け止め方が難しいという部分があるからだろう。ちょっとくぐもった書き方になってしまうのだけど、そのあたり、まだちょっと自分からは言いづらいなというのもある。
 内容についてはあらためて紹介するまでもないかもしれないが、意外と読まれていないかたもいるかもしれないので、簡単に触れておくと、1984年、福島県生まれの大野更紗さんは、上智大学フランス語学科に進学したもののミャンマー難民との出会いから、その民主化運動や人権問題に関心もち、大学卒業後、ミャンマー社会の研究者を志したものの、2008年大学院に進学した夏、「皮膚筋炎」「筋膜炎脂肪織炎症候群」という難病を発病した。難病というものがどういうものか、事例としてもとても興味深いものだ。
 その筆舌に尽くしがたい闘病の過程が、独自のユーモアで描かれている。病気のすさまじい惨状とそれに結果的にバランスするユーモアに加え、大野さんの自立して生きたいという思想と、実は医療関係者が読むとよくわかる日本の医療の難問が透けて見えるような正確な描写も、この本をかけがえのないものにしている。
 個人的には、絶望の意味というのを考えさせられた。

ある日の朝、わたしが顔用のシェービングカミソリを手に、ぼーっと洗面台の前に立ち尽くしていたとき、クマ先生が、ヌッと突然顔を出して、言った。
「この619号室のシャワー室に鍵をかけて、シャワーを流しっぱなしにして、カミソリで手首を切ろうと思っているんでしょ」
「だいたい、考えてことは、わかりますよ」
 当時のわたしは、食べたい、寝たい、そういう日常的「欲求」と同じレベルで、「死にたい」と感じた。朝・昼・晩と毎日わたしの様子を気にかけ、ほぼ休みなし、全力投球で治療に励んでくれている主治医に、「死にたい」とは言いにくい。かなり申し訳ない。だが、思い切って正直な気持ちをそのまま、クマ先生に伝えてみた。「はい」と。先生は嫌な顔ひとつせず、微動だにしなかった。
「それは、苦痛から逃れたいという、ごく当たり前の人間の反応、ですよ」
 クマ先生は、難病ビギナーの「死にたい」妄想など、最初からお見通しである。

 この『難病ビギナーの「死にたい」妄想』という表現が、すごいなと思った。
 つらくて死にたいというのは、こう言うのはなんだけど、よくあるし、普通、誰しもつらい状況からそう考えてしまう傾向があるものだ。
 でも、この「難病ビギナー」というのはそういう「つらさ」の一般的な延長とはちょっと違うと思う。そのあたり、相当に難しい部分があって、この本はその意味合いをけっこうとことこん書いている。ここまで書いてしまえるというのは、とんでもない才能だなと思えるし、実際、この視点と生き方は、まさに、思想というものだ。
 もうひとつ、「はじめに」にある言葉も、ずきんと来た。

 ひとりの人間が、たった一日を生きることが、これほど大変なことか!
 それでも、いま、「絶望は、しない」と決めたわたしがいる。こんな惨憺たる世の中でも、光が、希望があると、そのへんを通行するぐったりと疲れたきった顔のオジサンに飛びついて、ケータイをピコピコしながら横列歩行してくる女学生を抱きしめて、「だいじょうぶだから!」と叫びたい気持ちにあふれている。

 いかん、引用して泣けてきてしまった。

そんなはた迷惑な気持ちなどいらないという意見はとりあえず置いておく。何があったかって? もーいろいろ、すごいことがありました。人生は、アメイジングなんです。

 そのアメイジングなことに出会って、人すべてを抱きしめたい気持ちというのに圧倒されている。
 これ、ふつうに体験なのであって、頭からひねり出した思いではない。体験というのは、名状したい本人の実在でもある。
 それを「奇跡的な体験」というとうさんくさいし、なにも神秘的な体験があったというわけでもない。だけど、人間が生きるということの経験の総体のその底のほうに、こういう奇妙なものががつんといる。「十字架のヨハネ」的というか。まあ、自分なんかが言っても、軽薄になるばかりなんだけど。
 あと、大野更紗さん、自分が若いときに結婚したらこのくらいに生まれた子どもの年代なんだなという、ちょっと娘という点から考え込みもした。別の言い方をすると、1984年生まれというのは、1980年代ですらあまり明確な記憶はもっていないのだろう。1990年くらいから始まった日本の風景のなかで、こういうふうな人生に遭遇するというのは、どういうものなのだろうと、思いに沈んだ。ぶくぶく。
 
 

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2013.01.06

[書評]中の人などいない @NHK広報のツイートはなぜユルい?(NHK_PR1号)

 ツイッターについて自分なりに読んできた本のなかでは、「中の人などいない @NHK広報のツイートはなぜユルい?(NHK_PR1号)」(参照)が一番面白かったと思った。

cover
中の人などいない
@NHK広報のツイートは
なぜユルい?
 ツイッターというものの、その生態の本質的な一面がこれだけきっちり書かれた本はなかったようにも思う。結果的ではあるが、東北震災や福一事故を挟んだツイッター史としても重要な書籍になっている。そういう面では意外に軽い本ではない。いや、読書としては軽く読めるが。
 NHK_PR1号さんがただ者ではない理由もわかる。いきなり結論めいたことをいうと、ツイッターは「バカ発見機」とも言われる面の対極に、とても優れた人を見つける仕組みでもある。NHK_PR1号さんのツイートを読みながら、「ゆるい」「いじられキャラ」としての楽しみのなかで、多くの人が実は、新しい日本社会のなかで、どう言葉を使ってどう関わるべきかを学んでいる。これはすごいことなのだ。
 この本は時系列的に書かれているので、時系列的に理解しやすい。出版されたのは2012年10月25日。後書きにNHK_PRのツイッターアカウントを始めて丸三年になると懐古的に書かれているが、私もツイッターにすっぽり浸かっていた人間なので、ツイッターでは三年前はけっこう遠い過去だという感覚は共有できる。
 あのころはツイッターがどういうメディアなのか多数の人が模索していた。本書のNHK_PR1号さんも、このメディアが何であり、そしてどう使うのかということを、三年前の当初からかなり意識していたことがわかる。この本の前三分の一くらいに及ぶ、新しいメディアへの意識のありかたの考察も興味深い。おそらく、ソーシャルと呼ばれているものの、まだ微妙な本質に触れている。
 大げさな言い方になるが、ある意味で奇跡なのだろう。NHKみたいな組織がどうしてこんな先進的なソーシャルメディアの活用ができたのか。
 本書でも触れているが、キャラのひな形になったのは「生協の白石さん」である。そのあたりは、こういうと良くないが、広告屋さんあたりが企画書を書きそうな部分だ。が、その企画がどんなに上手に出来ても実現しないのは、このソーシャルなメディアは決定的に、人を要求することろである。
 発言する・発信する人、その人のすべてがきちんと反映されてしまうということだ。「生協の白石さん」的なスタンスを一つの標準として意識することはできても、演じることはできない。演じたら、嘘になるし、嘘ははっきり出てしまう。その人が素でダイレクトに出てくる。このことをNHK_PR1号さんが初期の活用時点で模索しつつ自覚していくところも本書を読み応えあるものとしている。
 その自覚が東北震災や福一事故を挟んで問われるシーンの記録は読みながら、なかなか手に汗握る。重く書かれているわけではないが、NHK_PR1号さんが明確に、これでNHKから処分されてもしかたないとけっこうすごい覚悟をしていることが伝わってくる。この覚悟の核にあるのは、NHK_PR1号さんのツイッターを読まれる人への信頼である。自分の発言を信頼し、NHKを信頼している、そして言葉も交わしたことのある、そういう人の信頼を原点に置いたとき、危機にどうあるべきか。それが意識できちゃう人というのは、これはすごいやとしみじみ思った。福一一号機の外壁がなくなったときのこと。

 どう見ても事故だ。これは放射性物質が放出されたというレベルじゃないよ。建物の外壁がなくなっているんだから。とんでもない事故が起きてしまったに違いない……。これ、ツイートしたほうがいいよね……。どこからもまだ正式な報道はありません。こうした状況で、確認のとれていない情報を発信することに、私はこれまで受けたことのないプレッシャーを感じていました。本当にツイートしてもいいのかな。
 でも、もし本当に事故が起きていたら私はきっと後悔する。津波で多くの人が亡くなっていくのを、悲鳴のようなツイートを、ただ見ていることしか出来なかったあの時のような思いはもういやだ。あんな後悔はしたくない。だったらツイートしなきゃ……。
 私が一瞬迷ったその時、一人の解説委員が放送で「重大な事故が起きた可能性がある」と言い切りました。この人も覚悟を決めたんだ。よし私も覚悟を決めよう。

 そして発言をし、そしてそれから四日後には、ゆるいツイート(発言)に戻る決意をする。その心の動きがいちいち人間的であり個性的であり、その人間性を求める関係性がソーシャルメディアにかつて見たことのない劇として演じられている。
 いや、読後しばらく思ったのだが、この感触はかならずしも初めてではないかもしれない。最近ではあまり聞かなくなったが、私はNHKのラジオ深夜便を長く聞いていた。そのなかで、今回のような危機の場面ではないものの、アナウンサーの一人一人は独自の個性の持ち味をうまく生かしていた。そうか、NHK_PR1号さんは、スタンスとしては、ラジオ深夜便のアナウンサーに似ているなと思った。広義には、70年代以降のDJ文化が社会の全域に及んだ結果でもあるだろうが、かつては若者の文化だったが今は、もっと広がりがある。
 一人の市民として言葉を発し、一人の市民が言葉に耳を傾ける。放送の原型がなんども言葉を介して問い返される。その流れで、NHKが公共放送であるということはどういうことなのか?
 この問題意識が、NHKの中の人々によって明確に自覚され、ときおりそれが個性の顔をもって現れる。「公共」というもののまだよくわかっていない、それでいて大切な何かを表現しようとしている。
 本書タイトル「中の人などいない」は本書にもあるように吉田戦車のマンガの台詞に由来し、そしてそれがおそらく年代も暗示しているが、メッセージとしては、NHKという公共放送が中の人として区別されず、中から外という公共に接する意識をしゃれているものだ。
 余談だが、NHKのこうした新しい公共への自然な、個性的な取り組みは、言葉として見えやすいNHK_PR1号さんの活動以外に、映像の作りや子ども番組などにも見られる。これらは普通に作品のクオリティの高さとして見えるものの、その裏側に作り手の個性の裏打ちも感じられる。
 
 

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2013.01.04

産業革命は、なぜ起こったのか?

 愚問なのかもしれないが、正月、疑問に思った。産業革命は、なぜ起こったのか?
 そんなのことは自明ではないか。そう思ったあと、あれれ?と思った。意外と盲点だった。簡単に説明できない。
 問題をもう少しスペシフィックしてもよい。産業革命がなぜ英国で起こったのか?
 私の世代の歴史学はバリバリのマルクス主義だったから、あれだ、原蓄のプロセスに産業革命を位置付ければそれでいいとしていた。懐かしい。「原蓄」なんて最近の左翼さんは知っているだろうか。資本論すら読んだことない左翼さんも増えたようだし。
 「資本の原始的蓄積」の原語は、"Ursprüngliche Akkumulation des Kapitals"である。英語だと"Primitive accumulation of capital"である。"Ursprüngliche"は「オリジナル」「原初」「本来」といった含みがあるのだろうが、"Primitive"には、「アトミック」「構成要素的な」といった印象がある。いずれにせよ、マルクスは"des Kapitals"の自然性をモデル歴史的に遡及したのだろう。この考え方はギリシャ哲学から思索を始めたマルクスらしさもある。もっともこうした思考法はマルクスに限らないが。
 結論からいえば、原蓄論と産業革命起源説明には直接的な繋がりはない。資本主義の生産様式という様式の、高度な一形態が、技術の量的な拡大で質的な変化をもたらしたというくらいなものだろうか。私のマルクス主義歴史観というか、エンゲルス主義歴史観の理解が違うのかもしれないが。
 「原蓄」が出て来た手前、少し整理しておくと、ネットなどだと資本主義というのはけっこうずさんに言及されるが、資本主義というのは生産様式であり、その様式の特異性が問われるものである。
 その際のもっとも基本的な構成要素は、生産手段を奪われた労働者(都市労働者)と、生産手段と資本をもった資本家という二項である。
 そこで、この二項がどのように史的に発生したのかと問うのだが、この問いは普通に考えればわかるようにモデル理解であって史実ではない。が、マルクス主義の学者は中二病をこじらせる系の人が多いからか、実歴史とモデルの違いがよくわからない人が多い。あるいは、混同自体もアダム・スミスを含め、ある系の学の様式と言えないこともないかもしれないが。
 そこでこの史観では、説明の原点に、囲い込み(エンクロージャー:enclosure)が出てくる。
 エンクロージャーというのは局所変数をもった関数をカプセル化することではなくて、「農地囲い込みする運動」のこと。つまり、自営農民(Yeoman)が生産手段である農地を追い出されて都市に流れ出て、生産手段を持たない労働者に転落するが、他方、農地を獲得した強奪者から資本家が生じるという、お話である。とりあえず二項の説明にはなる。
 エンクロージャーという事象が英国史に存在しなかったということはない。第一次(16~17世紀)と第二次(18~19世紀)と二段階で見ることができる。そこで、原蓄は長期に渡ったとして、その帰結が産業革命である、みたいなお話になりがちだ、ということだ。
 補足すると、この土地の収奪とも言えるようなプロセスはひどいじゃないかとパッショネットに情念化するのがアジア的マルクス主義の一典型で、欧風のマルクス主義だとこのプロセスは、領主の財である農民や共同体構成要素の村民といった絆(束縛)から都市民への解放という側面がある。スターリンはこれを強制的にやってしまってもの凄い数の人を殺害した。毛沢東は逆に農民と労働者の違いがわからず、労働者のような農民を形成しようとしてさらにものすごい人を餓死させた。マルクス主義は正しく理解しないと、副作用が大きい。
 エンクロージャーは、封建制の基礎たる封土を通じた経済関係の解体とも言えるわけで、マルクス主義史観だと、このバイプロダクトとして市場が形成されとも考える。労働者はというと、資本主義生産様式の特徴である資本の自己運動から、剰余価値搾取後の労働の対価として貨幣を受ける。それが都市の市場に使われるという意味合いもあるのだろう。
 もっともらしいが、おとぎ話です。
 資本が資本としてどのような形態で蓄積されるかと考えても、よくわからない。普通に考えれば、貨幣だが。はて? 実際に金貨を袋に貯めるというものだろうか。なんであれ実際のトランザクションでは、売掛買掛で信用を基軸とするだろう。すると金融は存在していたわけだが、そのあたりは資本論で、さっぱりとわからん。その点ついては私が判らないのだけかもしれないが、W-G-WとかG-W-Gというなら、貨幣(G)が重要だが、資本論では、その由来は、金が貨幣化するとか、交換価値の一般的な象徴となるといった愉快な議論で覆われている。話がずれていて、ファンタジーの体系にも見える。
 史実的に見ると、エンクロージャーで農民が都市労働者となったとでもいうような人口流動は見つかっていないようだ。もちろん、結果的に産業革命を支える労働者は、農地から離れた労働者ではあるだろうが、「エンクロージャーで追い出された」説で済む話ではない。このたありは、以前ちょっと気になって調べたが、私の現時点の結論は「よくわからん」。むしろ産業革命や都市が潤沢になって人が集まってきたという、逆のプロセスなのかもしれない。
 ヘンテコな話になってしまったが、ようは、産業革命がなぜ起こったかについて、エンクロージャーから労働者が発生してとかいうのは、おとぎ話ということ。
 そもそも、産業革命がマルクス主義史観で言われるような生産様式の普遍的な変化形態でありえないのは、英国(オランダもあるが)でしか発生しなかったことから明白と言っていいだろう。つまり、産業革命が英国で発生したこと自体、特殊な出来事だったわけで、マルクス主義史観のような一般・普遍説明はそもそも枠組みから、ずっこけている。
 じゃあ、産業革命って何なの?
 前提として、「産業革命」という術語だが、原語"Industrial Revolution"の訳語としてはベタであり、この術語自体が歴史的な背景はあるので、失当しているとは言えない。が、歴史学用語としてはボケ臭い。
 普通に考えても、あるいはこれは普通にマルクス主義で考えてもわかることだが、対象は「工業」である。「工場制手工業(マニュファクチュア:manufacture)」が機械を使った「工業」に変わる「工業化(Industrialisation)」のことである。その意味で、「産業革命」というより「工業化革命」と呼ぶほうが史実に近い。そこで、機械と技術が焦点になる。
 英国の、この工業化革命が近代国家を介して、他国に伝搬して、世界的に工業化革命が進んだという点では、これは工業化のグローバリゼーションなのである。
 でだ、すまん、これ、前振り。
 当初の疑問は、これまたタスカのピーター・タスカ『JAPAN2020 不機嫌な時代』(参照)に援用されているマンサー・オルソンの議論である。またしても、"redistributional coalition"(再配分連盟)の話が基点になる。
 簡単にいうと、産業革命と再配分連盟の関係である。
 話がそうでもなくても、まどろっこしくなってきたので、基本要素を挙げておくと、再配分連盟としてのギルドの解体が、産業革命に関連したという問題提起である。


中世期のヨーロッパでは、すべての都市が独自の経済を持ち、ギルドたちは関税、値段、技術の普及をコントロールすることで、みずからは高い収益をあげていた。しかし、王侯たちが行政を統合するようになり、それが全国規模で統合されたときから、ギルドのシステムは崩壊した。その結果、経営資源は効果的に互いの産業と結びつくようになった。
 このプロセスがいちばん早くはじまった国であるイギリスとオランダで産業革命が起きた。しかし、ギルドたちがコントロールして繁栄を誇った大都会では、経済がまったく回復することなく、現在にいたっている例がいくつかある。たとえばエクセタとヨークは、いまではイギリスの穏やかな地方都市にすぎない。


 中世期のヨーロッパで、当時の再配分連盟でもあったギルドが崩壊したきっかけは、イギリスやフランスといった国の統合があったからだ。ある都市だけの経済の繁栄、ある都市と都市で異なる経済構造が一国の経済に吸収され、変化を起こす。それまで一都市だけの「管轄区域」で通じた規制、習慣はすべて捨てられてしまった。中世期のヨーロッパで、長く守られてきたギルドという再配分連盟は、こうした新しい変化に直面して、崩壊したのである。

 興味深いのだが、いくつか注意しなければいけないのは、ギルドが崩壊したことが産業革命を引き起こしたということではない。
 シンプルに読めば、都市の上部に国家が出現することでギルドが崩壊し、それが産業革命をもたらす背景を整備した、という理解はできる。原因とまでは言えない。
 ギルドという再配分連盟の崩壊は、産業革命の条件ではあっただろうし、その崩壊というのは、ギルドという対象を潰すのではなく、「管轄区域」で通じた規制や習慣の変更である。
 このことを、オルセンは「ジュリスディクションの変化」と呼んでいる。

ジュリスディクションとは、直訳すれば「管轄区域」である。それぞれの「管轄区域」には、その区域の中だけで通用する固有の規制や法律がある。

 タスカは、オルソンの「ジュリスディクションの変化」から「ジュリスディクションの拡大」を、2020年に至る日本の未来の大きな要因としている。
 ここで提出されている、ジュリスディクションなのだが、「管轄区域」というのはよい。間違ってはいない。が、どうも気になったのは、原語"jurisdiction"である。
 これはオルソンの造語ではなく、普通の言葉で、一般的には「裁判管轄」「司法権」「裁判権」と訳される。"jurisdiction over foreigners"であれば、「外国人に対する裁判権」ということで、明白な放火犯であってもジュリスディクション(裁判管轄)が異なれば、「外国人に対する裁判権」は直接的に行使できない。こうした事例の含みから、"jurisdiction"は、「司法」や「正義」といった範疇で考えがちだが、オルソンの指摘はむしろ、商慣例に近い印象を与える。
 実はここではっとしたのだが、"jurisdiction"自体が、むしろ、商慣例のような意味を核としているのではないかということだった。言うまでもなく、民事というは、正義を定めるというより、規則違反に対する罰金の取引と言ってよく、それ自体が商慣例に近い。
 もう一つ連想したのは、七世紀のイスラムの台頭というとき、西欧の視点に立ちがちな現代だと、イスラムの新興勢力と武力を直結してしまいがちだが、イスラムの台頭は、イスラム法による商慣例ベースの「ジュリスディクションの拡大」であり、その結果の繁栄が軍事力なども強くしたということではないか。
 「ジュリスディクション」を「裁判管轄」とすると、法なり司法と考えがちだし、もちろんそれで正しいのだが、史的にはむしろ王侯の権利であり、さらに言えば、それによって王侯が定義されるような権利でもある。
 そして「ジュリスディクションの変化」というとき、実は、その変化によって、王侯の権利として現れたということなのだろう。別の言い方をすれば、「ジュリスディクション」は基本、「都市」の権利であり、都市という配分連盟(再配分とは言いづらい)の商慣例的な利権でもあった。
 自分が何に拘っているかというと、これは、「市民」「都市」という意味での"civitas"の原義が、国家や帝国によって保護される個人という構成の概念ではなく、むしろ、利権の保護による配分連盟の副次的な産物だったのかという点である。
 ちょっと思索がずさんになるが、「産業革命」というのは、「ジュリスディクションの変化」なり「ジュリスディクションの拡大」でもあるだろうが、"civitas"の変化でもあったということだろう。
 年末、よくわからない経緯だったが、ネットで天賦人権論が話題になっていたが、こうした議論、つまり、普遍的な人権概念が出て来たのは、元来都市ギルドに所属したジュリスディクションが国家・王侯に所属し、さらに国家を離脱していく過程にあったということかもしれない。別の言い方をすれば、市民革命それ自体が、「ジュリスディクションの変化」の副産物だったのかもしれない。
 
 

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2013.01.03

TPP・ISDS条項以前の話

 TPPの、なかでもISDS条項(投資家対国家の紛争解決)については、冷静な議論のアウトラインは概ね尽きているように思える(参照参照参照)。そのわりには現実ネットの世界では極度な地雷地域でもある。あえて地雷を踏む勇気を出してもナンセンスなので通り過ぎるのが無難だし、実際のところ民主党でも自民党でも政治力を持つ利権団体(再配分同盟)の力が支配的で現実的な対処は難しい。仕方が無かったとも言えるが、すでに期限的に「バスに乗り遅れ」ている状態にも等しい。こうした議論するだけ不毛かつ消耗の話題は、日本のWebの状況ではタフな面々に譲るほかはない。まあ、それはそれとしてだね。
 ピーター・タスカ『JAPAN2020 不機嫌な時代』(参照)を読みながら、TPP・ISDS条項以前の話が興味深かった。同書は1997年と古い書籍なので、現状すでに変革されているのかもしれないが、簡単に触れておきたい。

日本の法は国際市場に耐えうるのか
 「日本の法は国際市場に耐えうるのか?」という問いそのものがすでにナンセンスかもしれないが、ここでは形式的に立ててみたい。タスカの1997年の同書より。


 たとえば、中近東やアジアで日本企業がビジネスの契約を結ぶ際に、日本の法律に基づいて契約することは、まずありえない。ほとんどはアメリカかイギリスの法律が下敷きにされる。

 なぜか。

日本の法律システムに国際競争力がまったくない分、日本の法律事務所は世界でのビジネス・チャンスをどんどん失っている。第一、契約がこじれて万一裁判になったら、日本では二〇年、三〇年の長期裁判も覚悟しなければならない。そんな話は、世界では通用しない。

 いくつか疑問が浮かぶ。
 1997年のこの指摘は今も妥当なのか? そうだとすると、日本はこの15年間、日本国の法的な未熟によってビジネス・チャンスを失うプロセスであり、現況はその結果なのだろうか?
 印象としてはそのように思える。
 その文脈にTPP・ISDS条項の話があるようにも思える。米英法に依存するよりも、あるいは下敷きとするよりも、より公的なルールが求められるのは合理的なプロセスだからだ。
 なお、日本のこの分野の法整備の不備は、法律の分野が強固な再配分同盟となっているからというのがタスカの議論だった。妥当な見解だろう。

なぜ英米法なのか?
 日本企業による国際ビジネスが英米法に拠っていたのはなぜか。


 イギリスとアメリカの法律同士の競争となると、アメリカの法律が頻繁に使われる。ただし、アメリカの法律システムにも大きな問題がある。裁判になって負けた場合、どのくらいバカバカしい金額を支払うことになるかがわからないのだ。そのためイギリスの法律事務所の世界での台頭が目立つが、むろん、特に才能やノウハウがあったり、イギリス企業がバックにあるという理由からではない。イギリスの法律システムそのものが、ある程度わかりやすく、比較的フェアで、裁判に負けても支払う金額は高くないといった評判があるからだ。そういったシステムを維持、監督するするためにはかなりのスタッフが必要といえよう。

 1997年のタスカの議論は、英国法の有利を人的な厚みとしていると同時に、法の運用が再配分同盟に実質制御されている日本ではそれが無理であることも示唆している。
 TPP・ISDS条項は、先にアウトラインとして参照した議論などを読む限りでは、こうした法的プロセスを簡素化し統合する役割を持つはずで、むしろ全体の有利に働くはずである。
 さらにTPPの文脈を外してISDS条項だけ見ても、TPP以前にすでにこの間、日本はISDS条項を含めた投資協定を各国と結んでいるわけで、そのことからも実質的に法整備の弱い国の側にISDS条項が不利になることをしてきたわけでない。もしそうなら日本自体が矛盾した立場になる。
 しかしTPPでも濠州はISDS条項に反対しているが、その理由は自国に法システムがあるためと見てよいだろう。日本の場合は途上国というよりは、先進国なので濠州のように自国法システムに異存するというのが理想的には第一選択になるはずだが、そうなってはいない。なれもしないのが現実である。日本では先に言及したように、再配分同盟によって国際ビジネスにおける法システムが死んでいるからだろう。

TPP・ISDS条項なしでやっていけるか
 「TPP・ISDS条項なしでやっていけるか」というのも形式的な修辞疑問に過ぎないが、仮に設定してみるのは、タスカの同書にある「ソフトのデファクト・スタンダード」の問題が関連するかだ。
 同書では扱いが短く、かつ曖昧な議論ではあるが、アジアでは高度な日本製品の購入先にはならないとしていた。1997年の指摘であることを念頭に。


 それに、この先二〇年間、日本の基幹産業は電気情報産業になるといっても、ソフトのディファクト・スタンダードは、依然としてアメリカが決定権を持ち続ける。つまり、アメリカとの関係を無視して、アジアに焦点を移動させるのはとても無理な話なのだ。

 ここでもいくつか疑問がわく。
 まず前提として、日本の基幹産業が電気情報産業であるというのは20年を待たずしてすでに崩壊している。なぜ崩壊したのかというのは別の話題になるが、ごく簡単にいえば、経営の合理化を問うおちゃらけ論などを別にすれば、そもそも日本の産業構造で主要な位置を占めるはずのサービス産業強化との関連の失敗と、金融政策のミスせいだろう。
 日本において今後、電気情報産業自体が独自に成り立たないとするなら、ソフトのディファクト・スタンダードを論じる以前の状態のようだが、この点についてはむしろ、現代の産業のインフラを支える情報技術が事実上米国に支配されている現実のほうが重要だろう。もはや議論以前に事実認識の課題である。その意味で現代の産業そのものが米国との関係を無視して存立しえないし、これは広義にソフトのディファクト・スタンダードとも言えるだろう。
 となれば、弱い位置に置かれた立場はできるだけ公的なルールを求めるしかなく、その点で日本の産業はどう存続できるかという議論でなければならない。普通に考えれば、ここもまたTPP・ISDS条項の文脈に思える。
 リアリティの全体変化もある。1997年時点では日本が優位性を持っている高度な製品の販売市場はアジアには求められなかったが、成長セクターであるアジアこそが今後は日本の高度な製品の販売市場となるのかもしれない。
 いずれにせよ現実問題として見ると、TPP・ISDS条項については「TPPの議論すらしてはならない」という日本の戦争末期の「敗戦の議論をしてはならない」と似たような空気に覆われている現状では、どの政党による政府でも身動きが取れない。すでに手遅れ状態に近い。手遅れでないとしても、法システムの不整備でいかんとも動けない日本にしてみれば、さほど焦る意味もない。どうにでもなーれの、安逸な状態であるというのもなんだが、考えるだけ困惑する事態になっている。

 
 

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2013.01.02

「再配分連盟」と「合理的な無関心」

 古い話題だとばかり思っていたが、「再配分連盟」と「合理的な無関心」は意外と今後の日本の政治に重要な視点かもしれないと思い直したので、少し補足的に書いてみよう。話の元はピーター・タスカ『JAPAN2020 不機嫌な時代』(参照)である。

「再配分連盟」とはなにか
 「再配分連盟」は、ごく簡単に言えば、利権集団と言ってもよいだろう。ただし、ややこしくなるが、学術概念でもあるので、もう少し丁寧に見てみたい。
 「再配分連盟」は"redistributional coalition"の訳語だが、訳語としてこなれているとも思えない。定訳語なのかもしれないが、この概念を提出したマンサー・オルソン(Mancur Olson, Jr.)の、邦訳書『国家興亡論―「集合行為論」からみた盛衰の科学』(参照)のオリジナル"The Rise and Decline of Nations"をネット上のリソースで検索すると、"distributional coalitions"として含まれていた。この邦訳書では「配分連盟」とされているのかもしれない。後日確かめてみたい。また、邦訳書のなかでは主著的に見える『集合行為論―公共財と集団理論』(参照)のオリジナル"he Logic of Collective Action"もテーマ的には同一で、これにも含まれているかもしれない。これも同様、後日の課題に。
 "redistributional coalition"と"distributional coalition"の概念に差があるのか、ざっとネット上のリソースを見る限りでは、判然としない。基本的に同一と見てよさそうな印象がある。
 タスカの同書の孫引きになるが、彼は「再配分連盟」を次のように「利害団体」として捉えている。


一つの社会構造が長くつづくほど利害団体の数が増え、発言力も大きくなり、イノベーションを妨害して、経済のなかのフローを自分たちの懐に移転する

 以下引用中の「彼」はオルソンである。なお、ここでの労働組合は、直接的には日本的企業別組合を指しているわけではない。日本論ではないからである。

古典的な再配分同盟の例が労働組合だが、労働組合以上に大きな力を持っているのは業界団体である。補助金、関税、特別減税、あるいは新規参入を妨害するさまざまな規制によってメリットを受けている業界、団体はすべて再配分同盟の一種と彼は定義している。
 典型的な例は医療業界である。(中略)
 弁護士もまったく同じだ。(後略)

 再配分同盟が形成されるのは、長期間の安定した国家における、とも指摘されている。

重要な点は、再配分同盟をつくるのは簡単ではないということである。かなり長期間の繁栄と安定を必要とする。したがって、戦争、侵略、革命といった混乱を経験した国は、こうした連盟は少なく、発言力も弱い。

 ではどうしたらよいか。つまり、どうしたら「効率的でフェアなシステム」が構築できるか? 答えは無理。

こうしたグループは小さくなるほど、メンバー一人当たりのメリットが大きくなって、政治に対する圧力と意識も高くなっていくからだ。

 これに関連して、次の概念「合理的な無関心」が重要になる。

「合理的な無関心」とはなにか
 「合理的な無関心」とは、合理的に選挙民が政治問題に無関心になることだ。オルソンの概念なのかについては、不明。タスカの枠組みかもしれない。原語も不明。"Rational Indifference"という用語は一般的ではありそうだが。
 選挙民が政治問題に無関心であることが、合理的な状態だとも言える。なぜそのようなことが起こるのか。
 この問いは、「再配分同盟」が維持されてしまうのはなぜか、に関連する。「再配分同盟」のプレーヤーに対して。


 このように共通の利害を持っているプレーヤーたちは、自分たちの利益を守るために早い段階で強固な連盟を作ってしまうのだ。
 一方、大規模グループの代表者、一般消費者、預金者、サラリーマン、患者を代表するグループは、連盟、団体といったものを組織化しにくい。組織を作ったとしても、一人当たりが受けるメリットが小さいために、政治の場で自分たちの権利を声高に主張することがほとんどないからだ。

 「再配分同盟」が国家の富を偏在させても、大衆は合理的に無関心になる。

なぜなら、それぞれの問題の解決がもたらす一人当たりの得は、一人当たりの損をかなり下回るからだ。問題解決に労力を使って得が大きいならともかく、それがわずかでしかないならば、人々は死んだふりを決め込んでしまうのである。

 基本構図は以上の通りだが、原理的に見るなら、「再配分同盟」が国家の富を偏在させる傾向が、大衆の「合理的な無関心」を刺激する閾値のようなものは想定されるかもしれない。つまり、「再配分同盟」の利得があまりに公共の利益を毀損するか、不合理な利益を得ている場合である。
 こうした原理図からすると、その閾値がどこにあるのかが、問われているとも言える。

「車検制度」の事例
 「再配分連盟」と「合理的な無関心」の事例として、タスカは、「車検制度」を挙げている。


 たとえば、現在の日本の車検制度でメリットを受けているグループ、自動車業界および関連業界の一人当たりの得は、デメリットを受けているグループ、すなわち一般消費者の一人当たりの損をはるかに越えている。
 一般のユーザーにしてみれば、車検は二~三年(初回車検は三年)に一度なので、それほど重要な問題ではない。しかし、整備業者にとって、車検をなくすことは即座に死活問題となる。その結果、この問題を政治の場で一番議論するのは、車検でメリットを受ける修理工場業者という再配分同盟なのである。

 車検については他にも再配分同盟がありそうにも思えるが、基本構図はこれと同じだろう。
 タスカは別所でも指摘しているが、この再配分同盟が官僚の天下り先とシステム的に融合しているのが日本の大きなシステム上の問題でもある。

農業の事例
 日本の農業分野も再配分同盟とタスカは見ている。


 グループが小さくなるほど、一人当たりのメリットが大きくなるのは、農業分野を見ればよくわかる。日本では、農業は年々減少する一方だが、農協という農業団体は政治的にますます力を持つようになってきている。日本は農家が政治活動から受ける一人当たりのメリットは、本当の農業社会よりはるかに大きいにちがいない。

 農業についてはこの程度の言及しかないが、実態はさらに複雑だとも言える。農協は基本的に金融機関であることも自体を複雑にしている。それでも、農業、ここでは、補助金農業が、補助金農家を束ねる農協にとっては死活問題であることは確かで、これが大きな政治力を持っている限り、TPP推進などできるわけもないのだが、これはちょっと別枠で考えてみたい。

原発問題の例と今日的課題
 タスカの書籍を読み返して、原発についての言及が興味深かった。原発事故がない時代は普通に読み過ごしていた部分である。


 たとえば、原発が本当に安全であるかどうか。すべての国民がその問題を勉強したとしても、一人当たりが受けるメリットは低い。メリット、デメリットの比較でいえば、勉強するのは、原発がある、または原発建設予定地がある地域に住んでいる人々と業界だけだ。したがって、対立構造は業界対その地域の人々であり、その他の一般の国民にはあまり関心のない政治問題となる。

 原発事故が発生し、またそれを課題とする政党が乱立する総選挙が実施された時点で、この問題を再考すると、1997年時点のタスカの考察は誰もが不十分であると思うだろう。
 原発における「再配分連盟」が誰であるか、事故以前はそう明瞭ではなかった。
 明瞭に見えるのは、通称「原子力村」と呼ばれている「再配分連盟」である。これに対して、原発のデメリットが事故によって可視化されたかに見えた大衆・選挙民はどう行動したか。やはり、「合理的な無関心」だったのである。なぜか?
 おそらく、反原発、脱原発、卒原発を標榜する政治集団が、それ自体が「再配分連盟」に、大衆・選挙民から見えたせいではないか。
 つまり、「再配分連盟A」対「再配分連盟B」の対決の構図のなかで、大衆・選挙民のメリットがデメリットを上回ることなく、「合理的な無関心」に移行してしまった。
 この構図で言うなら、反原発、脱原発、卒原発を標榜する政治集団が、なぜ、大衆・選挙民のメリットに寄り添うことができなかったのか、という課題にもなる。

「再配分同盟」とマスコミ・Web運動の限界
 原発問題の例をさらに見ていこう。
 構図は、反原発、脱原発、卒原発を標榜する政治集団それ自体が「再配分連盟」に転換したかに見えたが、これが旧来からある「原子力村」という再配分同盟に敗退した、と見ることも可能だ。概ね、反原発、脱原発、卒原発の「再配分同盟」側は、そのように了解しているだろう。その憎悪ともいえる敵対感情からしても、これは一概に否定できない。
 実際のところ、「原子力村」は農業における農協のように、長く強固な政治勢力を維持しているため、新参の「再配分同盟」が排除されてしまうということはある。
 しかし、ここまで反原発、脱原発、卒原発を標榜する政治集団が総選挙で突出したのは、民主党政権登場の成功事例を踏襲したためではないか?
 つまり、マスコミやWeb運動を使って、対抗する「再配分同盟」を、罵倒し威嚇することで得た勝利の味に酔ってしまって、今回は、「合理的な無関心」によって押しつぶされたと見ることもできるだろう。
 この場合の再配分同盟の戦略は、(1)罵倒・愚弄・上から目線・啓蒙、(2)社会恐怖による恐喝、という2つが顕著だと思えた。
 逆にいえば、この2つが、マスコミやWeb活動で顕著化したとき、大衆・選挙民は「合理的な無関心」が発動してしまうというルーチンが形成されつつあるのではないか?
 同じことが、民主党政権かで醸成されたナショナリズムの興隆にも言えるだろう。国防の重要性、中国の恐怖といったものも、同じ類型に収束する。

問題は「合理的な無関心」の合理性
 全体構図のなかで、私が特に危機感を持つのは、「合理的な無関心」の合理性である。つまり、「合理的な無関心」が、今後の日本の国家運営にとって、合理的なのか、という課題である。
 従来の考え方すれば、大衆・選挙民の変化、つまりその「合理的な無関心」の発動は、(1)再配分同盟による政治の、あまりの不合理性の可視化、(2)明確なデメリットの提示、(3)それ自体の知性化を待つ、という契機になるだろう。
 しかしざっと見たところ、そのいずれも、今後の日本にさほどの有効性はなさそうだ。特に、Webを使った政治関与やIT技術を使った政治意識なども、さほどの意味はないだろう。
 このことが特に現下鮮明になるのは、金融政策という課題を考えてもよいように思える。
 金融緩和はもっともファンダメンタルに、国家を媒介した、原義的な再配分を強行する政策である。つまり再配分同盟にとって、もっと原理的な弱化を与えうる。が、弱化の影響力は広範囲なので、現存の再配分同盟の連結を推進させることも少ない。
 金融政策といった、高度に知的な課題において、Webを使った政治関与やIT技術を使った政治意識は、ほぼ無効だと思われる。
 では、有効なのはなにかというと、残念ながら、リバタリアン・パターナリズム(参照)しかないように思える。
 さらに、自分自身のリバタリアン的な思想と矛盾するのだが、リバタリアン・パターナリズムを推進できるのは、実質、知を担える官僚だろう。(日本の大学に知を期待してもしかたないだろう。)
 陰鬱な構図になってしまったが、現代において、特に現代日本では、政治そのものが技術化している以上、その専門性に、大衆・選挙民の「合理的な無関心」は対応できない。
 金融政策以外の例も挙げておくと、後期高齢者医療制度についても顕著だった。麻生政権時代、罵倒と威嚇を繰り出した新参の再配分同盟たちは、今、政治技術の前に沈黙せざるを得なくなっている。
 ただしそうは言っても当面は、(1)「再配分同盟」と「合理的な無関心」の対立、(2)既存「再配分同盟」と新参「再配分同盟」の、マスコミやWebを使った罵倒と威嚇の馬鹿騒ぎは継続されるのだろう。
 せめて、馬鹿騒ぎというなら、公共性を考慮しつつ「逆立ちカルボナーラ食いパフォーマンス in 渋谷」くらいに楽しいとよいのだが。
 
 

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2013.01.01

ようやく来るか、不機嫌な時代

 2013年、明けましておめでとうございます。
 こないだ2000年になったと思ったら、もう13年。早いもんです。雲取山登山の御一行は意外なご来光が拝めたでしょうか。
 私はというと、昨晩は紅白歌合戦を見ながら、ツイッターに浸ってました。一昨年あたりからの吉例なんですよ。うざいツイートでご迷惑をかけました。
 さてさて。
 

cover
不機嫌な時代
JAPAN2020
 昨晩はなんとなく寝つかれず、ぐだぐだした元旦となり、ぼけっーと書棚を見たら、ピーター・タスカ『JAPAN2020 不機嫌な時代』があり、ふと手に取り、なんとなく読んでいた。2020年まであと7年かあとも思ったので。
 奥付を見ると1997年1月20日に出版された本だから、この本も16年前になるか。16年前に出された25年後の日本の予測の本。そして予測の期限でいうと、残り三分の一を切ったくらいか。どのくらい当たっているか。
 それにしても、時代の速さにちょっとびっくりしないでもない。
 1997年と言えば、小泉政権以前。橋本内閣のころ。橋本内閣から小泉内閣の時代に再読していたら、日本もけっこう改革に向かっているという印象だったろうけど、このどんより沈んだ現代日本で再読するとどうなんだろうか。
 再読した。
 結論から言うと、当たっている面と、すでに外れている面とあった。ただ、いずれも微妙な感じがした。
 「うあ、これは、めっさハズレだな」と思ったのは、タスカさん、1997年の時点で日本のデフレは終わりに向かったと予想していた点。どっこい、あれから16年しても日本はデフレに沈んでいたのでした。
 ただし、このインフレ転換の予言は、むしろ今年あたりから当たらないとも言えない。とすると、今この本を読み直す価値はあるか、なのだが、この本の枠組みでは金融政策は議論されていないので、やはり別の枠組みだろう。
 も、ひとつハズレたなと思ったのは、米国が日本やアジアへの関与を減らすということだった。これもある意味で当たりと言えないでもない。民主党政権ができたころのオバマ政権は日本に対する関心をかなり失っていた。原発事故のときも、あれでも引いていた。
 状況が変わったのはやはり民主党政権の功績と言えるだろう、逆説的にだが。
 現在でもそうとも言えるが、それまで日本が陰から支えていた東アジア諸国の安全保障のタガが外れた。中国様がずかずかと南シナ海に出て来た。各国、悲鳴を上げ、しかも親中かと見られていたオーストラリアも「中国、やべー」感が出て来て、間接的に米国の関与が少し深まりつつある。
 以上、けっこう大きな二軸で外れたとも言えるので今更読み返すまでもないかというと、未来予測としてのシナリオと見ると、どでも微妙に外れた感もあるものの、日本社会の根幹的な問題、特にマンサー・オルソンを参照した"redistributional coalition"(再配分連盟)の問題は、しみじみ民主党政権を通して理解できたので、しんみりと読んだ。
 これは簡単に言えば、利益団体のことで、従来は自民党的な政治の問題であり、小泉改革の文脈で論じられていたものだったが、日本の場合、民主党のほうがこれが露出することになろうとは。特に最悪だったのが、郵政改革のぶちこわしだった。
 日本社会に巣くう再配分連盟をどうするかだが、これも結論的にいうなら、金融緩和が当面有効だろう。じんわりと再配分連盟の弱化をもたらすことになるだろうから。逆に言えば、その抵抗勢力がこれからいっそう強くなるだろう。
 その他、個別に興味深い指摘もあった。
 これも民主党政権で痛感したことでもあったが、社会はその支配層の世代の人格形成期に影響されるというあたりだ。支配層は一般的に50歳から65歳。そして人格形成期は15歳から25歳である。同書が書かれた1997年ではまだ支配層が1945年から1960年としてしたわけで、まだ、戦後のアニマル・スピリットが残っていた。
 が、それから約15年シフトして、今の日本の支配層は1960年から1975年ということになる。「うぁあ、ダメじゃんその青春世代」という最悪の人格形成期である。このどたばたが民主党政権だったかと思うと、日本もすごいことやってしまった。
 これに併せて「合理的な無関心」という概念も提出される。オルソンの概念だろうか。再配分連盟が必死になっても、大衆はそこに利害を実感しないので無関心になるというものだ。それだけ言うならどうということでもないが。が、今回の選挙でも大衆の、政治無関心が話題になったが、この考え方すると、むしろ合理的というべきものだろう。
 やや勇み足でいうと、反・脱・卒などの原発に対する政治運動は、結果的に「合理的な無関心」によって抑制されてしまった。おそらく、そのことにいきり立つ一群の再配分連盟が十分な利益を構成できなかったからだろう。もっとも、TPP問題では、逆に再配分連盟が勝利するだろうことは明白でもある。
 いずれにせよ、これからの日本の政治課題は、「再配分連盟」と「合理的な無関心」の関連で、後者の部分を前者側にシフトさせるという意味での「Webで政治を動かす」はあまり有効でないように思う。普通に、「再配分連盟」の亜種になるか飲み込まれるかくらいだろう。むしろ「合理的な無関心」の側の大衆の無意識の高度化を見守るほうがよいように思う。
 同書の指摘で多少笑ったのだが、日本最大の再配分連盟は中年男性というのがあった。1997年ではそうだっただろうなと思わせるが、2013年ではどうか。
 この問題はごく簡単にいうと、「家計を維持するには妻が働かないといけないという状況になれば労働市場で女性が中年男性と競い合う」ということだ。
 ざっとした印象ではそうした傾向はまだ日本には見られないし、どうもそれを抑制しているのは、女性の側にもありそうな印象もある。
 あるいは、未婚化というのは、親という「再配分連盟」へのパラサイト化ではないか。同書にも指摘があったし、言うまでもないことだが、高齢者の資産はとりあえずそのままその次の世代に渡されるので、今の若い世代というのは、自立した家計を担うのでなければ、他の時代の若い世代と比べると、けっこう潤沢。
 どうにもこうにも「家計を維持するには妻が働かないといけない」という状況があれば、変化するだろう。そうなれば、つまり、日本の最終兵器、女性がまた出てくるわけである。「また」というのは、日本の戦時下で実は女性の労働力がマックスになっていた。それが戦争を長引かせてしまったと言えないでもないようだが。
 
 

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