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2012.02.18

年取った新米パパ(Old New Dads)

 「女性の出産適齢期」が存在するかは議論のあるところだが、女性が高齢になると出産は困難になる。女性は年代が上がるにつれ出生率も下がる。それにどのような社会的現象が随伴するだろうか。基本に戻って、出産に至るまでの過程を考えると当然男性も関わるわけだが、その男性の実態はどうなのか。簡単に考えると、男性の場合は子供を持つのが困難になるまでの生物学的な年齢はかなり高いはずだ。先進国ではどのような傾向が見られるだろうか。

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Microtrends
 この話はどこかで読んだはずだと記憶を探り、「マイクロトレンド」(参照)を思い出した。本書は、現代社会の特徴的な社会現象について、「大きな潮流」つまり「メガトレンド」として見るより、少数に表現されるとする「小さな潮流」である「マイクロトレンド」の観点から書かれている。米国では2007年の出版時によく読まれた。
 現代という時代を考えると、社会は多層化されるため、たとえ少数であっても十分に社会的な意味を持ちうる。場合によってはその少数が強い社会的影響力を持つこともある。その少数の傾向のなかに変化の先行性が見られることもある。
 「マイクロトレンド」を再読してみようと書棚というか書籍山を崩したが発掘されず、英語版(参照)が出て来た。該当の話題は「年取った新米パパ(Old New Dads)」にある。
 マイクロトレンドでのこの話題だが、「年取った新米パパ(Old New Dads)」は「年取った新米ママ(Old New Moms)」に対応しているので、女性の高齢出産についての言及もある。「年取った」というのだから、どのあたりの年齢に焦点を当てているのか気になるところだが、本書では明確に40歳としていた。
 男性の場合はどのあたりの年齢だろうか。「マイクロトレンド」での話題では、いくつかの著名な「年取った新米パパ」が冒頭に例示されている。日本ではあまり有名ではないが米国では知らない人はないほど著名だったストーム・サーモンド上院議員(参照)、ロック歌手のミック・ジャガー、オペラ歌手のルチアーノ・パバロッティ、映画俳優・監督のチャーリー・チャップリン、メディア王ルパート・マードックである。ミック・ジャガーが新米パパとなったのは55歳。他は65歳を超える。マードックは70歳を超えていた。こうなると男性の場合は、成人以降死期に近いころまで子供を持つことが可能であるかような印象すらある。
 具体的に男性が父親となる年齢だが、米国の統計だと、1980年には50際以上で子供を持つ男性は23人に1人だったが、2002年には18人に1人となった。この間の年代別の増加率を見ると、40~44歳が32%増加と断トツに多く、45~49歳が21%増加、50~54歳が10%増加している。こうした傾向は米国以外に、イスラエル、オランダ、英国、ニュージーランドでも見られるとのことだ。

 なぜ、40歳過ぎの男性が新米パパとなるのか。ネットで有名な(あるいはネットでのみ有名な)社会学者や文学者を想像してみると即座に思いつく理由があるのだが、本書は3つの理由を挙げている。
 第一は、パートナーの高齢出産が増えたからである。単純に「年取った新米ママ」の随伴現象である。結婚して10年以上を経た、同年近い夫婦がともに40歳近くでようやく子供が持てるようになった、あるいは子供をもてるのはその時点だと考えたというものだろう。日本の場合はどうかという統計は知らないが、私の周りを見ても、男女ともに30代半ばで結婚し40代少し前に初子を持つケースはある。
 二点目は、離婚とある。米国の場合、成婚の半数は離婚に至る。そして離婚後の再婚は男性のほうが早い。かくして男性は再婚の夫となるのだが、本書では、8歳ほど若い妻を得た「改装パパ("Do-Over Dads")」と表現されている。このトレンドを反映して、40代半ばの男性の精管切除(パイプカット)復元も多いらしい。逆に言えば、30代前半くらいでパイプカットする男性が米人には多いのだろう。というか、私も米人からそういう話を聞いたことがある。こうした例からは、38歳くらいの男性が30歳ほどの女性と再婚するというのが基本的なモデルだろう。
 三つ目の理由は、生物学と成功の組み合わせ("a combination of biology and success")とある。ごく簡単にいうと、40代過ぎて社会的に成功した男性が若い女性を求める結果ということのようだ。
 年取った新米パパが出現する理由としては以上の三点だが、理由としてみれば常識の範囲内だが、とりわけ珍しい事例の説明というより、それが一定の人々の社会的傾向を描いているというほうが重要だろう。珍しいことではなくなったと言える。
 「マイクロトレンド」という書籍で面白いと思ったのは、著者マーク・ペン氏もまたこうした新米パパであるとさりげなく告白している点だ。彼は48歳のときにその時点の末子を持ち、本書執筆時には子供たちの年齢差は19歳から4歳となったらしい。家庭というものの幸福が長く続くようになったとも述べているが、そこも重要点であるだろう。私は今年55歳にもなるが、すでに子供が独立している同年代の女性がいる。彼女たちの場合は子供がいるという意味でのいわゆる家庭らしい家庭ではなくなりつつある。
 年取った新米パパについて、社会傾向として見るなら、著者はできるだけ価値観を廃して論じてはいるものの、私学に多いといったことからも、それ自体社会的な成功を反映しているだろうし、おそらく収入面での格差の反映でもあるのだろう。
 マイクロトレンドのこの項目の話題の最後では、こうした年取った新米パパのライフスタイルからくる政治的な要求が社会に浮かび上がってくるだろうとしている。いくら中年期に社会的に成功した男性とはいえ、子供が大学進学することには老人となり、費用などを十分に支援できなくなる可能性も高い。アイロニカルではあるが、格差的な傾向が生み出したライフスタイルが、より格差のない政治勢力となりうると見てよいのかもしれない。
 
 

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2012.02.17

卵子老化を巡る「もや」っとした思い

 バレンタインデーの日のNHKクローズアップ現代「産みたいのに産めない ~卵子老化の衝撃~」(参照)を見て、なんとも「もや」っとした印象をもった。その「もや」っとした感覚が何に由来するのかしばらく自問自答し模索した。思いがくっきりとまとまったわけではないが、少し書いてみたい。
 クローズアップ現代の話はタイトルから推測がつくように、卵子の老化と不妊を結びつけているものだった。卵子は精子と違い、生まれたときから一定数であり、年齢とともに減少しまた老化する。このため、一定の年代以降は受精しづらくなる。つまり、妊娠しづらくなる。ではその年代はいつか。線引きが難しい。番組でもそれについては微妙にぼかしていたようだった。ゲストの杉浦真弓・名古屋市立大学大学院教授はこう語っていた。


 20代の前半ですと6%の不妊症が、40代ですと、64%になります。ですから、やはり20代が一番妊娠しやすいというふうに考えられると思います。


 (卵子の老化が不妊の大きな要因になっていることを)社会が知らないんだと思います。
 まず日本では、生殖に関する教育を全くしてこなかった。高校の教科書にも、なかなかそういった不妊症ということばが出てこない、家族計画ということばは出てきますけれども。それから一般の人たちは通常、メディアを通じてそういった不妊の知識などを得ているんですけれど、芸能人の方々、例えば45歳で出産するというニュースが流れると、自分も45歳で出産できるというふうに誤解をされる方が多いと思います。避妊ですとか、性感染症のところが中心的になっている、そういう教育がされてきた結果かなと思います。

 言葉でははっきりしたメッセージはなかったが、グラフでは年代による不妊症の割合が表示された。

 グラフの印象からすると、34歳までは不妊症は15%ほどと少なく、35歳から39歳でそれが30%ほどに倍増し、40歳から44歳でさらに倍の64%となるようだ。不妊を避けるというなら、35歳までに妊娠するか、あるいは40歳までに妊娠するか、どちらか。その線引きが難しい。そしてそれ以前に、「不妊を避けるために出産年齢を人生の計画にすべきなのか」という難問が横たわる。冒頭に書いた、「もや」っとした思いの一つはそこに関わってくる。人生の計画として、妊娠の年齢を決められるものなのだろうか。
 先日のエントリー「米国の婚姻率減少の理由はなにか」(参照)で日本の初婚年齢は男性は30.5歳、女性は28.8歳という統計を紹介したが、英国の例を参考にしたり日本でも都市部に限定したりして見るなら、おおよそ現代日本の女性の初婚の中央値は30歳くらいなのではないだろうか。
 私の記憶では不妊の判定は婚姻後2年で、そして自然の状態だと2年周期で出産だったが、それに合わせると、日本の女性は30歳で結婚し、32歳・34歳あたりで二子を産むというモデルになるかと思う。そういうふうに「人生設計」するという社会学的なモデルが一つ成立するだろう。だとすれば、少子化を問題だと騒ぐ日本国家及び社会は、そのあたりを中心点に支援の政策を打ち出していくことになる。そういう支援が見えるかというと、特に見えないようには思う。
 クローズアップ現代でも、初婚40歳という年齢が暗黙に不妊の要因とされた文脈で、仕事に専念し40歳で結婚し不妊に悩む女性を紹介していたが、こういうケースはどう考えるべきなのか。
 番組にはなかったが番組ホームページのほうでは、「産みたい時に産める会社を」という見出しがあった。が、それに対応する番組の内容はなかったように思う。理念としては、「産みたい時に産める会社を」なのだろうが、ではどうしたらいいかという答えは、いろいろ模索し検討しても番組では見つからなかったのだろう。余談だが、クローズアップ現代の番組は模索して作成されている。もう語ってもいい時期だが、以前ブログがテーマになったときは途中までこのブログも取材の対象になっていた。が、最終時点で落とされた。その残存は番組背景のでの「極東ブログ」という表示に残った。
 さて、「産みたい時に産める会社を」ということが見出しには、どういう話があるのか。重要なので杉浦教授の話のその部分を引用したい。


 具体的に企業がどうするってことは、私には思いつかないんですけど、ただ、やはり妊娠には期限があるってことを知っていただく。
 まず、全く皆さん、知識ないわけですから、まず知っていただく、そこからやはり自分の所で働く女性、あるいは自分のおつきあいしている女性に対して、妊娠の期限を知ったところから、そして支えていくことができるのではないかなと思います。
 (不妊治療を受け始めた方は)すごくつらい思いをされてると思います。ですから、今の女性たちは一生懸命勉強して、学歴も手に入れ、そして仕事もいい仕事を手に入れるということをしてきたわけなんですけれど、努力ではどうしようもないことが、やはりあるんですね。人の生死など、コントロールできないことがある。やはり子どもは授かるんだという気持ちを少し持っていただく。そして例えば、自分を責める気持ちが強い方も多いんですけれど、決して自分を責めるようなことではないというふうに考えていただきたいと思います。
 まずやはり卵子の老化ということで、妊娠には適齢期が、適齢期ということば、あまり好きではないかもしれませんが、あるわけです。ですから、その時点で、今、自分の抱えてる仕事、キャリアと、どちらが本当に子どもが欲しい人にとって大切なのかということを、しっかり考えていただいて、自分で決めていただく。そうであれば、やはり自分であとで後悔することがないのかなというふうに思います。
 今から20代の方であれば、予防していくことができることだと思いますし、今、30代の方であれば今、どうするのかということを考えていただく機会になるのではないかなと思います。

 率直な私の印象は、何を主張されているのかわからなかった。
 個別の主張はわかるのだが、全体的に何が語られているのかわからない。だが、しいてキーワードとして取り上げるなら、「予防」だろう。「不妊が予防できる」という考え方だ。では、どのように「予防」するかというと、ある年代以前に妊娠しなさいということなのだろう。35歳まで、あるいは、40歳まで。
 そしてその文脈に「産みたい時に産める会社を」という見出しがどう整合するのか。整合していないように思える。
 クローズアップ現代を批判したわけではまったくない。おそらく番組制作過程でテーマと主張が見失われていったのだろう。あるいは、いくつかの主張がうまく整合的に語ることができない状態になってしまったのだろう。
 それでも、番組の全体からは、杉浦教授の指摘にもあるように、妊娠の最適な年齢期間が学校教育などを通して周知ではなかったという論点がありそうだ。
 それを主張として「女性と限らず、女性をパートナーとする男性も妊娠適齢の年代について正しい知識を持つべきだ」としてみる。背景には、これまでそれが周知ではなかったという前提がある。
 そうなのだろうか。番組ホームページには掲載されていないが、番組の冒頭にはその認識状況についてグラフの提示があった。

 ホームページでも言及がなく、またグラフについての説明も番組ではそれほどなかったように記憶している。だが、この認知度のグラフを眺めてみると、仮に適齢期の線引きが女性の40歳だとするなら、6割は正しい認識を持っているとして読み取ることができる。
 「妊娠適齢の年代について正しい知識を持つべきだ」という命題が適応されるなら、残り4割に相当すると言ってもよいだろう。
 だが、こうも言えるはずだ――不妊症の率36%を仮に許容なリスクのように認識するなら、45歳まで自然に妊娠できる――その認識が誤っているわけではない。そう見るなら、「妊娠適齢の年代について正しい知識を持つべきだ」という主張は成立しない。すでに日本社会は正しい認識を持っていると見てよいことになる。
 自分なりにここまでの「もや」とした思いをまとめてみると、「妊娠適齢の年代」は女性の35歳なのか40歳なのかはっきりと言うことはできないし、45歳についても不妊症のリスクのようなものを許容するなら、そもそも「妊娠適齢の年代」意識について、日本国民はすでに正しい認識を持っていることになる。
 ではそもそも問題はないのか。「もわ」っとした思いから、クローズアップ現代のこの番組放送後、2ちゃんねるに倖田來未さんの「羊水発言」を擁護する話題を見つけた。ライブドアのトピックにも上っていた。「倖田來未の「羊水発言」を擁護する声が続出」(参照)より。


 14日、NHK「クローズアップ現代」で放送された「産みたいのに産めない~卵子老化の衝撃~」は、これまで知られなかった「卵子の老化」と「女性が適齢期に産める社会」について考える内容となり、放送直後から大きな話題となった。
 すると、放送後のネット掲示板では、過去に歌手の倖田來未が行った「羊水は腐る」発言に触れ、再び議論が起こっている。倖田は2008年のニッポン放送「倖田來未のオールナイトニッポン」内で、「35歳をまわるとお母さんの羊水が腐ってくるんですよね」と発言したが、「高齢出産の女性に失礼」など抗議の声が続出し、その後プロモーション活動の全面自粛や、CM放送の中止という事態に追い込まれ、報道番組内では涙ながらに謝罪を行っている。
 今回の「クローズアップ現代」でテーマとなったのは、羊水ではなく卵子だったが、ネット掲示板では「倖田來未はある意味正しかったのでは?」「言い方は違うけど、羊水が腐るというのもあながち間違いではなかったな。(高齢出産に対する)警告という意味ではありだな」あど、倖田を擁護する声が相次いだのだ。

 倖田來未さんの「羊水が腐る」発言は冗談でなされたとはいえ、まったく科学的に間違っている。しかし、もとの発言の文脈は、子どもをもちたいとする知人が35歳以前に結婚でできてよかったということであり、不妊と高齢化という意図の文脈でとらえるなら、クローズアップ現代の番組のように卵子の老化を考えるとするなら、そう外れたものでもなかったことになる。「高齢出産の女性に失礼」など抗議の声は、「老化する卵子」であれば失礼にはならなかったか。
 私の印象では、倖田來未さんが、「卵子が老化する前に結婚できてよかった」と発言しても、やはり、「高齢出産の女性に失礼」な発言だっただろうと思う。
 それらを整合した社会的態度で考えるなら、市民は「妊娠適齢の年代」を認識しつつも、誰の妊娠の年代についても言及してはならないということになるだろう。
 その結果、その認識のソースは他者の発言から得られないということになり、すると、これは国家なり一般意思なりのようなものが伝える知識となるのだろう。誰もが関わり誰かが直接対応しえないという点で、よい比喩ではないがごみ処理のように公共性がありその公共性が人口政策として国家の施策に関わるまでのものならば。
 論理的な帰結のようだが、「妊娠適齢の年代」を語る国家意思というのは、なんとも気持ちの悪いものでもあり、どこかに理路の間違いがあるようにも思う。これも「もわ」っとした部分だ。
 この問題は日本だけの問題ではないので、米国ではどうなのかいくつか情報をあたってみた。実は、クローズアップ現代が掲げたグラフが国際的に見て正しいのか疑念もあった。結論からいうと、大きな差はない。
 意外にも思えたのが米国疾病対策センター(CDC)に、「生殖補助技術(ART: Assisted Reproductive Technology)」(参照)が存在し、各種の資料を提供していたことだった。ざっと調べてみたが、日本にこうした国家機関が存在するのか私にはわからない。
 ARTの2009年のレポートを見ると、不妊症治療の場合の、加齢していく卵子(緑の丸)と提供された卵子(青の四角)による妊娠率のグラフが示されている。

 このグラフから米国という国家が、市民の人生に対する指針、たとえば、「妊娠適齢の年代を考慮せよ」といった主張をしているわけではない。そうではなく、不妊の場合で、加齢を考慮する際、卵子提供を受けるという決断のための資料を提供している。
 別の言い方をすれば、市民が可能な人生の選択の幅を広げるための具体的な情報を米国国家は提供していると。
 おそらく、私たち日本人は、少子化し人口縮小していく日本という国家にあって、市民が「妊娠適齢の年代を考慮せよ」と国家に指導してもらうよりも、多様な人生の局面において多様な選択を可能にする知識の確かな源泉としての国家という装置の情報機能を求めていくべきなのではないか。
 
 

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2012.02.15

景気が低迷すると独身者は、減る

 景気が低迷すると独身者は、減る。そんな、まさか。日本は景気の低迷が続いているが、独身者が減っていく現象なんて見られない、はず。そうこれは米国の話。とはいえ、ふと思ったのだが、日本でも人口減少部分を補正すると景気の低迷で独身者は減ると案外言えるかもしれない。
 ネタ元はスレート「離婚で米国を救え」(参照)である。タイトルからわかるように景気低迷で独身者が減るのは、離婚が減るからというロジックだ。貧しいと離婚しづらいということ。米国だともっと露骨に、離婚で相手からカネがぶん取れないというのもある。だから未婚者が減るという話ではない。それだけで、なんかもうオチが見えてきたようだが、話を読んでみると二、三、へえと思うような部分もあった。余談だが、米国ではフィエスブックが原因で離婚が増えていると聞く。理由は不倫のチャンスが増えるから、というより、プライバシーだだ漏れで不倫相手ががっつりバレて訴訟がしやすいかららしい。話、戻して、と。
 先日「米国の婚姻率減少の理由はなにか」(参照)というエントリを書いたが、米国と限らず先進国では婚姻率が長期的に減少している。そもそも結婚する人が少なくなっているというわけだ。理由はなぜかと考察する以前に、それはそういうものなんじゃないかという印象が強い。だが、スレートの話ではこんな理屈がついていた。


For most of us, a happy marriage is a more appealing prospect than a life alone. But the divorce-recession link appears to indicate that in many cases affluence is an opportunity to escape or avoid unhappy partnerships. Under the circumstances, we should not be surprised that the relatively affluent America of 2012 includes more single people than the poorer America of 1962.

多くの人にとって幸福な結婚は独身より魅力があるものだが、離婚と景気後退の関連で見ると、豊かさはたいていの場合、不幸な夫婦関係から逃げる機会を示しているようだ。この関連からすると、貧しかった1962年の米国よりも多くの独身者が比較的豊かな2012年の米国にいるのは、驚くことでもない。


 結婚はうまく行けば幸福なのだろうが、そう行かないなら解消したいものだということであり、豊かになればなるほど、解消したほうがいいと選択する人が増える。
 そうだろうとは思うが、以前のエントリーを合わせてみると、結婚して幸せだという人は二人に一人くらいなもので、しかもそこに至るまでに紆余曲折ということもある。
 日本の場合を思うと、「独身イコール未婚」、さらに言うと「独身者は結婚できない人」というのがなんとはなしに前提になってしまい、結婚解消して独身という話題はそれほどは見かけない。どうだろうか。
 スレートの話ではその先に、景気が回復すれば、離婚者が増えて独身世帯が増え、世帯数も増加すると続く。
 ちょっと意外だったのは、現在米国ではどうやら世帯数は人口増加に比して頭打ちになっているらしい。別の言い方をすれば、米国の場合、少し景気回復すれば世帯増加にともなって消費が活発になるとも見られている。日本ではちょっとありえない。
 もう一点スレートの話で意外に思えたのは、貧困と独身を結びつける考え方は「保守派」とされていたことだ。日本だと「貧しいから独身が多い」「貧しいと結婚もできない」というのは保守の考え方とは言われてないように思えた。

It’s become commonplace in conservative rhetoric and writing to note that single life, especially for parents, is strongly associated with poverty and bad economic outcomes. This was the rationale for the Bush administration’s marriage promotion initiatives, it’s a frequent theme in David Brooks columns, and it’s a centerpiece of Charles Murray’s new book.

独身生活者が(特に親の場合)貧困や経済状況に強く関連しているという指摘が保守派の言論によく見られるようになった。このことが、ブッシュ政権時代、結婚推進政策の理由でもあり、デイヴィッド・ブルックが頻繁に取り上げるテーマでもあり、チャールズ・マリーの新著の主張でもある。


 「貧しいから結婚もできない、だから貧困を解消をせよ」という主張は、日本だと進歩派や左派によく見られる言論だが、考えてみると、それって保守派の考え方ではあるな。進歩派ならむしろ「貧困を解消し、離婚しやすい社会にせよ」だろうか。
 米国の保守派的な主張が日本だとどうして左派の主張のように感じられるのだろうか。よくわからないが、日本の左派的な主張というのを冷静に取り出してみると国際的には保守派の主張になっていたというのは面白い現象ではある。
 
 

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2012.02.13

[書評]超常現象の科学 なぜ人は幽霊が見えるのか(リチャード・ワイズマン)

 「超常現象」という言葉を聞いただけで眉をしかめ、身を引く人もいるだろう。占い、幽霊、超能力者、念力、体外離脱、霊媒……ちょっとご勘弁な話題である。なぜなら、そんなものは存在しないからだ。
 本書「超常現象の科学 なぜ人は幽霊が見えるのか」(参照)の著者リチャード・ワイズマンもそういう一人だった。彼はずっとこう考えていた――超常現象はパーティの話題としては受け取るが事実無根――と。ではなぜ彼が超常現象をテーマにした本を書いたのか。科学的世界観を普及させたかったのか。偽科学批判をしたかったのか。必ずしもそうではない。

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超常現象の科学
なぜ人は幽霊が見えるのか
 ふとしたきっかけで彼は、超常現象が存在するかを調べるより、人がなぜこうした不思議な体験をするのか、その心理的な理由が知りたい、と考えるようになった。それは脳の問題なのではないか。
 超常現象が存在するかどうかという科学議論については「超常現象を科学にした男――J.B.ラインの挑戦」(参照)など別書にまかせるとして、超常現象があったと経験する人が存在することは確かである。多くの人が超常現象を信じてしまうという現象は確実に存在する。そのほうが興味深い。調べていくと人間の脳の問題でもあることがわかる。本書は「超常現象」を受け止める人間の脳の不思議を扱った書籍である。
 別の言い方をすると、人が、占い、幽霊、超能力者、念力、体外離脱、霊媒といった超常現象を信じてしまうのは、その人の科学リテラシーが低いからだ(もちろん低いのだが)と責め立てるより、そう信じてしまう心理的理由、あるいは脳機能的な理由を明らかにしたほうが、社会的にも有益だとわかる。「水に向かってきれいな心で語りかけるときれいな氷の結晶ができる」と信じている人に、「そんなことは科学的にありえないし、信じているのは科学を理解しない愚かな人なのだ」と主張するより、本書「第7章 予知能力の真偽」で解き明かされているように、信じたい物を人は見てしまうという脳の仕組みを理解し、その理解から奇妙な信念を持つ人を共感したうえで、場合によっては脳の仕組みにそってその信念を解くように接したほうがいいだろう。
 それを広義の狂信性の解体というなら、本書「第6章 マインドコントロール」には特に有益な知見に溢れている。この章を読みながら私は、そこにオウム真理教への言及がないにもかかわらず、日本で起きたオウム真理教事件について、理系の青年たちがなぜあの奇妙な、超常現象を主張する宗教に没入していったのかという理解を深めることができた。あの時代に本書があれば日本社会もかなり防御的だっただろうとも思った。あの事件から15年以上が経過し、日本社会にまた奇妙なカルトの芽が見えつつある現在、本書はこうした脱・超常現象心理の視点からより多くの人に読まれるといいのではないか。
 堅苦しい社会的価値の話を抜きにしても、本書は愉快な本である。例えば、「第1章 占い師のバケの皮をはぐ」はその見出し通り、占い師のバケの皮をはぐ事例が詳細に語られているのだが、その過程は逆に即席占い師になるための要点とも読める。パーティとかその他の場で、ちょっとした占い師になるためのエッセンスがぎゅっとまとめられているのだ。この章だけで占い師の秘伝書といった趣がある。
 同様に「第3章 念力のトリック」を読めば、スプーン曲げができるようになる。ちょっとやってみたくもなる。受けること間違いなし。いやいや、そのネタでバカ受けできるのはもはや40代後半以降かもしれない。1972年、ユリ・ゲラーがテレビのワイドショーでスプーン曲げを実演し、これを見た少年たちが”超能力に目覚めて”全国でスプーンを曲げ出したものだ。あの騒ぎの顛末を知っているからこそ愉快なネタになる。
 いや、ちょっと待て。現在の若い人が、目の前で、曲がれ曲がれと言うやスプーンが曲がるといった現象を見ると、ころっと信じてしまうことはないだろうか。世の中は、本書を楽しんで読めるだけの知性を持つ人ばかりではない。
 昔のことを思い出して「第4章 霊媒師のからくり」を読むと別の懸念もよぎる。本書は翻訳書なのでシンプルに「ウィジャボード」の使い方として説明しているが、私の読み落としでなければ本書に注記されてなかったようだが、これは日本でいう「こっくりさん」である。40代後半以降なら知っているだろう。「こっくりさん」で集団ヒステリー事件が起きたことがあった(参照)。大人がパーティーゲームの余興でやるならいいが、中学生以下が不用意に行うと場合によっては危険な集団心理状態に陥りかねない。
 潜在的な危険性をいうなら「第2章 幽体離脱の真実」も同様かもしれない。幽体離脱体験が心理学的に十分説明が付くことは村上宣寛著「心理学で何がわかるか」(参照)にも記されているように心理学に関心ある人には熟知でもある。またこの現象のベースとなる、疑似身体感覚の応用は重篤な脳梗塞から奇跡的な回復をした栗本慎一郎の、氏自身の考案のリハビリ手法(参照)にも描かれている。問題は同章に幽体離脱体験を導く簡素な手法が書かれていることだ。本書には言及はないがこの手法は、実際に幽体離脱があった主張したロバート・モンロー著「体外への旅」(参照)の手法とかなり類似している(おそらくモンローの書籍からこの分野の研究が開始されたためだろう)。モンローの書籍の反応を思うと、人によっては超常現象体験を起こす可能性がある。
 本書はこの手法について、「実験を恐れないこと――いつでも簡単に自分の体に戻れることをお忘れなく。体外離脱のこつを覚えたら、あなたは思うがまま世界中を飛び回ることができる――想像力が続くかぎり、温室効果ガスをまき散らす心配もなしに」と軽妙に語っている。だが、モンローの体験談を読むと、これには人の生活を変容させかねない恐怖が伴うことが推測される。
 ここで奇妙な逆説を思う。モンローはその恐怖と体験の意味を深化させ、晩年には実質的な体外離脱を否定し、体験の意味合いについて思考するようになった(参照)。むしろそれはワイズマンの元来の意図に近い。
 幽体離脱体験と限らず、なぜこのようなこと――超常現象ではなく、超常現象の意味受容――が、人の心に起きるのだろうか。それはもちろん本書でワイズマンが主張するように、人間の脳がそのようにできているからなのだが、ではもう一歩進めて、なぜ人間の脳はそのようにできているのか。そう問うなら、各人の実存の了解過程に関与しているからもしれないという疑念が起きる。
 現象学者フッサールは、人間が生きている世界は数値計量化される物理学的な世界ではなく、質感を伴った経験によって生きられる世界だとして、これを生世界(Lebenswelt)とした。人間の脳は生世界を生み出す装置でもあり、その装置には、日常的な体験から、死を先駆してまで生きる意味(あるいは死の意味)として超常現象体験を待機する仕組みも備わっているのかもしれない。
 ワイズマンは脳が幻想を生み出すプロセスで、ベンジャミン・リベットによる脳と意識のギャップについても言及し、脳が意識に先んじて動くことを示している。本書には、これを詳しく示した、リベット著「マインド・タイム 脳と意識の時間」(参照)の参照はないようだったが、この主張の含意は大きい。
 ワイズマンはリベットの実験から、人間の脳が意識に先行する事象ついて、無意識の役割が大きいと了解しているが、その意味合いについて、つまり超常現象体験受容の意味構造についての思索の深化はしていない。だが、意識に先行して幻想を生み出す脳の仕組みは、人間経験の意味受容に先見的な枠組みがあることも意味している。もしかすると、死の恐怖というのは、超常現象体験によって乗り越えるための仕組みの部分なのかもしれない。
 リベットの実験、つまり本書でも述べられているように超常現象的な知覚は意識や知識に先行して発生する。現象学がその方法論で示したように、事後検証や他者の検証を含まない直接的な個人経験においては、通常現象と超常現象といった差違はなく、同じく所与の経験となる。
 このことは、超常現象体験が体験者自身によって否定される契機も要請するだろう。多くの人はカルト的な生活をまっとうすることはできない。では、その否定契機はどのように到来するのか。一般的には「科学的にありえない」という知識によるのだが、おそらくその知識は脳において宗教信仰と同型だろう(参照)。
 現実の私たちの生活では、超常現象体験は、科学によるとされる信念・通念で否定されるよりも、個人の内奥に留まる傾向がある。多数の人は、超常現象体験をしてもそれを他者との開示にそれほど積極的ではない。おそらく私たちの個人体験の認識は、他者を含めた事後検証に対して、他者への信頼も保有するという、ある種の社会機能で抑制されているのだろう。別の言い方をすれば、超常現象体験という非日常性の認識の裂け目が個人に生じても、その人は、その体験と他者と信頼し共存していく社会との宥和を計る。
 そう考えるなら、超常現象体験が社会に広まったり、それを元にしたカルトが発生する時代は、他者への信頼の揺らぐ時代でもあることがわかる。であればなおさらのこと、超常現象といったものへの否定は、いわゆる頭ごなしの科学教育より、人が他者と信頼を形成していく仕組みが重要になる。
 本書は、超常現象を頭ごなしに否定したりちゃかしたりする書籍として読まれるより、人間の脳はそういうものなんだよといったん受容し、多様な信念を持つ他者への許容と共存のための道具として読まれるほうがいいだろう。
 
 


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