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2012.11.03

フランスでは中絶費用が無料。15歳から18歳へのピル配布も無料。

 国家とはなんだろうかという問題を、自分なりにいろいろ考えてきた。レーニンやトロツキー的には国家というのは暴力装置であるとした。つまり、軍隊や警察、刑務所など各種の暴力機関を収納して一元的に発動できる装置(apparatus)であるとした。ウェーバーはこれを近代国家の要件としたが、彼は国家形成については多元的な見方をした。他方、レーニンは暴力が権力源泉であると単純に考えた。その信奉者には、国家=暴力装置という権力源泉を解体して市民を自由にするためには、それを対抗的暴力で解体すればよいのだという短絡な運動も生まれた。「政権は銃口から生まれる」というものである。これを大衆のルサンチマンに結合することを革命の情念とする傾向も見られた。
 この国家観の起点にあるマルクスはレーニンのように考えていたわけではなかった。彼はこれをまず上部構造として捉えた。エンゲルによって実質改竄されその安易な流布であるレーニン主義では、上部構造は経済などの下部構造に依存して形成されるとした。が、そうであればマルクスがあえて上部構造と捉えなおす必要はなく、経済的な利害システムの一元化が可能であっただろう。あるいは単にレーニン主義者は上部の階級と上部構造の違いが理解できなかったのかもしれない。
 マルクスはその点、ヘーゲルの国家観の原点である絶対精神の奇妙な運動の自律性を理解していた。そのため、下部構造が自己疎外を起こして上部構造が生じるという直観を持っていた。が、その部分の思想は十分に展開できなかった。
 思想家・吉本隆明は、マルクスの上部構造を、ヘーゲル的な文脈に戻して「共同幻想」として取り出すことで、マルクスの思想を継いだ。吉本の意図としては、レーニン主義的な文脈からマルクスの国家論を救済する意図であったが、「共同幻想」という術語によって、それがあたかも、覚醒すれば消える「幻想」のように誤解されることにもなった。もっとも大学の先生でもそう理解している人もいるので、あながち誤解とも言えないかもしれない。
 吉本の言う「幻想」は、共同性の心的作用から生じるという点では通常の意味の幻想ではあるが、その幻想は心理主体にとては、客観性のように現れる現象であるということが重要である。客観性のように現象を受容している自我の意識にとって、その心的現象を解体することは、簡単に覚醒すればよいというものではない。至難ともいえる思想の営為を必要とする。
 それでも幻想は幻想であり、国家が上部構造である・共同幻想であるということは、卑近に言えば、国家とは宗教であるということだ。宗教として国民を心的に束縛するなにかである。
 興味深いのは、これがそのまさに意識における上部構造的な自我に自覚されなくても、その幻想性は、異なる国家観の宗教性の対比のなかから浮かび上がってくることがあることだ。簡単に言えば、宗教といっても、一般に日本人が想定している宗派的な宗教や迷信的な信仰ではなく、国家の心的な永続性に関連する部分で可視になる。
 つまり、人が生まれ死んでいくという、実際には意味のない生物的な連鎖のなかに国家という統体を知覚するような幻想の設定が国家という宗教であり、これらが、実際に、人が生まれる・死ぬ、ということに、人を駆動するための意味を与える。
 具体的には、人を駆動して結婚させ子どもを産ませ、墓を通して死者を生者に連想するさせることである。その意味で、結婚と出産と墓の制度のなかに、国家の幻想性は集約的に表れる。
 このように述べると、あたかも古代や未開社会の問題のようにも思えるが、実は、これが未だに現代の問題であり、現代の国家幻想・国家宗教の様相を見せるところが興味深い。
 以上は実は前書きのようなもので、エントリーを書こうかと思ったのは、先日のフランスの国会での、中絶とピルの関連する問題について、日米のメディアの関心の薄さからであった。私の見落としかもしれないが、国内報道では見当たらなかったように思う。米国でもその扱いは少なく、報道も微妙だった。こうした、あるもどかしさが、現代の国家幻想が露出する側面に思えた。
 該当のフランス下院の10月26日の決議自体は単純である(参照)。
 フランスでは従来、マイノリティと未成年の中絶費用は無料だが、他の場合、保健の適用は80パーセントまで自己負担分があった。これが実質女性にかかっていた。
 今回の決議でこれが全額無料となった。全費用は450ユーロ(4万6411円)なので、それまでは約1万円くらいの自己負担があったということだろう。さほど大きな補助とも言えないといえばそうだが、むしろ、中絶の権利を国家が完全に保障したという点が重要だろう。
 今回同時に、15歳から18歳の避妊についても、完全に無料となった。
 考えようによっては、これもどうということのない話題のように思えないこともないが、気になったのは、「15歳から18歳の避妊が無料」というときの、避妊が何を意味しているかである。
 情報をいくつか当たってみたのだが、私はフランス語がわからないこともあり、確定的なことは言えないが、どうやらこれは、ピルを意味するようだ。言うまでもなく、男性のコンドームではないし、そもそもコンドームは欧米では避妊具ではなく、性病予防の用具である。
 するとどうなるのか?
 フランスの場合、15歳から18歳の女性が、妊娠を好まないという場合、無料でピルが入手できるし、実際上、国家がその年代の女性に、日常、ピルを服用しなさいという推奨することにもなる。もちろん、本人が性交をしても妊娠を好まないという意志を国家が権利として支援するという意味ではある。
 私の勘違いかもしれないが、その国家支援の背景には、15歳から18歳の女性の性交は、それ自体が一種の人権として認められているという考え(幻想)があることだ。これについてももちろん、レイプなどの危険性の防衛ということもあるだろうが。
 いずれにせよ、今回の議決でフランス人女性すべてが金銭的な制約なく、自身の性生活を自己管理できるようになったとは言える。つまり、市民の自由の実現であり、女性の市民権の補完とも言えるだろう。
 話を前振りの国家幻想に引きつけると、これがフランスという国家の国家幻想であり、その話題を読みながら、日本や米国での受け止め方に違和感があれば、その差違に国家幻想が見えるだろうと思った。
 日本では、この問題、つまり、中絶の完全無料化と15歳から18歳の女子へのピルの無料配布は、どのように議論されているだろうか。特に、フェミニズムにおいてどのような問題設定にされているのか。たまに調べてみるのだが、日本のフェミニズムが多様なこともあり、よくわからない。
 米国ではこの問題に関連して、ジョージタウン大学法学部生・サンドラ・フルーク(Sandra Fluke)が有名である(参照)。彼女は昨年議会で、避妊の保険適用について証言をして話題になった。その時点で彼女は30歳だが、ジョージタウン大学で学ぶ間に費やした避妊の費用が3千ドル(24万円)を越えたという。これを保健適用にしろという主張である。
 そのまま日本の大学に置き換えるなら、女子大生には年間6万円避妊費用を国家の保健適用とするということなるだろうか。
 米国ではこの問題で保守派がいろいろと騒いだが、逆に騒ぐことで、フランスとの対比を示した。26日のフランスでの議決ではこの問題が事実上、さしたる問題もなかったように見えた。
 話は若干それるが、昨今、日本でも出生前検査が話題になっているが、私の理解ではフランスではこれも保険適用であったはずだ。そのあたり、日本で話題になっているなら、フランスの状況と経緯はどうであったかという比較報道があると思ったが、ざっと調べた範囲では見つからなかった。
 こうした問題の、現況を踏まえた総括的な議論を読みたいものだと思うが、実感としてはいわゆるフェミニズム関連の書籍からは見当たらないように思う。
 

 
 

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2012.11.02

[書評]ムツゴロウ4部作

 動物おじさんとして有名なムツゴロウさん、つまり畑正憲さんには、不思議な陰影というか、いわゆるペット愛好の人とも、また動物研究家とも違うなにかを私は感じた。その関心から彼の本を読んだことがある。
 最初は、マンボウシリーズの北杜夫さんを真似ている部分があるのだろうと思った。実際は真似ということはないが、ムツゴロウさんとしては北杜夫さんを文筆活動の一つの目標としていた時期がある。両者とも軽くユーモアなタッチの奥に深い人間洞察を秘めている。北杜夫についてはある意味、文学の血脈とでもいうのか、その父から、そしてその娘さんまでけっこう気になって追ってきた。ムツゴロウさんについてはいわゆる文学的な視点とは違うものを感じて、追跡が難しかった。

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ムツゴロウの青春記
 北杜夫と畑正憲の違いは、北の「どくとるマンボウ青春記」(参照)と畑の「ムツゴロウの青春記」(参照)の両書を読むだけで、心のそこにずんと来る響きに違いがあることがわかる。北杜夫さんは先日亡くなったが晩年の老人の相貌の印象を残した。畑正憲さんも77歳となりさすがに「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」のころの颯爽とした風貌から最近は老人のそれに変わってきた。だが両者の青春記を読むと、老いの相貌のなかに、時代がなんであれ、どうしようもなくきらめく少年の心というものが見える。北杜夫さんについて言えば、しかし「きらめく」というのは違い、こんなにも繊細な人だったのかということに驚く。畑正憲さんはというと、きらめくが適切だし、その個性がもちろんきらめいているが、その光の根源は個性を越えた、こういうとよくないが、得たいの知れない部分がある。
 cakesに寄稿(参照)して6日に有料公開されるはずの「ムツゴロウの青春記」の書評ではそのあたりに注目した。cakesは週単位の課金なので、もしそのことが気になることがあったら、その時に読んでいただけたらと思う。
 cakes書評でも触れたのだが、ムツゴロウさんは、時代的な文脈で見るなら、大江健三郞や柴田翔と同年の作家であり、実際に三者は東大で同級生でもあった。彼らの間で面識があったかはわからないし、文学者としてはノーベル賞も取ったので大江が突出したが、今は忘れられたかに見える柴田の文学も当時は大きなインパクトがあった。畑正憲という作家を文学史的に見るなら、この三者のなかに位置づけると、戦後の60年代の情況のある本質とその対処としての市民の生き方が浮かび上がる。
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ムツゴロウの放浪記
 ムツゴロウさんはテレビ出演から親しみやすい変なおじさんと見られることが多いし、実際にそうと言ってもよいのだが、彼は東大卒業後大学院にも進学し、生物学の研究者の道を進んだ。もし運命の悪戯があれ、利根川進さんのような道を進んでいたかもしれない。だが、ムツゴロウさんは挫折した。その話は、「ムツゴロウの放浪記」(参照)にある。アカデミズムに挫折していく、あのつらい感覚と恋人をもった生活の圧迫、のしかかる時代というものの無慈悲さ、それらが、まるでなにかを絞るようにぎりぎりと描かれている。
 現代の読者にはその時代の感覚が掴みにくいだろうが、おそらく現在、研究者の道から挫折しそうにある人にとっては、あの特有な感覚をそのなかで見るだろう。また、仕事と同棲の軋轢にある人にも、ああこれだな、と共感するものがあるだろう。
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ムツゴロウの少年記
 ムツゴロウのこの自伝的な作品群は4部作になっている。自伝的に読むのであれば、「ムツゴロウの少年記」(参照)、「ムツゴロウの青春記」、「ムツゴロウの結婚記」(参照)、「ムツゴロウの放浪記」と続く。
 しかし作品の順序としては、「ムツゴロウの少年記」が最後に書かかれ、文学作品としてはこれがもっとも完成度が高い。が、できれば、その意味で「ムツゴロウの少年記」を読むのでなければ、「ムツゴロウの青春記」から読み始めるとよいだろう。畑正憲さんは、「ムツゴロウの青春記」を書くことでその続きを書き、その執筆時の自身の確立に至る「ムツゴロウの放浪記」を書き終えて、ようやく父とその時代に向き合うために「ムツゴロウの少年記」の執筆に向かった。
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ムツゴロウの結婚記
 「ムツゴロウの青春記」の結末が尻切れトンボのようになっている部分は、「ムツゴロウの結婚記」に続く。高校時代を過ごした同級生の恋人と学生結婚を始める物語であるが、これは読むとわかるが、率直に言って文学としての完成度は低い。その青春後期にリアルに書きためていた日記や手紙などがそのまま露出しているからだ。逆にだからこそ面白いとも言えるし、性的な描写は慎まれているものの、若い人の同棲という生活がもたらす、ある種特有な臭いのようなものが充満している。また学究肌の若者が新婚生活を迎えたときの違和感のようなものもある。
 4部作の最後「ムツゴロウの少年期」の後記には文庫版であれば単行本時のそれと併せて2つ付記されている。単行本のそれを読むと、「ムツゴロウの放浪記」の後編が約束されているが、文庫本のそれでは4部で完成のように書かれている。どうも5部作目が書かれなかったか、「ムツゴロウの少年記」で終了感があったかである。
 「ムツゴロウの放浪記」の単行本後記は1979年で、「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」が始まるのが1980年の年末である。その間に彼の世界放浪が始まっている。そのため第5部は忙しくて書けなかったか、ムツゴロウさんにありがちなのだが、関心がころっと変わったか。私は、cakes書評をきっかけに4部作と関連書籍を読みながら、書かれざる第5部があるように思えた。
 ユーチューブにあった女優・柴田洋子さんの、4部作への思い入れも面白かった。比較的と言っては失礼だが、4部作が若い世代に読み継がれているようすがわかる。


 
追記
 cakesの書評公開日を勘違いしたので、「今日」としたのを訂正しました。たぶん、公開は11月6日(火曜日)あたり。なお、その次は『ご冗談でしょ、ファインマンさん』の予定。
 
 

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2012.11.01

家族を規定したのが「なるちゃん憲法」

 先日家族史関連の与太話を書いたおり、古代や中世にも家族はあったみたいな反論を貰うかなとは予想していた。だって奈良時代に戸籍があるじゃないのとか、貴族や名家には父母がいるではないかみたいな。古代の戸籍についてはその実態を調べてもらえば問題の所在がわかるだろうからそれはさておき、古代や中世でも父母と暮らして云々というあたりはちょっと補足というか与太話の延長をしてみたい。
 単純な話、古代や中世の「母」が子供を育てていたかということだ。いうまでもなく、乳母(めのと)が育てていた。母乳を与える女がやってきて育てるのである。女性が母乳を出せるのは実の子を産んだ期間に限られることからわかるように、乳母は自分の赤ん坊も一緒につれてくることがある。するとどうなるかだが、乳兄弟というのができる。また、乳母は女ではあるがそのまわりの世話役の男なんかも付いてくることもある。
 こういう貴族や名家に乳母をほいほいと手配できるシステムがあったということのほうが重要な意味がある。氏族的な社会のなかに育児の機能が分化していたわけである。
 このシステムのバリエーションが、里親・里子であろう。乳母が屋敷に入るのではなく、子供の育児がアウトソーシングされるわけである。この場合、むしろ里親・里子のほうが「家族」のような様相を示すだろうが、親権はない。
 古代や中世で、子供が屋敷で同居していたとしても、そこに乳母的な育児のシステムが不可分に組み込まれている。それは家族なのか、というと、それを前近代の家族と定義しようというくらいの意味合いしかない。育児をしない「母」でも生物学的に母だから母だとかという話もできないわけではない。
 むしろ女性の権力の問題として乳母は面白い。日本の場合、古代から、女系的な家制度のためか娘に相続権があるが、これが武士の社会になると財の相続者である女の権力に対して、乳母が権力を持つようなことがある。むしろ、武士の権力のシステムは乳母の権力の随伴現象ではないだろうか。それはさておきと。
 この乳母のシステムだがよく知られているように、明治以降も富裕な階級では残った。なかでも面白いのが天皇家である。
 大正天皇は明治天皇の典侍・柳原愛子(なるこ)が産んだ子である。大正天皇、つまり明宮(はるのみや)こと、はるちゃんは、生まれるとさっさと里子に出された。
 その後、6歳で御所に戻され、明治天皇の皇后・美子(はるこ)の養子となる。長じて天皇(大正)となる、はるちゃんは幼いころ、自分の母親は美子だと思っていたらしい。家族幻想のようなものだろうか。後に実母ではないと知らされて悩んだのだろう。47歳で死ぬとき、実母・柳原愛子の手を握っていた。おかあさーん。
 はるちゃんが天皇(大正)となり、結婚したのは18歳。嫁は15歳の九条節子(さだこ)だった。彼は側室(後宮)を置かなかった。その息子さん、昭和天皇こと裕仁(ひろひと)、ひろちゃんは、普通にさだこの子であった。
 ひろちゃんも長じて父を真似てか、側室を置かなかった。家族幻想がようやく天皇家にまで達したということだろうか。問題は、天皇家の後宮制度がいつ、誰が廃止したかである。たまに気になって調べるのだが、概ね、戦中自室にダーウィンとリンカーンの肖像を置いていたダーウィニストにしてモダニストだったひろちゃん、そのころは天皇(昭和)だったが、その意志だったようだ。
 このひろちゃんも生まれたときは里子に出されている。その子の今上、明仁(あきひと)ことあきちゃんはどうか。
 里子には出されなかったようだ。このあたりも父の信念ではあったようだ。
 が、あきちゃんが育ったのは別宅・東宮仮御所である。後の、あきちゃん心情を察するに孤独な少年期でもあったようで、自身が結婚して、ちゃんと母子手帳も受け取って、子供、徳仁(なるひと)こと、なるちゃんが生まれたときは、自分の家族の元で母子ともに過ごしたいと思った。ようやく庶民の家族幻想が天皇家にまで達したのである。

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ナルちゃん憲法
皇后美智子さまが伝える
愛情あふれる育児宝典
 それで1960年9月22日に起草されたのが、「なるちゃん憲法」である。なるちゃんが生まれたのは1960年2月23日なので、7か月も遅れたがその間はどうだったかというと、母・美智子さんが自分で育てていた。が、日米修好百周年記念でホワイトハウスに招待を受け、そろそろ仕事復帰ということもあって、子供を預けることになった。そのおり、母親として自分は我が子をこう育てますということを成文化したのが「なるちゃん憲法」である。
 憲法というのは西洋史においては国家権力を規制するためのものだが、日本では「十七条憲法」のように一種の徳目であり、「なるちゃん憲法」も日本の伝統に由来するため、法的手順を必要としない。
 なるちゃんが生まれたのは、マーブルチョコレートが発売された1961年の前年。私より3歳下である。高度成長期に田舎から都会に引き出された労働者が家庭を営み、兎小屋と呼ばれる家で子どもを二人産んで家族を形成した時代である。あきちゃんも天皇となってからは、精一杯、時代も象徴することになった。
 天皇は日本国家の象徴でもあるが、ふーん、そうだよねと国民が是認しているから象徴たりえている。国民の家族の象徴でもあるからだ。
 その後、長じたなるちゃんの家庭が象徴しているものも、まさに現在の国民の家庭の姿に思える。
 
 

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2012.10.31

[書評]チョコレートの帝国(ジョエル・G・ブレナー)

 「チョコレートの帝国(ジョエル・G・ブレナー)」(参照)は、米国のチョコ菓子会社ハーシー(Hershey)とマーズ(Mars)の歴史を描いた1999年の作品である。邦題は「チョコレートの帝国」となっているが、オリジナルタイトルは「チョコレートの皇帝たち:ハーシーとマーズの隠された世界の内情(The Emperors of Chocolate: Inside the Secret World of Hershey and Mars)」(参照)として複数形で両雄が暗示されている。

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チョコレートの帝国
 本書は米国のチョコレート産業史と言ってもよいが、チョコレート好きに限らず、おそらく一定の年代上の人にとっては、かけがえのない歴史物語でもあるだろう。1957年に生まれ、1994年から沖縄で8年暮らした私にしてみると、庶民生活の背景に潜む歴史を知ることで感慨深かった。さらに加えるなら、フィッツジェラルド(Francis Scott Key Fitzgerald)などロストジェネレーションの文学に関心がある人にとっても興味深いノンフィクションだろう。執筆に10年を要したのも頷ける厚みがある。
 日米のチョコレートの歴史について、こう言ってはいけないのだろうと思うが、日本の板チョコはハーシーの板チョコの代替品のようなものだった。マーブルチョコレートは、これは形状からしてマーズのm&mを強く意識したものだろう。「マーブルマーブルチョコレート♪」というコマーシャルに「マー・マー」とmが繰り返されているのは偶然だろうか。しかしなによりあの広告で、私より一歳年上の上原ゆかりさんのことを思うと胸がじんとくる。彼女はケペル先生の助手を務めたあとも活躍され、1980年代半ばに事実上引退された。

 マーブルチョコレートが発売されたのは1961年。半世紀も経った。「もやは戦後ではない」と言われた年に上原ゆかりさんが生まれた。ギブミーチョコレートという戦後が終わったわけである。
 進駐軍が子どもに与えていたチョコレートが、まさに、ハーシーとマーズだった。第二次世界大戦に両社のチョコレートは欠かせないものとなっていた。
 そして私は沖縄で暮らしながら、両社のチョコレートが米軍統治下の歴史として沖縄の庶民生活に根付いていることも知った。キスチョコは銀チョコと呼ばれていた。
 米国人にしてみれば軍需品ともいえるほどのチョコレートなのだから、コカコーラの歴史のように広報されていたかというと、意外にも本書が出される1999年以前は知られていなかった。両社ともに徹底した秘密主義であり、本書によって米国人も自国のチョコレート産業の歴史を知ることになった。米国のファミリービジネスの一例としても興味深い。
 しかし、すべてが知られていなかたわけではない。私ですらハーシー社は創業家を通して慈善財団に深く関わっていることは知っていた。本書でも説明されているが、ハーシー社の株主がその慈善団体である。
 ハーシーの創業者でもあり事実上、本書の主人公の一人ミルトン・ハーシー(Milton S. Hershey)は、ペンシルベニア州にチョコレート工場の創設とともにその従業員のために、児童養護施設や病院を含めた町を創設した。ミルトン夫人は遺言で全保有株式を慈善財団に寄付し、財団がハーシー株の三割近くを所有した。
 ところが本書の出版後の2002年、団体がハーシー社の株を売るという話が持ち上がり大騒動になったことがある。結果は司法もかかわったが、町の住民の存続の声に押された形になった。
 そのあたりから、ミルトン・ハーシーというのは何者なのだという疑問があり、もちろん慈善家であることはわかるのだが、もう少し内情を知りたいものだと思っていた。
 私も本書で知ったのだが、1875年生まれのミルトンの両親は再洗礼派のメノナイトだった。特に母親はメノー派の牧師の娘でその気質を深く負っていた。生涯、メノーの衣服だったらしい。ところが父のヘンリーはというと、野心家でもあり、さまざまな事業に手を出しては失敗していた。ミルトンの慈善家の精神はメノーに由来するとは言えるが、その宗派信仰に執着していたわけでもなく、その人生はむしろ野心家の父に近いものだった。ミルトン自身は40歳を過ぎて26歳のカトリック教徒を妻にしたが、子どもがなく、そのことが慈善事業に入れ込んだ一つの理由でもあった。この話は本書に詳しい。
 本書のもう一人の雄は1904年生まれのマーズのフォレスト・マーズ(Forrest Mars, Sr.)だが、マーズ社の創業は1883年生まれのその父フランク・マーズ(Franklin Clarence Mars)である。彼もまた失敗続きの野心家だったが、バタークリームの菓子で成功した。このビジネスをチョコ菓子に継いだのがフォレストである。
 本書がおそらく米国民に驚きをもたらしたのは、その主力製品であるm&mの由来を明らかにした点だろう。最初のmは誰もがわかる。マーズそのものである。問題はもうひとのmである。これはムリー(Murie)だというのである。ムリーとは、ブルース・ムリー。ミルトン・ハーシーの右腕ウィリアム・ムリーの次男である。チョコレート会社のライバルとみられる両社の歴史に隠された深い繋がりがあった。そのあたりが、本書を一種の推理小説の味わいに仕上げている。
 本書は米国のお菓子に馴染んだ人には懐かしい製品がいろいろ出てくる。自分の無知も思い知らされる。たとえば、ペディグリーチャムもマーズの製品だとか、米国のキットカットはハーシーが販売しているとか、ベルギーチョコのゴディバの株主はキャンベルだったとか(今はトルコの会社)……。
 生活に近い部分の生き生きとした歴史を知ることは非常に面白いものだということを確認する珍しい書籍である。ジャーナリズムの一つの形としても充実している。
 
 

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2012.10.30

日本に家族なんてものはなかったし、結婚もなかったんですよ

 NHK大河ドラマ「平清盛」が面白い。が、これは現代の物語だなと思わせるのは、白河法皇の血脈と氏族の親子関係みたいな部分だ。血脈は所詮ファンタジーなのでどうもよいが、物語の、親子関係というか親子の愛情の描写を支える心情は実に近代人のそれであり、近世から現代の家族観を反映しているにすぎない。あの時代にそういう心情はなかっただろう。
 物語なんだから、それで悪いというわけではない。古代・中世の親族構成というのは、なかなか現代人の感覚からはわからないものだ。昨日、近世日本の家族の与太話を書いたが、これも機会かもしれないので補足しておこう。
 村落の皆婚化が進んだのは江戸時代中期であった。なぜかという理由に、とりあえず生産力向上を挙げ、さらにその背景に統治の安定を挙げた。基本的に江戸時代初期は統治が安定に向かう時代だといえるし、その理由も自明のようだが、踏み込むと考えさせらることがある。
 昨日のエントリで参考にした「歴史的に見た日本の人口と家族」(参照)では、家族の発生について、こう書かれている。


 江戸時代前期に生じた大きな変化とは小農の自立であった。平安末期以降の荘園・公領は、名主と呼ばれる有力農民の下に下人等、多くの隷属農民が属する形態をとっていた。室町時代以降、隷属農民は徐々に経済的に自立する動きを見せていたが、この流れを決定的にしたのが 16世紀末に行われた太閤検地である。太閤検地は一地一作人制を原則とし、農地一筆ごとに耕作する農民を確定した。このことは小農の自立を促し、家族を単位として耕作を行う近世農村への道を開いた。

 太閤検地により、一地一作人が原則化されたという。これが「家族を単位として耕作を行う近世農村」を形成した。村落はむしろ、近世に家族とともに成立したものだ。村落の皆婚化はその付帯状況だった。
 別の言い方をすると、太閤検地以前の村落は、現在の日本人が、田舎なり、昔の村落と思っているものとは異なっていた。どのようなものだったか。

 この傾向は江戸時代に一層強まった。まだ江戸時代初期には、名主的な有力農民の下に、下人等の隷属農民、名子や被官などと呼ばれる半隷属的小農、半隷属的傍系親族等が大規模な合同家族を形成するという形態が見られたが、時代の進展とともにこれらの下人、名子、傍系親族等は徐々に独立して小農となっていった。

 マルクス史観的に「農奴」と呼ぶのは勇み足すぎるが、いずれにせよ、農民は、権力者・権力者氏族に隷属していた。
 この隷属のイメージは、現代日本人からすると、家族が身分やカーストに所属していて、家族単位で権力者に従うかのように理解されがちだが、そういう家族なるもの自体が存在していなかった。
 さらに言うと、そもそも結婚というのが、少なくとも庶民的には存在しえない社会構造だった。
 そうは言っても、男女の性交はあり、子どもは生まれていたことは間違いない。では、家族なくして、子どもはどういう状況で生まれて、どう生育されたのか。
 これらには当然ながら、法が関連している。当時、法はどのように世代の再生産にかかわる問題を規定していたか。以前ブログで触れた「江戸時代(大石慎三郎)」(参照)が参考になる。

 在地小領主が戦国大名にまで成長した段階でだした領内統治のための法である分国法には、多くの場合子供の配分のルールを決めた項目がある。それは主人の違う男女のあいだに生まれた子供の配分であるが、たとえば、「塵芥集」では男の子は男親の主人が、女の子は女親の主人が取ることを決めている。また「結城家法度」ではそれが原則ではあるが、一〇歳、一五歳まで育てた場合には、男女とわず育てたほうの親の主人がその子供を取るべきだと既定している。

 地域によって法のあり方は異なるだろうが、基本的に、農民は人間というより「財」の概念であり、子どもまた財の配分として見られていた。あるいは子どもはその財のまさに利子のようなものであった。引用にある「塵芥集」という法では、男の子なら男親の主人の財であり、女親は女親の主人の財であるとしていた。
 とはいえ、実際に子どもは育てられていた。当時、具体的に誰が子どもを育てていたのか?
 同書には明示されていないが、財としてみれば、最終的には主人が管理していた。隷属民の子どもは、主人が制度的に責務を持ち、財としてその氏族なりの集団で管理・育児されていたのだろう。当時の説話などから推測するに、その管理システムが性交・出産のシステムをも包括していたようにも見える。
 いずれにせよ、江戸時代初期までは、日本の社会の多数の庶民には、父子の関係は薄く、母子の関係はあっても家族はない。同書は簡素にこう描く。

 このことはまだ庶民大衆の祖先たちは、この段階では夫婦をなして子供まであっても、夫は甲という在地小領主の隷従者であり、妻は乙の隷従者であるというように、夫婦が家族とともに一つの家で生活するという家族の形態をとっていないことの反映である。つまりわれわれ庶民大衆が家族をなし親子ともども生活するようになったのはこの時期以降、具体的には江戸時代初頭からのことである。

 江戸時代初期になって村落の世帯分化と皆婚化とで家族が形成されていく。氏族集団を一地一作人的な家族の集合に変化させ、見合いというか性交・婚姻・出産のシステムがかつての氏族内の機能を代替していったのである。
 江戸時代が始まるころまで、庶民には概ね、日本に家族なんてものはなかったし、結婚もなかったんですよ。
 その後、家ができて、家を死後に持ち越すために墓ができて、墓の管理のためにも家の存続が必要になった。しかし、そうした時代もいよいよ終わりつつあり、皆婚はなくなったし、墓もなくなってきた。
 
 

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2012.10.29

なんで昔の人は結婚できていたのか?

 生涯未婚率が上昇していると言われ、当然、比較として、なんで昔の人は結婚できていたのか?という問題がたまにネットの話題に上がる。この手の問題は、解答の要件がはっきりしていないので、どういう話でもいい。寄席の大喜利みたいなものになってしまう。それでもいいのではないかな。そんじゃ。
 よく昔の人の生涯未婚率は低いと言われる。生涯未婚率というのは50歳まで結婚したことがない人の人口比である。1920年代でも数パーセントみたいなグラフをよく見かける。これじゃ昔は皆婚社会だったなといった印象である。
 1920年とかの起点がそうなっていると、ふーん、昔からそうなんだと思いがちだし、統計に根幹的なミスがなければ、そういうことなんだろう。だが、基点をもうちょっと昔にずらしていくとどうなるか。つまり、昔っていつか。
 江戸時代のころはどうだったか。まず、よく言われるように、18世紀、世界に冠たる大都市・江戸だが、婚姻の前提となる男女比を見ると、江戸時代後期、明治維新が近い1843年だと、江戸では、男性を100とすると女性89。だいたい10対9くらい。男女人口の歪みはそれほどない。当たり前ではないかと思う人もいるだろうが、江戸時代中期、1721年だと、男性を100とすると女性55。だいたい2対1という異様な社会である。こういう男女比が偏った社会で婚姻はどうなるかと想像すれば、およそ男性の皆婚は無理でしょうということはわかる。
 江戸時代後期では中期に比べると男女人口の偏りは少ない。では、皆婚的な傾向があったかというと、配偶率が意外に低い。江戸でも地域によって差があるが、男性が50%くらいで女性が70%くらいである。女性のほうが結婚していることが多いかなという程度だし、男性にしても結婚しているのは二人に一人くらいなものだろう。都市における婚姻の自然的な傾向と見てよいだろう。
 ただし、それは大都市江戸の場合。
 日本全体ではどうだったかだが、近世の都市と村落の人口比も考慮しなければならないが、村落の場合は、江戸時代後期には皆婚に近い状態になっている。
 村が婚姻を統制するシステムを確立していたとみてよいし、これはおそらく村落共同体の存立のためのサブシステムとしての皆婚だったのだろう。つまり村落では男女を婚姻で世帯を配分するシステムがあったのだろう。むしろ、江戸のような都市はそうした配分システムを補完・廃棄する位置づけであったのかもしれない。
 村落の皆婚システムがどのように形成されたかだが、江戸時代前期の未婚率は、村落にもよるだろうが、例として、1675年・信濃国湯丹沢村16歳以上の未婚率は、男子46%、女子32%とのことで、それほど低くない。しかし同村はその後、江戸時代中期に皆婚していくので、基本的な皆婚化への全体動向のなかにあっただろう。
 村落の皆婚化の傾向は、既婚家族が大家族で住むと想定しなければ、家族形態の変化に随伴している。実際、世帯規模もこの時期に減少している。つまり、村システムが、世帯の分散も支配していた。
 この江戸時代中期の現象は、妥当に推測されることだが、生産力の増大や人口増加にも関連している。ただ、その関連と原因をどう見るかは、むずかしい。
 生産力の増大が人口増加をもたらし、村落システムの婚姻の制御を確立したとみてよいようにも思うし、他方、皆婚は人口増加の起因ともなるだろう。概ね、起点は生産力の増大にあると見てよいようには思う。
 ではなぜこの時代に生産力が増大したのか。おそらく統治の安定性だろうし、統治というのは、土地の所有と配分が安定化したからだろう。
 話を、なんで昔の人は結婚できていたのか?に戻すと、こうした流れから見ると、明治維新前の村落の皆婚システムが明治時代以降、国家レベルに移行したということだろう。日本国という巨大な村ができたのか、そのシステムの強制力に等しい何かが国家規模で形成されたか。
 ここでもしかし、注目したいのは人口の変化である。江戸時代前期、村落が人口増加から皆婚化を起こしたように、明治時代以降も、また人口が増加している。別側面でいうと、江戸時代中期から後期は人口が安定していた。
 すると、明治時代以降の皆婚化と人口増加は、生産力の増大に大きく関係しているとみてよいだろう。
 なにが明治時代の生産力の増大を引き起こしたかは、これも諸論あるだろうが、おそらく、西洋文明化というより、貨幣経済の発達ではないだろうか。明治維新というのは、しばしば思想、あるいは外圧として語られるが、実際は貨幣システムの阻害要因としての統治の転換とみてよいと思う。その意味でいえば、明治維新とは1873年地租改正であろう。
 話が大喜利ノリをいいことに適当に展開してみたが、これらが妥当だとすると、現在日本の未婚化というのは、やはり生産力と人口の関係で見てよい。つまり、江戸時代前期や明治時代の逆回りになったということだ。もっといえば、世帯を分化していくより、既存世帯の富を保持することにインセンティブがかかってはいるのだろう。簡単にいうと、デフレで親の臑の囓り甲斐がある。
 与太話は以上の通りだが、さて、村落の皆婚システムの内実はどのようなものだったか。それが実質20年くらいまで日本で動いていたとも概ね言ってもよい。
 私は、もう半世紀以上も生きて来たので、その逆転の転換を体験として知っている。表面的に「見合い」システムだろうが。
 これについて、しばしば「社会が配慮して見合いをさせた」といったことが語られるが、そうした話を聞いていて隔世の感があるのは、この見合いシステムというのは、身分システムのサブシステムであることを多くの人が失念していることだ。
 見合いというのは、村落的にはまず家柄が問われる。原形が村落の世帯支配システムであり、同時に権力のシステムなのだから、当然である。
 例外のように見える、財のある家が娘を介して、優秀な男を引き込む機能もあるが、全体的には権力を維持するように、権力に従属する人々をネズミ講のように産出するシステムが「お見合い」である。このあたり、近代自我との相克にした漱石の「明暗」が実にコミカルで面白い。
 見合いシステムの支配は、結婚するために自分のスペックを押さえていたというような自由市民の意志・行動・市場モデルの作動ではなく、従属すべき権力機構に世帯を当てはめることだった。
 現在、多くの男女の市民が従属すべき権力機構に配分されなくなった。等しく下層化したとも言えるかもしれない。現在はまた、江戸時代中期からの後期の都市民のモデルの自然性と、それなりの財を持った家への世帯に未婚者が従属したからといえるのではないか。実は、現代の結婚も、その従属とそれほど変わりなさそうだが。

参考:「歴史的に見た日本の人口と家族」(参照
 
 

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2012.10.28

[書評]ゼロからトースターを作ってみた(トーマス・トウェイツ)

 先日トースターを買い換えたおり、6年くらい使った以前のトースターを分解してみた。正確に言うと、壊れたので分解して直せるかと思ってやってみたのだった。直せないこともない。というか分解修理は二度目だった。バラしてみて、どうしようかと思った。そんなに高いものでもないしと悩んだ。が、買い換えた。T-Falの新しいトースターである(参照)。新品、その後どうか。快適。いわゆるトーストだけでなく、クロワッサンのあっためとか便利だった。あんパンをさくっとあっためても、うまい。

cover
ゼロからトースターを作ってみた
 それはさておき、分解したトースターのポップアップの仕組みの一部に電磁石を使っているのを見て、それなりにメカニカルではなく電子的な制御もしているのだなと思ったものだった。ほかには、これは単純な機械だな、自分でも作れるんじゃないか、とも思った。
 この本、まさにそう思ったトーマス・トウェイツ君のトースター作成プロジェクトの記録である。
 トーマス君は2009年に英国芸術大学の大学院を卒業したというから、まだ20代なのではないか。実際、この本を読んでみると、その冒険譚に、こりゃ20代の馬力がないとできないかなと思う。そしてなにより、彼の専門がアートにあることがポイントだ。デザインと人間の文明への視点が記録のすべてに表れている。
 私など技術屋の倅の技術屋くずれだと、トースターを自作するというとき、ちょっとアキバに行ってきますから、みたいにさくさく行動してしまう。足りない部品は渋谷のハンズとかにも行く。まあ、そんな感じ。トーマス君はそうではなかった。
 英語でよく"from scratch(スクラッチから)"という表現がある。ゼロから作るということだ。本書も副題は"Or a Heroic Attempt to Build a Simple Electric Appliance from Scratch"(参照)である。プログラマーならこの表現は誰でも使う。既存のパーツやライブラリーなど再利用できるものを組み立てるというのじゃなくて、まったくオリジナルにコーディングをするというやつである。トーマス君のトースター作成プロジェクトは、スクラッチからが想定されているのだ。アキバやハンズにゴーというわけではない。
 なぜなのか。トーマス君は、「銀河ヒッチハイク・ガイド」五巻「ほとんど無害」(参照)の主人公アーサー・デントの述懐を引用する。物語のアーサーは未開な惑星に足止めされているとき、自分の文明の技術力でその星の皇帝になることを夢見るのだが、無理だと察するのである。

 自分の力でトースターを作ることはできなかった。せいぜいサンドイッチぐらいしか彼には作ることができなかったのだ。

 トーマス君はこの視点に執着した。本当にトースターはできないものなのか?
 逆に言えば、本書の視点は、私たち現代人が技術の皇帝のような振る舞いをしている実態を暴くための、一つの批評としてのアートの行為にある。そもそも工学的にトースターを再発明しようというプロジェクトではないし、そういう視点で、このプロジェクトを読んでもあまり意味はない。
 実際に本書を読んでみるとわかるが、彼が作っているものは、トースターとは言いがたい。ではなにを作っているのか。
 鉄であり、マイカ(雲母)、プラスチック、銅、ニッケルである。
 どうやって鉄を作るか?
 そりゃ鉄鉱石から作るんでしょ。そこから鉄を製錬すればよいではないか。鉄など人類は紀元前18世紀に作っている。もちろん、トーマス君も途中まではできる。鉄塊ができた。では、それををハンマーで叩いて伸ばして鉄板を作ればよい。叩いた。砕けた。
 トーマス君は挫折する。なるほど副題にあるように、勇者ヨシヒコのように「勇者の試み(Heroic Attempt)」である。というか、この英語の含みは「英雄の医学(Heroic medicine)」(参照)のように絶望的な色合いがある。
 どうしたら鉄板ができるのか? いったんは挫折したトーマス君のその先の挑戦が面白い。電子レンジを溶鉱炉にするのである。
 それ、話が違うのでは? いやいや。このあたりから本書ががぜん面白くなる。電子レンジで溶鉱炉を作るという話は、胸躍る。鉄をスクラッチから作るというより、電子レンジを溶鉱炉にしちゃうという行為がすでにアートだ。電子レンジっていったいなんだということを再考させる。
 その他もその類だ。プラスチックなら原油から作ればいいのだが、それはしない。最初はジャガイモとか使っている。これはもうわざとだろ。それから廃品を使う。明らかにグロテスクな外装ができる。ニッケルにいたっては、カナダの硬貨を潰している。やったね。
 一言でいえば、文明批判のアートである。もちろん、反原発で江戸時代の日本に戻そうといった時代錯誤の文明批判ではない。文明の意味をくみ取るための自覚の行為とみてよい。文明とはかくも偉大だと再認識するのではなく、そのプロセスのなかの人間的なアート(技芸)がどこまで人間的に理解可能なのかを示している点が重要なのである。本書を読み終えたとき、誰もが日常の物との関係を問い直されるような奇妙な感覚を持つだろう。
 そしてなによりもこのプロジェクトが面白いことにつきる。ありゃあ、やっちゃったなという、なんでもやっちゃう感がたまらない。


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