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2012.10.27

[書評]知ろう食べよう世界の米(佐藤洋一郎)

 昨日ナショナルジオグラフィックのサイトに「イネの起源は中国・珠江の中流域と判明」(参照)という記事があった。話はタイトル通りでもあるが、発表媒体はNature誌で、原文も公開されていた(参照)。内容の評価についてだが、研究チームが「長い論争に終止符を打つことができた」と自負するほどの価値があるかは私にはわからないが、ナショナルジオグラフィックの記事、および該当論文の概要を読む限り、妥当な見解であり、さほど驚きもなかった。

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知ろう食べよう世界の米
(岩波ジュニア新書)
 というのは、最近、といっても7月だが、子ども向けの科学入門書である岩波ジュニア新書で「知ろう食べよう世界の米」(参照)を読んで、話の概要は知っていた。論文概要は次の通り(参照)。

作物の栽培化は長期にわたる選択の実験であり、これがヒトの文明を大きく進歩させてきた。栽培イネ( Oryza sativa L.)の栽培化は、歴史上最も重要な進歩の1つに位置付けられるが、その起源と栽培化の過程については意見が分かれており、長く論争が続いてきた。今回我々は、さまざまな地域から収集した野生イネ、ルフィポゴン( Oryza rufipogon 、栽培イネを生み出した直接の祖先種)の446系統と、栽培イネであるインディカイネとジャポニカイネの1,083系統について、ゲノム塩基配列を解読し、イネゲノムの包括的な変異マップを作成した。選択の痕跡を探索して、栽培化の過程で選択的除去(selective sweep)が起こった55の領域を同定した。この選択的除去とゲノム全域の変異パターンを綿密に解析したところ、ジャポニカイネ( Oryza sativa japonica )は初め、中国南部の珠江中流領域周辺でルフィポゴンの1集団から栽培化されたことが判明した。またインディカイネ( Oryza sativa indica )は、最初に生まれた栽培イネがその後、東南アジアや南アジアに広がるにつれ、このジャポニカイネと現地の野生イネとの交配により生じたことも明らかになった。高精度の遺伝子マップ作成により、栽培化に関係する形質の解析も行った。この研究は、イネの育種のための重要な基盤となり、また作物の栽培化の研究に役立つ効果的なゲノミクス手法を示している。

 むしろ、この概要の背景を知るのは、同書がわかりやすい。もっとも、同書が今回のNature論文を先取りしていたわけでもなく、詳細まで含まれているわけではない。
 興味深いのは、ルフィポゴン(Oryza rufipogon)の、人類の扱いで、同書でもこの点について、開かれた問いを出している。

 ところで人間はなぜ、栽培イネをルフィポゴンだけから進化させたのでしょうか。アジアには、ルフィポゴンのほかにも野生イネを利用する文化があります。それなのになぜ、人間の社会は、ルフィポゴン以外の野生イネは栽培化しなかったのでしょう。西アジアで栽培化されたムギの場合、社会は、コムギの仲間だけでなく、オオムギやエンバクも同時に栽培化させました。どうしてイネではそうなかなかったのか。これについて私はよい仮説を持ち合わせていないのですが、どなたか、これという妙案を考えてくださらないでしょうか。

 インディカについても本書で言及しているが、概ね今回のNature論文と同じく「このジャポニカイネと現地の野生イネとの交配により生じた」という考えを出している。
 同書だが、子ども向けに平易に書かれているし、タイトル「知ろう食べよう世界の米」のように米を食べる話も多い。よく、パエリアはインディカ米だと誤解する人がいるが、欧州でもジャポニカはよく食されている。本書ではロンバルディア平原で15世紀には栽培されていたもある。黒海沿岸でも栽培されていたようだ。それらの伝搬路もよくわかっていない。
 本書で興味をもったのは、米国の米の起源で、基本的な部分はわかっているとも言えるが、具体的な部分では謎も残るらしい。冒頭のナショナルジオグラフィックの記事を読んでいるとき、たまたま米国米の起源で、アフリカ説を見かけた(参照)。黒人奴隷が持ち込んだのかもしれない。
 米の議論は日本や韓国などでは農業保護の観点からナショナリズムの傾向を帯びやすく、日本でも、もっとお米を食べようといった奇妙なキャンペーンも打たれる。だが、米は世界中で食されているし、その食の形態は、本書が平易に説くようにさまざまなバリエーションがある。ピラフにしてもリゾットにしてもいい。マカロニサラダみたいにサラダにしてもよい。しょっぱいおかずで食わなくても、ミルクで甘く煮てもいいし、ライスプディングでもいい。
 本書で強調されている、アジアの「米と魚」また「米と大豆」という組み合わせの食の視点も、アジアを広く知る上で重要だろう。私が馴染んだ沖縄の食文化も原点は、ウムとトーフとイチャガラスであった。
 子どもたちに、本書のように生活に密接した部分から科学や文化を伝えていけば、現状ネットに溢れるようなナショナリズムを介した無益な食の議論もなくなるだろうし、科学/非科学といった教義ではない、生き生きとした科学の魅力も理解できるようになるだろう。
 
 

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2012.10.26

ベンガジ襲撃事件のその後

 米国大統領選では、意外にもロムニー候補が追い上げて詰めの部分が見えないものの、おそらく全体の流れではオバマ再選ということになるだろう。どちらが勝っても、それほど米国の政策に大きな変化はなく、むしろオバマ氏は再選することで歴史的にはさらにしょっぱい評価を得ることになるのではないか。
 それを前倒しにするような話が、むざんな死者を出した9月11日のリビアの米領事館襲撃事件である。
 この事件は当初、こんなふうに語られていた。9月13日付けCNN「ベンガジの米領事館襲撃で大使ら4人死亡 リビア」(参照)より。


 今回の事件は、イスラム教の預言者ムハンマドを冒とくしたとされる映画がインターネットに投稿されたことに対する抗議行動が発端となって発生した。エジプトの首都カイロの米大使館もこの映画をめぐって襲撃され、星条旗が破り取られている。
 オバマ大統領は「我々は他者の信教を中傷する一切の行為を拒絶する」「しかし今回のような非道な暴力は、断固として正当化できない」と非難した。

 日本でもそのように報道されていた。
 本当だろうか。オバマ大統領は上手な嘘をついているのではないか。
 疑惑をまず、同記事で再考してみよう。

 米政府高官などによると、領事館はロケット式の手りゅう弾によって襲撃されて炎上。 建物は武装集団に取り囲まれ、スティーブンズ大使らは建物の屋上へ脱出しようとして、ほかの職員と離ればなれになった。死亡したのはスティーブンズ大使のほか、情報管理担当官のショーン・スミス氏と国務省の警護担当職員2人。死亡に至った詳しい経緯は明らかになっていない。

 暴徒がロケット式の手榴弾を持っているだろうか。9.11に示し合わせて実施されていることも注目したい。

 関係者によると、ムハンマド映画に対する抗議行動を武装集団が扇動したのか、単に利用しただけなのかは分かっていない。スティーブンズ大使が狙われていたとは思えないという。
 米当局者はこの襲撃について、計画的な犯行だったとの見方を示している。リビア東部のイスラム武装勢力の動向に詳しい関係者は、過去にもベンガジの領事館を襲撃したことのある国際テロ組織アルカイダ系の集団が、今回の襲撃にも関与した疑いが最も濃厚だと語った。

 この報道を見直してみると、「ムハンマド映画に対する抗議行動を武装集団が扇動したのか、単に利用しただけなのかは分かっていない」というように、ムハンマドを侮辱する映画の文脈で語られていた。
 それが正しければ、ベンガジ領事館で明白な抗議デモがあったはずである。ところが、そんなものはなかったようだ。10月11日時事「オバマ政権の対応に疑念=リビアの公館襲撃から1カ月-外交政策、大統領選の争点に」(参照)より。

オバマ政権は当初、事件をイスラム教を侮辱したビデオに対する抗議デモの延長線上にあったと説明し、攻撃をテロ組織アルカイダと関連がある「テロ」と断定したのは、発生から2週間以上が過ぎてからだった。公館前のデモがなかったことも最近判明した。

 テロだったのである。
 さらに、アルカイダによる9.11を模した計画的な襲撃であったとしたら、どうだろうか? そうであれば、オバマ政権はそれを、ムハンマド侮辱映画の反動という偶然の事件に早々にすり替えて見せたことになる。すり替えなければ、米政府の対テロ政策の根幹的な失態であることになるからだ。
 9月19日の時点ではオバマ政権は当初の文脈を固持しているようだった。同日ブルームバーグ「リビア米領事館襲撃、事前に計画されたものでない-米当局者」(参照)より。

 9月19日(ブルームバーグ):米国家テロ対策センターのディレクター、マシュー・オルセン氏は19日、リビアのベンガジで11日に起きた米国領事館襲撃事件について、事前に計画されたものではなかったとの見解を明らかにした。同事件ではスティーブンス駐リビア米大使を含む4人が犠牲となった。
米国とリビア両国の当局者の間では、米領事館襲撃が急進的なイスラム主義者によって事前に計画されたものだったか、過激派が平和的なデモに乗じて攻撃を実行したのかについて、公式見解が分かれている
オルセン氏は上院国土安全保障委員会の公聴会で、米当局は実行犯が国際テロ組織アルカイダか、北アフリカを拠点とするイスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQMI)に関与している可能性を示す証拠に目を向けていると説明。その上で、「現在手元にある最高の情報は、今回の攻撃が便乗主義的なものだったことを示している」と指摘した。同氏は、調査はまだ終わっていないとしている。

 9月19日の時点では、「公式見解が分かれている」とうことだった。分かれる理由は、アルカイダによるテロであれば、オバマ大統領は嘘をついていたことになるし、対テロ政策の失策ということになるからだ。
 オバマ大統領は9月26日の国連総会の演説でも、リビアで殺害されたスティーブンス大使について、言論の自由と寛容の精神の双方を守ることを訴えることで、先のように、偶発事件のストーリーを維持しようとしていた。10月以降、テロだと認定された現在から見ると、オバマ大統領、必死だったなの感がある。
 オバマ大統領への疑惑は、選挙戦ともあいまってまだ曖昧な状態にある。
 昨日の日共同「チュニジア人逮捕 リビアの米領事館襲撃」(参照)より。

 【カイロ、ワシントン=共同】AP通信によると、チュニジア情報省報道官は24日、米大使ら4人が死亡したリビア・ベンガジの米領事館襲撃事件に関し、チュニジア人の男(28)が逮捕されたことを明らかにした。
 男は今月上旬、トルコに不正パスポートで入国しようとして拘束され、チュニジアの首都チュニスに身柄を移されたという。襲撃事件に関与した疑いが持たれているが詳細は不明。
 一方、ロイター通信は、在リビア米大使館が事件直後に「イスラム過激派アンサール・シャリアがインターネット上で犯行を認めた」とワシントンに報告していたと報道。
 ただアンサール・シャリアはその後、関与を否定しており、クリントン米国務長官は24日「現地からの報告がいかに流動的だったかを示している」と述べ、オバマ政権の対応に問題はないとの立場を強調した。
 米国内では、オバマ政権が襲撃事件をテロと認識しながら、政治目的で「反米デモが拡大した暴動」と説明したとの疑惑がくすぶっている。

 問題は、襲撃事件に対するアルカイダの関与によっても明確になってくる。もし、その関与が濃ければ、偶発事件だとは考えづらい。どうか。昨日のCNN「アルカイダ系の2組織が同時関与か リビアの米領事館襲撃」(参照)はこう報じている。

(CNN) リビア東部ベンガジの米国領事館が今年9月11日に襲撃され、クリストファー・スティーブンス米大使ら米国人4人が殺害された事件で、米情報機関がアルカイダ系のテロ組織「イラク・イスラム国」が襲撃の中核的な役割を果たしたと分析していることが25日までにわかった。
 米政府高官がCNNに明らかにした。米情報機関当局は先に、襲撃には同じアルカイダ系の「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ組織」が関与した形跡があると指摘しており、アルカイダ系の2組織が大使らの殺害に加担していた可能性が浮上した。

 現状では計画的犯行の線が色濃いが、決定的な証拠までは挙がっていないかに見える。
 加えて、国内報道は見当たらないが、実は、襲撃直後、オバマ政権側は、この襲撃がテロであることの情報を得ていたようだ。10月24日付けロイター「米政権はリビア襲撃の二時間後に戦闘組織の犯行宣言を受けていた(White House told of militant claim two hours after Libya attack: emails)」(参照)より。

Officials at the White House and State Department were advised two hours after attackers assaulted the U.S. diplomatic mission in Benghazi, Libya, on September 11 that an Islamic militant group had claimed credit for the attack, official emails show.
米政府と国務省の政府高官は、9月11日、リビアのベンガジにある米国外交使節への襲撃の二時間後に、イスラム武装グループが攻撃声明を出していたことについて、電子メールで示した。

 オバマ大統領は、テロ対策の失態を上手に手品のように文化的な軋轢の問題にすり替えてみせたのではないか。疑惑は残る。
 
 

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2012.10.25

Kindle日本進出、しかしなあ

 朝方iPadを見ていると、Kindleアプリの更新が入っていて、おやっと思って見ると、やはり今日から始まる日本サービスの対応だった。さすが対応が早いなとも思ったが、以前からこれ、日本語の辞書などもこっそり内蔵していたから、あらかた準備は出来ていたのだろう。さて、問題は、米国アマゾンのKindleサービスとの連携である。
 ネットの情報を当たってみると、米国で購入済みのKindle書籍は日本版のKindleでも利用できるとのことで、ほっとしたのだが、その仕組みを調べたら、なんのことはない、日本と米国のアカウントを統合しろというのだ。それでもいいかと思ったら、とんでもないことがわかった。一度どっちかに統合したら戻せないというのだ。しかも、米国と日本でKindleのサービス内容が違うのである(参照)。
 先日Newsweekが電子版のみになったのだけど、これって、実際のところKindleで読むようにできている。それが日本アカウントに統合すると配信されなくなるということのようだ。ぽかーん。
 余談だが、昨日配達された日本版Newsweekには、日本版のほうは今後も変わりありませんとのお手紙が入っていた。版元はまた変わるかもしれないけど、日本だとまだまだ電子マガジンは無理だろう、広告媒体として。
 Newsweekだが、両方読んでいる人は知っていると思うけど、日本版Newsweekは本家とけっこう違う。抄訳がすさまじいこともあるし、総じて日本スタッフが書いた記事は残念なクオリティであることが多い。とはいえ、本家よりも国際政治に配慮して、slate、globalpost、diplomatなどの記事も混ぜていて、そこは便利だ。もうちょっと編集力がアップするといいのだけど、そうすると売れなくなるし、広告も取りづらくなるのだろう。
 で、Kindleだが、日本アカウントに米国アカウントを統合すると、Newsweekなどマガジンがなくなってしまう。さらに、Audibleの統合もなくなる。この点についてはたぶん、Audibleだけ別アカウント作れないこともないだろうと思うが、そのあたりで、うへーめんどくせーになってくる。
 あと、当然だがドル建てではなくなる。そのあたり、iTMSみたいにレートでぼったくりはないかなと見たけど、さすがアマゾンは妥当なレートだった。とはいえ、米国アマゾンだとさらにディスカウントがあったり、他にもいろいろ購入できたり、品揃えも豊富だったりもする。結局、米国アカウントを捨てるわけにもいかず、とほほ。
 というわけで、洒落にもならない、Kindle、二つ持ちということになりかねない。
 すでにPaperwhiteのKindleは日本サイトで予約したが、これも、米国版では使えないといことになりかねない。しかたないか。
 iPadのKindleアプリは、米国サービスに紐付けしておくしかないし、iPodのほうはaudibleと併せてやはり動かしたくない。
 当面、日本版のKindleサービスは無縁かなと思ったのだけど、そういえば、以前のSIMなしのArc(android)が腐っていたことを思い出し、引っ張り出して、Wifiにつなげて、こちらのKindleアプリを日本サービスにつなげてみた。なお、こうした使い方するとき、米国と日本と同じメールアドレスだとトラブルが起きるのでご注意。片方のアカウントが見かけ上消えてしまう。メールアドレス、イコール、アカウントということが原因で、実際にはアマゾンはシステム的には日米が統合されているからなのである。
 Arcの画面なので、旧iPod/iPhoneよりやや広めだが、こんなものかなという印象。ルビがどんなものか、以前青空Kindleで、うひゃと思った「渋江抽斎」を落として表示してみた。おや、これはかなり、グット。さすがでした。もしかして、Kindle for Windowsでも表示できるのかと思ったら、こいつはそもそも日本サービスに非対応でした。Kindle Cloud reader と同じ。つまり日本サービスに非対応。フォントの問題かな。
 他に魯迅の作品をArcに落としてチェック。つい、読みふけってきそうなんで、これだと、普通に日本のKindle書籍を買ってもよさそう気になって、適当に新書を一冊買ってみた。「教科書では教えてくれない日本の名作」(参照)という本。内容は知らない。魯迅とか読んでいたら、勧められたというだけ。600円。

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教科書では教えてくれない
日本の名作
(ソフトバンク新書) eBook
 書籍版より安いんか、これ。と思って、あとで書籍版を見ると、798円だった(参照)。ほぉ。だいたい200円安いっていうことになるなあ。
 ちなみにこれ、中古で買うと、224円で送料が250円とのことなので、都合574円。おや? それって、電子書籍とタメ張る価格ですな。いや、計算違い、これだと474円。まあ、でもそのくらいの差。
 すると、あとの違いは、電子書籍の読みやすさ便利さというのと、書籍が残ることのメリット(たとえば人にあげちゃうとか)だが、どんなものか。まあ、これまでもアプリ化した電子書籍は読んでいるし、米国Kindleではけっこうライブラリーがうざったくなるくらい読んでいるので、そう未知の世界というものでもない。
 600円で新書というあたりは、デフレ日本には嬉しい価格帯だし、書架も溢れている現状、一度読んで終わる書籍は電子ブックのほうがよい。
 ちなみに、英書だと、実際の書籍で読むより、辞書引きはもとより、検索とかしおりが便利だったりする。
 当面、日本は、電子書籍が紙の書籍を上回ることはないだろうが、予想部数が少なくて出版がためらわれるような書籍は、電子書籍のみということにもなってくるだろう。そうした書籍はそれなりの面白さもあるだろう。昔の絶版文庫が廉価で出てくることは切望する。
 あと、電子書籍の底上げで、柳田国男全集とか出て来ないものか。もう死後、50年なのであった。
 素人出版も盛んになるだろう。米国アマゾンではすでに、素人さんの出版物がけっこうあって、「これは安い!」と思って買うと、けっこうな率でクズ本。慣れたけど。
 あれが日本でも起きるようになるだろう。私も、クズ本書いてを電子化して売ろうかとかともちょっと思った。メルマガよりはきつくなさそうだ。当然、同人誌の類は、アマゾンを使った出版とか盛んになるだろう。
 総じて、日本のKindleには、米国のサービス並みのものを期待していたので、一巡日本サービスを見て、がっかり感はある。が、それはそれなりに使っていきそうな気もする。
 PaperWhiteはやはり気になる。しばらくすると、PDF文書が読みやすいくらいのサイズのE Inkも出てくるんじゃないだろうか。
 
 

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2012.10.24

おなかいっぱいになるまで食っているんじゃねーよ。偉そうに人を批判なんかするなよ。

 スティーブ・ジョブズがスピーチの締めの言葉で使った、「Stay hungry,Stay foolish」をどう訳すか。ちなみに、この言葉自体は、「The Whole Earth Catalogue」っていう本に由来する。
 ジョブズの世代に近い僕なんかだと、うんうん、って思い出す。昔Macを使っているとき、これのハイパースタック版やCD-ROM版をよく見ていた。書籍ではミレニアム版もよく読んだ。
 で、「Stay hungry,Stay foolish」をどう訳すか。
 「ハングリーであれ、愚かであれ」というのが多いかもしれない。
 "hungry"を「ハングリー」とカタカナにしちゃうのは、「ハングリー精神」とかの印象なんだろう。
 "foolish"は「愚か」かというと、どうか。これを延々議論しちゃう人もいるけど、でも、「愚か」でいいと思う。違うとすれば、古風な響きがあるということかな。現代だと普通にいうと、"Stay stupid"、"Stay silly"とかかなんだけど、これだと、本気でオバか、になってしまう。古風な感じを汲めば、「愚者であれ」かもしれない。愚者の黄金、二枚とか。
 "Stay"は、「そこでじっとしてろよ」ということ。
 だから、「ハングリーなままであれ、愚者のままであれ」みたいな訳語でいいのかもしれないが、なにかしっくりこない。
 一年くらい、なんか違うなあと思っていた。
 違和感のコアみたいなのは、「Stay hungry,Stay foolish」とか持ち上げて、教訓にしちゃう人たちって、一番、この言葉が似合ってない感じがするんですよね。
 むしろ、某氏とか某氏とか某氏とかのほうが、ベタに「Stay hungry,Stay foolish」じゃないかと。でも、某氏とか某氏とか某氏とかは、シンプルに、「hungry,foolish」だけなのかもしれない。どうでもいいや。
 もわっとしていた。
 夢を見た。
 老師がやってきて、じゃあ、教えてあげようと言うのである。
 キタ━(゚∀゚)━!!!!!

老「まず、"Stay hungry"だがな、これは、おなかいっぱいになるまで食っているんじゃねーよ、ということだ」
僕「はあ?」
老「はあ、じゃないよ。腹減ったぁ、がっつり食いたいとか、すんなってこと」
僕「はあ? だって、食いたいもんじゃないですか」
老「だから、"Stay hungry"ということ」
僕「メタボ防止とか、あれですか、あの『やせる』っていうやつですか」
老「いや、そういう効果を求めるんじゃないんだよ。それじゃ、foolishじゃない」
僕「"Stay foolish"のほうはどういう意味なんですか?」
老「これはな、偉そうに人を批判なんかするなよ、ということだ」
僕「はあ?」
老「橋下と週刊朝日のごたごたを見てどう思ったかな?」
僕「橋下さんが正しいんじゃね。DNAとか持ち出して批判するってありえないと思うけど」
老「ははは、お前、お利口さんになったつもりだろ」
僕「え?」
老「橋下と週刊朝日、お前さんに何か関係あるのか?」
僕「ないです。ぜんぜん」
老「じゃ、どうして、どっちが正しいとか言うのか?」
僕「言っちゃいけないんですか?」
老「いいよ。言えば」
僕「じゃ、いいじゃないですか」
老「っていう、開き直った自分の状態をどう思う」
僕「あ、いけないなと思いますね」
老「偉そうに人を批判なんかするなよ」
僕「なるほど……しかし」
老「しかし、なんだ」
僕「バカっぽそうに批判するとか正義をまくしたてるのはどうですか」
老「いいんじゃないの」
僕「はあ?」
老「自分はバカだなあと思って、バカがまた正義こいちゃったなあと思っていたらいいんじゃないの」
僕「そういうもんすか?」
老「そう。じゃね」

 ということだった。
 
 Stay hungry,Stay foolish

 おなかいっぱいになるまで食っているんじゃねーよ。
 偉そうに人を批判なんかするなよ。

 うーむ。たしかに、そういうことかな。

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2012.10.23

「夜と霧」の謎

 cakesに寄稿している書評でフランクルの「夜と霧」が今日、公開された(参照)。この機会に日本語の旧訳の読み返しに加え、新訳と英訳本(1984年版と2006年版)を読んでみたが、書評的な話以前に、日本では本書の書誌的な情報が少ないように思われたので、その部分の比重がやや多くなり、本書の感動の核心がうまく表現できなかったかもしれないとも懸念した。が、感動の前提としての正確な読みにはやはり書誌的な情報は必要かと思い直した。新しく読む人や学生にも書誌的な情報は有益でもあるだろうし。

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夜と霧 新版
 それはそれとして、二点気になる、いわば「夜と霧」の謎が心に残り、これをcakesの書評に含めるかはかなり悩んだ。結果、最小限の指摘に留めた。そこに拘ると、不確かな思い込みでバランスが悪くなるように思えたからだ。
 そんなわけでこの話は書かなくてもよいことなのだが、ブログのほうでは簡単に触れておこう。「夜と霧」の紹介については、cakesの書評か、あるいはそちらが有料で避けるというのであれば、別の情報源に当たっていただきたい。
 「夜と霧」の本文では、途中、妻の事が痛切に夫・フランクルに想起されるという箇所がある。妻が生きているか死んでいるかもわからないのに、そのことより精神的な存在が大切であるといった話になり、これが旧約聖書の雅歌の引用で締められている。
 この雅歌だが、古来、なぜ聖書に含まれているのかというのは議論があり、これ、率直に言うとかなりエロい詩なのである。ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」でもエロの部分が上手に引用されていて、こういうのもなんだが知的に笑える部分にもなっている。
 なぜ雅歌が聖書なのかというと、これには、バル・コホバ反乱で有名な、ユダヤ教最大のラビ、アキバ(Akiva ben Joseph)の意志が関係している。そこは少し込み入った話があるが、その後付けの寓話の類かもしれないが、彼の若い日の熱烈な恋愛の話もよく知られている。
 ユダヤ教やキリスト教の神学ではいろいろ議論があるが、ユダヤ人にとっては、この雅歌の熱烈な、かつ精神的な恋愛の精神的な高揚が、神に結びつくのは一面において自然な感性であり、ブーバー哲学などにも見られるし、シャガールの絵などにも見られる。それはそれとして。
 「夜と霧」では、つらい収容所での生活のなかで、引き離された妻と語るというシーンが描かれている。英語では"commune"が充てられていて、これは「語る」でもよいのだが、おそらくドイツ語でも、文意の背景には霊的な共有の感覚がある。
 この個所でフランクルは、妻と霊的な共有の感覚にありながら、実際の妻の生死の事実を知らないと語る。そして「夜と霧」では、その妻のその後については、直接的には語られていない。
 これは普通の読書力があれば、最終部で、他者のように仮託されて語られていることはわかる。

 先に述べたように、強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、だれかが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だった。ところがどうだ。人によっては、自分を待つ者はもうひとりもいないことを思い知らなければならなかったのだ……。
 収容所での唯一の心の支えにしていた愛する人がもういない人間は哀れだ。夢にみて憧れの涙をさんざん流したあの瞬間が今や現実になったのに、思い描いていたのとは違っていた、まるで違っていた人間は哀れだ。町の中心部から路面電車に乗り、何年も心のなかで、心の中でのみ見つめていたあの家に向かい、呼び鈴のボタンを押す。数え切れないほどの夢のなかで願い続けていた、まさにそのとおりだ……しかし、ドアを開けてくれるはずの人は開けてくれない。その人は、もう二度とドアを開けない……。

 具体的な描写からそれがフランクル自身であることがわかり、その妻、ティリィも亡くなったことがわかる。
 ここまでは自然に読み解けるのだが、英訳書では、邦訳書とは異なり、書誌的な説明がかなり付加されていて、そこでティリィが妊娠していたことが書かれている。これは、他の英書でも確認したが事実のようだ。
 ティリィが亡くなったのはベルゲン・ベルゼンの収容所で、回想録によると、しかも英軍による解放直後に亡くなったらしい。書籍からの自然な推察では栄養失調とみてよさそうだ。
 問題は、胎児の死である。ティリーがベルゲン・ベルゼンに送られたのは、新婚9か月とのことだ。ベルゲン・ベルゼン収容所に送られたのは、妊娠がわかってからのことだろうか。フランクル自身はそこをどう認識していたのだろうか。また、ティリィの死と胎児の関係はどうであったか。
 その妊娠の経緯を含めて、関連書籍や情報も当たってみたがよくわからない。謎として残った。残酷すぎて書けなかったのかもしれない。
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Man's Search for Meaning
 もう一点の謎は、「ダッハウの虐殺」の扱いである。cakesの書評ではこの事件への配慮が、ドイツ語原典の1977年改版と関連していると思われることを手短に指摘するに留めた。
 「ダッハウの虐殺」は、日本ではまり知られていないかもしれないが、連合軍による戦争犯罪の一つとしてあげられることが多い。
 該当個所については、英訳書では関連してかなり長い注記が書かれている。素直に読む限り、収容所管理側の人間すべて悪ではないといった流れになっている。
 この部分だが、フランクル自身が「ダッハウの虐殺」をどのように捉えていたのか、現状の資料もあたってみたが、明示的には読み取れなかった。
 新訳の訳者による解説では、当時のイスラエル問題と関連付けて後記に説明があるが、ここはおそらく、「ダッハウの虐殺」との関連であり、新訳ではもう少し踏み込んだ注釈があってもよかったかもしれない。
 以上二点の疑問だが、ついでにもう一点あげると、本書は旧訳で顕著だが、ナチスによるユダヤ人迫害の歴史証言書として読まれる。それ自体は正しい読み方でもあるが、フランクルの体験を通して語られた証言はそのまま史実を反映しているわけでもない。収容所に関連した当時の情報の流れ方について、踏み込んだ歴史的な研究があってもよいかもしれない。すでにあるのかも知れないが、そのなかで「夜と霧」がどういう位置づけになるのかは気になった。
 
 

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