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2012.10.20

[書評]政権交代 - 民主党政権とは何であったのか(小林良彰)

 中公新書で小林良彰著「政権交代 - 民主党政権とは何であったのか」(参照)が先月出ていて、副題を見ても感じたのだが、もう民主党政権は終わって、総括本が出ちゃっているんだ。気の早いことだなと思ったが、考えてみれば、もうしばらくまえから、政権交代は実質的に終わっていたわけだから、総括本が出てもいいのかもしれないとも思って読んでみた。

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政権交代
民主党政権とは何であったのか
 いつ終わったかだが、私の個人的な意見では、与謝野さんが政権側に入った時点で、これで、自民党の政治と連続しちゃった。
 この本だが、あまり明確な印象はなかった。大半がこの三年間のプレーンな記述に終始していた。その意味でかなり公平に書かれている。この政権の全貌を見渡すのには良書といえる。十年後ぐらいに、あの民主党政権ってなんだったっけ、とか回顧するだけの余力が日本にあれば、それなりに参考文献にはなりそうである。こういうと何だが、本文より巻末のまとめのほうに価値が出そうだ。
 著者は政治における計量分析などを得意とするらしいが、その特徴はマニフェスト理解などの分析で見られるものの、全体的な議論への反映があまり見られないのは残念だった。執筆の時間的な制約であろうか。あと、これは指摘するのもなんだが、外交政策もだが、金融政策についても疎い印象があった。こうしたテーマは共著などほうがよいかもしれない。
 三年間の新聞をまとめました的な記述の後には、終章で意思決定の一般論みたいなものに流れていて、日本特有の政治プロセスへのインサイトもあまり見られないようだった。ただ、しかたないといえばしかたないのかもしれない。日本政治の宿痾ともいえる大きな課題でもあるのだろう。
 さて、結局のところ、民主党政権とはなんだかだが、マニフェスト選挙と言われたように、そのあたりの視点から総括してもよく、本書も簡素にまとめていた。

  • 「コンクリートから人へ」は八ッ場ダムの迷走のように尻つぼみした。
  • 「最低でも県外の普天間基地問題」は、失敗した。
  • 震災対応の遅れは、11か月後に出来た復興庁の迷走によく表現されている。
  • 企業献金や議員定数問題など、政治家が身を切る話も一向に進まない。

 五策に関連して。

  • 国家戦略局は事実上実現しなかった。
  • 副大臣・政務官増員も実現しなかった。
  • 幹部人事制度も実現しなかった。
  • 事務次官会議は形式的に廃止にしたが事実上復活した。
  • 天下り規制は形式的に進めたが効果なし。
  • 行政刷新会議も効果なし。

 政権政策について。

  • 無駄遣い: 公務員人件費削減・事業仕分けなどを進めた実施はわずか。企業献金や議員定数問題は実施せず。公共事業見直しは迷走。
  • 子育て・教育: 母子加算復活・父子家庭への児童扶養手当支援は早期に実施。子ども手当と高校無償化は部分的に実施。家庭省・出産一時金は実施されず。
  • 年金・医療: 実施されない項目が多い。後期高齢者医療制度も自民党時代のまま存続。医学部定員拡大・診療報酬増額は実施。
  • 地域主義: 農業者個別保障は実現。高速道路無料化は断念。ガソリン税の暫定税率廃止は見送り。郵政民営化見直しは法案成立。
  • 雇用・経済: 地域金融円滑化・最低賃金引き上げ・グリーンイノベーションは実施。中小企業法人税引き下げは実施せず。求職者支援制度は実施したが運用に難あり。

 著者は「こうしてみると、そのそも二〇〇九年に起きた政権交代とは一体、何だったのだろうか」と感慨を持つが、一言でまとめてはいない。
 私の考えでは、結果から見るかぎり、政権交代は民主主義国として一度やってみたという以上の意味はなかったように思う。
 むしろ、麻生政権の自民党を壊してしまって、受け皿の政党もまた壊れてしまった部分の影響のほうが大きいように思った。
 
 

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2012.10.19

[書評]これが物理学だ! マサチューセッツ工科大学「感動」講義(ウォルタ-・ル-ウィン)

 強い通り雨が過ぎて晴天の空が現れたとき、私は小高い場所か、空を広げる場所を探す。太陽を一瞥してその反対の空を見上げる。運が良ければ、そこに虹がある。大空を渡す虹がきれいに見えているなら、円弧の外側に目を向け、もう一つの虹、薄い副虹を探す。虹はしばしば二重になっているのだ。主虹と副虹。そして、その二つの虹の色の順序が逆になっていることを確かめ、すこしうっとりとした気持ちになる。

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これが物理学だ!
マサチューセッツ工科大学
「感動」講義
 なぜ、主虹と副虹と色の順序が違うのか? その前になぜ虹が現れるのだろうか。その説明は比較的簡単な物理学で説明できる。もし私の横に同じ虹を見ている人がいて、そのことに疑問を持つなら説明したい。なぜ? 私は虹が好きだし、その仕組みも好きだ。物理学が好きな少年だった。
 そうした思いがそのまま本書「これが物理学だ! マサチューセッツ工科大学「感動」講義」(参照)にある。主虹と副虹もきちんと実験を含めて説明されている。そうだ、これだよと思う。オリジナルタイトルはまさに「物理学の愛に(For the Love of Physics)」(参照)である。邦訳書のタイトルは、ハーバード大学白熱講義のブームを意識して付けられているが、原題の思いは表紙に描かれた虹のイラストで察することができる。
 本書は読みやすい物理学の入門書だ。おそらく物理学を大学で学んで来た人でも、そうなんだよなと共感しながら楽しく読むことができるだろうし、本格的な物理学を学んでいない中学生や高校生、さらには文系のまま大人になった人でも、物語のように楽しんで読むことができる。それでいて、そうした主旨で日本で販売されているポピュラーサイエンス、つまり、一般向けの科学入門書とはひと味もふた味も違う。
 日本の科学入門書は、しばしば数式を使わないで、比喩や物語を使って考え方を示すというタイプが多い。漫画を使った解説もけっこうある。ウイスキーをコーラで割ったという感じだろうか。本書も数式はほとんど登場しないが、比喩やファンタジーといった間接的な説明はほとんどない。著者ウォルタ-・ル-ウィン教授は、とにもかくにもまず、物理学の美しさということを正攻法で伝えようとしている。正攻法とは実験である。言葉だけではない。現物を提示する。そのようすは物理学の美しさに取り憑かれたアーティストといってもいい。あるいは大道芸とも言えそうな楽しいパフォーマンスに裏付けられている。

 本書は、ル-ウィン教授がMIT(マサチューセッツ工科大学)で大学生に教えた講義が元になっている。彼は、物理学を教える教師として「わたしの目標は、学生たちに物理学を好きにさせることと、物理学の世界を違った角度から見させることであり、これは生涯変わらない!」という。


 たいていの高校生や大学生は物理学を学びたがらないが、それは、物理学が複雑な数式の集合として教えられることが多いからだ。わたしはMITでもそういう教え方はしないし、本書でもそれは避けてきた。わたしは世界が見えるための手立てとして物理学を紹介し、通常わたしたちの目から隠れているたくさんの領域――自然界でいちばんちっぽけな粒子である素粒子から果てしなく広がる宇宙に至るまで――への窓を開いていく。


こんなふうにして、わたしは日ごろから、物理学を学生たちのあいだに芽吹かせようと努めている。ほとんどの学生は物理学者になるわけではないのだから、複雑な数理計算に取り組ませるより、発見することのすばらしさを胸に刻ませるほうが、ずっと大切ではないかと思う。

 ではどうすればいいのか。

教える者が学生の地平を広げてやれば、学生たちは今まで絶対にしなかったような質問をするようになるだろう。物理学の世界の鍵をあけるにあたって心すべきことは、物理学を学生たちがほんとうに興味を持っているものに結びつける方法をとることだ。

 ここで、本書がたぐい稀な、教育書であることもわかる。
 たまたま本書は物理学がテーマになっているが、歴史学でも文学でもプログラミングでも、すべて同じ原理があてはまるし、そうして学生の興味をぐいぐいとその学問の本質に引き入れる、一つの例であることがわかる。
 本書はMITの講義を元にして編集されている。オリジナルの講義の一部もインターネットで閲覧することができる(参照)。大道芸と見間違えそうなル-ウィン教授の講義は見ていて楽しいが、私自身の印象としては、本書のほうがわかりやすい。もちろん、実際の講義でなくては伝わらない部分もあるのだが、本書はすっきりと意識を整えて理解でできる。
 読み終えてから、これ、英語学習をかねて英語でも読んでみようかという気分にもなった。
 
 

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2012.10.16

通称「遠隔操作ウイルス」騒ぎ雑感

 インターネットに無差別殺人や爆破予告の書き込みをしたとして大阪と三重の男性が逮捕されたが、彼らの使用しているパソコンが外部から遠隔操作できるウイルスに感染していたことがわかり、釈放された。この事件、大阪の男性は著名なアニメ演出家であったせいもあり、当初から冤罪ではないかとブログの世界では疑われていた。私も興味をもったが、どうもこれはパソコンウイルスのことを多少なりとも知っている人にしてみると、よくあるボットのバックドアとルートキットというやつで、シンプルに冤罪くさい。まさかそのまま疑われているとは思っていなかった。が、そうでもないことを知って驚いた。
 その後、真犯人と称する人が名乗りだし、事件は、不謹慎な言い方だが、耳目を引く展開になってきている。なるほどというのもなんだが、先の大阪男性の件では、そもそも犯人側がこの人を選んだらしい。今日付けの読売新聞「「警察・検察はめたかった」PC操作で犯行声明」(参照)より。なお、引用では男性名を伏せた。


また、大阪府警の事件では、威力業務妨害容疑で逮捕され、その後釈放されたアニメ演出家・※※※※さん(43)のパソコンに接続した結果、大阪に住んでいることが分かり、犯行予告の舞台として「(大阪の)オ(ヲ)タロードを対象に選定した」としている。

 犯人は対象を選んでいたかという視点で見ていくと、ほかにも考えさせられることがあった。明治大学2年男子学生の件である。当時、7月2日の報道がまだ読売新聞のサイトに残っている(参照)。

明大生「猟銃と包丁でガキ共皆殺し」…市HPに
 神奈川県警は2日、東京都杉並区の明治大学2年の男子学生(19)を威力業務妨害容疑で逮捕したと発表した。
 調べに対し、「何もやってない」と容疑を否認しているという。
 発表によると、男子学生は6月29日午後、自宅のパソコンから、横浜市のホームページ内にある意見投稿コーナーに、同市保土ヶ谷区の市立小学校を名指しして、「襲撃してガキ共皆殺しにしてやる」「猟銃と包丁で完全武装して学校へおじゃまします」などと書き込み、同小の業務を妨害した疑い。書き込みは「鬼殺銃蔵」の名前で行われ、同小は30日に予定していた授業参観を中止した。学生は同小の卒業生ではないという。
 県警が学生のパソコンを解析したところ、書き込みがあった時間帯に市のホームページにアクセスした形跡があったという。自宅アパートからは、銃などに関する雑誌も見つかった。
(2012年7月2日 読売新聞)

 明治大学学生は犯人に「選ばれた」のだろうか。
 これがたとえば大阪の学生であれば、神奈川県保土ヶ谷の小学校を狙うことは、最初の段階で疑わしい。では、杉並区ではどうだろう。杉並区在住の19歳が神奈川県保土ヶ谷に出向くというはどのくらいありえるだろうか。
 少なくとも警察としては、そこを考慮しただろうし、この大学生と名指しされた保土ヶ谷の小学校の関係について考慮しただろう。「学生は同小の卒業生ではないという」ともあるのはその疑念の痕跡である。しかし警察があえて無理筋を推したのは、「書き込みがあった時間帯に市のホームページにアクセスした形跡があった」ということだろう。
 今となってはということになるが、そのホームページにアクセスしたのは、その大学生だったか、遠隔から操作していた犯人であったかということになる。そこは記事からは読み取れない。大学生とその小学校の関係について警察はどう理解したのかについて今後説明責任は問われるだろう。
 警察から睨まれた市民が軽く冤罪になるだろうなくらいは、村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」(参照)を読めばわかる。身近にもそうした事件を知っているので、自分がそういう境遇になったらまず絶望することにしている。その点では、つまり経験的には、私は日本の警察を信用していない。
 いずれにせよ推測するに犯人は、対象者を選んでいるようだ、ということは、選ぶだけの選択肢があるということで、このウイルスに感染している人は、他にも少なからずいるだろう。
 で、その注意を警察は喚起しているだろうか。もちろん!
 これである(参照PDF)。
 これ、なんかの冗談ではないんだろうか。PDF文書以外に存在しないのか。そして、これをPDFで発表する理由があるのだろうか。印刷の便宜だろうとは思うが、それにしても、もうちょっとまともな説明はできないだろうか。

遠隔操作ウイルスの被害に遭わないために!
○ パソコンのOSを含むプログラムを最新の状態にアップグレードしましょう。
○ あやしいサイトにアクセスしないようにしましょう。
○ 信頼のおけないプログラムをダウンロードしないようにしましょう。
○ ウイルス対策ソフトを必ず導入し、最新の状態にアップデートしましょう。
○ ファイアウォールの設定をしましょう。

 間違ったことは書かれていないが、具体的なことも書かれていない。
 それ以前に、おそらくすでに感染したウイルスをどう検知するか書かれていない。
 さらにそれ以前に、私のパソコンが感染していないと言えるのだろうか?
 ウィンドウズであれば、マイクロソフトが無料で配布している「Microsoft Security Essentials」(参照)を使えば、今回のウイルスについては検出・対応ができそうだ(参照)。もちろん、他でも対応しているものがある(参照)。
 今回のウイルスは実行形式の「トロイの木馬」なので、問題のプログラムを実行しなければ感染しない。ヴィスタ以降のウィンドウズであれば、不審なプログラムの実行時には、警鐘メッセージが出るので、今回誤認逮捕された人については、そのあたりを警察がどの程度調べたのかも気になる。
 また、今回のウイルスは、トロイの木馬であることもだが、すでに専門筋で解析されているように、実行コードがソースにまで逆コンパイルできるドットネットなので、ウイルスとしてはそれほど高度なものではない。逆に、もっと高度なウイルスが現在うじゃうじゃ存在し国家機関も関与しているので、そっちのほうがセキュリティーという点では問題だろう。
 むしろ今回の問題は、警察の対応のまずさが際立っているので、市民を簡単に自白させてしまうような制度を改善したほうがよいだろう。率直なところ、こうした件で無辜の市民が逮捕される危険性は減ったとみてよいだろう。
 

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2012.10.15

タリバンから襲撃を受けた14歳の少女マララ・ユスフザイさん

 タリバンというとアフガニスタンがまず連想されるが、パキスタンにタリバンはいて、その勢力が10月9日、14歳の少女マララ・ユスフザイ(Malala Yousafzai)さんを暗殺しようと、彼女を含む子供たちを乗せた通学バスを襲撃した。彼女は、頭部に銃撃を受けて重傷を負った。
 マララさんは、11歳だった2009年、タリバン勢力下にあったパキスタンのスワート渓谷の地域で、その恐怖の現状をBBC放送のウルドゥー語のブログにペンネームで投稿して有名となり(参照)、以降、女子教育と平和を求める若い人権活動家として活躍していた。タリバンは彼女の生活地域で女子教育を禁止する命令を出していたが、それに逆らっていた。当地のタリバンは、彼女がイスラム教徒に対する「否定プロパガンダ」をしていたとした。
 今回の襲撃について、パキスタン・タリバン運動(TTP: Tehreek-e-Taliban Pakistan)は犯行声明も出している(参照)。
 マララさんの容態についてAFPはこう伝えている(参照)。


 軍病院で診断を行った医師団は9日夜、マララさんは重体だと発表。ある医師はAFPの取材に「彼女は重体だ。弾丸は頭部を貫通し、肩の背中側、首のそばにとどまっている」と語った。この医師は「彼女は現在集中治療室で治療を受けており、意識はかすかにある程度だが人工呼吸器は取り付けられていない」と続け、今後3~4日間が峠だと語った。

 この話題を朝日新聞の天声人語が13日、次のように取り上げていた(参照)。

 およそ戦争は「大人の男」が始め、あすを担う女性と子どもの犠牲に耐えかねて終わる。武力をもてあそぶ者にとって、時に「おんなこども」は煙たい。それが物申す人であれば、脅威にも映ろう▼パキスタンの武装勢力が、彼らの非道ぶりを訴えた14歳の少女を狙い撃ちにした。テロ組織アルカイダにつながるパキスタン・タリバーン運動(TTP)は犯行を認め、「誰だろうが逆らう者は殺す」と居直る▼銃撃されたマララ・ユスフザイさんは、女子教育を認めないTTPに屈せず、おびえながら学校に通う日々を3年前からブログに記してきた。パキスタン政府は平和賞を贈り、共感の輪が世界に広がったが、TTPには睨(にら)まれた▼地元の警察によると、下校の生徒を乗せたスクールバスに覆面の男が乗り込み、「マララはどこだ」とすごんで発砲したそうだ。銃弾は頭部に当たり、予断を許さぬ容体という。他の少女2人も負傷した▼見境なしとはこのことだ。子どもまで手にかける歪(ゆが)んだ大義に言葉を失う。過激なイスラム主義を奉じるタリバーンは、支配地で娯楽を禁じるなど、厳しい戒律を強いてきた。アフガニスタンでは、貴重なバーミヤンの大仏を「偶像崇拝だ」と爆破している▼蛮行の数々は、平和を愛するほとんどのイスラム教徒にも迷惑至極だろう。今はただ彼女の快復をアラー(神)に祈りたい。――少し休もうか、マララ。君を貫いた銃弾は、何万倍もの怒りとなって、女性差別と狂信者たちを撃つはずだ。

 執筆者は、快復をアラーに祈ることから、おそらくイスラム教徒だろうと思われる。日本人のイスラム教徒も増えているので、不思議なことではない。
 また、祈りにあわせて、「――少し休もうか、マララ」としているが、その思いは伝わらず、英国に搬送されることになった(参照)。アラブ首長国連邦(UAE)から救急輸送機の提供があり、マララさんを乗せた輸送機はイスラマバードを出発し、英国に向かうことになった。一命は取り留めることになると見られている。
 日本語への翻訳のまずさかもしれなが、天声人語でよくわからなかったのは、結語の「君を貫いた銃弾は、何万倍もの怒りとなって、女性差別と狂信者たちを撃つはずだ。」という奇妙な提言である。
 普通に読めば、マララさんを貫いたタリバンの銃弾はさらに、女性差別と狂信者を殺害することになるということになる。
 こうした悲惨な戦闘の応酬を肯定するのはどうだろうかと疑問に思えた。いくら、女性差別や狂信者であっても、銃弾で殺害することが肯定されてよいとは思えない。文学的な比喩表現なのだろうか。
 私たちは間違う存在である。だからこそ、私たちに女性差別者や狂信者と見える人にも、まず平和的な対応が求められる。少なくとも、日本人はそのように考える人が多いだろうし、米国政府で外交の根幹を担うバイデン副大統領も「タリバン自体は敵ではない(the Taliban per se is not our enemy)」と言明している(参照)。
 もう一つ朝日新聞の天声人語で奇妙に思ったのは、今回の襲撃の理由について、タリバンの女性差別や狂信から起こったとしたことだ。しかし、当のタリバンは、「マララの最悪の罪はオバマ大統領を理想の指導者とみなしたこと」と述べている(参照)。
 タリバンは米国と戦争をしている。タリバンにしてみれば、敵国の最高指揮官を崇拝することが許されないということがその主張であったようだ。
 

 
 

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2012.10.14

[書評]中世哲学への招待 「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために(八木雄二)

 ごく個人的な興味だが、デカルトの「方法序説」を読みながら、原点になったスコラ哲学をもう少し理解しておきたい気分がしてきたので、なにか入門書のようなものはないかと「中世哲学への招待(八木雄二)」(参照)を読んでみた。スコラ哲学の基本的な考え方とバリエーションを簡素にまとめた書籍を期待していたので、その点では求めていたものとは違う印象もあったが、これはこれで興味深い本だった。著者は自身のグリーンボランティアの体験談を含め、一般向けにゆったりと雑感を込めて本書を書いている。エッセイ的に読みやすいと言えば読みやすい。が、どちらかというと思想史というより世界史に関心ある人向けではないかとも思った。

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中世哲学への招待
「ヨーロッパ的思考」の
はじまりを知るために
 「中世哲学への招待」と銘打ってはいるものの、実際にはヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus)の紹介書と言ってよい。その名前だが、本書ではドゥンスは家系名かとの推測余地も残しているが地名であろう。スコトゥスはスコットランドの地名でありスコットランド人という意味である。よってその名は「スコットランド・ダン村のジョン」ということである。「ビンチ村のライオン勇気」や「ナザレ村のヨシュア」みたいに地域で識別されている。英語圏では"Duns Scotus"だけでも呼ばれているようだ。言われてみれば、スコットランド人かとあらためて思う。
 時代は、というと生没年だが1266-1308年。本書では親鸞や道元などと比較されている。親鸞は1173-1262年、道元は1200-1253年。年代的には日蓮1222-1282年のほうにやや近い。小説「大聖堂」は12世紀なのでヨハネスより一世紀後の世界である。「不可知の雲」はさらにそれから一世紀下る。
 スコラ学の系譜的にはトマス・アクィナス(Thomas Aquinas,1225-1274)を継ぐと見られるし、実際にアクィナスを踏まえてはいるが、継承のありかたはまさにヨハネスの思想そのものにもかかわり、むずかしいところだ。また、ヨハネスの緻密と言われる思想もその死期までに完成していたと見てよいかは、本書でもわずかに指摘があるが、むずかしい。生没年を見るわかるように彼は42歳ほどで亡くなっている。とはいえアクィナスも49歳ほどでなくなっているので両者ともその時代にあっては早世というものでもないのだろう。
 ヨハネスが生まれたのは名前の通りスコットランドだが、生地とみられるダンズ(Duns)はスコティッシュ・ボーダーズ(The Scottish Borders)でありイングランドに接している。おそらく特例であろうが10歳ごろにフランシスコ会に入り、25歳で司祭。その後イングランドのオックスフォード大学で学びさらにフランスのパリ大学で学ぶ。著者も推測しているが、当時の欧州横断的なパリ大で「スコットランド人・ダン村のジョン」と呼ばれたのかもしれない。彼はそこで1293-97年、学生となりスペインの学者に師事する。後、1302年までイングランドのケンブリッジ大学で講義をし、その余年から1年、パリ大学で講義をしている。このおり、フランス王と教皇の対立に巻き込まれ、教皇派のヨハネスは2年ほどパリ追放となるが、1304年にパリに戻り講義再開。1306年には当時1年が制度である主任教授となり、翌年フランシスコ会の学校で教えるため現在ドイツのケルンに赴き、そこで客死した。死因は本書にも触れられていないし、他の資料でもよくわからない。異説もあるようだ。また本書では言及されていないが、ケルンで埋葬されたらしく次の墓碑銘がある。

Scotia me genuit. Anglia me suscepit. Gallia me docuit. Colonia me tenet.
スコットランドで生まれ、イングランドで育ち、フランスで学び、ケルンにて死す。

 ヨハネスの思想の影響は、その著作の本格的な校訂が現代に行われたこともあり、多重的にならざるをえない。本書でも簡単に言及しているが、ハイデガーの博士論文(教員資格論文)はヨハネスがテーマだった("Die Kategorien- und Bedeutungslehre des Duns Scotus")。ヨハネスとハイデガーの関係はアリストテレスを介している点が注目されるが現代のヨハネス学からするとそれほど強い関係性があるとはいえないだろう。とはいえ、ハイデガーを議論するときその原点のヨハネスに言及できる日本の哲学者がどの程度あるかというと、絶望的な気分にはなる。
 本書にひっぱられというわけでもないが、ヨハネスの関連話が多くなったが、当のヨハネスの思想はどうか。思想史的には、それ以前の新プラトン主義に対して、イスラム圏からアクィナスなどを経て西欧に入ったアリストテレス思想の精緻化と大筋で見てよいだろう。本書では、この新プラトン主義とアリストテレス思想の関連で、ヨハネスの思想について、当然といえば当然なのだが、カンタベリーのアンセルムス(Anselmus Cantuariensis)を補助線として説明している。存在と論理について。

 したがって、それぞれに言い分がある。そしてこれがヨーロッパの学者を二分するのである。すなわち、理性のなかでの論理的推論が、実在と一致することは、その推論内部の妥当性のみで判断されることなのか、それとも感覚される事実によって最終的に検証される必要があることなのか、という立場の違いである。前者がプラトン主義と呼ばれ、後者がアリストテレス主義者と呼ばれる。「無限な存在」の存在可能性を、知性のなかで判断できると考えているヨハネスは、したがってプラトンやアンセルムスの弟子であり、これに反対するトマスやカントは、アリストテレスの弟子なのである。

 トマス(アクィナス)やカントをそう見てよいかというところは異論もあるだろうし、ヨハネスがプラトン主義的なのかというのもさらに異論もあるだろうが、概ねそう見てもよいのではないかと思う。そう見ることで、随分と思想の視座が整理される。
 アリストテレスを介した議論は、個別性におけるアクィナスの質料重視とヨハネスの形相重視の対立して著者に理解されている。余談めくが、この質料だの形相というアリストテレス用語だが、英語では、materialとformである。かなり卑近に言うと、木綿豆腐と油揚げの議論と言ってもよい。アクィナス的には木綿豆腐と油揚げも大豆というmaterialから出来た同一性が重視され、ヨハネスにおいてはそのformの違いが重視される。そりゃ、鍋にするときその機能は異なる。
 冗談はさておき、このformの重視のなかから、人間の類的性質よりも、社会的な形態が重視され、その信仰において近代的な個人を導いていくのではないか、というあたりが、私の誤解かもしれないが、本書におけるヨハネスの思想的な重要性であり、これに並行して、個人の自我を理性よりも意志に所属さていくことで、近代市民の原形を形成していくと見ているようだ。
 このあたり、私の読み取りは粗雑かもしれないし、ヨハネスがフランシスコ会を通して後代に影響を与えたとして市民社会の意識にまで浸透しえたかについて、よくわからない。
 この書籍では、著者自身の信仰がキリスト教であるような印象を受けないが、もう少し信仰の内部に入るなら、神と合理性に対して、啓示と意志性の対立がヨハネスの着想点ではなかったかとも思える。「啓示」の視点はこの全体像から見渡せないが、ヨハネスが三位一体をその時代の枠組みの「記憶・理解・愛」として、単にクザーヌス的な論理性のみの議論から引き離し、むしろ「愛」に意志を加味させたところに、もう一歩のところで、啓示によって意志される個人という概念が出てきそうには思えた。
 
 

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