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2012.09.26

自民党安倍新総裁誕生の感想

 自民党の新総裁に安倍晋三元首相(58)が選出された。二度目の総裁である。選出自体に驚きはなかった。数日前から票読みの報道があり、安倍さんに決まるという予想が出ていた。が、自民党総裁選全体で見れば、こういう流れになると読めていたかというとそうでもない。当初は石破さんあたりになるのではないかと思っていた。石原伸晃さんが総裁選の過程で面白いようにボロを出し、安倍さんが石破さんと政策的に組んだあたりで、ああ、安倍さんは一歩引くのか、とも思った。以前政権を結果的に投げだしたことのけじめをそうつけているのだろうとも思った。
 今日の総裁選自体に意外感はなかったが、一発で決まらないところが面白いといえば面白かった。初回の投票では、石破さんが地方票165票を獲得し圧勝した。自民党の党員全体では、派閥の支えのない石破さんに期待を寄せていたわけである。そして、そのことは私たちの身近な自民党として納得しやすいものだった。
 対する安倍さんは87票と石破さんにダブルスコアに近い差がついた。生活の場にある自民党員からの支持はそれほど多いとは言えない。もっとも谷垣さんを追いやっての石原さんは38票とさらに少なく、町村さんの7票、林さんの3票はジョークの部類だった。
 自民党議員票の構成は、党員の意識とかなり乖離していることが浮き彫りになった。こちらでは一位は石原さんで58票ある。これだけ見れば、谷垣さんを追いやった党派的な意味ははっきりする。だが二位の安倍さんは54票で、それほど差がない。党員支持の高い石破さんは34票。私はちょっと驚いたのだが、町村さんが27票、林さんが24票ということで、石破、町村、林は基本的にはドングリの背比べ的な存在であった。
 これはようするに自民党が派閥政治を維持しているということでもあり、もし町村派から安倍さんが脱して候補を控えれば、町村さんの票が石原さんの母体古賀派と競う展開になっていただろう。石原さんと町村さんが決選投票をするといった図になれば、悪い意味で自民党復活とも言えたはずだ。うんざりな風景になっていたのだろう。その線を延長すれば、石原総裁が誕生していただろうし、谷垣下ろしもそこに位置づけられただろう。
 その意味でいえば、安倍さんが表面的にであれ町村派を抜けたのが今回の自民党再選の意味だろうし、そうした行為を結果として促したのは、無派閥の石破さんだったということになる。自民党の再生のキーマンは石破さんだったのだなという認識を持った。
 石破さんと安倍さんの、議員による決選投票になったが、すでに読まれていたように議員票が安倍さんを支えているので、結局安倍さんの勝利という筋書きは見えていた。関心はその票差にあった。普通に考えれば町村派の票がどっと安倍さん側に流れ込むはずである。
 結果は安倍さんが108票、石破さんが89票ということだった。票差は19である。ここで、一回目の議員票で両者の差を見ると、20票である。つまり、町村、石原、林の票は、安倍・石破に均等に配分されたかのような結果になっている。これはどういう意味なのか。それがこれからの自民党を占うことになる。
 派閥の力が分散されたということだろうか。いや、派閥が力を競うというより、安倍さんが総理に決まった際に、各派閥が所定の影響力を持つために分散したのではないか。そうであれば、安倍自民党総裁が首相となって組閣する場合、また自民党を再統合して総力戦といった失態をやりかねない。前回の大失策はそこにあったのに。
 しかし、好意的に考えれば、自民党の「再統合」が前回失敗したのは、小泉元首相の政策方向を党内優先に大きく変更したせいだが、現状の自民党はもはや小泉元首相の政策路線を維持する政治集団ではない。その意味では、安倍さんも、民主党の野田首相のように、可能なかぎり党内宥和を求めた党派の政治をやってもよいのかもしれない。もっとも、私はそのような復古的な自民党政治には関心がない。
 とはいえ、今回の自民党総裁選、また、民主党の総裁選も含めて、私がよいと思ったのは、安倍さんであった。理由は至極簡単で、日銀改革を明言していたからである。
 実際のところ、現在の三党合意とやらの一体改革は、事実上、自民・民主合同の委員会に委ねられ、福祉・医療・年金などの問題はおそらく専門家や官僚が妥当な政策を出すしかない。事実上、政党が及ばない棚上げになった。
 あとは、騒ぐ人の多いナショナリズムや教育論は実際の政治にとってどうでもいい話であり、実際には、外交・軍事、エネルギー政策、成長戦略、金融政策などが問われる。現下にあっては、外交・軍事については、安倍・石破路線でほとんど問題ない。エネルギー政策や成長戦略は重要だが、安倍自民党の方針は見えない。それでも金融政策が是正されれば、それに付随して日本経済が、可能な限り好調の波に乗ることが可能になる。政権が自民党に戻ってきちんとした金融政策を打ち出すことができるかということだけが、安倍政権時の期待である。
 ではその前提の安倍政権は可能なのか。ここはよくわからない。民主党野田政権は、輿石幹事長の采配で衆院選挙制度改革をズラしこむことで実際には早期の解散は不可能になっている。自民党が泡を吹いてもせいぜい来年の1月であり、下手をするとさらに先延ばしとなる。野田政権は満期まで任務を全うしても不思議ではない。率直なところ、不確かな政局を騒ぐより、満期まで野田政権を維持したほうが現下の状況では国益にかなう。
 解散までのだらだらとした時間は考えようである。自民党安倍総裁がどのようにリーダーシップを発揮するかがこの間に十分に吟味できる。安倍さんの健康問題も試されるだろう。
 あと総選挙といえば、維新の会の動向が騒がれてきたが、維新の会が魅力的に思えた部分は、自民党安倍総裁のリーダーシップが発揮されれば、自民党に吸収されるだろう。みんなの党も、もともと以前の安倍内閣の機能であったのだから、自民党に合流するのではないか。
 民主党が総選挙で雲散霧消するかについてもわからない。公明党くらいの政党として残り、「第一」などとオリーブの樹方式の連携もするかもしれない。民主党的なものが一定勢力残れば、自民党政治はやりづらくなるし、結局のところ、仮に第二次安倍政権ができても、現在の野田政権と変わらぬ風景が再現されるだろう。
 
 

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2012.09.25

第三の新人が日本の実存主義だった

 第二次世界大戦とはなんだかったか。一概には言えないが、大きく見れば世界思想の水準における社会主義終焉の明確な始まりだった。
 この社会主義には二系統ある。一つはソ連型の社会主義、つまりアジア型ナショナリズムにルサンチマンが結合した独裁主義である。これが純化されてアジアにも影響した。
 もう一つは、近代福祉型ナショナリズムにルサンチマンが結合した独裁主義、つまり国家社会主義(ナチズム)である。これは第二世界大戦においてほぼ終焉への道筋が敷かれたかに見えた。
 欧米の実存主義は、こうした第二次世界大戦後の、社会主義に対する対抗や反抗のあり方として現れた。実存主義は、社会の義よりも個人の自由が義となる世界思想として重視されたのである。
 顧みると、そもそも19世紀以降社会主義が台頭したのは、近代人=市民の終わりを止揚的に継承したものである。市民は社会に統合されることで、生と世界が実現するかのような情念をかき立てられた。
 しかしその背景にあったのは、近代という時代と近代自我が終わりを迎えるというニヒリズムであり、生や世界の意味が社会から構成できないという焦燥でもあった。
 戦争の惨禍によって社会と市民性が剥ぎ取られてみると、再び無意味な世界と無意味な生に向き合うしかなくなり、そこで実存が問われた。
 実存主義とは、ごく簡単にいえば、自己の意味を自由に自己決定する主体の思想である。
 カミュの場合は「不条理」つまり、 "absurdity"、「意味なんかなにもないのだから、もうバカバカしくて笑うしかないよね」という「異邦人」的な地点から、「シーシポスの神話」において「不条理を生きる」という生の情熱が抽出され、「ペスト」においてその情熱が社会に向けられるようになった。
 サルトルの場合は、人間を実存と規定し、「実存は本質に先立つ」というように、自由に行為を選択し、その状況(situation)に自己を投げ入れることした。投企(投げ入れること)によって世界との関係を責務として誓約(engament)で捉えた。「人間は自由の刑に処せられている」ということである。
 しかしサルトルの場合、実際の社会への投企や誓約は、最終的にその自由を保障する何か超越性に依存することから、その便宜に再びマルクス主義と結合していかざるをえなかった。
 実存主義が思想史的に破綻したのは、サルトルの、ある意味、誓約の倫理性が逆に示唆するように、連帯の本質的な欠落が基点にあり、さらに欠落しつづける傾向をもつことである。実存はそれ自体が連帯と矛盾するものを孕んでいる。
 現実の実存主義は、「実存は本質に先立つ」としても、また投企や誓約としても、実際のところ、精神が身体性を無理に状況に投げ込む実践しか残らない。実存主義は現実には身体の恣意性しか残らない。これがその後のいわゆるドラッグカルチャーと結合し、実存が身体性しか意味しないという、ある種退廃した思想に完結した。そこでは、知性が反知性にまで引きづり下ろされてしまう。身体性を原点に非知性をまき散らす「哲学者」はいまだによく見かける。
 サルトルの実存主義の原点となる着想は、ハイデガーによるものだったが、ハイデガー自身が異論を唱えた。
 ハイデガーは「存在と時間」において、「頽落」が示すように、人は「世人」のなかに落ち込んでいる。世人は、現代でいうなら、ネット空間における匿名や、反論を拒絶した罵倒コメントのようなものである。
 この世人が、死の先駆の自覚を経由して良心に呼ばれるあり方を現存在とした。ここで呼ばれた現存在の本来のあり方が、暗黙のうちにだが、ハイデガーの実存主義と見なされていた。
 しかしハイデガーはこうした実存主義の、いわばあまりに人間的などたばたの帰結を早期に見切って、非人間主義から存在へと思考をずらし、実存主義から離れていった。彼は、人の存在は存在それ自体から問いかけられる存在とした。神ならぬ自然の啓示のような神秘主義と言ってもそうはずしてはいないだろう。そしてハイデガーは、存在の思索を経て生まれた新しい存在は、詩的な言葉のなかに宿るとした。おそらくその事によって民族的な社会連帯を保証しようとしたのである。この点は、小林秀雄が「本居宣長」で示そうとした思想と同型である。
 ハイデガー思想の変遷はさておき、現実ところ実存主義は、まさに今世紀の二形態の社会主義を戦争がなぎ倒したあとの、身体に関連した個人の思想として問われた。戦後という状況が必然的に、そのような実存を迫るものでもあった。
 とすると、実は、昨日ずっと考えていたのだが、日本の実存主義とは、甘ったるい香りのする西欧の現代思想であったというより、戦後文学における無頼派から第三の新人の文学思想のなかに秘められていたと見たほうがよいのではないだろうか。
 坂口安吾の「堕落論」は、日本的実存主義そのものである。太宰治の諧謔もその滑稽さはまさにカミュのいう不条理に近い。「人間失格」は陰鬱な物語ではなく、苦笑を誘う不条理な物語なのである。「人間失格」は遺作となった「グッドバイ」に近い不条理な笑いをもたらす。
 無頼派による実存の孤立性の自覚は、無意味・焦燥・身体性(性欲)というテーマでの洗練により、さらに自覚的な第三の新人の文学として結実していく。
 と同時に、第三の新人は、日本的実存主義を経由して、ようやく近代日本人を越えた地点の、日本人知性を形成した。この1950年代から1960年代の、第三の新人の文学は、顧みると、その内実において欧米の実存主義の文学と時代性においても重なってくる。
 むしろ第三の新人以降の、石原慎太郎や三島由紀夫のような戦後消費社会の空間に現れた文学は、敗戦国の占領軍が生み出した疑似近代空間へのアンチテーゼとして、それでいながら占領プロパガンダを植え付けられた新しい若者の原形を生み出した。まさに歴史を断絶した消費連帯的な新世代を形成した。逆に第三の新人のもつ実存主義的な意識は覆い隠されていった。
 なぞってみると不思議の感にも打たれるのだが、現実の敗戦から実存の自覚としての第三の新人の文学がようやく近代を越えようとした地点で、それらは、擬似的な新世代において否定されてしまっている。この新世代文学潮流は、文学と商業主義をいっそう綿密に結合させ、いわば文学産業という制度も生み出した。
 興味深いのは、この文学産業の末端からその中心に躍り出た村上春樹は、直感的に、この装置性の欺瞞を見抜いて、明確な意識として第三の新人の実存意識を課題としていったことだ。春樹ワールドのファンタジーの世界構成は、実存の意識を明瞭化するための仕掛けである。
 世界や生が、ある非現実的な構成として捉えられたとき、人の意識は再び、実存主義に回帰するのではないだろうか。もし思想や文学に、今日的なテーマがあるのなら、実存主義として定式化され様式化された深層にある、個人の生の剥き出しの無意味感や不安に、あらためて、おののきながらが立ち向かうことではないのか。
 
 

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2012.09.24

実存主義かあ

 実存主義かあとぼんやり思った。cakesに寄稿している書評としてフランクルの「夜と霧」について書く際、旧訳・新訳を読み比べているうちに、英訳はどうなのかと2006年版の英訳書を読み、ついでに英訳書の版の変化を見ていって、そう思ったのである。
 「夜と霧」の英訳書だが、基本部分は日本の新訳と同じドイツ語の1977年版を使っているのだが、合本されている関連の論文やけっこう重要な序文や解説文について版によって変遷があり、ついついいろいろ調べてみると興味深かった。
 なお、「夜と霧」の書評はcakes編集の目も入ってない段階なので、公開日などは不明。cakesでの書評連載については、たぶんこの26日に「 銃・病原菌・鉄」が公開され、それから結果としてかなりリキを入れることになった「めぞん一刻」論が三回分割で掲載される予定のようだ。
 cakesの書評には含めなかったが、「夜と霧」の最初の英訳書のタイトルは"From Death-Camp to Existentialism"、つまり「死の強制収容所から実存主義へ」である。どうやら「夜と霧」の、米国での最初の受容は「実存主義」だった。
 出版年を見ると1959年。版元は2006年版と同じだったが、他の版元もありそうだ。副題には「a psychiatrist's path to a new therapy(精神分析医の新療法への道)」とあり、1959年時点で米国では「夜と霧」は精神医学としての文脈が保持されてはいた。これが1984年版での改訂に繋がっていく。その先については書評のほうで言及した。
 冒頭、「実存主義かあ」と思ったのは、1959年の米国で「夜と霧」が、実存主義として理解されていたことへの感慨である。
 実存主義というと、私がサルトルなどを読んでいたのは1970年代なので、どうしても1970年代の文脈で考えてしまうが、実際に欧州で実存主義が問われ出したのは、1956年のハンガリー動乱などで、ソ連が社会主義の希望でもなんでもないという認識を知識人が持ち始めことがきっかけである。サルトルなどもソ連型社会主義、つまりスターリニズムからマルクス主義を救済するということで彼の実存主義を規定していたものだった。
 思想史的にはおそらく、スターリニズムとの対峙のなかで実存主義は失敗し、フコーなどの構造主義に転換していくのだが、日本での受容はとんちんかんなものだった。日本では基本的に今でも、吉本隆明が言うところのソフトスターリニズムが延々と続き、これが老人趣味ならぬ若い世代のルサンチマンに感染していまだに日本を蝕んでいるといういかにもアジア的な光景が続くが、70年代すら実存主義はいわば、一種の人生論であり、スターリニズムにはついてけないという当時の知識人の玩具のようなものだった。構造主義やポストモダニスムも同様の玩具の上であだ花となった。
 1959年の米国で実存主義ということが意味を持ち得たのだろうかと、奇妙な感じもしたが、たとえば実存主義の文脈にあるアルベール・カミュだが、その死亡年は1960年なのである。ノーベル文学賞作家でもあり米国でも関心は持たれていたはずだ。この時点でカミュは一定の国際的名声を得ていた。「異邦人」は1942年の作品で実際には第2次世界大戦中に刊行されている。「シーシポスの神話」も同年。ノーベル賞のきっかけとなった「ペスト」は1947年である。
 フランクルの「夜と霧」が刊行されたのは1946年で、独仏の差はあれ、カミュの「ペスト」と同じ時代の作品といってよく、そうしてみると、「実存主義」という感覚はきちんと落ち着いてくる。「夜と霧」と「ペスト」は、実存主義的な、絶望への向き合いかたという点で似たものが感じられる。
 サルトルは「存在と無」を1943年に書き上げ、「シチュアシオン」が開始されたのが1947年である。基本的に欧州の戦後思想が、実存主義を契機に興隆した時期だと見てよいだろう。ちなみに、カミュとサルトルが珍妙な論争をしていたのは、カミュの1951年の「反抗的人間」が契機であるように、1952年の話である。
 ここではっと気がついたのだが、私の人生を結果的に大きく変えることになった(もっとも私の人生など変わってもほぼ意味などないのだが、それはさておき)パウル・ティリヒの「地の基ふるい動く」が出版されたのが亡命先の米国で1948年だから、あの欧州風の実存主義臭い変な英語は、それなりに、世界のど田舎米国でも受け入れられきてはいたのだろう。
 とここでそういえばとトーマス・マートンを思い出したら、やっぱり「七重の山(The Seven Storey Mountain)」が1946年の出版で、考えてみると、この時代の、いわば実存主義的な苦悩というのは、米国の知識人にも浸透しつつはあったのだろう。
 連想ゲームのようなしだいになってきたが、第二次世界大戦が終わった1940年代後半から1950年代に欧州から米国へと浸透していった「実存主義」だが、欧州側のほうでは、ハイデガーの「ヒューマニズムについて」が1949年に出され、サルトル的な方向での、いわば社会運動や人間の生き方としての戦後空間の思想は急速に終止符が打たれている。が、この部分は、フコーなどを経由して再鋳造されるまでかなりの時間がかかることになった。
 米国での1960年代以降の実存主義、また、日本の1980年代以降の実存主義がどのように衰退したのか、感覚としてはよくわからない。が、補助線としてサルトルの最晩年、1980年のペニィ・レヴィとの対談「今、希望とは」を考えると、うっすら見えてくる。同対談はサルトルが実存主義を放棄したのかということで話題なったものだが、考えてみると、そんなことが話題になったということ自体、1970年代にはまだそれなりに、欧州でも腐った実存主義が存在していたということだ。
 ぼんやりと考え直してみると、冷戦体制の崩壊が、実は、レーニン=スターリン主義を埋葬するかのように見えて、実存主義も腐らせていた。奇妙なことに、冷戦体制が崩壊したとき、実存も消えたのだった。
 
 

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2012.09.23

対中武器禁輸解除問題を巡って

 ブリュッセルで20日に開催された欧州連合(EU)と中国首脳の会議における対中武器禁輸解除問題について日本での報道は少ないようだった。英語圏での報道は少なくはないがいまひとつ曖昧な印象を受けた。この問題は日本の将来にも関係すると思うので、少し言及しておきたい。
 とりあえず日本語で読める報道としては時事「中国、EUに武器解禁要求=「市場経済国」承認を」(参照)がある。概要の代わりに引用しよう。


【ブリュッセル時事】欧州連合(EU)と中国の首脳会議が20日、ブリュッセルで開かれ、温家宝首相はEUが1989年の天安門事件を受けて導入した対中武器禁輸の解除を改めて求めた。また、中国を「市場経済国」として速やかに承認するよう呼び掛けた。
 同首相は会議冒頭のあいさつで、中国は両問題をめぐり10年にわたってEUに働き掛けてきたが、解決の見通しは立たず、「極めて残念だ」と強調。中国の要求が実現するよう、「EUが早期に率先して行動する」ことを望むと述べた。
 禁輸解除をめぐるEU内の賛否は割れており、「近いうちにEUが禁輸解除で合意することはない」(EU高官)という。(2012/09/21-00:49)

 英語圏ではBBC報道(参照)などがある。時事よりも多く伝えているはいるものの、要点はあまり明瞭ではない。簡単に言えば、中国はEUに対して経済支援をするからその見返りに武器を売ってくれ、という話だ。
 EUとしても本音のところでは中国に武器を売りたいが、時事にもあるように1989年の天安門事件をきっかけにした対中武器禁輸が解除されていない。
 会議での結果はどうなったか。面白いことにEU側としては中国との関係で和やかな演出をしたいのに、やっかいな武器輸出解除といった話を持ち出すんじゃない、ということだった。だがそこは中国、というか温家宝の粘りで珍妙な進行となり、会議の公式放送が事故なのか意図的なのか中断され、カラーバーが表示されるという椿事になった。結論からいえば、EUは中国が求める対中武器禁輸解除を拒絶した。
 中国が粘った背景には、中国が最新式武器を求めている実態がある。尖閣諸島で軍事衝突をしても中国は日本に勝てないが、このあたり、ちょっと斜め上の話をすると、当然ながら竹島で紛争が起きても韓国は日本に勝てない。そこで韓国からこんな報道が出る。朝鮮日報「尖閣:数では中国、先端装備では日本が上の海軍力」(参照)より。

 尖閣諸島(中国名:釣魚島)をめぐる日中の対立が激化しているが、専門家たちは、経済的問題や国際的な圧力などを考慮すると、両国が軍事的衝突にまで至る可能性は低いと語る。しかし日本側が中国漁船の操業を制止する過程で、意図せざる軍事的衝突が起こる可能性を排除できないと指摘している。
 日中間に軍事的衝突が起これば、海軍・空軍力を中心とする局地的衝突になる可能性が高いと分析されている。海軍力の場合、中国では東海艦隊が、日本では佐世保を母港とする第2護衛隊群が、それぞれ尖閣諸島海域を担当している。艦艇の数から見ると、中国の東海艦隊が日本の第2護衛隊群を大きく上回っているが、各種の電子装備など艦艇の性能面では、日本の方が上回っていると分析されている。


 翰林国際大学院大学のキム・テホ教授は「中国に比べ独自の訓練が不足している日本の方が、実際の戦闘では戦闘力を発揮できず不利になり得る」と語った。一方、米海軍大学のジェームズ・ホルムズ教授は先月、米国の外交専門誌『フォーリンポリシー』に「The Sino-Japanese Naval War of 2012(2012年の日中海戦)」と題する論文を寄稿した。ホルムズ教授は「戦力や艦艇の数という面では中国がはるかに優位。しかし実際の戦闘では、日本側が兵器や要員の質の面で優れており、尖閣や周辺の島に地対艦ミサイルを配備した場合、海上戦でも日本の優位が予想される」と分析した。

 韓国としては懸念の表明でもあるのだろう。
 問題をシンプルに問うとすると、中国に武器輸出を禁じる必要はあるだろうか、となる。自明のようだが真面目に答えようとすると意外に難しい。
 なぜ難しくなるかというと、日本の言論では、米国主導による対中武器禁輸は米国の覇権の問題という短絡的な議論になりがちだからである。また武器輸出という点では米国のほうがはるかに量が多く、米国の主張はダブルスタンダードと非難される。
 しかし問題は、武器輸出の透明性の問題である。この件に関連して世界が中国に不審の目を向けているのは、中国の小型武器輸出の実態に問題があるからだ。特にアフリカへの武器輸出が問題になっている。
 8月26日付けでワシントンポストに掲載された署名記事「中国が輸出した武器がサハラ以南に溢れている(China’s arms exports flooding sub-Saharan Africa)」(参照)では、中国が自国製の安価なアサルトライフルと銃弾を大量にサハラ以南のアフリカに輸出し、これらが国連制裁決議に違反して紛争地域で活用されている実態を描いている。中国は国連会議でもこの事実を明らかにしていないうえ、武器輸出の規制強化にも実質反対しつづけ、イランや北朝鮮なども利している。ダルフール危機も深刻化させた。

In May 2011, a team of U.N. arms experts collected several high-explosive incendiary cartridges in the Darfur town of Tukumare, where Sudanese armed forces had recently battled rebels, according to a confidential report that was produced by three U.N. arms experts and first publicly disclosed by the London-based newsletter Africa Confidential.

2011年5月、国連の武器輸出専門員チームがダルフールの町ツクマレで爆破性能の高い焼夷弾の薬莢を数点発見したが、その地域は、最近スーダン軍が反抗勢力と戦闘があった。このことは国連の武器輸出専門員三名のレポートに記載され、ロンドンに拠点とする「アフリカコンフィデンシャル」ニュースレターで初めて公開された


 中国は呆れた国だという印象があるが、それなりのご事情もある。

Council diplomats said that while Chinese diplomats in New York recognize the futility of their response, they have been hemmed in by hard-liners in Beijing, particularly within the People’s Liberation Army, which oversees China’s arms exports. Council diplomats also say they remain unsure how much control China’s diplomats have over China’s arms trade.

国連安保理事会の外交員によれば、ニューヨーク在の中国外交官は自国の対応は国際社会への応答になっていないことを理解しているものの、彼らは人民解放軍を中心とし中国政府の強硬派に取り囲まれている。また、中国の武器輸出をどの程度中国外交官が制御しているか不明である。


 中国の武器輸出は人民解放軍が独自に行っていて、中国の政府側としてもそれを制御できていないようだ。シビリアンコントロールがなっていない。
 現状、反日暴動中、雲隠れしていた習近平氏が姿を現し、概ね次期政権で人民解放軍の権力は維持されたと見てよさそうなので、今後も中国の武器輸出の状況は変化がないだろう。
 日本としては、国連を通じて、国際的な武器管理を強化する活動を深めたほうがよいだろう。実際日本は、武器貿易条約(ATT)国連会議を6年間にわたり主導してきたが、7月の会議で失敗した(参照)。主要な失敗要因としては、土壇場にきてオバマ米国大統領が国内からの突き上げをくらって消極姿勢に転じたこともあるが、規制では国際人権法などが規制の基準となるため、国内に人権問題を抱えた中国も条約反対に回っていた。
 
 
 

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