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2012.08.10

[書評]美味しさの常識を疑え! 強火をやめると、誰でも料理がうまくなる! (水島弘史)

 エッセイストの岸本葉子さんが、一人暮らしになった理系のお父さんの料理のことを書かれていたのが印象的だった。記憶を辿るので誤解しているかもしれないが、彼女の父が、料理というのは専門の化学と同じだと悟ってレシピ本どおり正確に調理しはじめたところ、めきめきと料理の腕を上げたという。なるほど思った。
 料理はレシピが正しければ、そのとおりするとうまくいく。では問題はレシピとその正確な再現にあるのかというと、そこが難しい。レシピに書かれている素材は自分が揃えた素材と同じなのかというと、そうもいかない。調理器具の違いも大きい。
 そもそも調理手順がきちんと再現できるものなのかという疑問もある。お習字と同じだ。私が蘭亭序を横に筆を手にしてもナンセンス。お手本に見合う基礎技術が必要。
 逆にいうと、そうした問題がクリアされると、料理は美味しくできるのか? 少なくとも想定された通りの料理になるのか?
 これについてはそのとおり。もう数年前になるが、セブンミールが面白いレシピを採用している時代があった。ポルチーニを使ったソテーとか鯛の手鞠寿司とか。素材も配送される。レシピも詳細。きちんと再現したら、おやっ、デニーズよりおいしい。あれでいろいろ料理のコツを学んだ。最近のセブンミールのレシピにはあの面白さはなくなっているのが残念。
 基本的な問題に戻れば、レシピとその遵守で調理ができるか。この問題にはいろいろな隠された要素がある。一番大きく影響するのは、レシピが定量的な表現ではない部分だ。「塩少々」とか「弱火でやわらかくなるまで煮る」とか。それと、調理器具の性能の差。

cover
美味しさの常識を疑え!
強火をやめると、
誰でも料理がうまくなる!
水島弘史
 そこでこの本「美味しさの常識を疑え! 強火をやめると、誰でも料理がうまくなる!」(参照)だが、こうした問題を真正面から例題を含めて議論し、さらに、いわゆるレシピ本がある意味伝統的に間違ってきたことを指摘している。それなりに調理をしてきた人が読むと、ああ、やっぱりそうだったのか。おお、そのやり方で作ってみるかという気になる。目から鱗が落ちるという印象もあるのだが、それ以前に、本当にそうなのかと調理に誘う力が強い。
 そうなのか。本書の長めのプロローグ「水島シェフの常識が変わる!料理教室ハンバーグを作ろう!」で実際に詳しい解説に従ってハンバーグを作ってみると、なるほどと思う。言われているように、この手法なら、玉ねぎを切っても涙は出ない、フライパンは温めない、ハンバーグは手でこねない、強火で焼き固めない……。
 私もハンバーグを手で捏ねるのは疑問で、ヘラで練っていたので、やっぱりなと思った(そう思ってた理由はソーセージ作りやパン作りの経験から)。また、中火でじっくり加熱も、そうだろうなと思っていた。その意味では、目から鱗が落ちるというより、やっぱりなという感じがした。
 この本の調理コンセプトは、火・塩・切という三点で、火については強火を使わない、塩については0.8%濃度にする、包丁は研がず斜めに切る、といったところ。話に説得力はあるし、火と塩については、この原理からするとかなりのレシピに見直しが必要になる。その意味では革命的と言えないことでもない。
 実際にやってみるとどうか? 意外と難しい。私の印象だと混迷を深める。この本に書いてあるのだが、火加減で強火を使わないということは、フライパンが調理に適切なサイズであるということを含んでいる。だから、調理内容によって、フライパンを使い分けないといけない。それにおそらく料理で一番扱いが難しいのがフライパンだろうと思う。塩については、0.8%というように定量的に書いているが、素材によって塩の浸透が異なるので、素材毎の対応になる。切り方についてはやはり実地の訓練が必要になる。
 それでもこの本読んでから自分がそれまでやってきた調理をだいぶ変えた。一番変えたのは、カポナータというか夏野菜の炒め煮。いままでは火の通り具合を見て野菜を分けて入れていたのだが、最近は最初に全部入れて油を回し、弱火でじっくり加熱するようにしている。インド料理のサブジみたいだなとも思うが、じっくり加熱していくと野菜の甘みがよく出てくる。2分おきくらいに揺すって、あらかた火が入ったらハーブ(オレガノやバジルなど)と塩で調味して火を止め味が馴染むのを待って終わり。野菜の味がシンプルに出ておいしい。ポトフと同じで多めに作ったら、あとでカレールーを少し入れてカレーにしてもいいし、パスタに入れてもトーストに乗せてもいいし、落とし卵と合わせてもおいしい。夏の朝、冷えたカポナータに落とし卵の朝食とか、いいもんですよ。
 料理が好きな人だったら、この本は必読だと思うし、この著者の手法でもう少しビジュアルな本がもう一冊欲しいところ。


 
 

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2012.08.09

カレーの夏

 カレーはあまり食べないほうなのだが、今年の夏はどういう風の吹き回しかカレーばっかり食っている。三日に一度くらいだろうか。

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喝采!家カレー
いつものルウだけで。
うまさ新境地。
 自分で作るときはインスタントのルーを使う。その場合、箱に書かれたレシピ通りに作る。隠し味とか工夫とかするとろくでもないことになるからだ。
 それでもカレーをなんども作っていくうちに、ちょっとアレンジし始めたら、けっこう楽しい。こういうのありかと思っていたら、そう思っている人は世の中にすでにいるもので、そのコンセプトの本「喝采!家カレー―いつものルウだけで。うまさ新境地」(参照)を見つけた。これ、参考になりますね。いくつか試してみると「うまさ新境地」というよりも、意外と味は定番どおり。日本人のくちに合わせた印象。
 この本には各社のインスタントのルーについての一覧説明があって、これも面白かった。かねがね、各社のルーの違いってなんなのかよくわからなかった。以前いくつか試してみて、S&Bは重い、グリコはくどい、みたいな印象があり、結局、自分にはハウスのが普通においしいと決めていた。定番はジャワカレー。
 しかし、これを機にスーパーでインスタントのルーを眺めていたら「地中海カレー」というのがあって気になった。さっきの本にはなかったので最近出たものだろう。オレンジ&ヘーゼルナッツ、トマト&オリーブという二種類があった。

 なんだろこれと思ったが、食ってみないと始まらない。食ってみた。うまい。これはうまいです、どっちも。
 悪のりで、オレンジ&ヘーゼルナッツのほうは水の代わりにオレンジジュースにしてチキンカレーを作ったら、わっはっはというくらいおいしい。トマト&オリーブのほうはトマトソースで作ったらこれも、わっはっはという感じ。普通のカレーが好きという人にはお勧めしないけど、変わった味好きにはそれなりに面白いでしょう。ちなみに、オレンジ&ヘーゼルナッツはショウガのフレーバー、トマト&オリーブはカルダモンの香りが印象的。特に、トマト&オリーブのカルダモンは鮮烈なんで、あまりトマト&オリーブとか考えずにこれカルダモンを意識していろいろアレンジしていいんじゃないか。
 そういえばカレーツリーのほうの他のシリーズも展開中。まだ全シリーズを食べたわけではないけど、こっちはけっこう本格的。
 
 

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2012.08.08

インド大停電で思ったこと

 インドで7月31日、首都ニューデリーを含め全土の半分に及ぶ20州と連邦直轄領で大規模停電が発生し、全人口の半数に当たる約6億人の生活に影響が出た。インドではその前日も北部9州で停電が発生し、どうやらその影響で複数州で大量の電気を引き込もうとしてさら関連地域が停電したらしい(参照)。2日連続の大停電は珍しく規模も大きかったこともあって国際ニュースにもなった。
 2日付けのフィナンシャルタイムズも「政策の失敗が招いたインド大停電」(参照)でこの問題を厳しく論じた。インド政府が十分な電力インフラを整備していればこんな事態にはならかったとして失政を責めた。経済大国を目指すインドにあるまじきという結語でもあった。
 それもそうかなと思ったが、この話題はその時点では、さほど日本では関心が持たれているふうではなかった。私と同様、悪く言う意図はないのだが、「あの広大なインドなんだし」と受け止めていたのではないだろうか。ところが今日になって、読売新聞と日経新聞でこの話題が社説に躍り出て奇妙な感じがした。
 FT紙以上の社説を日本の新聞が書けるわけもないだろうから、「これを日本にとって他山の石とすべき」なんてオチになるんじゃないかとつい先入観を持って読んだら、だいたいそうだった。読売新聞社説の結語は「インドの大停電は、エネルギー政策の見直しに取り組む日本の教訓となろう。電力の安定供給の重要性を再認識せねばならない」ということだ。日経新聞社説のほうはさすがにお笑い趣向ではなく「電力以外でも、逆浸透膜を使った海水淡水化設備や、鉄道の運行管理システムなど、日本が先行するインフラ技術は少なくない。これらの移転で新興国の成長を支えることが、日本の新興国事業のすそ野を広げる」としていた。そのあたりが無難な締めでもあるだろう。
 ここで私はなにかが心に引っかかった。FT紙の社説を読み返して気がついた。読売新聞社説でも日経新聞社説でも、FT紙が指摘した電力事業の民営化については言及していなかったのだった。
 FT紙では「ひとつの解決策は、商業ベースで送電網の運営ができるような民間企業参入をもっと認めることだ」としてさらに、発電についても民営化を後押しする政策も提言していた。
 もし日本がインド大停電を他山の石とするなら、その民営化や発送電分離という話題ではないんだろうか。このあたりいつも思うのだが、日本の政治言論というのはなにか歌舞伎のような奇妙な枠組みを感じる。
 先ほど「あの広大なインドなんだし」という印象を書いたが、今回のインド大停電のニュースで気になっていたことが私にはあった。インドだからということより、それほど大問題だったのだろうか。それが当初ニュースを聞いたときの疑念だったのを思い出した。
 後続のニュースを聞いていると、今回のインドの大停電だが同日中にニューデリーと北東部の地域で完全復旧、北部で86%、東部で79%復旧したという。
 そのあたりの報道には、私も沖縄で暮らしていたころよく台風で停電を経験したので、実感的に共感できる部分がある。
 沖縄の台風というのは本土のように台風一過として過ぎていかずにだらだら1週間くらい続くことがある。停電はよく起こる。丸二日停電だったこともあり印象深い。たいていは半日から一日すると復旧する。
 実際現地で暮らしていると、停電になると「復旧まだかな」としか思わない。その間どうするかというと、電池式のランタンとか、人によっては発電機を使う。手慣れたものである。インドでもそうだったのではないかと思ったのだった。
 どうだったのだろうか。今週号の日本版ニューズウィークにも翻訳があったが現地からの体験記事(参照)を読むと、自分が思ったとおりだった。
 メディアは今回の大停電を政治問題にして喧々囂々と議論したが大半のインド国民にとてはそれほど打撃でなかったと書かれていた("the power collapse really did not affect a whole lot of Indians")。記事はそのあと、電力を食う富裕層と僅かな電力で暮らす人々を対比していて、それはそれなりのありがちな枠組みの話に終わっていたのだが。
 都市生活では電力は十分にあったほうがいい。猛暑の日のエアコンディションは人命に関わる。だから電力は……という議論だが、それでもあまり私は気乗りしない。
 これは政治的な議論というより、技術的な議論であるように思えるからだ。技術というのは科学技術もだが、政治的な技術もだ。日本の文化的な生活そして日本に求められる生産に必要な電力については、手順を踏んで考察すれば妥当な結論が出るだろうという意味だ。
 別の言い方をすると逆説的だが、あまり政治的な議論にはならないタイプの問題だろう。繰り返すが、妥当な結論が妥当な手順で導かれるタイプの問題だろう。
 そういうふうにこの問題を見ない人たちが、いろいろなイベントで政治問題を活発にさせてしまうことが問題なんだろうなとも思った。
 
 

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2012.08.05

救世軍の制服から思う

 救世軍の制服がいつからブレザーになったのかちょっと調べてみたがわからなかった。あるいは今でも、昔ながらの詰め襟の軍服のほうも正式なユニフォームとして採用されているのだろうか。
 救世軍(The Salvation Army)について私がよく知っているというわけではない。制服の変遷すら知らない。それでも昭和時代の人生が長い私には、それが軍隊組織となっていることにずっと関心は持っていた。
 救世軍は1865年に、当時英国メソジスト教会牧師ウィリアム・ブース(William Booth)とその妻キャサリン(Catherine)が、ロンドン東部の貧しい労働者階級を支援するために設立したキリスト教団体である。後にブース大将と知られる彼は36歳だった。団体の名称は当初「ロンドン東部キリスト教徒ミッション(East London Christian Mission)」だったように、独自のキリスト教派という意識もない慈善団体だったのだろう。
 救世軍創設とされる1865年が慶応元年に当たるのか、正確にはわからない。この年は5月に改元したのでその前であれば元治2年になる。また、慶応4年の10月には明治元年となる。救世軍ができたのは明治の少し前になる。
 その時代でロンドンの貧窮した労働者階級といえば、すでに英国に亡命していたカール・マルクスを連想する。彼がエンゲルスの支援で英国に亡命したのが1849年。純粋に彼の手による「資本論」の第一巻が刊行されたのは1867年なので、ブース大将とマルクスが見ていた世界は同じものだったことがわかる。
 救世軍という名称に変わったのは、ブース大将が受けた1878年の霊感によると言われている。当時はもちろんまだ大将ではなかった。霊感はこう言われている。「われわれは志願軍ではなく、救済軍である(Not volunteer army, but Salvation army)」。「救済」ではなく「救世」という邦語を当てたのは尾崎行雄である。
 この霊感だが、英語のウィキペディアにあたると「私たちは志願軍である。志願! 志願ではない、正規なのだ("We are a volunteer army. Volunteer! I'm no volunteer, I'm a regular!")とある。霊感の元は彼の父とある。それが父なる神なのかブースの実夫を指しているのかよくわからないが、おそらく亡父だろう。英国的なゴーストの含みがありそうだ。ブース大将の父親は幼少時代は富裕であったが投資に失敗して破産。アルコール中毒にもなった。13歳のブース少年も貧しさから質屋に奉公に出され、その年父は死んだ。質屋奉公時代に彼はメソジストになり信仰を深め、説教者となった。
 霊感の話に戻る。この話は救世軍創立の神話とも言えるので有名だが、その意味合いはというと日本人には多少難しいかもしれない。なぜブース大将は志願軍(a volunteer army)のボランティア(volunteer)ではないと強調したのか。
 ここまで「志願軍」と訳したが定訳語には「義勇軍」もある。むしろ義勇軍のほうが意味が取りやすい。義勇軍は、愛国心などを理由に自ら志願して軍人となるということで、正規軍ではないという含みがある。ブース大将の霊感は、だから「自分たちは正規軍なのだ」ということに力点が置かれている。
 このあたり、当たり前すぎるのかざっと見渡した範囲で英語圏でも解説がないのだが、おそらくこれは主の祈りにもある、The Kingdom of God(神の国、神の王国)の正規軍という意味合いだろう。神が命じた軍事活動に従事するということだ。救世軍では、組織も軍隊らしく階級、制服、記章が整備されていく。公務で軍服を着てこそ救世軍なのである。これに対して義勇軍であれば、むしろ善意やイデオロギーによって軍活動に参加したということで、ゲリラとかサンダーバードとかサイボーグ009隊みたいなものになる。もっとも彼らも独自のコスチュームがある。
 オリジナルのブース大将率いる救世軍の活動は1880年代に勢力を爆発的に伸ばした。まさに軍隊活動らしい進軍と言えないでもない。日本にも影響した。
 日本での活動は1895年、明治28年に始まる。英国人の救世軍士官による伝道から、山室軍平が日本人最初の救世軍士官となった。士官は牧師に相当する。後に彼は中将となり、さらに日本軍国司令官となる。なんか言葉の響きがすごい。1924年、大正13年に彼は勲六等瑞宝章も受章する。当時の日本国家からも好意的に認められていたということである。
 日本の救世軍の著名な活動としては、遊郭から女性を解放した廃娼運動がある。一般的には社会鍋がよく知られている。昭和な私は、救世軍かあ年末の社会鍋かと思う。
 無教会系のキリスト教徒だった山本七平が生まれたのは大正10年、1921年であるが、彼の子どものころの思い出では、彼の家にはブース大将の写真が飾ってあった。その写真の中央には、大山元帥がいてその隣に外国の軍人がいた。その軍人がブース大将であった。明治40年、1907年に来日し明治天皇に謁見したときの記念写真であった。ブース大将は山室軍平の通訳で日本全国をめぐり講演した。爆発的な人気であったという。
 青年時代の山本七平はその写真を見ながら奇妙な思いに打たれたことがあった。昭和15年ごろ彼は渋谷で「救世軍の仮面をはぐ」「愛の名で行われる公然たるスパイ行為」というパンフレットは受け取ったからだった。その時代には、すでに救世軍が排外的な対象に変わっていたのだった。
 山本七平はそのとき、明治時代に熱狂的に日本に受け入れられたブース大将が、昭和の時代に排外的な糾弾に変わるまでの年月が32年かと思ったらしい。そしてさらに32年したら日本の世の中はどうなるだろうとも思った。その年は勘定すると昭和47年にあたる。それから数年後彼はこう思った。「静かなる細き声」より。


 伝統的発想と思うが、われわれはとかく現状は永遠にその方向に進むと考えがちである。ブース大将来日の時も、「紀元は二千六百年……」と歌ったときも、経済成長の最高潮のときも、その時点で書かれたものを見れば、そう考えていたとしか思えない。だがその日から五年後には明治は終わり、皇紀二千六百年式典から五年後に皇紀は消え、大日本帝国も現人神も消えた。
 そしてそれに代わって登場した新しい権威も、その権威者を迎えたときの熱狂的な大歓迎も、戦後三十余年ですべて消えたと言ってよい。
 市ヶ谷の露地の奥の、小さな事務所兼倉庫に移ったとき、時々、救世軍の士官を見かけた。私は長い間、救世軍の本部がこの近くにあることを知らなかった。
 そして士官を見かけるたびに、まるで座標のように三点、明治四十年、昭和十五年、そして現代が頭に浮かぶ。理由はおそらく、そのユニフォームが昔も今も代わらず、少年の目に映じたそのままだからだと思う。
 考えてみれば、服装も町のたたずまいも人の心も、この三つの座標でそれぞれ大きく変化している。そしてその中で、時には大歓迎をうけ、時には糾弾され、時には半ば無視されながら、それと関係なかったように、軍服型のユニフォームが今までつづいているのが、逆に不思議に見える。現代の日本で、これだけ無変化を継続し得たものは、珍しいのではないであろうか。

 山本七平がそう記したのは昭和52年ごろであった。そのころまで、救世軍の軍服は明治時代そのままだったのだろう。
 今はどうなんだろうかと思って、調べたがよくわからないというのがこの話の冒頭であった。現代ではブレザーになっている。あれからさらに32年経ったのである。たぶん、救世軍の軍服もようやく変わったのだろう。
 山本七平は先の述懐にこう続けた。

 なぜだろうか。一体この社会に無変化で継続しうるものがあり得るだろうか。
 あるとすればそれは聖書に記されたように「愛」――「愛の行為」だけであろう。不思議といえば不思議なのだが、これくらい使いやすい言葉はない。
 
 人は、教育の荒廃とか社会の荒廃とかを語り、それをさまざまに批判しながら、「愛の欠如」についてはだれも語らない。いや、ひとのことは、とやく言えない。私もその一人である。
 私は救世軍については何も知らない。知っていることといえば、子供のころ、救世軍とは「愛の行為をする軍隊です」と言われたことだけである。
 そして、市ヶ谷であのユニフォームを見かけるたびに、それを思い出す。そしてそれが、無言のうちに私にも社会にも欠けている一番大切な点を指摘しているように思えて、一瞬、足がとまってしまうのである。

 救世軍の軍服も変わった現代、愛の欠如のほうはどうなったかといえば、たぶん、変わっていない。教育の荒廃とか社会の荒廃とかも変わらず語り続けている。
 
 

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