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2012.08.04

シニア層にSNS広告は有効か?

 日本の成長分野とかビジネスチャンスとかいう話は、それだけ言うと、なんとなく元気が出そうな前向きの話のようでもあるが、日本の現状と中期的な未来像で言うなら、結局のところ、お金を持っている高齢者向けビジネスが主眼になる。お年寄りがもっとお金を遣ってくれる商売が重要だということだ。
 それは何か?というのは、実際にそういう層をターゲットにした産業の動向を見ていけばわかるし、その話に今回は突っ込まないが、いずれにせよ高齢者対象であれ物やサービスを売るならマーケティングや広告は重要になる。では、どうやってお年寄りにリーチする広告ができるかが当然課題になる。それは何か。
 あらためて問うまでもなく、現状の広告がそれなのだというのがひとつ。テレビを見ても新聞を見ても高齢者対象になっている。少なくともそういうのが本流になっている。今後もこれが続く。
 それだけなのか。どっかにニッチはないのかという興味もある。ニッチを見つけた人に儲けがつながるからだ。そういう発想が当然帰結するのはインターネット広告である。その流れはそれほど難しくない。インターネット広告って具体的になんだというのはどこ見てもわかる話でもあるかだ。
 その先を考えると、どういうインターネット広告が効率的かという話になる。これは時流を見ていくと、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)に辿り着く。簡単にいえば、ネットのお友だちで囲ったところに広告をぶち込むというわけだ。
 ここで立ち止まる。
 ということは、これからの広告ビジネスのニッチというのは、お年寄りのSNSということなのか? それ以前に、お年寄りがSNSを使うのか?
 どうなんだろうと疑問に思ったら、そんなことを調べている事例があった。クロス・マーケティングという調査会社の話、「「シニアのライフスタイルとSNS利用」に関する調査」(参照)である。詳細が知りたいと思って資料を取り寄せようとしたが、なんかダメだったので、公開された範囲でしかわからないが、興味深いと言えば興味深い。なんだろ、これという奇妙な印象といえばそれもそう。
 調査対象は全国の60~79歳の男女1200人。お年寄りというのは、60歳以上という意味になる。ここで洒落にならない感想を言うと、私もあと5年でこの層に入っちゃうんだよ。あっちょんぶりけ。
 シニア層が商品やサービスの情報収集に役立っている媒体は、「新聞広告/記事」(61.2%)、「テレビCM」(59.8%)、「テレビ番組」(58.6%)とのこと。さっきてろっと書いた通りだが、新聞のほうがテレビより信頼性は高そうなので、今後も新聞広告は意外に安泰というか、そもそも新聞というのは、紙面の三分の一以上が広告であることからもわかるように、広告媒体なのでそこで維持できれば、新聞の未来は意外と明るい。
 他の媒体はどうかと、添付されているグラフを見ると微妙な印象がある。

 「新聞広告/記事」「テレビCM」「テレビ番組」に次ぐのが、「折り込みチラシ」である。これは簡単にいうと、地域の新聞販売店の稼ぎ元ということだ。ここで扱っている。新聞販売店もそれなりではあるだろうが、まだ安定していると見てよさそうだ。
 それに次ぐのが「インターネット上の広告」である。五位ということでが上位四位とそれほど差が開いているというわけでもない。ただ、このグラフのピンク腺がシニアのSNS利用者、青腺がSNS非利用者ということで評価は違う。SNS利用者か否かで大きな差がついている。どういうことなのか。
 その前にまず、インターネット上の広告はけっこう有効なのではないかということを指摘したい。そして、これが「新聞広告/記事」「テレビCM」「テレビ番組」「折り込みチラシ」の広告市場と見合っているかという疑問が浮かぶ。ここにズレがあるなら、「インターネット上の広告」はしばらくニッチとしてウマミがあることになる。シニアSNS利用者にとって「インターネット上の広告」の評価が高いならなおさら、新聞広告やテレビCMを打つのとさほど大きく変わらない効果がここにあるかもしれない。もっとも実際にどう程度効果があるかは別途検証しないといけないのだが、可能性はありそうだし、ニッチ広告としてのウマミもありそうだ。すでにそういうウマミのようなものは実現されているのかもしれないが。
 次に、シニアのSNS利用者が広告対象としておいしそうだというのは、情報収集についての関心・意識からもうかがえる。「気になることがあるとすぐに調べる方だ」で、あてはまる人がシニアSNS利用者73.3%と顕著に高い。よくわからないが「情報感度」というので見ると、シニアのSNS利用者(25.3%)は非利用者(10.7%)を上回っている。悪い言い方をすると、シニアSNS利用者は食いつきがいいということだろう。
 私が関心を持ったのは、この調査の本体で言及されているかわからないのだが、どのようにシニアのSNS利用者が商品広告に信頼性を与えるかという点だ。言うまでもなく、シニア層と限らず、クチコミ効果は大きいし、SNSとなるとさらにそれが強化される。具体的にシニア層のSNS利用はどのような人脈ネットワークになっているのか?
 この調査でも触れているし、身近に高齢者を見ているとわかるが、高齢者はけっこうサークル活動とかグループの余暇活動をしている。カネがあってヒマがあってということもだろうが、この世代、つまり私より上の世代はけっこうこういう団体活動が好きだ。
 調査から見ると、リアルサークルに入っているのは、シニアSNSが43.5%、SNSなしが34.7%。差はあるが率は高い。そして、シニアSNS層のSNS友人は11.4人と濃い。高校生とか100人200人はざらという世界とはかなり違う。
 推測なのだが、シニアSNS層は、このリアルサークルの延長感覚で意識されているのではないだろうか。実際にダブっていたり、あるいはリアルと交流したり。ネットで自分より上の層の人の交流を見ていると、けっこうリアルの交流に壁がないようにも見える。現在の国会前原発反対デモなどもそのノリでシニアが集まっているのではないか。
 ちょっと推測を重ねてきたので話があいまいになってきたが、そういうふうに読むとすると、シニア層への有効な広告は、リアルにベースを置いたSNSを促進する形で推進すると効果的だろうし、そのリアルのサークルでけっこうなお金持ちを選んでおくとかなり有効なのではないか。というか、そういうところには当然、犯罪も生じるので、近未来になにかそのあたりでえぐい事件が見られるのではないか。
 他、見える範囲でデータを見ていくと、継続したいSNSで、70代女性のツイッター70%というのが、ちょっと奇妙な印象がある。総体では大したことないのだろうが、おばあちゃんたち、なにげにツイッターを見ているという現状はありそうだ。どうなんですか、高木ハツ江さん。
 シニアにQ&Aサイトの利用が多いというのも目立つ。なにか知りたいとき、ネットに聞いてみるというシニアは多いのだろう。当然、それに答えてくれるところに信頼が集まるし、広告も打ちやすい。
 お年寄りは人生経験で知識は充足しているかというと、おそらくその逆で、いろいろ世界わからなくなって困っているという実態もあるのだろう。
 
 

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2012.08.02

夕涼みにマクドに立ち寄る

 夕涼みにマクドに立ち寄る。食事時も過ぎたせいか混んでいるふうもなかったが、カウンターではいろいろ注文している中年の男がひとりいた。私はその後ろに並んだ。
 注文が終わると彼はカウンターの横にずれる。さて私の番か。というとそうでもない。カウンターの店員は注文の対応に追われていた。他の店員もいるので、そう待たされることもないだろうと私は思ったが、しばらくそのままだった。そうしているうちに、別の若い男の客がカウンターの前に立った。私の前に立ったのである。割り込みということである。ありゃ。
 困ったなと思った。さてどうするか。客の動向を見ている店員もいるだろうから、カウンターに店員が戻れば、それなりの対応もあるだろう。お先のお客様は……私、ということにね。
 そうなるだろうか。
 ふと興味が湧いてしまった。案外、このまま、私は後ろに回されるということになるんじゃないかな。
 で? 考え込んだ。他にすることもなかったし。私はこの件で、不利益を被っているのか。
 私は、そうだな、もしかすると怒るべきなだろうか?
 怒るとしたら、誰に怒るのだろうか。私を無視してカウンターにつかつかと割り込んできたこの客に「あのー、私が先なんですけど」と言うべきだろうか。
 私の前に立った若い痩せた男を眺めると、なにかおなか空いてたまらんという感じでメニューを見つめている。カウンターに店員がまだ来ていないのだ。店員を待っている。
 私も店員を待ってみるかな。店員がカウンターに戻れば、私がさっきから並んでいたことを覚えているだろうし。
 店員がカウンターに戻った。
 「お客様ご注文は」と私ではなく、私の前の若い男に声をかけた。おおっ。
 私の後回しは決まった。
 こうなるとしかたないな。
 しかたない? 違うだろ。私のほうが先だよと言えばいいじゃないか。
 ここでまた考え込む。誰に? 割り込んできた客に? それとも店員に?
 注文を取り始めたカウンターに「私のほうが先なんですけど」と申し立てる意味はどのくらいあるのだろうか?
 どうせ私は、コーヒーかコーラを頼むくらいの些細なお客なのである。
 前の若い男は、ハッピーセットくらいは注文しているだろう。利益の上がらない客は後回しというのが、新しいマクドの方針かもしれない。まさかね。まあ、いいや。
 割り込んだお客の注文もそう長くかかるわけでもないだろうし。
 ところが、長い。
 そのうち、店内に新しく入ってきた客が私の後ろに並ぶ。そりゃそうだ。そして数名の列が出来る。わっはっは。私が先頭だと思った。空しい。
 それでもしばらくすれば、今度は割り込みもないから私の番になるだろう。そのときこそ、リベンジのチャンス到来。ふふふ。悪魔の微笑み。
 悪魔なのだから、まず表向きは紳士らしく、丁寧に注文をしたあと、ワン・モア・シング、そうだ大切なことを言い忘れていたよ、と言う。君、さっき私を無視してくれたね……。
 いや、そんな大人げないことしなくてもいいんじゃないか。大したことじゃないんだ。そもそも私になんか、マクドで認められるプライドなんか、ありゃしないのだし、敗者は敗者らしく黙って過ごしていけばいいんだ。
 そうだな。別に大したことじゃないな。
 というわけで、時は流れ、ようやく私は憧れのカウンターに立ち、コーヒーを注文した。
 お砂糖・ミルクはお使いになりますか? いえ。レシートはご利用になりますか。いえ。店員は私の脳内劇場を知らない。
 店員はコーヒーサーバーに向かって、コーヒーを注いでいた。そのときだ。
 割り込んできた若い男がまだそこにいたのだ。注文がまだ揃っていないのだろう。私のほうを見て、ちょっと済まなさそうな顔をして、もしかしてお先でしたか?と言った。
 かまいませんよ、と私は言った。
 彼は、そう、私が並んでいるのではなく、注文を待ってそこにぼうっとしている客だと思っていたのだ。ようやく私が注文する段になって、彼の世界の構成が変わった。この人、もしかして私の前に並んでいた客だったのか、と。間違いに気がついたのだ。
 それは、誰もがよくする間違いの一つということでもある。
 私は内心ちょっとほっとした。俺が先だみたいな変な主張しなくてよかったなと思ったのである。
 でも、とも思った。店員の態度のほうは、それでいいんか? 私が店のマネージャーだったら、これはまずいんじゃないかと思う。だが、これも考えてみると、店員もちょっとした間違いの部類だろう。
 これでこの話はお終い。
 教訓は……、うーん、なんだろ。まあ、些細だけど教訓に富んだ経験ではあったなと思うが、うまくまとまらない。
 コーヒーを持って、二階のゆったりした椅子でも探そうかと、二階を見回すと、食べたままのゴミがそのままになっているテーブルがいくつかあった。なんかいつもより汚い感じだ。今日の店員さんたちはもともとゆるい人だったということかもな。
 それでも、コーヒーは美味しかったです、とかなるといいオチなんだが、まずかったです。
 
 

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2012.07.31

ブルガス空港バス爆破テロの背景

 18日のことだが、ブルガリアの東部のブルガスの空港でイスラエル人観光客を乗せたバスが爆発し、当初6人が死亡すると報道された事件があった。その後、死亡者は7人となった。イスラエル人が国外で犠牲になった事件としては2004年以降最悪のものでもあった。
 日本でもこの事件は報道はされた。AFP「ブルガリアの空港でバス爆発、6人死亡 イスラエル人を狙った攻撃か」(参照)がそれなりに詳しい。


 バスにはブルガリア国内の黒海(Black Sea)沿岸にあるリゾート地に向かう観光客らが乗っていた。ブルガリア内務省当局によれば18日午後5時(日本時間同11時)ごろ、空港に降り立ったイスラエル人観光客らを乗せたバスが爆発し、付近のバス2台も炎上した。首都ソフィア(Sofia)にいる内務省職員は爆発による死者は6人、負傷者は32人だと述べた。
 目撃者によるとパニックを起こした乗客らがバスの窓から飛び降り、地面には衣服が引き裂かれた遺体が散乱。救急車のサイレンが鳴り響き、空港上空には黒い煙が立ち昇った。イスラエルのメディアは、ブルガスの空港に到着したイスラエル人観光客には、学校を卒業して軍隊に入隊する直前の若者たちが多く含まれていたと報じている。

 誰が引き起こしたテロなのだろうか。初報道では、イスラエルからの声明を加えていた。

 イスラエル当局はバスは銃撃され、爆弾を投げつけられたと発表した。ベンヤミン・ネタニヤフ(Benjamin Netanyahu)首相は「イランによるテロには強硬に対処する」と述べ、「ここ数か月で、タイ、インド、グルジア、ケニア、キプロスなどでイランはイスラエル国民に危害を加えようとしてきた」と指摘した。

 その後、自爆テロの疑いは濃くなった。NHK「ブルガリア 自爆テロか」(参照)より。

ブルガリア東部の空港で、イスラエルの観光客が乗ったバスが爆発し、これまでに7人が死亡、30人以上がケガをした事件で、ブルガリア政府はイスラエル人を狙った自爆テロの可能性が高いとみて捜査しています。
 この事件は、ブルガリア東部、ブルガスの空港で、18日夕方、イスラエルのテルアビブからのチャーター便で到着した観光客が、空港からホテルに向かうために乗り込んだバスが爆発し、これまでに7人が死亡、32人がケガをしたものです。
 事件から一夜明けた19日、ブルガリア内務省は、死亡した人たちのうち1人だけ身元が確認できなかったことから、この人物がイスラエル人を狙ってバスの中に爆発物を持ち込んで爆発させた、自爆テロの可能性が高いとみて捜査していることを明らかにしました。
 事件が起きたブルガスは、黒海に面した夏のリゾート地で、毎年、多くのイスラエル人が海水浴を楽しむために訪れています。
 ブルガリア政府はイスラエル当局と連携しながら事件を起こした人物の特定を急ぐとともに、空港や観光地の警備を強化することにしています。

 確定したわけでもないようだが、自爆テロであったとみてよいようだ。犯人と見られる男の写真も公開されている(参照)。
 問題は2つある。
 (1)誰がしかけたテロだったか。イスラエルはイランによるものだとしている。
 (2)他にも同種のテロが「ここ数か月で、タイ、インド、グルジア、ケニア、キプロス……」というのはどう評価したらよいのか。
 1点目の問題はその後も明らかになっていない。少なくとも米国政府としては立場をそれほど明確にしていない。2点にも関連し、イスラエルからの情報を得ている米国にとって、真相についてまったく不明であると見ているかイスラエルの見方を暗に非難しているかというのは不自然である。イランと交渉を進めるための、外交上の配慮だろうと思われる。オバマ大統領は名指しを避けあいまいな非難をしている。20日付けAFP「ブルガリアのバス爆発事件、自爆犯らしき男の映像を公開」(参照)より。

 イスラエルと強い同盟関係にある米国のバラク・オバマ(Barack Obama)大統領は、「米国は他の同盟諸国と共に、この攻撃の実行犯らを特定して裁きを受けさせるために必要なあらゆる支援を行う」と表明した。

 しかし、米国防総省のリトル報道官は事実上ヒズボラの犯行を示唆している。20日時事「ヒズボラの犯行の可能性=ブルガリアのバス爆破事件-米国防総省」(参照)より。

 【ワシントン時事】米国防総省のリトル報道官は20日、ブルガリアで起きたイスラエル人を狙ったとみられるバス爆破事件について、レバノンのイスラム教シーア派武装組織ヒズボラの犯行の可能性があるとの見方を示した。同報道官は記者団に「攻撃にはヒズボラの仕業とみられる特徴がある」と述べた。
 ヒズボラはイランやシリアのアサド政権の支援を受けているとされる。イスラエルは爆破事件について「イランのテロだ」(ネタニヤフ首相)と主張しており、米国が同様の結論を出せば、核開発問題をめぐり対立しているイランとの緊張が一段と高まる可能性もある。(2012/07/21-06:55)

 2点目の扱いが難しい。これら各地のテロは、一つの意味を持つ一連の事件なのだろうか。イスラエルはイランとヒズボラを名指しでそのように主張している。7月23日時事「イラン、20カ国でテロ活動=イスラエル」(参照)より。

 【エルサレム時事】イスラエルの対外情報機関モサドのパルド長官と国内治安機関シャバクのコーヘン長官が22日、閣僚にブリーフィングし、イランとイスラム教シーア派武装組織ヒズボラが過去2年間、20カ国以上でテロを実行するために活動してきたと報告した。(2012/07/23-07:11)

 米報道では関連を示唆しているものが多い。2月のタイでのテロでは発生時点でインド、グルジアのテロと関連付けられていた(参照)。インドが証拠を握っているとの報道もある(参照)。米国の手前黙っているのか、イランからの報復を恐れているのかわからない。
 背後にあるのがイランであるとしても、またイスラエルの言い分がすべて正しいとも思えないが、先鋒にヒズボラがいるというのは概ね西側報道の了解事項となっているようだ。
 ヒズボラは言うまでもなく、レバノンを拠点としているイスラム教シーア派に属する組織である。シーア派としてイランと同様、またシリア政権のアラウィ派にも近い。1982年、レバノン内戦でイスラエル軍侵攻を受けて結成された。
 ここで当然、現在のシリア情勢とヒズボラの関係は連想される。レバノン情勢はどうなっているのか。危ういのである。29日付け毎日新聞「レバノン:宗派対立、シリア内戦化で緊迫」(参照)より。

【トリポリ(レバノン北部)前田英司】シリアの内戦化が隣国レバノンの宗派対立の火に油を注いでいる。シリア反体制派を支持するイスラム教スンニ派とアサド大統領の出身母体のアラウィ派が衝突を繰り返す一方、アサド政権と蜜月関係のシーア派民兵組織ヒズボラが政権擁護に暗躍しているとの観測も飛び交う。シリア主要都市での戦闘激化で大量の難民も押し寄せて、レバノン情勢はシリアの混迷に引きずられて流動化の様相を深めている。

 日本から遠い話のようだが、シリア、レバノン、イスラエルの三方のはざまのゴラン高原には日本から自衛隊が派遣されている(参照)。戦闘地域となれば、民主党政権の対応が求められる。
 さてあらためて、イランやヒズボラによるとするなら、テロの目的はなんなのだろうか?
 明白なのは、イスラエルによるイランへのテロの報復であることだ。イランの核科学者はどう見てもイスラエルの関与で殺害されている(参照)。
 案外、それだけ、つまり、報復の連鎖というだけのことかもしれない。シリア情勢と関連があるとすれば、アサド政権とイランがイスラエルを問題に噛ませてアラブ社会の動向を変えたいということも考えられないではない。が、あまり自然な読みではないだろう。大筋で見るなら、イランの核化を阻止するためのイスラエルの牽制なのだろうが、それほど組織的な意味合いはなさそうだ。
 
 

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2012.07.30

「君は今という時間、不可避の選択をしますかね」

 人生を振り返って、あのとき、これしか選択できなかったということがある。客観的に考えるなら、他の選択もあった。しかし、その可能な選択をしていたら、今の自分ではない。まあ、そこまではいいとしよう。
 今の自分が不幸だとする。その不幸の原因はあの選択にあったと考えるのが合理的だったとする。幸福であるためには、あの選択は間違っていたということになる。そういうこともある。
 そこで悔やむならつらい悔恨でもあるのだが、問題として難しいわけではない。難しいのは、不幸であっても、あの選択の上に生きて来た自分というがまさに自分なのだという自覚だ。これがやっかい。
 この問題でいつも思う挿話がある。「長崎先生」という人の人生だ。歴史に残る有名な人ではないと思う。明治30年頃の生まれではないかと思う。ちなみにグーグルとかで関連キーワードらしいもので検索しても特に情報はなかった。
 「長崎先生」は小樽教会の牧師だった。廃娼運動で逃げてきた女性を若い日の「長崎先生」はかくまったため、暴漢に殴打され聴覚を失い、その結果、職を失ったという。牧師を辞めることになったということだと思う。
 廃娼運動についてちょっと補足すると、と思ったが、意外と難しい。事典的には、売春婦公認制度を廃止の法整備を目ざす運動ということ。現代では当たり前のようだが長い運動の歴史がある。主体となったのは、この運動が世界的に展開されていたのと並行した近代主義者やキリスト教徒などあった。1886年(明治19年)に英国が世界初として公娼制度を廃止し、北欧国がこれに続いた。日本ではキリスト教派の救世軍が熱心に活動し、遊郭街で救世軍に逃れよとするチラシをまいた。
 「長崎先生」が救世軍だったか、あるいは彼のもとに逃げ込んだ女性が「長崎先生」を救世軍と思ったか、救世軍以外のキリスト教として「長崎先生」がこの運動に携わっていたかはわからない。私の印象では、逃げた女性は牧師さんならなんとかなると単純に思っていただけで、「長崎先生」としてもそういう当時の通念を普通に受け止めたくらいの偶然のことではなかったかと思う。
 聴覚を失い、職を失った「長崎先生」と夫人は、その後、彼らを支援してくる人に炭などを売って糊口を凌いだが、「長崎先生」の最期は踏切事故だった。聴覚のない彼は警報が聞こえなかったからである。
 「長崎先生」の人生とは何か?
 彼の元に逃げ込んだ売春婦の女性をかくまわなければ、暴漢に殴打されることもなく、聴覚を失うこともなく、そうであれば、職も失わず、踏切事故死もなかった。
 「長崎先生」にとって売春婦の女性をかくまわないという選択はあったか。牧師という手前、そんな選択はできないことだったかもしれないし、かくまうときは気安かったのかもしれない。どうだろうか。たぶん、「長崎先生」にとって売春婦の女性をかくまうことは自然な行為であり、同時に避けがたい行為でもあっただろう。他の選択はなかっただろう。
 暴漢に殴打されても聴覚を失うというのには偶然という要素も大きい。だが、「長崎先生」とっては、そうなっても違和感はないと思っていただろうし、おそらくそれによって殺害されることになっても、なんらためらうことはなかっただろう。
 これはさらっと聞くと倫理的な美談か、あるいは、牧師さんという宗教者にありがちな例に過ぎないようにも思うし、まあ、それはそうだろう。普通の人はそんな信仰はもたないし、そんな強い信仰は別の面で恐ろしいものだ。
 で、私にとって話の要点は、「長崎先生」って偉いすぎて自分とは関係ないとうことではなく、一つの生き方のなかには、選択に見えて避けがたい道があるということだ。
 それしか生きる道がないよ、ということだ。悲壮であるかもしれないし、諦観であるかもしれないが、いずれにせよ、自分が自分なら一つしか道がない。
 それが自分の欺瞞かもしれないということはある。そこまで自分というものに拘らなくてもいい。人は自分に拘って、英雄気取りで不可避の道を生きてみせることもある。あるいは、内心、躊躇したり、動揺したり、後悔したりする。
 でも、それが過ぎ去ってみると、自分のなかで、これは避けがたい道だったなという自覚に沈んでくるものがある。後悔に彩られていても、今の自分が生きるという前提をなしているとき、まあ、これ以外に生きる道なんてなかったじゃないか、あはは、みたいな部分がある。
 「長崎先生」にしてみれば、傍から見たら、不運で不幸だったかもしれないが、ごく普通の人生というだけだったかもしれない。
 さて、ネタバレというほどでもないが、「長崎先生」の話は、山本七平の「静かなる細き声」に出てくる。彼は「長崎先生」の人生をこう見た。


 人の生涯はさまざまであろう。外面的には、幸運な人もいようし、不運な人もいるであろう。しかし晩年になってみれば、おそらくその人の外面的な運不運に関係ないものが、一言でいえば、振り返って生涯に何の悔いもない「恵まれた生涯か否か」が、自ずとその人に表れてくるのであろう。そしてそれは、求めれば与えられるのでり、その人の幸不幸とは結局それだけであろうと思う。

 若い日にこれを当時の雑誌連載で読んだ私は、深く胸打たれもしたが、「晩年になってみれば」まで生きられた人はそれだけで幸せってもんじゃないか。それって、生存バイアスってもんじゃね、みたいに思った。ブログの記事に罵倒コメントを付けるようなことを思ったのである。
 この話を書いた山本七平は当時60歳で、まあ、晩年に近いという思いはあったのかもしれない。自分も生きていたらあと5年で60歳になるということに、びっくらこいちゃうんだが、晩年を意識してよいお年頃になってきた。
 結局、そんな年まで自分も生きられたんじゃないか、ラッキーと思うし、ラッキーというのは、生涯という何かが、ずずずんと沈んでくるようになった。
 ただ、それも欺瞞だろうな。
 生きられた人間だからラッキーということにすぎないからだ。
 どこまで生きられたらラッキーなのかというと、逆にそういう、なんであれ自分というものを受け取れるようになったということなのだろう。
 そうでない人生もある。
 最初からそうでない人生だってある。
 その意味は何かというと、さっぱりわからないから、「晩年になれば人生は……」という思いは欺瞞である、Q.E.D.と思う。
 それでも、この問題に背後に潜むなにかは、実は、晩年や人生などどうでもよく、「君は今という時間、不可避の選択をしますかね」と問いかけているには違いない。
 
 なにか「君は今という時間、不可避の選択をしますかね」
 わたし「不可避だったら選択じゃないでしょ」
 なにか「これしかないという選択はないんですか」
 わたし「今日はちょっと暑いんでご勘弁」
 なにか「じゃ、また明日ということで」
 わたし「そういうことで、ここはひとつ」
 
 

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2012.07.29

誰が弱者か?

 2ちゃんねるのまとめサイトだろうか、「どっちが弱者ですか?」(参照)というネタが上がっていた。ネタだというのは一目見ればわかるが、この絵はちょっと奇妙な後味を残す。誰が弱者か?という難問の、どこかしら本質を突いているからだろう。

 5人の人がいる。左から。

 (a)貯金4000万円の働かなくても年金生活の老人。
 (b)年収300万円の疲れ切ったブラック会社員。
 (c)年収250万円の派遣社員。
 (d)年収200万円のフリーター。
 (e)旦那が年収1000万円の専業鬼女。

 もちろん、ネタ元の「あなたの優しさで席をゆずりましょう」というときは、妊婦(e)や老人(a)に席を譲ろうという話だったのだが、これを「弱者」に問題をすり替えたとき、譲られるべき老人(a)も妊婦(e)も社会的な「強者」ではないのかというアイロニーである。
 もちろん、とまた言うが、この局面では座っている権利を持っている人が身体的な安逸の権利を持つ強者であって、身体的な安逸を望む弱者は、貯金がいくらあろうが老人であり、旦那の稼ぎがいくらよかろうが妊婦である。この局面でその権利はカネでは買えない。とすると、このことはこのネタの考案者の逆説になっていることがわかる。つまり、社会的な強者は、あらゆる場面で強者でもないということだ。
 しかし、と思う。カネで買えないのか? 貯金4000万円の働かなくても年金生活の老人(a)や旦那が年収1000万円の専業鬼女(e)は、座る場所もない電車を交通手段に使わず、カネを使ってタクシーを使えば、当面の問題は解決するし、そうしたカネを使うこと、消費は他面においてタクシー産業の生産になり、それが経済を潤すなら、この社会的な弱者に回るカネにもなるのではないか。
 あるいは、とさらに思う。貯金4000万円の働かなくても年金生活の老人(a)や旦那が年収1000万円の専業鬼女(e)は、他の空いている時間帯が選べるのではないか。そうすることで逆に弱者に権利を譲ることができるのではないか。そうだなあ、それって、満員電車にベビーカーを乗せるなという問題にも似ている。
 さて、問題はなんだろう?
 ごく簡単にいえば、こうした局面はネタというか問題性を問いかけるトリックであって、問題自身は、年収300万円の疲れ切ったブラック会社員(b)、年収250万円の派遣社員(c)、年収200万円のフリーター(d)といった社会的な弱者を社会的にどうすべきかということであり、さらに言えば、そうした問題が社会問題であるのに、席を譲るといった個人の倫理の問題にすり替えたりそちらを突出させるのではなく、社会に問え、ということだ。
 それはそうだと思う。
 そしてこれらの社会的弱者をどうするかといえば、それは普通に政治的な課題でもあるのだろう。
 それは例えば、昨日の朝日新聞社説「最低賃金―底上げは社会全体で」(参照)にも通じる。


 賃金が安く、雇用が不安定なワーキングプアが増えれば、結局、生活保護費はふくらむ。
 こんな悪循環から脱出するためにも、最低賃金は引き上げていきたい。
 ただ、低い賃金で働く人が多い中小・零細企業ばかりにコストを負わせるのは酷だろう。社会全体で取り組むべきだ。
 経済構造を変えて、まともな賃金を払えるような付加価値の高い雇用をつくる。そこへ労働者を移していくために、職業訓練の機会を用意し、その間の生活を保障する。
 雇用の拡大が見込まれる医療や介護の分野では、きちんと生活できる賃金が払えるよう、税や保険料の投入を増やすことも迫られよう。
 非正社員と正社員の待遇格差も是正する。そのために、正社員が既得権を手放すことになるかもしれない。
 いずれにせよ、国民全体で負担を分かち合わなければならない。私たち一人ひとりにかかわる問題として、最低賃金をとらえ直そう。

 「賃金が安く、雇用が不安定なワーキングプア」の問題を解決するには、朝日新聞的には、「付加価値の高い雇用をつく」り、「そこへ労働者を移していくために、職業訓練の機会を用意し、その間の生活を保障する」というのだ。
 一見正解のようだが、「付加価値の高い雇用をつく」りというあたりで、社会主義の失敗がよく理解されていない。成長産業が何かは大筋で市場が決めることであって、計画経済では基本的に対応はできない。しかもそのために「税や保険料の投入を増やすことも迫られよう」とすれば、ますますその問題を悪化させてしまう。
 朝日新聞の提言はもう一つある。「非正社員と正社員の待遇格差も是正する。そのために、正社員が既得権を手放す」というのだ。それはとても大切だと思うし、よい提言である。ただ、そのことは「国民全体で負担を分かち合わなければならない。私たち一人ひとりにかかわる問題として、最低賃金をとらえ直そう」ということにはつながらない。
 冒頭のネタにあるようなブラック企業の社員も本来はその会社を逃げるべきなのだから非正社員のようなもの。なので、正社員の待遇格差も是正するという政策課題は明確にある。
 しかし、それが現在の政権からはもうまったく見えない。
 経済学的に見るなら、朝日新聞社説は話が逆になっている。

 今年中には報告書がとりまとめられるが、デフレ傾向を反映して保護費が引き下げられる可能性が高い。
 その動きに連動し、最低賃金を抑えようという考え方では、デフレを加速させかねない。賃金が低迷すれば、人々は低価格志向を強め、それが人件費をさらに押し下げる圧力になる。

 デフレは実質的な賃金を押し上げているから、その面でも、固定給のある正社員は守られているし強者である。デフレを解消することで、実質的な賃金を下げることで雇用が促進される。
 具体的な経済状況からすれば、デフレの圧力が掛かるのは非正社員なのだから経済構造的に非正社員が弱者だとは言える。
 しかしこうした考えも、朝日新聞のみならず、現在の政権には可能性が見えない。
 現実を考えると、お先真っ暗だなあという印象ばかり先に立つ。
 弱者はいつまでも弱者なのか。
 個人の倫理なりの面で考えるなら、まさに個人の価値観になる。
 そこで私はどう考えているかというと、弱者というのは偶然だろうなと思っている。
 先のネタ絵の5人しても、誰がそのポジションにあるということは、ただの偶然の采配に過ぎないのではないかと思う。
 むしろカネで解決できる問題に還元することが、弱者という偶然の構造を変えるための解決手段なのだから、モラルに問うより、カネに還元する社会構造が望まれるのではないか。
 貧富や労働という文脈では、経済の問題なのだから、経済の弱者は救済可能に思える。だから政治理念もあるのだろう。
 が、ここで個人の価値観に戻ると、弱者が偶然の産物であるということはもっと深刻な問題なのではないか。
 端的にいうと、人の美醜という問題がある。
 強者・弱者という文脈でいうなら、イケメンとブサメンと言ったところだろうか。人の美醜というのは、強者・弱者に深く関係していて、整形して解消できるという問題でもない。
 こういう問題というのは、いったいなんなんだろうか? 
 哲学で存在や認識を問うなんてことより、よっぽど本質的な課題ではないのか?
 「そうだよ」と言い切ってみせたのが、私の知る限り思想家吉本隆明だけだった。へえ、やっぱりそうかと思ったものだった。人の美醜というのは愛情という個別の人間の距離の関係においては無化されうるが、それでも本質的な問題として残るというふうに彼は言い切った。
 そうなのだろう。
 美醜ばかりではない。頭がいい悪いといったことも、おそらく同じように、やすやすとは解消されない根の深い問題だろう。
 強者・弱者であることが偶然だということを合わせると、およそ個人に帰する権利のようなものは存在しないことになる。むしろ、そういうことになっているから、「努力」によって自己なるものを獲得しようと人はもがくのだろう。
 だが、「努力」で獲得したものが自分だとも、やはり問い詰めていけば、言えないように思う。努力もまた偶然の産出に近いのではないか。
 すると、何が自分なのか? 偶然ではない自分の固有性というのは何なのか?
 これも吉本隆明は実質的に解いていた。この問いの文脈ではないが、人が生きるというのは、それしかないという不可避の道を辿ることだというのだ。
 それをちょっと無理矢理に先の文脈に乗せるなら、強者・弱者の偶然性を生きて、それ以外にはないというあり方を見出せるなら、それはその人の固有性になるということだろう。そこで、おそらく強者・弱者の偶然性は消失するだろう。
 これは奇妙に神学的な問題かもしれない。強者にせよ弱者にせよ、その偶然性がもたらす課題を不可避のものとして受容していく過程にしか、自己の固有性は得られないということだ。
 強者が幸せな人生を送る。弱者が不幸な人生を送る。しかし、どちらもその人生の不可避性に行き当たらなければ、そもそもその人の固有性などないのだから、幸・不幸には偶然的な意味しかない。
 ざらっと書いたが、また、吉本隆明がなぜそう考えたのかという背景を辿るのを省略したので、まるで宗教みたいだが、概ね、人の存在というのはそういうふうに出来ている。
 じゃあ、どうせいと?
 それを自分だけが答えるしかない。そのなかで、弱者も不幸も意味を失うのだろう。
 社会的に弱者であり、他者からは不幸に見えるし、社会的にも不幸というべき状態でも、これだけが自分の人生であったという不可避性にあれば、そこから、弱者の意味も、不幸の意味も剥落する。
 
 

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