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2012.07.07

じゃあ、今日は、イジメの話をしよう。

 じゃあ、今日は、イジメの話をしよう。あ、そこでぐったりしている男子、たぶん、君が想像している話をはちょっと違うと思うよ。「「しがらみ」を科学する」(参照)という本にある話をちょっとアレンジしただけなんだけどね。
 まず、30人のクラスを想定しよう。ちょうど、このクラスと同じだ。そこで3人グループが1人の生徒にイジメをしていて、残り26人はイジメが発生していることを知っているとしよう。こういう状況があったとき、どうするかな?
 またぐったりしないって。みんなでイジメを無くしましょうとかいうお説教じゃないんだ。数字に注意を払ってほしいんだ。
 この設定でイジメを傍観している生徒数は……26人。この26人は、イジメの状況をどう考えているだろうか? おれもイジメに参加したい、と思うかな。まあ、それはないとしよう。でも、おれには関係ないし、って思う人は当然いるだろう。そういうとき君たちならどうかな? はい、そこの男子。
 「僕ですかぁ……。イジメをやめましょう、とか答えるといいんですよね」
 そっちの女子はどうかな。
 「私ぃ……ビミョー」
 いい答えが続くね。ちょっと答えづらいというのが本当のところだ。イジメを無くしましょうなんて言わされる教育ってなんか嘘臭いし、そんなことしてもイジメがさっぱり納まらないというのが現実だ。マスコミはなんどもなんどもこの話題でお祭り騒ぎをするけど改善しない。こりゃもうぐったりするしかない。でも今日の話は、そうじゃない。
 イジメが発生しているとき、26人の傍観者の頭のなかでは何が起きているだろうか? イジメってよくないよな、とは思うだろうね。でも、自分1人でイジメグループを抑え込むなんてできなし、ヘタすりゃ自分がイジメの対象になりかねないっていうふうにも思うだろう。1人で行動するのはやだなと思うわけだ。どうかな、こっちの女子。
 「ええ、そうです」
 すると、明確に意識しなくても、何人かイジメ阻止の仲間がいたら、イジメ阻止派に参加してもいいかなとも思うわけだよね。どうかな、こっちの男子。
 「言われてみると、そうですね。反原発デモに何万人参加したとか言っている人は、デモ参加者が多いことで賛同者を増やしたいんですよね、というかそれが目的だったりして」
 その話は置いといて。
 生徒は、何人くらいイジメ阻止の生徒がいるかなと周りを見渡して、頭の中で「イジメやめよう想定人数」を勘定するんだ。あいつは正義感強いから、マル。あいつは他人に関心ないから、バツ。あいつは意外と協力的だから、マル……14人かあ、とかね。
 ここまではいいかな? いいみたいだね。勘定して「イジメやめよう想定人数」が出たとき、これを「イジメやめよう行動基準数」と比較しはじめるんだ。誰もがそういう行動基準数を持っている。そしてある生徒の頭のなかの想定人数行動基準数を越えたら、その生徒はイジメ阻止の行動が開始できる。
 「先生ぇ、そんな数、考えていません」
 たしかにそういう言葉や具体的な数値でそう考えているわけではないよ。でも、このイジメの状況はそういうふうにモデルとして理解できるんじゃないかという話なんだ。そこはどうかな。さっきまでぐったりしていた男子、どうかな?
 「わかりますよ。理系ですから。話はどうなるんですか?」
 じゃ、このモデルで話を考えよう。26人の生徒の頭のなかにぞれぞれの想定人数行動基準数がある。イジメなんか自分には全然関係ないですという傍観者だと行動基準数はマックスだ。でも、みんな、そういうわけではない。10人であったり、13人であったり、16人であったり、生徒によって違う。
 さて、ここからは算数。
 ある生徒の頭のなかで想定人数行動基準数を越えたら、イジメ阻止の行動が開始できる。この生徒たちをイジメ阻止派としよう。行動や発言で自分は阻止派ですと表現した生徒が14人現れたとしてみよう。このクラスのモデルはこうなる。

  ・イジメを受けている……1人
  ・イジメをしている……3人
  ・イジメ阻止派……14人
  ・傍観者……12人

 傍観者は内心イジメを阻止したいとも思っているけど、この状況では阻止派に転じていない。このため傍観者はイジメ継続に機能してしまう。これが12人いる。これにイジメをしている3人を加えると15人になり、結局15人がイジメ継続を支持してしまう。ここまでわかったかな?
 「イジメをやめさせようという人が14人だけど、イジメを継続する人が15人っていうことですよね。この状況では、それぞれの生徒が同じ影響力をもっているなら、イジメは止まらないというわけですよね」
 そのとおり。はい、そこの女子。
 「イジメの状況を変えるには、各人の行動基準数を下げるといいんじゃないですか」
 それもそうだ。だけど、その話の前に、現状のモデルをもう一度見直してみると面白いことがわかる。重要なのは、イジメ阻止派の頭の中の算数だ。イジメ阻止派14人の頭のなかでは、「イジメやめよう想定人数」は、いくつだろうか?
 「14人以下でしょう」
 そう。そこで「イジメやめよう想定人数」がちょうど14人だった生徒はこの状況を見てどう思うだろうか。はい、そこの男子。
 「やべー、イジメ継続派が15人じゃあっちのほうが1人分多くて勝てないじゃん。傍観者のほうがクール、って思うかもしれないです」
 そう。すると、そう思う人は「イジメやめよう行動基準数」を上げて傍観者へと脱落してしまう可能性が高い。この脱落現象は連鎖していくっていうこともわかるよね。
 「わかります。最後に残されたら自分がイジメの対象になる。やべーと思ったら逃げて傍観者になったほうが安全。民主党の崩壊と同じです」
 民主党の話は置いといて。脱落者が連鎖するというのはわかるよね。そして、脱落者が連鎖するとこのクラスのイジメはひどいことになっていくわけだ。
 ではどうしたらイジメを阻止できただろう。
 「さっき言いましたけど、各人の行動基準数を下げるといいんじゃないですか」
 そうだ。でもどのくらいの人数がどのくらい下げるといいだろうか。そこが重要なんだ。仮に1人が行動基準数を1だけ下げて阻止派が1人増えたとしよう。ここで注意してほしいんだけど、たった1人の生徒の頭のなかで行動基準数がちょっとだけ下がったという些細な違いが起きたら全体はどうなるかということなんだ。この些細な変化でクラスのモデルはこうなる。

  ・イジメを受けている……1人
  ・イジメをしている……3人
  ・イジメ阻止派……15人
  ・傍観者……11人

 さっきのモデルとあまり違ってないように見えるよね。でもどうかな。
 「いえ、これは違います。イジメ継続派は傍観者とイジメをしている人を合わせて14人で、少数派に転じています。これだと、生徒が同じちからなら、イジメが阻止できます」
 そのとおり。イジメ阻止派15人に対して、イジメ継続派14人になるから、イジメ阻止の行動が勝って、イジメが抑え込まれることになる。しかも、このイジメ阻止派が多数になったことで、他の傍観者の想定人数と行動基準数の比が変わり、イジメ阻止がより多数になる連鎖が発生しやすくなるんだ。この2つのモデルを比較して、みんなはどう思うかな。
 「傍観者が悪いってもんじゃないんだなと思いました」
 「ほんの少しの違いで天国と地獄みたいな差になってしまうんですね」
 「みんなの行動基準数が小さいとイジメは発生しにくくなるけど、それだけを目標にしなくてもいいんだと思いました」
 そうなんだ。イジメはよくないと大騒ぎするんじゃなくて、全体構造のなかでイジメを抑制するような集団のバランスを見極めることが大切なんだ。
 「先生ぇ。そのバランスを見極めるっていうのは先生の仕事なんじゃないですか」
 うーむ、そのとおりだよ。イジメは特定のクラスに限定されるという問題ではなく、他のクラスの生徒全体で「イジメやめよう行動基準数」を見て、それぞれのクラスで抑制的になるようにクラス編成する必要があるんだ。また、行動基準数が高めな生徒と低い生徒の連帯を深めるような交流を促して、全体のバランスを変えるようにするとかも重要になる。こういうのは、全部先生の仕事でもあるんだよ。
 
 

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2012.07.06

北方領土交渉の「再活性化」は政府の嘘

 野田政権が嘘をついていると騒ぎ立てるほどの話でもないが、北方領土交渉の「再活性化」という話は、実際には嘘だったようだ。政府としては、会談の意図を汲んで「再活性化」としたというのだが、そうだとしても交渉というのは相手あってのことで、相手のロシアにその了解があったということが前提になる。その前提もなさそうなので、これは政府の嘘としてよさそうに思えた。ひどいな、この政権。
 話は6月18日のこと、野田佳彦首相とロシアのプーチン大統領がメキシコで日露首脳会談会談をして、北方領土問題の「再活性化で一致した」と野田首相は語った。外務省「G20ロスカボス・サミットの際の日露首脳会談(概要)」(参照)より。


2 領土問題
 両首脳は,領土問題に関する交渉を再活性化することで一致し,静かな環境の下で実質的な議論を進めていくよう,それぞれの外交当局に指示することとした。そして,領土問題を含め幅広い分野で両国関係の進展につき議論するため,できる限り今夏にでも玄葉大臣をモスクワに派遣することで調整することとなった。

 これをもとに例えば朝日新聞は6月19日「北方領土交渉、「再活性化」で合意 日ロ首脳会談」(参照)はこう報じた。

 野田佳彦首相は18日午後(日本時間19日未明)、メキシコ・ロスカボスでロシアのプーチン大統領と会談し、北方領土交渉を「再活性化」させることで合意した。玄葉光一郎外相が7月にもロシアを訪問する。

 さらに読売新聞は、この「再活性化」の合意を前提にして、4日の社説「露首相国後訪問 交渉の「再活性化」に逆行する」(参照)を書いていた。

 ロシア新政権の対日姿勢は、決して好転していない。
 それを前提に、政府は対露外交を練り直すべきである。
 ロシアのメドベージェフ首相が、北方領土の国後島を訪れた。極東地域の視察の一環というが、「我々の古来の土地だ。一寸たりとも渡さない」と語っている。領土返還を求める日本を牽制するのが狙いだろう。
 先月、野田首相とプーチン大統領が会談し、領土交渉の「再活性化」で一致したのは、一体何だったのか。日露が新たな関係を構築しようという矢先に、ロシアがいきなり日本の主張を一蹴する行為に及んだことは看過できない。

 しかし、「再活性化」の合意がそもそもなければ読売新聞社説のように憤慨する必要もなくなる。
 読売新聞だけの勇み足というわけはない。毎日新聞も同じである。5日「露首相国後訪問 2島決着狙う戦略か」(参照)より。

 ロシアのメドベージェフ首相が3日、北方領土の国後島を訪問した。大統領だった10年11月に旧ソ連・ロシアの国家元首として初めて訪れて以来、2回目の訪問である。
 5月にプーチン大統領の下で首相となったメドベージェフ氏は国家元首ではない。エリツィン政権時代の93年にも当時のチェルノムイルジン首相が択捉島を訪問した。だがメドベージェフ氏は前大統領であり、大統領時代の国後島訪問が「冷戦終結後最悪」と言われるまでに日露関係を悪化させた。その後、両国は関係修復に動き、6月の首脳会談で領土交渉の「再活性化」で合意したばかりだ。日本外務省が駐日ロシア大使を呼んで抗議したのは当然である。

 ついでに5日の日経新聞「北方領土のロシア化を止めよ」(参照)も同じ。

 ロシアのメドベージェフ首相が複数の閣僚を引き連れ、北方領土の国後島を再訪した。
 野田佳彦首相とプーチン大統領は先月の初会談で、領土交渉を再び活性化することで合意したばかりだ。これから本格交渉に乗り出そうという矢先に、ロシアの首相や閣僚が大挙して北方領土入りした。はなはだ遺憾である。

 ところがどうも、その前提になる「再活性化」合意はなかったようだ。
 最初に疑念を出したのは産経新聞のようだ。5日付け「【日露首脳会談】日本政府の「再活性化一致」説明、破綻「外務省の応答要領なぞっただけ」(参照)より。

 先月の日露首脳会談で北方領土問題の「再活性化で一致した」という実際とは異なる日本政府の説明は、あたかも停滞が続いていた日露関係が動き出すかのような印象を国民に与えた。会談から1カ月もたたないうちにロシアのメドベージェフ首相が国後島を訪問したことは、日本政府の説明が早くも破綻したことを意味する。ロシア側の対応は容認できないものの、日本側が誤った情報を内外に発信したツケは大きい。
 会談後の記者団への説明の席上、領土問題に関する大統領の発言を問われた長浜博行官房副長官に、外務省幹部は「正確な細かいことは言えない。ただ、基本的に全部賛成しているし、外務省間で話し合うと指示した」と耳打ちした。
 日露関係筋は、首相が記者団に「再活性化」という言葉を使ったことについて「外務省が用意した応答要領をなぞっただけ」と語る。外務省ホームページも「両首脳は領土問題に関する交渉を再活性化することで一致し、静かな環境の下で実質的な議論を進めていくよう外交当局に指示することとした」と明記した。
 会談で大統領と親交のある森喜朗元首相の訪露が取り上げられたにもかかわらず、記者団には説明がなかったのも「政治家は関与させず外務省ルートだけで話し合いを進めたい」との意図が透けてみえる。
 だが、ロシア側の受け止めは「再活性化」ではなかった。メドベージェフ首相の国後訪問に関し藤村修官房長官は4日の記者会見で「最近醸成されつつある前向きな雰囲気に水を差す事態だ」と非難したが後の祭りだ。別の日露関係筋は「2010年のメドベージェフ大統領(当時)の北方領土訪問がいかに日露関係に悪影響を及ぼしたかプーチン大統領に率直に伝えていればロシア側の対応は異なっただろう」と指摘する。
 会談内容を正確に説明し、領土問題をテコに経済協力を引き出そうとするロシア側の意図を明確にしていたら「水を差された」とうろたえることはなかったはずだ。

 これはどういうことなのだろうか。産経新聞の解釈に過ぎないのではないかという疑念もあったが、その後、藤村官房長官が事実を認める発言をした。毎日新聞「日露首脳会談:北方領土交渉「再活性化」の言葉は使わず」(参照)より。

 藤村修官房長官は5日午前の記者会見で、6月の野田佳彦首相とロシアのプーチン大統領の首脳会談で議題になった北方領土交渉について「会談で、交渉の『再活性化』という言葉自体は使われていなかった」と明らかにした。日露首脳会談後、首相は記者団に「議論を再活性化していこうと一致した」と述べ、同行した長浜博行官房副長官も「再活性化というのは日本側からの発言だ」と説明していた。
 藤村氏は会見で「首脳会談とその後の日露のやり取りで実質的な交渉を新たに進めるという合意は確認された。そのこと全体を説明する際に再活性化という言葉を用いた」と軌道修正した。また「(当時の説明が)実態と食い違っているということは全くなく、言葉を使った、使わないに本質的な意味はない」と述べた。

 これで「再活性化」という言葉が日露首脳会談で使われていなかったという事実は確認された。この確認だけでも、経緯からすると掘り起こしたのが産経新聞であれば、産経新聞の活動は見事なものだったと言っていい。
 藤村長官としては、「実態と食い違っているということは全くなく、言葉を使った、使わないに本質的な意味はない」と述べたのだが、この点についてはどうか。
 これを判断するには、会談の内容が公開される必要があるのだが、そこがわからない。それでも、その後のメドベージェフ首相の国後訪問から察するに、また再活性化合意があったとした前提の読売、毎日、日経各紙の社説が憤慨することから見ても、実際には北方領土交渉で再活性化合意はなかったと見るほうが妥当だろう。つまり、この政権は嘘をついている。
 問題はこれで終わりか。つまり、北方領土交渉は冷え込んだ状態にあるというのが実態かというとどうもそれだけはないようだ。
 これも産経新聞報道をなぞることになるのだが、5日「日露首脳会談で「再活性化」言及せず 政府内で実態反映していないと批判」(参照)より。

 野田佳彦首相とロシアのプーチン大統領が6月18日にメキシコで初めて会談した際、実際には両首脳とも北方領土交渉の「再活性化」とは発言しなかったにもかかわらず、日本側が再活性化で一致したと説明していたことが4日、判明した。複数の日露関係筋が明らかにした。首相の年内訪露で合意したことも、大統領が原子力エネルギー協力を提案していたことも明らかにされていない。これまでの首脳会談でも事後説明と実際の会談内容が異なることはあったが、政府内からも「これほど実態を反映していないのは珍しい」との批判が出ている。


 また、首相は9月にウラジオストクで開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議に加え、年内の再訪露による2回の首脳会談を提案。大統領は「喜んでお迎えする。訪露の際でも、国際会議の際でも友好的に話を進められる」と応じていた。両首脳は森喜朗元首相の訪露についても話したがいずれも明らかにされていない。
 大統領は原子力エネルギー協力も提案していたが、日本側の事後説明ではエネルギー協力との表現にとどまった。

 外交なのだから首脳会議の内容はすべて公開せよというものではないが、「これほど実態を反映していないのは珍しい」とは言えるだろう。
 普通に考えると、森喜朗元首相の訪露は国民に秘しておく必要がなにかあるのだろう。それはいったい何か。さっと思いつくのは、自民党との事実上の大連立が如実に表れているのをおもてに出したくないということではないか。
 プーチン大統領からの原子力エネルギー協力が秘せられている点については、さっと思いつくのは、原発問題で国内を刺激したくないということだろう。だが、そうであるとすれば、この内閣は原発問題をどう考えているのか謎が深まる。
 一事が万事というわけではないが、この政権、外交問題は大丈夫なのだろうか。とても不安に思えてならない。
 
 

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2012.07.05

「デブな彼女」という短編小説を書こうと思ったことがある

 「デブな彼女」という短編小説を書こうと思ったことがある。青年Kがあるときデブな女の子に惚れて彼女にしたのだった。なぜKはデブな彼女に惚れたのか。デブだから惚れたというわけではない、別になんとなくそうなっただけなのだった。貧乳だってよかったかと問われれば、いいよとKは答えるだろう。しばらく彼らは幸せだった。
 この短編のポイントはここから。幸せに過ごすにつれ、デブな彼女は痩せていった。痩せてみたら、げ、なんなのこの美人という彼女になってしまった。彼女としては、幸せなうえに痩せてきれいになってKにもっと好かれると思っていた。Kはここで奇妙な心理的苦境に陥る。彼女と一緒に散歩するだけで、すれ違う男が彼女を見つめているのがわかる。すれ違う女はあこがれか嫉妬の視線を投げる。もちろん、彼女に言い寄る男が増える……。
 この話はどういう結末を迎えるのだろうか。
 いろいろ考えられる。ハッピーエンドがいいなと筆者である私は思う。山本周五郎風味で純文学じゃないんだし。ハッピーエンドにするならちょっとした波乱も欲しい。彼女がイケメンに不倫して失敗してやっぱりKがよいとあらためて思ったとか。おっと、Kはそれでいいのか。不倫された時点でKは死んでるだろ。もうちょっと薄い悲劇で、彼女は痩せてきれいになったが、体臭がきつくなったとか。趣味が違う。あるいは彼女はまたデブに戻り、それって悲劇なのハッピーエンドなの、どっち、みたいにするか。
 結局、この物語は書かなかった。
 これはもしかすると、とんでもない問題なんじゃないかと思った。純文学とかで美男美女がへろへろ繰り広げるドラマなんてもんじゃない人生の深淵がここにこっそりと隠れているんじゃないか。デブと美人と人生の難問。
 デブ女が好きというのはデブ専だとは限らない。Kのような状況に至らないまでも、彼女、デブでいいじゃんというのはありそうだというのは、「だから女はめんどくさい」(参照)という漫画集にもあった。というか、連続不審死事件の木嶋佳苗の謎に関連した文脈だった。

須田「これが美人じゃなくてデブだったら男はコロっとだまされますよね~。まさかデブがそんな腹黒いことを考えているなんて思いもよらないっつーか」
安彦「思いきり気許しそーだよね。これって別に男に限らず女だってだまされるよ。デブは悪いことしなそーに見えるし」

ナレーション「弱り目にデブ。心がささくれて立っている時にはエネルギーを消耗しそうなスレンダーな美女よりも温かくまろやかに包み込んでくれそうなおかゆみたいなデブがうれしい……」

デブ女の看護で病に伏せる男「……ああこんなのも悪くないかも……理想と現実……手に入るはずもない高嶺の花を追い求めるよりこんな身近にこんな幸せが転がっていたんじゃないか。」

ナレーション「……幸せの青い鳥をつかまえたような気持ちになった時……その瞬間……落ちた……こうして男達は女にせがまれるままにカネを渡してそして最後はムシリ取られて用済みになったら……」


 そういう読みね。
 デブも尽きぬ難問だが、美人というのもそもそも難問だ。Kに聞いてみる。

F「彼女は美人だと思う?」
K「痩せたらすごい美人になったと思った」
F「美人が好き?」
K「美人って自分に関係ないと思っていたんですよね」
F「そういうもん」
K「美人って、あれじゃないですか、結局世の中の人が美人だと思う人が美人だということですよね」
F「そうだね。美人投票とかね」

 難しい。美人というのは。その人の好みの女性というのと、その人の心のなかではそれほど区別されていけど、それでも社会が美人だという人が美人だという奇妙な、共同幻想っていうのでしょうか、なんか、ぺっとりくっつき出す。
 としていると、Kから聞かれる。

K「ちょっと僕から聞いていいですか。AKBで言ったら誰が好きですか?」
F「この年になると、JKとか関心ないんだけど、板野友美という子以外は全部同じ顔に見える」
K「板野ですか。へええ。アヒル口、タイプなんですか?」
F「アヒル口、何?」

 うーむ。
 このエントリを書き出したときはなんか、話のオチを考えていたつもりだったんだが、どっかに消えてしまったな。
 まあ、いいや。「デブな彼女」の物語を完成させた人がいたら、ご一報ください。あるいはそういう話ってすでにあるのか?
 
 

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2012.07.04

[書評]だから女はめんどくさい(安彦麻理絵)

 「仕事とアタシ、どっちが大切?」と問われたことがあるだろうか。男性諸君。私は、この言葉どおりではないけど、すっげー、昔、似たような問いになんどか立ちすくんだことがある。以来、この問いにどう答えたらいいのかということに関心を持ち続け、本書、てか漫画集「だから女はめんどくさい(安彦麻理絵)」(参照)に答えが書いてあるというので、それだけでポチっと買いましたよ。なるほど。答えが書いてあった。

cover
だから女はめんどくさい
 答えは、というと、いやネタバレになるの知ってて書きますよ。その前に。
 「オマエに決まっているだろ」ブー。
 「仕事もオマエもどっちも大切なんだよ」ブー。
 では、正解。
 「さびしかったんだね、ゴメン」。
 なんじゃそれ。
 そんなの解答なのか?
 とか疑問に思っている時点で、この難問が解けなかったということを私は理解しましたよ。だめだわ、俺というか。
 あれだなと思った。ある禅の修行の話を思い出した。
 老師が修行僧に問う、「いかなるか、仏?」
 「仏とは、人々が正しく生きたいという願いであります」 バシっつ。老師、修行僧を警策っていうか木の棒で打つ。
 老師が修行僧に問う、「いかなるか、仏?」
 「仏とは、人が生まれ持った本来の心のありかたであります」 バシっつ。老師、修行僧を打つ。
 これを延々と繰り返す。修行僧、ついに黙り込む。老師がそれでも修行僧に問う、「言え、言え」。
 いかなる答えがあっても、バシっと、老師、修行僧を打つ。
 修行僧が音を上げて、「言っても打たれ、言わなくても打たれる、老師、答えは?」と言うと、老師さらに修行僧を打つ。
 どっすか、これ?
 答えを教えましょう。答えは、「逃げろ」。
 草履を頭に載っけて逃げたら、なおよし、というのがわかる人は禅を学びすぎて、それもなんだなあではあるけど。
 つまり、現実は、修行僧を老師が打っているだけ。言葉とか思いとかに迷い込んで現実が見えなくなっている。その現状を理解できないから、打たれ続けている。
 これって人生の根本的な錯誤の比喩なわけだよ。
 「仕事とアタシ、どっちが大切?」と女問う。
 「仕事」バシっつ。
 「オマエだよ」バシっつ。
 「今は大変なときなんだよ」バシっつ。
 同じでしょ。
 逃げるんですよ、答えは。
 逃げるというのは、まあ、そのままの意味でなければ、「さびしかったんだね、ゴメン」Hug!
 でだ。
 いやぁ、そんなのやってられんわと、思うわけですよ。
 でも、その前に、どうしてこういうことを「女」は言い出すのか、というのが、この漫画「だから女はめんどくさい」の本領発揮。なので、難問の答えがわかったら、ぽいというものでもない。(ちなみに、すべての女がそうだというわけじゃないから、「女」と括弧付けにしときますよ。)
 ちなみに、なんでこういうことになるのか。つまり、「仕事とアタシ、どっちが大切?」とか問うんじゃなくて、最初から「さみしかった」と言わないのか?
 これがわかると、本書の要諦はわかると思う。いや、偉そうに言ってしまってなんだが、ああ、そういうことなのかと、読みづらい漫画を読んで私は得心したのだった。
 それはなぜなのか?
 この漫画集は連載をまとめたものだけど、その第5話「意地の数だけ抱きしめて」にあるように、「女」には意地があるからだしプライドがあるから。
 男尊女卑的に言うのではないけど、「男」って普通に生きていると、意地とかプライドとかずたずたにされる過程を少年期から生きているようなもので、おかげで、意地やプライドって状況によって相対的だし、基本、平和がいいっすよね的な生き物になると思うのだが、女性はそのずたずたの過程の結果が違うのかもしれない。まあ、よくわからないが。ついでにいうと、男女と限らず、そういう、ずたずた過程を経ない人がネットで意地とかプライドを発揮しちゃうんじゃないか。
 逆にいうと、女にもてたいなら、その女のもっているプライドに沿ってあげればいいんじゃないか。
 で、第一歩はその女に対してはプライドを捨てるというか。もちろん、捨てるのはその女だけで、他には保っていないと、げー、こいつ最低とか見られるわけだが。
 で、と。
 その手のことをうだうだと考えさせる話が、この漫画集にてんこ盛り。いいですよ、これ。
 読後、二つ、心に残ったことがあるというか、感動した部分がある。
 一つは、これは作者安彦麻理絵さんのこだわりかもしれないけど、おセックス中に、えっとコンドームどこだっけと探しに行く男の後ろケツが萎えるということ。ほぉと思った。
 もう一つは、ちょっとした小説仕立ての独身三十代男女の物語。第14話「独身をこじらせた男女の話」である。
 飲み会で終電を逃して、39独身男のアパートに独身35女がしけこんで、男の趣味人生の部屋を見つめたり、酒飲み直したりして、そのまま、ことなく、男は床に寝落ち。ネタバレになってすまんが、ほいで、女のほうは、しかたないかとそのまま床に横になり、「ヒマならセックスでもすればいいのに」と一人思う。それで男を誘うわけでもなく、寝落ちで終わる。そんだけ。
 まあ、そんだけだから、三十代独身が続くということでもあるのだが、この「ヒマならセックスでもすればいいのに」をなにかどんと背中を押すのが団塊世代とかにはあったし、その後のバブル世代では、メディアの影響で、目的はセックスだぁ!の時代もあった。
 でも、今はもう、そういうのはないから、孤独とか自分とかに向き合うようになって、かくなり、と、あいはて。
 漫画集として見ると、各話は、総じて、ああ、古いなあという印象があった。雑誌連載初出は2007年らしい。もう5年も前になる。5年間で、このくらい古いっていう感じがするのも、すごい。というか、5年は長い月日のようにも思う。30代なら、特に。
 びっくりしたのだが、あとがきに、この5年間、最初作者37歳、今42歳の、この5年間に作者安彦麻理絵さんは3人の子供を産んで、4人の子を持つ母になったというのだ。長女はこの春中学生。その下に4歳と2歳の息子さん、8か月の女の子の赤ん坊。
 ほぇえ。事実は漫画よりも奇なりな感じがするが、もういちど、漫画集の全体をぱらっと見ていると、なんか、それは自然な感じがした。
 いや、もうあてずっぽうに言うのだけど、この漫画読んだ人は、なんとなく結婚して5年後に子供二人いても、なんかとても自然な感じがするんだよ。
 なんかご縁がありませんでしたねという30代くらいの人だったら、縁起ものだと思って、読むといいよ。
 
 

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2012.07.03

[書評]別海から来た女――木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁(佐野眞一)

 佐野眞一が連続不審死事件の木嶋佳苗被告を描いた。それだけの理由で本書「別海から来た女 木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁」(参照)を読んでみた。北海道の開拓地、別海に視点を求めるところには、まさに佐野らしい技芸があると思える反面、こいつはサイコパスではないかと端から切り捨てているような扱いもあり、以前の佐野とは違う感触もあった。率直なところ、別海という土地の重みがそれほどうまく本書のテーマに統合されていないこともあって、後者の違和感が気になった。

cover
別海から来た女――木嶋佳苗
悪魔祓いの百日裁判
 木嶋佳苗被告による連続不審死事件では、インターネットの婚活サイトを利用した結婚詐欺に加え、練炭自殺を偽装して殺人が行われたと見られている。2009年9月に発覚し、裁判員裁判により2012年4月13日さいたま地方裁判所で死刑となった。一見して美人でもない女性がインターネットを使って結婚詐欺に及んだことに加え、やすやすと殺人を展開していくことから世間の話題にもなった。また警察の捜査が目を覆うばかりの失態であることも暴露された。
 佐野眞一はこの事件の木嶋佳苗被告をどう見ているか。人間が壊れていると見ている。「木嶋にはたぶん大きな欠陥がある。もっと言うなら、木嶋には本人も気づかない深いところで、人間が壊れている」と。
 私も佐野のその観察に同意するが、そうであれば問題は「木嶋には本人も気づかない深いところ」とは何かとなるはずであり、それは本書のタイトルが暗示するように北海の開拓地「別海」という土地とその地域の人間群像に求めていくことになる。たしかにその予想通りに、佐野は本書の第一部で木嶋の生まれ育った土地や、親族の興味深い歴史を引き出していく。その描写は興味深いが、木嶋という女性の深淵をうまく描き切れているとは私には思えなかった。むしろサイコパス(精神病質者)はランダムに発生するという否定的な印象すらもった。
 それでも佐野が足で稼ぐことで気づかされたことは二つある。一つは木嶋被告の首都圏を広範囲に渡って行動する開拓者的な行動力であり、もう一つは木嶋の母という存在だ。彼女については佐野は、周辺の情報やインターフォンを介した肉声しか得ていないが、抑制的ではあるものの、木嶋佳苗のサイコパシーに母との関連を見ている。私の直観でも、ここは大きな部分だと思う。この事件の本質は「母の物語」なのではないのか。
 第二部では百日に渡る裁判が佐野を通して描写されるが、ここでも木嶋被告の人間的な部分は見えてこない。「かつて文学の一大テーマだった殺人は、もはや文学のテーマからもすべり落ちてしまったようにも見える」という佐野の諦観とも憤慨とも言えるものがやすやすと露出してしまう。それを「木嶋佳苗が起こした事件がどんなにグロテスクに見えようと、いやグロテスクに見えるからこそ、いまという時代を正確に映し出している」として、いわば公傷とも言える部分に引き上げようと試みているが、それも上手な結語は得られない。「この事件はこれまでのどんな事件とも異質である。そして木嶋はこれまでのどんな犯罪者とも比べても異質である。譬えて言うなら犯罪者のレベルが違うのである」とつぶやき、行き止まる。挙げ句、嘔吐感や「ぶん殴りたくなる答弁」という反応に至る。比喩でいうなら、ドキュメンタリーであるべき何かが、悪魔と道化の喜劇に転換してくる。その喜劇に読者である自分が誘われているような不快な幻惑感がある。
 木嶋佳苗という人間は、本書の裁判記録からもわかるように、息をするように嘘を吐く人間であり、殺人におそらく何ら抵抗感ももっていない。まさにサイコパスというべき存在であり、それはゆえにきちんと「サイコパス」とラベルした箱に収めておくべきなのかもしれない。だが事件の本質は、彼女をその箱に収めることではない。
 佐野も単純になんども本書でも問う。なんでこんな女にひっかかる男がいるのか? そしてその男女の関わりがなぜ、インターネットという情報の道具なのか?
 この問いに対しては佐野は、ようやく一つの答えの形を描き出す。男の孤独といえばそうだろうが、その奇妙な意味に至るのである。木嶋に殺害されそうになった男が、佐野の問いかけにこう答えている。

――ところで、木嶋と一緒にくらしていて、これは怪しいと思ったことはなかったんですか?
「あのときは、自分は鬱状態で寂しくてたまんなくて、だから一緒に暮らしてくれるなら、会話してくれるなら、それだけでラッキーって、もう誰でもいいっていうか、だからなぜあんなブスとって、思われるかもしれないけど、もう容姿とかどうでもいいっていう感じでした。(後略)

 その感覚を持たない男はいないだろうと中年男の私は思う。なぜ男はそんなに孤独なのか。男とはそういうものさ、としか言えそうにもないが、そこで引っかかるのは、無意識に投影された「母」という存在だろう。
 この事件で殺害された男、そして騙されそうになった男は、常識的に見れば、マザーコンプレックスというくらいに母親から精神的に自立していなかった。佐野もそこにふがいない印象をもっているようだが、では母親から自立すればよいかというと、その先には、誰でもいいからと木嶋と暮らした男のような壮絶な孤独感に向き合うことになる。もちろん、男すべてがそうだとはいうわけではないが。
 佐野が描いた物語を離れて、この事件をもう一度考えてみた。
 男という存在の本質的に救われない部分に、まるで偽の「母」がカチリと嵌ったかのように見えるのがこの事件の隠れた構図なのではないか。そして、偽の「母」ができてしまったのは、木嶋自身に「母」が不在だったからだろう。そう思ってみて、そのカチリと嵌る組み合わせはけして、この事件に限らないとも思い至る。少なからぬ男女の人生はこうした地獄で想像上の殺人を繰り返して生きている。その違いはなにか。本当の殺人に至らないのはなぜか。
 そこに違いなどないのかもしれない。本書に登場する、別の騙されそうになった男は、あっさりと木嶋佳苗を普通の女ですよ、かわいい女ですよと述べてみせる。実際、木嶋は狙った男性やその後気が変わった男であれば、虫でも殺すような行動に変わるが、それでも普通の男女の関係に納まっていることもあった。普通の部分の物語だけ見るなら、木嶋佳苗が普通の女であったことに間違いない。
 彼女は人格障害にも見える虚言癖があるが、彼女自身はそれを虚言だと思ってはいない。自分の語るセレブの物語ではきちんとセレブを生きて、あるいは男によってはかわいい女でもあったりもする。その多様な物語のよじれがあれば、物語のために対処する。カネで解消できるなら、ではと古代の遊牧民が農耕民を狩るように仕事してカネを得る。それが通常の社会という物語からすれば死刑という殺人の物語に反映する。
 私は木嶋佳苗を弁護したいわけではない。ただこれは一つの巨大な騙し絵なのではないかという奇妙な疑念が去らない。
 何かが彼女の嘘の物語を押しとどめない。普通の人間ならそこを押しとどめるものがある。それは普通倫理であると思われているが、私はそれは身体ではないかと思う。
 人の裸の胸のなかに脈打つ鼓動の心臓は物語ではなく、生きるという身体的な唯一性として、身体を通して人に開示されるものだ。そこで人は物語を捨て裸の身体として人と向き合う瞬間を持つ。その瞬間によって自身を物語りから肉体へと取り返す。生きているという限りない愛おしいさのようなものに、死や殺人が抑制される。
 そこが壊れてしまえば、人はただ、多様な物語のなかに消えてしまう。
 
 

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2012.07.02

夏草や民主党とやらの夢の痕

 小沢一郎元民主党代表が民主党を離党した。理由は、野田佳彦首相の消費増税方針について「首相の下での民主党は政権交代を成し遂げた民主党ではない」(参照)とのことだ。それはそうだろう。小沢さんらしいなと思った。
 小沢さんは、1993年に自民党を出て新生党を作り、1998年、同党を継承した新進党を出て自由党を作り、一大勢力になるかと思いきや54人とみすぼらしい結果になったものだった。2000年、保守党という分派が出てさらに弱体化した。その年の衆院選、窮地の小沢さんは本人が一人、殴られながら旧体制に突撃していくという、お笑いCMに出た。笑った。そして共感した。私は小沢さんを自覚的に支持するようになった。世論は小沢さんを叩きまくり、二度と目はないと見ていた。そうだろうと私も思っていた。

 小沢さんは「構造改革」「規制緩和」「官僚制打破」を説いていた。郵政の解体も視野にあった。
 2005年の小泉政権下の郵政解散は、市民社会に突出した部分の公務員を「構造改革」し(参照)、また民営化によって「規制緩和」していくという点で、小沢さんの理念に近いものではないか。ここは党派性よりも、まさに小沢さん自身が説いていたように、政策とその実現に大きく賛同する時ではないかと思った。
 が、あのとき、小沢さんは曖昧に民主党を動かなかった。小沢さんでも党派の論理で動くのかと思った。
 あのときの小沢さんの思いはこういうことだった。2003年時点、まだ自由党の時代だったが、週刊エコノミスト9月9日号でこう語っていた(参照)。


――自由党は、「構造改革」「規制緩和」を口にする点で、小泉首相と方向が似ている。
 まったく違う。一緒くたにされることで困っているくらいだ。小泉氏から「あなたとは言っていることがだいたい同じだ」と言われたが、決して同じではない(笑)。
 小泉氏であろうが、自民党が政権にある限りは、何も変わらない。というのは、自民党は高度経済成長期時代から続く既得権益の上に乗っているからだ。われわれが主張している改革というのは、その構造を変えることだから、自民党にとっては自殺行為に等しい。「自民党をぶっこわす」などと言葉は過激だが、自民党である小泉政権に自民党の存在を否定するような改革ができるわけがない。

 その後の小泉首相(当時)は本当に、自民党を自殺に導いた。国会が野合と化そうとしているとき、首相である小泉氏は、国民の声はこれとは違うはずだと蛮勇をふるって国民に声をかけた。民主主義が死にかけた局面でもあった。私は国民としてその声に応えた。
 本当の自民党の自殺は安倍政権から始まった。安倍政権は「高度経済成長期時代から続く既得権益」の構造を改革しようとしたと同時に、旧勢力の復旧を目論んだ。矛盾した政治から安倍氏は難病もあって自滅した。自民党は壊れた。そのあとの自民党の政権は、ただ政治主体の管理であり、それなりに福田さんも麻生さんもよくやっていたと思う。
 なによりリーマンショックのさなか、麻生さんはかなりベストに近い仕事をされていたと思った。が、世論は麻生さんを叩きまくった。いちいちくだらないネタだった。これは不当な話であると私は思ったし、この経済状況下で政権交代をすることはよくないと思い、自分なりの論も述べた。残念なことにその大半の予想は当たった。外れたとすれば、ここまで無残に民主党が崩壊するとまでは思わなかったことだ。
 政権交代が近づくにつれ、私から見れば、小沢さんは変わった。何が変わったかといえば、「構造改革」「規制緩和」を口にしなくなった。代わりに、労組の代弁者のような輿石氏と手を組みだした。私には不思議なことに思えた。さらにそのころから、今まで見たこともないような、小沢のシンパがメディアにわき出したのである。
 「構造改革」「規制緩和」を語らなくなった小沢さん。そして、輿石氏と組むやわきあがる小沢シンパ。なんて変な光景なんだろうと思った。
 さて、今日。小沢さんは、民主党を離れた。輿石氏とも離れたのかというと、そこまではよく見えない。
 「構造改革」「規制緩和」を再び語るようになったというふうもない。時事のまとめた要旨ではあるがこう語っている(参照)。

 先月26日に衆院本会議で消費税の増税だけを先行する社会保障と税の一体改革関連法案の採決に際して、反対票を投じた者のうち38人に加え、消費税増税法案に反対の参院議員12人の計50人の離党届を輿石東幹事長に提出した。
 私たちは、衆院採決の際、国民との約束にない消費税増税を先行して強行採決することは許されない、社会保障政策などは棚上げして、実質的に国民との約束を消し去るという民主、自民、公明3党合意は国民への背信行為だと主張してきた。こうしたことから、われわれは「行財政改革、デフレ脱却政策、社会保障政策など増税の前にやるべきことがある」と主張し、反対票を投じた。
 これまで輿石幹事長には今回の法案の撤回を求めて、何よりも民主党が国民との約束を守り、努力するという政権交代の原点に立ち返ることが最善の策であると、訴えてきた。
 本日まで、3党合意を考え直し党内結束するという趣旨の話はなかった。出てくるのは反対した者に対する処分の話ばかりだった。国民との約束を守ろうとする者たちを、国民との約束を棚上げにする者たちが処分するとは、本末転倒な話だ。
 もはや野田佳彦首相の下での民主党は、政権交代を成し遂げた民主党ではない。民主、自民、公明という3大政党が官僚の言うがままに消費税増税の先行を3党合意で押し通すことは、国民から政策を選ぶ権利を奪うことだ。3党合意は、政策の違いを国民に示し国民に政党を選んでもらうという二大政党政治、われわれが目指してきた民主主義を根底から否定するものだ。
 私たちは、国民の生活が第一の政策を国民に示し、国民が政治を選択する権利を何としても確保することこそ、混迷にあるこの国を救い、東日本大震災で被災した方々をはじめ、国民を守る政治家としての使命であるとの決意を新たにした。
 私たちは今後、新党の立ち上げも視野に入れて、政権交代の原点に立ち返り、国民が選択できる政治を構築するために本日、民主党を離党した。

 小沢さんの新しい旗にはなんと書かれているか。「行財政改革」「デフレ脱却政策」「社会保障政策」である。
 「行財政改革」はかつての「構造改革」と同じとしていいだろう。
 「デフレ脱却政策」はまさに現下政治家に求められるものであって、諸手を挙げて賛成したい。かつての「規制緩和」は広義に「デフレ脱却政策」のなかに吸収されたとしてもよいだろう。
 「社会保障政策」については、残念ながら、技術論的に可能な対応の組み合わせは限られていて政策の余地は実際にはあまりない。この部分に突っ込んでも、無残な結果になるだけだろう。
 政策的に問題となるのは、新しい旗である「社会保障政策」は官僚に頼るしかないことだ。ここで稚拙に「官僚制打破」を言い出してもしかたがない。
 昔の小沢さんに少し戻った気がしないでもない。新党を従えて、小沢さんはかつての小沢さんに戻るのだろうか。
 戻らないだろうと私は思っている。
 小党となり政策政党たらんとしたかつての自由党の党首には戻らないだろう。彼にとって政治とは数である。また数を換算しはじめるのではないか。今回、小沢氏に従った大半は速成の愉快な一年生議員であり、民主党を頼んでの比例区からの当選も多い。率直に言って、この部分は早々にふるい落とされる。そしてその数の分だけ、また小沢さんは焦ることになる。そして、数の取れる変な旗を振るのだろうし、「間違えられた男」をまた演じるのだろう。梶山静六さんのように消えていくのだろう。
 小党が乱立し、他方、国会の熟議を無視した密談で翼賛会が形成されていく。こうした図のなかで、政治主体がまず求められるのはしかたがないが、政治がなんであるかという理念の旗が、どこかでまだ見えていて欲しいとは思う。
 オーキド・ユキナリ先生風に、一句。

 夏草や民主党とやらの夢の痕 
 
 

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2012.07.01

「恋愛は性欲とは違って、唯一の相手を求める」と武者小路実篤先生はおっしゃるが

 僕くらいの年になると恋愛とか性欲とか卒業間近になるとも思われている。世間を眺めるとそうでもない。中原棋聖とかもそうでもなかった。みんな、いずれ、人生の卒業まで引きずるのかもしれないが、先日、武者小路実篤の言葉と称するものをツイッターで見かけて、少し考え込んだ。
 武者小路実篤先生といえば、仲良きことは美しきかなというお言葉が、なすときゅうりの絵に、意味深長に添えた色紙が有名だが、他のお言葉も残しているようだ。こういうお言葉だった。


恋愛は性欲とは違って、唯一の相手を求める。性欲だらけなら結婚は不必要だ。性欲は相手を尊敬しない。
武者小路実篤

 武者小路実篤先生が本当にそんなことを言ったのだろうか。武者小路実篤先生の、時代を先取りした喪男ぶりと転じてのご乱行の数々を知っている文学愛好家だと、くっくくく、苦笑で腹痛ぇ、とか言いそうな感じはするけど。
 ググってみると、ばふぉばふぉとこのお言葉が出てくるが正確な出典はわからない。「人生論」かもしれない。武者小路実篤先生の人生論かあ。懐かしい。私も読んだことがあるが、すっかり忘れている。岩波新書の赤版だったと思う。そうみたいだ(参照)。とはいえ、このお言葉の出典を自分で確認したわけではないので、自分としては不確か情報ではある。
 それはそれとして、このお言葉を読んで、これは逆じゃないかと思ったのだった。逆というのは、つまり、こう。

性欲は恋愛とは違って、唯一の相手を求める。恋愛だらけなら結婚は不必要だ。恋愛は相手を尊敬しない。

 どう?
 ふつーじゃね、とか思いませんか。
 恋愛が唯一の相手を求めないのは、これを純粋にモデル化した二次元嫁な人々を見てもそう思いませんか。いや、二次元嫁な人々を馬鹿にすんな、唯一の相手を求めてるんだ、とおっしゃる? おっしゃるとでも?
 恋愛だらけなら結婚は不必要だというのも、すでにご実践されているアラフォーやアラフィフティのおばさまが、ごろごろとサンダーストームのようにいらっしゃるのでは?
 問題があるとすると、恋愛は相手を尊敬しないということか。尊敬すると恋愛に萌えるじゃないですかぁ、とか、おっとそこのキミ、そーゆー意味じゃないよ。恋愛には相手への敬意が込められているかというと、まあ、それはそうなんじゃないかという気はするな。だ・が・な。
 じゃあ、武者小路バージョンのように、「性欲は相手を尊敬しない」かというと、そこが微妙な感じがする。これはつまり、「性欲は恋愛とは違って、唯一の相手を求める」というテーゼとも関係する。
 「性欲は唯一の相手を求める」というのは、自明なんじゃないかと思う。
 問題はこの「唯一性」にある。プラトンの「饗宴」で描かれるエロスのように、より好ましいものは、至上というイデアをもつに違いないからだ。イエス・キリストも、強欲な商人を称えた。天の御国は良い真珠を捜している商人のようなものだ。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は行って持ち物を全部売り払ってそれを買う、と。その欲望が性欲と異なるものでもない。
 そういう意味だと、唯一性というのは、イデアであったり天の御国であったりとして、この浮き世にはありえぬがゆえ、人生は彷徨するばかりと言えないこともない。
 それでも、唯一性が個人の肉体の限界と同値であるなら、肉体を越えるまでは、自己の身体がこの身体一つである限界に見合った、性の「唯一性」に至るのではないか。
 いや、むずかしいこといいたいわけではない。「性欲は唯一の相手を求める」というのは、唯一の相手を求めるときに性欲が開花されるということではないか、と。
 もうちょっと言う、というか、別の視点になる。武者小路バージョンだと、恋愛が精神性、として捉えられているのではないかと思うが、それは逆で、性欲のほうが精神的なもの、もっと言うと、霊的なものではないか。
 こうも言い換えてみたい。恋愛というのは意識の作用である。その起源は意識の外にあり、人は「汝は恋愛している」と意識に告げられてから意識を介して行動する。性欲はむしろその外来の根にある。性欲は自我を越えさせる精神性の起源……そうです、バタイユがヘーゲルを借りてうだうだ議論するあのエロス論ですよ。
 私たちは意識を自分だと思っている。そして意識によって肉体を縁取り、その舞台の上で恋愛とかを演じているが、その本来の姿は、性欲によって肉体を越えていくことにある。私たちは、肉体という唯一性と交換するための唯一性を与えられると信じて生きている。自分とは、つまるところ、この肉体だと思っているからだ。
 ま、めんどくさい話はどうでもいいけど、性欲が唯一の相手を求めるということが真理のようにどかしら直観しているから、恋愛や愛情にいつも嘘くささが付きまとうし、性欲というのをおとしめるようにした人間はその内奥から崩壊してしまう。
 
 

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