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2012.06.15

ジュネーブ詩篇本について

 一連の詩篇関連の話としてジュネーブ詩篇本(サルター)(Genevan Psalter)について触れておきたい。
 プロテスタントの形成に大きく寄与し、またマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でも重視されているカルヴァニズムの原点、神学者ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)(1509-1564)は、独自のサルター(詩篇本)も作成していた。ブジョーの「詩篇を歌う」(参照)で詩篇朗詠は聖務日課(Divine Office)の基礎となるとの指摘があったが、カルヴァンも新しい自派の信仰集団に聖務日課のような儀礼を組み込みたかったのがサルター編纂の目的だった。カルヴァンというと質素で儀礼を排するかに理解されることが多いが、詩篇朗詠を信仰生活の基軸にするベネディクト修道院的なコミュニティへの志向もあった。
 簡単にカルヴァンについておさらいしておく。カルヴァンはフランク王国時代の1509年、ピカルディ地方ノワイヨンで公証人役人の子供として生まれ、少年時代に教会の庇護を受け、青年期にパリに出てラテン語を学び、さらにオルレアンやブルージュの大学で法学を学んで弁護士となった。最初から神学を志向したわけではなく、当時の進歩的なルネッサンス的な知の圏内の人文学者であった。二十代前半でありながら1532年、セネカの「寛容について(De Clementia)」の注釈書を出版するほど早熟の秀才でもあった。変化は翌1533年に訪れる。彼を宗教者と変える、神秘とも言える体験をした。後に彼はその体験の意味を詩篇解説のなかで語られることになるように、それは詩篇的な情感を伴っていたものだった。


ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)

 カルヴァンの回心は彼を取り巻く環境の影響もあっただろう。ルターによる「95か条の論題」(1517)の影響からフランク王国でも1534年に、パリやオルレアンなどの公衆でカトリック批判文書が貼られた。檄文事件(affaire des placards)と呼ばれる事件である。カルヴァンはこの事件のとばっちりを受けて国外に亡命した。この時点でカルヴァンがカトリックに対立する信仰をどの程度もっていたのかはよくわからないが、2年後、1536年には亡命先のスイスのバーゼルでラテン語による神学書「キリスト教綱要(Christianae Religionis Institutio))」を出版し、新しい神学を確立して、一躍欧州の著名人になった。カルヴァンにしてみるとこれも最初はまだ20代の作品だったが、そ後の神学論争を反映して改訂につぐ改訂で最終的な版は1559年になった。この「キリスト教綱要」でもカルヴァンは詩篇朗詠の重要性を説いている。
 カルバンの神学は「キリスト教綱要」に表現されているとも言えるが、その神学が後のカルヴァニズムと言えるかについては議論が残る。一般的にはカルヴァニズムは、1618年のドルトレヒト会議で定めれたドルト信仰基準(Canons of Dort)として、(1)全体的な堕落(Total depravity)(2)無条件の選び(Unconditional election)(3)限定的な贖罪(Limited atonement)、(4)拒否できぬ恩恵(Irresistible grace)、(5)聖別者の忍耐(Perseverance of the saints)の5つ、頭文字を取ってTULIPとされている。
 「キリスト教綱要」出版後カルヴァンは、イタリア、そしてスイスのバーゼルからジュネーブと流浪した。ジュネーブ市では市の独立に合わせてキリスト教の改革に乗り出したが失敗して追放された。その後1538年、フランスのストラスブールで当地で盛んだった詩篇朗詠の影響を受け、カルヴァン自身も詩篇翻訳に乗り出し、1539年に最初のジュネーブ・サルターが出版された(これには後述するマロ訳も含まれている)。
 ストラスブールでカルヴァンは後家さんを世話してもらって結婚した(式は挙げていない)。1541年、追放されたジュネーヴ市ではあったが、同市に残る支持派が盛り返し、カルバンが招聘された。以降彼はジュネーブの地に終生落ち着き、為政者として神権政治を展開し、意にそぐわない者は火あぶりにした。ジュネーブのカルヴァンによるコミュニティの影響からカルヴァン派と呼ばれるプロテスタント派が生まれた。
 ジュネーブ・サルターの編纂史で重要なのは、1541年、フランスの詩人クレマン・マロ(Clément Marot)(1496年-1544)が、詩篇の詩50編をフランス語で翻訳して出版し、当時としては大ベストセラーとなったことだ。宮廷貴族から庶民までマロ訳詩篇を朗詠するようになった。マロ訳詩篇は出版以前からかなり流布されていて、最初のジュネーブ・サルターにも収録されていた。
 詩篇の翻訳は以前からあるのに、なぜこれほどまでマロ訳詩篇が大ブームになったかというと、それが韻文だったためである。詩篇の詩は元のヘブライ語では韻文であるが、ギリシア語やラテン語に訳された時点で散文化され、さらに他の言語への展開も散文になった。マロ訳はこれをあえて韻文として訳出しため朗詠しやく、しかもメロディが載りやすいので歌唱しやすくもなっていた。このマロ訳韻文詩篇の流行は、当時のフランスのプロテスタントの活動の原動力ともなり、むしろカルバンはこの韻文聖書朗詠の熱気を受け取った側にいた。
 ところでマロがなぜ詩篇を韻文に訳したのかだが、信仰上の理由ではなかった。これこそまさにルネサンスという文芸活動だろう。マロ自身、父親が詩人であり当時の人文学を学んでいた。こうした背景や活動のせいで、マロは1534年の檄文事件でも影響を受け、各地を逃げ回ることにもなった。
 マロ訳韻文詩篇の人気は、当時の神学者の嫉妬の対象でもあり、またプロテスタントへの普及も苦々しく思われていたため迫害され、1541年、マロはカルヴァンを頼ってジュネーブに逃げ込んだ。カルヴァンはマロの詩篇訳を好み、自身の詩篇訳を断念したほどだが、両者はほどなく断裂し、マロはジュネーブも追われイタリアに逃げ込み、1544年、トリノで客死した。
 マロによる詩篇の韻文訳は詩篇全体ではないため、カルヴァンはこれを全150編分完遂しようとして、自家詩集を出したこともある神学者テオドール・ド・ベーズ(Théodore de Bèze)(1519-1605)に韻文訳を依頼した。詩篇全体の韻文訳がジュネーブ・サルターとして完成したのは1562年で、カルヴァンが54歳で死去する2年前であった。なお、カルヴァン死去後、ベーズはその権力を引き継ぐことになる。
 ジュネーブ・サルターは、マロの時代からメロディを付けられて歌われてきた。1562年の完成版はグレゴリアン・チャントと同じ記法のメロディも付与されて、事実上、現在の讃美歌集の原形になっている。このことは逆に現代の讃美歌にもその影響を残した。手元の讃美歌集を開くと、メロディは違うが、1番「礼拝 賛美」には"Geneva 1551"とあり、ジュネーブ・サルターが起源となっていることがわかる。
 ジュネーブ・サルターの全体の日本語版は2006年に「日本語による150のジュネーブ詩編歌」(参照)として出版されている。英語版については"Genevan Psalter Resource Center"(参照)で無料で配布されている。これらは、フランス語からさらに近年英訳した歌詞に当時のメロディが充てられている。実際に歌われている音楽ファイルも無料で配布されているので聞いてみると、いかにもルネッサンスらしい雰囲気が感じられる。


 
 

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2012.06.14

詩篇と関連した神名などについて

 シンシア・ブジョーの「詩篇を歌う」(参照)を読みながら、聖書の詩篇についていろいろ考えた。心に残っているうちに一部をメモしておきたい。
 ブジョーの本はよく書けているが、意図的かはわからないにせよ関連しているはずなのに抜け落ちたかに見える話題もある。一つはプロテスタントと詩篇の関わりである。これは別途扱いたい。もう一つは、砂漠の教父たち黙想をカッシアヌスやベネディクトゥスに結びつけていく説明は見事だが、おそらく砂漠の教父たちの信仰にはそれ自体に独立した形式を伴った朗詠が含まれていたことだ。砂漠の教父たちのチャンティングは実際にはどのようなものだったか。
 砂漠の教父たちの朗詠の原形の一端は、おそらくイエス・キリストも服しただろうユダヤ教の儀礼があるだろうが、それだけではなく、現代のコプト教会やエチオピア教会に残る、呻るようなチャンティングもあったのではないか。これらは、聴き方にもよるが日本の木曽節のような感じで浪々と呻る。

 呻り上げる吟詠はコンスタンチノープル主教座のチャンティングにも残っていて、響きの印象としてはクルアーンの朗詠ともつながっている。これらは砂漠の教父たちの朗詠に起源を持つものではないだろうか。

 砂漠の教父たちの朗詠とクルアーンの朗詠について考えつつ、たまたまアメリカ標準訳聖書(ASV: American Standard Version)の詩篇を読んでいたとき、神名"Jehovah"につまづいた。神名の記載は知ってはいたが実際にチャンティングしようとしたら、神名は奇妙にきつく感じられた。「この感じはクルアーンに近い」とも思った。詩篇もそのまま神名で朗詠し、しかも木曽節風の砂漠の教父のうなり声で朗詠すると、印象としてはクルアーンに似てくるだろう。
 言うまでもないことだが、ユダヤ教では、砂漠の教父の時代にすでに神名"יהוה"は音読されてはいない。だとすると当時のユダヤ教徒はそもそも詩篇の朗読もできないではないか、ということになりそうだが、朗詠の際には、"אדני"(アドーナイ)を充てていた。アドーナイの意味は「主」である。朗詠には七十人訳聖書のコイネ・ギリシア語に拠っただろう砂漠の教父たちも、"אדני"から訳された"Κύριος"(キュリオス)、つまり「主」を使っていた。呼格は"κύριε"(主よ!)である。
 神名が朗詠のなかで露出することは、原始キリスト教にも砂漠の教父たちにもない。その点からすると神名が強調されることはクルアーンの特異性のように思えるが、その神名"الله"は、アラビア語を使う非カルケドン派の地域では旧約聖書の"אדני"(アドーナイ)の代わりに利用されていた。つまりその伝統では"الله"は"יהוה"を指していた。旧約聖書を基礎としているクルアーンの内容からもその同一性は理解できる。別の言い方をすると、"الله"が神名として朗詠のなかで意識されるときにクルアーンが成立したと言えるかもしれない。
 話をASVと神名に戻す。なぜ近代になって、ここに神名"Jehovah"が露出したのか。あらためて考えると奇妙な感じがする。これも言うまでもないことだが、欽定訳聖書(KJV: The King James Version, AV: Authorized Version)には神名はなく、詩篇をサルターとして含む聖公会祈祷書にも出てこない。ラテン語のウルガタにも神名はなく("Dominus"である)、それを引くカトリックの聖書にも神名は出てこない。なのになぜASVに出てくるのか。あらためて調べると、KJVに神名はなんどか出ていたことを確認した。ティンダル聖書の影響もあるのだろうが、このあたりはむずかしくまた別の機会に調べたい。
 ASVの元になる英国側の改訂訳聖書(RV: Revised Version)はどうかと見ると、やはり神名"Jehovah"は出てくる。しかし私が英訳聖書として使っていた改訂標準訳聖書(RSV: Revised Standard Version)になると神名は消え、大文字の"LORD"が充てられている。RVの旧約聖書が1884年、またASVが1901年だが、RSVは1951年であり、アドーナイの読み換えを継いで"LORD"が復元するまでに半世紀の開きがある。
 日本語の聖書はどうか。私が使っていた日本語の聖書、通称口語訳はRSVの翻訳方針を元にしたもので、旧約部分は1955年にできた。私が生まれる2年前になる。口語訳の翻訳作業では、昨年97歳で亡くなったユージン・ナイダ(Eugene Nida)博士が尽力された。私はそのお弟子さんから翻訳と聖書を学んだので懐かしい。話を戻すと、それゆえ通称大正訳ではその当時の英米圏の主流である神名「エホバ」が含まれているが、戦後の口語訳では「主」に戻されている。
 なぜ「エホバ」なのか。この読みは、母音を含まない表記のヘブライ語の神名"יהוה"に"אדני"(アドナイ)の母音を当てはめて近い音にしたものとされているが、厳密にはわからない。
 衒学的な話のようになってきたが、詩篇を朗読するとき、神名の直接性は非常に大きいとあらためて痛感した。そしてこれをキリスト教徒が"LORD"または「主」として朗詠するとなると、当然ながら、父なる神と子なるイエス・キリストの差はなくなることになる。つまり、ごく素朴なレベルで三一教義が保証されないと、詩篇の朗詠すらできない。もちろん、こうした問題を非三一的に回避するには、ASVのように神名を詩篇に押し込めて読むしかない。三一教義を避ける「ものみの塔」の人たちはRSVや口語訳聖書を使うことができないので、1982年になってようやく神名を保持する新世界訳ができたときは嬉しかったようだ。それまでは大正訳を使わざるをえなかった。
 これでこの話はおしまいという雰囲気だが、英語やラテン語、またはギリシア語あるいは原典であるヘブライ語で詩篇を朗詠するなら以上で整理が付くといえば付くのだが、日本語で聖書を朗詠するとなると、日本語独自の問題が生じる。口語訳聖書の詩篇は、まさに戦後詩といったもので朗詠に適さないのである。個人的な感性もあるだろうが、讃美歌と同様、文語でないと様にならない。神名が露出している大正訳で「主」と読み替えてもいいのだろうけど、まいったなあ。みなさん、どうしてるんだろうと思う。「みなさん」って誰?
 きちんとした典礼を持つカトリックはどうしているのだろうか? いいもん、もってるんじゃないかともちらと思った。ラテン語のままかな、とかも思ったとき、おっと、第2バチカン公会議(1962-1965)で、ミサなど典礼はその地の母国語になったのだった思い出した。
 聖公会の祈祷書はどうかとこれもちょっと調べてみると、口語化されているようだ。それなら戦前の聖公会の祈祷書を探せばよい。立教大学にいけばありそうだ。さて、そこまでしてと、ふと、他に日本の正教にあるんじゃないかと試しにネットを探したら、あった! 正教会訳旧約新約聖書というサイトの「旧約・聖詠(PDF)」(参照)。これは格調高い。


第四十五聖詠

神は我等の避所なり、能力なり、
患難の時には速なる佑助なり、

故に地は動き、山は海の心に移るとも、
我等懼れざらん。

其水は號り激くべし、
其濤たつに依りて山は震ふべし。

河の流れは神の邑、
至上者の聖なる住所を樂ましむ。

神は其中に在り、其れ撼かざらん、
神は早朝より之を佑けん。

諸民は騒ぎ、諸國は撼けり。
至上者一たび聲を出せば地は融けたり。

萬軍の主は我等と偕にす、
イアコフの神は我等を護る者なり。

來りて主の爲しし事、
其地に行ひし掃滅を視よ、

彼は地の極まで戰を息めて、弓を折り、
矛を折き、火を以て兵車を焚けり。

爾等止りて、我の神なるを識れ、
我諸民の中に崇められん。

萬軍の主は我等と偕にす、
イアコフの神は我等を護る者なり。

 オバマさんの詩篇朗読はチャンティングではないし格調という点でもどうかと思うが、この詩の強烈な雰囲気はよく表現されている。ああ、米国!

 
 

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2012.06.13

[書評]詩篇を歌う(シンシア・ブジョー)

 何かを自習するための教本でこんなに楽しいのは久しぶりだなとシンシア・ブジョー(Cynthia Bougeault)の「詩篇を歌う(Chanting the Psalms)」(参照)を読んだ。

cover
Chanting the Psalms
Cynthia Bougeault
 内容は簡素なタイトルが示すように聖書(旧約聖書)の詩篇を朗詠するための基礎知識や簡素化された技法、さらに現代的な朗詠や歌唱化の手法を扱っている。グレゴリアン・チャントの基本も説明されている。翻訳はないようだが平易な英語だし、読んだだけではわかりにくい部分は添付のCDで聞くことができる。記載されている楽譜も最小限だ。著者ブジョーは、耳で聞いて覚えなさい、耳を信頼しなさいと、鈴木メソッドの例で教示している。
 こういう本で詩篇や英詩の朗詠について若いときに勉強できたらよかったのに、と読後悔みもしたが、著者ブジョーが提示するこの新しい詩篇朗詠の動向は1990年代以降に生じたらしく、この簡素な朗詠法はそれほど広く定着してはいない。それでも本書やその他のメディアから彼女の提言で啓発された人も少なくない。聖なる詩句の朗詠を生活に組み入れて人生が変わっていくことは理解できる。そもそも詩篇が現代的に生き返るというのも驚きでもあった。
 知りたいと思っていたのに知らなかったことも本書にいっぱい書かれていた。単純なところでは、なぜ詩篇がそれほど重視されているのか。私が人生で最初に購入した聖書は新約のみの文庫本サイズで、その後トルコやギリシャを旅行するとき携帯したものだが、これに詩篇が付いていた。なぜ新約聖書に詩篇がついているのかと少年時代から疑問に思っていた。詩篇が重要であるということは知的にはそれなりに理解できる。イエス・キリストを含め新約聖書に描かれる人々にとって詩篇は、私たち日本人にとっての童謡や唱歌のように常識を形成しているからだ。イエス・キリストが十字架にあって「わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまいし」と叫んだとしても、これが絶望ではないことは詩篇を読んでいたら普通にわかる。だが、詩篇の重要性が十分に腑に落ちるというふうでもなかった。
 修道院でもプロテスタントの集会でもよく詩篇が朗詠されているもの知っているが、すっきりと理解したわけでなかった。詩篇の詩の韻律や語句を調整して讃美歌に収録されているのも知っている。逆になぜ詩篇をそのままの形で歌うのだろうか疑問に思っていた。讃美歌を増やしたり、新しい歌集を作ってもよいのではないか。そうした疑問の大半は本書で氷解した。
 詩篇(Psalm)が西欧ではサルター(Psalter)として独立書籍として愛用されていることもわかった。少年の私が愛用した新約聖書はサルター付きだったのだ。聖公会祈祷書(The Book of Common Prayer)がサルター(Psalter)を内包していることも知らなかった(聖公会のガールフレンドがいたのに)。あれはただの祈祷書だと思っていたのである。たしかによい意味でただの祈祷書ではあるのだが、サルターを含んでいることも知らないで英文学とか学んでいたのかと無知に恥じ入る。本書でいろいろと「ああ、そういうことだったのか」と腑に落ちた(失恋についてはそうでもない)。
 本書は三部構成で、一部では現代的でかつ実践的な視点から詩篇と朗詠が概説されている。現代人の感覚からすると古代のユダヤ教の詩には共感しづらい残酷性もあり、そうした側面についてもていねいに対応されている。具体的には信仰として受け取り直すことや、現代的な新翻訳を選ぶことが勧められている。そうしたニーズから新しく現代的なサルターも出版され、人気を得ていることも知った。しかし詩篇を朗詠するという場合、現代的な新訳は内容的には理解しやすく啓発的でも、音楽的に朗詠しやすいかというと、むずかしい。理解をとるか韻律の音楽性をとるか。カトリックの新訳詩篇はバランスがよいとの指摘もあったが、ベストな解答はなさそうだ。
 二部では添付のCDへの参照を含めながら、朗詠の実習が中心になる。いわゆる教本的な部分である。驚いたのは朗詠の基本原理だった。最初に提示されるのは、単音による朗詠。これに句末の音階上げと下げが追加される。著者ブジョーはこの簡素な操作だけでも詩篇が全部朗詠できますよという。なるほどと思った。そしてこれを基本に句末に英国風の音階的な修飾を加えたり、句内に音階的な変化の導入する手法が説明されていく。説明が上手で読みながら目から鱗が落ちる。朗詠向けに基本的な音階フレーズのレパートリーもあるといいとする勧めも頷ける。そういえば讃美歌集の巻末のほうに朗詠の楽譜あったことを思い出した。これは今まで歌ったことはなかった。
 二部の後半ではグレゴリアン・チャントの記法の読み方も説明されている。基本は一通り説明されているがそのままグレゴリアン・チャントを習得しましょうという話ではなく、あくまで朗詠の全体像のなかで示されている。そうした全体像でさらに重要なのは、アンティフォン(antiphon)である。ここでも「こんなことも今まで知らないでいたのか自分は」と悔やんだ。つねづね疑問だったことに、ずばりの解答が存在していた。
 日本語でアンティフォンをなんと呼ぶのか知らない。字引には「交唱歌」とある。掛け合って歌うというイメージになりやすい。たしかに原義はギリシャ語のαντιφωναで、αντιが「対となる」φωνα「音」から二組の合唱隊として組織されることもあるが、歌唱としての意味は取りづらい。著者ブジョーはこれをサンドイッチのパンとして説明している。朗詠の前後から挟む短い歌ということだ。詩篇の詩の朗詠がメインのコンテンツで、これにオープニング曲とエンディング曲が付くといった感じである。
 詩篇の朗読には短いオープニング曲とエンディング曲が付く。言われてみればそうだと理解してさらに、これが聖務日課(Divine Office)を構成するというとき、目から瓦が落ちました。言われてみれば当たり前なのだけど、正教やカトリックを頭で理解し、そしてその音楽を芸術として堪能してきた自分は、かくまで無知であった。著者ブジョーは、詩篇を歌うということは、自分の聖務日課を持つことだとしている。当たり前といえば当たり前だが、そうした精神性のなかで詩篇をきちんと捉えることは重要である。さらに儀礼化した聖務日課をクリエイティブに作り替えていくという発想にも驚いた。驚きの連続の一つは、テゼの歌はアンティフォンですよという指摘だった。まさにそのとおり。テゼに示されるアンティフォンのような短く美しい聖句は、それだけで黙想の祈りともなる。
 第三部ではテゼを含め、いくつか創造的な適用(Creative Applications)が議論されていく。詩篇を歌う各種アプローチから生み出される美しい歌に感動する。これからいろいろ聞きたい分野が増えてきたと嬉しく思えた。
 添付されたCDを聞きブジョーの解説を読んでいくうちに、間接的にだろうが、グレゴリアン・チャントやテゼの歌への感性が変わってきた。本書の直接的な内容ではないのに、自分の持っている正教のCD(ギリシャとかで購入してた)やグルジェフの曲やヒルデガルドの曲への感性が変わる。拡張してく感じだ。自分の内面に今までとは違った音楽の感性が生まれている。嬉しい。若い日にいろいろなことを学んだときの驚きの感覚がよみがえってきた。
 
 

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2012.06.12

非カルケドン派とキリスト教王国

 あまり読む人もなさそうなキリスト教史のような話を連ねていくのもなんだなが、あるところまで書いたら自分のなかで終わるだろうとも思っていたが、だいたい終わり、一区切りかなという感じもしたが、朝方ぼんやりと、なぜ非カルケドン派はカルケドン会議を認めなかったのかとつらつら考えていて、そうだ、そのとおりではないか、と気がついた。そうだ、そのまま「非カルケドン派はカルケドン会議を認めなかった」ということ。何となく、公会議で非カルケドン派が排斥されたかのように思っていた。その思い込みは何から来たか。「東ローマ帝国」という詐術である。
 カルケドン会議は、ローマ皇帝マルキアヌス(Marcianus)が召集し、コンスタンチノープル総主教アナトリオス(Anatolios)が主導した。このあたり通説はどうなっているかと、ウィキペディアを見ると、「東ローマ皇帝マルキアヌス(Marcianus)によって召集され」と無造作に「東ローマ皇帝」とある。英語はどうかと見ると、"the emperor Marcian"は文脈上「東ローマ帝国(Eastern Roman Empire )」に参照されていた。同じである。私は「東ローマ帝国」というものは存在しなかったと考えている。当然「ビザンチン帝国」だの「西ローマ帝国」だのも存在しない。これらはある歴史観から創作された歴史術語に過ぎない。もちろんその歴史観を採用してもよいが、私はそれは近代西欧による偏見の反映に過ぎないと考えている。存在したのはローマ帝国だけで、その統治で大きく西側の財産管理権が分離してその部分が早々に滅亡したと見ている。
 ローマ帝国は一貫してローマ帝国だった。7世紀に入ってもヘラクレイオス(Ἡράκλειος)までは皇帝尊称も公用語も変化はなかった。そもそもローマ帝国というように「帝国」とされているが、元来は共有財産(res publica)の管理権とそれに付随する市民権であった。
 ウィキペディアなどに採用されている西欧的な史観では、「東ローマ帝国」はコンスタンティヌス1世(272-337)から始まるとしている。理由はコンスタンチノープル遷都なのであろうが、歴史的には遷都と呼べるような実態はなく、皇帝が居住するのは、わずか一年間の皇帝ではあったがテオドシウス1世(347-395)からである。にもかかわらずコンスタンティヌス1世が称賛されるのは背景があるのだろう。おそらく彼がローマ帝国をキリスト教化したということではないか。実際に彼がしたのはキリスト教の認可にすぎないのに。
 と考えていて、わかったのだが、コンスタンティヌス1世称賛は、実質的には彼が初めて「公会議」を招集したことによるのではないか。これによって、ローマ帝国と関連付けられた「正しいキリスト教」が成立する。別の言い方をすると、ローマ帝国の統治の手法をキリスト教に導入するということである。目的は、ローマ帝国が地上を支配する王国であり、これを天国を支配するキリスト教と結合させることだ。第一公会議である第1ニカイア公会議では、アタナシウスによる三一教義が採択されたが、これは、天国の神=父、地上の皇帝=子、そして加えておそらく市民支配=聖霊といった暗喩が込められていた。権威はすべて「父」に帰することなり、キリスト教帝国としてのローマ帝国が完成する。
 ギリシア語を公用語にしたヘラクレイオス以降のローマ帝国では、皇帝尊称は、古来の皇帝尊称に「バシレイウス(Βασιλεύς)」が優先する。このあたりの話はキリスト教を知らないとわからないかもしれないなと、ふと気になってウィキペディアを見るとこの項目に以下の話が書かれている。


古代ローマ帝国後期においては「インペラトル、カエサル、フラウィウス、アウグストゥス」が皇帝の称号であり、初期の東ローマ帝国でもそれが引き継がれていた。ギリシア語版の勅令でも「アウトクラトール(支配者の意。インペラトルに相当)、カイサル、フフラウィオス」や「アウグストス(ないしは、同じ意味のギリシア語であるセバストス)」と記されていた。

ところが629年にサーサーン朝に勝利して首都コンスタンティノポリスヘ凱旋した皇帝ヘラクレイオス(在位:610年 - 641年)は、「キリスト信者のバシレウス」とだけ名乗った。のちに「アウトクラトール、カイサル、フラウィオス、セバストス(またはアウグストス)」といった伝統的な称号も復活し、併記されるようになった[1]が、以後これが東ローマ帝国における皇帝の称号として定着することになった。

当時、ゲルマン民族などの侵入によってラテン語使用地域の大半はローマ帝国の支配領域から離れてしまっており、新設された官位などもギリシア語の名称を使用するようになっていたことなどから、このことは帝国の公用語のギリシア語化、「ローマ帝国のギリシア化」を象徴するものとされているが、具体的になぜこの時期にヘラクレイオスが急に称号を変えた(即位時には伝統的な称号を使用していた)のかは定かではない。一説によればそれまで「バシレウス」は「諸王の王(シャーハンシャー、ギリシャ語では「バシレウス・バシレオーン」)」と称していたサーサーン朝の君主をさす用語であったものだったが、サーサーン朝を降したことによってヘラクレイオスが新たな「諸王の王」であると宣言した、とも言われている。

なお、本来「王」を示すバシレウスが皇帝を示す用語に変わったことから東ローマ帝国では他国の王を示す言葉として、ヨーロッパ諸国の王には「レークス」(ラテン語の "rex" 由来か)、アジア系民族には「カガノス」(可汗由来か)が使用されたという[2]。[3]


 ここを書いた人はキリスト教に詳しくないのだろう。というのは、これは「主の祈り」からすぐにわかることなのである。

Πάτερ ἡμῶν ὁ ἐν τοῖς οὐρανοῖς·
ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου·
ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου·
γενηθήτω τὸ θέλημά σου,·
ὡς ἐν οὐρανῷ καὶ ἐπὶ γῆς·

 ただし日本語訳だと多少わかりづらい。

天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ

 この「み国」が「バシレイア」であり、その王が「バシレウス」なのである。キリスト教の考え方では、天の王国の王(バシレイウス)が父=神であり、この王国が「地にも」及べ、ということで、天の王国の父と合意した地の王としての「バシレイウス」が希求される。これがキリスト教ローマ帝国である。日本人にはこじつけた考え方にも聞こえるかもしれないが、日々主の祈りをギリシア語で唱えていた当時のローマ帝国の市民には、ごく当たり前の感覚だっただろう。
 こうしたキリスト教帝国の端緒となったのがコンスタンティヌス1世であり、その天と地の整合として、つまりキリスト教帝国の権威の顕現として「公会議」が仕組まれていった。だが、コンスタンティヌス1世の時代ではまだ権威の意識は各総主教座には認知されていなかったのではないだろうか。
 話が冒頭に戻るが、「非カルケドン派」と後にされた神学者らにしてみると、神観・神学は多様にあり、神学的な正さからの理解と承認はあっても、それが地の王国であるキリスト教帝国の権威によって認可されるという事態はそもそも理解できなかったのではないか。ごく簡単にいえば、「非カルケドン派」にしてみると「公会議」と称するカルケドン会議の人々は「単性説か両性説かだけで議論するなんてキリスト教がわかってないなあ」ということだったのではないか。カルケドン会議のその後を追ってみると、合性説の扱いが微妙になっていく。
 両性説問題はカルケドン会議(451)で神学的な決着がついたとは言いがたいことから、ほぼ100年後「第2コンスタンティノポリス会議」(553)に蒸し返しが起こる。ここでは「三章問題(τρία κεφάλαια)」として三つの問題が議論されたが、この過程で合性説の厳密化が提示された。これがコプト教会などが持つ合性説とほぼ同じ形に見える。この議論が深まれば「非カルケドン派」が合理的に正統に回帰した可能性もあるだろう。しかし、そうならなかった。理由は「非カルケドン派」の多い地域がイスラム圏化し、政治的に分離していったためである。
 余談だが、イスラム圏を創始したムハンマド(Muhammad Ibn `Abd Allāh Ibn `Abd al-Muttalib)(570頃-632)はアラム語を母語とし、砂漠の教父のように黙想を信仰に取り入れていた。610年頃、マッカ郊外のヒラー山の洞窟で黙想していると、かつてイエス・キリストの誕生を告げた天使ガブリエルが現れた。驚いたムハンマドは、15歳年上の、以前雇い主だったが今では嫁となったハディージャに相談すると、彼女は従兄弟のキリスト教僧ワラカ・イブン・ナウファル(Waraka ibn Nawfal)に相談した。こうした逸話から推測するとムハンマドも砂漠の教父に根を持つキリスト教徒だったのだろう。
 

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2012.06.11

砂漠の教父とコプト教会

 砂漠の教父(Desert Fathers)とコプト教会の関係が気になるので、自分なりに少し整理しておきたい。
 先日のエントリー「砂漠の教父と黙想の祈り、改革者としてのアタナシウス」(参照)で砂漠の教父に言及した。背景の基本構図としては、ローマ帝国の遷都に伴い、ローマ帝国がキリスト教帝国となり、帝国西部崩壊でローマ主教座が独立・分離する以外は、各地の総主教座はコンスタンチノープルの主教座を名誉的な頂点として統合された。現在のエジプトに居住していた砂漠の教父らも基本的にはこの構図から、アレクサンドリア総主教座に以降、納まることになった。だが、砂漠の教父とアレクサンドリア総主教座と後のコプト教会の三者の関係は、現在のキリスト教史観からはわかりづらい。この領域は、正教でもプロテスタントでもカトリックでもないためだろう。
 コプト教会は東方諸教会の「非カルケドン派」と呼ばれることがある。451年のカルケドン会議を公会議として承認しない派という意味である。「非カルケドン派」はコンスタンチノープル主教座を頂点とするキリスト教ローマ帝国からは逸脱したことになり、また「非カルケドン派」を継ぐコプト教会も正教会から分離したことになっている。しかし、この分離は歴史学的には、カトリックの分離のようなシスマとしては理解されていないし、実際のところシスマ、特に大シスマは、1054年とずっと後のことになる。「非カルケドン派」が歴史的に実際、何を意味していたかは、存外にわかりにくい。
 カルケドン会議では、単性説(Monophysitism)が排斥され、正統キリスト教は両性説(Dyophysite)とされ、カルケドン信条が採択された。すると「非カルケドン派」および現在のコプト教会は、単性説を支持し、カルケドン信条を採用しないというようにも思える。だが、これは間違いである。
 まずカルケドン信条だが、そもそもこれは正統キリスト教を規定する信条なのだろうか? カルケドン信条を承認しないと異端となるのだろうか? 現状、カルケドン信条は、カトリック、正教会、およびプロテスタント教会の長老派や改革派で承認されているが、積極的に受洗に唱えられているというふうでもなく、他の儀礼に組み込まれているふうでもない。教義上の補助といった位置づけのように見える。
 カルケドン信条は歴史的には、原ニカイア信条、またこれを確認したニカイア・コンスタンティノポリス信条の次に位置し、この二つの信条の関係は、厳格化および事実上の改訂化である。このことからすると、これに後続するカルケドン信条はニカイア・コンスタンティノポリス信条をさらに厳密化し改訂化したものと想定してよさそうなものだが、原文を比較してもそう判断することは難しい。ニカイア・コンスタンティノポリス信条と比べてカルケドン信条が目立って異なるのは「われわれの救いのために、神の母、処女マリアから生まれた」として「神の母」を明記し追加している部分だが、これはキリスト教に必須の教義と言えるかは疑問だろう。重要点は三一信仰を両性説から詳細化している部分であり、正統を支える両性説の明確化にある。
 両性説は、ごく簡単に言えば「イエス・キリストは神性において父と同一本質であり、人間性において私たち人間と同一本質のものである」という主張である。二つの位格に二つの本性を持つ。これに対して排斥された単性説は、エウティケス(Eutyches)によって提唱された考え方では、「イエス・キリストの人間性は、父たる神の神聖によって吸収され、一つの本性になった」とする考え方だ。イエス・キリストの性質は神であって人間ではないとする考え方、つまり、イエス・キリストは人間に見えるけど人間の心や思いなど人間らしい特性をもっていない特殊な存在だと理解してよいだろう。
 奇妙なことに「非カルケドン派」はこうした単性説を採ってはいない。彼らは合性説(Miaphysitism)を採っている。これは「イエス・キリストは、三一の位格において、神性と人間性という二つの本性は、分割されず、混ぜ合わされることなく、変化することなく、結びあわされている」とする考え方である。このコプト教会の合成説と正統とされた両性説がどう違うのか、わかりづらい。同じかあるいは合性論のほうが三一において明確であるように思える。コプト教会の分裂はおそらく神学的な問題ではなく、政治的また歴史的な問題だろう。「非カルケドン派」は、カルケドン信条による、異端などを扱う神学上の問題ではなく、この会議の歴史的な制約によっているものだろう。
 次に疑問となるのは、アレキサンドリア総主教座と非カルケドン派の関係である。一見すると、ローマ総主教座が後に教義的に分裂していくように、アレキサンドリア総主教座も教義的に変化したようにも思える。しかし、合性説を見るのであれば教義的な問題とも思えない。
 歴史的に理解できることは、現在のコプト教会の主教が教皇(Pope)の称号、つまりアレクサンドリア総主教の称号を持っていることで、普通に考えれば古代アレクサンドリア総主教座を現代に維持しているのが、エジプトのコプト教会の教皇であると言えるだろう。ただし、正教側にも形の上ではアレクサンドリア総主教座が存在している。

 ローマ帝国というキリスト教帝国を神学面で実質的に作り上げたのは、三一教義をまとめ聖書正典を整備したアタナシウスであるが(参照)、彼はアレキサンドリアの主教から総主教になった人物でもある。すると、帝国キリスト教はアレキサンドリア、つまりエジプトから発生したとも言えるし、彼自身も迫害の過程にありながら、エジプトの砂漠の教父との親交を持ち、権力を掌握して以降は砂漠の教父たちの組織化を図った。しかし、完全に組織化されたわけでもなく、シンシア・ブジョーなどはむしろキリスト教の精神性は以降も砂漠の教父らに残ったと見ている。この指摘には、修道会史から頷ける面もある。
 カトリック最古の修道会と言われるベネディクト会を創設したのはヌルシアのベネディクトゥス(Benedictus de Nursia)(480年頃-547年)だが、この修道会の原形を作ったのが、彼に大きな影響を与えたヨハネス・カッシアヌス(Johannes Cassianus, John Cassian)(360-435)であった。黒海沿岸小スキュティアに生まれたカッシアヌスは青年期にキリスト教を学ぶために中東からエジプトの砂漠に向かい、砂漠の教父のもとで学び、彼自身も砂漠の教父となった。その意味で、ベネディクト会もまた、エジプトの砂漠の教父の教統に生まれたものであり、特に、その修道院的な組織や祈りのありかたは、砂漠の教父の信仰実践につながるものである。
 砂漠の教父の神学的な基礎は、アレクサンドリア学派と呼ばれる新プラトン主義のオリゲネス(Origenes Adamantius)(182頃-251)神学によるところが大きい。カッシアヌスも神学的にはその系統にあったのではないかと思われる。カッシアヌスは後年、この地の多数のオリゲネス神学者ともに迫害を受け、コンスタンチノープルから追放され、ローマに送られた。ここで砂漠の教父的修道院の原形がラテン語圏で作られることになった。
 と、まとめてみて、うかつにもはっと気がついたことがあった。新プラトン主義オリゲネスは、その著作「諸原理について(De Principiis)」で知られている神学者であることから、アレクサンドリアのフィロンのように著作の人であるという思い込みがあったが、そうではない。オリゲネスはまず教師であった。彼がまだキリスト教ゆえに迫害された時代、アレクサンドリアにキリスト教を教える学校としてディダスカレイオンを開いた。オリゲネスもまたアレクサンドリア学派の神学者アレクサンドリアのクレメンス(Titus Flavius Clemens)(150頃-215頃)によるディダスカレイオンで学んでいる。ディダスカレイオンはギリシア市民の知識教育の場でもあり、これを市民社会のなかに形成することは、まさにヘレニズムの知の活動そのものだった。アリストレスやプラトンが弟子を教育するのと同じ私塾の機能だったとも言える。
 修道院に残る黙想の起源がギリシア哲学のテオリア(観想)であったように、修道院に至る、古代エジプトの砂漠の教父たちの教えの組織は、古典ギリシア時代から続く私塾の伝統だった。しかもこれは、キリスト教が信条によって言明化されて教義化されキリスト教帝国が出現したときに、その影のように別の流れを作っていった。
 
 

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