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2012.06.09

人類祖先のアジア起源

 先日雑誌「サイエンス」のニュースに人類祖先のアジア起源の話があった(参照)。その手の話は以前にもあるし中国の学者とかが好みなので、またその類かなとも思っていたが、「サイエンス」誌でもあるしネタ元の論文を見たらPNASだったので、それほどネタ臭いというわけでもなさそうだった。記事は「サイエンス」から「ワイヤード」にも転載されていたので、日本でも翻訳も出るんじゃないかと思うが、今のところなんとなく見当たらない。ニュースとして取り上げているところもなさそうので、簡単にブログで拾っておきたい。
 あらためて言うまでもなく、人類の直接的な祖先はアフリカで発生したというのが定説である。だが今回のPNAS掲載の論文「ミャンマー発祥の始新世中後期霊長類と初期類人のアフリカ植民地化(Late Middle Eocene primate from Myanmar and the initial anthropoid colonization of Africa)」(参照)によると、約3700万年前にミャンマーの古代沼沢地に人類祖先の類人猿が生息し、ここから、この系統がアフリカ大陸へ旅をして、そこを「植民地化」したのではないかというのだ。
 信じたがたい印象はあるが、サルの発生がアジアというのは不自然でもないし、1990年代には中国を含め、アジアで類人猿の化石も発見されてきた。逆にこれに相当する類人猿の起源をアフリカに求めることは難しい状況のようでもある。すると人類が発生の元になる類人猿は、いったんアジアからアフリカへ向かったという道筋もありうるかもしれない。
 推測の元になっているのは、2005年にミャンマーで発見されたアフラシア・ジジディ(Afrasia djijidae)の臼歯である。ここから一気にアフリカ大旅行説というのも突飛な話に思えたが、リビアから発掘された、従来メガネザルの系統と見られていたアフロターシウス・リビカス(Afrotarsius libycus)と酷似しており、これがアフラシアと同系である可能性が高まっている。アジアとアフリカ間での、こうした類似性の発見も初めてらしい。


アフラシアとアフロターシウス(臼歯)

 アフラシアのほうが古いことから、むしろアフロターシウスはアジアからリビアにやってきた類人猿と推測されるが、単純にこのアフラシアが祖先とも言えなさそうだ。アフラシアに類似の類人猿がアジアからアフリカに到達し、ここで外敵がないことで多様な進化を遂げたようだし、その多様性の進化の爆発が人類への道だったようだ。今回発見されたミャンマーの系統はその後絶滅したのだろう。


系統図

 それにしても、どうやってミャンマーからリビアにやってきたのか不思議だ。当時は陸続きでもない。気の遠くなるような時間をかけたとしても、時間が経てば移動するというものでもないので、依然不思議である。ひょっこりひょうたん島みたいなもので流れ着いたという考えもありそうだが、それも空想が過ぎるようには思える。
 
 

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2012.06.06

砂漠の教父と黙想の祈り、改革者としてのアタナシウス

 1960年代以降に再評価される黙想の祈り(Contemplative prayer)は、英国中世の「不可知の雲」を直接的な源流としているが、それに終始することなく、黙想(Contemplation)を重視したキリスト教信仰の形態として古代の「砂漠の教父(Desert Fathers)」も再考されていた。この再考はキリスト教とは何だったのか、という問題を現代に投げかけている。
 「砂漠の教父」に厳格な定義があるのか私は知らない。またこの視点がどのように生まれたかについてもわからない。一般的には、現在のスーダンに面するエジプトで暮らしたアントニウス(Αντώνιος)(251~356)を代表とするように、3世紀を中心としたエジプトの地のキリスト教の教父(Father)を指している。"Father"の訳語には「教父」の他に「師父」もある。現在的な訳語「神父」はない。この時代には現代的なキリスト教の制度がなかったという含みだが、現代のカトリックでも正教でも「神父」は信徒からの慣例的な呼称だから「神父」を充てても間違いとも言えないだろう。「神父」の「神」は日本語の「神(God)」ではなく中国語の「神(sprit)」に由来する。制度的には「司祭」に相当する。カトリックの司祭は原則独身だが正教の司祭は婚姻者もいる。主教は修道僧からなるが慣例なので独身者が多い。"Father"のみならず、女性もいたことやフェミニズムへの配慮から"Desert Fathers and Mothers"と呼ばれることもある。
 現代のカトリックでは「司祭」を束ねるのが「司教(bishop)」である。カトリックでこの最上位に「教皇」を頂く。日本では「法王」の訳語が充てられることもある。正教には制度としての「教皇」は存在しないが、3世紀にはアレクサンドリア主教に「教皇(Papa)」の呼称があり、コプト教は現在もこの呼称を継いでいるため、2012年3月17日シェヌーダ3世の死去を「教皇」として報じるメディアもあった。正教では司教相当の"bishop"に「主教」の訳語を充てる。この上位に総主教を置きさらにコンスタンティノープル総主教に最上の名誉が置かれる。制度的な教皇には相当しない。正教からはカトリックはローマの主教管轄が歴史的に分化したものとし、教義が異なることからローマ教皇は主教とは見なされていない。
 「教皇(Papa)」の呼称が「父」に由来するように、正教の主教も「父」に関連している。「総主教」を意味する"Πατριάρχης(パトリアルヒス)"は"πατήρ" 「父」と"αρχων (archon)"「長」で「父長」である。70人訳聖書では12支族の「族長」の訳語である。
 五大総主教座は692年の通称トゥルーリ公会議で決められたがそれ以前から、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサリム、ローマの総主教座があった。ローマは後、抜ける。権威を争ってのシスマ(分裂)がその契機であり、1054年の大シスマが大きな目安になるが反目の萌芽は古い。ローマ帝国とキリスト教の関係をざっくりと見たい。
 ローマ帝国でキリスト教を認可したとされるコンスタンティヌス1世の治下、313年、現在のトルコのニコメディアで通称ミラノ勅令によってローマ帝国に信教の自由が保証された。自身もキリスト教徒でもあったコンスタンティヌス1世は自分の名を付けたコンスタンティノープルで330年に開都式を行い、ローマの首都と定めた。実際に都として定住したのはテオドシウス1世からで、その治下392年、キリスト教がローマの国教となった。テオドシウス1世は首都コンスタンティノープルを含むローマ帝国の東半分を長男アルカディウスに、西半分を次男ホノリウスに継がせたが、西側の統治は480年に終わった。これによってローマを含む西欧の地域がローマ帝国から分離された。481年には現在のフランスの地域にメロヴィング朝フランク王国の初代国王クロヴィスが即位し、西欧はローマ帝国からはいっそう独立していく。ローマ主教座もローマ帝国の版図からはずれ、その区域会議単独で495年、ゲラシウス1世を「キリストの代理者」とした。キリスト教帝国ローマを外れることで、西欧に実質的な教皇が生まれ、実質上のカトリック教会が誕生した。
 ローマ総主教座が独自性を強めていった背景には政治的な支配のほかに、正典とラテン語の関係がある。新約聖書はギリシア語で書かれていることからも明らかなように初期キリスト教の言語はギリシア語だった。だがカトリックではラテン語を使用し、言語文化的にも分化していった。カトリックの正典のラテン語翻訳であるウルガタ(Vulgata)の新約部分は382年にできた。それ以前からすでにラテン語聖書(Vetus Latina)は存在していたが、ナグ・ハマディ文書のような正典化以前の文書は含まれていない。その意味でも、カトリックは新しい時代、後に述べるアタナシウスによる創作といった側面が強い。


アタナシウスのイコン

 ローマ主教座が分離し単独の方向に進み出す以前、各地古代主教の活動で重要なのは公会議だった。公会議の起源は伝説としては使徒行伝が伝えるエルサレム会議とされている。実際に主教がローマ皇帝によって招集された第一回公会議は325年の第1ニカイア公会議(First Council of Nicaea)である。ここで三一教義が確認され、これを元にするニカイア信条が採択された。事実上、キリスト教が誕生したことになる。同時に三一に反するとしてアリウス派の教義が異端として排斥された。
 そもそも第1ニカイア公会議が開催された理由は、アリウス派の教義の扱いが最大の課題だった。3世紀にはアリウス派の教義が広まりつつあったが、これが正しい教義なのか議論が起きていた。キリスト教が政治の視点からも重視されつつあるローマ帝国にとっても重要な課題になっていた。アリウス派の教義の元になるのは、その名の元にもなる、アレクサンドリアの教父アリウス(Άρειος, Areios)(250~336) に代表される教義である。アリウスは、神とイエス・キリストの関係において、父たる神は唯一の創造主であり、子たるイエス・キリストは同質ではない異質存在(ヘテロウシオス)であるとし、しかしまったくの異質ではないので、類似存在(ホモイウシオス、ὁμοιούσιος)とした。これを問題視したアレクサンドリア主教アタナシウス(後、総主教)(Αθανάσιος)(298~373)は父と子は同質存在(ホモウシオス、 ὁμοούσιος)と主張してアリウス派と争った。
 類似存在(ホモイウシオス)と同質存在(ホモウシオス)は英語のiに相当するギリシア語のイオタ(ι)の有無の違いであるため、些細なことを大げさに大議論する神学論争の比喩として捉えられることもあるが、神学的には決定的な違いになる。アタナシウスの考えからは「御子は被造物でない」とも言えるし「イエスは神である」とも言える。これが三一でもありニカイア信条でも確認された。キリスト教は唯一神宗教と言われるが、その唯一神は父であり子・キリストでもある。これを奇妙な論理だと思う人がその後も絶えないことから、三一を取らずにキリスト教を称する派は絶えない。
 第1ニカイア公会議にはローマ帝国側の政治的な思惑もあった。キリスト教をローマ帝国統一の道具としたいコンスタンティヌス1世としては、暗黙に神に擬される皇帝の唯一性を強調したい。その意味で三一教義の正統性は好ましい。しかし、コンスタンティヌス1世は自身の信仰としては第1ニカイア公会議以後もアリウス派を擁護しており、結果アリウス派の問題は蒸し返された。政治的な謀略などもあるとされるが、335年、コンスタンティヌス1世が招集したティルス会議でアタナシウスは主教を解かれ追放された。この会議は現在のキリスト教主流派からは公会議とはされていない。またコンスタンティヌス1世は337年の死去前に、アリウス派の司教エウセビオス(Ευσέβιος)から洗礼を受けたため、聖人であるのか疑問も残すことになった。
 アタナシウスはコンスタンティヌス1世の死後コンスタンティヌス2世により一旦恩赦となったが、339年、アンティオキア会議でさらに追放となり、西側のローマ主教座の区域に逃げ込み、346年までの7年余をその地で過ごした。追放とはいえ、当地では歓待され、それがきっかけでアタナシウスの教義がむしろローマ主教座で広がるきっかけとなった。アタナシウスは、356年も、ローマ帝国のコンスタンティヌス2世からの迫害を受け、迫害はユリアヌス帝にも継がれ、363年までエジプトの「砂漠の教父」の元に逃げ込むことになった。365年にはアリウス派のウァレンス帝もアタナシウスを追放した。アタナシウスの長い迫害と追放が終わるのは366年だった。
 こうしてみるとアタナシウスの人生は苦難の連続であったかのようにも見えるが、ローマ主教座の区域では歓待され、また現在のエジプト区域の「砂漠の教父」を配下に納めていく過程でもあった。迫害の時代を終え、強大な力を持つようになったアタナシウスは、367年、聖書に含める事実上の「正典」のリストを含めた書簡を記し、また皇帝の命令の形で焚書にすべき書物を布告した。これで正典以外の当時のキリスト教文書は人類から抹消されたかに見えた。
 アタナシウスが主導したニカイア信条は正しいのだろうか? この問題は長く紛糾したため、信条の確認の意味からも、ローマ皇帝テオドシウス1世が381年、第1コンスタンティノポリス公会議を招集し、ニカイア信条の三一教義を維持しつつ拡張したニカイア・コンスタンティノポリス信条を採択した。以降、これが確立したキリスト教の信条となる。つまり、アタナシウスがキリスト教を作り上げたと言える。さらにアタナシウスは事実上、キリストについて証言する書物のどれが聖書なのかも定めた。彼は聖書も作り上げたと言ってよい。
 アタナシウスによる焚書は完全と見られていたが、1600年後に失敗した。ナグ・ハマディ文書として焚書が発見されたのである。これによってアタナシウスが排除しようとした古代キリスト教が逆に暴露されることになった。公会議の経緯からすると、焚書はニカイア信条や三一に反する、アリウス派の文書のようにも思えるかもしれないが、そればかりではなく、異端を排除しヨハネ福音書をあるべき聖書の中心に据えようとしたエイレナイオス(Ειρηναίος)(130~202)の意志を嗣いだ作業だった。
 迫害と追放の繰り返しに見えるアタナシウスの生涯は、彼を守った、まつろわぬ「砂漠の教父」たちを帝国的な仕組みの管理下に置くという後年の目標に利していた。彼はまず修道女から始め、修道士や教父をキリスト教の組織に組み込んでいった。「砂漠の教父」の代表とされるアントニウスも実際のところアタナシウスの著作が生み出した、彼自身に都合のよい新しいモデルでもあった。かくしてアタナシウスによって、信条、正典、管理の組織ができあがり、キリスト教信仰者が勝手な思いから異端に逸脱することを防ぐ強固な仕組みとして、今日のキリスト教の原形ができあがった。

 アタナシウスは、キリスト教信者が聖書を読む際に、ディアノイア(διάνοια)を強調した。ディアノイアは理性による処理とも言える。アタナシウスの定めた聖書はそのテキストに内在する意味と意図を見分ける能力を理性を通して読まなければならない。これは霊的な直観であるエピノイア(ἐπίνοια)を排除するものでもあった。そうでなければ危険なことになるという含みもあっただろう。
 アタナシウスの改革を「砂漠の教父」たちの「黙想の祈り」という点から見れば、黙想が導くエピノイアに対して、ディアノイアによる歯止めをかけるこということになる。黙想(Comtemplation)が、後、ベネディクト会が推進するレクチィオ・デヴィナ(Lectio Divina)の一過程に収まったことは、アタナシウスの意図を受けつつも、かろうじてエピノイアを残すための仕組みだったとも言えるだろう。
 
 

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2012.06.04

黙想の祈りとテオリア

 黙想の祈り(Contemplative prayer)に関連する本を読み考えながら、ぼんやりと見えてきたものがある。気にかかっているうちにブログにメモしておこうかと思う。思うままに書くのであまりまとまったものにはならないだろうが。
 黙想(Contemplation)とは何か? なぜそれがキリスト教において意味があるのか? 疑問の答えとは言えないまでも、いくつか書籍を読みながらぼんやりとした形が見えてきた。逆に言うと、なぜこの疑問がこれまで自分にとって、うまく浮かび上がってこなかったか?としてもよい。それは自分が接したキリスト教からは、そもそも見えづらいものだった。私と限らず近代が結果的に覆い隠してしまった面もある。
 私自身を例にすると、接触したキリスト教には三つの面があった。一つは日本の近代化や敗戦に伴うプロテスタンティズムである。この伝統こそ黙想の祈りを覆い隠してしまうことが多い。クエーカー教徒のような例外はあるが、その集会・教会に黙想は組み込まれていないし奨励もされていない。そこでは祈りとは、なにか願いを唱えたり、唱和することと理解されている。この伝統ではラテン語・ギリシア語を基本とした聖句の祈りも薄れ、チャント(朗詠)も近代的な讃美歌に変化している。私はプロテスタンティズム的な側面から森有正や山本七平などによる著作にも関心を持ち、さらにそこから聖書学や新約学や神学にも関心を移したが、これらはまさに近代の装置として黙想や典礼を覆ってしまっていた。二つめは、ドストエフスキーから垣間見た正教がある。自分がキリスト教と関わりを持つきっかけはその文学でもあり、この面は大きな影響をもった。だがその割に具体的にその実践に触れることはなく(魚を好んで食うことはあるが)、文学から見る正教の知識も断片的にならざるをえない。三つめは一時期深く傾倒した文学者・遠藤周作と神父・井上洋治から見るカトリシズムがある。これらは日本とキリスト教の土着性や歴史の問題、また青春期の恋愛や性の問題の倫理に噛み合っていた。カトリシズムとしての本流やその信仰の生活性には触れることはなかった。
 これらの三つの面は分裂しうあう部分を持ち、特にもっとも傾倒したプロテスタンティズムとその脱神話化的な部分へは他二面を排除しつつ強く愛憎を持つことになってしまった。結局のところ、キリスト教と言っても信仰を持ち得そうにない私は、文献学的・科学的なアプローチに収まった。こうした傾向はシンシア・ブジョー(Cynthia Bourgeault)などの本を読むと、しかし私だけに特有ということでもなく、広義に20世紀のキリスト教全般に問われる傾向でもあり、また東洋の精神性に接した現代キリスト教の反作用地点でもあった。
 基本的にキリスト教というとき、近代では聖書が万人に読まれるというメディア革命を経て結果的にプロテスタンティズムを生み出すが、これは同時に聖書イコール始原という幻想でもあり、そこからは主観解釈による雑多な信仰形態を排出せざるをえない。ところが聖書自体は史的には信条からの逆の構成とも言えるものであり、三一信仰が典型的だが信条の側にむしろ宗教としてのキリスト教が存在する。これはどういうことかといえば、ごく単純には七十人訳聖書からフィロンの哲学を経て生まれてきたものであり、信条が逆に諸聖書を排して正典を作り出した。ナグ・ハマディ文書などが排除されて正典の聖書となったわけである。その意味で聖典化や信条成立以前のフィロン哲学から初期教父への変遷の部分に宗教としてのキリスト教の原初の核があるのだが、そこは同時に祈りなどもその時代の儀礼として含まれていた。そこにキリスト教の黙想の祈りの根がある。
 とはいえ黙想の祈りは正典・共観福音書にも十分見られる。なにより黙想の祈りは「主の祈り」そのものであると言ってもよいからだ。福音書の引用は省略するが、「主の祈り」は、異教徒のようにくだくだ祈るなという、「祈るな」という逆説として示されたものであり、またその祈りの志向は隠れて祈ることが基本であった。誰も知られずに祈るということは、典礼が否定されているという逆説をも孕む。その意味では、キリスト教の祈りは、個人の密かなる黙想の祈りが原形であり、それが「主の祈り」からまたイエス自身も暗唱されたようにユダヤ教において典礼化していた詩編の祈りが補う形になっていた。当然、黙想の祈りが初期教父たちの信仰生活の核をなしていた。個人としては黙想の祈り、また集団としては詩編のような祈りである。信仰の実践は方法論としてレクチオ・デヴィナ(Lectio Divina)として定着し、聖句を経て個人の祈りに接合する典礼的な祈りして定着した。この伝統が積み重なり正教に残るフィロカリア(Philokalia)ができた。

 1960年以降にジョン・メイン(John Main)やトーマス・キーティング(Thomas Keating)が再発見する黙想の祈りは、中世の「不可知の雲」(参照)に直接的な源泉を求めるものだが、「不可知の雲」における黙想は、すでに初期教父たちの黙想の祈りよりも、その簡素な形態からして、現在のカトリックに残る射祷(短い祈り句)からの変形に見える。むしろ射祷はフィロカリアとの接点を残すものだろう。
 ここで初期教父たちにとっての黙想の祈りを考えたいのだが、教父たちがレクチオ・デヴィナに適合する射祷的な黙想の祈りの聖句にまとめる以前、キリスト教とは別にヘレニズム世界に黙想の伝統があったのではないか? これは異教の存在を暗示するというのではなく、ヘレニズムの精神性そのもの原形ではなかったか。そのように考えるのは、黙想をレクチオ・デヴィナの四過程、Lectio(read、読む)、Meditatio(meditate、思う)、Oratio(pray、祈る)、Contemplatio(contemplate、黙想する)で見るとき、二過程目のMeditatioはいわゆるメディテーションではなく「熟考し理解する」と理解してよく、黙想であるContemplatio(contemplate)が祈りのOratio(pray)の後に来る理由はわかりづらいからだ。この修行の過程は、聖句を読み、理解を深め、聖霊に祈り、黙想するということだが、黙想が祈りに次ぐのは、祈りの対象となる聖霊の働きを前提とするからだ。これはいったいどういうことなのか?
 まさにこの問題を黙想していたら、当たり前のことに気がついた。Contemplatio(contemplate)というのは、テオリア(θεωρία, Theoria)なのである。つまり、実在(reality)を観照することであり、実在(真理)を認識するという意味でギリシア哲学の根幹をなすものだ。そして実在とは「原初」としてのアルケー(αρχη)であり、フィロン哲学の時代にはプラトンを経て「イデア」(ιδέα, idea)ともなるものであり、アルケーはまたロゴス(λόγος)である。よって、ロゴスゆえにイエス・キリストそのものであると言える。黙想(Contemplatio)とは、ギリシア・ヘレニズム哲学の根幹のテオリアであり、初期教父にとってはテオリアによって観照することで、ロゴスとしてのイエス・キリストという神の実在(真理)を知る道でもあった。余談だが、テオリアは英語のTheory(理論)やTheater(劇場)の語源でもある。
 このテオリアの「観想的生活」"contemplative life"に対して、英語で"active life"とされることがある「実生活」は、ギリシア哲学ではアリストレスがまとめたように、「実践」のプラクシス(πραξις, practice)によるものだ。対比していうなら、プラクシスが感覚的世界の活動であり、テオリアが超感覚的・形而上的な世界の活動である。実在・真理・神はテオリアを通して知られる。このテオリアのために必要なのが、日常生活から離れたスコレー(σχολή)つまり「余暇」であり、このスコレーが技法としてのスコラ学(Scolaticus)になっていく。なお、アリストレスは、プラクシスを人間の生活様式に関わる倫理・政治の領域として、これに対して存在を生み出す生産の領域をポイエーシス(ποιησιs)としての「制作」とする。芸術もポイエーシスである。
 テオリアに戻ると、テオリアの能力がヌース(νους)「理性」である。アナクサゴラスはヌースを「世界の心性」とし、また新プラトン主義のプロティノスはこれをテオリアの中心に置き、認識のありかたは唯一者(神)の流出(Emanation)として捉えた。その意味では、黙想の祈りは、神の流出・延長としての存在の直覚ということにもなる。
 中世の「不可知の雲」では黙想において、知られざる神の雲のなかに祈祷者が取り込まれるとした。レクチオ・デヴィナのような聖句から祈りを経る階梯は軽視されているようにも見えるが、むしろ聖句を理解し祈る過程において、言葉を離れ神の導きで不可知の雲に取り込まれるという点では、あえて黙想に焦点を置いたと理解できる。
 黙想をレクチオ・デヴィナの伝統に納めるのであれ、不可知の雲のように言葉を排していく黙想とするのであれ、祈りの「心」を経て人の言葉を離れていくことが重要とされる。それをより現代的な意味でいうなら、黙想やテオリアによる真実在の直覚というよりも、沈黙に向き合うということになるだろう。
 
 

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2012.06.03

[書評]トーマス・マートンの黙想の祈り(トーマス・マートン)

 現代的なキリスト教瞑想・黙想の基点の一つとしてシンシア・ブジョー(Cynthia Bourgeault)がトーマス・マートン(Thomas Merton)について言及していたので(参照)、彼の数多い作品から関連するものとして「トーマス・マートンの黙想の祈り(Contemplative Prayer)」(参照)を読んでみた。マートンはベトナム戦争時代の平和論者として日本でも注目され、また米国でも過去半世紀においてはもっとも有名な宗教的著述家としても知られていたこともあり、宗教的な著作でも比較的翻訳書はある。同書も既に翻訳されているかもしれないが見当たらなかった。

cover
Contemplative Prayer
Thomas Merton
 ブジョーの語るトーマス・キーティング(Thomas Keating)やジョン・メイン(John Main)(参照)と比べ、マートンの瞑想観は、その精神性や神学観では類似ているし、その面においてキーティングやメインの展開に影響を与えているように思えた。だが、マートンの視点には、例えば、「20分間、瞑想・黙想する」といった具体性はなく、十字架のヨハネ(Juan de la Cruz)の現代的な考察が中心に置かれている。本書を読むこと自体が一つの黙想的な祈りとなる、深みのある書籍でもあった。
 瞑想・黙想の技法についえば、聖なるイメージは排され、むしろ積極的に否定している。アトス山やシナイ修道院に残る、ヨガにも似た正教の瞑想・黙想の技法に言及している部分もあり、マートン自身それらについて一通りの知見を持っているが、正教の技法より、その「心の祈り」という本質に焦点を置いている。

 ジョン・メインは、そのマントラ的なキリスト教瞑想の基点にヨハネス・カッシアヌス(Johannes Cassianus, John Cassian)を取り上げていたが、本書のマートンもカッシアヌスを重視している。しかし、メインのように焦点的あるいは例証的にカッシアヌスに注目するというより、その師にあたるエヴァグリオス・ポンティコス(Evagrius Ponticus)を含め、いわばキリスト教の黙想的な潮流のなかで取り上げている。これにヌルシアのベネディクトゥス(Benedictus de Nursia)が続く。
 こうした歴史的な考察のなかで、砂漠の教父たちの時代から修道会が形成される時代において、黙想の祈りと典礼の祈りの変遷とその変わらぬ本質が議論されていく。
 マートンとしては、典礼の祈りを儀礼として退けるのではなく、黙想の祈りに共有する心の祈りの本質から現代的な、結果的にカトリシズムではあろうが、より現代的な宗教的な精神性に導きたいとしたのだろう。このことは彼が、仏教やイスラム教と実質的にまた深い精神的に交流をもったこととも関係しているが、本書は再びマートン自身の原点に戻ろうとする、ある情熱が感じられる。そこは、十字架のヨハネの「暗夜」の考察とあいまって、マートン自身の深い苦悩も垣間見られ、また深い考察でありながら、ある種の途上感として残されている。

 これはどういうことなのだろうか? これというのは、このキリスト教原点への回帰と著作に暗示される彼の懊悩の二面であり、後者がむしろ前者のスタンスを取らせたものだろうと思える。
 読後、この問題に黙想し、それがある明瞭な形が私自身の心に形作るに至り、ぱらぱらと棒線部を読み返しているうちに、明白な見落としに気がついた。本書の出版時のタイトルは「修道会祈祷の風土(Climate of Monastic Prayer)」であった。本書冒頭、「修道会の祈りが興隆した風土は砂漠であった。そこには人の慰めもなければ、市街で守られる安全な生活もなく、神への純真な信仰で支えられた祈りを必要としていた」とあり、そこから付けられたものだろうが、そのタイトルはマートン自身の意図であっただろうか。また、してみると「黙想の祈り」も適切なタイトルであろうか。
 見落としがもう一つあった。本書が出版されたのは1969年であり、マートンの死の翌年であった。本書こそがマートンの遺作であったのかもしれない。もちろん、本書がマートンの死後に出版されたことは、マートンと親交の深かったティク・ナット・ハン(釈一行、Thich Nhat Hanh)が巻頭に寄せた長文の紹介文や、神学者・哲学者でもありクエーカーでエキュメニストのダグラス・ステア(Douglas V. Steere)の序文からわかる。だがマートンには著作が多いこともあり、まさか本書がマートンの最後の思想点であったとは思ってもいなかった。
 マートンの年譜を見直し、私はさらにうかつにも、彼の享年を失念していたことに気がついた。60歳は越えていただろうと思っていたのだが、彼が死んだのは53歳だった。現在の私より若いのである。呆然とした。
 ダグラスの序文にも事故死であることは書かれていたが、どういう事故だったと見ると、バンコクでの宗教会合に出席の旅先、ホテルの浴室で感電死したらしい。ああ、神様! 神に仕えた人生の余りに早く、そしてこの無念な断絶はなんなのだろうか。それが人生の実相というものさ、ということはあるのだが。
 つられてマートンのエピソードを調べていくと、彼の、結果的に晩年の恋のことも知った。1966年というから、51歳のときであろうか、腰痛で手術し入院しているとき、看護婦学生の少女と恋に落ちた。僧籍を捨てることも考えていたようだ。
 呆れたと言っていいのかよくわからない。お相手の看護婦学生さんは、へたすると10代ということはないんだろうか。51歳の男が10代の女性と恋に落ちるか? しかも、マートンはすでに確固たる名声を極めていたというのに、それをすべて、かなぐり捨ててしまうものなのか。いや、捨てるだろう。
 その恋は彼にとって、僧としての純潔の問題よりも信仰上の苦悩であったようだ(参照)。と同時に、それは誘惑というより、むしろ神の招命の一環をなしていたと見るべきだろう。本書の十字架のヨハネの暗夜に比されているものは、修道会への再回帰的な考察さえも、そうした恋と懊悩が背景にあったと見てよいのではないか。
 本書を越えたところから、本書を解するのは間違いでもあるが、本書のもつ静謐な叙述には、ある種奇妙な情熱と未達成感が裏打ちされているように思えた。

  Accende lumen sensibus,
  Infunde amorem cordibus.
 
 

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