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2012.05.26

河本準一さんをめぐる生活保護費の不正受給疑惑について

 お笑いコンビ「次長課長」の河本準一さん(私はこの人全然知らないのだけど)の母親に生活保護費が不正受給されていたのではないか、とする疑惑問題がツイッターで沸騰していた。何かが発動しているんだな、なんなんだろうかと、蟻の生活を観察するように(参照)眺めてみた。よくわからないせいか、自分の印象は浮きまくった。うむ。だったら異論の一つとしてブログに書いてみてもいいんじゃないか。ごく簡単に書いてみたい。
 当の疑惑問題だが、NHK的にはこうまとめていた。「河本準一さん 生活保護費返還へ」(参照)より。読むとわかりやすい口調でありながら、「それって不正なの?」という構図は、いい案配にボカされている。


 この問題は、テレビや舞台などで活躍する河本準一さんが一定の収入があるにもかかわらず、母親が生活保護を受けていると、先月、週刊誌で報じられ、批判されていたものです。
 河本さんは25日、東京都内で記者会見を開き、母親が生活保護を受けていた状況について説明しました。
 それによりますと、河本さんの母親は15年ほど前に病気で働けなくなりましたが、河本さんは当時、年収が少なく、養うことができなかったため、母親が生活保護を受けるようになったということです。
 その後、河本さんがテレビなどで活躍するようになると、福祉事務所から母親に援助できないか相談を持ちかけられるようになり、5年ほど前からは河本さんが生活費の一部を援助し、その分、生活保護費が減額されていたということです。

 今回の話の発端は、サイゾーというネット媒体と女性セブンという週刊誌で今月上旬あたりで話題となり、その後、片山さつき議員と世耕弘成議員が関心を持って話を膨らまし、週刊新潮でも小ネタで扱われたという経緯のようだ。5月11日の時点の電凸話がユーチューブにあり(参照)、その時点の空気を残している。

不正受給なのか?
 現状の報道からは、不正受給とは言えそうにない。つまり、違法性は確認されない。NHK報道ではこう言及されている。


河本さんは「福祉事務所と話し合って決めていたので、母親が生活保護を受けていることは法的には問題ない」という考えを示したうえで、「芸人は収入が不安定なため、今は高い収入があっても母親の生活保護を打ち切ることはできなかった。甘い考えだったと深く反省している」と謝罪しました。

 河本さん側としては、違法性はないとして、しかし、「甘い考えだったと深く反省」したというのである。
 ツイッターなどでは、「違法性がないなら謝罪する必要はないではない」「生活保護は堂々と受ければよいではないのか」という意見が沸騰していた。さらに、「こうしてメディアで河本さんを吊し上げるのは、魔女裁判であり、メディアによるリンチだ」という意見も流れていた。
 違法性はないのだから、それはそうなんだろう。
 では、河本さんの意識としては何を謝罪したのか?
 実はそこが、よくわからない。現実が認識されず沸騰するのが昨今のネットだからというのもあるのだろうが。
 「法的な責任はないが、有名人として道義的な責任はある」みたいな理解がなんとなくされているが、そう理解する根拠もない。これが今回の問題と騒ぎの一つの軸になっている。
 謎の謝罪に関連して、返金の示唆がまた謎である。

また、母親は先月から生活保護の受給をやめたということで、河本さんは今後、福祉事務所と話し合って、母親が受け取っていた生活保護費の一部を返金す るということです。

 ここも疑問点である。不正でないのに、生活保護費の一部を返金するということがどういうことなのか。別の言い方をすると、返金はどういう名目になるのか。
 ツイッターで疑問を出したら「寄付」という答えを得た。福祉事務所に寄付ですかというと、「総務省」とのことだった。民主党政権下で思わぬ行政改革が進んでいるのかもしれない。それはさておき。
 いずれにせよ、返金がどのような名目となるのかはわからない。「貰いすぎたのだから、返せばいい」というふうに一見すると理解できそうに思うのだが、だとすると、「貰いすぎた」という判断が前提となる。
 すると、不正ではないけど、貰いすぎたということになる。よくわからない。しいて考えれば、福祉事務所のミス・落ち度ということになるだろう。
 だとすると、謝罪すべきは、福祉事務所、ということではないのか。ますますわからない。

不正受給の疑いはないのか?
 福祉事務所が了解していた以上、現状、「不正受給ではない」としか言えないようだが、それをもって疑念はすべてぬぐい去れたかというと、ここに奇妙な問題がある。結論からいうと、どんなに疑念があっても、解消できない仕組みになっている。
 まず疑念だが、この事態で「不正」はどこで判定されるのかというと、河本準一さんの所得である。そして、福祉事務所に開示されている河本準一さんの所得からは、不正はないと判断されてきたということである。
 疑念は実は、不正受給ではなく、福祉事務所に開示されている河本準一さんの所得は正確なのか?という点にある。
 豪奢な生活ぶりではないか、福祉事務所に開示されている以上の収入があるのではないか、という疑念から発したものだ。売れない芸人のままなら、疑念もないし、所得が正確に公開されていても疑念はない。
 繰り返すと、不正受給は波及であって、論点は、福祉事務所に開示されている河本準一さんの所得は正確なのか?という点にある。
 この問題についてだが、河本準一さんには福祉事務所以外に開示する義務はない。プライバシーの問題である。よって、この問題はここで簡単にデッド・ポイントに達する。
 ところが今回問題になったのは、国政調査権を持つ国会議員二名がこの疑念に首を突っ込んだからだ。つまり、国政上の調査対象であることが暗黙にちらつかされたことがある。市民的に考えれば、一時期豪奢な生活をしてようが芸能人の所得が国政上の問題になりうるわけもなく、権力の不当行使にしかならない。そのあたりは二議員も心得ているために、曖昧に影響力を行使していた。
 同時にこの問題は、実は機構上は河本準一さんの意志のように見えるが、河本準一さん自身はこうした経理方針を熟知しているわけもなく、現実の収入の開示については、ようするにその部分を担っていた吉本興業の子会社クリエイティブ・エージェンシーの問題だった。端的にいえば、吉本が問題だった。
 以上の背景から、二議員に吉本興業の代理人弁護士が訪問していた(参照)。片山さつき氏はこう語っている。事実関係についての疑念はないとしてもよいだろう。


片山さつき氏(以下、片山) まず、最初に先方に確認したんです。「今回、私のほうから、(吉本さんを)呼んだわけではないですよね」と。5月2日(※片山議員が、自身のブログで、今回の問題を追及する旨を報告した日)の夜遅い時間に、吉本の代理人弁護士から私の携帯電話に直接「河本さんの一件で説明したい」という連絡をいただき、受給を認めた上でいくつか理由のようなことをおっしゃるので、「その説明ではとても納得はできない」と伝えたら、日を改めて議員会館に伺いたいと先方がおっしゃった。翌日から私は米国出張だったんですが、「では、6日に帰国してから時間設けますから、できるだけ早くご連絡いただければ、こちらも対応します」と答えたところ、帰国後もなかなか連絡が来ない。で、やっと返事が来て、いくつか希望日を出されてましたが、いちばん早い18日に私と世耕さんが万障繰り合わせて対応しました。つまり、こちらとしては事情説明があるなら、一刻も早く聞こうという姿勢で対応したんです。18日にお会いした時、「なんでこんなに遅れたのですか?」と聞くと、「誰が行くかなどを調整していました」と言っていましたね。

 吉本の弁護士側はどう対応したか。議員を信頼して内密に河本準一さんの収入の開示があっただろうか。

――収入については所得証明や納税証明などの証拠書類は提示してきたのですか?
片山 そういうものは一切持ってこなかったですし、口頭でも「年収はいくら」という具体的な開示はなかったですね。あと、福祉事務所から毎年一回、河本さんに電話で「仕送りをもう少し増やすなりできないか」などの照会があったそうで、そのたびに「今はまだ無理」と対応していたそうです。福祉事務所からは電話だけだったのかと聞いたら「そう聞いています」と。一回だけ仕送りを増額したと言っていましたが、その額も具体的には言いませんでした。
――せっかくの説明の機会だったのに、証拠書類も出さずに、正確な数字も把握していなかったと。
片山 とにかく具体的な提示はなかったし、我々を納得させる新しい材料もなかったですね。所得証明はないのかと聞くと黙ってしまうし。あと、母親以外に他の親族の面倒も見ていて、その親族が海外で治療を受けなければならなくて、それに多額の費用がかかるんだという話を、最初に電話がかかってきた時に弁護士から説明を受けたわけなのですが、「その方は河本さんにとってどういう立場の方ですか?」と聞いたら、「私はそんなことは言ってない」と言う。「いや、聞きましたよ」と言ったけど、「言ってない」と言う。「でも録音記録に残っていますよ」と言うと、また黙ってしまう。もしかしたら、吉本や弁護士側も情報が取れていないのかもしれませんが、都合が悪いことは黙るという繰り返しでしたね。結局、今回の説明でも「不正受給ではなかった」と我々が納得できる材料はなかったので、「本件は黒ではなくグレーということはあっても、『白』ということはできません」と申し上げました。引き続き、この問題は追及していくことになります。ただし、報道されているように、世耕さんが「道義的責任をとって、全額返済すること」を提案し、それを持ち帰ったので、その返答にもよりますが。

 かくして国会議員への、河本準一さんの所得の開示はなく、二議員は「不正受給」の疑惑を残した形になった。
 まとめると、所得が開示されず「不正受給」の疑惑は残る、としたのが国民の代議士である以上、国民にも疑問は残る。
 もう一点、片山氏の証言で興味深いのは、福祉事務所の対応の不備の疑惑である。

謝罪会見は何を意味していのか?
 謝罪会見前の状況としては、国会議員が権力をちらつかせて所得開示を迫るが、吉本側はそれを拒むという緊張した状態にあった。
 この緊張は継続することで両者にダメージも与えることになる。国会議員側としては不当な権力行使に見えるし、吉本側では経理上の不正の疑念が増していく。どこかで手打ちをする状況的な圧力が増しており、それが、結果として今回の謝罪会見となった。
 手打ちの様式は片山氏の証言のなかで指示されていた。


引き続き、この問題は追及していくことになります。ただし、報道されているように、世耕さんが「道義的責任をとって、全額返済すること」を提案し、それを持ち帰ったので、その返答にもよりますが。

 二議員側としては、「道義的責任をとって、全額返済すること」を吉本側が飲めば、事態は納めるということである。露骨にいうと、これ以上、吉本への追究はしないという約束だったと言ってもいい。
 かくして、お笑い芸人に吉本側から泣きの演出の依頼が出て、この謝罪会見となった。吉本の所業を一身に背負って磔刑ともなれば、相応のご利益も期待できそうに見える。

問題の意味はなにか?
 今回の問題の経緯はそれだけのことで、緊張する両者は手打ちとなって終わった。
 生活保護費の不正受給という問題でいうなら、今回の事例は、そもそも問題ですらない。
 生活保護費の制度には不正受給が付きものなので、制度設計の当初から組み込まれている。実際、この制度の不正の率は異様なほど低い。
 なにより最大の不正抑止として、そもそも受給が少ないということがある。こんな少ない額で生活保護になるのかと平成生まれの人が疑問に思うだろうが、戦後日本人の歴史体験として、死活問題は貨幣経済じゃなかったというのがあった。現在でも農業が維持されている地方で暮らしてみるとわかるが、貨幣がそれほどなくても生きていける。別の言い方をすれば、高度成長期に農村から都市に出た人間は失敗したら農村に帰れ、という指示でもあった。
 その制度が特定の技能集団でしか利用できなくなるまでに進化し、現実に困窮している人にも対応しなくなっている。
 今回の事例でいうなら、吉本側としては従来どおりのお約束で進行しているのに、「なにこの議員、わかってねーの?」ということだ。自民党が政権与党なら、それなりに「ここは、まあ、わかれよ。吉本っていうのはそもそもなぁ……」の仲裁が入ったものだが、没落した現状の自民党では無理。
 同時に没落した自民党としても、このまま昭和な世界に浸かって復活する見込みもないのだから、制度の改善は提案したいし、財務省側はかねてより、国民の所得を捕捉する制度を欲している。これ、いいじゃないか、と食ってみたという話。
 では、制度をなんとかしたらということもある。それだけいうと正義のようだが、今回の事態の核心のように、そもそも現行の制度では所得の捕捉ができないし、その制度の見込みもない。それがどのくらい絶望的なのかは、消費税増税に伴う所得ベースの補償もできないことからわかる。
 もっとも、片山・世耕議員に対して、困窮者を虐めるなとここぞとばかりに批判する側も、国民の所得捕捉の制度が必要だとは言えない弱みでもあるような振る舞いしかしていない。
 
 

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2012.05.25

[書評]英知のイエス 心の変容、キリストとそのメッセージについての新しい見方(シンシア・ブジョー)

 センタリングの祈りについて書かれたシンシア・ブジョーの本を読んだあと、彼女自身の思想を追ってみたい思いがして、もう一冊何か読んでみた。「英知のイエス 心の変容、キリストとそのメッセージについての新しい見方(The Wisdom Jesus: Transforming Heart and Mind--A New Perspective on Christ and His Message)」(参照)である。

cover
The Wisdom Jesus
Transforming Heart and Mind
-A New Perspective
on Christ and His Message
 私自身、似たテーマを考えてきたこともあり、内容の少なからぬ部分については既知ではあったが、著者ブジョーが整理した視点(パースペクティブ)は類書では得がたいものだった。
 タイトルになっている「英知のイエス(The Wisdom Jesus)」は、ともすれば、「イエスの英知(The Wisdom of Jesus)」として理解されやすい。ジェファーソン聖書のように、理性的に受け止めやすく、正しい倫理の道を説いたイエスの言行録といった理解である。
 マックス・ヴェーバーも指摘しているが、聖人の言行録を好む中華圏の影響を受けた日本では、イエスもその正しい言行を学ぶ手本として理解されやすい。もちろん、カトリックの伝統でも、トマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて(De imitatione Christ)」(参照)はそれに近いし、アッシジのフランチェスコの聖痕もそれに近い。
 規範的な言行録的な意味合いがまったくないわけではないが、ブジョーの言う「英知(Wisdom)」は、言明される命題でも量化しうる知識でもない。古武道的な体得や禅の悟りにも近く、実際ブジョー自身も本書でなんども禅の「公案」との比喩を示している。
 端的にいうなら、この英知はグノーシス(Γνῶσις)であり、ブジョーは「グノーシスのイエス」の現代的な意味を、本書で平易に説き明かそうとしている。この作業が難しいのは、グノーシスには異端というレッテルが付きまとう点である。
 ブジョーは触れていないが、グノーシスに対応するのは、ケリュグマ(κήρυγμα)であり、従来のキリスト教は「ケリュグマのイエス」を宣教してきた。ケリュグマは、語義的には「伝令が告げる布告」の意味だが、新約聖書学では、原始キリスト教会によるキリスト証言、つまり、福音であるイエスを意味している。単純にいえば、イエスの復活という福音によって描かれるイエスである。キリスト教信仰の核となるものであり、信条の核と言ってもいいだろう。
 しかしそれだけであれば、表層的なケリュグマの意味は単にドグマでしかない。新約聖書学において重要な、ほぼ公理とも言えるのは、ケリュグマが宣教であるという点である。それでもわかりづらいかと思うので、別の側面でいうなら、「ケリュグマのイエス」というのは、「歴史・実在的なイエス」とは異なるものであるということだ。
 聖書を大衆が読むことによって、文字・知識を通してイエスを知りうる可能性が開けたとき、これが「真理としての擬古」を招き、「本当のイエス」が問われるようになり、さらにはプロテスタントというありかたが生まれた。しかし聖書は、正典化されたとき、それ自体がケリュグマの枠組みにあって、そこから歴史的な意味でのイエスというのは見出しえないように構成されている。
 そのチェックメイトともいえる作業がルドルフ・ブルトマンの非神話化であり、カール・バルトの弁証法神学でもあった。が、逆にこのことは、実際には、聖書をキリスト教に再び収納することになり、キリスト教の躍動をいびつな形で封じ込めることになったと私は見ている。
 というのも、聖書はケリュグマでもありながら、微妙な形で、歴史文書でもあり続ける。その最たる矛盾点は、福音書特に共観福音書に示されるケリュグマとパウロに伝えられたケリュグマに、正典化されてなお、相違があることだ。
 特にこの点については、Qや原マルコにケリュグマの根幹である復活の言及が明示的に見当たらないことでも明らかであり、信条によって定式化される三一より大きな問題をもっている。神学者八木誠一などはこの難問をケリュグマのタイポロジーとして3種に分け、その根底における全一のリアリティなるものを想定したが、神学的な失敗と見てよいだろうと私は考えている。
 ケリュグマと聖書の矛盾は本質的に解消しえないと割り切り、ブルトマンやバルトのようにケリュグマのみをキリスト教に帰していくのがよいのだろうし、世俗的にはそこから導出されるリベラルな立場が妥当のようにも思われる。むしろ、リベラルというなら、ケリュグマを薄めて、聖書という古代文書を他の古代文書と並べ、ジェファーソン聖書よろしく倫理教説を読むということもあるだろう。先日のNewsweekにもこうした「理性的な」立場が再録されていたし、私も、その方向のなかで生きて来た。だが、それは違うのだろう。
 ケリュグマと聖書の矛盾は「トマス福音書」によって決定的なものになったと言っていい。ようやくそのことに納得した。私としては、それでもブルトマンやバルト的な側にいるのだが、ブジョーは、やすやすということでもないが、「トマス福音書」を自然に正しい位置に置き直している。
 「トマス福音書」を巡る、そのブジョーの手つき、信仰のありかたに、率直なところ、私は衝撃を受けた。「ああ、それでいいのか」という落胆にも似たものである。「トマス福音書」のグノーシスの視点は、むしろ、Qへの親和性をもっているし、ブジョーが本書で説明しているように、そもそもナグ・ハマディ文書時代、あるいはその後のシリア教会の教父などでも、グノーシスとしてのイエスはきちんと生き続けていた。バルトがイエスの復活をとりあえず史的な一回性の啓示として見るなら、ナグ・ハマディ文書の登場も、グノーシスとしてイエスの啓示であろうかという冗談も脳裏にも浮かんだ。

 本書に戻る。ブジョーは、「英知のイエス」のありかたを、聖公会の女司祭らしくていねいにとりあげ、第一部「イエスの教え」では、従来解釈として語られてきたイエスの言行、ブルトマンのいうアポフテグマをグノーシスの文脈に置き直そうとする。大衆向け書籍らしくさらりと描かれているが、グノーシスの本質をケノーシス(κένωσις)に収斂される部分は、魂の美そのものを表現している。ここは凡百のスピリチュアル志向が踏み間違うところでもある。
 第一部の最後では、ケノーシスを「タントラ師としてのイエス(Jesus as Tantric Master)」とする。仏教的な比喩が返って誤解を招きやすい面はあるが、まさにグノーシスの真骨頂でもあるだろう。当然だが、仏教の空(śūnya)への言及もある。
 第二部「イエスの神秘(The Mystery of Jesus)」では、ケリュグマとして構成されるアポフテグマへのグノーシス的な逆転が語られる。いわゆるキリスト教の教義というものの、グノーシス的な側面が語られる。とはいえ実際のこの部分は、頭でこじつけた感じもあり、それほど面白いものではない。それでも、神秘に秘蹟(sacrament)の意味があることは見逃せない。結論からいえば、秘蹟はタントラであるというのだ。当たり前といえば当たり前だが、それはケリュグマではなくグノーシスとして前提とされるものである。ブジョーはこららの秘蹟的な問題について、特に復活の身体を実在的な意味合いで説く。率直に言えば、オカルトの領域にも足を踏み込んでいると私は見えるので、そこまで踏み込む勇気はない。私はどちらかというと、「奇跡講座」におけるケネス・ワプニクの「修正」に近い立場にある。
 第三部「キリスト教徒の英知の実践(Christian Wisdom Practices)」は、グノーシスのタントラ的な修法的な側面として、センタリングの祈り、レクチオ・ディヴィナ、チャンティング、歓待の祈り、そして秘蹟、が語られる。
 秘蹟とチャンティングを除けば、前回読んだ書籍(参照)と同じとも言えるのだが、むしろ本書の説明のほうが簡素ですっきりと理解できた。また、秘蹟については先に触れたように、ブジョーの思索から当然の帰結であるだろうし、意地悪い言い方をすれば、聖公会の優位が実質的に語られている。
 チャンティングについては、不意を突かれた。グレイゴリアン・チャントの原形的なあり方への示唆も驚かされたし、テゼ(Taizé)がこの文脈で現れることも驚いた。
 テゼについてはその共同体的ないわば集団の、新しい信仰の運動として見てきたし、それはそれで正しい理解ではあるのだが、黙想の祈りからチャンティングを通してテゼを見直すとき、テゼのチャント(歌)そのものの、ケノーシスとしての圧倒的な美しさというものに出会った思いがする。言い方は変だが、そんなことを気がつかなかった自分をうかつだったと思ったし、聖霊がきちんと自分を導いているじゃないかと、聖霊的なユーモアも感じた。
 話は前後するが、センタリングの祈りについてブジョーの師であるキーティングはトラピストらしくレクチオ・ディヴィナの発展として捉えているが、そこは少し違うようにも思えた。どこかに正しい修法があるというわけではないが、この部分は宿題に残った。
 自分にとっては懐かしいエキュメニズムに思いを新たにした。テゼの黙想が暗示するように、エキュメニズム、つまり本当の意味でのキリストの身体は、理性の上にではなく、より精神的な充足のなかに築かれるのかもしれない。


 
 

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2012.05.23

職業別労働組合が奨学生を支援するといいんじゃないの

 ネットで学費援助を募集するというような話題がこのところネットにあって、公的なセクターが関わる話でもなさそうなので、私にはあまり関心が向かない。なので、そうだったら、関連した話なんかも書かなくてもいいじゃないかとも思うのだけど、まあ、雑談くらいにちょっとだけ。
 以前、米国の職業別組合みたいなのものに所属していて、それなりに面白い体験でもあった。団体のプレジデントとか選ぶときも、米国の大統領選挙みたいな仕組みだったりした。規約の改定の手続きともかも、宗教的な大義みたいなものを打ち出したりして、米人は奇妙な考え方をするもんだなとか思った。そんななかで、組合のミッションとして、「今年の奨学生」というのもあった。組合で奨学生を選出して支援しているようだった。
 他の組合というかユニオンがどうなっているのか知らないし、ざっとネットで調べた感じだとよくわからないのだが、そこのユニオンだと、将来学生がその職業に就くときの励みになるような支援をするという感じだった。奨学生も、その職業にどう意義を見出して、自分が貢献できるかみたいなエッセーを書かされたり、スピーチをさせられていた。
 いいんじゃないの、そういうのと思ったものだった。
 日本でも、いろいろ就職が問われていて、いろいろな模索をする時代になったので、そういう職業別の労働組合が主体になって、学生にその分野の仕事を伝えようとしたり、奨学金を出すようにしたらいいんじゃないか。
 日本だと、よくわからないのだが、労組というかユニオンというのは、職業別というより、業界とかあるいは大手一社の結束という印象があるけど、もっと自分たちのやっているプロフェッションを自覚して、その仕事に就いてくれるように学生にアピールするとよいのではないか。すでにそういう試みがあるのか、知らないので、とんちんかんなことを書いているのかもしれないが。
 もちろん、すでに日本の労組でも奨学金を出すところはあるのは知っているけど、そういうのとは少し違って、例えば、ネットの業界だったら、ネット業界で特定の社会貢献の意識を持つ人たちが集まって、その仲間で自分たちのミッション(使命)とエシックス(倫理)を掲げ、そこから、自分たちあるいは世間などにも募金を求めて、そこから、自分たちの仕事のミッションを理解する学生に奨学金を出す。そのためにエッセイのコンテストなどをする。奨学金を得た学生は、その後、同じ労組のなかに入って活躍する……というようなことがあっていいんじゃないか。
 まあ、そんだけの話。
 もしかすると絵空事のような響きを持つのかもしれないけど、学生さんたちが、なんのために勉強をするかというとき、もちろん、自分の教養を高めるためというのもあるけど、職業技能の基礎を得るというのもあるわけなので、そういう志向に対して、社会の側で、現役のプロフェッショナルから、その集団の意志として、支援する仕組みがもっとあるとよいように思う。
 
 

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