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2012.04.07

[書評]禁じられた福音書 ― ナグ・ハマディ文書の解明(エレーヌ・ペイゲルス)

 聖書には含まれていないイエス・キリストの教えが存在するとしたら、どう思うだろうか。キリスト教徒なら「そんなのは悪い冗談でしょ。聖書は聖霊の導きで書かれているのです」と答えるかもしれない。だが、聖書に含まれている、イエス・キリストの生涯を記す4つの福音書(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ)以外に、本当のイエス・キリストが語った言葉を収録する別の福音書がかつて存在し、そしてそれが今の聖書に収録されている四福音書よりも真実を伝えるとしたら、どうだろうか?
 いや、何をもって「真実」だというのかという議論にもなるかもしれない。本書、「禁じられた福音書 ― ナグ・ハマディ文書の解明」(参照)は、その問題を本質的に扱っている。
 訳本の表題「禁じられた福音書 ― ナグ・ハマディ文書の解明」は日本人に向けてよく練られている。確かに本書では、現在のキリスト教からは禁じられた、異端の福音書が議論されている。キリスト教に関心ある人なら、あるいはSFの愛好家も、20世紀最大の発見とも言われるナグ・ハマディ文書の解明にも関心があるだろう。

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禁じられた福音書
ナグ・ハマディ文書の解明
 副題として記されるナグ・ハマディ文書は、1945年、エジプト南部、観光地として有名なルクソールの近く、ケナ県ナグ・ハマディという町の近郊洞窟から壺に封印されたパピルスとして発見された、コプト語による文書(写本)で、キリスト教がどのように成立したかを解明するうえで貴重な史料となっている。簡単に言えば、4世紀にキリスト教が成立するとき、「これを後世に残してはいけない」とされた異端文書である。が、「異端」というのはこの焚書行為と同義でしかない。別の言い方をすれば、危険文書である。キリスト教の存続を危うくする危険性があると見なされた文書である。
 20世紀にひょっこり姿を現したナグ・ハマディ文書と現在の聖書(聖典)を合わせた総体でおよそ、イエス・キリストが磔刑され復活した1世紀以降の歴史の、ある意味で豊かな形態のイエス・キリストへの信仰が再構成できる。それが本当のイエス・キリストの教えということだとしたら、現存するキリスト教とはどのようなものになるだろうか。
 ナグ・ハマディ文書の古代的な、また豊潤な精神性・宗教性が再び説かれる事態になれば、これも「ある意味で」と限定はするのだが、現在の正統キリスト教は壊れてしまうかもしれない。
 妄想にも近いかもしれないが、未発見の古代文書に、「正統のキリスト教の歴史が押し隠したイエス・キリストの真実の姿を示す秘密が隠されているのかもしれない」と思う人がいても不思議ではない。アーヴィング・ウォーレス「イエスの古文書」(参照)やダン・ブラウン「ダ・ヴィンチ・コード」(参照)など小説のネタにもなる。P・K・ディックの「ヴァリス」(参照)三部作もその影響にあることは、SF愛好家なら常識だろう。
 隠された秘密は知りたいと思うものだ。ナグ・ハマディ文書の一部は、発見の経緯からエジプト国外に売却されるという不幸なことがあったが、この分野に多大な関心を寄せた心理学者カール・グスタフ・ユングが最終的に入手し、ユングの死後、エジプトに戻ることになった。ユングは、現在のキリスト教から失われた古代の神秘の教えともいえるグノーシス主義への傾倒からナグ・ハマディ文書に関心を持っていた。少し勇み足な言い方になるが、彼はそれをもってキリスト教を乗り越えようともした。
 こうした、失われた、真なるキリスト教、あるいは真実のイエス・キリストの教えといった関心はその後も続き、近年では「ユダの福音書」(参照)が話題になったこともある。
 この話題の、おそらくもっとも中心的な部分は、本書オリジナルの表題にも含まれている「トマスによる福音書」(参照)である。本書オリジナルの表題「Beyond Belief: The Secret Gospel of Thomas」(参照)には「トマスによる福音書の秘密」と書かれ、まさにこの核心部分を扱った書籍でもあることがわかる。なお、「Beyond Belief」は、「ウソぉ、信じられない!」という口語的な意味と、字義どおり「信念・信仰を超えて」という二つの意味があり、その双方が本書の内容を暗示している。
 著者エレーヌ・ペイゲルスは新約聖書学の中でも、さらにナグ・ハマディ文書などグノーシス主義文献研究家の第一人者であり、本書もその学術的研究を踏まえた一般書として書かれている。予備知識のない人や、正統キリスト教の知識しかない人が読むと奇妙に思われる点もあるだろうが、学術的な逸脱はない(異論はあるだろう)。そうした学者さんなのだから、学術的な知見から啓蒙的な文書にまとめることもできるだろうし、信仰やあるいはディックやユングが取り憑かれたような妄想にも近い部分をさらりとかわすこともできただろう。しかし彼女は、まさにその部分にエレガントでありながら体当たりしている。
 マーサ・グラハムの元でダンスも学んでいたという彼女は、詩情豊かであるが、学者さんらしく慎ましい限界をもって筆を進めている。だが、ある程度この分野に精神を関与させた読者なら、彼女がトマスによる福音書からイエス・キリストの声を聞き取ろうとしていることがわかる。それは私のような者にはちょっとした衝撃でもある。少し自分語りをしたい。
 私は中学生のころからドストエフスキーを読み出し、小林秀雄や山本七平などの影響もあいまって、高校時代にキリスト教の神学に関心をもち、特に神学者八木誠一に関心をもった。「キリスト教は信じうるか―本質の探求」(参照)や「キリストとイエス―聖書をどう読むか」(参照)といった新書は擦り切れるほど読んだし、学術論文と言ってよいかと思う「新約思想の成立」(参照)も読んだ。同書には後にトマスによる福音書を邦訳した新約聖書学者荒井献との論争も収録され、そこではまさにグノーシス主義が話題になっていた。誤解を恐れずにいうなら、八木神学には「グノーシス主義」的な部分はあったかと思う。だが私はそれに傾倒し、八木誠一先生本人からも学ぶ経験もえたが、逆にそれをきっかけに私は新約聖書学から離れるようになった。八木先生に幻滅したからではない。ブルトマン的な方法論の自然な成り行きのように聖書と信仰が結びつかなくなったのである。
 私語りをしたのは、本書の話題の核心は「トマスによる福音書」だとしたが、それは「ヨハネによる福音書」による排除であるとする大胆な主張に関連する(「ヨハネ」は「トマス」を排除する意図で書かれた)。私は、八木神学から離れると同時に「ヨハネによる福音書」も捨てていた。いや「捨てる」というのは正確ではない。関心からこっそりと排除した。三一信仰も同じ扱いにした。共観福音書のイエス像(ケリュグマ)だけを残した。
 なのにパウロにずっと関心を持ち続けた。イエスのケリュグマとパウロがあれば、どこかでキリスト教が見つかるような気がしていたのだった。パウロが遭難したマルタ島の海岸でその荒れた海を見つめたこともあった。
 聖書に、またイエス・キリストに関心を持ちながら、それが信仰に結びついていかないもどかしさと、どこかに失われた信仰があるのだということに自分は翻弄されてきた。本書の著者エレーヌ・ペイゲルスもそう感じていたのだという挿話が、本書の冒頭に描かれている。その意味で、この本は、私の本だとも思った。私のための本だ、と。そして、本書の概要を知りながら、読むことをずっと避けていたのも、それに関係していた。「ヨハネによる福音書」に取り組まなければならないことが、たぶん私の人生の、もう避けがたい私だけの課題になった。
 この年齢になって、キリスト教の歴史的な総体というものが、不思議に浮かび上がるように思え、昨年年末、E.R.グッドイナフ「アレクサンドリアのフィロン入門」(参照)を読んだら、小冊ながら「ヨハネによる福音書」とフィロン哲学の関係の大筋が見えた。そして本書で「ヨハネによる福音書」が「トマスによる福音書」を排除しつつ、ニケア信条が成立する過程もくっきり見えた。この説は新約聖書学的にはおそらく学説に留まるのだろうが、覆りようもないように自分には思えた。「ああ、そういうことだったのか。キリスト教というのはそういうものだったのか」となにかが胃の腑にずしんと落ちた。
 正統キリスト教を否定したり、「ヨハネによる福音書」を批判したりという思いはまるでない。むしろ、実質的に本書の主人公ともいえるエイレナイオス(Ειρηναίος)とその系統にある人々が、「トマスによる福音書」を必死に排除していくプロセスに共感した。つまり、それがキリスト教を作るということでもあったのだろう。誰かがそれをする他はなかったこともよくわかる。
 同時に「ヨハネによる福音書」の代わりに「トマスによる福音書」が共観福音書に添えられていたら、人類は異なるキリスト教の歴史を持ったのかもしれないとも夢想させる。それは今更想像しても詮無いことだと思う人もいるだろう。だが、著者エレーヌ・ペイゲルスはおそらくそうは考えてはいない。私も。とても遠いところにまで来てしまったなあという思いはするが。
 
 

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2012.04.06

インドの大陸間弾道ミサイル「アグニⅤ」実験

 国際ニュースを見ていつも不思議に思う。なぜ、それが話題で、あれは話題ではないのか。国内ニュースの場合は、それなりに勘所みたいなものもあるし、国際ニュースといっても基本、西側ニュースなので同様にわからないでもない。昨今の話題でいえば、4月中旬に実施予定のインドの大陸間弾道ミサイル「アグニⅤ」実験である。
 その前に少し脇道にそれる。日本で「ミサイル実験」というと北朝鮮の北朝鮮のミサイルが話題だが、これには奇妙な印象がある。余談みたいな話だが、ネットなどではこれをもって中国への脅しと見る指摘があった。いや、それはありえない。北朝鮮のミサイルは固定式なので本当に中国が危機意識を持つなら、発射台ごと事前に爆破すればよい。米国や韓国は、日本のような平和憲法ももっていないことから、判断によってはそうする可能性がある。いずれにせよ、北朝鮮ミサイルは直接的な軍事脅威にはならない。
 ではなぜ日本で大騒ぎしているかというと、日本は事前に爆破できないからというより、騒ぎの実態がミサイル防衛(MD)であることからわかるように、北朝鮮の脅威というよりMD訓練が焦点になっている。
 これは常識だと思うのだが、MDの精度がいくらあがっても攻撃側のミサイル数が多ければ意味はない。北朝鮮がそれほどのミサイルを持っているかというと、現下話題のテポドンなら数は少ない。が、日本を射程に収める中距離弾道ミサイルのノドンは300発もあり、「もう勘弁してくださいよ輿石先生(75)」と音を上げたくなるほどの人選の結果でもある、「無知の知」を誇る田中直紀防衛相が、3日の参院予算委員会で明言したように、ノドンへの防衛態勢については、「今の態勢では全国土を守りきれない」(参照)。白旗の少女ならぬ、白旗の賢人こそ日本の守りという現状である。
 ではこの沖縄を巻き込んだMD騒ぎだが、沖縄に設置予定の司令部の防衛とみてよいし、それは多数のミサイルを前提にしていることや、標的を沖縄に定めていると見られるミサイルを配備するという点で、中国を意識したものだろう。
 話をもとに戻すと、4月中旬に実験予定のインドの大陸間弾道ミサイル「アグニⅤミサイル」は、来年2013年には潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM: an operational submarine-launched ballistic missile)となり発射位置が事前にわからなくなる。また2014年には事前攻撃に利用される無人機からの防御も完成する予定である(参照)。今回の実験はその着実は進展を示すことになる。
 さて、このアグニⅤは脅威なのか?
 もちろん脅威だが、どの国に対しての脅威か。それは射程域からわかる部分が大きい。

 そして簡単にわかる。中露である。さらに当然ながら、隣国パキスタンさらにイランへも脅威を与える。
 中国はこれに反応しないのかというと、西側ニュースからは見えないが、中国語圏のニュースに絞り込むと中国網「印度4月中旬试射“烈火-5”导弹」(参照)を筆頭として数多くの記事がすでに存在している。中国としては無視できない脅威であることはこれらのニュースから察せられる。だが、日本を含め、西側報道では奇妙な印象があるくらい少ない。
 中国にとっては明白な脅威なので、これが中国の防衛と称する軍事強化を急き立てている。当然ながらインドが米国と軍事的な連携を結んでいるかぎり、インドが対中戦の前面に立つことになり、米国としてはインドを強く支援するしかない。
 同時それはインドと敵対するパキスタンとの関係も複雑にする。
 興味深いことにパキスタンは北朝鮮と核兵器技術やミサイル技術でも繋がりをもってきた(参照)。うがった見方をすれば、北朝鮮の今回のミサイル実験は、パキスタンを後ろに控えた、対インドと対米への牽制でもあり、その文脈では中国の意思も感じられないではない。
 
 

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2012.04.05

マリ共和国で起きていること

 西アフリカのマリ共和国で3月22日、軍部のアマドゥ・サノゴ大尉が率いる兵士らによってクーデターが発生した。「民主主義と国家の再建のための国民委員会」(CNRDR: the National Committee for the Return of Democracy and the Restoration of the State)と称する兵士らは首都バマコの大統領府を攻撃し、国営テレビも占領した。

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外務省
 CNRDRのコナレ報道官は国営テレビを通して「マリ国軍は、現政権にテロと有効に戦う能力がないことを考慮し、憲法上の権利を行使して他の治安部隊とともに無能なトゥーレ政権に終止符を打つ責任を果たすことを決意した」と述べた(参照)。
 CNRDRの発表からうかがえることだが、北部独立を掲げるトゥアレグ人勢力との戦闘にあたる軍部は、トゥーレ大統領政権の対応に業を煮やしていたのだった。なお、トゥーレ大統領も将校として1991年に当時のトラオレ独裁政権をクーデターで倒したが2002年に選挙で大統領となり、2007年に再選した。今年に退任する予定だった。クーデター時には行方不明だったが、首都バマコに潜伏しているらしい(参照)。
 クーデーターの混乱に乗じて、トゥアレグ人勢力は攻勢を強め、北部ガオ州の州都ガオを掌握。さらに世界遺産の都市であるトンブクトゥ制圧し、北部の主要都市を掌握した。
 国連安全保障理事会は4月4日、クーデターを起こした軍兵士を非難する議長声明を出したが(参照)、それ以前にクーデターによる政府の弱体化が決定的となった。
 攻勢を強めるトゥアレグ人勢力だが、北部に「アザワド」という国家の独立を求める遊牧民トゥアレグ人の武装組織「アザワド国民解放運動(MNLA: National Movement for the Liberation of Azawad)と、アルカイダ系イスラム過激派「アンサール・ディーン(Ansar Dine)」のニ系があり(参照)、トンブクトゥではアンサール・ディーンがMNLAを追い出して支配下に置いた(参照)。ごく簡単に言えば、マリ共和国はアルカイダの新しい拠点となりかねない事態となったのである。
 なぜこのような事態になったのか。これも簡単にいえば、カダフィのリビアを西側が潰したことの余波だった。リビアのカダフィ大佐の傭兵が大量の武器をもってトゥアレグ人勢力に荷担したのである。この状況は、さらに同じくリビア南に接するニジェールとチャドに伝搬する可能性がある。
 カダフィのリビアを潰せばこうなることは西側にわかっていなかったのか、特に米国は。いや、わかっていたのだった。フィナンシャルタイムズ「Libyan aftershocks(リビアの余震)」(参照)より。

This is just the scenario US-led support to the state was meant to avert. Mali is a vast, porous and ethnically heterogenous territory.

この事態は、米国指導によるこの国家(マリ共和国)への支援で回避しようとしていたシナリオそのものであった。マリ共和国は広大で、外部から侵入しやすく、多様な民族で構成されている領土である。


 米国はマリ共和国の持つ脆弱性を理解し支援していたのだが、反面、カダフィのリビア崩壊に実質的に関与してマリ共和国を苦境に追い詰めた。ざっと見れば、またも米国の失態、つまりオバマ政権のヘマとも言えるし、この事態がわかっていたから、表向きはオバマ米政権はカダフィのリビア攻勢に関与することに億劫な素振りを見せていたのかもしれない。いずれにせよ、予想されたこの事態を看過していたことには変わりない。
 であれば、現況についても米国が実質的に強力に関わるしかないだろうが、またしても宗主国であったフランスとの関係の調整が必要になる。オバマさんもサルコジさんも、今年は選挙の年であって、大きな動きは取りにくいし、アルカイダはメドベージェフさんのように「選挙の後まで待ってくれ」とこっそり言って通じる相手でもない。
 やっかいなことになったが、やっかいなことはマリ共和国だけの問題でもない。世界の各種の問題という視点で見れば、他が深刻すぎてマリ共和国の崩壊は比較的重要ではない位置に落ち着くのかもしれない。
 
 

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2012.04.02

NHK朝ドラ カーネーション

 一、二回の抜けはあったかもしれないが、NHK朝ドラ「カーネーション」はほとんど見た。面白いなと思って日々見ていた。先週終わって、今朝の新・朝ドラのことはすっかり忘れていた。たぶん、こっちは見ないんじゃないだろうか。
 「カーネーション」を見始めたのは、単純な話、小篠綾子さんがテーマだったからだ。この人を題材にして面白くないドラマはできないだろうと踏んでいた。このレベルのパワーが出せるのはあとは千住文子さんしかいない。

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糸とはさみと大阪と
小篠綾子
 面白かった部分は?と、あらためて問い直すと、10代でデパートの制服を作るあたりの話だろうか。他の部分に少し斜に構えてしまうのは、わけがある。小篠綾子さんが有名になったのは、私の記憶では娘さんたちの活躍を反映して70歳以降のことであり、この朝ドラの物語もその70代から90代に流れていくことは想定できた。その想定の光のなかで、そこに至る物語として見ていたように思う。実際のところ、その最終部の脚本の仕上げかたも見事だった。
 違和感はあった。脚本のうまさは同時にあざとさでもあった。栗山千明演ずる奈津や恋人役設定の周防などは、脚本家の技量の、ある種嫌みのようなものが出て、人情を描くようでいながら人間を描き切れていないもどかしさがあった。特に周防については、綾子さんの不倫が有名でもあったことから、あれをどう描くものかと見ていたが、「ほっしゃん」との人格で劇場的に分離させていた。やるなあ、うまく描くものだな、という思いと、そうして分離して切り捨てられた、周防とほっしゃんが生身の人間の身体で交点を描く部分の男女の機微は、きれいに抜け落ちていた。あれは恋愛というものではないなと思いつつ、と同時に、この脚本家は恋愛というものが描けるのに、どうして描かないだろうかといういぶかしさもあった。
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カーネーション
完全版DVD-BOX1
 一番の違和感は、率直に言うのだが、時代感覚の欠落だった。このドラマは1970年代生まれの脚本家が書いているなと感じさせる。東京でいうなら東京オリンピック前の風景というものを知らないのだろう。またそれゆえに神戸の松坂家を、まるで修論をまとめるように上手にまとめていた。濱田マリ演じる玉枝が日本の戦争を戦闘員の加害の点から述懐するというに至っては、この人は戦争というものを知らないのだろうなと苦笑した。インパール戦で息子を亡くした、私の祖母のことを思い出した。兵士というのはただ命令で戦い、死ぬだけのものである。それに国家の倫理が触れるのは、生活がそれに隣接する局面だけでしかない。その生活の切面の、あまりに人間的な醜悪さと美しさから、「死の棘」のような例外はあるが、戦後の知性は逃げ回ってきた。
 この、時代感覚というものの奇妙な欠落は、十朱幸代演じる貞子、正司照枝演じるハル、善作演じる小林薫がその肉声をもってうまく補っていた。照枝さんはギターが似合うのだがなと思い出す。昭和な私からすれば、みなさん、お若い世代の俳優だった。それでも昭和の気風を身体で知っている人たちだった。配役はプロデューサーのうまさというべきかもしれない。
 リアルな時代感覚との対照には、脚本家自身の時代意識とその対象への具体的なある感触があるものだ。それが必ずやどこかで漏出する。そこには小林藤子が演じる孫娘理香があてはまっていた。このドラマは1970年代生まれの脚本家が書いているなと感じさせるものがあった、と私は書いたが、竹の子族から逆算する位置にあった。
 竹の子族世代の心情は逆に私にはわからないが、この平成も終わらんとする時代に出来た物語は、そこから小篠綾子という「おばあさん」を心情的に接近してみたのだろう。実際のところ、周防の話題で萌え上がっている茶の間のおばさんは、その世代なのだろう。その意味で、カーネーションの成功は、竹の子族世代の中年層をうまく掴んだことなのだろう。
 我ながらうかつだったのだが、脚本家への焦点をもちながら、実際にその脚本家が渡辺あやだったことには、それほど興味が及んでなかった。ステラ(3/30)にインタビューが掲載されていて、ああ、「ジョゼと虎と魚たち(映画版)」(参照)の脚本だったか、なるほどと得心した。
 言われてみれば、「カーネーション」のある独自なトーンは「ジョゼと虎と魚たち(映画版)」とよく似ている。そして実は、「カーネーション」が描き出そうとして踏みとどまったものは、小篠綾子とジョゼと重なる部分の、ある独自なエロスのようなものではなかったか。「ジョゼと虎と魚たち(映画版)」で妻夫木聡演じる恒夫の泣き崩れる姿に似たものが、たぶんこの朝ドラのどこかで(周防の娘との再会あたりか)、こっそりと失われたピースなのではないかと、思った。
 
 

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2012.04.01

最近の猫の跳躍傾向について

 ボストンの高層マンション19階の窓から3月22日、一匹の猫が飛び降り、そして60メートルを超える落下の後、あざやかに着地した。いや。あざやかとまでは言えないかもしれない。あざが胸に小さくできたからだ。
 その完全なる着地は現地では"purrfect landing"と称賛された。ギネスブックも猫最長降下の記録を確認し、国際的なニュースにもなった(参照)。
 現地ボストン・グローブ紙によると、この最長降下記録を更新した猫は、高層マンション、エマーソンパレス19階でブリタニー・カークさんと暮らすメスの「シュガー」である(参照)。
 その偉大なる跳躍に最初に気がついたのは2階に暮らしている女性だった。「今日は何か猫のようなものが落ちてきたわ」と思った彼女が階下に降りてみると、そこにドヤ顔のシュガーがいたのだった。

 他の階の住人も「猫降ってきたんじゃないの」とぞろぞろと階下に集まり、シュガーの偉業に驚嘆した。「ところで、どこの猫?」と集まった住民は気がかりになり、とりあえずボストンの動物救護会に連絡した。同居のブリタニーさんは19階の窓を開けたまま仕事に出ていたのだった。
 偉大なる着地を奇跡と呼ぶ声もあった。しかし奇跡なるものはこの世には存在しない。そこには猫の飛翔についての純粋な科学だけが存在する。ガリレオによるピサの斜塔の落下実験による誤解から物体は質量にかかわらず等速落下すると考えている人もいるが、現実の世界では落下する物体は空気抵抗によって一定の距離の落下後に、それぞれの落下物質によって異なる、一定の速度に落ち着く。これを終端速度と呼ぶ。ちなみに式はこのようになる。

 この終端速度を猫は落下時に本能的に計算し、落下面を調整して最適解を得ることができる。さらに猫は「落下猫効果」も適用する。これは、仮に猫の落下初期にひっくり返った状態であっても、全身の屈伸とひねりによって通常の猫状態に戻ることだ。数学的にも興味深い問題として研究されてきた。

 具体的に猫の落下終端速度はどの程度の速度であろうか。1987年に獣医のウエイン・ホイットニー氏とシェリルメル・ファフ氏が猫の終端速度について実験したところ、時速97キロであることが判明した。比較として人間の場合だと、その終端速度は時速193キロとなるとのことだ。なお、彼らどのような実験をしたかについての詳細な情報は得られていない。
 今回のシュガーの偉業だが、背景には近年、全世界の猫による類似の跳躍現象の増加がある。猫は今や飛ばずにはいられないようなのだ。この傾向について、高層ビル症候群(High-rise syndrome)という名称もついている。
 当然ともいえるが着地に失敗してケガをする猫もいる。生死に関わるケガの率は1980年代は10パーセントほど(参照)だったが、近年は高まっているようだ(参照)。

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101 Uses for a Dead Cat
Simon Bond
 なぜ、猫がハイジャンプを試みるのか。それはアスリートにとっては自明とも言える愚問かもしれないし、「好奇心は猫を殺す(Curiosity killed the cat)」と言えないこともないが、動物学的にはある程度合意した見解が得られている。
 バージニア工科大学で生態力学専門のジェイク・ソーチャ博士は、「猫は本来高い樹木で暮らす生物であり、猫にとっては、高い位置からの跳躍は自然な能力である。今後も高いマンションからの跳躍は試みられるだろう」とコメントしている。英国王立獣医大学のジム・アッシャー博士は「猫には、猫立ち直り反射(Cat righting reflex)と呼ばれる、落下空間での身体制御のほか、柔軟な内臓の仕組みなど各種、跳躍と着地を可能にする生体の仕組みが備わっている」とも述べている。
 ソーチャ博士はさらに、猫による偉大なる跳躍と着地能力は進化論的な自然選択の結果である("Through natural selection, cats have developed a keen instinct for sensing which way is down.")とも示唆し、その進化論的な意味を重視している。むしろ現代社会の猫は、高層マンションでの生活の一環として、また進化的な新しい環境適合として、種としての偉大な跳躍を試みているのではないかというのである。哲学者ベルクソンが「生命の跳躍("Élan vital")」と呼んだ生命の特質にも関係しているようだ。
 ケンブリッジ・トリニティ大学で進化論を研究するアレックス・サンダース博士も類似の意見を持っている。今回の猫の跳躍について彼は「猫はいずれ空を飛ぶようになるだろう」と予言している。
 猫は、鳥類とは異なる形態を経るものの、空を飛ぶような生物に進化している過程にあるのかもしれないが、対して人間はといえば、高層マンションに住む人間は出かける前には、猫を飼っているなら窓を確認することが望ましいだろう。


 
 

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