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2012.03.31

沖縄海兵隊メモ

 今週の日本版ニューズウィーク(4.4)の表紙に大きく「普天間と日本」とあり、沖縄の基地問題を扱っていた。その下には「海兵隊をめぐる勘違い」とある。沖縄の基地問題というより、在沖海兵隊についての話題が基本である。私にとっては目新しい知見はなかったが、確認としてブログにメモしておいてもよいように思われた。

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Newsweek (ニューズウィーク日本版)
2012年 4/4号 [雑誌]
 記事はジャーナリストのカーク・スピッツアー(Kirk Spitzer)氏によるもで、英語のタイトルは「Time to Pack up?」となっていた。私の記憶ではこの記事を英語版のNewsweekで読んだことはない。ざっと検索しても見当たらない。むしろ基本的な主張と取材は、今年1月同氏がTimeに寄稿した「Marines on Okinawa: Time to Leave?」(参照)と同じなので、日本版の編集者が「Time誌のこのネタで行こう!」とやってしまったような印象がある。
 最初にこの話題のもっとも基本的な枠組みを、私なりに説明したほうがよいのではないかと思うのでつらつらと書いてみる。
 沖縄で展開されている反米基地闘争的な運動だと、いろいろなご事情から「米軍基地」として雑駁に捉えられているが、米軍には4軍(正確にはCoast Guardを入れて5軍)、陸・海・空に海兵隊があり、その差の認識が重要になる。海兵隊は、"Marine Corps"ということから沖縄では「マリーン」とも呼ばれることもある。
 問題となっている普天間こと普天間基地、つまり普天間飛行場だが、これは海兵隊に所属している。飛行場だからといって空軍にではない。対して通称嘉手納基地こと嘉手納飛行場は、空軍に所属するが、ここには海軍駐機場もあり海軍にも関係がする。
 日本軍や自衛隊の構成から陸・海・空の3軍は理解しやすいが、海兵隊は理解しにくいかもしれない。イメージとしては海軍の歩兵と言ってもよいのかもしれないが、海軍の組織ではない。海軍と分離されている由来には、いろいろと歴史があるが、日本では事実上、軍事の歴史がタブー化されているので世界史などで教えられていないように見える。
 海兵隊の働きだが、これもイメージだと言ってよいのだろうが、その兵を船で運び敵地に上陸させ、いわば肉弾で戦闘させる。米軍が他国で戦闘するときはこれがもっとも重要になるし、沖縄戦でも熾烈な戦闘に当たった。
 話が多少飛躍するが、沖縄戦で海兵隊は辛勝した。そこで海兵隊にとって沖縄という土地は日米戦争の記念トロフィー的な意味が付与されてしまっている。記念だから手放したくないという心理がある。
 また、マッチョな組織でもあり、退役兵も米国社会的にその線で敬意をもって受け入れられ、さらにそこから政治的なロビー組織も形成し、政治に対して強い力を持っている。さすがに太平洋戦争が終了して半世紀以上の時が流れ、沖縄戦経験を持つ退役者も減ってきたが、沖縄はベトナム戦争のときも拠点だったので、そのあたりで青春の思い出を持つ人は少なくない。
 余談が伸びてしまうが、海兵隊が起こした事件として沖縄少女暴行事件に少し触れておく。私は当時、沖縄で暮らしていた。当然。この事件は沖縄で大きな事件として報道されていたが、日本本土側の反応は鈍かった。それが国際的ともいえる大々的な問題に発展したのは、米国でこれを問題視して日本本土側に反映されたためだった。なぜ米国で大問題になったかというと、あまり報道されない二点があった。一つは、建前上海兵隊員は英雄の卵なのでそんな不名誉は断じてならないということだった。もう一つは、私が当時インターネットでニュースや掲示板などを見てわかったのだが、この問題には人種問題や海兵隊内部の問題が関係していた。その暗部が露呈してしまったというパニックでもあった。
 話戻して、海兵隊というのはそういう性質のものなので、実戦となれば当然隊員を上陸させるための揚陸艦が重要になるのだが、それが沖縄には配備されていない。在沖海兵隊には緊急事態を想定した即戦力はない。であれば沖縄に常時多数の海兵隊員を配備しておく必要もない(台湾有事に備えた少数の特別任務はありえる)。
 ではなぜ多数の在沖海兵隊員がいるかというと、基本的に訓練場となっているためである。さらに10万円くらいで雇われている若い海兵隊員にとっては、フロリダみたいにすごしやすくて、そのほかいろいろ特典のある沖縄は魅力な場所になっている。なお、市街地近辺で実弾がぶっ放せる訓練場だったのは、沖縄は米統治時代、日本ではなかったことに由来する。
 加えて、普天間飛行場の由来。沖縄戦後、米国によって住民を追い払って建設されたものとされているが、間違いではないのだが、その目的は日本本土攻撃に備えるためだったので、その目的が終了してからは、市街地でもあり撤廃の方向だった。また建設時では陸軍に所属していたが、その後空軍に移管され、空軍での統合・整理の対象となっていた。このあたりはまだ秘史に関連するかもしれないが。
 この間、普天間飛行場が撤廃されず息を吹き返したのは、朝鮮戦争による影響である。1956年に岐阜県と山梨県にあった海兵隊基地を沖縄に移したためだ。なぜ移したかというと、日本国内では反米基地運動が盛んだったので、当時日本ではない沖縄に移転すればよいということだった。その理屈からすれば、沖縄が本土復帰した時点で、いったん、岐阜県と山梨県とはいかないにせよ、本土側に戻すべきだったのかもしれない。だが、この時点ですでにベトナム戦争での利用に組み込まれていた。
 簡単な前振りのはずが長くなってしまったが、具体的な戦闘能力という点のみで見れは沖縄海兵隊の意義はそれほどない。また、実際の戦闘ということでは空軍の嘉手納基地が重要になり、沖縄の米軍問題としていっしょくたには議論できない。
 さて、ニューズウィークの記事。
 基本線として国防総省系シンクタンク、アジア太平洋安全保障センターのジェフリー・ホーナング准教授の個人的な見解として、「沖縄から海兵隊を移転させたら、日本かアメリカの安全保障が損なわれるか。そうは思わない。そろそろ(海兵隊を動かしても)いい頃だろう」というコメントを引いている。ちなみに、これは先のTime誌記事にもそっくりある。
 この見解だが、単純に受け取るのではなく、国防総省あたりの観測気球的な思惑だとまず理解したほうがよい。が、その後の経緯、つまり普天間問題と在日米軍再配置問題の切り離しの動向を見ていると、背後には海兵隊の見直し論は潜んでいるのだろう。
 記事中の数値だが、在沖海兵隊員は1万4000人。うち早期展開可能な要員が半数。主力戦闘部隊となる第31海兵遠征部隊の兵力は2200人。

 海兵遠征軍は通常、2個師団以上の地上部隊や支援部隊を指揮するようにできている。例えば、91年の湾岸戦争で、第1海兵遠征軍は10万人超規模の海兵隊を指揮した。だが沖縄の第3海兵遠征隊の指揮下にある兵力は数千人程度だ。海兵隊は厳密な数字を示さないが、ほぼその全員が情報収集や通信、エンジニアリング、医療、人事などの支援任務に就いている。

 先の揚陸艦の話も関係する点では。

 さらに、沖縄駐留継続論の論拠の少なくとも一部は、もはや時代遅れになっている。朝鮮戦争やベトナム戦争の時代は、米本土からアジアに部隊を運ぶ手段が船舶だったので、沖縄に基地があるおかげで移動時間を大幅に節約できた。沖縄の基地は、戦闘を支える準備拠点としても大きな機能を果たした。
 しかし今日では、中継地を経ずに長距離輸送機で戦闘地帯に部隊を直接送り込むのが一般的だ。


 抑止効果の面で、沖縄に海兵隊を残す必要はあるのだろうか。「何に対する抑止力なのか。もし中国を念頭に置くのであれば(沖縄の海兵隊がいなくなっても)海軍の第7艦隊がいる。北朝鮮に対しては在韓米軍がいる」とホーナングは言う。

 このあたりは、実際に米軍がどのような対中軍事シナリオを持っているかによる。だが、この点についてはウィキリークスで暴露されたのだが、日本が民主党政権になってから米国側としては、日本側に対応できる責任者が不在になったから公開できないとしている。
 またベトナム戦争の時代はジャングル域での戦闘訓練として似た環境の沖縄が重視されていた面もあるが、そのあたりも変化しつつある。

 そもそも、部隊が沖縄に駐留していてもアジアの戦闘地域に迅速に展開できる保証はない。この10年間で何千人もの沖縄駐留海兵隊員がアフガニスタンに派遣されたが、ほとんどの隊員はその前に、訓練のためにカリフォルニア州の基地にいったん連れていかれた。沖縄で行える訓練に制約があるからだ。
 カリフォルニアの基地で数週間の訓練を積んだ兵士たちは、沖縄を経由せず、輸送機で直接現地入りした。沖縄の基地に駐留していることで時間を節約できるどころか、むしろ遠回りを強いられたのだ。

 同記事はそうした点から、沖縄海兵隊の不要論というあたりを面白おかしく展開している。そのため、配備予定のオスプレイの意味合いなどの考察は含まれていない。
 この問題は、いろいろと錯綜している部分がある。また多分に政治的な側面が大きい。雑誌記事レベルの知識で議論を展開していもなかなか現実には対応できないし、民主党政権の失敗でしみじみと理解できた部分も大きい。
 
 

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2012.03.29

4月から新社会人になる皆さんへ

 あまり多くはないと思うのですが、というかほとんどいなんじゃないかとも思うのですが、このブログの読者の方のなかに、もしかしたら、来週から新社会人になるという人もいるかもしれないと思って、今日は、それらのかたへ「贈る言葉」を書いてみます。自分が社会人になったばかりのころを思い出し、そのころ、何を言われてたらよかったかな、と考えながら。


1 社会人とは家計を営む人だと理解しましょう
 社会人とはなんでしょう。社会を構成している人という意味なら、赤ちゃんも社会人ということになりますが、ちょっと違いますよね。ではなにかというと、実際的には「仕事をして世間様からお金を貰っている人」と定義してよいと思います。
 じゃあ、「専業主婦は社会人じゃないの?」という疑問がすぐに起きるかもしれません。でも、その夫と家計を分担しているという意味で、専業主婦も社会人としてよいでしょう。
 いきなり脇道にそれるようですが、ここがけっこう重要なことなのです。「お金を貰う」ということは「家計を営む」ということだからです。
 「家計を営む」ということはどういうことでしょう。衣食住を自分の失費としてやりくりすることですが、そうした物品が購入できるお店(市場)が保証されているのは、「公(おおやけ)」「公共」というものが前提となります。その具体的な部分には市町村や国家があります。こうした「公」を維持するために、社会人は一定の貢献をしなければなりませんし、そのための支払いが「納税」ということになります。
 社会人というのは、だから、働いて、お金を貰って、家計を営んで、納税する人ということです。うひゃあ、とんでもないものになってしまいましたね。
 でも家計を営むのは、納税が目的ではありません。あなたの人生を実現するという意味もあります。人生を実現するというのは、衣食住を維持し、家庭を営むということです。
 むずかしいのは、この家庭というのは、伴侶を見つけて子供を産み育てるということとは限らないことです。一人静かに老いて死んでいくというのも家庭の一つのありかたですし、そういう多様な人々の家庭も尊重することが社会人に求められることです。


2 働くということは分業だからよいサービスを提供しましょう
 社会人とは「仕事をして世間様からお金を貰っている人」と定義しました。「え? 世間様って何? 食えるの?」と思う人もいるかもしれません。いや、そう思ってますよね。
 世間様というのは、簡単にいうと、泥棒をしないということです。
 人は衣食住がないと生きられません。それをお金や物品交換で(公共が支える市場を通して)入手しないといけません。
 でも、なぜ? 欲しいものがあれば、泥棒すればいいじゃないですか、となぜならないのでしょうか。
 こっそりここだけの話ですが、世の中がひどくなって、生きるためには盗み以外ないじゃないかと追い詰められたら、泥棒だってやるんです。泥棒しなければ生きられないなら、泥棒することから社会を定義し、そこから「公」を作り変えなければいけないということです。ちょっと話が進みすぎましたね。
 まあ、泥棒はいけません。盗まれる側になってみてもわかるでしょ。
 互いに泥棒はしないようにしよう、と暗黙に合意しあっているのが世間様ということです。
 そしてそれは同時に、お金や物を使って交換しないと生きてけないよ、ということですから、つまり、人が働くというのは分業だということです。
 自給自足のほうがいいじゃないかと思う人もいるかもしれません。自給自足の仲間を作って社会から孤立しちゃったほうが楽じゃないか、と。まあ、そうかもしれません。でも、それって、社会人じゃないっていうことなのでした。話を続けましょう。
 社会人は分業をします。分業とは自分が生きていくための物を得るために、自分ができるサービスや物を他の人に提供するということです。他の人(世間様)に役立つと評価されると、お金がもらえるというわけです。
 お金持ちになろうというなら、世間様に多くのサービスを提供しないといけないわけです。それだけのサービスを与えることができる人は、社会にとって大きなメリットなのですから、お金持ちが多い社会のほうが、よい社会もありそうです。あれ? なんか違う?
 不当なお金儲けはしないほうがいいでしょ、ということですかね。詐欺とかの犯罪を、そりゃいけないよという世間様は、そこでは規則として機能しているわけです。


3 公共のために貢献しましょう
 社会人は、「公」「公共」というものがあって成り立つものです。だから、「公」に一定の貢献が求められます。どんだけ?
 一番大切なことは、「公」が関わらない自分を持つことです。誰かがどれほど立派な正義を掲げようが、「そんなことは私には関係ないですよ」という、「私」という生活の部分を明確に意識することです。
 私が生きているのは、私のためであって、「公」のためではありません、一応ね。「一応」と限定するのはあとで説明しますね。
 そうして自分という「私」と「公」が区別できたら、そこからどれだけ「公」に貢献できるか考えましょう。なぜ?
 「公」に貢献することが、多様な家庭を支援する、つまり、あなたの隣人を助けるもっとも原理的な支えになるからです。
 公共のための貢献とはなんでしょう?
 家計から見れば納税です。ほかには?
 ちょっと意外かもしれないのですが、「公」に関わる一番の基本は「公」を制限するということです。正義や善を制限すると言ってもいいかもしません。
 正義や善を掲げてよい社会を作ることに、一種の快感が得られる一群の人がいるものです。それって一種の変態のような気がするのですが、まあとにかく、いるものです。そして彼らは一生懸命、正義や善を争います。
 普通の社会人は、それにはあんまり関係ありませんが、正義や善が「公」を乗っ取り、社会人の自由(代表が家計)を脅かすような怪物になることがあります。社会人としては、そういう怪物を作らないように、その権力を制限したほうがいいでしょう。
 そこで、権力に対抗するために最小限、権力に参加することが社会人に求められます。ありゃ、むずかしい話になってしまいました。
 でも簡単に言えます。簡単に言うと、政治と司法に関わるということです。具体的にはできるだけ選挙をすること陪審員になることです。
 繰り返しますが、よい社会を実現しようと意気込むよりも、「公」が怪物となって多くの人の自由を奪うことがないようにしような、というのが社会人の「公」への貢献の基本です。


4 社会人であることが強く問われる事態をたまに想像しよう
 すると、実際に社会人としてすることって、それほど多くはないんですね、となりそうです。
 そうです。そんなにありません。
 人生を楽しもうとか、自分で物事を考えようとか、まあ、そんなのは個人の自由の範囲の問題で、社会人として問われていることではありません。
 むずかしいのは、社会人として強く問われる事態があるときです。いや、こりゃまいったみたいな。
 3つ例を上げましょう。
 松本サリン事件という怖い事件がありました。オウム真理教という集団が松本で毒ガスをまいてその住民を殺害しようとした事件でしたが、当初はそう見られていませんでした。最初に毒ガスが撒かれていると河野義行さんというかたが気がつき、通報しました。それは社会人として公共への普通の貢献でもあったのですが、その先に恐ろしいことが起こりました。最初の通報者が犯人ではないかと警察は河野さんを疑い、マスコミもそれに従い、河野さんが犯人であるかのようになっていったのです。警察は河野さんの家宅捜索をして農薬を発見しました。河野さんの家から不審な煙を見たとの証言もありました。その農薬からサリンは製造できませんし、証言は間違いでしたが。河野さんは孤立しましたが、くじけませんでした。「公」が暴走しかかったときに、社会人はそれを阻止しなければなりません。その孤独な戦いを河野さんは社会人として強いられました。そういう事件がなければ、それほど社会から注目されることもない人生だったのではないかと思います。社会人であるということは、そういう理不尽な状況に追い込まれても、社会人として生きなければならないことがあるのです。
 二つ目の例は東北大震災のことです。4両編成の下り「石巻行きの快速電車」が野蒜駅を発車したとき震災が発生し、電車が止まりました。災害時のマニュアルどおり、車掌が50人ほどの乗客を3両目に集めて避難誘導しようとしました。しかし、ここで、この地域に暮らす一人の男性が避難をやめるように車掌と常客を説得しました。ほどなく大津波が押し寄せ、最寄りの指定避難所を覆いました。もし避難していたら常客の多数は死んでいたでしょう。ここに非常にむずかしい問題があります。「公」という観点からすれば、災害時のマニュアルに従うべきだったでしょう。しかし、その男性はそれが間違いであることに気がついたのです。「公」にとって正しいとされていることが、実際には「公」にとって明確に間違いであると確信できたとき、社会人はどうすべきでしょうか。必死に「公」に向かって声を上げ、説得をしなければなりません。いや、それを義務と思うべきかどうかもむずかしいところです。でも、こうした状況が、語り尽くされた「正義」を超えて社会人と「公」の関係の本質をあぶり出します。あなたがそうした場所に立たされることがあるかもしれません。
 三つ目の例は、ニューヨークの同時多発テロのときです。乗っ取られた飛行機がビルに突撃してとてつもない惨事となりました。4機の飛行機が乗っ取られたのですが、その一つユナイテッド航空93便では、乗客たちが命をかけて飛行機の奪還に乗り出しました。奪還には成功しませんでしたが、社会人たちは命をかけた戦いに繰り出したことは事実です。自分の命を救うという目的もあるでしょうが、自分たちが「公」と信じるものを守るために命がけの戦いをしたわけです。こうしたことをより延長して考えると、公務で命を失う人について、社会人がどう考えなければならないかが問われます。そしてそのことは、公のために死んだ人を追悼しようということにつながるでしょう。これもむずかしい問題です。
 社会人のみなさんの大半は、こうした難問に遭遇しないで一生が終わります。そして、そうですね、九割がたがは社会的に無名で終わるでしょう。普通の社会人というのはそういうものです。
 でも、そうした社会人の誰かは、「えええ?私がぁ?」と難問を突きつけられる状況になります。たまに想像はしてみましょう。そうした人を支援しましょう。
 というか、そういう無名の社会人が困難な状況のなかで「公」を支えてくれるおかげで、私たちは生きていけるわけです。みなさんの、誰かもそうなります。
 だから、いつも思うのです、ありがとう。
 
 

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2012.03.27

北朝鮮「人工衛星」打ち上げ問題の違和感

 来月に予定されている北朝鮮による「人工衛星」打ち上げ問題について、どうにももどかしい感じがするので、散漫になるかと思うが書いておきたい。もどかしいというのは、この問題をすっきり見渡せる視点が私の見る範囲では英米圏の報道にも見いだせないのに、遠目で見れば非常に明瞭な図柄が浮かび上がってくる奇っ怪さがあるからである。
 もどかしさにはいくつか違和感がある。まず感じられるのは、日本の市民に国防上の危機感が感じられないことだ。「そんなことはないだろう。報道を見ればNHKを筆頭に連日危機感を煽り立てているし、旧社会党残留濃度の高い民主党の政府も物々しい対応をしているではないか」というのはあるだろう。だが、日本市民として、いち生活者として、日本の安全が脅かされるといった空気は感じられない。そんな空気はないほうがましだというのはあるかもしれないが、日本市民は比較的安閑として構え、むしろ福島原発の放射能に危機感を感じているといった風情である。
 なぜなのか。「人工衛星」の落下物が日本領土内に落下する危険性があると言われても、さほどの危機感が日本の市民にないのは、おそらく、1998年、小渕内閣時代だったが、北朝鮮が通告無しに「人工衛星」テポドン1号を発射した事件のせいだろう。ミサイルは津軽海峡付近上空で日本列島をまたぐように飛び、第一段目は日本海にそして第二段目は太平洋に落下した。あのとき日本の市民は、事後になって知って大騒ぎをして、そしてそれからなーんだと内心思ったのではないか。つまり、慣れちゃったのである。今回の「人工衛星」の落下物については、さらに日本列島には落下しそうにもない。ほとんどの日本人が「関係ないじゃん」と思っているのではないだろうか。むしろ、政府の物々しい対応を違和感を持って見ているようにも、みえる。
 違和感というほどでもないが、1998年を思い出すとあのときは、ミサイルか「人工衛星」かという、率直にいえば愉快な議論があった。今回はない。あのとき国連安保理は、「ロケット推進による物体を打ち上げた行為に対し遺憾の意を示す」というジョークのような声明すら出した。が、今回は北朝鮮がどれほど「人工衛星」といってもミサイルでしょということになっている。人工衛星の技術はミサイルと同じだという話も出てくる。だったら日本の人工衛星はどうなのという話はこの文脈ではあまり聞かないが、まあでも、常識的に考えて、北朝鮮の「人工衛星」は普通にミサイルでしょ。
 違和感を列挙する。なぜ米国は騒いでいるのだろう。オバマ大統領は韓国まで出向いた。前回の北朝鮮のミサイルでもここまで騒ぐことはなかった。なぜなのか。大統領選挙で韓国系の票が欲しいというのを除いても、いくつか思うことがあるので、これも列挙すると、(1)北朝鮮の金王朝の新王には従来にないほどの危険性があること、(2)今回は非武装を理想とする平和主義の日本が脅かされるのではなく韓国領空を通過するので日本とは異なる韓国の国防意識を配慮したこと、(3)オバマ政権のヘマ、である。私は、そうこれは、オバマ政権のヘマの結果だと思っている。
 そういえばと、元外務相官僚天木直人さんのブログを見たら、案の定書いてあったが(参照)、米国はとうの昔に北朝鮮のミサイル発射方針を知っていたというのである。天木さんはこれをさも隠蔽された重要な情報だと見ているようだけど、いやそれ、わかってましたって。NHK解説委員ブログ「人工衛星"発射宣言の思惑」(参照)より。


先月の米朝協議で、北朝鮮は核実験やミサイル発射を一時凍結することを約束しました。アメリカはその見返りに栄養補助食品を支援することで合意しています。北朝鮮は、「アメリカと合意したのはミサイルの発射を凍結することであって、人工衛星を打ち上げるのは何ら問題ない」と言っていますが、アメリカだけでなく国際社会から反発を受けるのは当然、予想していたはずです。理解に苦しむところです。

 とはいえ曖昧に書かれていてわかりづらいし、他のネット上のソースがさっと見つからないが、この米朝協議で北朝鮮は「人工衛星を打ち上げるのは何ら問題ない」を米国と合意していたのだった。当然、これはミサイルだというのを米国もわかっていてこの協議を呑んだということである。
 その意味で、やるだろうなというのは米国側にはわかっていたし、実際にここまでこじらせたのは、端的に言えば、焦ったオバマ政権のヘマの一種だろう。もっともそれ以外に合理的な外交もなく、米国としても中国との何らかの手打ちの上で、ごっくんしたのかもしれないが。もうちょっと露骨にいうと、「人工衛星」かミサイルかの判定は実質米国が握っていたと言ってもいいのかもしれない。
 さて、いちばん大きな違和感。ミサイルのコースである。産経新聞「「衛星」発射 日本領空、通過の可能性 北、IMOに通報」(参照)の図を借りる。

 このコースを見て2つのことを思った。(1)どこを狙っているのか?、(2)この二段目落下地点の意味はなにか?
 1点目だが、狙いはオーストラリアである。むちゃくちゃな妄想と思う人も日本人にはいるかもしれないが、これ、普通にオーストラリアの人が見たらそう思うでしょと思って、オーストラリアの報道を見ると、普通にそう受け止めていた(参照)。
 ではなぜオーストラリアなのか。もちろん、米国の同盟国だからだし、時系列の文脈からすれば「極東ブログ:豪州米海兵隊駐留計画について」(参照)で触れたようにエアシーバトル(AirSea Battle)との関係があるだろう。
 2点目は、これはどう見てもあれでしょと思うのだが、その議論をメディアでもブログでも見かけないので不思議な感じがするし、であれば私の読み違いかもしれなが、それにしてもというのがあるので、まずこの図をご覧あれ。

 あらためて言うまでもなく第一列島線と第二列島線である。冷戦時代、西側が極東で共産主義を封じ込めるために引かれたものだが、近年では逆に中国はこれを突破することを軍事目的としている(参照)。
 今回の北朝鮮ミサイルの第二段目はこの第一列島線を意識するように落ちる。というか、明確に第一列島線が中国の軍事目的であることを表明している。
 え? 中国?
 違和感はそこだ。なぜ北朝鮮が中国の軍事戦略を先回って推進する必要があるのだろう。オーストラリアを狙うのも、これも対米国戦略と合致している。
 とすれば、このミサイル実験だが、(1)裏にいるのは中国、(2)北朝鮮が中国におもねっている、(3)米国が対中戦略で北朝鮮を陥れた、のどれかだろう。
 中国という文脈が出てくるなら、今回の実験を中国がどう見ているかだが、公式には、中国は北朝鮮のミサイル発射中止を要望している(参照)。現胡錦濤政権としては、北朝鮮の活動はご迷惑といったところだろう。ここまで露骨に東アジアの覇権を明示することは中国にもデメリットしかない。少なくとも、中国の国家規模の軍事戦略の一環に北朝鮮の核化とミサイルが組み込まれたということはなさそうだ。もっとも中国内の分子が北朝鮮と結んでいる可能性はある。
 するとどうなのか。基本線としては北朝鮮が中国に色目を使いながら軍事的な圧力をかけていると見てよいし、金王朝の新王にしてみると、先代を廃したとしても、その路線しかない。
 案外、オバマ政権はヘマしたわけでもなかったのかもしれない。
 最初から米国側で仕組んだということはないだろうが、北朝鮮にミサイル実験をさせることで、中国封じ込めの軍事体制をここで強化できるようになるからだ。少なくとも、沖縄の米軍基地を含め、日本を完全にその軍事体制に取り込む仕事がさくさくと進んでいるように見える。
 
 

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2012.03.26

トゥールーズのユダヤ人学校連続銃撃事件

 フランスのトゥールーズの住宅地にあるユダヤ人学校で19日、連続銃撃事件が起こり、教師1人と生徒3人が射殺された。狙われた対象からユダヤ人迫害かとも見られていたが、アルジェリア系の23歳のフランス人である容疑者モハメド・メラ(Mohamed Merah)は、自身を国際テロ組織アルカイダに所属していると主張した、とされている。
 この事件には事後から見ると前段があった。11日、フランス陸軍空挺部隊の軍人が至近距離から拳銃で殺害された。その際、容疑者は「お前は俺の兄弟たち(同胞)を殺した。今度は俺がお前を殺す」と叫んだとされている(参照)。また、15日、モントーバン空挺部隊の軍人3人が至近距離から拳銃で撃たれ、2人が死亡した。
 3つの事件では同一の銃で同様な殺害手法をとり、犯行に同一と見られるスクーターを使っていることから、同一犯であると見られ、そのことから逆に、トゥールーズのユダヤ人学校連続銃撃事件を反ユダヤ主義によるとする見方が後退し、一部ではオスロ事件と同じ文脈で見ようとする人もいないではないが、概ねイスラム過激派が関連したテロの文脈で見られるようになった。
 フランス警察は、容疑者が利用していたパソコンのIPアドレスから住居のアパートを割り出し、21日、包囲後に捕獲を目指して突入した。が、失敗し、32時間にわたる包囲戦の後、メラ容疑者を射殺した。
 22日、アルカイダが声明発表に利用するホームページで「ジュンド・アル・ハリーファ(Jund al-Khilafah)」は、「このフランス人はシオニストの十字軍の基礎を揺るがす作戦を実行した。われわれがこれらの作戦を実行した」「(イスラエルの)罪が、罰を免れることはない」との犯行声明を発表した(参照)。
 モハメド・メラ容疑者が射殺されたことで司法による事件解明は不可能となったが、この青年は当局にとって未知な人物ではなかった。彼は少年時代から窃盗もあり服役もしていた。アフガニスタンのカンダハルで逮捕され投獄後フランスに送還されたこともある(参照)。米国ではテロ防止を理由に航空機への搭乗を禁じる「No Fly List(商業航空機搭乗禁止リスト)」にも上がっていた(参照)。
 さて、この事件をどう見るか?
 この事件をどう見るかについて、さまざまな意見がある。先にも述べたように、反ユダヤ主義、オスロ事件でよく語られたヘイトクライム、若者暴動などにも見られるフランス社会の病理、さらには、こうした犯罪を抑制できなかったフランス当局及びサルコジ大統領の手落ち(ちなみにこの視点はフランスでは右派の視点)、などなど。
 意見は多様に見えるが、簡単に言えば、論者がそれぞれ自分の都合のよい政治的な文脈に引き寄せて、対立者をバッシングするためのネタにしているだけとしてよいだろう。特に、今年はフランス大統領選挙があるのでその文脈になんとか持ち込みたいというのは、同情できないでもない。
 私はどう見るかといえば、当初、大方の見方のように反ユダヤ主義かなと懸念したが(参照)、全体像が見えるにつれ、これは普通のイスラム過激派のテロであると思った。
 騒がれたのは、トゥールーズの閑静な住宅地といった地域で発生したため、普通のフランス人としては、1995年のリヨン地下鉄テロ(参照)を思い起こさせる、我が身に起こる惨事可能性のように思えたからだろう。
 だが実際の犯罪だけを取り出してみれば、イラクではよく起こっていることだし、「アラブの春」と称されるエジプトで進行中のキリスト教徒殺害(参照)にも似ている。英国でもテロは起きた。現在の世界なら、治安の状況によってはどこでも起こりうる事件の一例ではないか。米国では2月に自爆テロ未遂もあった(参照)。2009年のノースウエスト航空機の爆破未遂事件のウマル・ファルーク・アブドルムタラブ(Umar Farouk Abdulmutallab)容疑者も事件時には23歳の若者だった。
 今回の事件で気になる点はといえばむしろ、そのメディア性ではなかったか。メラ容疑者は犯行時にその模様を動画として記録するための装置を持っていた。sengoku38氏のようにYouTubeにアップロードとまではいかないにせよ、インターネットに公開するつもりでいたのだろう。
 正義を掲げた残虐を多くの人とメディアを通して分かち合いたかったのだろうし、それが望めるものと確信もしていただろう。そこには明確な狂気の姿があり、捏造までしてツイッターなどで残虐な物語を流す人々との狂気のグラデーションが存在する。
 
 

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