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2012.12.18

[書評]フランクル『夜と霧』への旅(河原理子)

 cakesに連載している「新しい「古典」を読む/finalvent」の「【第6回】夜と霧(ヴィクトール・E・フランクル)」(参照・有料)を書いたおり、「夜と霧」についての書誌的な情報をまとめるのに、それなりに苦労した。日本語版の旧版は高校生以降読んでいたが、新訳は読んでいなかったので読み返した。ドイツ語が読めないのだが、幸い、英文献での資料が多数あり全体像は見えてきた。英語版も版の差を気にしながら二冊読んだ。

cover
フランクル
『夜と霧』への旅
河原理子
 本書、「フランクル『夜と霧』への旅(河原理子)」(参照)を読んだのはcakes書評の後なので、先にこれを読んでいたら、だいぶ書誌情報をまとめるのが楽だっただろう。私自身調べたが書評には書かなかった話が、本書には多数含まれているので、「夜と霧」を人生のともの書籍としている人は、一読されることをお薦めしたい。
 書誌的な情報で、原書に関連することや英書に関連することで、新奇に知った事項は本書にはなかったが、現在の定版の原書に二部として付されている哲学的戯曲「ビルケンヴァルトの共時空間」について意外なことが一つあった。邦訳の存在である。この点については新訳の池田香代子さんにツイッターで伺ったおり、邦訳がないとのことで残念に思っていたが、出版はされていないものの、2011年夏に邦訳が試みられたようだ。この部分はオリジナルを尊重して、現行の新訳に増補してもよいようには思う。劇として実演されてもよいのではないだろうか。
 書誌的な情報以外に、「第二章 フランクルの灯 読み継ぐ人たち」では、日本で「夜と霧」を読み継いでてきた人や、また、昨年の震災以降、本書を希望の杖としてきた人の話がルポ的にまとめられていて、読み応えがある。著者はAERAをへて朝日新聞編集委員をされているらしいが、ジャーナリストらしい手際が感じられる。
 「夜と霧」の読み込みに関連して、cakesの書評ででは簡素な指摘として、ブログのほうで指摘した「「夜と霧」の謎: 極東ブログ」(参照)件についてだが、「ダッハウの虐殺」については、本書では、ホフマン所長についての言及に留まっていた。
 著者もこの問題については調べてある程度知っていると推測されるが、本書の意向ともそぐわないという面はあるにせよ、もう少し踏み込んで書かれてもよかったかもしれない。
 もう一点、ティリィの妊娠については、私の読み落としでなければ言及はなかったように思われる。おそらくこの件についても著者の心に引っかかる部分ではあったと推測されるのだが。
 本書は書名が「フランクル『夜と霧』への旅」となっているように「旅」の記述や関係者への取材も読み応えがある。
 意外ということでもなかったが、著者は、フランクルの収容所体験をアウシュビッツ(現オシフィエンチム)のものとして読んでいたと述懐されてるが、旧訳を読まれたにそういう印象を持った人も少なくはないだろう。この点について、霜山徳爾氏訳には各収容所の簡素な説明があるものの、その後の研究を含めて、特に、収容所間での実質のコミュニケーションの実態なども含めて、地誌的全体像が見渡せる解説が読みたいところではある。
 著者はまた本書執筆を契機に、フランクルのロゴセラピーを学ぶようになったともあるが、その体験の深化もまた別の書籍で書かれることを期待したい。
 
 

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コメント

ユダヤ人が大虐殺された理由。もともとキリスト教とユダヤ教とは仲が悪かったから。キリスト教にとって、ユダヤ教は脅威だった時期があった。新約聖書そのものが矛盾している。イエス・キリストは「神の子」であると同時に、「ユダヤ人」でなければならなかった。この『ユダヤ人であらなければならなかった』という理由は大きい。そもそも聖書は、もともとユダヤ人のためにあるものだった。だから、イエス・キリストもユダヤ人であることを強調している。だけど、神の子。キリスト教にとって、ユダヤ教は敵であり、脅威でもあった時期があり、何よりイエスを裏切った民族だ。だから、古来よりユダヤ人は嫌われてきた。ヒトラーがユダヤ人を虐殺したと言っているが、キリスト教がユダヤ人を迫害・虐殺してきた数のほうが多いはずだ。事実、ヒトラーの部下ヒムラーは、「どうせ戦争に負けて裁判になって死刑になるのがイヤだから」という理由で、当初はユダヤ人を国外追放する計画だった。ただ、隣国が「来てもらっちゃ困る」と拒否したから、大虐殺したに過ぎない。日本の知識人は、ユダヤ人大虐殺を問題視する連中が多いが、日本だって同じだろ、と思う。今じゃ中国人が次々に日本上陸を果たしている。領土も仕事も金儲けまで。今じゃ銀座なんて、中国の富裕層で成り立っているし、池袋なんて日本の弁護士が中国人専門のビジネスをやっている。バカな日本人はそういう現実に気づかない。みんな思っているだろ、「日本に中国人が来るんじゃねーよ」と。だけど、少子化だし、ビジネスも通貨も、もはや中国なしでは厳しいから、表立って「来るんじゃねーよ」とは言えない。フランクル『夜と霧』が地震の被災地の「希望の光」で読まれているらしい。フランクルは、「結局、私が生き残れたのは、本の出版と、(死んでいるかどうかは関係なく)妻のことを考えることで何とか生き残れた」だけに過ぎないと書いている。生き残れるかどうかはマッチョかどうかは関係ない。生きなきゃならない理由があるかどうか、それだけだと書いている。この現代に、しらけきった日本の現代に、「生きなきゃならない理由」なんか見いだせるのか。「神は死んだ、我々が殺したんだ」(ニーチェ)。日本はもはや中国の奴隷になった方が良い。たかが数人の拉致された人間を武力で解決できないレベルの人間が、「安倍新内閣に景気回復を期待する」。笑止。他力本願じゃなく、自立で立ち上がれよ。『夜と霧』の次の舞台は日本だ。

投稿: 大東亜 | 2012.12.19 16:00

すみません。夜と霧とは少しずれコメになってしまうかも知れません。
「ワンス・ア・イヤー」書評読みました。・・・確かに、その通りなんですよ。ここでどこまで書いていいものかちょっと考えてしまいますが、林真理子の、いや多くの「負け組」の女にとって結婚と言うのは復讐戦です。
だけども、とある友人(ちなみに膨大な借金を、自力でほぼ返済して結婚に辿り着いた子です)が、「結婚後の林真理子って、本当に書きたいことを書いてない気がする」とぼそっと言うんです。虚をつかれた気がしました。
女にとっても、特に文学者にとっての結婚と言うのは「墓場」の側面があります。だけど、林真理子は結婚を「幸せのゴール」として位置づけてしまったがゆえに、夫婦の地獄が本当には書けてない気がするんです。(最近の作品は、ちょっと違うようですが。)
ここで何とか、話を「夜と霧」と結びつけると、昔finalventさんがどっかで仰っていたように、文学って実存の不安を書くものだと本来思うんですけど、林真理子は「結婚」というものの位置づけのあり方に成功し過ぎたゆえに、なんかそこから離れているように思えなくもないです。結婚したから私はもう不安ではないのよ、みたいな。いや、無学な「負け組」の人間の拙い意見ですけれども。

投稿: ジュリア | 2012.12.20 22:21

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