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2012.11.08

[書評]式の前日(穂積)

 以前ネットで話題になって、おそらくそのせいだと思うけど、アマゾンなどでもしばらく品切れで、今見ると数日待ちの状態。アマゾンの数日待ちは当てにならないので放置し、いずれ読む機会があるだろうと思ったが、昨日出先の書店で平積みだったので買って読んだ。

cover
式の前日
(フラワーコミックス)
 最初にお断り。
 以下、ネタバレがあります。ネタバレと言うべきなのかという、それ以前の問題もあるけど、このコミック未読の方は、以下を読まないほうがいいかもしれません。
 それと、この作品を諸手で絶賛している人がいるのは知ってます。けなすとか評価が低いということではまったくありませんが、絶賛以外の感想は許せないというタイプの人は以下、スルーしてください。また帯に「”泣ける”読み切り6篇」とあるのですが、私はそうは読んでいません。
 正直にいうと、そう読むことが評価にならないようには思っています。

  *  *  *

 作者についても、またこの作品の周辺的な話について、デビュー作品集という以外、私は何も知らないので、その意味では、素手で読んでみた。素手でというのは、私は漫画読みではないので、そういう視点はかなり弱いというのと、普通に文芸的な、あるいは映画的な作品として読んだという意味である。
 今「映画」と言ったが、この作品、特に表題作「式の前日」は普通に映画になるだろう。もちろん、16ページのそのままが映画になるわけではなく、また、巻末の12ページの「それから」も含め、さらにいくつかのサブエピソードをつなげる必要はあるが、きれいな映像に仕上がるだろう。ただし、それにどれほど現代性があるのか、あるいはその映像のなかに現代性をどう盛り込むのかという点では、映像作家は悩むだろうし、映像化された作品は、コミックの「仕掛け」とはかなり異なるだろう。
 「仕掛け」。そう言ってよいかも、悩むところだ。印象的な表紙がその仕掛けの一部なのかも曖昧である。表紙では、端座した若い男女が、ご飯と味噌汁の椀を持っていて、その中央に表題の「式の前日」とある。さては、式の前日の新婚の二人と見るだろうか? この表紙からは、なにが読み取れるだろうか。よく見ると、"The wedding eve"とあり、その英語の語感を持った人なら、かなりの推察は効くだろう。
 表題作「式の前日」は表紙の二人と思われるうちの若い男が縁側で昼寝しているシーンから始まる。ナレーションに「明日、結婚する」とある。女がやってきて「寝てるの?」と言う。立ちながら「寝るならむこうで寝なよ」と呼びかける。
 家は「お縁側には陽がいっぱい」の昭和30年代の趣向で、男女の会話には親しみから長い付き合いが感じられる。この家は何で、この二人の関係は何かが、すぐに問われるようになっている。この時点で、ただの風景のように見えながら、上手に違和感を残している。新婚の二人の前日とは思えないからだ。
 二人の歳差はどのくらいだろうか。絵からは同い年くらいに見える。歳差があるようには見えない。が、明日のドレスを女が試着するというシーンで、女が「……やっぱり、やっぱりパフスリーブにすればよかっ……? あっちのほうが二の腕細く見えた気がする」と言う。二の腕を気にする女は30代であり、それを気にしない20代で結婚したかったことが察せられ、画像の女の年齢感が30代にずれるが、ティーシャツの男の年齢はそれに比例しない。男は年下である。というような読みもできそうなシーンの重ねから、男女は夫婦ではなく、姉弟なのだと暗示される。
 ウエディングドレス姿の姉に弟が「おとーさん泣くよ。こんなもん見たら」と言う。父は不在であり、その夜のシーンで女は仏壇に手を合わせ、「お父さんとお母さんに報告」と言う。母も死んでいる。そして仏壇の据え付けられた家は父母の家であることがわかる。
 さりげなくだが、謎解きのように姉弟の関係を映像的に展開していく。それは一つの「仕掛け」と言ってもよいかもしれないし、その謎解き風の展開はさらに続く。
 しかし、彼らが新郎新婦ではなく姉弟ということはさほどの謎でもないし、さほどの仕掛けでもない。むしろ問いかけられているのはその仕掛けと読みではなく、笑いと涙の、野暮な言い方だが、記号的な意味のほうである。
 姉弟で暮らす最後の晩ということで居間で並んで寝るとき、姉は泣く。また、翌日、その家を旅立つタクシーでまた泣く。
 その涙の心情の意味が、この作品の核のように見える。それは、ごく単純に言えば、姉弟の愛情であり、表面的には姉から弟への愛情である。父母がいるなら、親が子に注ぐべき愛情とも重ねあわされている。母代わりの姉ということだろう。そして父代わりの弟でもあるだろう。
 これがまずこの作品の感動の核なのだろうというところで、私は、その心情に寄りそう部分と、「うぁ、これはやってらんない」と思うアンビバレントな状態で、かすかにパニックになる。こうした心情をすんなりと受け入れるものだろうか。
 私には姉はない。親友には姉がいてその心情をなんとなく察してきたので、姉弟の関係にはこういうものかとも思うし、吉本隆明の『共同幻想論』を持ち出すまでもなく、日本のようなアジア的心性の古代国家に特有な、神話的な王権の構造にも関連することはわかる。
 それらを透かしてみるから違和感なのかというより、私にとってこういう愛情の心情の純化というものそれ自体に、ちょっと耐えられないな、というのがある。これが現実なら「とんでもない嘘ですよ、奥さん」とおどけたくもなる。30歳過ぎの姉はもっとどろっとした女を隠しているはずだ。だが、そう思わせないために、純化のために、「死」が作品の中央に大きく置かれている。
 本書の他作品でも一貫しているのは、この「死」の側からの視線とそれが見せる光景である。父母のような愛情と同化した死の視線のなかで、人の心情が姉弟の淡いエロス的な含みをもって純化される。それがテーマでもあるだろうし、そうしたある種の淡いロマンによってこれらの物語が心情的に支えられている。
 私は、個人的な嗜好にすぎないのかもしれないが、こういう淡い姉弟愛のような死の視線が好きではない。死はもっと個人の絶望を型どり、その存在を一人の異性に性的に向き合わせるような情熱になるものだと思っている。いや、それは単に性癖とでもいうだけのことだろうか。
 「式の前日」に戻ると、しかし、この作品のもっとも重要な部分は、姉の二度の涙、そしてそれを心情的に受容する弟の心情と関連しながらも、むしろ、記号としての「笑い」のほうにある。
 式の手順の話のなかで、姉はちゃぶ台にうっぷしたまま弟に「笑ってね、ちゃんと……明日」と言う。姉はそのあと顔を上げて笑いを見せる。また最後の晩となる食事でも笑いを見せる。映像からは、笑いを見せるというよりは、弟の視線のなかで、大切なものとして姉の笑いが受け止めらている。そこに弟の微笑みはあるが、弟の「笑い」は存在しない。なぜなのか? そこである。
 「式の前日」で弟が、姉のように「笑い」を見せたとき、この作品の心情は成立するのだろうか。
 おそらくそうではない。
 姉弟の愛情が、弟の側から個人の愛情として確立するには、つまり、死の視線(死者としての親の心情の視線)から離れるには、弟の側の個人の愛情の「笑い」が必要になる。その微妙な余白のなかで、この作品は中途半端に止まっている。
 その解決は巻末の「それから」という後日譚に引き継がれる。その間にあってシチュエーションの異なる短編はその、弟の「笑い」を引き出すまで、暗黙の心理的な過程になぞらえられている。そのあたりの構成は、意図されたものかわからないが、作品集としては見事だ。
 死の視線のなかで姉弟の淡いエロス的な含みをもって純化されたものは、「それから」において、猫の目から「もっとも私にとっては死のうが生まれようがさして差違はない。自然の理にすぎんがな」と語られる。この猫の仕掛けは、漱石の「吾輩は猫である」と似てまったく異なるもので、猫に仮託された心情ではなく、風景がそのように死の語りを呼び寄せたものである。
 作品のなかに執拗に置かれている死が暗示するものは、作者の無意識を傷つけている死の体験であるかもしれないが、むしろそういう理解より、作者にとって、姉弟の淡いエロス的な関係のなかで疎外された女の性だろう。
 卑近にいうなら、女は、なぜ結婚しなかったのか、あるいは結婚に妥協したのか、その後ろ髪引かれる悔恨のようなもののを死の鏡で美化して見せたなにかである。
 だが作品集の総体としては、その死の相貌が、人間の心情の純化といった物語ではなく、人を離れた無意味な自然に押し戻され、それから人が笑い合う世界に引き戻されていく。そこにむしろ作品集の価値がある。
 それは「10月の箱庭」で死が語る「誰かに愛されようとしなくていい。まずあんたが誰かを愛せばいい」のなかでも暗示されている。
 アジア的な神話的な自然性から愛の意志に立つまでの、孤独な個人の心情に至るドラマを、まだ日本人は必要としているのだろうか。しかも、若い世代がそれを。
 
 

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コメント

これ、実際読んでいないので何とも言えないのですが、たぶん自分はこういう話(昔だったら「晩秋」?みたいな映画)を割合すんなり感動してみていましたが、「姉と弟」といういきなり卑近な話になると(と、言うのも私には弟がいるので)急にリアルに自分の感性との差がわかってしまい、要するにこういう「アジア的な神話的な自然性」を自分は全部誤読してたなぁと思いました。・・・つまり勘違いして感動してた。
そういえばこの間、ネットで姉弟もの(エロ)を読んでこれはやってられないよと思った感想になんとなく似ているかも。「神話的な自然性」から当然のように近親相姦に滑り込んでゆくのをロマンスにしてしまうことに、全然タブーと言うか、現代的違和感を感じないのが理解できないなぁと。

投稿: ジュリア | 2012.11.09 13:07

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