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2012.11.28

[書評]20歳の自分に受けさせたい文章講義(古賀史健)

 これはすごい本を読んじゃったなというのが読後、第一の感想。文章技術の本は古今東西いろいろあるけど、ここまで「文章を書く」技術の手の内を明かした本はないんじゃないか。ライターの企業秘密だろ。

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20歳の自分に受けさせたい
文章講義
(星海社新書)
 この本を読んだことは秘密にして自家薬籠中の物としたいな、というのが第二の感想。そんなケチなこと言わずに、すごい本は紹介したらいいじゃないかが第三の感想。もう一つ加えると、わかりやすく書かれているけど、この本を理解することと、実践することは、ちょっと別かもしれないということ。
 難しい本ではない。表題に「講義」とあるが、講義録をもとに整理して書かれた本といった印象だ。後書きで知ったが、「文章の書き方」といった内容の長いインタビューの過程で「それ本にしましょう」ということで出来た本らしい。形式を変えて演習を付けたら文章講座の教科書にも使えそうだ。
 この本を私が知ったきっかけは、cakesに連載されている「文章ってそういうことだったのか講義」(参照・有料)だったが、連載を読みながら、最初はふーんと思っていた。率直に言うと回を重ねてもう連載も最終回になったが、「ふーん」の先が落ち着かない。そこでもとになっている本書を一気に読んでみたら、ようやく、がっつんと来た。連載と書籍とネタは同じだし、連載のほうが要点がまとまっているのに、なんでこの違いがあるのか。書籍というのは、依然パッションを伝える媒体なのだろうか。
 言い方はすごく悪いのだけど、売文屋の文章技術に徹している点も感服した。本屋さんに並べられている小論文の書き方とか、大学の先生の余技で書かれた文章技術とかではない。あの手の文章技術は、ブログのネタとかでしばしばリストにまとめられている。文章は短くで書け、受け身を使うな、論理的に書け、主語を省略しない、係り受けは明確にせよ、などなど、寄せ集めの豆知識といったもの。
 本書は、詳細な文章技術も紹介しているが、まずは文章を書くというのはどういうことかという原点から始まり、それは「気持ちを文章に翻訳することだ」と展開する。そのプロセスは「翻訳」として捉えられ、「考える」という過程なのだとも説かれる。
 売文屋というのは、実は文章を売るのではなく「考え」を売るのである。自分が「考えたこと」「理解できたこと」、それを売る。そのために売れる形にする。その形が文章なのだということを明かした書籍は、ああ、言っちまったな感があるが、考えというのは、伝えてこそ力になりうる。
 具体的にどうやって?
 いろいろヒントがある。気持ちを翻訳するには、まず誰かに語ってみたらいいともある。相手がいないなら、表題のように10歳若い自分を思って語ってごらんとも。また、想定した一人に伝えるように書きなさいとも。とにかく書かなければ始まらない。

 きっとこれからますます「書く時代」「書かされる時代」になるだろう。メール、企画書、プレゼン資料、謝罪文、就活のエントリーシート、ブログ、SNS、そして今後生まれるだろう新しいコミュニケーションサービス。われわれが文章を書く機会は、この先増えることはあっても減ることはない。

 重要なのは、書くことが売文屋に限定されず、新しい時代で誰もが必要とする「考える技術」となったことだ。
 私がいる、あなたがいる、存在する、ということが、気持ちや考えを形を通して伝える形の表現に変わっていく時代になる。文章の形が「私」という存在であり、「あなた」という存在になる。熾烈といえば熾烈な世界だ。
 ところで売文技術がここまで公開されたら売文屋は食えなくなるのか。それ以前に著者のネタが底を尽いただろうか。著者は技術を書き尽くしたと言ってのける。

 それでもなお「書く」というプロセスを通過した人間とそうでない人間とでは、対象についての理解度がまったく違うのだ。おそらく今後のぼくは、本書の執筆を通じて得た知見を元に、これまでよりずっと面白く充実した文章を書けるようになるだろう。ぼくが文章を”武器”呼ばわりをしているのは、そういうことである。

 書く・考える、そのプロセスを、文章という目に見え、他者に読まれる形にした著者は、そのことで技術をいっそう深めたという。自負はそのまま受け取ろう。
 グルジェフという神秘家の箴言に、記憶によるので正確な引用ではないかもしれないが、「あなたが成長したいなら、誰かをあなたのレベルにまで引き上げなさい」というのがあるが、著者の自負に見合う分、読者の文章技術も上げるように実践が求められる、というわけだ。
 
 

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2012.11.27

[書評]α版 『ご冗談でしょう、ファインマンさん』

 cakesの連載書評8回として今日『ご冗談でしょう、ファインマンさん』が掲載された(参照)。
 この機に同書以外の本や彼の時代の本などもいくつか読み、原爆開発の歴史も含めて、いろいろ考えさせられた。そうした思いをうまくまとめることができるのか、書きだしてみると意外に難しいものだった。考えている時点の注目面が前に出てしまう。小林秀雄ではないが、書かないと考えは見えてこないものだということでもあり、何か書いてみるなかで、一つの観点でまとめたのが、このα版の原稿である。が、ボツとした。編集部からのダメ出しではなかった。書いてみてからこれは違うという違和感に苦しめられ、現在の掲載原稿に改めた。
 そんなもん公開するなよというのも道理ではあるが、メイキング映像ならぬメイキングcakes書評の舞台裏の一コマとして、ご愛敬くらいに受け取ってほしい。無料のブログを書くことがご愛敬というつもりはなく、有料対無料というつもりでもない。この基調はこれで書いてみたものだが、cakes書評では自分なりの連載ということの内的なテーマ感覚を持ちたいので、そこからは反れるようにも思っただった。

  ※  ※  ※  ※

書評『ご冗談でしょう、ファインマンさん』α版

 パズルと人間知性の限界をテーマにしたアニメ作品『ファイ・ブレイン 神のパズル』で、主人公・大門カイトは幼なじみの井藤ノノハにいつもこう叱られる、「このパズルバカ!」。明けても暮れてもカイトはパズルに夢中。ほかのことをしないからだ。そんなパズルバカでも、量子電磁力学の発展に大きく寄与したとして1965年、朝永振一郎、ジュリアン・S・シュウィンガーとともにノーベル物理学賞を受賞したのが、リチャード・P・ファインマン(Richard Phillips Feynman)である。
 マヤ文字の写真も彼にはパズルに見えた。せっかくハネムーンのメキシコ旅行なのに、ホテルにこもって現地購入したマヤ文字書籍の写真解読に没頭。愛想を尽かした新妻はマヤ遺跡を一人見て回っていた。
 ファインマンはマヤ文字が解読したかったのだろうか。そうではない。書籍にはスペイン語の解説も付いていて、すでにその部分は解読されていたはずである。なのに彼はあえてそこを紙で覆ってパズルにした。パズルと見たからには自分で解かないと気が済まない。
 ファインマンは我流でマヤ文字を解読していった。規則性のある数字に着目したのもパズルバカならではのこと。新婚旅行を終えてからもマヤ文字の数字解読に熱中。そして、わかった、金星周期だ、月蝕周期だ。満足いくくらいまで解読できてから、覆っていた紙を開き、スペイン語の解説を読んだ。なーんだ、でたらめなことが書いてある。ファインマンの解読のほうが正確だった。
 この愉快な挿話は本書『ご冗談でしょう、ファインマンさん』()にある。翻訳の文庫本だと下巻の「物理学者の教養講座」である。ほかにも知恵の輪を渡されたかのように、彼は手の先に鍵があったらこじ開ける。ダイヤル錠なら数学的に解く。この話は上巻の「二人の金庫破り」にある。あきれたパズルバカだが、彼の専門、物理学でも本質は同じである。
 量子力学も彼にとってはパズルである。いや、だれにとってもそうかもしれない。たとえば有名な「二重スリット実験」という問題がそうだ。ユーチューブにわかりやすいアニメの解説もあるが、簡単に説明したい。

 昔のテレビに使われたブラウン管の後部には電子銃があり、そこから発射された電子がブラウン管の画面に当たると像を結ぶ。ブラウン管は電子の流れを磁力で制御するのだが、二重スリット実験では、電子を縦に並んだ二重のスリット(細い縦の隙間)に向ける。どうなるか?
 スリットが一つであれば、スリットをすり抜けた電子が縦の一本の線を描く。するとスリットが二つ並んでいたら二本の縦線が描けそうだ。が、実施すると縦縞模様になる。なぜか。たくさんの電子を同時に当てたから飛んでいる最中に干渉したのだろうか。では、電子を一つずつ当ててみる。それでも縞模様になる。一つの電子が同時に二つのスリットを抜けた。
 なぜ電子がそのような不思議な動作をするのかについてはわかっていないが、この現象、つまり量子力学的な現象をどう表現するかについては、3人の物理学者による3つの解答があった。ハイゼンベルク、シュレディンガー、ディラックである。ファインマンはこのパズルを「量子力学の核心(the heart of quantum mechanics)」と呼び、自力で挑んで4人目の解答者となった。
 ファインマンは、二重スリット実験のような量子力学的な現象に対して、粒子はそれが一粒であっても、あたかも多数の粒子のような確率分布を示すのだから、粒子の動きは「可能性の総和」として考えられるとした。そこで無数の経路を総和したらよいとした。総和の計算は積分を使うので、「経路積分」という手法を示したのである。これが若い日のファインマンの物理学業績となった。
 ファインマンは後年『ファインマン物理学』という教科書も書いているが、その『量子力学』では二重スリット実験を例にして、量子力学の不思議さを解説している。多少なりとも物理学に関心がある人なら、ファインマンと聞けば、経路積分とファインマン・ダイアグラムを思い出すだろう。
 そうした知識があると、上巻「アマチュア・サイエンティスト」の話もいっそう面白い。ファインマンがプリンストンで暮らしていたころ、屋内にアリがぞろぞろとやってきた。彼はその経路がどのように形成されるか、いろいろ実験して解明し、ついにアリを追い出す独自の手法を考えついた。この人、アリでも電子でもパズルのように見えるなら解きたくなってしまうのだ。
 飽きもせぬパズル的な好奇心は女性にも向かう。いかにしたら美女とやれるか?パズル的に突き詰めていく。やるには、優しくするか、おごってみるか。
 それ以前に、そもそも美女とやることの解答なんてあるのだろうか?ファインマンが解法に行き詰まってその道のプロから手口を伺う話が上巻「ただ聞くだけ?」にある。では解答。その章題どおり、ただ聞くだけ、なのだ。若い日のファインマンはバーに美女をさそった。


 バーに入って腰を下ろそうというとき、僕は思いきって、「飲み物をおごる前に聞きたいことがあるんだけどね。今晩僕と寝てくれるかい?」と聞いてみた。
 「ええ。」
 驚いたことに、あのレッスンはごく普通の女性にも、ちゃんと通用するのだ!

 すごいな。私も同席した女性に「今晩僕と寝てくれる?」と聞いてみたい気がしてきた。できるのか?ええと、ここで私は本書のタイトルを思い出す、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』。
 本書には、物理学がどうのとか、ノーベル賞が学者がどうのという以前に、まさに「ご冗談でしょう、ファインマンさん」と言いたくなるような話がてんこ盛りになっている。気が沈みそうになったとき、ふっと開けば快活に笑うことができる。
 ファインマンは量子力学のように不思議な人だった。合理的な物理学者として、えせ科学や気取った文化人へを嫌悪したが、不合理な神秘志向も持っていたことが本書からうかがえる。
 オカルトと言ってもよいだろう、ジョン・C・リリー(John Cunningham Lilly)との交友の挿話からは、感覚除去タンクによる幻覚に関心を持っていたことが語られる。そこにロバート・モンロー(Robert Monroe)の名前はないものの体外離脱体験への関心があった。モンローと関係するエサレンも本書に登場する。また、ファインマンが関係した演劇で、小道具に象牙を借りるという下巻の「パリではがれた化けの皮」では、ワーナー・エアハード(Werner Erhard)が登場する。邦訳では「神秘思想家」と訳注が補われているが、いわゆる人格改造セミナーの原点を生み出したグル(カルト的指導者)である。
 ファインマンは、いかがわしいニューエイジ運動との関わりを「カーゴ・カルト・サイエンス」と呼び、その章題のついたカリフォルニア大学卒業式辞では「えせ科学」として批判している。だが、そこに落ち着くまでの軌跡には複雑な心情があった。
 愉快なファインマンさんと不合理なファインマンさんは確率的に分布している。その観点から『ご冗談でしょう、ファインマンさん』を再読すると、人生の不合理な痛みを越えるための笑いの意味と、自分という存在のパズルを自覚する。ファインマンはそのパズルも解いてみせたのだった。
 
 

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2012.11.25

Kindle Paperwhite用の縦書き本を作ってみた

 Kindle Paperwhiteが来てから、日本語用のブックリーダーとしていくつか本を読んでいるのだが、そうだなあ、せっかく日本語だから縦書きの本を作成してみるかなとやってみたら、なんとなくできた。といっても、執筆からしたというのではなく、既存の著作権フリーのテキストをmibiファイル化したというだけのことだ。その意味では、ただ変換したというだけのことが、やってみたら存外に簡単に、でもないか、でもそう難しくもなくできた。元ネタがあるんだから、難しいわけでもないとも言える。

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Kindle Paperwhite
ライト内蔵の電子書籍リーダー
 元ネタはプロジェクト杉田玄白にある邦訳の「八十日間世界一周」(参照)である。原作はフランス語なのだが、この翻訳は英訳からの重訳になっているので要注意。原作も英訳も現状著作権が切れているし、英語のほうはネットにごろごろしているが、邦訳はないようだったので、作ってみたと。ああ、英訳も二つくらいバージョンがあって、この邦訳は軽い感じの訳のようだった。
 元ネタはα版のベタなテキスト。校正してあるのかどうかわからない。まして翻訳チェックはされているかもわからない。ざっと読んだ範囲では重訳という点を除けばいいような気がする。
 まずEpubから作る。EpubはHTMLベースなんで、表題をh1要素にして章題をh2要素にして、縦書き用のCSSを加えてEpubにまとめる。ベタテキストは横書き用に出来ているので、これを、よっこいしょーいち、と、縦に起こす(縦書き変換)必要も多少あり。この手順については、詳しいサイトを探して検討してくださいな。
 で、理論的にはこれでいいかなと思って、Epub表示させると横書きに戻るので、なんじゃらほ、とちょっと苦戦したのだが、ようするにビューアのほうが対応してなかったようだ。HTMLに戻してChromeで表示させると縦書きになっているから、まあ、いいんだろう。
 次にEpubからKindleのMobi変換だが、まいど英文献でやっているように、Calibre使ったらベタに横書きのmobiとあいなりました。指定が間違っているのかといろいろやってみたし、実機チェックもしたけどうまくいかない。
 こまったなとネットの情報を探すとコマンドラインのmobiコンパイラーがあるのでそれで試すと、きちんと縦書きになる。Calibreの問題じゃん。
 できたmobiファイルでもいいのだが、余白の調整ができてなくてかつかつなので、ちょっと読みづらいなと思って、コンパイラーをいじって苦戦。実機チェックも難儀。なので、mobiビューアはないのかと探すとAmazonが出しているので、こりゃええわということでチェックしていたのだが、ま・て・よ、このビューア(Kindle Previewer)、そのままEpubで読めるんじゃねーのとやってみると日本語でおk。
 それどこから、ビューイングのためにmobiの中間ファイル作っているじゃないですか、というか、これが出力ファイルでもあるので、なんのことはありません、うさぎさん、そのままこのmobiファイルでいいじゃないですかということで、できたのが、これです。無料でどうぞ。

Kindle Paperwhite用縦書き『八十日間世界一周(プロジェクト杉田玄白)』(参照

 これをKindle Paperwhiteに入れます。僕はCalibreで入れたけど、直接でも入ります。詳しくはなんかの解説を読んでくださいませ。

 入りました。表紙はありません。あえて付けなかった。叩くと開きます。セサミぃ。

 まあ、いいんじゃないでしょうか。
 というか、ざっと見ただけで、エラーはあるかもしれないけれど。
 表紙は簡単に付けられるけどあえて付けなかったが、目次のほうはちょっと付けようか悩んで付けてない。大した手間ではないけど、まあ、いっかぁという感じ。というか、いろいろチェックするのがめんどくさい。できた人いて公開していたら、別途配布場所でも教えてくださいませ。
 ちなみに、『八十日間世界一周』だけど、光文社の新訳(上巻下巻)がフランス語からで読みやすい。ただ、かなり意訳はされているし、ラブシーンところはフランス語でチェックしたけど、日本風味の文体になっていた。
 その他、角川文庫などからもあるが、文体がさすがに古くさい。実家に、昔読んだ旺文社文庫があるはずだが、ああいうのが電子書籍で復刻にならないものでしょうかね。
 というか、昔の文庫が電子書籍で出てくると嬉しい。
 
 

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2012.11.23

[書評]十分読み切れなかった本など

 書籍関連のエントリーのタイトル頭に[書評]と入れているため、こんなものが書評かと嘲笑されるかたがまたにいるが、当初ブログを「はてな」で始めたときのタグの都合が今でも残ってしまったという以上ことはない。それでも書評らしいものは書いてみたいと思うことはあるし、最近では有料サイトのcakesで自分のスタイルの書評というものも開始してみた(参照)。
 本を読めばどのような本でもそれなりに思うことはあり、読後の記録を残しておきたいもので、このブログでたらっと書くことがあるが、それでもどうにも思いがエントリーとしてまとまらない本もある。最近のものをいくつか、メモ代わりに残しておきたい。

天使はなぜ堕落するのか―中世哲学の興亡

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天使はなぜ堕落するのか
中世哲学の興亡
 先日「中世哲学への招待 「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために(八木雄二)」(参照)を読んだおり、入門書を越え、もうすこしリジッドに描いた中世哲学の書籍を読みたいものだと思い、同じく八木雄二の大著にも見える「天使はなぜ堕落するのか―中世哲学の興亡」(参照)を読んでみた。
 これは筆者の意図でもあるのだろうが、「中世哲学への招待」と同じく、エッセイ的なスタイルが量的に拡張されていて、中世哲学の要点や論点をまとめて理解するというわけにもいかなかった。むしろ、本書の縮約版的な意味が「中世哲学への招待」だったのかもしれない。
 テーマはやはりスコトゥスであり、「中世哲学への招待」よりも深く考察されいて、特にキリストのペルソナの議論には驚愕するものがあった。また、アンセルムスへの記述も多く、中世の終わりに位置づけられるオッカムについても興味深いものがあった。
 それでも、どうにも読後、なにを自分を知り得たかというのが曖昧のまま残った。私の読解力の限界もあるのだろうが、もうすこしすっきりとしたスキームが提示された中世哲学の入門書が読みたかった。

ファインマンさんの流儀

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ファインマンさんの流儀
 たぶん来週の火曜日、11月27日、cakesの「新しい古典を読む」で、「ご冗談でしょ、ファインマンさん」の書評が掲載されるはずだが、本書はその資料として読んだものだった。ファインマンについては、その存在自体がおもしろく、かつその人生についても映画を含めて多様に語られているのだが、意外なことに定番と言えるような評伝がない。もちろん、異論があるだろうが、どうしてもファインマンがおもしろすぎてそこに関心が引っ張られてしまうし、ノーベル賞からの視点に固定される傾向はある。
 その点、本書は、自身も物理学者であり生前のファインマンにも会ったことのあるローレンス・M・クラウスが、ファインマンの全論文を読み直して書かれただけあって、物理学者としてのファインマンの業績がしっかりと押さえられている。シュウインガーやダイソンについての言及はさすがと言ってよい。
 とはいえ、サイエンスライターとしても力量のあるクラウスだが、ポピュラーサイエンスのスタイルになじみがないのか、当の業績の解説があまりわかりやすいとはいえない。また、ファインマンには生物学や化学方面の研究もあるだが、その部分は省略されている印象もある。
 さらに、ファインマンはどうも「脳」に関心を持ち、後年、彼の拠点カリフォルニアのニューエージ運動にも関わっているのだが、そうした側面の記述はない。
 ファインマンに関心がある人には必読書なのだが、それでも隔靴掻痒感が残る。

増補版・幻滅論

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幻滅論 [増補版]
 2001年のとき前版を読んでどうもピンとこないなと思っていたので、今年増補版が出たので読み返してみたのだが、同じ印象が残った。むしろ、この分野に対する自分の興味が愕然と後退しているのではないかとさえ思った。古澤平作などはずいぶん興味を持ったものだったが。
 もちろんと言うべきだが、本書がつまらないということではまったくない。「北山修」という文脈は表面的には排除されているので、それを求めるべきでもない。
 が、むしろ、その側面が強調されている書籍を読んだほうがいいのかもしれないと思えた。

ウェブで政治を動かす

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ウェブで政治を動かす!
 Kindle Paperwhiteが届いたので、なにかそれっぽい本でも読んでみようかな。そうだ、話題の津田大介「ウェブで政治を動かす」(参照)ということで、新書より361円ほどお安いKindle版で読んでみた。
 論旨は理解できる。説明は過不足なく行われている。主張も明確である。だが、受け付けないというのではないが、どうにも心というのか脳というのか、入ってこない。たぶん、一番基本的な主張であり、表題でもある「ウェブで政治を動かす」を私が信じていないからだろうと思う。かたくなになるつもりはないが、ITを使った民意形成といったものも私はまるで信じていない。
 ではお前はどうなのだよと問われそうだが、私は政治の大半は技術に帰していると考えつつある。その意味で、むしろ、「実践 行動経済学」(参照)の「リバタリアン・パターナリズム」のための補助技術としてITやウェブを位置づけるほうがよいのではないかと思っている。まあ、結論が出たわけではないが、本書の方向性に希望が見えるものでもないと個人的には思った。

教科書では教えてくれない日本の名作

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教科書では教えてくれない
日本の名作
 先日Kindleサービスが始まったおり、アンドロイドのアプリで読みかけただった本書をKindle Paperwhiteで読んだ。本書の内容には関係ないが、引用部分の文字に色が付いているため、Paperwhiteではかえって読みづらかった。
 内容だが、悪くないし、文学が好きな高校生には向いているかと思う。選ばれた作品が、夏目漱石「こころ」/芥川龍之介「地獄変」/谷崎潤一郎「春琴抄」/川端康成「伊豆の踊子」/太宰治「女の決闘」/三島由紀夫「憂国」ということで、日本文学にそもそもこの傾向があるとも言えるのだが、変態趣味的なものが多くて、個人的には辟易感があった。この方向ではないと日本文学では倫理的な方向に流れるのかもしれないので、日本文学というものがそういう傾向があるのかもしれない。いわゆる近代文学はむしろ中年以降になってから読んでもよいのではないか。
 
 

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2012.11.21

11月20日付けフィナンシャルタイムズ社説報道点検資料

 11月20日付けフィナンシャルタイムズ社説の抄訳が日経に掲載された(参照)。ジャーナリズムの報道点検という視点からのみ、原文と補助としての試訳を参考資料として示しておきたい。その意味で、あくまで参考資料の提示ということであり、論評はこのエントリーでは控えておきたい。

Tokyo manoeuvres参照

【日経訳】[FT]日銀の独立性を尊重せよ(社説)
【試訳】日本政府の戦術

As Japan’s election campaign began this weekend, battle lines were being drawn over the dire state of the economy. Caught in the middle is the Bank of Japan, whose cherished independence is now under threat. But giving politicians the final say on bank policy is neither wise nor the solution to Japan’s economic woes.

【日経訳】
日本で事実上の選挙戦がスタートし、経済の厳しい状況が争点となっている。中心は日銀の金融政策で、中央銀行の独立性を脅かすような議論が聞かれる。ただ、金融政策の決定権を政治家に与えるのは賢明でないばかりか、日本経済の苦境の解決策にもならないだろう。
【試訳】
日本の選挙戦がこの週末開始され、戦線がその経済の切迫状況の上に引かれた。その中心に引き込まれたのは日本銀行であり、手塩にかけてきたその独立性が今や危機にある。しかし、中央銀行の政策に政治家が口を出すのは、賢明でもなく、また日本の経済困難の解決でもない。


Shinzo Abe, leader of the opposition Liberal Democratic party and favourite to win next month’s vote, has made bank independence a central issue in the campaign. He wants to be able to instruct the bank to buy government bonds directly to fund spending, on infrastructure for example. He also wants to revise the law governing its independence to facilitate such control. Mr Abe’s sentiments are even shared by members of Mr Noda’s Democratic party.

【日経訳】
 来月実施される衆院選での勝利が有力視される野党自民党の安倍晋三総裁は、日銀の独立性を重要争点に掲げている。インフラ整備などへの財政支出を賄うために「日銀による国債の直接買い入れ」を求めているほか、日銀法を改正し政治の支配力を強めるべきだと主張している。与党民主党内からも安倍氏の意見に賛同する声が聞かれる。
【試訳】
野党自民党指導者であり次月の投票で本命と見られる安倍晋三は、中央銀行の独立性を選挙の中心課題に据えている。彼は、土木建設などに財政支出するため、中央銀行が直接国債購入を指導できるようにすることを望んでいる。また彼は、この制御を促進するためにその独立性を規定する法律を改訂したいと望んでいる。安倍氏のこうした思い入れは、野田氏率いる民主党の党員ですら共感されている。


There is some justification for frustration with the Bank of Japan’s reluctance to pursue even more aggressive monetary easing in the face of the economy’s slide towards recession. The argument that more issuance would spur hyperinflation seems exaggerated at a time when deflation still plagues the economy. Moreover, the bank’s failure to reach its own 1 per cent inflation target is lamentable. It should be possible to do more within the Bank of Japan’s arsenal. Even the International Monetary Fund has argued that the bank could buy long-term government bonds, without breaching its pledge not to finance state spending. Government debt will only be monetised if it is cancelled.

【日経訳】
日本の景気後退局面入りが濃厚になるなか、積極的な金融緩和に及び腰な日銀に対する不満がたまるのは、ある程度理解できる。ハイパーインフレに対する日銀の懸念も、日本経済がデフレに苦しむ状況では大げさにもみえる。自ら設定した物価上昇率1%という目標を達成できていないことも嘆かわしい。日銀が打てる手はまだあるはずだ。
【試訳】
景気後退への移行局面なのに、より積極的な量的緩和を追究する気のない日銀にいらだつ議論があるのも納得できる。貨幣供給を増やせばハイパーインフレになるという議論は、デフレが経済を未だ蝕んでいる時には、誇張だと言える。しかも、日銀が自身の設定した1パーセントのインフレターゲット達成にも失敗していることは嘆かわしい。日銀が取り得る手段でもそれ以上のことが可能なはずだ。国際通貨基金(IMF)ですら、日銀は、財政支出規律を破ることなく、長期国債購入が可能だとの議論を正当とした。国債が貨幣化されるのは債権放棄の場合だけである。


But all the signs are that the obstacles to Japanese growth go well beyond what monetary policy can fix. The country’s economy remains unreformed. There is a lack of competition in the service sector and too few women in the workforce. The retirement age is low compared with that of other developed countries. Japan is also labouring under the world’s second-largest public debt. Doubling the consumption tax was only the first step on the long road to fiscal reform.

【日経訳】
だが、金融政策だけでは日本経済の成長を阻害する要因を取り除くことはできない。経済改革が進んでいないからだ。女性の労働参加も極めて少ない。退職年齢は他の先進国に比べて低く、公的債務残高は世界で2番目に大きい。消費税率を2倍に引き上げることを決めたが、財政改革の長い道のりの第一歩にすぎない。
【試訳】
しかしながら、日本の経済成長を阻害している兆候はすべて、金融政策で可能な是正の範囲を超えている。日本経済はいまだ改革されていない。サービス部門では競争が足りず、労働力に占める女性の割合は少なすぎる。他の先進国に比べて定年も早い。日本はまた、世界第二位の公的負債に苦慮している。消費税を二倍に引き上げたことも、財政改革への長い道のりの第一歩にすぎない。


An absence of strong political leadership means these challenges have not been addressed for many years. It is misleading to blame Japan’s economic woes on a central bank that is too independent of politicians. Independence is the best way to avoid politicising monetary policy. In a country that has had six prime ministers in five years this is an important safeguard.

【日経訳】
政治の強いリーダーシップが欠如していたため、こうした課題の解決が何年も先送りにされてきた。日銀に景気停滞の責任を押しつけるのは誤りだ。金融政策の政治利用を避ける最善の方法は中央銀行の独立で、特に5年間で首相が6人も就任するような国にとっては重要な安全装置といえる。
【試訳】
多年にわたりこれらの課題が対処されてこなかったのは、政治において強い指導力が欠けていたからである。日本の経済困難について、政治家からあまりにかけ離れた日銀のせいだと責めることは、誤解を与える。中央銀行の独立性は、政治家が金融政策を政治的に利用するのを避ける最善の手段である。5年間に6人の首相が立つこの国にあっては、それは重要な安全装置である。


Japan needs strong leadership in its politics and in the central bank. A lack of courage will not lead the country to recovery.

【日経訳】
政治と日銀の双方で強力なリーダーシップが必要だ。勇気が無ければ日本経済を回復に導くことはできない。
【試訳】
日本では、強い指導力が政治家と日銀に求められる。果断なくしては、この国は復興しない。


 
 

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2012.11.18

ベンガジゲート:本当は恐ろしいソープオペラ

 米国中央情報局(CIA)の長官デヴィッド・ペトレイアス(60)はアフガニスタン戦争の米軍司令官の任にあるとき、その評伝ライターのポーラ・ブロードウェル(40)と不倫していた。二人が出会ったのは2006年。54歳のデイブは妻との結婚生活31年。33歳のポーラには夫もいて二人の子どもの母でもあった。許されざる秘密の恋の始まり。そして6年の日々。
 それだけでも面白いのに、お騒がせ女登場。デイブと懇意にしているジル・ケリー(37)。ポーラはジルに嫌がらせのメールを大量に送っていた。なぜ? 嫉妬? ならばジルとデイブも不倫関係だったのか?
 このソープオペラは、ついにハリウッド映画化決定! 冗談で済まされない。ロイター「CIA長官の不倫スキャンダル、ハリウッドでは早くも映画化競争」(参照)より。


 米中央情報局(CIA)のペトレアス前長官の不倫問題をめぐって新たな情報が相次いで伝えられる中、米ハリウッドのスタジオ会社の間では、今回のスキャンダルを映画化しようと早くも競争が始まっている。
 ハリウッドのプロデューサー、クリス・アームストロング氏は、「今回のスキャンダルは、事実のもみ消しや陰謀、CIA、政府高官、不倫などハリウッドや一般市民が好むポイントが満載」と指摘。ロサンゼルスを拠点に娯楽問題を扱う弁護士、ジョン・ファイファー氏も「必要なテーマはすべてそろっている」と述べた。
 脚本家にとって良いニュースは、このスキャンダルでは新たな情報が次々と追加され、ストーリーが広がっていることだ。新たな「登場人物」は、アフガニスタン駐留米軍のジョン・アレン司令官のほか、司令官と不適切な電子メールのやり取りを行っていたとされるフロリダ州の空軍基地で社交イベントのプランニングをするジル・ケリーさんの2人だ。

 ラブ・ストーリーは突然に、広がる広がる。
 ところがこのソープオペラは煙幕なのかもしれない。主人公はデイブではなく、我らの希望の星・オバマ大統領かもしれない。なぜ?
 話が面白すぎた。頭を冷やせ。そもそも、いったい、なぜ、不倫なんていうプライベートなことで、CIA長官が辞任しなければいけいないのか?
 CIA長官は不倫しちゃいけないのか? クリントン元大統領だって不倫していたが、問題になったのは「不倫なんかしてないもーん。そ、そ、そんな青いドレスなんて、し、し、しらないもーん」と言い張った嘘だった。デイブはそんなことはない。あっさり許されざる恋を認めた。
 恋。それは職務と関係ない。
 なぜデイブはCIA長官を辞任したのか? そもそもこの事件はソープオペラなのか?
 それ以前に、なぜCIA長官のプライバシーが暴かれたのか?
 メールがバレたからである。使っていたのはGメールだった(参照)。Googleによって広告を名目に日々監視されているGメールを使っていたというのが、そもそもうかつといえばうかつだ。大人が不倫するのにGメールに痕跡なんか残さないものである、諸兄! 普通はツイッターのダイレクトメールを使って、そして、つい、ツイートと間違えてこそ大人の恋というもの。あ、それはそれですごくやばい。
 いくらうかつであっても、そこまでプライバシーを暴いてよいものなのか。誰がそんな権力を持っているのか? ということろで、ぬっと、権力が、ご登場。
 権力のぎらりとした目玉から見据えると、どうもこの事件、やはり、なにか、おかしい。
 権力の手先は連邦捜査局FBIである。しかも、このプライバシー暴きは秘密裏に実施されて、大統領選が終わったらデイブの不倫で辞任という形で暴露された。誰が、この情報の公開を支配していたのか。流れ的に見ると、オバマ大統領ではないのか? こんな話を大統領選のさなかにオモテに出すんじゃない、と隠蔽していたのではないか。
 だがそう単純な構図でもない。FBIの操作活動では、担当の捜査官がケリー宛てに上半身裸の写真を送っていたとか別の面白いスキャンダルも関係している(参照)。
 愛が止まらない、といった風情だが、ここで再びヒロインを見つめ直そう。
 ヒロインのポーラは、実はただのライターではない。美人ライターである。いや、そっちの方向ではない。マジな経歴は、陸軍士官学校でBA(学士)。デンバー大学で国際安全保障分野でMA(修士)。ハーバード大学でMPA(行政学修士)。ロンドンのキングス・カレッジで博士課程。専門は、反テロリズム。大学でもテロリズム対策の教官をしていた。ばりばりの軍事専門家であり、テロ問題の専門家なのである。
 だから、テロ問題の重要な秘密も知っていた。これがリビア、ベンガジの米国領事館襲撃事件にも関連していた。
 当初オバマ政権は、この襲撃事件をムハンマド映画に対する抗議行動が高じたものだと嘘ぶいていた。実際は周到な襲撃事件であり、オバマ政権もそのことを知っていた(参照)。だがそれが衆知となると、大統領選挙前にオバマ政権のテロ対策がいかにデタラメだったかがモロバレになる。それはまずいということで情報操作をしたわけである。
 これにさらに裏があったことがポーラの証言でわかった。
 そもそもなぜ、武装勢力はベンガジの米国領事館襲撃したのか?
 ポーラはその理由を、不倫が暴露される数日前にデンバー大学で語っていた。ガーディアン報道(参照)によると、ベンガジの米国領事館の別館にはテロリスト収容所があり、そこでリビアの武装勢力を10人ほど収容していた。その奪還が襲撃の目的だった。
 ガーディアンも指摘しているが、なぜそもそもそこに「囚人」がいるのか? 2009年にオバマが第一期の大統領となったとき、ブッシュ前大統領による国外テロリスト収容所をさんざん批判し、CIAが国外でテロリストを拘束しないよう署名をしていた。つまり、本来ならオバマ政権下で、CIAの下にテロリスト収容所はないはずである。でも、ベンガジ米国領事館襲撃には、あった。つまり、オバマ大統領お得意の嘘である。黙っていろとデイブも口止めされた。嘘をバラす面倒なやつがいたら、そのつど口封じしたいところだ(参照)。
 このベンガジ米国領事館だが、なんとドローンとも呼ばれるプレデター(殺傷能力を持つ無人偵察機)の基地でもあった(参照)。米国のドローンこそ、カダフィ大佐を殺害した兵器であったことは以前言及した(参照)。
 ベンガジ米国領事館はリビア内戦に荷担するCIAの拠点でもあり、米国の偽装した、リビアへの軍事介入の拠点でもあった(参照)。公式には米国はリビアの内戦には介入しないとしていたのだったが。


  
 

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2012.11.17

[書評]ちょっと早めの老い支度(岸本葉子)

 どきっとする書名で手に取った。あの、岸本葉子さんが「老い支度」だなんて。

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ちょっと早めの老い支度
岸本葉子
 「はじめに」をめくると「今の私は五十代」とある。1961年生まれのはずだから、たしかに五十代には違いない。52歳だろうか。かく言う私は55歳。四捨五入すると繰り上がりのほうになってしまった。自分も「老い支度」ではないかと読んでみた。
 「はじめに」はこう始まる。

 老後が怖い。そう思ったのは三十になろうとする頃、結婚しないかもしれないと感じはじめたのと同時期だ。

 女と男の心の動きは違うが、30歳になったときは、ひどく年老いた気がした。そしてそこからの時の流れは速かった。
 自分は老後が怖いかというと、すでに半分余生のような捨て鉢な感じもあってよくわからない。
 岸本さんは、「怖くなくなった」と言う。

 不安は、わからないところに生じる。得体が知れないものほど恐ろしい。
 三十代よりも今の方が老いにたいしてなじみが出てきた。視力の衰えひとつも体験すると「なるほど、こうなっていくわけね」とつかめる。

 本書で岸本さんは、視力の衰えのことで、老眼鏡を必需品だと書いている。
 そのあたりは、よくわからない。先日百均でクリップを買ったおり、老眼が各種置いてあったので、もしかしてこれって便利なのかなと試してみたが、まるでわからなかった。近眼と乱視のほうがひどいからだろう。
 老眼は免れているのかもしれないが、老いを感じないわけではない。
 この本で岸本さんは忘れっぽくなったという話も書かれているが、自分も思い当たるふしがあってどきっとする。じわっと記憶力なども衰えていくのだろうか。
 で、どうするか?
 という話がいくつも、生活の見直しになるようなヒントとして指摘されていて、女の生活と男のそれとは違うものの、うんうん、なるほどなと頷きながら読んだ。いろいろ実行したいこともある。
 「好みの低年齢化は、まま起こる」もおもしろかった。五十歳すぎたら岸本さんは、かわいいものを好むようになったという。なるほど。
 自分は男性なので、女子のかわいい趣味はないが、だんだん感覚が子ども帰りしている感じはする。お酒を飲まなくなったし、大人らしい性的なアピールというか色気も抜けてしまい、子どものような気分でいることも多い。
 英語を含めて向学心がふっとわくともあるという。それも頷ける。私も一時期、もう勉強とかしてもそれが何かの足しになるような未来はもうないから、勉強みたいなことはどうでもいいと思っていた。が、どこかで逆転した。脳みそが動いて、ものに関心あるうちは自分のために勉強していても、いいんじゃないかと気楽に考えるようにした。歴史、英語、科学、ふつうに勉強はおもしろいものだなと思う。
 意外に思える話もあった。岸本さんは、風呂場のカビ落としが大変なので、いっそのことお風呂はスポーツジムで済まそうというのだ。その手があったか。おもしろい生活だな。それも老いに向かう生き方のコツと言えないこともないだろう。
 本書には二点、対談が含まれている。産婦人科医とマネーライターが相手だ。前者は閉経などにともなう女性の身体の変化の話だが、岸本さんのなまなましい体験のようなものは出て来ない。後者は老後のためのお金の話だ。年金の話題もある。
 ああ、しかし。
 いつのまに年を取ったのだろうか。岸本葉子さんの「微熱の島 台湾」(参照)を感動して読んだのは私が32歳のことで、それを参考に台湾に三度行った。あの本を書いていた岸本さんはまだ20代だった。そして、30代、40代、それぞれの時代の思いをつづったエッセイを時の流れに合わせて書いてきた。
 岸本さんは私より4つも若いので、同世代の感覚からは少しずれる部分があるが、それでも、近い世代の感覚がいつも生きていていた。そして、いよいよ50代か。
 
 

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2012.11.16

不穏な中国の時代へ

 先日ニューヨークタイムズに、胡錦濤体制への批判と見てよいだろう温家宝の中国首相一族の資産リーク記事が上がった。また随分とえげつないことをするものだなと思った。胡錦濤・腹心の令計画の息子が女性二人を高級スポーツ車乗せて交通事故死した醜聞をネタに、令計画を中央弁公庁主任から降格した話も伝わってきた。政争の終盤に来て、これはだいぶ胡錦濤派が揺さぶられているな、と想像はしていた。が、中国共産党第十八回大会の映像の初っ端から江沢民(86)が現れ、その他ゾンビがゾロ並びの不穏な雲行きとなり、新体制の蓋が開くと想像以上にひどい顔ぶれだった。
 不穏な事件を起こした薄熙来を江沢民派は長老ゾンビが庇うなか共青団が厳しく追究していたので共青団には勢いがあると見えていたものだ。ここまでひどいバックラッシュになるとは想像していなかった。これから不穏な中国の時代がやってくるだろうと観念した。
 中国の指導部・政治局常務委員は、おそらく全体的には共青団を優勢にした七人体制に持っていくなかで、太子党や上海閥が「俺も入れろ」という流れで九人体制、あるいは通常はあり得ない変則的な実質八人体制、つまり胡錦濤による軍事委主席留任となるかもしれないと想像していた。
 が、胡錦濤は全面的に引退し、胡派の息のかかるのは事実上、李克強だけとなった(参照)。


政治局常務委員(現職)
1 太子党:習近平・国家副主席(59)
2 共青団:李克強・副首相(57)
3 上海閥:張徳江・副首相兼重慶市党委員会書記(66)
4 上海閥:兪正声・上海市党委書記(67)
5 中間派:劉雲山・党宣伝部長(65)
6 太子党:王岐山・副首相(64)
7 上海閥:張高麗・天津市党委書記(66)

 なお、兪正声は太子党と見ることもできる。劉雲山は共青団としてもよいが上海閥に近い。
 太子党は高級幹部子弟ということで明確な政治スタンスはないが、底辺から組織された共青団とは対照的になる。上海閥は概ね江沢民派であり、上海を中心とした利権的な組織であり、特定の政治的なスタンスが強いということではない。地方利権という点からすれば、他の地方利権と同構造と見てもよいだろう。
 有力視されていた李源潮・党中央組織部長と共青団から期待されていた汪洋・広東省党委書記は選出されなかった。
 なぜここまで上海閥が勢力を盛り返したかだが、江沢民一族の危機意識もあるだろうが、概ねゾンビ長老と地方利権のいわばコングロマリット的な勢力の危機感からだろう。露骨に言えば、この勢力が抱えている不良債権問題と見てよいと思う。
 だが、これらの潜在的な危機は、非民主主義国家で法が整備されていない中国では、むしろ共青団的な社会主義的な国家イデオロギーにまかせたほうが対処しやすいのに、そういう流れにならなかった。
 中国の潜在的な経済危機が、言わば、地方利権の私党の争いで、上手に調停されるかが今後の中国動向を決める。たぶん、ろくな事にはならないだろう。
 もちろん、危機が顕在化されたときに、共青団的な勢力がどう動くのかが重要になるのだが、その点では、常務委員の下部の25名の政治局員の動きにが気になる。ここは意外と共青団的な勢力が上手に温存されている。最後の砦として胡錦濤・温家宝が次世代のために残したということだろう。これらが、習近平と李克強のコンビでうまく機能すれば、中国は安定軌道に乗る可能性がないわけではない。期待はしたい。
 逆に今回、なぜここまで共青団が押し返されたかという視点でからすると、胡錦濤の対応から見て、日本政府による尖閣諸島国営化が引き金だっただったと見てよいだろう。
 民主党政府も欧米メディアも、中国から流されてくる「悪の右翼・石原慎太郎都知事」というお話に翻弄され、石原の動向を封じることで、中国政府の歓心を買おうとした。が、これが事実上、外交的な謀略だった。
 胡錦濤としては、石原の動向は困るが、日本国が大げさに動かれても、反日活動お得意の江沢民派からの弱みにつけ込まれることになる。
 実際、そのような展開になった。尖閣諸島についてはこうした中国政変時にはできるだけグレーな状態に保持するか、ごく内密にことを進めるべきだったし、実際、胡錦濤もそれを想定したのだろう。その意味では、胡錦濤にしてみると日本に寝首を搔かれたという思いがあるだろう。
 それでも、それだけの理由で胡錦濤派がここまで押し返されるとも思えない。薄熙来事件の駆け引きや、温家宝一族の資産リークも関連しているだろう。弱い形でブルームバーグから習近平の資産リークがあったが、ようするに、これらで脅しも政争の一端だったのだろう。ただし、こうした脅しはむしろ上海閥や地方勢力に効くようにも思えるのだが、ようは情報の流し方だろう。
 ニューヨークタイムズが江沢民派の事実上の謀略に荷担したということなら、このチャネルがまた反日活動でフル活動できる体制が整ったともいえるだろう。
 多少不吉なことを言うと、今回の政治局常務委員で上海閥が優勢とはいえ、年齢を見てもわかるように、次期常務委に留まることができるのは、現在50代の習近平と李克強で、残りの5人の任期は1期5年だけである。
 つまり、2017年には仕切り直しの政争が起きるだろうし、その前哨戦がまたまた反日運動の謀略とともにゴングが鳴ることになりそうだ。
 
 

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2012.11.15

ばか正直では首相は務まらない

 窮鼠猫を噛む。野田総理も追い詰められたら、戦中の大日本帝国みたいに特攻隊突撃か。エコノミストが言うように(参照)、つまり、英語でいうところのカミカゼ(kamikaze)をやってしまった(参照)。


kam‧i‧ka‧ze [only before noun]
1 kamikaze pilot: a pilot who deliberately crashes his plane on enemy camps, ships etc knowing he will be killed
2 used to describe someone who is willing to take risks, without caring about their safety:
kamikaze lorry drivers

カミカゼ
1 カミカゼ飛行士:自殺になることを知りながら、敵陣や敵艦に入念に自分の飛行機をぶつけてくる飛行士
2 自分たちの安全を考慮せずに、危険を冒す気でいる人についても言う


 なぜ太平洋戦争末期みたいな神風特攻隊を野田総理は演じることができたかといえば、戦前の日本精神・特攻隊精神とまったく同じ精神構造だったからではないか。清廉潔白・正直なら何をしてもいいという二・二六青年将校みたいな人がこの国の頂点に立っていたのか。




嘘をつくつもりはありませんでした。えー、私は小学生の時に家に通知表をもって帰った時に、とても成績が下がっていたんで、親父に怒られると思いました。でも親父はなぜか頭をなでてくれたんです。5や4や3、そんなの気にしなくて、生活態度を書いた講評のところに「野田君は正直の上に馬鹿がつく」と書いてありました。それを見て親父は喜んでくれました。安倍総裁の教育論は傾聴に値するもがたくさんあります。歴史観、国家観から。私の教育論はそっからはじまるんです。偏差値や百点や五段階じゃなくて、数字にあらわせない大切なものがあるんだということを親父はおしえてくれました。だからもともと嘘をつくつもりはありません。「近いうちに解散をする」ということに是非先般の一〇月一九日党首会談をやったときにもお話しました。信じて下さい。残念ながら、「トラスト・ミー」という言葉が軽くなってしまったのか、信じていただいておりません。

 私も日本人だから、涙ぐんで親父さんのことを思い出すという心情はわからないではない。だが、それは信頼できるわずかな人、妻や親友や息子や恩師、あるいは吉田茂のように愛人でもいい、ごくわずかな人にだけ見せるものだ。大国の総理が国会で見せるものではないし、そうすることがむしろ嘘になってしまうのだということが、正直とバカ正直の違いなのである。
 野田さんの気持ちはわかる。誰もを信じたい、国民も信じたい。しかし、すべてを信じられるわけではない。だます人もいる。総理たる者、それでだまされて国家の命運をかけてもらっては困る。総理は信じたいという自分を美化した甘えで務まる仕事ではない。もっとも、「トラスト・ミー」とか軽く言ってのけて国を傾ける総理というのも困ったものだが、逆ブレして、お子ちゃま総理でよいわけはない。
 窮鼠猫を噛む、でわかることは、野田総理が鼠であったことでもある。せめて、ジェリーくらいのふてぶてしいユーモアを持ってほしい。
 しかし、まあ、やっちまったな、であり、もう済んだことでもある。
 誰がここまで鼠を追い詰めたのか。猫は誰か。
 安倍自民党総裁ではなく、民主党である。国民ことなど念頭にない党派政治の自己運動みたいなものである。13日NHK「民主幹事長“今解散すれば政権失う認識足りない”」(参照)より。

 民主党の輿石幹事長は党の参議院常任役員会で、野田総理大臣が衆議院の年内解散に踏み切る方向で検討を進めていることについて、「今、解散すれば、間違いなく政権を失うという認識が足りないのではないか」と述べ、懸念を示しました。
 この中で輿石幹事長は衆議院の解散・総選挙に関連し、「『TPP=環太平洋パートナーシップ協定の推進』だとか、『マニフェスト=政権公約を取りまとめる』などと言っていても、野党に転落したら、なかなか実現に向けて取り組むことはできない」と述べました。
 そのうえで輿石氏は「今、解散すれば、間違いなく政権を失うという認識が足りないのではないか」と述べ、野田総理大臣が年内解散に踏み切る方向で検討を進めていることに、懸念を示しました。
 また、民主党の一川参議院幹事長は記者会見で「国会の懸案は近々、解散があるというスケジュール感で処理されていない。衆議院の選挙制度改革がその最たるものであり、憲法違反の状態で解散に突入するのは分かりにくい話だ。今は、東日本大震災の復旧・復興に最優先で取り組む時であり、今解散すべきではない」と述べました。

 しかし、一川参議院幹事長の語るところにも真実はある。「憲法違反の状態で解散に突入するのは分かりにくい話」というのはそのとおりだ。
 で、どうなったか。これを野田総理は、自民党に丸投げしたのである。
 党首討論で野田総理の気迫に自民党安倍総裁が怯んだとみる話も伝わっているが、私が見るかぎり、「そ、それを丸投げするか」という驚きだったのだろう。逆にいえば、安倍さんとして見れば、できるかぎり議員定数問題の泥を野田総理に被せたいつもりでもいたわけで、安倍さんらしい暢気な甘えでもあった。
 野田総理にしてれば鼠のカミカゼ攻撃であるし、うるうると自己陶酔もしているし、自分なりの正直者の理路でもあったのだろうが、この筋書きを書いたのは、これまでの野田さんの対応を見ていれば彼ではないだろう。堪忍袋が切れるのをサポートしたのは誰か。これはその後の対応を見ていたら、おそらく岡田克也副総理だとわかる。ちゃんとベタな解説までしているのである(参照

 先ほど党首討論が終わりました。
 特に、安倍自民党総裁と野田総理、あるいは山口公明党代表と野田総理のやり取りは、まさしく解散をめぐるやり取りで、総理が16日に解散することを明言される、歴史に残るやり取りになったと思います。
 総理はまず、谷垣総裁との約束は守る。そういう意味で、解散するタイミングを伺ってこられた。そして、今回いよいよ決断をされたということです。

 泥のなすりつけもきっちり解説。

 それに対して総理から、もし定数削減がこの国会で出来ないということであれば、選挙の結果によってどこが与党でどこが野党か現時点では分からないわけですが、「次の国会できちっと定数削減を実現する約束をしてもらいたい」と言いました。
 これに対しても非常に曖昧な答えだったわけですが、総理は「少なくとも国会議員の歳費2割削減だけは約束してもらいたい、一緒にやろう」と呼び掛けられました。ここも安倍さんの答えははっきりしませんでした。山口さんのほうは、「それはやる」と明確に答えられたと思います。
 いずれにしても、総理としては様々なことを考え、例えば年明け解散などになると、我々が来年度の予算編成をしても、選挙の結果によってはもう一度予算編成をやり直すということになりかねません。それは景気にも経済にも悪影響を及ぼしかねないし、二度手間にもなる。そういったことを避けるためにも、このタイミングで解散する。それが国益・国民の利益にかなったことだと。こういうことだったと思います。
 国と国民のことを考えた総理の思いがにじみ出たというか、いっぺんに外に出た。そういう迫力のあるやり取りだったと思います。

 ようするに、小泉元総理の「自民党をぶっ壊す」と同じで、「民主党をぶっ壊す」ということでもあった。
 政権与党でありながら党内理由で政治決断がなにもできない状態ではいけないという、原則主義の岡田さんの考えそうなことだし、そもそも、岡田さんが総裁だったころの民主党はこういう政党ではなかった。そうではない民主党が暴走したのだから、これをぶっ壊そうというのは、それはそれで正論でもあった。それに加えて、現状なら沈みゆく船から逃げる民主党議員に助成金を握らせずにすむという算段もあっただろう。
 私は、こんなことすべきではなかったと思う。
 議員定数問題についても、最高裁の判断では、「0増5減」でも違憲状態であり、ここで解散し、自民党に丸投げしても、なんら解決の糸口は見えない。
 野田総理が戦うべき相手は、民主党だった。これまでも野田総理は民主党と戦ってきたのはわかる。つらい、そして孤独な戦いであったとも思う。しかしそれをやり抜くことが総理の仕事であっただろう。
 もはや詮無いことだが、泥にまみれた本当のドジョウが見たかった。誰もが、滑稽なドジョウ掬いだと笑っても、嘘つきだのとわめいても、きちんと任期を全うしてみせてほしかった。
 
 

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2012.11.14

[書評]重金属のはなし - 鉄、水銀、レアメタル(渡邉泉)

 科学は日進月歩するものなので、生活に接する一般向けな科学を扱った、主要な新書を見かけたときは、できるだけ読むようにしている。本書「重金属のはなし - 鉄、水銀、レアメタル(渡邉泉)」(参照)もそうした意識からと、加えて言うなら、新技術や国際政治などいろいろな局面で重金属の重要性を痛感することが多いことから、とりあえず読んでみた。こう言うと逆に著者に失礼かもしれないが、思いがけぬ良書であった。

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重金属のはなし
鉄、水銀、レアメタル
 高校生なら一年かけて本書を教科書に使うとよいのではないか。いわゆる科学分野の他に、歴史、地理など幅広い分野の知識を育成するのにも役立つだろうし、ビジネスマンから主婦まで、市民・常識人であれば、難しいところは飛ばしてもよいから通読されるとよいだろう。
 昨年以降、問題となっている放射性物質の汚染については、本書ではほとんど言ってよいほど扱っていないが、本書を読めば、従来からある、重金属による環境汚染の問題と類似の行政上の問題も明らかになる。こうしたことを知ることは、まさに蒙が啓かれるという印象を持った。
 全体は8章に分かれ、3章から6章は、本書副題にもあるように、それぞれ水銀、カドミウム、鉛、ヒ素が当てられている。この4章分については概ね独立しているので、それぞれ別に読んでもよい。
 「第1章 産業の最重要素材―人類の歴史を牽引した重金属」については、重金属の定義的な話や章のサブタイトルにあるように人類史との関連の概要が粗描されている。この分野の常識的な知識をまとめるという点では簡便だが、常識的な範囲でもあり、それほど興味深いというものでもない。さっと読み飛ばせる。
 「第2章 からだと重金属―必須性と毒性」から、一般向けの科学書としては面白くなってくる。よく栄養を補給するためにビタミン・ミネラルということが言われるが、具体的な知識のない人は多い。その点本章では、ミネラル、つまり微量金属が生体でどのように働くのか、またビタミンのいくつがそれにどのように関わるかということを基礎から簡素にまとめている。「酵素」についてもしっかりと記述されていて、そこに含まれる重金属との関連が整理されている。ネットなどでは「酵素」についてめちゃくちゃな意見を散見するので、こうした基礎知識をしっかり持つとよいだろう。
 同章を読み進めながら、わくわくとしてくるのは生命の発生や初期の地球環境についての、ある意味で大胆な素描である。知っている人にとってはさしてどうという話でもないが、地球誕生から27億年前まで、地球は酸素のない状態にあった。ではなぜそこから現在の酸素を含んだ大気が形成されたのか?
 もちろん光合成によって形成されたのだが、そのプロセスで鉄を含んだ太古の海の重要性が明示される。酸素は反応性が高く、反応した酸素は大気中には存在できない。しかし、光合成によって酸素が排出されるようになると、これが海中の鉄と結合する。

 光合成の獲得は、海を酸素という猛毒で満たし、さらに海に溶けきれなくなった酸素は大気まで汚染した。その結果、海では大量に溶けていた鉄が酸化し、不溶性の酸化物、つまり錆となって沈み、取り除かれた。この酸化に伴い、その当時生息していたほとんどの嫌気性生物は、体を酸化され死に絶えたと考えらている。

 生体内でのカルシウムのイオンバランスについても太古の海との関連で説明される。その前提として、カルシウムの、細胞にとっての毒性が語られる。カルシウムは骨の形成などに重要だとしながら。

このようにカルシウムは、生体のなかで重要な役割を担っているが、じつは細胞にとっては猛毒である。細胞内にカルシウムが侵入すると脱水素酵素が活性化し、酸素呼吸の工場であるミトコンドリアの電子伝達系で活性酸素種が増加してしまう。

 これが細胞のアポトーシス(自死)にも関連する。
 カルシウムを扱う細胞は、現在の海ではなく古代の海から生まれているとするのは、なぜか。
 マントル変動で陸と地殻のなかから海中に流れ込んで現在の海が形成されたからである。古代の海は、生物の内部に残存したともいえる。他にも進化論的に興味深い指摘や、毒性となる活性酸素の発生と微量重金属の関係の説明など、読んでいて楽しい章である。
 「第7章 必須元素とレアメタルによる環境汚染」は、章題どおりの話題で、3章から6章までの水銀、カドミウム、鉛、ヒ素以外を手際よくまとめ、これにレアメタルと呼ばれる金属の概要を加え、「環境汚染」に焦点を当てていく。
 読んでいて意外だったのは、学校教育などでよく強調される足尾鉱毒事件だが実際には、銅の中毒が原因ではなかったことだ。最近ではどのように教えているのかわからないが、参考までにウィキペディアを見ると「銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし」と銅の中毒が主眼でもない。また括弧書きで「(実際には、鉱毒が原因で貧困となり、栄養状態が悪化して死亡した者が多く含まれていると考えられるが、田中正造や松本はこれらも鉱毒による死者とすべきだとしている)」など明瞭ではない。
 本書では複合汚染だとしている。

 筆者の分析からも、渡良瀬川流域の足尾銅山直下からは高濃度の鉛やヒ素が検出されている。つまり、足尾銅山の鉱毒は単純な銅汚染ではなく、鉛やヒ素なども含む複合汚染であった可能性が否定できない。

 この鉱毒という問題は、現在のレアアースの採掘・精錬にも関連しているが、これには世界の産業構造も関連している。というと、大企業が利益中心に鉱毒をまき散らすかのようだが、逆で、現在世界では資源メジャーが寡占化しているため、そうではないマイナーが利益を争うことになり、特に中国がそこで利益を上げようとして欧米的な環境基準を満たしていないことのほうが環境問題を引き起こす。
 「第8章 悩ましい存在と生きる―重金属対策の今後」については、私は別途この分野の知識があるので新知見は少なかったが、日本の行政の産業保護から重金属毒性の規制が矛盾に満ちたものになっていることを指摘している。この構造は、読みながら放射性物質の汚染についても同様に思えてくるあたり、日本の政治の大きな病理の指摘にもなっている。
 結語的に言及されている化学物質対策の指摘も重要である。

 今後包括的な化学物質対策がとられるようになれば、将来的に世界を遅う化学物質の影響は、極端な量の化学物質による影響ではなく、微量な暴露が長期に及ぶ慢性中毒となって発生する可能性が高い。

 また、第2章に戻るが次の指摘もある。

(前略)重金属の毒性は、高濃度で暴露される産業の現場や誤飲などの問題が主流となっていた。このような背景から、重金属の毒性発現メカニズムは、無機態のほうが知見が多く、対照的に有機態のものに関しては、未知な部分が多いのが現状である。

 こうした指摘は本書では直接的に指摘されていないが、従来の科学的な視点による食の安全基準から漏れる部分があることを示唆しており、逆の言い方をすれば、従来の科学視点をもった食の安全知見で十分とし、それ以外を非科学と断ずる危険性も暗示している。
 とはいえ、どこかで社会の安全基準の線引きをしなければならないとすれば、本書が指摘するように、この分野に先行的な欧州の動向を参考にするしかない。
 非常に「お得な」とも言えるような本書ではあったが、行間から「そこまで言うと誤解されるだろうか」というためらいも感じられる部分も少なくなかった。不用意に社会に衝撃を与えても解決には結びつきそうにない知見があるなら、それを市民社会に組み込むためには、その前提として、市民による、本書のような基礎知識共有が前提となるだろう。
 
 

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2012.11.13

[書籍]野口英世とメリー・ダージス―明治・大正偉人たちの国際結婚(飯沼信子)

 鈴木大拙とその妻ベアトリス・レイン(Beatrice Lane)について、戦前日本の神智学関連の文脈で知りたいと思っていたところ、本書「野口英世とメリー・ダージス―明治・大正偉人たちの国際結婚」(参照)に関連の情報があるらしいと知り、読んでみた。結論から言うとその面ではさしたる情報はなかったが、鈴木夫妻の話はそれなりに興味深いものだった。

cover
野口英世とメリー・ダージス
明治・大正偉人たちの国際結婚
 本書表題からは、野口英世とその妻メリー・ダージスが強調されているが、他に、高峰譲吉、松平忠厚、長井長義についてそれぞれ章が当てられ、オムニバス的な軽い読み物になっている。メインとなる野口英世と高峰譲吉については、著者・飯沼信子による別書もそれぞれあり、本書ではその概要といった印象も受ける。自分もこの年齢になってみると、こうした人々のことを調べ直すのは感慨深い。
 うかつにも知らなかったのだが、高峰譲吉については2010年に「さくら、さくら ~サムライ化学者・高峰譲吉の生涯~」(参照)という映画が出来ていた。機会があったら見てみたい。

 当初の関心だった大拙と妻ベアトリス・レインについては、本書を読んでみて、いろいろ知らないことがあったことに気付かされる。これもうかつだったなと思ったのは、彼女が猫を抱いている写真は知っていたが、私の記憶にあるそれは彼女の部分がトリミングされ、全体では「おこのさん」という女性も写っていたのだった。おこのさんという女性についても、もう少し知りたいように思った。また別の機会に調べたい。

 私が仏教というものを学ぶきっかけにもなった、大拙の有名な英文著作「大乗仏教概論(Outlines of Mahayana Buddhism)」(参照)は1907年に書かれたものだが、彼らの結婚は1911年であったので、当然、私は大拙自身の英文によると思っていた。だが、本書に詳しく指摘はされていないが、あらためて考えてみると、彼らの出会いは1905年なので、あの英文にベアトリスの手が入っているとみてもよさそうだ。ベアトリスの思想的な影響もあったかについては、なんとも言いがたい。
 ベアトリスが亡くなったのは彼女が61歳の1939年(昭和14年)である。この年、大拙は69歳で、彼もすでに老境にあったとも言える。彼が松ヶ岡文庫に移ったのは1941年(昭和16年)。ベアトリスの死と老境への整理でもあったと見てよいだろうし、ベアトリス的な密教と神智学への決別の意味もあるかもしれない。
 興味深いのは大拙の「日本的霊性」が書かれたのが昭和19年(1944年)で、これが事実上、敗戦後の日本への精神的な支柱を意図されていたとみることができる点だ。このあたりにも、戦前日本の神智学の動向と戦前の日本の精神史の関係が背景にあるのだろうか。今一つわからない。
 話が前後するが、今東光の父今武平が神智学に属し、神智学時代のクリシュナムルティが1910年に記したとされる「At the Feet of the Master(大師のみ足のもとに)」を「阿羅漢道」として訳出したのが1924年(大正13年)である。だが、1929年(昭和4年)のクリシュナムルティによる、その神智学分化の教団「星のオーダー(Order of the Star)」の解散の主旨を今武平は十分に理解し、彼自身神智学から離れた。
 武平については、今東光の弟・今日出海の親友でもあった小林秀雄がその神智学時代を懐かしく語っていたが、1902年(明治35年)生まれの小林の思い出は1920年(大正9年)あたりだろう。だいたいベアトリスが高野山で密教研究を開始する時代と重なり、当時の日本の精神風土が察せられる。この時代、つまり大正10年あたりのベアトリスの活動、さらに大拙の活動における仏教が、実際のところどの程度、神智学的な傾向を持っていたのかというのが知りたいところが、いま一つよくわからない。
 神智学系の他資料(参照)にあたると、1924年に神智学の支部である東京ロッジ設立に、大拙とベアトリス、およびその母エマ(Dr. Emma Erskine Hahn)が参加しているので、大拙も神智学徒と言ってよいだろう。年代から見て武平との関係もあっただろうと推測される。なお、その前になるが、1920年の国際ロッジへの夫妻の参加もあったようだ。
 その後の活動だが、神智学側から見ると、大拙らは東京ロッジを離れ、大乗仏教ロッジなるものを形成していったようだ。このあたりの解釈は難しいが、どうも当時の大谷大学のなかに神智学的な傾向があったようすがうかがわれる。さらに神智学の分派的な動きは、やはり星のオーダーも関連している。さらにその後だが、1930年ごろから、大拙夫妻と神智学の接点は薄くなっていくようだ。とはいえ、ベアトリスは終生、神智学徒と見てもよさそうだ。
 ところで本書を読んで驚いたのだが、これもうかつにも部類だが、大拙とベアトリスには両者ともやや晩婚のせいもあったのか(41歳/33歳)、子どもはなかったが、1916年(大正5年)生まれの、英国人男性と日本人女性の混血児を養子として引き取っている。鈴木勝(アラン勝, Alan Victor Suzuki)である。


勝・ベアトリス・大拙(1925)

なおオリジナルサイトでは神智学ではなくバハイの扱いになっている。

 大拙とベアトリスの元で育ったのだから、さぞかし知的な少年期・青年期かというと、そうもいかず、放蕩で中学を放校された。ベアトリスのつてもあって、高野山に送るも遁走した。運命は皮肉なもので、勝は戦後の進駐軍の世界で頭角を顕し、英語を教えたことが縁でアイクこと池真理子と結婚した。宝塚時代の三日月美夜子である。

 鈴木勝は、1948年の大ヒット、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」の作詞も手がける。結婚生活は、勝の私生活の乱れから、1959年(昭和34年)離婚に至り、1966年(昭和41年)には亡くなる。50歳の生涯だった。奇妙な縁とも言えるが、大拙が死んだのもこの年である。



東京ブギウギ リズムうきうき
心ずきずき わくわく
海を渡り響くは 東京ブギウギ
ブギの踊りは 世界の踊り
二人の夢の あの歌
口笛吹こう 恋とブギのメロディー
燃ゆる心の歌 甘い恋の歌声に
君と踊ろよ 今宵も月の下で
東京ブギウギ リズムうきうき
心ずきずき わくわく
世紀の歌 心の歌 東京ブギウギ

 池真理子が亡くなったのは2000年5月30日。83歳だった。喪主は、1951年(昭和26年)生まれの、勝との間の娘・池麻耶だった。彼女も音楽の道に進み、現在ではアート関連のビジネスと英語教育に携わっている。
 
 

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2012.11.12

最近ハマった驚愕の三つの料理法について

 なんと言ってもまず、「水島シェフのロジカルクッキング 1ヵ月でプロ級の腕になる31の成功法則(水島弘史)」(参照)。強火にしない調理法の水島シェフの調理集なのだが、もう虎の巻みたいな本。31のレシピが素っ気なく載っているだけ。これで出来るの?と思ったけど、実際の手順はファンプラスというサイトに動画で掲載されているので、それを見るとよくわかる。公開鍵暗号方式じゃないけど、動画だけ見てもわからないというのもミソ。

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水島シェフのロジカルクッキング
1ヵ月でプロ級の腕になる
31の成功法則
 この素っ気ない31のレシピがすごいのなんのって、手順どおりに作ってみるとわかりますよ。で、やってみた感想その2としては、私が料理が下手なのか、うまくいかないこともある。従来通り、料理がうまくやってこれた人は、こんなまどろっこしいことやってらんない、ということもあるんじゃないか。しかし、そこもポイント。
 帯に「料理の革新!」とあるけど、まったく違った手法で調理してみるというのは、初心忘るべからずではないけど、調理というものを見直す機会にもなる。
 表題に「ロジカルクッキング」とあり、言わんとするところは科学的かつ論理的な調理法ということで、たしかにレシピを見ているといくつか法則性がある。もちろん、水島シェフ自身が3点に原則としてまとめている。(1)塩加減、(2)火加減、(3)毒出し、ということだが、その原則がどのように各レシピに反映さているかが、難しい。
 もちろん、「ここの調理手順は、毒だし」とかいうのはわかるし、火加減、塩加減も明記されている。が、その背景の科学的な原理がじっくりわかるというとそうもいかない。別の言い方をすると、31のレシピはこれでよいとして、これらではない素材やこれらではない調理をどうするかというとき、レシピをどう組み立てるかという演繹性で原理がどう関係しているのか、わかりづらい。
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決定版「50℃洗い」と「70℃蒸し」
食べて健康になる
 で、自分なりにいろいろやってみて思ったのだけど、これ、基本的には、「決定版「50℃洗い」と「70℃蒸し」―食べて健康になる(平山一政)」(参照)と同じなのではないかと思う。
 つまり、40度から50度近辺での洗い・毒出し・酵素反応と、火加減として特にたんぱく質や細胞組織の変化ではないか。
 そうすると、毒出し、調味、温度管理、という3ステップで、素材と料理を検討していくと、類似のレシピはできるはずで、実際に、実験的にやってみると、おおっとと驚く感じに出来る。げ、こんなうまいものできちゃった感もある。
 驚くといえば、これまでスロークッカーで料理するとうまいものだと思っていたのだけど、その理由は素材によっては長時間煮るということもあるが、低温から煮るという面もあるのだろう。
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油を使わずヘルシー調理! ポリ袋レシピ
 その手のことを考えていくと、これ、真空調理法とも通じているわけで、それってシャトルシェフの湯煎でもできたよなと思っていたら、「油を使わずヘルシー調理! ポリ袋レシピ(川平秀一)」(参照)というのもあって、これもやってみたら、レシピによってはけっこうすごかった。
 さらにこれに下ごしらえについても、ちょっと思うことあって、試してみているけど、さすがにその本は見当たらない。自分が思いつくようなことは誰かがやっていると思うけどね。
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DRETEC防滴クッキング温度計
 というわけで、なんか最近、調理が化学実験みたいになって来た。ので、絶対に欠かせないのが、温度計。水島シェフも使っていたのと同じだと思うけど、「DRETEC防滴クッキング温度計」(参照)を使っている。もちろん、メジャー器具も大切。クッキングタイマーとかも。
 それほど入れ込んでいるわけでもないけど、自分なりにいろいろ調理の実験していると、もっと簡素な調理法がわかったりする。つまり、なーんだ、この料理、こんなに簡単にできるんだ、とか。
 その反対に、昔ながらの伝統的な調理方法のメリットがわかったりもする。
 
 

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2012.11.11

半熟ゆで卵の割り方について

 卵を何分茹でますか?と聞かれるタイプのホテルに泊まることが久しくなったが、自分の朝食ではやはり好みの時間はある。6分かな。大きさや冷蔵庫から取り出したときの状態で違うのだけど、ある程度の黄身が固まっていたほうがいい。まあ、それは人の好みではあるけど。
 これをエッグスタンドに載せて、上部を割る。いかにして?
 つまり問題は、ゆで卵の割り方についてだ。
 スプーンでコッコッコッコッコッと回していってもいいのだけど、もっとワイルドなやり方もあるみたいだ。チョップ!

 モグラ叩き風もある。って、あきれた。

 しかし、ここはやはりエッグタッパー(egg topper)が欲しいところ。
 伝統的には、あれ、金属の塊の重石を棒に沿ってスコーンと落とすヤツだ。なかなか日本で売ってない。それなりにお高い。
 成功率は高いが、切り取られた状態は、つるんとしていることもあり、そうでないこともあり。

 もちろん、お子様は大好き。っていうか、これ、一種の玩具ともいえるよな。

 最近また始まった料理の鉄人でも出て来たけど、引っ張って離すというやつ。

 他はどうかなと見ていると、カッタータイプのものがある。というか、それってエッグカッター(egg cutter)だろと思うが、タッパーでもカットするなら同じでカッターでいいのかよくわからない。
 これだが、なによりカッターの歯が周りから、にょっと出て来て、卵を苦しめる感じがどうも趣味に合わない。恐いじゃないですか。

 アマゾンを見ていたら、安価なエッグハンマー(参照)があった。これ、使えるんか?

 買ってみた。
 椀部分を卵に当てる。ハンマーはクリップみたいになっているので、そこを引き離して、パチンとする。初回は失敗。
 二回目で成功。うまソースは今一つ合わない、ま、それはどうでもいいけど。

 マジックソルトだとそれなりに、おいしい。

 まあ、そんだけの話です。
 でも、やっぱり、伝統的なエッグタッパーがいいかなあ。
 

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2012.11.10

最近ハマった微妙な三つの調味料について

 買い物に行って、ふと、「この調味料はなんだろ? まあ、使ってみないとわからないか」という調味料につい手を出すのが好きで、実際にちょっと使ってみる。「うぁ、これはダメぇ」「これはフツー」とか思うのが大半なのだが、なんとも微妙なものがあるんで、ブログのネタにでも。

ブルドック うまソース
 そもそものきっかけは、ソースのレパートリーが増えることだった。日本人なのでとんかつソースはしかたない。ウスターソースはできればリーペリン(参照)。問題は中濃ソースである。まあ、なくてもいいか。でもなんとなく買ってしまう。おたふくのお好み焼きソース(参照)はどうか。これもしかたない。焼きそばソースは麺に粉のがついているのでいいや。タコ焼きソースは、これが微妙。お好み焼きソースとは違う。ただ、大阪人じゃないんでそんなにタコ焼き食わないし。
 正直言ってソースが増えるのは頭痛の種である。そこに「ブルドック うまソース」である。もうヤケと言ってもいいので買ってみた。
 レシピがネットにいっぱい載っている(参照)。さば味噌の味噌の代わりに使えるとか肉じゃがに使えるとある。なんだろこれと思った。
 まあ、普通にソースにも使えるだろうと思って使ってみると、ブルドックとおたふくの戦場でブルドックが歩み寄った、と、絵にかいたら笑えそうなポジションニングなんだが、ダシが効いていて、たしかに何にでも使えそう。カツもんに使ってもまあまあ。目玉焼きとか天ぷらとかにも使える。というか、これ、もしかして、日本料理の究極の調味料なのではないか。いうまでもなく、日本料理といえばソースだ。
 この味だと、焼きうどんに最適なだと使ってみると、グー。ナシゴレンにしてもよいのではないかとやってみると、グー。とか言っているうちに、使い切って、ブルドックお薦めのレシピは試していない。
 じゃいいんじゃないのということだが、そうでなくてもソースが増えてげんなりしていて、これを定番にするのか悩むところ。あと、これ使うと、どれもなんかもう抜群に屋台料理化しちゃうのもアレ。

S&B マジックソルト
 食卓塩にはアルペンザルツ(参照)を使っていてこれはこれでいいし、その系列のハーブ入り(参照)も使っているので、この手の商品はもうイラネとか思っていたのだけど、S&Bマジックソルト(参照)が面白そうなんで買ってみたわけですよ。
 レシピもついているには付いているし、なんか知らないけど、三つ星レストランのシェフがどうたらというお話も付いている。余談だけど、私はクレージーソルトは使いません。

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S&Bマジックソルト
 このマジックソルト、いきなり使い方がわからない。普通に食卓塩に使うには微妙。ハーブ量が多くてそこが目につくからそれとのバランスで塩がどのくらい混ざってどのくらい塩が効くのか勘がはたらなくて最初かなり戸惑った。
 料理に使っても同じ。塩の効き方が最初わからない。さらにいうと、ハーブと塩がかならずしも均質にまざっていないんで、味が安定しないので、むっと来るものがあった。でもまあ、だいたい慣れた。で、嵌ったっぽい。
 普通にオムレツに混ぜると、うまいですね。魚のホイル焼きとでもグー。総じて魚ものには合う。肉の場合は、ひき肉とかに最初に計量して使うとよいみたい。ハンバーグとかにも使える。アニスフレーバーが微妙によいのと、トマトの彩り感もある。
 なので、けっこう小分け(参照)を足して結局、定番化しつつあるのだけど、ここに来て、チリの効き方がよくわからない。使うシチュエーションでチリの辛みの目立ち方が変わるみたいで、いらいらする。
 あれかなあと思って、調理のときはエルブ・ド・プロヴァンスに戻した。というか、エルブ・ド・プロヴァンスがあればこれ要らないかというというところが微妙なところ。

リケン玉ねぎドレッシング
 玉ねぎドレッシングというのはいろいろあって、どれもまあ、こんなものでしょという感じなのだし、このリケンの玉ねぎドレッシング(参照)もそんなものとも言えるのだが、買って見たら妙に甘い。もしかしてと肉料理のソースに使ったら、すげー合いましたよ。油が入っていないのはいいのだけど。

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リケン玉ねぎドレッシング
 もともとシャリアピン・ステーキとかタマネギソースとかあるわけだから、ステーキや焼肉に普通に合うとは思ったけど、豚にも鶏にも合いますね。普通にこれで豚の薄切り炒めても、うまい。
 なんかよくわからないけど、肉料理の味が単調で困るときのソースの換えに便利なんで定番化していきそう。

 *  *  *

 調味料なんて単純がいいと思っていたけど、なんか目新しいもの見るとつい使ってしまって。まあ、最近で気になるのはそんなところかな。とにかく、調味料が増えるとろくなことがないんだけど。
 この三つ、それでも、決まった使い方すると、ばしっと決まるので、用途を意図すればそれなりに便利。
 
 

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2012.11.08

[書評]式の前日(穂積)

 以前ネットで話題になって、おそらくそのせいだと思うけど、アマゾンなどでもしばらく品切れで、今見ると数日待ちの状態。アマゾンの数日待ちは当てにならないので放置し、いずれ読む機会があるだろうと思ったが、昨日出先の書店で平積みだったので買って読んだ。

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式の前日
(フラワーコミックス)
 最初にお断り。
 以下、ネタバレがあります。ネタバレと言うべきなのかという、それ以前の問題もあるけど、このコミック未読の方は、以下を読まないほうがいいかもしれません。
 それと、この作品を諸手で絶賛している人がいるのは知ってます。けなすとか評価が低いということではまったくありませんが、絶賛以外の感想は許せないというタイプの人は以下、スルーしてください。また帯に「”泣ける”読み切り6篇」とあるのですが、私はそうは読んでいません。
 正直にいうと、そう読むことが評価にならないようには思っています。

  *  *  *

 作者についても、またこの作品の周辺的な話について、デビュー作品集という以外、私は何も知らないので、その意味では、素手で読んでみた。素手でというのは、私は漫画読みではないので、そういう視点はかなり弱いというのと、普通に文芸的な、あるいは映画的な作品として読んだという意味である。
 今「映画」と言ったが、この作品、特に表題作「式の前日」は普通に映画になるだろう。もちろん、16ページのそのままが映画になるわけではなく、また、巻末の12ページの「それから」も含め、さらにいくつかのサブエピソードをつなげる必要はあるが、きれいな映像に仕上がるだろう。ただし、それにどれほど現代性があるのか、あるいはその映像のなかに現代性をどう盛り込むのかという点では、映像作家は悩むだろうし、映像化された作品は、コミックの「仕掛け」とはかなり異なるだろう。
 「仕掛け」。そう言ってよいかも、悩むところだ。印象的な表紙がその仕掛けの一部なのかも曖昧である。表紙では、端座した若い男女が、ご飯と味噌汁の椀を持っていて、その中央に表題の「式の前日」とある。さては、式の前日の新婚の二人と見るだろうか? この表紙からは、なにが読み取れるだろうか。よく見ると、"The wedding eve"とあり、その英語の語感を持った人なら、かなりの推察は効くだろう。
 表題作「式の前日」は表紙の二人と思われるうちの若い男が縁側で昼寝しているシーンから始まる。ナレーションに「明日、結婚する」とある。女がやってきて「寝てるの?」と言う。立ちながら「寝るならむこうで寝なよ」と呼びかける。
 家は「お縁側には陽がいっぱい」の昭和30年代の趣向で、男女の会話には親しみから長い付き合いが感じられる。この家は何で、この二人の関係は何かが、すぐに問われるようになっている。この時点で、ただの風景のように見えながら、上手に違和感を残している。新婚の二人の前日とは思えないからだ。
 二人の歳差はどのくらいだろうか。絵からは同い年くらいに見える。歳差があるようには見えない。が、明日のドレスを女が試着するというシーンで、女が「……やっぱり、やっぱりパフスリーブにすればよかっ……? あっちのほうが二の腕細く見えた気がする」と言う。二の腕を気にする女は30代であり、それを気にしない20代で結婚したかったことが察せられ、画像の女の年齢感が30代にずれるが、ティーシャツの男の年齢はそれに比例しない。男は年下である。というような読みもできそうなシーンの重ねから、男女は夫婦ではなく、姉弟なのだと暗示される。
 ウエディングドレス姿の姉に弟が「おとーさん泣くよ。こんなもん見たら」と言う。父は不在であり、その夜のシーンで女は仏壇に手を合わせ、「お父さんとお母さんに報告」と言う。母も死んでいる。そして仏壇の据え付けられた家は父母の家であることがわかる。
 さりげなくだが、謎解きのように姉弟の関係を映像的に展開していく。それは一つの「仕掛け」と言ってもよいかもしれないし、その謎解き風の展開はさらに続く。
 しかし、彼らが新郎新婦ではなく姉弟ということはさほどの謎でもないし、さほどの仕掛けでもない。むしろ問いかけられているのはその仕掛けと読みではなく、笑いと涙の、野暮な言い方だが、記号的な意味のほうである。
 姉弟で暮らす最後の晩ということで居間で並んで寝るとき、姉は泣く。また、翌日、その家を旅立つタクシーでまた泣く。
 その涙の心情の意味が、この作品の核のように見える。それは、ごく単純に言えば、姉弟の愛情であり、表面的には姉から弟への愛情である。父母がいるなら、親が子に注ぐべき愛情とも重ねあわされている。母代わりの姉ということだろう。そして父代わりの弟でもあるだろう。
 これがまずこの作品の感動の核なのだろうというところで、私は、その心情に寄りそう部分と、「うぁ、これはやってらんない」と思うアンビバレントな状態で、かすかにパニックになる。こうした心情をすんなりと受け入れるものだろうか。
 私には姉はない。親友には姉がいてその心情をなんとなく察してきたので、姉弟の関係にはこういうものかとも思うし、吉本隆明の『共同幻想論』を持ち出すまでもなく、日本のようなアジア的心性の古代国家に特有な、神話的な王権の構造にも関連することはわかる。
 それらを透かしてみるから違和感なのかというより、私にとってこういう愛情の心情の純化というものそれ自体に、ちょっと耐えられないな、というのがある。これが現実なら「とんでもない嘘ですよ、奥さん」とおどけたくもなる。30歳過ぎの姉はもっとどろっとした女を隠しているはずだ。だが、そう思わせないために、純化のために、「死」が作品の中央に大きく置かれている。
 本書の他作品でも一貫しているのは、この「死」の側からの視線とそれが見せる光景である。父母のような愛情と同化した死の視線のなかで、人の心情が姉弟の淡いエロス的な含みをもって純化される。それがテーマでもあるだろうし、そうしたある種の淡いロマンによってこれらの物語が心情的に支えられている。
 私は、個人的な嗜好にすぎないのかもしれないが、こういう淡い姉弟愛のような死の視線が好きではない。死はもっと個人の絶望を型どり、その存在を一人の異性に性的に向き合わせるような情熱になるものだと思っている。いや、それは単に性癖とでもいうだけのことだろうか。
 「式の前日」に戻ると、しかし、この作品のもっとも重要な部分は、姉の二度の涙、そしてそれを心情的に受容する弟の心情と関連しながらも、むしろ、記号としての「笑い」のほうにある。
 式の手順の話のなかで、姉はちゃぶ台にうっぷしたまま弟に「笑ってね、ちゃんと……明日」と言う。姉はそのあと顔を上げて笑いを見せる。また最後の晩となる食事でも笑いを見せる。映像からは、笑いを見せるというよりは、弟の視線のなかで、大切なものとして姉の笑いが受け止めらている。そこに弟の微笑みはあるが、弟の「笑い」は存在しない。なぜなのか? そこである。
 「式の前日」で弟が、姉のように「笑い」を見せたとき、この作品の心情は成立するのだろうか。
 おそらくそうではない。
 姉弟の愛情が、弟の側から個人の愛情として確立するには、つまり、死の視線(死者としての親の心情の視線)から離れるには、弟の側の個人の愛情の「笑い」が必要になる。その微妙な余白のなかで、この作品は中途半端に止まっている。
 その解決は巻末の「それから」という後日譚に引き継がれる。その間にあってシチュエーションの異なる短編はその、弟の「笑い」を引き出すまで、暗黙の心理的な過程になぞらえられている。そのあたりの構成は、意図されたものかわからないが、作品集としては見事だ。
 死の視線のなかで姉弟の淡いエロス的な含みをもって純化されたものは、「それから」において、猫の目から「もっとも私にとっては死のうが生まれようがさして差違はない。自然の理にすぎんがな」と語られる。この猫の仕掛けは、漱石の「吾輩は猫である」と似てまったく異なるもので、猫に仮託された心情ではなく、風景がそのように死の語りを呼び寄せたものである。
 作品のなかに執拗に置かれている死が暗示するものは、作者の無意識を傷つけている死の体験であるかもしれないが、むしろそういう理解より、作者にとって、姉弟の淡いエロス的な関係のなかで疎外された女の性だろう。
 卑近にいうなら、女は、なぜ結婚しなかったのか、あるいは結婚に妥協したのか、その後ろ髪引かれる悔恨のようなもののを死の鏡で美化して見せたなにかである。
 だが作品集の総体としては、その死の相貌が、人間の心情の純化といった物語ではなく、人を離れた無意味な自然に押し戻され、それから人が笑い合う世界に引き戻されていく。そこにむしろ作品集の価値がある。
 それは「10月の箱庭」で死が語る「誰かに愛されようとしなくていい。まずあんたが誰かを愛せばいい」のなかでも暗示されている。
 アジア的な神話的な自然性から愛の意志に立つまでの、孤独な個人の心情に至るドラマを、まだ日本人は必要としているのだろうか。しかも、若い世代がそれを。
 
 

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2012.11.07

[書評]ただ坐る 生きる自信が湧く 一日15分坐禅(ネルケ無方)

 ネルケ無方さんの名前をよく見かけるようになった。アマゾンを見たらけっこう本も出されている。外人さんで禅に入れ込むというのは、けっこうよくある話だからなとあまり関心ももたなかった。いや、この「外人さん」という言い方も差別的でひどもんだなとは思うが「外国人」とも違った微妙に親しみの含みがあって難しい。もう少し言うなら、日本人以上に日本を熟知する外国人が出現してきたことの含意もないわけではない。

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ただ坐る 生きる自信が湧く
一日15分坐禅
 いすれにせよ、外国人や知識人が関心をもつ禅、あるいはメディアや書籍とかで著名な禅のお坊さんの説教などは、道元を敬愛する私にしては、もうどうでもいい存在である。ところがどうも、ネルケさん、道元の徒らしい。え?と思った。いやそう思うことがまったくもって失礼な話なのだが、あの正法眼蔵の正法の禅を理解する外人さんがいるのか、いやいるのだろう、という予感がして、まず一つ、わかりやすく坐禅の話を読んでみた。
 率直に言うと、公案とか無だとか数息観とか丹田とか出て来たら、呵呵と笑って放り投げようと思っていた。ところがどっこい。全然違っていた。ネルケさんの禅は、まごうかたなき道元の禅そのものだった。びっくりした。しいていうと、沢木興道が出てくるのは安泰寺だからしかたないかなという感じはしたけど。
 これだけ禅についてしっかり描かれた現代の本というのを想定していなかったというか、私自身、このネルケさんの本で、半眼や足の組み方など、ああ、そうだったのかと長年の疑問なども解けた部分がある。なにより、本当に禅に取り組んでいる僧がいるのだということ、道元の教えが今もきちんと継がれていることに心温まる感じがした。篤く三宝を敬えという感じがした。
 想起するまでもなく、如浄にとって道元も外人であった。如浄の禅をすべて受け止めたのがこの外人の道元であった。道元の禅のなかに、すでに普遍性への信頼が込められている。そして現代に如浄の禅が残るのは、道元によると言ってもよい。日本に本当の意味で世界に伝えるものがあるなら、道元だけでよいかもしれないし、いや、その道元にして空手還郷であるといえばそうだが。
 ネルケさんの言葉はやさしいが痛切でもある。

 釈尊の教えが禅という純粋な形で日本まで伝えられているのに、日本人がどうしてそれに関わろうとしないのでしょうか。禅宗のお坊さんですらなかなか坐禅をしないという事実こそ、私に言わせれば非常に珍しいというよりも、はっきり言って情けないことです。人間に生まれて、この一生を何も分からないままでぼんやりと過ごすのはもったいないことではありませんか。生と死の問題、自己のあり方、生命そのもの生きる方法、それらの問題に無関心ではいれらないと思うのです。人生を坐禅という形で追究し極めようとする私を「もの珍しい外人」では片付けないで、あなたも「一度トライしてみよう」という気持ちになっていたければ嬉しいです。

 引用しながら、これはまるで正法眼蔵随聞記そのものだと思った。
 日本の仏教についても。

 私が問題にしているのは、日本人の仏教離れではありません。問題は、正しい仏教が説かれていないということです。

 「正しい仏教」と言おうものなら、百家争鳴となるのがおちだが、ネルケさんのこの本でも展開されているが、「正しい仏教」は道元の「弁道話」を背景としている。
 ここに道元が現在もいきいきと生きている。なんてことだと思う。
 そして、ネルケさん自身の個性も躍動している。そのもとから、また僧も育つだろう。仏教というのは千年の単位できちんと息づいているのだと感慨深い。自分が生きている同時代に、信頼できる僧がいるだけで嬉しいと思う。
 
 

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2012.11.06

[書評]93歳・現役漫画家。病気だらけをいっそ楽しむ50の長寿法(やなせたかし)

 いつまで生きているんだろ。自分のことである。十代のころ20歳まで生きないよなと思っていた。生きていた。それでも20代には40歳になる自分なんか想像つかなかった。あっさり越えた。しかたないんで50歳まで生きられないだろうなと延長した。実際、もう死ぬかもぉとも思ったが、まだ生きている。ブログ書くようになってから、よく死ねばいいのにみたいなお言葉もいただくくようなった。それって長寿効果があるのかもしれない。最近、輿石東先生や石原慎太郎を見ていてそう思うんだ。

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93歳・現役漫画家。
病気だらけをいっそ楽しむ
50の長寿法
 先のことはわからない。もしかしたら、60歳過ぎても生きているどころか親父の享年もするっと越えて65歳とか70歳とかまで生きているんじゃないだろうか。80歳……90歳……逆にそれもホラーにも思える。ホラーマン。そういえば、と93歳のやなせたかしの「93歳・現役漫画家。病気だらけをいっそ楽しむ50の長寿法」(参照)を読んだ。
 はっきりいうと、スカスカな本である。しかも後半は高齢者向け健康食品のカタログじゃねーかとか思ったけど、いやけっこう感服してしまった。読んでよかった気になった。93歳になっても生きているんだというリアリティががっつーんと来たし、率直にいうけど、こうすると人間90歳まで生きるものかと、なんつうか、反省いたしましたよ。先生、93歳で毎日筋トレしてますね。
 やなせたかしといえば、アンパンマンである、ということになっているが、僕にしてみると、アンパンマンはやなせ先生の新しいキャラだなと思っている。1970年代の半ばごろに出て来た新キャラじゃんというか。記憶によるんだが、僕が小学生だった1960年代、やなせたかしはNHKの番組に出て来て、壁にはった模造紙にマジックですらすら絵を描いていた。あれ、なんというのだっけ。と調べてみるとわかるもんだね。「まんが学校」である。月曜の夕方6時からやっていた。司会は立川談志だった。あのころやなせたかしは何歳だったんだ? 引き算すると、45歳。ほえぇぇ。立川談志は28歳だよ。まだ20代だったんだ。そういえば、水森亜土ちゃんもよくNHKで絵を描いていた。あれは1970年ころだっただろうか。30歳ころかあ。
 やなせたかしは当時私が通っていたお習字の先生とよく似ていたんでその連想もあって懐かしい。お習字の先生はその後、どうなさったのだろうか。そういえば、先日、昔の町を散歩して先生の家まで足を伸ばしたが、廃屋っぽかった。お子さんがなかったように記憶している。そういえば、やなせたかしもお子さんはなかったようだ。
 なんといっても、やなせたかし、93歳ってすごいな。しかも、矍鑠(かくしゃく)としているではないか。と、思っていたのだが、この本読んで知ったのだけど書名通り、「病気だらけ」らしい。病気の総合商社とか言っている。そのリストを見るに、これはすごいわ、現代医学。癌も二個所摘出しているし、心臓はペースメーカー。目は白内障・緑内障。そして糖尿病。恐いです。生きているって、こういうことなのかホラー。


 人生ままならぬ。


 65歳まで仕事をしたら引退し、カミさんに見守られながら、ささやかな人生の最期を迎える。
 そんなふうに考えていたのですが、人生というのは想定通りにはいかないものです。

 そういう想定の外しもあるわけですね。

 漫画家としてなかなかヒット作が出なかったのが、「まもなく60歳」というところになって、なんとアンパンマンが大ヒット。65歳のころは仕事に追われ、引退どころではありませんでした。

 幸運というのだろうか。
 そういえば、都知事をやって80歳まで元気ですをやってた鈴木俊一も2010年99歳で死んだ。というか、99歳まで生きていた。まあ、確かに元気そうだったからなあ。
 あーもう、なんだか、よくわかんねえや。とりあえず、やなせ先生お薦めの、タマネギの酢漬けでも作って毎日食うかな。
 
 

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2012.11.05

[書評]出ない順 試験に出ない英単語(中山・著、千野エー・イラスト)

 物好きを誘うバカバカしい本らしいんで、「出ない順 試験に出ない英単語」(参照)、中も見ないで予約で即決でポチっと買いましたよ。買ってから買ったことを忘れて、先日届いてびっくりしたけど。で、開いてまたびっくりしましたよ。何が?
 こ、これは、使えるじゃないですか。そんなぁ。


military advisor

あそこでステファニーと一緒に踊っている
トップレスの男性は、
劉備の軍師諸葛亮です。

The topless man dancing over there with Stefanie
is Liu Bei's military advisor, Zhuge Liang.


 いい感じじゃないですか。使えるじゃないですか。コメントに「何やってるんですか、伏龍さん、魏が攻めてきますよ」とあるのも味わい深い。若いな、亮。
 これ、ほんとに「出ない順」なんすかね。ほかにはというと、アマゾンの紹介とかが無難だから引っ張ってくると。


ボブは笑い過ぎてサーモンカルパッチョが鼻から出ました。
Bob laughed so hard that the salmon carpaccio came out of his nose.

部長は真っ裸でサンタクロースを追いかけていた。
The department manager tried to tackle the Santa Claus while completely naked.

ボブは打合せ中に偶然、クライアントの性感帯を発見した。
Bob accidentally found a client's erogenous zone in the business meeting.


 といった感じ。どれも絵が付いています。
cover
出ない順
試験に出ない英単語
 下ネタも多いし、ベタなギャグも多い。
 おもしろいかな?
 これ、手に取ってから気がついたのだけど、47分ほどのCDが付いていて、聞いてみたら、くそまじめな、日本語のナレーションとイギリス英語のナレーションが入っている。聞いていると、うーむ、まあ、笑えるといえば笑える。というか、普通にシュールなギャグになっている。
 という意味では面白いのだけど、英語で聞いてみると、これ、英語としてはそれほどギャグになってない感じもした。ネイティブにはそれほど受けないんじゃないかな。そのあたり、でも、英訳の人が苦労している感じもあって、苦労して仕事してますなあ感はあった。
 英語だと基本はオチは文末に来るんで、その点では先の

部長は真っ裸でサンタクロースを追いかけていた。
The department manager tried to tackle the Santa Claus while completely naked.

なんかはオチが語末なので英語のギャグの王道のツボかもしれない。
 同様にこれもそうかな。

「顧客リストどこやった?」
「課長の尻の割れ目に挟んでおいたわよ」
What did you do with the client list?
I inserted into the section chief's bottom cleavage.

 ちょっと気になるのは、"bottom cleavage"って「尻の割れ目」でいいのかな。これ、「だっちゅうの(古い)」とかメルケル首相のように上からみたオッパイの谷間に対して、ボトムライン側の「はみ乳」ではないのか。つまり、下乳または下パイっていうやつ。でも、現代英語では"underboob"ってやつになるか。
 っていうか、あれです、「出ない順 試験に出ない英単語」というなら、"bottom cleavage"じゃなくて、"Underboob"を載せてほしいんですよね。
 ちなみに英辞郎を見たら"Underboob"が載ってないよ、こら、アルク。でも、"boob"は載っているけど、"sideboob(横パイ)"は、ないなあ。

 あるいは、bottomに尻の意味があるけど、その"cleavage"となると……。ま、どうでもいいですかね。
 似たような感じの言葉だけど、"handbra"はこの本に載っている。


handbra
一同起立!手ブラ!着席!
"Everyone rise! Do a handbra! Be seated."

 イラストは後ろを向いたお相撲さんです。うーむ。ところで、日本語で「手ブラ」って言うのか? おお、言うみたいだ。ってか、「髪ブラ」っていうのもあるのか。知らなかったぞ。
 話が脱線したけど、英語のギャグ感は文末オチかなと思うので、さっきの英文もこうするとよいか?

In the business meeting, Bob accidentally found a client's erogenous zone.

 このほうが文体としていいかとなると、そーゆーところが英語の感覚がわからない。どうでもいいけど、"erogenous zone"の駄洒落が"erroneous zone"です。自己啓発のダイヤー先生の大衆向け処女作ですね。ほんと、どうでもいいけど。
 話をさらに戻して、この本、「出ない順 試験に出ない英単語」は基本的に英語的なギャグのひねり感はなくて、ただ、語彙の部分を下ネタやNGワードに置き換えたというのであって、文章とかはそこを置き換えると、普通につまんない日本によくある英語学習書になるので、その意味では、ベタに丸暗記しても、けっこうそのまま使えちゃうというのがなあ。たとえば、

"This is a good condom, but I wonder if it will fit me."
"Would you like to try it on?"

 これとか、"condom"を置き換えれば普通につまんないよくある英文になる。だから、普通に例文を暗記しても普通に英語の勉強にはなっちゃうんですよね。"Would you like to try it on?(ご試着なさいますか)"とか知っておくべきだし。
 ついでにCDなんだけど、ちょっと変な注意書きがあって、なるほど聞いていると、ちょっと本文と違うところがある。

stamp with blood

「すみません、郵便屋さん。はんこが見つからないのよ。血判でもいい?」

"I'm sorry Mr.Postman, I can't find my personal seal.
Can I just stamp it with my blood?"


 CDだと。

"I'm sorry Mr.Postman, I can't find any wax.
Can I just seal it with my blood?"

 になっていて、これ、あれです、昔のレターとかにあるワックスシール、つまり封蝋ってやつの話で、これ、僕も昔自分用のを作ろうかと思ったことあるんだけど、で、そのシールを血でやりましょうかという変な話になっていて、そのぉ、日本語のギャグのシーンとはまったく違っている。
 英訳するとき、これさすがに英語のシーンならないよだったのか、意思疎通がうまくいかなかったのか。
 そのあたり、どういうふうにこのCD版ができたのか、ちょっと知りたいですね。
 
 

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2012.11.03

フランスでは中絶費用が無料。15歳から18歳へのピル配布も無料。

 国家とはなんだろうかという問題を、自分なりにいろいろ考えてきた。レーニンやトロツキー的には国家というのは暴力装置であるとした。つまり、軍隊や警察、刑務所など各種の暴力機関を収納して一元的に発動できる装置(apparatus)であるとした。ウェーバーはこれを近代国家の要件としたが、彼は国家形成については多元的な見方をした。他方、レーニンは暴力が権力源泉であると単純に考えた。その信奉者には、国家=暴力装置という権力源泉を解体して市民を自由にするためには、それを対抗的暴力で解体すればよいのだという短絡な運動も生まれた。「政権は銃口から生まれる」というものである。これを大衆のルサンチマンに結合することを革命の情念とする傾向も見られた。
 この国家観の起点にあるマルクスはレーニンのように考えていたわけではなかった。彼はこれをまず上部構造として捉えた。エンゲルによって実質改竄されその安易な流布であるレーニン主義では、上部構造は経済などの下部構造に依存して形成されるとした。が、そうであればマルクスがあえて上部構造と捉えなおす必要はなく、経済的な利害システムの一元化が可能であっただろう。あるいは単にレーニン主義者は上部の階級と上部構造の違いが理解できなかったのかもしれない。
 マルクスはその点、ヘーゲルの国家観の原点である絶対精神の奇妙な運動の自律性を理解していた。そのため、下部構造が自己疎外を起こして上部構造が生じるという直観を持っていた。が、その部分の思想は十分に展開できなかった。
 思想家・吉本隆明は、マルクスの上部構造を、ヘーゲル的な文脈に戻して「共同幻想」として取り出すことで、マルクスの思想を継いだ。吉本の意図としては、レーニン主義的な文脈からマルクスの国家論を救済する意図であったが、「共同幻想」という術語によって、それがあたかも、覚醒すれば消える「幻想」のように誤解されることにもなった。もっとも大学の先生でもそう理解している人もいるので、あながち誤解とも言えないかもしれない。
 吉本の言う「幻想」は、共同性の心的作用から生じるという点では通常の意味の幻想ではあるが、その幻想は心理主体にとては、客観性のように現れる現象であるということが重要である。客観性のように現象を受容している自我の意識にとって、その心的現象を解体することは、簡単に覚醒すればよいというものではない。至難ともいえる思想の営為を必要とする。
 それでも幻想は幻想であり、国家が上部構造である・共同幻想であるということは、卑近に言えば、国家とは宗教であるということだ。宗教として国民を心的に束縛するなにかである。
 興味深いのは、これがそのまさに意識における上部構造的な自我に自覚されなくても、その幻想性は、異なる国家観の宗教性の対比のなかから浮かび上がってくることがあることだ。簡単に言えば、宗教といっても、一般に日本人が想定している宗派的な宗教や迷信的な信仰ではなく、国家の心的な永続性に関連する部分で可視になる。
 つまり、人が生まれ死んでいくという、実際には意味のない生物的な連鎖のなかに国家という統体を知覚するような幻想の設定が国家という宗教であり、これらが、実際に、人が生まれる・死ぬ、ということに、人を駆動するための意味を与える。
 具体的には、人を駆動して結婚させ子どもを産ませ、墓を通して死者を生者に連想するさせることである。その意味で、結婚と出産と墓の制度のなかに、国家の幻想性は集約的に表れる。
 このように述べると、あたかも古代や未開社会の問題のようにも思えるが、実は、これが未だに現代の問題であり、現代の国家幻想・国家宗教の様相を見せるところが興味深い。
 以上は実は前書きのようなもので、エントリーを書こうかと思ったのは、先日のフランスの国会での、中絶とピルの関連する問題について、日米のメディアの関心の薄さからであった。私の見落としかもしれないが、国内報道では見当たらなかったように思う。米国でもその扱いは少なく、報道も微妙だった。こうした、あるもどかしさが、現代の国家幻想が露出する側面に思えた。
 該当のフランス下院の10月26日の決議自体は単純である(参照)。
 フランスでは従来、マイノリティと未成年の中絶費用は無料だが、他の場合、保健の適用は80パーセントまで自己負担分があった。これが実質女性にかかっていた。
 今回の決議でこれが全額無料となった。全費用は450ユーロ(4万6411円)なので、それまでは約1万円くらいの自己負担があったということだろう。さほど大きな補助とも言えないといえばそうだが、むしろ、中絶の権利を国家が完全に保障したという点が重要だろう。
 今回同時に、15歳から18歳の避妊についても、完全に無料となった。
 考えようによっては、これもどうということのない話題のように思えないこともないが、気になったのは、「15歳から18歳の避妊が無料」というときの、避妊が何を意味しているかである。
 情報をいくつか当たってみたのだが、私はフランス語がわからないこともあり、確定的なことは言えないが、どうやらこれは、ピルを意味するようだ。言うまでもなく、男性のコンドームではないし、そもそもコンドームは欧米では避妊具ではなく、性病予防の用具である。
 するとどうなるのか?
 フランスの場合、15歳から18歳の女性が、妊娠を好まないという場合、無料でピルが入手できるし、実際上、国家がその年代の女性に、日常、ピルを服用しなさいという推奨することにもなる。もちろん、本人が性交をしても妊娠を好まないという意志を国家が権利として支援するという意味ではある。
 私の勘違いかもしれないが、その国家支援の背景には、15歳から18歳の女性の性交は、それ自体が一種の人権として認められているという考え(幻想)があることだ。これについてももちろん、レイプなどの危険性の防衛ということもあるだろうが。
 いずれにせよ、今回の議決でフランス人女性すべてが金銭的な制約なく、自身の性生活を自己管理できるようになったとは言える。つまり、市民の自由の実現であり、女性の市民権の補完とも言えるだろう。
 話を前振りの国家幻想に引きつけると、これがフランスという国家の国家幻想であり、その話題を読みながら、日本や米国での受け止め方に違和感があれば、その差違に国家幻想が見えるだろうと思った。
 日本では、この問題、つまり、中絶の完全無料化と15歳から18歳の女子へのピルの無料配布は、どのように議論されているだろうか。特に、フェミニズムにおいてどのような問題設定にされているのか。たまに調べてみるのだが、日本のフェミニズムが多様なこともあり、よくわからない。
 米国ではこの問題に関連して、ジョージタウン大学法学部生・サンドラ・フルーク(Sandra Fluke)が有名である(参照)。彼女は昨年議会で、避妊の保険適用について証言をして話題になった。その時点で彼女は30歳だが、ジョージタウン大学で学ぶ間に費やした避妊の費用が3千ドル(24万円)を越えたという。これを保健適用にしろという主張である。
 そのまま日本の大学に置き換えるなら、女子大生には年間6万円避妊費用を国家の保健適用とするということなるだろうか。
 米国ではこの問題で保守派がいろいろと騒いだが、逆に騒ぐことで、フランスとの対比を示した。26日のフランスでの議決ではこの問題が事実上、さしたる問題もなかったように見えた。
 話は若干それるが、昨今、日本でも出生前検査が話題になっているが、私の理解ではフランスではこれも保険適用であったはずだ。そのあたり、日本で話題になっているなら、フランスの状況と経緯はどうであったかという比較報道があると思ったが、ざっと調べた範囲では見つからなかった。
 こうした問題の、現況を踏まえた総括的な議論を読みたいものだと思うが、実感としてはいわゆるフェミニズム関連の書籍からは見当たらないように思う。
 

 
 

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2012.11.02

[書評]ムツゴロウ4部作

 動物おじさんとして有名なムツゴロウさん、つまり畑正憲さんには、不思議な陰影というか、いわゆるペット愛好の人とも、また動物研究家とも違うなにかを私は感じた。その関心から彼の本を読んだことがある。
 最初は、マンボウシリーズの北杜夫さんを真似ている部分があるのだろうと思った。実際は真似ということはないが、ムツゴロウさんとしては北杜夫さんを文筆活動の一つの目標としていた時期がある。両者とも軽くユーモアなタッチの奥に深い人間洞察を秘めている。北杜夫についてはある意味、文学の血脈とでもいうのか、その父から、そしてその娘さんまでけっこう気になって追ってきた。ムツゴロウさんについてはいわゆる文学的な視点とは違うものを感じて、追跡が難しかった。

cover
ムツゴロウの青春記
 北杜夫と畑正憲の違いは、北の「どくとるマンボウ青春記」(参照)と畑の「ムツゴロウの青春記」(参照)の両書を読むだけで、心のそこにずんと来る響きに違いがあることがわかる。北杜夫さんは先日亡くなったが晩年の老人の相貌の印象を残した。畑正憲さんも77歳となりさすがに「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」のころの颯爽とした風貌から最近は老人のそれに変わってきた。だが両者の青春記を読むと、老いの相貌のなかに、時代がなんであれ、どうしようもなくきらめく少年の心というものが見える。北杜夫さんについて言えば、しかし「きらめく」というのは違い、こんなにも繊細な人だったのかということに驚く。畑正憲さんはというと、きらめくが適切だし、その個性がもちろんきらめいているが、その光の根源は個性を越えた、こういうとよくないが、得たいの知れない部分がある。
 cakesに寄稿(参照)して6日に有料公開されるはずの「ムツゴロウの青春記」の書評ではそのあたりに注目した。cakesは週単位の課金なので、もしそのことが気になることがあったら、その時に読んでいただけたらと思う。
 cakes書評でも触れたのだが、ムツゴロウさんは、時代的な文脈で見るなら、大江健三郞や柴田翔と同年の作家であり、実際に三者は東大で同級生でもあった。彼らの間で面識があったかはわからないし、文学者としてはノーベル賞も取ったので大江が突出したが、今は忘れられたかに見える柴田の文学も当時は大きなインパクトがあった。畑正憲という作家を文学史的に見るなら、この三者のなかに位置づけると、戦後の60年代の情況のある本質とその対処としての市民の生き方が浮かび上がる。
cover
ムツゴロウの放浪記
 ムツゴロウさんはテレビ出演から親しみやすい変なおじさんと見られることが多いし、実際にそうと言ってもよいのだが、彼は東大卒業後大学院にも進学し、生物学の研究者の道を進んだ。もし運命の悪戯があれ、利根川進さんのような道を進んでいたかもしれない。だが、ムツゴロウさんは挫折した。その話は、「ムツゴロウの放浪記」(参照)にある。アカデミズムに挫折していく、あのつらい感覚と恋人をもった生活の圧迫、のしかかる時代というものの無慈悲さ、それらが、まるでなにかを絞るようにぎりぎりと描かれている。
 現代の読者にはその時代の感覚が掴みにくいだろうが、おそらく現在、研究者の道から挫折しそうにある人にとっては、あの特有な感覚をそのなかで見るだろう。また、仕事と同棲の軋轢にある人にも、ああこれだな、と共感するものがあるだろう。
cover
ムツゴロウの少年記
 ムツゴロウのこの自伝的な作品群は4部作になっている。自伝的に読むのであれば、「ムツゴロウの少年記」(参照)、「ムツゴロウの青春記」、「ムツゴロウの結婚記」(参照)、「ムツゴロウの放浪記」と続く。
 しかし作品の順序としては、「ムツゴロウの少年記」が最後に書かかれ、文学作品としてはこれがもっとも完成度が高い。が、できれば、その意味で「ムツゴロウの少年記」を読むのでなければ、「ムツゴロウの青春記」から読み始めるとよいだろう。畑正憲さんは、「ムツゴロウの青春記」を書くことでその続きを書き、その執筆時の自身の確立に至る「ムツゴロウの放浪記」を書き終えて、ようやく父とその時代に向き合うために「ムツゴロウの少年記」の執筆に向かった。
cover
ムツゴロウの結婚記
 「ムツゴロウの青春記」の結末が尻切れトンボのようになっている部分は、「ムツゴロウの結婚記」に続く。高校時代を過ごした同級生の恋人と学生結婚を始める物語であるが、これは読むとわかるが、率直に言って文学としての完成度は低い。その青春後期にリアルに書きためていた日記や手紙などがそのまま露出しているからだ。逆にだからこそ面白いとも言えるし、性的な描写は慎まれているものの、若い人の同棲という生活がもたらす、ある種特有な臭いのようなものが充満している。また学究肌の若者が新婚生活を迎えたときの違和感のようなものもある。
 4部作の最後「ムツゴロウの少年期」の後記には文庫版であれば単行本時のそれと併せて2つ付記されている。単行本のそれを読むと、「ムツゴロウの放浪記」の後編が約束されているが、文庫本のそれでは4部で完成のように書かれている。どうも5部作目が書かれなかったか、「ムツゴロウの少年記」で終了感があったかである。
 「ムツゴロウの放浪記」の単行本後記は1979年で、「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」が始まるのが1980年の年末である。その間に彼の世界放浪が始まっている。そのため第5部は忙しくて書けなかったか、ムツゴロウさんにありがちなのだが、関心がころっと変わったか。私は、cakes書評をきっかけに4部作と関連書籍を読みながら、書かれざる第5部があるように思えた。
 ユーチューブにあった女優・柴田洋子さんの、4部作への思い入れも面白かった。比較的と言っては失礼だが、4部作が若い世代に読み継がれているようすがわかる。


 
追記
 cakesの書評公開日を勘違いしたので、「今日」としたのを訂正しました。たぶん、公開は11月6日(火曜日)あたり。なお、その次は『ご冗談でしょ、ファインマンさん』の予定。
 
 

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2012.11.01

家族を規定したのが「なるちゃん憲法」

 先日家族史関連の与太話を書いたおり、古代や中世にも家族はあったみたいな反論を貰うかなとは予想していた。だって奈良時代に戸籍があるじゃないのとか、貴族や名家には父母がいるではないかみたいな。古代の戸籍についてはその実態を調べてもらえば問題の所在がわかるだろうからそれはさておき、古代や中世でも父母と暮らして云々というあたりはちょっと補足というか与太話の延長をしてみたい。
 単純な話、古代や中世の「母」が子供を育てていたかということだ。いうまでもなく、乳母(めのと)が育てていた。母乳を与える女がやってきて育てるのである。女性が母乳を出せるのは実の子を産んだ期間に限られることからわかるように、乳母は自分の赤ん坊も一緒につれてくることがある。するとどうなるかだが、乳兄弟というのができる。また、乳母は女ではあるがそのまわりの世話役の男なんかも付いてくることもある。
 こういう貴族や名家に乳母をほいほいと手配できるシステムがあったということのほうが重要な意味がある。氏族的な社会のなかに育児の機能が分化していたわけである。
 このシステムのバリエーションが、里親・里子であろう。乳母が屋敷に入るのではなく、子供の育児がアウトソーシングされるわけである。この場合、むしろ里親・里子のほうが「家族」のような様相を示すだろうが、親権はない。
 古代や中世で、子供が屋敷で同居していたとしても、そこに乳母的な育児のシステムが不可分に組み込まれている。それは家族なのか、というと、それを前近代の家族と定義しようというくらいの意味合いしかない。育児をしない「母」でも生物学的に母だから母だとかという話もできないわけではない。
 むしろ女性の権力の問題として乳母は面白い。日本の場合、古代から、女系的な家制度のためか娘に相続権があるが、これが武士の社会になると財の相続者である女の権力に対して、乳母が権力を持つようなことがある。むしろ、武士の権力のシステムは乳母の権力の随伴現象ではないだろうか。それはさておきと。
 この乳母のシステムだがよく知られているように、明治以降も富裕な階級では残った。なかでも面白いのが天皇家である。
 大正天皇は明治天皇の典侍・柳原愛子(なるこ)が産んだ子である。大正天皇、つまり明宮(はるのみや)こと、はるちゃんは、生まれるとさっさと里子に出された。
 その後、6歳で御所に戻され、明治天皇の皇后・美子(はるこ)の養子となる。長じて天皇(大正)となる、はるちゃんは幼いころ、自分の母親は美子だと思っていたらしい。家族幻想のようなものだろうか。後に実母ではないと知らされて悩んだのだろう。47歳で死ぬとき、実母・柳原愛子の手を握っていた。おかあさーん。
 はるちゃんが天皇(大正)となり、結婚したのは18歳。嫁は15歳の九条節子(さだこ)だった。彼は側室(後宮)を置かなかった。その息子さん、昭和天皇こと裕仁(ひろひと)、ひろちゃんは、普通にさだこの子であった。
 ひろちゃんも長じて父を真似てか、側室を置かなかった。家族幻想がようやく天皇家にまで達したということだろうか。問題は、天皇家の後宮制度がいつ、誰が廃止したかである。たまに気になって調べるのだが、概ね、戦中自室にダーウィンとリンカーンの肖像を置いていたダーウィニストにしてモダニストだったひろちゃん、そのころは天皇(昭和)だったが、その意志だったようだ。
 このひろちゃんも生まれたときは里子に出されている。その子の今上、明仁(あきひと)ことあきちゃんはどうか。
 里子には出されなかったようだ。このあたりも父の信念ではあったようだ。
 が、あきちゃんが育ったのは別宅・東宮仮御所である。後の、あきちゃん心情を察するに孤独な少年期でもあったようで、自身が結婚して、ちゃんと母子手帳も受け取って、子供、徳仁(なるひと)こと、なるちゃんが生まれたときは、自分の家族の元で母子ともに過ごしたいと思った。ようやく庶民の家族幻想が天皇家にまで達したのである。

cover
ナルちゃん憲法
皇后美智子さまが伝える
愛情あふれる育児宝典
 それで1960年9月22日に起草されたのが、「なるちゃん憲法」である。なるちゃんが生まれたのは1960年2月23日なので、7か月も遅れたがその間はどうだったかというと、母・美智子さんが自分で育てていた。が、日米修好百周年記念でホワイトハウスに招待を受け、そろそろ仕事復帰ということもあって、子供を預けることになった。そのおり、母親として自分は我が子をこう育てますということを成文化したのが「なるちゃん憲法」である。
 憲法というのは西洋史においては国家権力を規制するためのものだが、日本では「十七条憲法」のように一種の徳目であり、「なるちゃん憲法」も日本の伝統に由来するため、法的手順を必要としない。
 なるちゃんが生まれたのは、マーブルチョコレートが発売された1961年の前年。私より3歳下である。高度成長期に田舎から都会に引き出された労働者が家庭を営み、兎小屋と呼ばれる家で子どもを二人産んで家族を形成した時代である。あきちゃんも天皇となってからは、精一杯、時代も象徴することになった。
 天皇は日本国家の象徴でもあるが、ふーん、そうだよねと国民が是認しているから象徴たりえている。国民の家族の象徴でもあるからだ。
 その後、長じたなるちゃんの家庭が象徴しているものも、まさに現在の国民の家庭の姿に思える。
 
 

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