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2012.10.30

日本に家族なんてものはなかったし、結婚もなかったんですよ

 NHK大河ドラマ「平清盛」が面白い。が、これは現代の物語だなと思わせるのは、白河法皇の血脈と氏族の親子関係みたいな部分だ。血脈は所詮ファンタジーなのでどうもよいが、物語の、親子関係というか親子の愛情の描写を支える心情は実に近代人のそれであり、近世から現代の家族観を反映しているにすぎない。あの時代にそういう心情はなかっただろう。
 物語なんだから、それで悪いというわけではない。古代・中世の親族構成というのは、なかなか現代人の感覚からはわからないものだ。昨日、近世日本の家族の与太話を書いたが、これも機会かもしれないので補足しておこう。
 村落の皆婚化が進んだのは江戸時代中期であった。なぜかという理由に、とりあえず生産力向上を挙げ、さらにその背景に統治の安定を挙げた。基本的に江戸時代初期は統治が安定に向かう時代だといえるし、その理由も自明のようだが、踏み込むと考えさせらることがある。
 昨日のエントリで参考にした「歴史的に見た日本の人口と家族」(参照)では、家族の発生について、こう書かれている。


 江戸時代前期に生じた大きな変化とは小農の自立であった。平安末期以降の荘園・公領は、名主と呼ばれる有力農民の下に下人等、多くの隷属農民が属する形態をとっていた。室町時代以降、隷属農民は徐々に経済的に自立する動きを見せていたが、この流れを決定的にしたのが 16世紀末に行われた太閤検地である。太閤検地は一地一作人制を原則とし、農地一筆ごとに耕作する農民を確定した。このことは小農の自立を促し、家族を単位として耕作を行う近世農村への道を開いた。

 太閤検地により、一地一作人が原則化されたという。これが「家族を単位として耕作を行う近世農村」を形成した。村落はむしろ、近世に家族とともに成立したものだ。村落の皆婚化はその付帯状況だった。
 別の言い方をすると、太閤検地以前の村落は、現在の日本人が、田舎なり、昔の村落と思っているものとは異なっていた。どのようなものだったか。

 この傾向は江戸時代に一層強まった。まだ江戸時代初期には、名主的な有力農民の下に、下人等の隷属農民、名子や被官などと呼ばれる半隷属的小農、半隷属的傍系親族等が大規模な合同家族を形成するという形態が見られたが、時代の進展とともにこれらの下人、名子、傍系親族等は徐々に独立して小農となっていった。

 マルクス史観的に「農奴」と呼ぶのは勇み足すぎるが、いずれにせよ、農民は、権力者・権力者氏族に隷属していた。
 この隷属のイメージは、現代日本人からすると、家族が身分やカーストに所属していて、家族単位で権力者に従うかのように理解されがちだが、そういう家族なるもの自体が存在していなかった。
 さらに言うと、そもそも結婚というのが、少なくとも庶民的には存在しえない社会構造だった。
 そうは言っても、男女の性交はあり、子どもは生まれていたことは間違いない。では、家族なくして、子どもはどういう状況で生まれて、どう生育されたのか。
 これらには当然ながら、法が関連している。当時、法はどのように世代の再生産にかかわる問題を規定していたか。以前ブログで触れた「江戸時代(大石慎三郎)」(参照)が参考になる。

 在地小領主が戦国大名にまで成長した段階でだした領内統治のための法である分国法には、多くの場合子供の配分のルールを決めた項目がある。それは主人の違う男女のあいだに生まれた子供の配分であるが、たとえば、「塵芥集」では男の子は男親の主人が、女の子は女親の主人が取ることを決めている。また「結城家法度」ではそれが原則ではあるが、一〇歳、一五歳まで育てた場合には、男女とわず育てたほうの親の主人がその子供を取るべきだと既定している。

 地域によって法のあり方は異なるだろうが、基本的に、農民は人間というより「財」の概念であり、子どもまた財の配分として見られていた。あるいは子どもはその財のまさに利子のようなものであった。引用にある「塵芥集」という法では、男の子なら男親の主人の財であり、女親は女親の主人の財であるとしていた。
 とはいえ、実際に子どもは育てられていた。当時、具体的に誰が子どもを育てていたのか?
 同書には明示されていないが、財としてみれば、最終的には主人が管理していた。隷属民の子どもは、主人が制度的に責務を持ち、財としてその氏族なりの集団で管理・育児されていたのだろう。当時の説話などから推測するに、その管理システムが性交・出産のシステムをも包括していたようにも見える。
 いずれにせよ、江戸時代初期までは、日本の社会の多数の庶民には、父子の関係は薄く、母子の関係はあっても家族はない。同書は簡素にこう描く。

 このことはまだ庶民大衆の祖先たちは、この段階では夫婦をなして子供まであっても、夫は甲という在地小領主の隷従者であり、妻は乙の隷従者であるというように、夫婦が家族とともに一つの家で生活するという家族の形態をとっていないことの反映である。つまりわれわれ庶民大衆が家族をなし親子ともども生活するようになったのはこの時期以降、具体的には江戸時代初頭からのことである。

 江戸時代初期になって村落の世帯分化と皆婚化とで家族が形成されていく。氏族集団を一地一作人的な家族の集合に変化させ、見合いというか性交・婚姻・出産のシステムがかつての氏族内の機能を代替していったのである。
 江戸時代が始まるころまで、庶民には概ね、日本に家族なんてものはなかったし、結婚もなかったんですよ。
 その後、家ができて、家を死後に持ち越すために墓ができて、墓の管理のためにも家の存続が必要になった。しかし、そうした時代もいよいよ終わりつつあり、皆婚はなくなったし、墓もなくなってきた。
 
 

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「歴史」カテゴリの記事

コメント

非婚化が家族を壊すという結論は短絡的すぎると思います。むしろ日本の非婚化は欧州のような個人主義の進展につながるものではなく、より家族への保守的な執着を生む部分のほうが大きいのではないでしょうか。墓についても物理的なものから情報というスペースの革新的な縮小技術によって管理は非常に容易になる。SNSが中東で保守的な思想をつないだように必ずしも自由度を広げる方向にこれから進むとは言えない。

投稿: 時枝雄二 | 2012.10.30 22:03

中世の権力者たる武家でも、家族関係というものは希薄なものでは?
婚姻は家同士の同盟の一種でしかなく、子供も武家という武装組織の強化のための道具でしかないと思えるのですが。

同じように律令制の崩壊以降、農村は武装集団であり、その構成員は農村という運命共同体を維持するために存在するといっても過言ではなかったと言えます。
しかし、秀吉の天下統一により戦乱が終わり、農村も武装解除されたことで、構成員に対する強制力が低下したことも、近世農村が出現した背景にあるのでは?

投稿: GR | 2012.10.30 23:29

熊谷直実が平敦盛を討った話とかは、どのような感じで捉えられていたんでしょうかね

投稿: | 2012.10.31 00:18

 昔は通い婚なるものもあったし「どこの馬の骨とも知れない」なんて言い回しもあったから今ほど家族血縁の紐帯が弱い向きがあったかもしれませんが、家族を中心に一家で結束するケースもありましたよ。毛利三矢の教えとか。

 あと、商家はざっくばらんですが武家や公家は権力・文化の継承の意味も込めて家族の結束を強要する向きもありますね。結婚(家族)が無い状況も有る状況もどちらもあって、それが経済の発展や統制上の都合から家族主義に変遷したのではないでしょうか?

 経済力や権力・文化などの基盤を持っている家は家族主義的に。そうでなければ浮き草人生…そんな感じで二極化していたのでは?

 それと、表題の平清盛は当時の例からすると過剰なくらい恩愛に篤い人でしたね。母親の言を容れて義朝の遺児を助けたり女御の色香に迷ったり、現代人に近い気質を持っていたように思います。

投稿: のらねこ | 2012.10.31 02:06

 どうでもいいですが、記事が「続く」のは何故ですか? お米…と書いたらお米の記事が出ますか? お米要りますか?

 我が家だと享保年間あたりから残ってる過去帳を見る限り夫婦の表記がなかったりするんですよね。女は「○○の女(娘)」と表記されてるものがある。「○○母」という表記もあるけど、「○○妻」は明治に入ってから。それ以前は「女・母」です。そういう扱いなんでしょうね。

 それ以前のものは、焼けたんで、なし。伝聞として500年続いてるだの120年前まで富農(自作農)だったの名字は屋号だの菩提寺が焼けて過去帳の一部が焼けただの言われてますけど、昔の面影や名残の類を一切知らずに育ったので、自分の人生にはそんなに関係なかったりしますね。そういう話を聞いて育ったので歴史に興味があるとか、そんなもん。

 没落した家なんか、そんなもんですよ。なので家庭のない家庭みたいなもんは、私の中ではそんなに違和感ありません。そういう人生あってもいいのでは?

投稿: のらねこ | 2012.10.31 02:21

司馬遼太郎が現代人は気苦労が多くて大変だあ、みたいなこといってたけど、大変だあの部分はより悪い形になってこれからも残っていくんでしょうなあ

投稿: rabi | 2012.10.31 18:58

現在のいわゆる村落(歴史学的には集落と呼ぶもの)は中世に発生したことが文献・絵画資料や考古学調査によって明らかになっています。

近世以前の庶民が有力氏族に隷属していたならば、リニージ的な地域社会を営んでいたと思われ興味深いです。

村落(集落)は、小作農を財として扱う中世以前から、家族単位が確立する近世にかけて、立地はそのままに大きく在り方を変容させたのでしょう。つまり財としての人々を生産基盤に固定させる制度から、入会地や水利などの権益を調停・配分する制度へと。

投稿: Hydroxide | 2012.10.31 19:34

興味深く拝読しました。ドラマが現代の価値観を反映し過ぎているのは同意できますが、戦国期の文書に書かれていないから家族も結婚もなかったというのは、ちょっとナイーブな見方かもしれません。
文化人類学者の木山英明氏が著書の中でこう書いています。
「今を去ること1200年前の奈良時代の戸籍が、奈良東大寺の正倉院に保存されている。そこには全部で5343人の名前が記されているが、その家族は今日と違って、平均10.7人という大家族である。(略)しかし戸籍をみると、すべての男女が独身というわけでもない。生涯の独身を原則としつつも、戸主は、そしてその予備軍とおもわれる長男も、妻が記載されている例が少なくないのである。このような「単夫婦大家族」の原則は、1200年後の今日、昭和の初年にダムの底に沈むまでの飛騨の白川郷の大家族にも見られたし、封建時代の武家や農家ではむしろふつうのことだった」(文化人類学がわかる事典 94頁)
文化人類学の知見によると、核家族より大家族制度のほうが多くの文化で一般的に見られるが、その「群団」の核にあるのはやはり核家族だということです。

投稿: choe1990 | 2012.10.31 21:55

> 農民は人間というより「財」の概念であり、子ども
> また財の配分として見られていた。あるいは子ども
> はその財のまさに利子のようなものであった。


いや、これは話が逆さまになっているんですよ。

現在から遡って過去を識るためには、記録に拠るしか
ない。記録がのこっていなければない。

それでは、何故ひとは過去において記録を録っておい
たか? 財を計量するために、ですよ。

だから記録には、ものとひととを別けずに記述されて
いるわけ。

記述のされ方が、ものとひととを区別してい無かっ
たからといって、記述をされてい無いときにもものと
ひととを別けずに取り扱っていたと断じることは出来無
いわけ。

投稿: 千林豆ゴハン。 | 2012.11.02 12:46

> マルクス史観的に「農奴」と呼ぶのは勇み足すぎ
> るが、いずれにせよ、農民は、権力者・権力者氏族
> に隷属していた。


いやいやいやいや。

日本では、豊臣秀吉が兵農分離をおこなうまでは
農民は兵士であり兵士は農民であったわけ。

「農民」なるものそのものが誕生してい無かったで
すよ。

(田畑を所有してい無いけれども)田畑を耕し
ていた奴らが同時に武装してたんだよ。概ねいわゆる
刀狩までは。

投稿: 千林豆ゴハン。 | 2012.11.02 12:53

> そうは言っても、男女の性交はあり、子どもは生ま
> れていたことは間違いない。


日本の中世期(概ね、平安~戦国とか?)の様子が
いまいちよくわからないのは、記録があまりにも残さ
れてい無いから、なんだよね。

だからたとえば『源氏物語』とかが、まるであたか
も普遍性を持っているかのように独り歩きしてしま
うわけ。

で、何故
記録があまりにも残されてい無いのか? といえばそ
れはおそらく「宗教」が、日本の中世期においてはあ
まりにも男女の性交や子の出産について関わら無さ過
ぎていた為が由に、ではないかなあ
(つまり、家族や結婚てものがやはり無かったからこ
そ、なんだけれども)。

あくまでも、他の文化に比して、だとか、近世以降と
比して、ですよ。

投稿: 千林豆ゴハン。 | 2012.11.02 13:09

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