なんで昔の人は結婚できていたのか?
生涯未婚率が上昇していると言われ、当然、比較として、なんで昔の人は結婚できていたのか?という問題がたまにネットの話題に上がる。この手の問題は、解答の要件がはっきりしていないので、どういう話でもいい。寄席の大喜利みたいなものになってしまう。それでもいいのではないかな。そんじゃ。
よく昔の人の生涯未婚率は低いと言われる。生涯未婚率というのは50歳まで結婚したことがない人の人口比である。1920年代でも数パーセントみたいなグラフをよく見かける。これじゃ昔は皆婚社会だったなといった印象である。
1920年とかの起点がそうなっていると、ふーん、昔からそうなんだと思いがちだし、統計に根幹的なミスがなければ、そういうことなんだろう。だが、基点をもうちょっと昔にずらしていくとどうなるか。つまり、昔っていつか。
江戸時代のころはどうだったか。まず、よく言われるように、18世紀、世界に冠たる大都市・江戸だが、婚姻の前提となる男女比を見ると、江戸時代後期、明治維新が近い1843年だと、江戸では、男性を100とすると女性89。だいたい10対9くらい。男女人口の歪みはそれほどない。当たり前ではないかと思う人もいるだろうが、江戸時代中期、1721年だと、男性を100とすると女性55。だいたい2対1という異様な社会である。こういう男女比が偏った社会で婚姻はどうなるかと想像すれば、およそ男性の皆婚は無理でしょうということはわかる。
江戸時代後期では中期に比べると男女人口の偏りは少ない。では、皆婚的な傾向があったかというと、配偶率が意外に低い。江戸でも地域によって差があるが、男性が50%くらいで女性が70%くらいである。女性のほうが結婚していることが多いかなという程度だし、男性にしても結婚しているのは二人に一人くらいなものだろう。都市における婚姻の自然的な傾向と見てよいだろう。
ただし、それは大都市江戸の場合。
日本全体ではどうだったかだが、近世の都市と村落の人口比も考慮しなければならないが、村落の場合は、江戸時代後期には皆婚に近い状態になっている。
村が婚姻を統制するシステムを確立していたとみてよいし、これはおそらく村落共同体の存立のためのサブシステムとしての皆婚だったのだろう。つまり村落では男女を婚姻で世帯を配分するシステムがあったのだろう。むしろ、江戸のような都市はそうした配分システムを補完・廃棄する位置づけであったのかもしれない。
村落の皆婚システムがどのように形成されたかだが、江戸時代前期の未婚率は、村落にもよるだろうが、例として、1675年・信濃国湯丹沢村16歳以上の未婚率は、男子46%、女子32%とのことで、それほど低くない。しかし同村はその後、江戸時代中期に皆婚していくので、基本的な皆婚化への全体動向のなかにあっただろう。
村落の皆婚化の傾向は、既婚家族が大家族で住むと想定しなければ、家族形態の変化に随伴している。実際、世帯規模もこの時期に減少している。つまり、村システムが、世帯の分散も支配していた。
この江戸時代中期の現象は、妥当に推測されることだが、生産力の増大や人口増加にも関連している。ただ、その関連と原因をどう見るかは、むずかしい。
生産力の増大が人口増加をもたらし、村落システムの婚姻の制御を確立したとみてよいようにも思うし、他方、皆婚は人口増加の起因ともなるだろう。概ね、起点は生産力の増大にあると見てよいようには思う。
ではなぜこの時代に生産力が増大したのか。おそらく統治の安定性だろうし、統治というのは、土地の所有と配分が安定化したからだろう。
話を、なんで昔の人は結婚できていたのか?に戻すと、こうした流れから見ると、明治維新前の村落の皆婚システムが明治時代以降、国家レベルに移行したということだろう。日本国という巨大な村ができたのか、そのシステムの強制力に等しい何かが国家規模で形成されたか。
ここでもしかし、注目したいのは人口の変化である。江戸時代前期、村落が人口増加から皆婚化を起こしたように、明治時代以降も、また人口が増加している。別側面でいうと、江戸時代中期から後期は人口が安定していた。
すると、明治時代以降の皆婚化と人口増加は、生産力の増大に大きく関係しているとみてよいだろう。
なにが明治時代の生産力の増大を引き起こしたかは、これも諸論あるだろうが、おそらく、西洋文明化というより、貨幣経済の発達ではないだろうか。明治維新というのは、しばしば思想、あるいは外圧として語られるが、実際は貨幣システムの阻害要因としての統治の転換とみてよいと思う。その意味でいえば、明治維新とは1873年地租改正であろう。
話が大喜利ノリをいいことに適当に展開してみたが、これらが妥当だとすると、現在日本の未婚化というのは、やはり生産力と人口の関係で見てよい。つまり、江戸時代前期や明治時代の逆回りになったということだ。もっといえば、世帯を分化していくより、既存世帯の富を保持することにインセンティブがかかってはいるのだろう。簡単にいうと、デフレで親の臑の囓り甲斐がある。
与太話は以上の通りだが、さて、村落の皆婚システムの内実はどのようなものだったか。それが実質20年くらいまで日本で動いていたとも概ね言ってもよい。
私は、もう半世紀以上も生きて来たので、その逆転の転換を体験として知っている。表面的に「見合い」システムだろうが。
これについて、しばしば「社会が配慮して見合いをさせた」といったことが語られるが、そうした話を聞いていて隔世の感があるのは、この見合いシステムというのは、身分システムのサブシステムであることを多くの人が失念していることだ。
見合いというのは、村落的にはまず家柄が問われる。原形が村落の世帯支配システムであり、同時に権力のシステムなのだから、当然である。
例外のように見える、財のある家が娘を介して、優秀な男を引き込む機能もあるが、全体的には権力を維持するように、権力に従属する人々をネズミ講のように産出するシステムが「お見合い」である。このあたり、近代自我との相克にした漱石の「明暗」が実にコミカルで面白い。
見合いシステムの支配は、結婚するために自分のスペックを押さえていたというような自由市民の意志・行動・市場モデルの作動ではなく、従属すべき権力機構に世帯を当てはめることだった。
現在、多くの男女の市民が従属すべき権力機構に配分されなくなった。等しく下層化したとも言えるかもしれない。現在はまた、江戸時代中期からの後期の都市民のモデルの自然性と、それなりの財を持った家への世帯に未婚者が従属したからといえるのではないか。実は、現代の結婚も、その従属とそれほど変わりなさそうだが。
参考:「歴史的に見た日本の人口と家族」(参照)
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コメント
現代社会では村社会や土地分配単位での見合いじゃなく、職能に応じた身分が単位になってますね。だから良縁のない派遣の人や財のない無職者には非常に厳しい社会。
ちょっと(30年くらい)前までなら工場の工員さんが底辺でしたけど、最近はその下に派遣があるから地位の底上げになってますね。そのまた下のニートや無職者は…今も昔も変わりないのかも。あと、中期以降の江戸文化はニート文化や無職文化でもありますね。落語や何やに、そんな薫りがちらほら。今の日本と似ていると思います。
投稿: のらねこ | 2012.10.29 21:13
結婚したから幸せってものでもないですよ。
結婚が本当にいいことだったら、final先生にも奥様がいるはずですよ。
投稿: enneagram | 2012.10.30 05:33
戦争を必要とする国、戦争した結果人が多く死んだ国は、子供が必要になって、結婚が増えるというだけでしょ。あとは、重税、ただし、所得税に限る、笑。消費税は少子化にすすむだけ。
投稿: | 2012.10.30 06:25
めかけさんとか、実質的に一夫多妻だった点は考慮されているのでしょうか。
昭和でも戦前までは田舎ではそれに近い形だったとも聞きますが。あと小作人は長男以外結婚できないとか。
投稿: Tanaka | 2012.10.30 23:05
ちょっと前に、NHK教育テレビの高校講座で、平安時代あたりの戸籍制度が取り上げられていて、そこには両親と子どもたちがきちんと登録されていました。これってその時代から婚姻制度があったってことじゃないですかね?
投稿: あつのすけ | 2012.10.31 08:28
江戸時代の農村は見合いではなく夜這いで、子供ができたら結婚が主流です。
お見合いや家が重視されるようになったのは明治時代からです。
投稿: あんの | 2015.02.14 12:32