第三の新人が日本の実存主義だった
第二次世界大戦とはなんだかったか。一概には言えないが、大きく見れば世界思想の水準における社会主義終焉の明確な始まりだった。
この社会主義には二系統ある。一つはソ連型の社会主義、つまりアジア型ナショナリズムにルサンチマンが結合した独裁主義である。これが純化されてアジアにも影響した。
もう一つは、近代福祉型ナショナリズムにルサンチマンが結合した独裁主義、つまり国家社会主義(ナチズム)である。これは第二世界大戦においてほぼ終焉への道筋が敷かれたかに見えた。
欧米の実存主義は、こうした第二次世界大戦後の、社会主義に対する対抗や反抗のあり方として現れた。実存主義は、社会の義よりも個人の自由が義となる世界思想として重視されたのである。
顧みると、そもそも19世紀以降社会主義が台頭したのは、近代人=市民の終わりを止揚的に継承したものである。市民は社会に統合されることで、生と世界が実現するかのような情念をかき立てられた。
しかしその背景にあったのは、近代という時代と近代自我が終わりを迎えるというニヒリズムであり、生や世界の意味が社会から構成できないという焦燥でもあった。
戦争の惨禍によって社会と市民性が剥ぎ取られてみると、再び無意味な世界と無意味な生に向き合うしかなくなり、そこで実存が問われた。
実存主義とは、ごく簡単にいえば、自己の意味を自由に自己決定する主体の思想である。
カミュの場合は「不条理」つまり、 "absurdity"、「意味なんかなにもないのだから、もうバカバカしくて笑うしかないよね」という「異邦人」的な地点から、「シーシポスの神話」において「不条理を生きる」という生の情熱が抽出され、「ペスト」においてその情熱が社会に向けられるようになった。
サルトルの場合は、人間を実存と規定し、「実存は本質に先立つ」というように、自由に行為を選択し、その状況(situation)に自己を投げ入れることした。投企(投げ入れること)によって世界との関係を責務として誓約(engament)で捉えた。「人間は自由の刑に処せられている」ということである。
しかしサルトルの場合、実際の社会への投企や誓約は、最終的にその自由を保障する何か超越性に依存することから、その便宜に再びマルクス主義と結合していかざるをえなかった。
実存主義が思想史的に破綻したのは、サルトルの、ある意味、誓約の倫理性が逆に示唆するように、連帯の本質的な欠落が基点にあり、さらに欠落しつづける傾向をもつことである。実存はそれ自体が連帯と矛盾するものを孕んでいる。
現実の実存主義は、「実存は本質に先立つ」としても、また投企や誓約としても、実際のところ、精神が身体性を無理に状況に投げ込む実践しか残らない。実存主義は現実には身体の恣意性しか残らない。これがその後のいわゆるドラッグカルチャーと結合し、実存が身体性しか意味しないという、ある種退廃した思想に完結した。そこでは、知性が反知性にまで引きづり下ろされてしまう。身体性を原点に非知性をまき散らす「哲学者」はいまだによく見かける。
サルトルの実存主義の原点となる着想は、ハイデガーによるものだったが、ハイデガー自身が異論を唱えた。
ハイデガーは「存在と時間」において、「頽落」が示すように、人は「世人」のなかに落ち込んでいる。世人は、現代でいうなら、ネット空間における匿名や、反論を拒絶した罵倒コメントのようなものである。
この世人が、死の先駆の自覚を経由して良心に呼ばれるあり方を現存在とした。ここで呼ばれた現存在の本来のあり方が、暗黙のうちにだが、ハイデガーの実存主義と見なされていた。
しかしハイデガーはこうした実存主義の、いわばあまりに人間的などたばたの帰結を早期に見切って、非人間主義から存在へと思考をずらし、実存主義から離れていった。彼は、人の存在は存在それ自体から問いかけられる存在とした。神ならぬ自然の啓示のような神秘主義と言ってもそうはずしてはいないだろう。そしてハイデガーは、存在の思索を経て生まれた新しい存在は、詩的な言葉のなかに宿るとした。おそらくその事によって民族的な社会連帯を保証しようとしたのである。この点は、小林秀雄が「本居宣長」で示そうとした思想と同型である。
ハイデガー思想の変遷はさておき、現実ところ実存主義は、まさに今世紀の二形態の社会主義を戦争がなぎ倒したあとの、身体に関連した個人の思想として問われた。戦後という状況が必然的に、そのような実存を迫るものでもあった。
とすると、実は、昨日ずっと考えていたのだが、日本の実存主義とは、甘ったるい香りのする西欧の現代思想であったというより、戦後文学における無頼派から第三の新人の文学思想のなかに秘められていたと見たほうがよいのではないだろうか。
坂口安吾の「堕落論」は、日本的実存主義そのものである。太宰治の諧謔もその滑稽さはまさにカミュのいう不条理に近い。「人間失格」は陰鬱な物語ではなく、苦笑を誘う不条理な物語なのである。「人間失格」は遺作となった「グッドバイ」に近い不条理な笑いをもたらす。
無頼派による実存の孤立性の自覚は、無意味・焦燥・身体性(性欲)というテーマでの洗練により、さらに自覚的な第三の新人の文学として結実していく。
と同時に、第三の新人は、日本的実存主義を経由して、ようやく近代日本人を越えた地点の、日本人知性を形成した。この1950年代から1960年代の、第三の新人の文学は、顧みると、その内実において欧米の実存主義の文学と時代性においても重なってくる。
むしろ第三の新人以降の、石原慎太郎や三島由紀夫のような戦後消費社会の空間に現れた文学は、敗戦国の占領軍が生み出した疑似近代空間へのアンチテーゼとして、それでいながら占領プロパガンダを植え付けられた新しい若者の原形を生み出した。まさに歴史を断絶した消費連帯的な新世代を形成した。逆に第三の新人のもつ実存主義的な意識は覆い隠されていった。
なぞってみると不思議の感にも打たれるのだが、現実の敗戦から実存の自覚としての第三の新人の文学がようやく近代を越えようとした地点で、それらは、擬似的な新世代において否定されてしまっている。この新世代文学潮流は、文学と商業主義をいっそう綿密に結合させ、いわば文学産業という制度も生み出した。
興味深いのは、この文学産業の末端からその中心に躍り出た村上春樹は、直感的に、この装置性の欺瞞を見抜いて、明確な意識として第三の新人の実存意識を課題としていったことだ。春樹ワールドのファンタジーの世界構成は、実存の意識を明瞭化するための仕掛けである。
世界や生が、ある非現実的な構成として捉えられたとき、人の意識は再び、実存主義に回帰するのではないだろうか。もし思想や文学に、今日的なテーマがあるのなら、実存主義として定式化され様式化された深層にある、個人の生の剥き出しの無意味感や不安に、あらためて、おののきながらが立ち向かうことではないのか。
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コメント
のう、おやじさん、テキヤじゃろうと博奕打ちじゃろうとよ、わしらうまいもん喰ってよ、マブいスケ抱くために生まれてきとるんじゃないの(仁義なき戦い 広島死闘篇)
投稿: | 2012.09.25 22:43
記事の言わんとするする処の3割も理解できないですが「仁義なき戦い」の台詞が頭に浮かんだので思わずコメントしました。決して茶化したわけではないです。コメント公開感謝します。
投稿: | 2012.09.25 23:01
村上龍は?
投稿: enneagram | 2012.09.26 03:27
そうか、太宰パロディの「さよなら絶望先生」は実存主義だったんだ。
投稿: madi | 2012.09.26 03:33
はじめまして、モコムと申します。
>実存主義として定式化され様式化された深層にある、
個人の生の剥き出しの無意味感や不安に、あらためて、
おののきながらが立ち向かうことではないのか
その結果、ビッグ・ブラザーに全てをまかせるのではないか
という恐れを村上春樹は1Q84というタイトルにこめたので
しょうか?
とかいいつつ、1984も1Q84も読んでません。
すいません。
個人的に実存主義では、人は意味を求めるため、必ず破綻
すると思っています。
人が安定的な状態を保つためには、献身を無限に受け入れて
くれ、必ず精神世界で互酬してくれる回路が必要ではないで
しょうか。
それは神に限りません。
物質化されてしまうことで、回路に滞りが生まれたり、
耐久年数が生まれるなど、限界が生じてしまうと考えています。
スパゲッティーモンスターにどれくらい可能性があるか教えて
いただけると幸いです。
投稿: モコム | 2012.09.26 12:29
世の中は夢の渡りの浮橋か
うちわたりつつものをこそ思へ
法の師と尋ぬる道をしるべにて
思はぬ山に踏み惑ふかな
投稿: MUTI | 2012.09.28 03:33
春樹自身が『1Q84』の主題を、明確に語っていますよ。
自分は『1Q84』の主人公である青豆という女性を
「クローズド・サーキットから抜け出す力が強い人物」
として叙述した、と。
投稿: 千林豆ゴハン。 | 2012.09.29 17:10
「WW2が社会主義の終焉の始まりだった」というのは、2010年代の今だから言えることであって、終戦直後、いや、「プラハの春」まで、そこまで洞察できた人間はいなかったでしょう。大体、サルトルだってその時までは、ソビエト社会主義には一定の理解を示していたほどですし。
後、言うならば、「無意味感や不安」に向き合うことが文学が現在追求すべきテーマだと、なぜ言えるんでしょう?そういう実存主義者が唱える、人間とは社会へ参加すべきだというイデオロギーの強制こそが、サルトルが最終的に敗れ去った原因ではなかったですか?
投稿: F.Nakajima | 2012.09.30 21:53