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2012.09.24

実存主義かあ

 実存主義かあとぼんやり思った。cakesに寄稿している書評としてフランクルの「夜と霧」について書く際、旧訳・新訳を読み比べているうちに、英訳はどうなのかと2006年版の英訳書を読み、ついでに英訳書の版の変化を見ていって、そう思ったのである。
 「夜と霧」の英訳書だが、基本部分は日本の新訳と同じドイツ語の1977年版を使っているのだが、合本されている関連の論文やけっこう重要な序文や解説文について版によって変遷があり、ついついいろいろ調べてみると興味深かった。
 なお、「夜と霧」の書評はcakes編集の目も入ってない段階なので、公開日などは不明。cakesでの書評連載については、たぶんこの26日に「 銃・病原菌・鉄」が公開され、それから結果としてかなりリキを入れることになった「めぞん一刻」論が三回分割で掲載される予定のようだ。
 cakesの書評には含めなかったが、「夜と霧」の最初の英訳書のタイトルは"From Death-Camp to Existentialism"、つまり「死の強制収容所から実存主義へ」である。どうやら「夜と霧」の、米国での最初の受容は「実存主義」だった。
 出版年を見ると1959年。版元は2006年版と同じだったが、他の版元もありそうだ。副題には「a psychiatrist's path to a new therapy(精神分析医の新療法への道)」とあり、1959年時点で米国では「夜と霧」は精神医学としての文脈が保持されてはいた。これが1984年版での改訂に繋がっていく。その先については書評のほうで言及した。
 冒頭、「実存主義かあ」と思ったのは、1959年の米国で「夜と霧」が、実存主義として理解されていたことへの感慨である。
 実存主義というと、私がサルトルなどを読んでいたのは1970年代なので、どうしても1970年代の文脈で考えてしまうが、実際に欧州で実存主義が問われ出したのは、1956年のハンガリー動乱などで、ソ連が社会主義の希望でもなんでもないという認識を知識人が持ち始めことがきっかけである。サルトルなどもソ連型社会主義、つまりスターリニズムからマルクス主義を救済するということで彼の実存主義を規定していたものだった。
 思想史的にはおそらく、スターリニズムとの対峙のなかで実存主義は失敗し、フコーなどの構造主義に転換していくのだが、日本での受容はとんちんかんなものだった。日本では基本的に今でも、吉本隆明が言うところのソフトスターリニズムが延々と続き、これが老人趣味ならぬ若い世代のルサンチマンに感染していまだに日本を蝕んでいるといういかにもアジア的な光景が続くが、70年代すら実存主義はいわば、一種の人生論であり、スターリニズムにはついてけないという当時の知識人の玩具のようなものだった。構造主義やポストモダニスムも同様の玩具の上であだ花となった。
 1959年の米国で実存主義ということが意味を持ち得たのだろうかと、奇妙な感じもしたが、たとえば実存主義の文脈にあるアルベール・カミュだが、その死亡年は1960年なのである。ノーベル文学賞作家でもあり米国でも関心は持たれていたはずだ。この時点でカミュは一定の国際的名声を得ていた。「異邦人」は1942年の作品で実際には第2次世界大戦中に刊行されている。「シーシポスの神話」も同年。ノーベル賞のきっかけとなった「ペスト」は1947年である。
 フランクルの「夜と霧」が刊行されたのは1946年で、独仏の差はあれ、カミュの「ペスト」と同じ時代の作品といってよく、そうしてみると、「実存主義」という感覚はきちんと落ち着いてくる。「夜と霧」と「ペスト」は、実存主義的な、絶望への向き合いかたという点で似たものが感じられる。
 サルトルは「存在と無」を1943年に書き上げ、「シチュアシオン」が開始されたのが1947年である。基本的に欧州の戦後思想が、実存主義を契機に興隆した時期だと見てよいだろう。ちなみに、カミュとサルトルが珍妙な論争をしていたのは、カミュの1951年の「反抗的人間」が契機であるように、1952年の話である。
 ここではっと気がついたのだが、私の人生を結果的に大きく変えることになった(もっとも私の人生など変わってもほぼ意味などないのだが、それはさておき)パウル・ティリヒの「地の基ふるい動く」が出版されたのが亡命先の米国で1948年だから、あの欧州風の実存主義臭い変な英語は、それなりに、世界のど田舎米国でも受け入れられきてはいたのだろう。
 とここでそういえばとトーマス・マートンを思い出したら、やっぱり「七重の山(The Seven Storey Mountain)」が1946年の出版で、考えてみると、この時代の、いわば実存主義的な苦悩というのは、米国の知識人にも浸透しつつはあったのだろう。
 連想ゲームのようなしだいになってきたが、第二次世界大戦が終わった1940年代後半から1950年代に欧州から米国へと浸透していった「実存主義」だが、欧州側のほうでは、ハイデガーの「ヒューマニズムについて」が1949年に出され、サルトル的な方向での、いわば社会運動や人間の生き方としての戦後空間の思想は急速に終止符が打たれている。が、この部分は、フコーなどを経由して再鋳造されるまでかなりの時間がかかることになった。
 米国での1960年代以降の実存主義、また、日本の1980年代以降の実存主義がどのように衰退したのか、感覚としてはよくわからない。が、補助線としてサルトルの最晩年、1980年のペニィ・レヴィとの対談「今、希望とは」を考えると、うっすら見えてくる。同対談はサルトルが実存主義を放棄したのかということで話題なったものだが、考えてみると、そんなことが話題になったということ自体、1970年代にはまだそれなりに、欧州でも腐った実存主義が存在していたということだ。
 ぼんやりと考え直してみると、冷戦体制の崩壊が、実は、レーニン=スターリン主義を埋葬するかのように見えて、実存主義も腐らせていた。奇妙なことに、冷戦体制が崩壊したとき、実存も消えたのだった。
 
 

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コメント

日本で深刻な実存主義の育たなかった理由(たぶん、そして思いつくところ):

1.戦争で負けても天皇が維持された。これは、日本の、市民革命で王制が打倒されたヨーロッパ諸国との違いの最大のもの。結局、国民には無意識の次元で共同体的連帯が安心感を持って維持されている。

2.日本では、大学の人文科学と社会科学のあらゆる分野でヘーゲル主義が席巻したことなどなかった。それゆえ、ヘーゲル主義の行き過ぎに対する反省(実存主義とは基本的にはそういうものである)も必要ない。だいたい、日本では、人文科学と社会科学の地位は低く、社会的影響力は小さい。ヘーゲルの知名度も低い。ヘーゲル哲学もその内容については、たいていは、あまりくわしくは知られていない。

3.日本にはキリスト教徒が少ない。そして、日本には、座禅(参禅)、実践者は少ないが同様に念仏あるいは読経、加えて非宗教的(?、きわめて宗教的??)には俳句の創作などという精神の自由の拡大についての体系的かつ形式的な方法論が用意されている。普通の日本人は、実践するとき、思索するよりまず形(かた)から入る。

日本で、実存主義的発想が徹底できない理由はこんなところでしょうか。日本人は、たぶん、ひどく「幸せ」なのでしょうね。争闘さえなければ。

投稿: enneagram | 2012.09.25 07:11

こんにちは。
純粋な疑問なのですが、他の媒体への寄稿の楽屋を寄稿する前に書くのはなんなんでしょうか?寄稿とは別に実存主義について書かれたエントリなんでしょうけど。チョット不思議。

投稿: けろやん。 | 2012.09.25 16:02

実存主義のテーマっていうのは、実はマルクス主義とは直接の関係はなくて「キリスト教を否定するとしたら、何があるか」ですから、マルクス主義はその回答の一つとして選択することはできるけど、歴史が証明したとおりあんまり冴えた回答ではなかった、そういう風に総括できるんです。
じゃあ実存主義がけっきょく大した回答を示し得なかったのかというと、そんなことはなくて、非マルクス主義的な実存主義というのもちゃんと存在するのは周知の事実。っていうか、こっちが本来の姿なんですが、戦後フランス思想界がヘボやって歪めちゃった。
で、それを戦後フランス思想界で孤独にかつ大まじめに追求したのがアルベール・カミュな訳でだからこそ彼は叩かれたのですが、とにかく彼の思想は完成しました。
あるいは、こういう言い方が許されるなら、カミュは形而上学を完成しました。だから、カミュ以降の哲学は構造主義なんかに行っちゃった訳ですが、もうこれは世界中の青年をドキドキワクワクさせていた生存の意味、存在の不安からは離れちゃっている。
この辺り、現代でニーチェが読まれることはあってもレヴィ=ストロースが読まれることはないっていう現象の説明としてうってつけだと思います。構造主義は要するに定性指向(非定量指向)の科学なのであって、それは何ら魂の糧になるものではないんです。


”彼らはすべて、事実、一九〇五年の殉教者たちの傍らで、再生することができる。ただし、彼らが互いに訂正しあうことと、太陽の下での一つの限界が、すべての者を停止することを了解するという条件つきである。各人が他の者に、「君は神ではない」と言う。これがロマン主義の終末である”


反抗的人間の最終章の書き出しです。サルトルがこの荘厳なほとんど聖句とでも呼ぶべき言葉から学んでくれれば彼がレヴィ=ストロースなんかに論破されることもなかったのですが、現実のサルトルは「反抗的人間は文学的には偉大な書物である」と言って、思想的な価値を一切拒否してしまった。
カミュは人間の生存を肯定し得る一切の思想(世界との結婚、不条理、反抗、ですべてです)を示した上でロマン主義を終焉させた訳ですから、恐ろしく偉大な思想家なんですよ。余分なものが一切ない(それを程度が低いと見るか極限まで洗練されていると見るかは立場によって変わると思いますが)。ポストモダンもまだここまでは追い付いていない、という。

投稿: | 2014.08.19 03:19

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