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2012.09.30

[書評]長く生きてみてわかったこと(高見澤潤子)

 先日ツイッターで田河水泡の話があり、彼は小林秀雄の義弟だというのを知らない人がいた。別段、いても不思議でもない。ついでに田河水泡の名前の由来が、本名の高見澤仲太郎の名字、高見澤(Takamizawa)を、田(Ta)河(ka)水(miz)泡(awa)という話も出た。これも知らない人がいた。いや別段、いても不思議でもない。ついでに言うと、田河のお弟子がサザエさんの長谷川町子なのだが、知らない人もいるかも知れない。以下略。

cover
長く生きてみてわかったこと
高見澤潤子
 田河水泡の本名名字が高見澤だが、本書著者・高見澤潤子はその嫁さんである。すると旧姓は小林潤子かというと、そうではなく小林冨士子である。「潤子」のペンネームの由来については私もわからない。田河水泡というペンネームの由来は本書に書かれているが、本人のほうは書かれていない。ちょっと調べてみると、昭和26年の雑誌「演劇」の7号に高見沢潤子名の戯曲「霊柩車とともに」があるので、これをきっかけにしたものだろうか。ついでだが同号は吉田健一、武田泰淳、飯島正、松井須磨子、芥川比呂志などの名前も見かける。
 本書「長く生きてみてわかったこと」(参照)は彼女が94歳のときの作品。いやさすがに「長く生きて」と言って遜色のないもので、私の知る限り彼女名の最後の著作である。書かれている内容は、兄・小林秀雄、夫・田河水泡、田河の弟子・長谷川町子の三人のエピソードと言っていいだろう。他、両親のことなどにも触れている。編集は西妙子とあるが、おそらく聞き書きではないだろうか。同年に近い作品に「九十三歳の伝言」(参照)もあるが、こちらはクリスチャンらしい彼女の人生観が中心になっている。
 高見澤がクリスチャンとなった経緯だが、きっかけは長谷川町子であった。長谷川町子の家族がどれほど熱心なクリスチャンであったかについては1979年のNHK朝ドラ「マー姉ちゃん」で有名である。町子は田河水泡の内弟子としてお女中さん兼のように同居するのだが、その際、教会に通えることが大きな条件で、そうしたことから、高見澤も教会と関わり、二年後にクリスチャンとなった。夫・田河水泡はそれに17年遅れてということだが、妻の影響であろう。本書には長谷川町子が内弟子時代の15歳とおぼしき昭和10年の写真があるが、いやリアルサザエさんみたいで面白い。
 田河の「のらくろ」の連載が始まったのが昭和6年。雑誌「少年倶楽部」のその新年号からであった。当初は、のらくろ二等兵である。連載は好評で10年続いたが、昭和16年に内閣から、のらくろの執筆禁止令が出て10月10日に終了した。ちなみに、10月16日に近衛内閣が総辞職、10月18日東條英機内閣組閣、そして12月8日に開戦となった。考えてみると、のらくろは結果として一種の反戦文学と言ってもよいものだし、読むとわかるが、登場「犬」物は戦争が嫌いである。
 高見澤の結婚のきっかけが面白い。話は、小林秀雄と長谷川泰子に関係する。彼らが同棲していた貸家の向かいの貸家に田河が住んでいて、小林もご近所として知っていた。当時の田河は前衛芸術家でその貸家も原色で飾られ、本人も長髪でルバシカを着ていた。まあ、しょくぱんまん様を想像してもいいかもしれない。
 とはいえ、田河と高見澤の出会いは小林が介したものではなく、小林の貸家の大家の松本恵子である。小林が出奔して一か月後、恵子とお茶を飲んでいるときに、田河との結婚を勧めれた。恵子も英国暮らしの経験があり、また夫の泰も翻訳・文筆などもしていて、芸術家への親近感はあったのだろう。
 結婚は昭和3年。田河がキリスト教式がよいとした。仲人は松本夫妻である。結婚の牧師は恵子の父の知り合いとのことだ。恵子自身もクリスチャンだったのではないか。
 田河が29歳、高見澤が23歳だろうか。結婚式の写真が本書にあり、率直に言うと、ちょっと驚いた。

 これが昭和3年の日本である。戦前の日本なのである。

cover
のらくろ ひとりぼっち
夫・田河水泡と共に歩んで
 驚いたのは、なんとなく結婚式は「のらくろひとりぼっち」(参照)の表紙のようなものを思っていたからだった。
 考えてみると、高見澤の父、小林秀雄の父でもあるが、小林豊造はベルギーでダイヤモンド加工研磨の技術を学んだ。御木本で貴金属加工の工場長にもなった。書棚には聖書もあり、少年の小林秀雄が読んでいた。
 
 

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2012.09.26

自民党安倍新総裁誕生の感想

 自民党の新総裁に安倍晋三元首相(58)が選出された。二度目の総裁である。選出自体に驚きはなかった。数日前から票読みの報道があり、安倍さんに決まるという予想が出ていた。が、自民党総裁選全体で見れば、こういう流れになると読めていたかというとそうでもない。当初は石破さんあたりになるのではないかと思っていた。石原伸晃さんが総裁選の過程で面白いようにボロを出し、安倍さんが石破さんと政策的に組んだあたりで、ああ、安倍さんは一歩引くのか、とも思った。以前政権を結果的に投げだしたことのけじめをそうつけているのだろうとも思った。
 今日の総裁選自体に意外感はなかったが、一発で決まらないところが面白いといえば面白かった。初回の投票では、石破さんが地方票165票を獲得し圧勝した。自民党の党員全体では、派閥の支えのない石破さんに期待を寄せていたわけである。そして、そのことは私たちの身近な自民党として納得しやすいものだった。
 対する安倍さんは87票と石破さんにダブルスコアに近い差がついた。生活の場にある自民党員からの支持はそれほど多いとは言えない。もっとも谷垣さんを追いやっての石原さんは38票とさらに少なく、町村さんの7票、林さんの3票はジョークの部類だった。
 自民党議員票の構成は、党員の意識とかなり乖離していることが浮き彫りになった。こちらでは一位は石原さんで58票ある。これだけ見れば、谷垣さんを追いやった党派的な意味ははっきりする。だが二位の安倍さんは54票で、それほど差がない。党員支持の高い石破さんは34票。私はちょっと驚いたのだが、町村さんが27票、林さんが24票ということで、石破、町村、林は基本的にはドングリの背比べ的な存在であった。
 これはようするに自民党が派閥政治を維持しているということでもあり、もし町村派から安倍さんが脱して候補を控えれば、町村さんの票が石原さんの母体古賀派と競う展開になっていただろう。石原さんと町村さんが決選投票をするといった図になれば、悪い意味で自民党復活とも言えたはずだ。うんざりな風景になっていたのだろう。その線を延長すれば、石原総裁が誕生していただろうし、谷垣下ろしもそこに位置づけられただろう。
 その意味でいえば、安倍さんが表面的にであれ町村派を抜けたのが今回の自民党再選の意味だろうし、そうした行為を結果として促したのは、無派閥の石破さんだったということになる。自民党の再生のキーマンは石破さんだったのだなという認識を持った。
 石破さんと安倍さんの、議員による決選投票になったが、すでに読まれていたように議員票が安倍さんを支えているので、結局安倍さんの勝利という筋書きは見えていた。関心はその票差にあった。普通に考えれば町村派の票がどっと安倍さん側に流れ込むはずである。
 結果は安倍さんが108票、石破さんが89票ということだった。票差は19である。ここで、一回目の議員票で両者の差を見ると、20票である。つまり、町村、石原、林の票は、安倍・石破に均等に配分されたかのような結果になっている。これはどういう意味なのか。それがこれからの自民党を占うことになる。
 派閥の力が分散されたということだろうか。いや、派閥が力を競うというより、安倍さんが総理に決まった際に、各派閥が所定の影響力を持つために分散したのではないか。そうであれば、安倍自民党総裁が首相となって組閣する場合、また自民党を再統合して総力戦といった失態をやりかねない。前回の大失策はそこにあったのに。
 しかし、好意的に考えれば、自民党の「再統合」が前回失敗したのは、小泉元首相の政策方向を党内優先に大きく変更したせいだが、現状の自民党はもはや小泉元首相の政策路線を維持する政治集団ではない。その意味では、安倍さんも、民主党の野田首相のように、可能なかぎり党内宥和を求めた党派の政治をやってもよいのかもしれない。もっとも、私はそのような復古的な自民党政治には関心がない。
 とはいえ、今回の自民党総裁選、また、民主党の総裁選も含めて、私がよいと思ったのは、安倍さんであった。理由は至極簡単で、日銀改革を明言していたからである。
 実際のところ、現在の三党合意とやらの一体改革は、事実上、自民・民主合同の委員会に委ねられ、福祉・医療・年金などの問題はおそらく専門家や官僚が妥当な政策を出すしかない。事実上、政党が及ばない棚上げになった。
 あとは、騒ぐ人の多いナショナリズムや教育論は実際の政治にとってどうでもいい話であり、実際には、外交・軍事、エネルギー政策、成長戦略、金融政策などが問われる。現下にあっては、外交・軍事については、安倍・石破路線でほとんど問題ない。エネルギー政策や成長戦略は重要だが、安倍自民党の方針は見えない。それでも金融政策が是正されれば、それに付随して日本経済が、可能な限り好調の波に乗ることが可能になる。政権が自民党に戻ってきちんとした金融政策を打ち出すことができるかということだけが、安倍政権時の期待である。
 ではその前提の安倍政権は可能なのか。ここはよくわからない。民主党野田政権は、輿石幹事長の采配で衆院選挙制度改革をズラしこむことで実際には早期の解散は不可能になっている。自民党が泡を吹いてもせいぜい来年の1月であり、下手をするとさらに先延ばしとなる。野田政権は満期まで任務を全うしても不思議ではない。率直なところ、不確かな政局を騒ぐより、満期まで野田政権を維持したほうが現下の状況では国益にかなう。
 解散までのだらだらとした時間は考えようである。自民党安倍総裁がどのようにリーダーシップを発揮するかがこの間に十分に吟味できる。安倍さんの健康問題も試されるだろう。
 あと総選挙といえば、維新の会の動向が騒がれてきたが、維新の会が魅力的に思えた部分は、自民党安倍総裁のリーダーシップが発揮されれば、自民党に吸収されるだろう。みんなの党も、もともと以前の安倍内閣の機能であったのだから、自民党に合流するのではないか。
 民主党が総選挙で雲散霧消するかについてもわからない。公明党くらいの政党として残り、「第一」などとオリーブの樹方式の連携もするかもしれない。民主党的なものが一定勢力残れば、自民党政治はやりづらくなるし、結局のところ、仮に第二次安倍政権ができても、現在の野田政権と変わらぬ風景が再現されるだろう。
 
 

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2012.09.25

第三の新人が日本の実存主義だった

 第二次世界大戦とはなんだかったか。一概には言えないが、大きく見れば世界思想の水準における社会主義終焉の明確な始まりだった。
 この社会主義には二系統ある。一つはソ連型の社会主義、つまりアジア型ナショナリズムにルサンチマンが結合した独裁主義である。これが純化されてアジアにも影響した。
 もう一つは、近代福祉型ナショナリズムにルサンチマンが結合した独裁主義、つまり国家社会主義(ナチズム)である。これは第二世界大戦においてほぼ終焉への道筋が敷かれたかに見えた。
 欧米の実存主義は、こうした第二次世界大戦後の、社会主義に対する対抗や反抗のあり方として現れた。実存主義は、社会の義よりも個人の自由が義となる世界思想として重視されたのである。
 顧みると、そもそも19世紀以降社会主義が台頭したのは、近代人=市民の終わりを止揚的に継承したものである。市民は社会に統合されることで、生と世界が実現するかのような情念をかき立てられた。
 しかしその背景にあったのは、近代という時代と近代自我が終わりを迎えるというニヒリズムであり、生や世界の意味が社会から構成できないという焦燥でもあった。
 戦争の惨禍によって社会と市民性が剥ぎ取られてみると、再び無意味な世界と無意味な生に向き合うしかなくなり、そこで実存が問われた。
 実存主義とは、ごく簡単にいえば、自己の意味を自由に自己決定する主体の思想である。
 カミュの場合は「不条理」つまり、 "absurdity"、「意味なんかなにもないのだから、もうバカバカしくて笑うしかないよね」という「異邦人」的な地点から、「シーシポスの神話」において「不条理を生きる」という生の情熱が抽出され、「ペスト」においてその情熱が社会に向けられるようになった。
 サルトルの場合は、人間を実存と規定し、「実存は本質に先立つ」というように、自由に行為を選択し、その状況(situation)に自己を投げ入れることした。投企(投げ入れること)によって世界との関係を責務として誓約(engament)で捉えた。「人間は自由の刑に処せられている」ということである。
 しかしサルトルの場合、実際の社会への投企や誓約は、最終的にその自由を保障する何か超越性に依存することから、その便宜に再びマルクス主義と結合していかざるをえなかった。
 実存主義が思想史的に破綻したのは、サルトルの、ある意味、誓約の倫理性が逆に示唆するように、連帯の本質的な欠落が基点にあり、さらに欠落しつづける傾向をもつことである。実存はそれ自体が連帯と矛盾するものを孕んでいる。
 現実の実存主義は、「実存は本質に先立つ」としても、また投企や誓約としても、実際のところ、精神が身体性を無理に状況に投げ込む実践しか残らない。実存主義は現実には身体の恣意性しか残らない。これがその後のいわゆるドラッグカルチャーと結合し、実存が身体性しか意味しないという、ある種退廃した思想に完結した。そこでは、知性が反知性にまで引きづり下ろされてしまう。身体性を原点に非知性をまき散らす「哲学者」はいまだによく見かける。
 サルトルの実存主義の原点となる着想は、ハイデガーによるものだったが、ハイデガー自身が異論を唱えた。
 ハイデガーは「存在と時間」において、「頽落」が示すように、人は「世人」のなかに落ち込んでいる。世人は、現代でいうなら、ネット空間における匿名や、反論を拒絶した罵倒コメントのようなものである。
 この世人が、死の先駆の自覚を経由して良心に呼ばれるあり方を現存在とした。ここで呼ばれた現存在の本来のあり方が、暗黙のうちにだが、ハイデガーの実存主義と見なされていた。
 しかしハイデガーはこうした実存主義の、いわばあまりに人間的などたばたの帰結を早期に見切って、非人間主義から存在へと思考をずらし、実存主義から離れていった。彼は、人の存在は存在それ自体から問いかけられる存在とした。神ならぬ自然の啓示のような神秘主義と言ってもそうはずしてはいないだろう。そしてハイデガーは、存在の思索を経て生まれた新しい存在は、詩的な言葉のなかに宿るとした。おそらくその事によって民族的な社会連帯を保証しようとしたのである。この点は、小林秀雄が「本居宣長」で示そうとした思想と同型である。
 ハイデガー思想の変遷はさておき、現実ところ実存主義は、まさに今世紀の二形態の社会主義を戦争がなぎ倒したあとの、身体に関連した個人の思想として問われた。戦後という状況が必然的に、そのような実存を迫るものでもあった。
 とすると、実は、昨日ずっと考えていたのだが、日本の実存主義とは、甘ったるい香りのする西欧の現代思想であったというより、戦後文学における無頼派から第三の新人の文学思想のなかに秘められていたと見たほうがよいのではないだろうか。
 坂口安吾の「堕落論」は、日本的実存主義そのものである。太宰治の諧謔もその滑稽さはまさにカミュのいう不条理に近い。「人間失格」は陰鬱な物語ではなく、苦笑を誘う不条理な物語なのである。「人間失格」は遺作となった「グッドバイ」に近い不条理な笑いをもたらす。
 無頼派による実存の孤立性の自覚は、無意味・焦燥・身体性(性欲)というテーマでの洗練により、さらに自覚的な第三の新人の文学として結実していく。
 と同時に、第三の新人は、日本的実存主義を経由して、ようやく近代日本人を越えた地点の、日本人知性を形成した。この1950年代から1960年代の、第三の新人の文学は、顧みると、その内実において欧米の実存主義の文学と時代性においても重なってくる。
 むしろ第三の新人以降の、石原慎太郎や三島由紀夫のような戦後消費社会の空間に現れた文学は、敗戦国の占領軍が生み出した疑似近代空間へのアンチテーゼとして、それでいながら占領プロパガンダを植え付けられた新しい若者の原形を生み出した。まさに歴史を断絶した消費連帯的な新世代を形成した。逆に第三の新人のもつ実存主義的な意識は覆い隠されていった。
 なぞってみると不思議の感にも打たれるのだが、現実の敗戦から実存の自覚としての第三の新人の文学がようやく近代を越えようとした地点で、それらは、擬似的な新世代において否定されてしまっている。この新世代文学潮流は、文学と商業主義をいっそう綿密に結合させ、いわば文学産業という制度も生み出した。
 興味深いのは、この文学産業の末端からその中心に躍り出た村上春樹は、直感的に、この装置性の欺瞞を見抜いて、明確な意識として第三の新人の実存意識を課題としていったことだ。春樹ワールドのファンタジーの世界構成は、実存の意識を明瞭化するための仕掛けである。
 世界や生が、ある非現実的な構成として捉えられたとき、人の意識は再び、実存主義に回帰するのではないだろうか。もし思想や文学に、今日的なテーマがあるのなら、実存主義として定式化され様式化された深層にある、個人の生の剥き出しの無意味感や不安に、あらためて、おののきながらが立ち向かうことではないのか。
 
 

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2012.09.24

実存主義かあ

 実存主義かあとぼんやり思った。cakesに寄稿している書評としてフランクルの「夜と霧」について書く際、旧訳・新訳を読み比べているうちに、英訳はどうなのかと2006年版の英訳書を読み、ついでに英訳書の版の変化を見ていって、そう思ったのである。
 「夜と霧」の英訳書だが、基本部分は日本の新訳と同じドイツ語の1977年版を使っているのだが、合本されている関連の論文やけっこう重要な序文や解説文について版によって変遷があり、ついついいろいろ調べてみると興味深かった。
 なお、「夜と霧」の書評はcakes編集の目も入ってない段階なので、公開日などは不明。cakesでの書評連載については、たぶんこの26日に「 銃・病原菌・鉄」が公開され、それから結果としてかなりリキを入れることになった「めぞん一刻」論が三回分割で掲載される予定のようだ。
 cakesの書評には含めなかったが、「夜と霧」の最初の英訳書のタイトルは"From Death-Camp to Existentialism"、つまり「死の強制収容所から実存主義へ」である。どうやら「夜と霧」の、米国での最初の受容は「実存主義」だった。
 出版年を見ると1959年。版元は2006年版と同じだったが、他の版元もありそうだ。副題には「a psychiatrist's path to a new therapy(精神分析医の新療法への道)」とあり、1959年時点で米国では「夜と霧」は精神医学としての文脈が保持されてはいた。これが1984年版での改訂に繋がっていく。その先については書評のほうで言及した。
 冒頭、「実存主義かあ」と思ったのは、1959年の米国で「夜と霧」が、実存主義として理解されていたことへの感慨である。
 実存主義というと、私がサルトルなどを読んでいたのは1970年代なので、どうしても1970年代の文脈で考えてしまうが、実際に欧州で実存主義が問われ出したのは、1956年のハンガリー動乱などで、ソ連が社会主義の希望でもなんでもないという認識を知識人が持ち始めことがきっかけである。サルトルなどもソ連型社会主義、つまりスターリニズムからマルクス主義を救済するということで彼の実存主義を規定していたものだった。
 思想史的にはおそらく、スターリニズムとの対峙のなかで実存主義は失敗し、フコーなどの構造主義に転換していくのだが、日本での受容はとんちんかんなものだった。日本では基本的に今でも、吉本隆明が言うところのソフトスターリニズムが延々と続き、これが老人趣味ならぬ若い世代のルサンチマンに感染していまだに日本を蝕んでいるといういかにもアジア的な光景が続くが、70年代すら実存主義はいわば、一種の人生論であり、スターリニズムにはついてけないという当時の知識人の玩具のようなものだった。構造主義やポストモダニスムも同様の玩具の上であだ花となった。
 1959年の米国で実存主義ということが意味を持ち得たのだろうかと、奇妙な感じもしたが、たとえば実存主義の文脈にあるアルベール・カミュだが、その死亡年は1960年なのである。ノーベル文学賞作家でもあり米国でも関心は持たれていたはずだ。この時点でカミュは一定の国際的名声を得ていた。「異邦人」は1942年の作品で実際には第2次世界大戦中に刊行されている。「シーシポスの神話」も同年。ノーベル賞のきっかけとなった「ペスト」は1947年である。
 フランクルの「夜と霧」が刊行されたのは1946年で、独仏の差はあれ、カミュの「ペスト」と同じ時代の作品といってよく、そうしてみると、「実存主義」という感覚はきちんと落ち着いてくる。「夜と霧」と「ペスト」は、実存主義的な、絶望への向き合いかたという点で似たものが感じられる。
 サルトルは「存在と無」を1943年に書き上げ、「シチュアシオン」が開始されたのが1947年である。基本的に欧州の戦後思想が、実存主義を契機に興隆した時期だと見てよいだろう。ちなみに、カミュとサルトルが珍妙な論争をしていたのは、カミュの1951年の「反抗的人間」が契機であるように、1952年の話である。
 ここではっと気がついたのだが、私の人生を結果的に大きく変えることになった(もっとも私の人生など変わってもほぼ意味などないのだが、それはさておき)パウル・ティリヒの「地の基ふるい動く」が出版されたのが亡命先の米国で1948年だから、あの欧州風の実存主義臭い変な英語は、それなりに、世界のど田舎米国でも受け入れられきてはいたのだろう。
 とここでそういえばとトーマス・マートンを思い出したら、やっぱり「七重の山(The Seven Storey Mountain)」が1946年の出版で、考えてみると、この時代の、いわば実存主義的な苦悩というのは、米国の知識人にも浸透しつつはあったのだろう。
 連想ゲームのようなしだいになってきたが、第二次世界大戦が終わった1940年代後半から1950年代に欧州から米国へと浸透していった「実存主義」だが、欧州側のほうでは、ハイデガーの「ヒューマニズムについて」が1949年に出され、サルトル的な方向での、いわば社会運動や人間の生き方としての戦後空間の思想は急速に終止符が打たれている。が、この部分は、フコーなどを経由して再鋳造されるまでかなりの時間がかかることになった。
 米国での1960年代以降の実存主義、また、日本の1980年代以降の実存主義がどのように衰退したのか、感覚としてはよくわからない。が、補助線としてサルトルの最晩年、1980年のペニィ・レヴィとの対談「今、希望とは」を考えると、うっすら見えてくる。同対談はサルトルが実存主義を放棄したのかということで話題なったものだが、考えてみると、そんなことが話題になったということ自体、1970年代にはまだそれなりに、欧州でも腐った実存主義が存在していたということだ。
 ぼんやりと考え直してみると、冷戦体制の崩壊が、実は、レーニン=スターリン主義を埋葬するかのように見えて、実存主義も腐らせていた。奇妙なことに、冷戦体制が崩壊したとき、実存も消えたのだった。
 
 

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2012.09.23

対中武器禁輸解除問題を巡って

 ブリュッセルで20日に開催された欧州連合(EU)と中国首脳の会議における対中武器禁輸解除問題について日本での報道は少ないようだった。英語圏での報道は少なくはないがいまひとつ曖昧な印象を受けた。この問題は日本の将来にも関係すると思うので、少し言及しておきたい。
 とりあえず日本語で読める報道としては時事「中国、EUに武器解禁要求=「市場経済国」承認を」(参照)がある。概要の代わりに引用しよう。


【ブリュッセル時事】欧州連合(EU)と中国の首脳会議が20日、ブリュッセルで開かれ、温家宝首相はEUが1989年の天安門事件を受けて導入した対中武器禁輸の解除を改めて求めた。また、中国を「市場経済国」として速やかに承認するよう呼び掛けた。
 同首相は会議冒頭のあいさつで、中国は両問題をめぐり10年にわたってEUに働き掛けてきたが、解決の見通しは立たず、「極めて残念だ」と強調。中国の要求が実現するよう、「EUが早期に率先して行動する」ことを望むと述べた。
 禁輸解除をめぐるEU内の賛否は割れており、「近いうちにEUが禁輸解除で合意することはない」(EU高官)という。(2012/09/21-00:49)

 英語圏ではBBC報道(参照)などがある。時事よりも多く伝えているはいるものの、要点はあまり明瞭ではない。簡単に言えば、中国はEUに対して経済支援をするからその見返りに武器を売ってくれ、という話だ。
 EUとしても本音のところでは中国に武器を売りたいが、時事にもあるように1989年の天安門事件をきっかけにした対中武器禁輸が解除されていない。
 会議での結果はどうなったか。面白いことにEU側としては中国との関係で和やかな演出をしたいのに、やっかいな武器輸出解除といった話を持ち出すんじゃない、ということだった。だがそこは中国、というか温家宝の粘りで珍妙な進行となり、会議の公式放送が事故なのか意図的なのか中断され、カラーバーが表示されるという椿事になった。結論からいえば、EUは中国が求める対中武器禁輸解除を拒絶した。
 中国が粘った背景には、中国が最新式武器を求めている実態がある。尖閣諸島で軍事衝突をしても中国は日本に勝てないが、このあたり、ちょっと斜め上の話をすると、当然ながら竹島で紛争が起きても韓国は日本に勝てない。そこで韓国からこんな報道が出る。朝鮮日報「尖閣:数では中国、先端装備では日本が上の海軍力」(参照)より。

 尖閣諸島(中国名:釣魚島)をめぐる日中の対立が激化しているが、専門家たちは、経済的問題や国際的な圧力などを考慮すると、両国が軍事的衝突にまで至る可能性は低いと語る。しかし日本側が中国漁船の操業を制止する過程で、意図せざる軍事的衝突が起こる可能性を排除できないと指摘している。
 日中間に軍事的衝突が起これば、海軍・空軍力を中心とする局地的衝突になる可能性が高いと分析されている。海軍力の場合、中国では東海艦隊が、日本では佐世保を母港とする第2護衛隊群が、それぞれ尖閣諸島海域を担当している。艦艇の数から見ると、中国の東海艦隊が日本の第2護衛隊群を大きく上回っているが、各種の電子装備など艦艇の性能面では、日本の方が上回っていると分析されている。


 翰林国際大学院大学のキム・テホ教授は「中国に比べ独自の訓練が不足している日本の方が、実際の戦闘では戦闘力を発揮できず不利になり得る」と語った。一方、米海軍大学のジェームズ・ホルムズ教授は先月、米国の外交専門誌『フォーリンポリシー』に「The Sino-Japanese Naval War of 2012(2012年の日中海戦)」と題する論文を寄稿した。ホルムズ教授は「戦力や艦艇の数という面では中国がはるかに優位。しかし実際の戦闘では、日本側が兵器や要員の質の面で優れており、尖閣や周辺の島に地対艦ミサイルを配備した場合、海上戦でも日本の優位が予想される」と分析した。

 韓国としては懸念の表明でもあるのだろう。
 問題をシンプルに問うとすると、中国に武器輸出を禁じる必要はあるだろうか、となる。自明のようだが真面目に答えようとすると意外に難しい。
 なぜ難しくなるかというと、日本の言論では、米国主導による対中武器禁輸は米国の覇権の問題という短絡的な議論になりがちだからである。また武器輸出という点では米国のほうがはるかに量が多く、米国の主張はダブルスタンダードと非難される。
 しかし問題は、武器輸出の透明性の問題である。この件に関連して世界が中国に不審の目を向けているのは、中国の小型武器輸出の実態に問題があるからだ。特にアフリカへの武器輸出が問題になっている。
 8月26日付けでワシントンポストに掲載された署名記事「中国が輸出した武器がサハラ以南に溢れている(China’s arms exports flooding sub-Saharan Africa)」(参照)では、中国が自国製の安価なアサルトライフルと銃弾を大量にサハラ以南のアフリカに輸出し、これらが国連制裁決議に違反して紛争地域で活用されている実態を描いている。中国は国連会議でもこの事実を明らかにしていないうえ、武器輸出の規制強化にも実質反対しつづけ、イランや北朝鮮なども利している。ダルフール危機も深刻化させた。

In May 2011, a team of U.N. arms experts collected several high-explosive incendiary cartridges in the Darfur town of Tukumare, where Sudanese armed forces had recently battled rebels, according to a confidential report that was produced by three U.N. arms experts and first publicly disclosed by the London-based newsletter Africa Confidential.

2011年5月、国連の武器輸出専門員チームがダルフールの町ツクマレで爆破性能の高い焼夷弾の薬莢を数点発見したが、その地域は、最近スーダン軍が反抗勢力と戦闘があった。このことは国連の武器輸出専門員三名のレポートに記載され、ロンドンに拠点とする「アフリカコンフィデンシャル」ニュースレターで初めて公開された


 中国は呆れた国だという印象があるが、それなりのご事情もある。

Council diplomats said that while Chinese diplomats in New York recognize the futility of their response, they have been hemmed in by hard-liners in Beijing, particularly within the People’s Liberation Army, which oversees China’s arms exports. Council diplomats also say they remain unsure how much control China’s diplomats have over China’s arms trade.

国連安保理事会の外交員によれば、ニューヨーク在の中国外交官は自国の対応は国際社会への応答になっていないことを理解しているものの、彼らは人民解放軍を中心とし中国政府の強硬派に取り囲まれている。また、中国の武器輸出をどの程度中国外交官が制御しているか不明である。


 中国の武器輸出は人民解放軍が独自に行っていて、中国の政府側としてもそれを制御できていないようだ。シビリアンコントロールがなっていない。
 現状、反日暴動中、雲隠れしていた習近平氏が姿を現し、概ね次期政権で人民解放軍の権力は維持されたと見てよさそうなので、今後も中国の武器輸出の状況は変化がないだろう。
 日本としては、国連を通じて、国際的な武器管理を強化する活動を深めたほうがよいだろう。実際日本は、武器貿易条約(ATT)国連会議を6年間にわたり主導してきたが、7月の会議で失敗した(参照)。主要な失敗要因としては、土壇場にきてオバマ米国大統領が国内からの突き上げをくらって消極姿勢に転じたこともあるが、規制では国際人権法などが規制の基準となるため、国内に人権問題を抱えた中国も条約反対に回っていた。
 
 
 

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2012.09.22

日米による離島防衛上陸訓練に関連して

 日本の陸上自衛隊と米国海兵隊は、敵に奪われた離島を奪還するとのシナリオのもと米領グアムで実施した離島防衛の日米共同訓練映像を今日公開した。共同訓練自体は8月末に開始されたものだが、現時点ので報道関係者への公開は、現在の尖閣諸島問題やオスプレイ配備問題といった文脈を意識してのことだろう。
 日本の陸上自衛隊が参加したことで日本ということが注目されるのもしかたがないが、各社報道を読むと、全体構図があまり正確ではないので、背景について補足しておいたほうがよいかもしれないと思えた。簡単に言及しておきたい。
 まず、日本でのありがちな反応の例は、朝日放送「日米で「離島奪還」訓練“尖閣”念頭で中国刺激?」(参照)である。ニュース自体は短いながら、タイトルに「尖閣」を意識させていた。
 共同は比較的平易な報道だった。「日米、グアムで「離島奪還」訓練を公開 「特定の島、想定せず」」(参照)より。なお、タイトルは産経で付けたものだろう。


 陸上自衛隊と米海兵隊は22日、米領グアムで行っている離島防衛のための共同訓練で、上陸する場面を報道関係者に公開した。敵に奪われた離島を奪還するとのシナリオ。
 陸自は「特定の国や島を想定していない」としているが、尖閣諸島をめぐる日中の緊張が高まる中、中国にとっては刺激的な訓練となった。
 22日朝、グアム島西部の米海軍基地内の海岸で、陸自と海兵隊の隊員が同じゴムボートに乗って上陸。陸自隊員は、付近を制圧する想定で小銃を構えて移動した。
 陸自と米海兵隊の共同訓練はこれまで、米西海岸や、日本国内の山間部の演習場で行われてきたが、初めて離島を使って実施。参加部隊も米側が沖縄に司令部を置く第3海兵遠征軍(3MEF)、日本側が九州と沖縄を管轄する西部方面隊で、尖閣諸島など南西諸島を強く意識させる内容となった。(共同)

 共同の受け止め方は、報道側としても意図したとおりだっただろう。
 共同に比べて、NHKでは、事実報道はかなり抑制していた。「陸自 米海兵隊と初の上陸訓練」(参照)より。

 陸上自衛隊は今月、沖縄のアメリカ海兵隊と初めて、グアム島や北マリアナ諸島のテニアン島などで上陸訓練を行っていて、22日、その様子が公開されました。
 訓練には、沖縄・九州にある部隊の陸上自衛隊員およそ40人と、沖縄の海兵隊のおよそ2200人が参加していて、このうち18日からグアム島で始まった上陸訓練の様子が、22日、公開されました。
 訓練は、離島が攻撃された場合を想定し、小型のボートを使って上陸するもので、現地時間の午前9時すぎ、自衛隊と海兵隊の合わせておよそ60人が、沖合に停泊した艦艇から出発しました。
 隊員らを乗せたボートは7隻で、横一線に並んで海上を進み、一斉に砂浜に乗り上げました。
 砂浜では、上陸した陸上自衛隊員らが、物陰に身を隠したり、低い姿勢で銃を構えたりしながら前に進み、周辺に相手の部隊がいないか確認するなどしていました。
陸上自衛隊の井藤庸平3等陸佐は、「訓練は特定の国を想定したものではないが、国内では上陸訓練の場所が限られているので、グアム島などを離島の一つと見立てて訓練できるのは意義がある」と話しています。
 また、アメリカ海兵隊ボート中隊のトービン・ウォーカー中隊長は、「訓練を通じて日米の信頼関係をさらに深めることができるので、今後も訓練を続けることが大切だ」と話しています。

 事実報道のあと、NHKは米国海兵隊とオスプレイの関係についても言及している。

オスプレイ発着可能の艦艇も参加
 訓練に参加した陸上自衛隊のおよそ40人は、先月下旬、沖縄の海兵隊員と共に、沖縄県うるま市のアメリカ軍基地「ホワイト・ビーチ」で、アメリカ海軍の強襲揚陸艦「ボノム・リシャール(4万500トン)」と、揚陸艦「トーテュガ(およそ1万6000トン)」の2隻に乗り込みました。
 陸上自衛隊の部隊は、2隻に乗り込んだまま、およそ2000キロ離れた北マリアナ諸島のテニアン島に移動しました。
 「ボノム・リシャール」は、ことし4月、長崎県の佐世保基地に配備されたばかりで、甲板を強化するなどの改修が施され、沖縄への配備が計画されている新型輸送機「オスプレイ」の発着艦が可能になっています。
 訓練では、この艦艇に指揮所が置かれ、自衛隊と海兵隊の指揮官が、情報を交換しながら、それぞれの部隊に指示を出しています。
 この艦艇が所属する部隊のキャサール・オコーナー司令官は、先月の就任式典で「オスプレイの配備により、自衛隊との活動で、より高い能力を発揮できるようになる」と述べています。

 ごく簡単に言えば、日本の離島防衛には海兵隊のオスプレイが重要だということの暗示のようにも受け止められる。
 だが、この部分をよく読むとわかるように、海兵隊の強襲揚陸艦は長崎県の佐世保基地に配備されており、またオスプレイもそこで離発着が可能であるという指摘である。するとこの構図では、沖縄へのオスプレイ配備の意味は弱いことがわかる。
 さて今回の共同訓練についてだが、NHKはこう説明している。

日米双方の思惑は
 日米両政府は、ことし4月に発表した共同文書で、「動的防衛協力」という新たな考えを打ち出しました。
 日米共同での訓練や施設の使用、それに警戒監視を拡大することで、アジア太平洋地域で日米の存在感や能力を示そうというもので、今回の訓練もその一環です。
 グアム島や、北マリアナ諸島のテニアン島周辺では、日米共同の訓練場の整備が検討されていて、日本側が費用を負担するかどうかなど、年内に具体的な内容を決めることにしています。
 こうした動きの背景には、南西諸島の防衛態勢を強化するため海兵隊のノウハウを吸収したい自衛隊と、国防費の削減を求められるなか、日本の協力を取りつけ、グアム島の戦略拠点としての重要性を高めたいアメリカ軍の、双方の思惑があるとみられます。
 さらにアメリカ海兵隊は、ことし4月、南シナ海に面した島でフィリピン軍と上陸訓練を行ったり、先月末からはオーストラリア北部の訓練施設で、オーストラリア軍と合同演習を行ったりしていて、中国が活動を活発化させているアジア太平洋地域で、日本やオーストラリア、それにフィリピンなどとの連携を強めたいというねらいもあるとみられます。

 気がつかれただろうか。NHKの報道には「尖閣」は登場していないのである。
 もちろん「南西諸島の防衛態勢」という言及があるので、事実上、尖閣諸島を含んでいるとはいえる。
 それでもNHKによる説明の焦点は、「中国が活動を活発化させているアジア太平洋地域で、日本やオーストラリア、それにフィリピンなどとの連携を強めたいというねらいもあるとみられます」という点にある。
 NHKの読み取りは正しく、この件で米国の関心は、日中関係よりも、中国の太平洋侵出が問題であり、むしろ、フィリピンを中心として南シナ海での中国との衝突が懸念されている。
 日本では報道を見かけないように思えるのだが、中国はこの海域の八割を支配したいと目論んでいる。
 この件の主要な報道としては、8月19日付けのニューヨークタイムズ「Asia’s Roiling Sea」(参照)がわかりやすい。

The South China Sea, one of the world’s most important waterways, has been contested off and on for centuries. These days, with the sea bounded by some of Asia’s most vibrant economies — China, Vietnam, the Philippines, Taiwan and Malaysia — the competition has become a virtual free-for-all.

世界でもっとも重要な海路の一つ、南シナ海は数世紀にわたって争奪が繰り広げられてきた。最近では、この海域に面するアジアで経済発展が著しい国々である、中国、ベトナム、フィリピン、台湾、およびマレーシアが、実質的な乱闘を行うに至った。


 中国が太平洋への覇権で問題を起こしているのは、ベトナム、フィリピン、台湾、マレーシアである。むしろ、先日の尖閣諸島に関連する反日活動は、日本に向けて「大乱闘」へのお誘いでもあった。

Beijing’s ambitions are large: the president of a Chinese research institute, Wu Shicun, told The Times’s Jane Perlez that China wanted to control no less than 80 percent of the sea.

中国政府の野望は大きい。吴士存・中国研究所所長は、中国はこの海域の少なくとも80%を支配したいと、本紙記者ジェーン・パールズに語った。


 中国の野望について、VOAに関連の地図があったので引用しよう。なお、台湾まで線が引かれていないが、中国にとっては台湾は自国領土という含みがあるためだ。また、その北の延長はどうなるかなのだが、中国の思惑としては沖縄も中国領土に含めているかもしれない(参照)。

 米国はこうした中国の帝国主義的な侵出の事態に憂慮している。ニューヨークタイムズに戻る。


The United States is plainly concerned, and rightly so. In recent months, for instance, China has enlarged its army garrison on a bit of land known as Yongxing Island. Mr. Wu said the aim was to allow Beijing to “exercise sovereignty over all land features inside the South China Sea,” including more than 40 islands “now occupied illegally” by Vietnam, the Philippines and Malaysia.

米国は明白にかつ正当に憂慮している。例えば、この数か月で、中国は永興島として知られている島に駐留部隊を拡大した。その目的は、ベトナム、フィリピン、およびマレーシアによって「違法に現状占有された」40を超える島を含め、「南シナ海にあるすべての形状の土地に主権を実効にすること」を中国政府が可能にすることだと吴氏は語った。

The Obama administration protested that this provocative act risked further inflaming the situation. In return, a leading Chinese newspaper told the United States to “shut up” and stop meddling in matters of Chinese sovereignty.

オバマ政権は、この挑発的行動が状況を悪化させる危険を冒していると抗議した。その返答として中国主要紙は、米国に「黙れ」と言い、中国の主権への干渉をやめるよう主張した。


 日本ではあまり報道されていなかったのかもしれないが、この8月、南シナ海の領有権を巡って、中国と米国はやり合っており、実際のところ、をの直後に今日報道された共同訓練が実施されたのである。むしろ、この時点では野田政権が魚釣島を国営化にするというのは米国には想定外の時点であり、米国としては「尖閣」は念頭にはなかっただろう。
 対中国の領土問題で、注意しなければならないのは、「二国間の話合い」である。ニューヨークタイムズは次のように主張を続けているが、これは米国政府と同じ意見だろう。

China would prefer to deal with territorial disputes bilaterally because it thinks it can strong-arm its neighbors. The United States has to take a neutral position on the claims but has proposed a fairer way of settling them — through negotiation and “without coercion, without intimidation, without threats and without the use of force.”

中国は領土問題を二国間問題として扱うことを好むだろう。そうしておけば、相手国を力でねじ伏せることができるからだ。米国は、領土主張については中立的な立ち場を取らねばならないが、解決に向けて公正な手法を提案している。それは、交渉によって、「強制なく、威嚇なく、脅威なく、そしてかつ武力行使を伴わず、推進されるものである。


 こうした背景があって今回、中国は、尖閣問題をネタに反日活動という対外的な失態をして米国の逆鱗に触れた。ニューヨークタイムズが示唆していた内容が表面化したわけである。レオン・パネッタ米国防長官が、習近平中国国家副主席にどやしこみ(参照)、領土・領海問題は交渉で平和的に解決すると中国に吐かせた。21日付け日経「習近平氏「領土・領海、交渉で平和的に解決」(参照) より。

【北京=島田学】中国共産党の次期トップへの就任が決まっている習近平国家副主席は21日、広西チワン族自治区南寧で開いた「中国―東南アジア諸国連合(ASEAN)博覧会」で演説し、「周辺国との領土や領海、海洋権益を巡る争いは交渉を通じて平和的に解決する」と述べた。中国の国営中央テレビが伝えた。
 直接的には、フィリピンやベトナムなどと領有権を巡って対立する南シナ海問題を指すとみられる。ただ、日本政府による沖縄県尖閣諸島の国有化後、中国指導者が周辺国との領土を巡る対立で「平和的解決」に言及したのは初めて。国際社会で中国の海洋進出への懸念が高まっていることを念頭に「我々は永遠に覇権を唱えない」とも強調した。
 習氏は20日にはベトナムのグエン・タン・ズン首相とも会談。南シナ海問題について「この問題が中越関係のすべてではないが、処理を誤れば両国全体に影響を及ぼす」と指摘。ズン首相も「両国に見解の違いはあるが、交渉と協議を通じて適切に解決したい」と応じた。中国の国営新華社が伝えた。

 これで中国の海洋侵出の野望が終了したかというと、言うこととやることは違う中国のことだから、どういう展開になるかはわからない。おそらく手を変え品を変えて続くだろう。
 日本としては、領土問題については、アジア諸国と連携し、軍事を関与させない平和解決の基準作りに着手すべきであり、そのためにもアジア諸国ともっと連携していくべきだろう。
 
 

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2012.09.21

会話がとてもつらいとき

 例えば、会話のなかでこういう発言が向けられることがある。

「補充には数日かかるらしいので、鈴木さんが困るといけないから戻しておきました」

 ここで、私の頭は飛ぶ。飛ぶというのは、ヒューズが飛ぶという、昭和的な事象である。脳髄に激打をくらったような呆然とした状態になる。意識が残っているなら、とりあえず、相手の言葉を繰り返す。「補充には数日かかるらしいので、鈴木さんが困るといけないから戻しておきました」 意味不明。

 「何を補充するのか?」
 「誰が補充するのか?」
 「なぜ鈴木さんが困るのか?」
 「戻しておいたものは補充された何かと同一物または類似物なのか?」
 「鈴木さんが困ることと私とはどのような関係があると話者は想定しているのか?」

 皆目わからない。

 少なくとも、主語と目的語の役割の情報を補って文章を完成してくれるだけでも、よいのだが。少なくとも、以下の空欄が埋まっていると、とても救われる。

 「( )の補充には数日かかるらしいので、鈴木さんが困るといけないから( )を戻しておきました」

 内心は茫然自失しているが、とりあえず自分の表情はここで固定しておく。固めるというのではなく、脳が混乱しているという表現を抑えるためだ。抑えておかないとろくでもないことが連続して起きるという経験から。
 さてと、脳内に広がる荒野に私はひとり立つ。
 常識的に考えるなら、その補充されるべきなにかは、会話の流れのなかで、参照されていたはずである。
 びゅーんと脳内の録音データを再生しなおす。
 これで答えが出るならよい。
 たとえば、「期限切れが近い消火器」とか。
 ところが探索できないことがある。
 もうお手上げ。
 そういう場合、「何の補充ですか?」と聞けばいいだけのことじゃないかと若い頃は思っていて、ひどい目にあってきた。まあ、そのあたりの話は省略。
 長いこと生きてわかったことは、まず、わけのわからない会話に対して、とりあえず同意の素振りをして、そこにさりげなく不可知アイテムに関連する情報を求めるキーを差し込むことだ。こんなふうに。

 「そうですかあ。鈴木さん困るでしょうね。いくつくらい補充する予定でしたっけ?」

 これで、「何言ってるんですか、自転車何台も置くスペースないですよ」とか返信があると、そうか、それは自転車か、という情報を得て、そして私は世界を新しく創造しなおす。どのように鈴木さんを創造するかが次の課題になる。
 なぜ、わけのわからない会話に同意の素振りをまずするようになったかというと、いったい人々はどうやってこの不可解な会話を乗り越えているのかと、人の会話を聞いていて発見したからである。
 人の会話を聞いていると、実は会話は成立していないことが多い!
 これは本当に面白いなと思うのだけど、どう考えても会話は成立していないはずなのに、会話のような状態は継続していく。なぜなんだろうといろいろ見ていくと、とりあえず、同意のようなシグナルを出していることが重要だとわかった。
 なるほど。とりあず、同意のようなシグナルを出しておけば、論理的には支離滅裂な会話でもあたかも会話のように進行するのだ、とわかった。
 しかし、苦しい。
 いや、もうだいぶ慣れた。
 こういうのを普通の人間は、幼稚園の砂場で学ぶのだろうか。
 私は学び損ねたのか、なんからの欠陥があるのか。たぶん、後者なんだろう。アスペに近いのだろうなと思う。
 先日、アスペチェックのサイトを見かけてそのチェックをしたら、ボーダーラインだった。
 そういえば、冗談交じりに「アンとサリーテスト」(参照)をやったことがある。こんなテストだ。

某「どっちだと思いますか?」
私「箱」
某「なんで?」
私「サリーがいない間にアンがビー玉を箱に入れたから」
某「なんでそう思ったの?」
「不確かな状況で不可解なことが問われるというときは、その状況から起きるべき事態と関連人物の行動パターンの可能性の事例をいくつか推測するんだ。この場合だと、ビー玉を探せという不可解な問いかけに対しては、アンがビー玉を隠すというのが一番ありそうなことだと思うね」
某「あなた、最悪ね」
私「え? なんでなんで?」

 
 

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2012.09.20

中国経済は破綻するか

 中国が抱える問題は各種存在するが、中央政府にとって大きな課題になっているのは経済問題である。その現状をどう見るかについて「ディプロマット」に10日、簡素なまとめ記事があったのでそれを紹介し、そこから気楽な印象を述べてみたい。気になるかたや、そんなことがあるのかと疑問に思うかたは、リンクを辿って原文を読むといいだろう。
 該当記事は「中国の銀行は債務の超大型爆弾を秘匿しているのか?(Are Chinese Banks Hiding “The Mother of All Debt Bombs”?)」(参照)である。今週の日本語版ニューズウィークにも抄訳が掲載されている。
 記事の前半には問題の概要となる数字が上がっている。それによると中国は、2009年初頭から今年6月末までに、中国の国内総生産(GDP)の73%に相当する35兆元(5兆4000億ドル)の新規貸し付けを行った。その三分の二は2009年と2010年に景気刺激策によるものだ。
 記事ではリーマンショックという名称は出て来ないが、ようするにリーマンショック後の対応だった。欧米ではこの時期に財政支出をしたが、中国はこれを銀行融資の形にした。地方政府はこれを使って無計画なインフラ投資などを行い、結果、不良債権が発生している。
 焦げ付き具合だが、2011年6月の中国の監査局の発表では、地方自治体の借金が2010年末に10兆7000億元(1兆7000億米ドル)とのこと。ディプロマットではビクター・シー・ノースウェスタン大学教授による試算を併記し、15.4兆元から20兆1000億元としている。
 中国では地方政府は自前の資金調達が禁止されているため、銀行融資は地方政府系投資機関、通称、LGFV(Local Government Financing Vehicle)を仲介する。これは一種の形式的なペーパーカンパニーで中国に1万社ほどあると言われている。そのバランスシートは地方政府の一般会計とは別建てになるので「飛ばし」しやすい仕組みでもあり、ここに不良債権が貯まる。
 これがどのくらいかなのだが、シー教授によると、LGFVの債務残高は、2010年末までに9.7000億元から14兆4000億元で、そのうち二割は焦げ付いている。2兆元から2兆8000億元の損失を最終的に銀行が被ることになるだろう。円換算で35兆円くらいだろうか。
 この数値の影響をどう見るかなのだが、現状の中国では日本の預金保険機構のような銀行救済スキームがないので、地方銀行によっては取り付け騒ぎが起こる可能性もあるだろう。
 胡錦濤政権側もこの問題を知らないわけではなかったが、今年10月に実施される指導部の大幅入れ替えを前にして地方政府の債務期限を一年先送りにした。習近平政権が取り組む課題としたわけである。
 ディプロマット記事では、LGFVの債務に加え、政府誘導のバブルに関連し、不動産業界や製造業にもバブル崩壊があるだろうと見ているが、試算は上がっていない。加えて、中国経済で重要な役割を実質担っているヤミ金融(shadow banking system)に大きな打撃があると予想している。これによって受ける銀行側の損失は1兆元、日本円で12兆円ほどになると試算している。社会不安を惹起しかねないのではないかと懸念される。
 中国政府は公式にはこれらの銀行債務問題を明らかにはしていない。ディプロマット記事は最後に疑念を表して終わる。
 習近平政権はこの銀行不良債権問題に対応できるか。16日のフィナンシャルタイムズ社説「中国経済の新モデル(A new model for China’s economy)」(参照)では、これらの問題を含めた中国次政権の経済問題を簡素に論じていた。同紙社説では不良債権の存在を認めながらも深刻な問題とはしていない。問題はむしろ、中国の成長戦略の方にあるとしている。現状では行き詰まると見ている。
 中国経済について同紙の処方箋としては、インフレを7%に抑えつつ、社会資本投資を活発化させ、中国人の貯蓄傾向を緩和し、国内消費を活発化させればよいというものだ。中国市民の所得が向上すれば課税も期待できるとしている。
 なんだ簡単なことではないかとも思えるが、フィナンシャルタイムズとしては、現状の中国はさらなる財政支出で成長を刺激しようとしていることへの批判である。
 フィナンシャルタイムズ社説のトーンからすると、中国経済は総じてさほど危惧するほど深刻な事態ではないだろうとも思いつつ、社説の結語は多少奇妙な印象を与える。


China’s immediate growth problems are far from insurmountable. The state has low debt and more than $3,000bn in foreign exchange reserves. But the current growth model is unsustainable. Now that he is back, Mr Xi should start thinking about a new one.

急を要する中国の経済成長問題は、まったくのところ解決不能とはいえない。中国は、公的債務は少なく、3兆ドルの外貨準備がある。しかし、現在の成長モデルを維持することはできない。習近平氏が姿を現したのだから、彼は新しい経済モデルを考え始めなければならない。


 気になるのは、「3兆ドルの外貨準備」の意味合いである。同じくフィナンシャルタイムズだが8月5日に「中国の現金積み上げは防御にはならない(China’s cash pile provides no shield)」(参照)という署名記事を掲載し、中国が現行の経済モデルを取っているなら諸要因から、5年以内に「3兆ドルの外貨準備」も底がつくとしている。
 その予想が正しいかはわからないが、習近平政権が大きく経済政策を転換しなければ中国はあと5年は保たないだろうという印象は深い。あるいは、もともとリーマンショック時につぶれていたはずの中国経済がここまで保ってきたということをずっと後に不思議なことだったなと思うのかもしれない。
 
 

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2012.09.19

中国様のお考えを拝聴してみようではありませぬか

 私は中国語がわからないので環球時報の英語版を読むのだが、なかなか含蓄深いお話があったので、ここは一つ、日本国民も中国様のお考えを拝聴してみようではありませぬか。拙い試訳ではあるが(参照)。

9月18日には戦争を顧みる機会である

 今日は、前世紀、日本が中国に侵入した、あの9月18日の出来事の81周年記念日である。日本侵略への抗戦は1945年に終了したが、魚釣島問題での最近の世論加熱をめぐって再びその警戒が沸き起こってきている。中国と日本の間に新たなる戦争が始まるのかと懸念する人が多数いる。
 西太平洋域の国々にあって両国は主要な競争相手であった。81年前に始まった惨事で中国は、日本による最大限の屈辱に苦しんだ。日本は強大な軍事力の優位で隣国を侮蔑し続けた。日本政府が降参してもその心理的な優位が断念されることはなかった。日本人にしてみれば、中国の勝利は米国やソ連によってもたられたものである。
 1970年代と1980年代の短期間の友好気運が邪魔をされてきたのは、両国が歴史や領土について多数の口論に巻き込まれたからだ。個々の口論が日中間の現在の関係の中心になってきたようだ。
 こうした二国関係に大きな影響を与えたのが、中国の台頭である。中国は国内総生産の点で日本をすばやく凌駕した。軍事支出も日本を越えた。この間、核の力や宇宙開発技術も中国の戦略的発展を支援した。理論的に言えば、中国は日本を粉砕することが可能である。
 日本は中国の脅威と中国による報復の可能性に怯えるようになった。心理的な弱みを抱え込むようになった。
 靖国神社問題、教科書問題、南京虐殺問題など日本が持ち出す問題は、日本がしだいに自信喪失になってきたことを反映している。日本の右翼政治家が強硬姿勢を取るのは、彼らが中国の台頭を懸念しているからである。魚釣島を巡る現在の危機は、中国を怒らせる最後のチャンスだと見なす日本人が多数いる。
 9月18日記念を振り返ってわかるもっとも重要な要素は、81年前と比べ、二国間の力の均衡が変わったことである。多大な苦難を乗り越え、中国は戦略的に日本を打ち負かすことが可能になった。中国は日本に報復する必要などない。力の優位差を拡大していくことが、日本に対する中国の戦略的優位を強固なものにする。日本は、中国人の抗議活動者やその世論を恐れてはいないが、中国が台頭を続ければ、畏怖するようになるだろう。
 抗議活動というのは、中国がまだ弱い国であった時代に、侵略や挑発に立ち向かうひとつの方法であった。いまだ中国人が愛国心を示す手段でもある。だが、私たち中国人は、中国が強大になるのに合わせて、こうした方法を段階的に過去のものとしていくべきだろう。
 9月18日は中国屈辱の日である。中国はこれ以上の屈辱を受けることがないよう、強国となり団結しなければならない。そうでなければ、記念日の出来事はすべて無意味なものとなる。


Sep 18 offers chance to reflect on war

Today is the 81st anniversary of the September 18 Incident, which started Japan's invasion of China last century. Though the War of Resistance against Japanese Aggression ended in 1945, the alarm has been raised again surrounding the recent escalation of the Diaoyu issue. Many are questioning whether another war will break out between China and Japan.

Both were major competitors in the West Pacific for several centuries. The catastrophe that started 81 years ago saw China suffer the worst humiliation by Japan. The huge power advantage has sustained Japan's contempt toward its neighbor. Even Tokyo's surrender didn't break its psychological advantage. For Japanese, China's victory was granted by the US and the Soviet Union.

The brief friendly momentum in the 1970s and 1980s has been interrupted as the two countries are involved in many disputes, such as those over history and territory. These concrete disputes seem to be the core of the current Sino-Japanese relationship.

The factor that affected this bilateral relationship is China's rise. China exceeded Japan swiftly in terms of GDP growth. Its military spending also surpassed that of Japan. Meanwhile, its nuclear power and space technology have supported China's strategic development. In theory, China could destroy Japan.

Japan has become worried about China's threat and the possibility of China's revenge. Its psychological vulnerability has been accumulating.

The controversies Japan raised over the Yasukuni Shrine, textbooks and the Nanjing Massacre have reflected Japan's gradual loss of confidence. Right wing politicians in Japan have advocated a hard stance toward China because they are concerned about China's rapid rise. Many Japanese reckon the current crisis over the Diaoyu Islands is the last chance for Japan to ignite China.

Looking back at the September 18 Incident, the most striking fact is the shifting balance of power of the two in 81 years. After overcoming great difficulties, China can strategically outcompete Japan. China doesn't need to take revenge on Japan. Enlarging the gap in strength is key to consolidating its strategic superiority over Japan. Japan is not scared of Chinese protesters or public opinion, but it would be dreadful for it if China continues to rise.

Demonstrations used to be one way that China dealt with invasion and provocations by other countries when it was a weak country. It is still the means through which Chinese show their patriotism. Perhaps we should gradually leave such means behind us, as China has grown powerful.

September 18 is the date of China's national humiliation. China must be strong and united to avoid any further humiliation. Otherwise, all the commemorative events today have no meaning.


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2012.09.17

現下の中国の反日暴動と尖閣問題についてメモ

 現下の中国についてどうなんですか、ブログ書かないんですかと問われて、まあ、それほど予想外のことはないし、実は予想していることは別にあるんだけど書くと物騒なんで、どうしようかなと思っていたけど、ちょっと概要的な部分をメモしておきますか。
 まず、今回の中国の反日暴動の原因なのだけど、これはいうまでもなく政治的な裏がある。こんなのは陰謀論とか部類にも入らないイロハな話だけど、問題はどういう政治的な構図なのかというより、どういう具体的な力学というのが、まだはっきり見えない。
 構図については大ざっぱに言えば、このところ勢力を固めて院政が敷けるかと思っていた胡錦濤と共青団へのバックラッシュであり、太子党や軍、地方勢力といった個別利権の政治勢力との対立がある。ではどういうふうに対立しているか。
 この部分についても存外に単純で、中国共産党第18回大会で、現行9名の政治局常務委員を共青団に有利な7名体制にするかということで、俺も入れろ俺も入れろと2名枠でもめているのだろう。だから、単純な算数で、9名なら太子党的な勢力の勝利、7名なら共青団の勝利、8名ならぼちぼちでんなということ。ここは今後の中国を見極めるキモになる。
 この数値差で対日政策が変わるかというと、それはあまりなく、そもそもこの対立は基底には中国が抱え込んだ内政問題への対処手法の差しかない。問題のおそらく核にあるのは、民工や格差の問題より銀行不良債権問題だろう。もともとこれに対処するために共青団が権力を固めて、習近平すらしかたないかとそっちと協調する矢先でこの、中国お得意の反日ドタバタの引き金を引いてしまった。習近平の昨今の挙動は直接的な権力闘争より、俺関係ないもんねデモンストレーションのようだ。
 今回、反日暴動がここまで燃え上がったのは、現行政治局常務委員9名のうち5名が対日批判の踏み絵を踏んだからで(参照)、このうちの1名がくずれればもうちょっと温和な反日運動で終わったことだろう。逆にいえば、その時点で、問題の焦点が政治局常務委員の数問題なのがバレている。中国はこう点ではわかりやすい広報をしている国ではある。
 暴動のきっかけと見られることが多い尖閣諸島の領有権問題だが、これは誰も指摘してないみたいなので不思議なのだが、基本、意図的な誤解から発しているのではないか。
 英語のニュースを読んでいて、あれっと気がついたのだが、尖閣諸島について"nationalize"という言葉が使われている。「国営化」ということで、それ自体全然誤訳ではない。これまで尖閣諸島魚釣島の所有者は民間だったのが国に移ったということだ。ところが、"nationalize"という言葉には、日本国がぶん盗ったという響きがないわけでもなく、中国での報道でもそれに該当する言葉で、そういう印象が先になったのではないだろうか。
 つまり、「宿敵日本国粋主義者」とやらの石原慎太郎が日本国化を目論み日本国政府が煽動されて、日本国ではないものを日本国に国営化した、みたいな文脈で受け取られたのではないだろうか。
 こうした誤解が生じるのは、日本側でも「宿敵日本国粋主義者」とやらで石原慎太郎をなにかといえばバッシングする勢力がいて、今回の問題は石原氏が寝た子を起こしたからいけないみたいなトホホな議論もあったからだろう。これは珍妙な話で、同島は最初から日本人が所有しており日本国の領有権に含まれている。だから、私的なセクターで売買は可能だし、石原氏であろうが都であろうが、国家が関与しない民間での商取引でしかない。逆に、ここに国が関与してしまえば問題が大きくなるのだから、寝た子を起こすな論でいうなら、悪いのは野田首相になるのだが、あまりそういう指摘がないあたりが日本の議論の香ばしいところだ。
 実際のところ、今回の野田政権による同島の国営化だが、普通に考えたら柳条湖事件記念のこの時期(参照)にやるのはマヌケの極みみたいなもので、いくらマヌケな民主党政権とはいえそこまでマヌケということはないのだから、これには意図があったと見てよく、当然ながら、私的セクターから国家セクターに動かせば中国のメンツを潰すことになるのは想定されていた、にもかかわらず、なんでやったのかメリットが問われることになる。
 なんでだろうかと考えてみたのだが、このあたりの指摘も見かけないのだが、以前鳥取あたりだったかの防衛について調べたおり、私有地の防衛の難しさという話があり、ははあ、これは防衛上国家セクターに移しておくといいという判断をやったなと思った。
 ということは、日本政府側では明白に中国が同島に国家攻勢をかけてくると判断したのだろう。
 実際、鳩山政権でへなへなになったアジアの軍事バランスで生じたベトナムやフィリピンによる中国との海洋衝突を見ていると、中国の実動はオンスケジュールと見てよい。
 すると今回の尖閣諸島まわりの野田政権の対処は、しかたがなかったかなという印象は深い。そして言うまでもなく、今回の中国での反日暴動は、それを名目にしているだけで別の動機で動いている。
 とはいえ日本側が本気になったことは中国に伝わるし、中国も国家として自国領土を守るというメンツが潰されたに等しい。中国政府のメンツが潰されたらどうなるか。チベットやウイグルの状況を見ても明白なように、具体的な行動に出ざるをえない。
 これは来るなあと思って見ていると、だいたい想定どおりになってきた。ただ細部を見ていると、中国政府側としては米国へのメンツも配慮して軍事活動を前面に出さず、上手に国際法を遵守して国内広報活動している。随分中国もエレガントになってきたものだと微笑ましかった。
 ついでなので、尖閣諸島と米軍、つまり日米安保の関係だが、米国はこの地域の領有権問題には口を挟まない。そもそも米国は他国の領有権問題には口を出さないし、そもそもでいうなら、軍事同盟は領有権には関わりない。同盟を結んだ政府の維持がそれを支持する国民を質として強固にされるということで、政府の問題である施政権にかかわる。このあたり、赤旗(参照)とかまるでわかってないのか虚構新聞なみのジョークなのかわからない話を繰り出して、釣られている人もいる。
 尖閣諸島については基本的に日本の施政権の問題であり日本の施政権が外れれば、竹島や北方領土のように米国は基本的には関心を失うし、日米安保とは関係がなくなる。
 そこで尖閣問題は、日本側がこの地域の施政権を確立しているかにかかっているのだが、あまり知られていないし異論も多いのだが、日本の実質的な軍事力はこの地域では優位になっている(参照)。
 対する中国としては実際には軍事活動で一気に解決できないし、現下、内政が不安定な状態の中国では手が出せない。そうした中国の手の内を読んで、中国の弱みにつけ込んで野田政権が国有化に踏み出したのかもしれない。
 ついでに言うと中国はこの地域の海洋資源を狙っているという議論が日本では多いが、それだけのコストを払ってここで資源を狙うより、中国としては基本はシーレーン防衛が重要である。
 中国側からするとここで台湾や日本を足がかりにシーレーンを米国に牛耳られているのはつらい。中国は日本が無謀な戦争を引き起こした原因となる、欧米のABCD包囲網の歴史を知らないわけではないから、あれを中国に対してやられたら終わりだくらいは普通に考えている。
 そのための中国側の防衛戦略で重要になるのが空母なのだが、そのあたりのお仕事が米国の逆鱗に触れてしまい、どうしようかと困っているところである。中国としては、米国の信頼を得て、このシーレーンと日本は任せてほしいとしたいところだが、米国および西側としては、シリア問題でも協調しないし、パキスタンやイランの裏でも暗躍したり、アフリカなどに小型武器をばらまいては資源囲い込みをやっている中国が、信じられるわけもない。
 くわえて、これは奇貨というべきなのか、中国での反日暴動が激化すると、その大義であった尖閣諸島の中国占領が汚れてしまうので、ためらいも生じる。あれだけ実質的には汚い外交をやりながら、中国という国はきれいな大義に酔ってしまう国なので、ローレックスやディオールの店まで襲撃するような反日暴動の延長に尖閣諸島所有があると見られるのは嫌う。こういう中国人の感覚をまさかと思う人は環球時報とか読むといいですよ(参照)。そもそも中国の政府側としては、尖閣諸島問題は実動をちらつかせて棚上げ戦略を採っておけば、30年後ぐらいにはこの地域は自然に中国のものになると考えているのだから、ここで自国の民度を暴露するような行動には出たくない。こうした要素が状況に抑制的に機能するかもしれない。
 以上が現下についての私のざっとした見取り図なのだが、今後はどうなるか。事態はそう平穏には推移しないし、日本の対中関係はいっそう厳しくなるだろう。なにより、中国を暴発させないために、尖閣諸島の防衛はきちんと行うべきだろう。
 やっかいな時代になったものだと思うが、国際世界ってこんなものですよ。
 
 

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2012.09.11

有料配信プラットフォームcakes、開始

 有料配信プラットフォームcakes(参照)が今日から始まった。楽屋落ち的な話をしていいものかわからないが、開始日について知ったのは昨晩であった。
 今朝になるとツイッターのタイムラインや、はてなブックマーク、またそのほかのメディアで開店祝い的な話題が出るだろうだろう、となんとなく思っていたが、やまもといちろうさんの「この国で結婚をするということ 前編」(参照)についてのはてなブックマーク(参照)を見かけたくらいだった。
 ネットメディアの世界は現在、多様化し棲み分けのような状態でもあるので、画期的な試みであれ、高く上がった夜空の花火のように見えるというわけでもない。私にしても、BLOGOSやアゴラなどを読むことはあまりない。世間でブログの代表のようになっているアメーバーブログなども読まない。それは同時に、このブログもブログの世界のとても小さな位置にあるということだろう。
 有料配信プラットフォームcakesの開始だが、画期的なのは、まさに有料配信プラットフォームということだ。これは理解されにくいのかもしれない。寄稿している私自身、よく理解できていないのだから。印象としては、有料ネットマガジンに見える。情報は無料だったという時代から、有料へと潮目が変わったのだというふうに理解される部分もあるだろう。
 Cakes側の理念としては「様々なコンテンツを配信するプラットフォームとして、つくり手と受け手双方にとって、これまでにない新しいメディアの形を提案していきます」とあり「Amazon.comがインターネットでの物販を「普通のこと」にしたように、cakesはインターネットでのコンテンツ販売を「普通のこと」にすることを目指していきます」とある(参照)。デジタルコンテンツのAmazonというイメージなのかもしれない。
 ではそのコンテンツ(内容)はどうか? まず、基本的にどの記事も編集の目が入っていると感じさせる質があり、その分、落ち着いた印象と、読み手の側の理解の速度が問われる。
 私の個人的なクセかもしれないが、ネットの情報は速読でざくざくと読み飛ばしていくことが多い。cakesの記事はその、ざくざく読みの速度に合わない。雑誌や電子書籍に近い。
 読む側のありかたが問われるという点については、まだ開始したばかりで連載作品は第1回というのが多いが、回を累積していくと重要になるだろう。cakesは連載をじっくり読むに便利なプラットフォームだろう。
 連載といった累積性は、有料を志向する点で似ているがメールマガジンとも違う方向に進むだろうと期待する。有料コンテンツだからメールマガジンという、このところの傾向は、コンテンツというもののあり方、特に累積性という点では疑問が残る。
 cakesには自分も参加しているので、その面からの感想も加えてみたい。すでにいくつか指摘されているが、仕掛け人・加藤貞顕さんという人が大きな存在になっている。おそらく加藤さん自身は表現のバランスを取っているのではないかと思うが、少なくとも私については、プラットフォームとしてのコンセプトよりも、「加藤さんが始めることは面白いのだろう」という直観が参加のきっかけだった。『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』などを担当した編集者という評価ではなく、コンテンツについての独自の感性をもつ人だと思えたことだ。
 cakesで私が始める「新しい古典を読む」というコンセプトも、私自身としては加藤さんの感性に応えてみたいという思いがあった。実際にこれから連載を続けていくなかで、うまくそこが維持できるかは挑戦になる。
 その意味では、私自身としては書評コラムを有料プラットフォームでも書くというより、一つのコンセプトをもったメディアのなかでそのコンセプトを支えるような仕事がしてみたいという思いが先立つ。
 別の言い方をすれば、ブログで書いている書評を有料版で少し質を高めたということではないし、質という点ではブログのエントリーでもそれほど変わらない。もちろん、cakesでは編集の手が入るのでそこで差が出るし、その差が大きな違いに変わるかもしれない。
 具体的には、「新しい「古典」を読む」として「【第1回】『TN君の伝記』(なだいなだ)」(参照)が今日公開された。『TN君の伝記』の書評というよりも、なぜ今『TN君の伝記』なのかを問うてみたかった。
 次回は『銃・病原菌・鉄』になる。その先はまだ書いていない。書評を書くこと自体は、それほど難しくはないが、今の時代で、そしてある程度評価の定まった定番の古典ではなく、この20年くらいの書籍のなかで今後古典に残りそうなものが、どのように現在を生きているかを見つめてみたい。
 
 

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2012.09.06

いつでも明るい面を見ていよう

 ロンドンオリンピックはほとんどといってほど見なかったのだが、開会式と閉幕式の一部はたまたま見た。開会式では国民保健サービスに感動したし、閉幕式ではエリック・アイドル本人がご登場して「いつでも人生の明るい面を見ていよう(Always Look on the Bright Side of Life)」を歌うのに感銘を受けた。

 いつでも人生の明るい面を見ていよう。そうだな。しょうもない日本の政治ですら、明るい面があるはずだ。さて、どこに?
 首をかしげていたら、本家英国のフィナンシャルタイムズの社説にその手の話があった。さすがご本家である。タイトルは「東京のボンド・ブルース(Tokyo’s bond blues)」(参照)というのだが、哀しいかな、駄洒落らしいネタ元はわからない。まさか西田佐知子の歌なわけないよね。
 内容は、日本経済の低迷化傾向についてである。世界経済の影響ももちろんある。が、日本には政治指導力がないのも困ったことだ。特例公債法案も不成立というありさまだ、とフィナンシャルタイムズは嘆く。このあたりは前口上。
 しかしこれで日本の政治が混迷し続けるわけでもないだろうし、さすが経済紙、その20兆円くらいにがたがた言うわけではない。十字架に掛かってしまったブライアンの気持ちに比べれば、日本の現下の低迷は絶望的ではない。
 じゃ、明るい面は何か? というと、意外だったのは、フィナンシャルタイムズはこの夏の消費税増税を好ましく見ているような書きぶりだったことだ。この夏決めた消費に向けた課税は、見た目は、賢明(sensible)だ、というのだ。さらに退職年齢の引き上げもそうだと続けていた。
 私なんか、この増税で日本はひどいことになると予想するので、フィナンシャルタイムズとは意見が違うもんだなとも思っていたが、その先を読んで納得した。


A clear fiscal plan could also pave the way for more monetary stimulus, which politicians across the political spectrum have long called for. The Bank of Japan could feel more relaxed about stretching its asset-purchasing scheme in yet more unorthodox directions if politicians were pulling their weight too. While no panacea, this move could offer some relief to the economy.

明確な財政計画は、今以上の金融刺激策の準備となるだろう。この金融刺激策は、政党を横断して長く求められてきたものだ。これで日銀も安心して資産買い入れ額の拡大ができるだろうし、その拡大は、政治家の協力もあれば、非正統的な方法で行うことも可能だろう。日銀による資産買い入れは万能薬ではないが、ある程度まで日本経済を救済するだろう。


 こういう言い方があるのか。まさに明るい面を見ていよう、である。
 消費税増税はもう決まったのだから、日銀も安心して資産買い入れができだろうというのだ。しかも、政治家がリフレ政策を支援すれば、もっと可能でしょう、と。
 たしかにそれはそう。消費税増税がそれだけで問題というわけではない。一定のインフレターゲットが設定されれば、むしろ受け入れていくべきものだ。問題は名目成長率が先の三党合意であいまいにされ、しかも実質的なインフレターゲットが明瞭にされていない点にある。
 このフィナンシャルタイムズの社説と呼応するかのように、今日都内で日銀の白川方明総裁は講演し、言葉の上では金融緩和の方向性を打ち出した。日経「日銀総裁、金融政策「基金積み上げを通じて間断なく緩和進める」 (参照)より。

 日銀の白川方明総裁は6日、都内で講演し、金融政策について「資産買入等基金の着実な積み上げを通じて間断なく金融緩和を進めていく」と表明した。70兆円の残高目標に向けて「買い入れを進めている途上だ」と説明。8月末時点の残高が58兆円程度としたうえで「基金残高を着実に積み上げていくことは、金融緩和の効果が今後さらに強まっていくことを意味している」と述べた。

 日銀も考えているじゃないかとも思うが。

国債買い入れについては「財政ファイナンス目的では行わない」と言明した。

 ということ。「非正統的な方法」は否定されていると見てよいだろう。概ね毎度の日本銀行であり、海外からの注目はなくマーケットの影響もなかった(参照)。
 フィナンシャルタイムズ的に、あるいは、「いつでも人生の明るい面を見ていよう」というのを日本の国政に当てはめるなら、いっそうの金融緩和を推進する政治家の力が必要になるということだし、総選挙ではそういう人を選んでいこう。


 


Cheer up, Brain!
You know what they say?
Some things in life are bad.
They can really make you mad.
Other things just make you swear and curse
When you're chewin' on life's gristle,
Don't grumble
Give a whistle
And this'll help things turn out for the best

元気出せよ、ブライアン
あいつらが何言っているかわかるかい?
人生にはひどいこともある。
あいつらにはほんとに頭に来る。
罵倒や嫌がらせもしてくる。
生きていくのがきついときには
ぼやいてなんかいないで
口笛でも吹きなよ
それでいちばんいい状態に変わるもんだよ

And
Always look on the bright side of life
Always look on the light side of life

だから
人生の明るいほうを見よう
光が当たってるほうを見よう

If life seems jolly rotten
There's something you've forgotten
And that's to laugh and smile and dance and sing
When you're feeling in the dumps
Don't be silly chumps
Just purse your lips and whistle, that's the thing

人生が腐りきっているように思えても
見落としていることがあるんだ
それは、笑って、微笑んで、ダンスして、歌うことさ
どん底にいるような気がするなら
マヌケの仲間でいるなよ
気楽な顔で口笛を吹くんだ、大切なのはそれさ

And always look on the bright side of life
Come on, always look on the right side of life

人生の明るいほうを見よう
さあ、人生の正しいほうを見よう

For life is quite absurd and death's the final word
You must always face the curtain with a bow
Forget about your sin,
Give the audience a grin
Enjoy it, it's your last chance anyhow

人生は理不尽だし、「死ぬ」といったらそれでおしまい
前が見えなければ首をすくめているしかない
自分を責める気持ちを忘れて
わかってくれる人にギャグでも飛ばそう
楽しくやろう、人生は一度きりなんだから

So always look on the bright side of death
Just before you draw your terminal breath

だから死というものの明るいほうを見よう
息を引き取るまでそうしていよう

Life's a piece of shit
When you look at it
Life's a laugh and death's a joke, it's true
You'll see it's all a show
Keep 'em laughing as you go
Just remember that the last laugh is on you

人生なんて糞みたいなことばかり
深刻に見つめているならそういうこと
人生はお笑い、死は冗談、それが真実
なんだかんだ全部お芝居なんだ
どんな状況でも人は笑わせておけばいい
でも最後に笑うのは君なんだと心しておくんだ

And always look on the bright side of life
Always look on the right side of life
Come on Brian, cheer up

人生の明るいほうを見よう
人生の正しいほうを見よう

Always look on the bright side of life
Always look on the bright side of life

人生の明るいほうを見よう
人生の明るいほうを見よう

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2012.09.03

最終餃子

 「夢も希望もない?」
 「ないですよ。しょぼーんという感じ」
 「餃子を食うといいよ」
 「餃子ですか?」
 「作ろうか?」
 「簡単に作れるもんですか?」
 「じゃ、最終餃子」

材料
 豚ひき肉 120g
 ネギ 1本
 市販の餃子の皮 20枚くらい
 塩とコショウ

 「これだけ?」
 「これだけ」

1 塩コショウを入れてよく練る

 豚ひき肉をボールに入れ、塩小さじ1/2、コショウ適当(ちょっと多めくらい)。これを竹べらでよく練る。

 あわてず、竹べらで潰すように練っていく。粘りが出て、脂身の白いところが均質になるくらいまで気長に練る。

2 ネギのみじん切りを作る
 ネギのみじん切りはいろいろな方法があるけど、断面が十字になるように包丁を入れて、端からざくざくと切っていくといい。

 「あまりみじん切りって感じじゃないような」
 「別にかまわないよ。むずかしかったらスライサーでもいいよ」


3 みじん切りのネギと練った豚ひき肉を混ぜて練る

 みじん切りのネギと練った豚ひき肉を混ぜて練る。


4 餃子の皮で包む

 市販の餃子の皮で包んでいく。

「包み方は?」
「円周の端に半円分指で水を付けて、まず真ん中を閉じて、それから片側の右に3つヒダ、左に3つヒダを作る」
「むずしいですね」
「慣れだよ。閉じていたらけっこうなんでもいいよ」


5 焼く

「焼き方は?」
「フライパンに油を引き、あっためてから餃子を並べる。フライパンが熱くなったら、コップ1/2くらいの水を差して、蓋をして蒸し焼き、3分。蓋を外して、水を蒸発させ、軽く焦げ目がついたら終わり」
「焦げ目ってひっくり返さないと見えないんじゃない?」
「餃子と餃子の隙間を見ていると、ちょっと焦げた感じが見えるんだよ」
「がってん流ってどう?」
「あれは皮が厚い場合」

6 食べる

「できあがり。まず、タレとか付けないで食べてごらん」

「わ、ジューシーでネギの歯触りがいい」
「タレは自由でいいよ」

「餃子ってこんなんでいいんですかね?」
「邪道」
「なーんだ」
「中国人は焼き餃子とか作らないし、餡も野菜が主体」
「じゃ、これ、なんなんですか」
「最終餃子」
 
 

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2012.09.01

2015年の春ごろに日本消沈

 大阪維新の会による「維新八策」最終案の全文(参照)が出たので読んでみたのだが、正直、皆目意味がわからなかった。なにより、日銀改革に言及してない点が不思議ですらあった。自分の理解が至らないのでなんだが、その他の点でも新味はなく、政権交代時の民主党のような威勢の良さだけで押すなら、現在の民主党のように躓き、政治の第三極とはならないだろう。
 むしろ、自民党党首選に臨む安倍元首相のほうがこのところ、日銀改革について明確に言明していることを確認した。その点で今回は支持したい気もしないではないが、身体的に首相職に耐えられるとも思えない。そこは可哀想だなと思うが、自民党全体の動向を見ていると、安倍さんがいくら頑張っても思うようなまともまりにもならないだろう。それでいながらまたぞろ反・安倍勢力のデマが飛び交うのもげんなりする。
 日本の政治はどうなるのか。わからないといえばわからないが、わかる部分もある。わかる部分から、むこう二、三年の日本の趨勢について簡単に予想してしておく。
 明瞭なのは、どのような政権になっても2014年半ばの時点で政治の運営が頓挫することだ。理由は簡単で、現行の消費増税翼賛会のシナリオが現実に直面して崩れるからだ。名目成長率の数値を努力目標として無意味にした景気条項だが、それでも成長率どころではない事態になれば、そもそも条件としての意味もなくなる。2014年4月の一回目の増税はなんとか持ちこたえるだろうし駆け込み需要もあるだろが、その後、日本の経済成長はがくんとへこむ。NHKで見た試算では2.1%減少する(参照)。
 今回の増税は、以前のように減税とセットになっていないし、逆に各種の実質増税が加わる。10%増税を加えると、NHKで見た試算では、年収500万円の家庭で年間32万8,900円の増税になるとのことだ。大ざっぱな感覚とすれば、庶民の家計から月額3万円近くが削られる。どのような惨状になるかは想像がつく。他、エネルギー政策もぐだぐだとした状況で産業も疲弊しているだろう。こうしたなか雇用が回復するとも思えないし、社会保障といった華々しい話題も、それ自体が追憶になっているのだろう。
 こうした状況がほぼ確実と見られるなか、民主党政権が存続しようが、自民党政権に戻ろうが、あるいは第三極が出てきようが、最善を尽くしたとしても、大差のない結果にしかならない。もちろん、忘れていた天才・鳩山由紀夫さんのような首相が出て、さらなる混沌と悲惨が訪れないとも断言できないが。
 悲観に過ぎるようなので、楽観面を考えると、意外と財務省はデフレの意味を理解してはいるので、念願の消費税増税路線を是とするや、日銀攻撃を始め、円安誘導を開始するかもしれない。民主主義もくそもないような希望というのもなんだが、一縷の望みがないわけでもない。
 さて、これから来年2013年にかけて政治の季節がやってくる。しばしはお祭り騒ぎになる。希望が語られる。実態は、どのような政権であれ、現下のだらっとした状況が2014年くらいまで続くし、次の首相も一年くらいは保つだろう。消沈は、消費税増税10%の2015年の春ごろに訪れる。
 政治の課題としては、相も変わらず経済成長力や金融改革というままだろうが、現実的な転機という点で見れば、政府は10%増税に失敗して、長期国債金利が上昇し、円が弱まった時点で新しい産業の芽や新しい展望も見えてくるのではないか。
 その間、日本を取り巻く状況がどうなっているかだが、国力が弱まるとどうなるかは現下の民主党政権で国民も学びつつある。これがじわじわと悪化するだけならよいが、ときおり世論を沸騰させるような突発事件もあるだろう。それとは別に中国や朝鮮半島側での変化もあるだろうが、日本としての積極外交は取れないのだから、地味に実質的な防戦体制でいくしかないだろう。
 夢も希望もないような話だが、偽りの夢や希望が消えていく新しい過程に日本が進むのだと考えれば、それでよいのではないか。
 
 

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