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2012.08.25

[書評]ニシノユキヒコの恋と冒険(川上弘美)

 なんとなく読むのを避けていたのだが先日、ツイッターのタイムラインで川上弘美の「ニシノユキヒコの恋と冒険」を見かけ、ふと読んでみたい気がした。その気分だけで読んでみた。

cover
ニシノユキヒコの恋と冒険
川上弘美
 どんな女からももモテモテの男性、ニシノユキヒコの恋の人生の物語。彼を恋した女たちがその人生で遭遇した彼の相貌をそれぞれに描き出した掌編群。気色の悪い小説でもある。それほど広く読まれるというタイプの小説でもないし、「溺レる」(参照)に比べて文学性に富むという作品でもない。が、三十も過ぎた男女で恋愛の悪趣味も趣味のうちという人にとっては、なかなかに笑える小説でもあるし、読んで笑いながら、内面、ぐさぐさくる。僕なんか、絶叫して目覚める悪夢見ちゃいましたよ。
 1970年生まれの西野幸彦は、清楚でルックスもよく、それでいて気弱げで母性を誘うというのか、女なら一目で惹かれるタイプの男である。女の扱いもうまく、するすると気安く女との一線を越えて性関係を持つ。セックスも上手な部類だ。女にしてみたら、ペットにして最高の部類といったタイプの男でもある。
 だが、男女の愛情の関係を数年と続けることは彼にはできない。関係した女にしだいに自然に飽きる。それが女に伝わる。結局プライドの高い女たちは、彼と関係を維持できず別れていく。別れても憎悪の関係にならず、ふっと出会ってまた性交渉を結ぶこともある。そもそも西野幸彦は、一人の女と関係を持ちながらも、並行して他の女とも二股で関係をずるずると、平然と続けていられる男である。西野幸彦の人生に、高校生時代からずっと女との関係が途切れることがない。
 いうまでもない。平安朝かよそれ、といった趣向である。現代の光源氏かと。しかし、源氏物語と共通するのは光君と同様に内面の人間性の多大なる欠落がある主人公というくらいだ。西野幸彦には、女に対する欲望はあまりない。女が持つ、彼に対する欲望と女特有の寂しさを嗅ぎ分けて応答するだけで(つまり性交)、その意味では、実際には女の欲望に対して受け身のままである。
 まあ、つまらない男と言っていいだろう。そんな男に惚れる女もつまらない女だろうとすら言っていいように思える。が、おそらくそこは違う。おそらく女というのは、こういう男を求めているのである。それを戯画的に描き出す悪趣味が、およそ文学の感性のある女にとってはたまらない自虐の快感をもたらすだろうし、男にとっても、恋愛の一時期、女の欲望に受け身に寄り添いながら、心が離れていく刹那のフラッシュバックは、ぐさぐさと自虐する。
 物語は十の掌編から成り立っている。概ね、西野幸彦の少年時代からその死までをクロニカルに描いているのだが、冒頭の「パフェー」ですでに西野幸彦は死霊として登場する。50代半ばそこそこで西野幸彦は死んだ。私の今の年齢。そして死んだ西野幸彦は、かつて若い頃関係した女のもとに死霊となって訪問しているという、いかにも川上弘美的な仕掛けである。ようするに文学的な仕掛けでもあるのだが、私はこれがこの作品を悪趣味以上のものにはしない意図的な失敗の原因でもあると思う。
 次の「草の中で」は、若干ネタバレになってしまうが、中学生の西野幸彦が姉の乳を吸うシーンが象徴的に描かれている。姉の死が西野幸彦という男になにか決定的な喪失をもたらした結果、理想の女たらしを作り上げたことになる。このあたりは、姉と弟という、まるで吉本隆明の共同幻想論ですかというような雰囲気もある。そして案の定、この物語に母なるものはいない。西野幸彦と別れた女が後に母となることはあっても、思慕や残酷の象徴としての母なる存在はいない。父もいない。ラカンのいうファロス(φαλλός)は完全に欠落している。この小説をフランス語に訳してラカン派に読ませたら、狂喜乱舞するに違いない。そんな逆説的な理想の完遂した物語世界がそもそも成り立つのか。
 成り立つわけはない。50代半ばになった西野幸彦は19歳の少女と狂おしい関係に陥る。愛を見出すことができず、19歳の少女の身体の存在性にだけすがりつく、一種の死霊に近い妄念となる。これを描いた9編目の「ぶどう」は、美しい。おそらく、この小説が文学であるなら、55歳の男と19歳の少女の狂おしい関係だけを描くべきであり、そこにその死を迫る追憶のなかで、薄汚れた女たちを描くべきだった。そのように物語すべて書き換えるべきだった。その狂おしい関係の内実を「ベティ・ブルー―愛と激情の日々」(参照)や「砂の上の植物群」(参照)のようにこってりと描き出してほしかった。
 だがそれを文学と称賛される世界のなかに宝石のようにうずくまっている川上弘美に求めるべきだろうか? そこがよくわからない。最終の「水銀温度計」は、悪趣味として見るなら最上の仕上げともいえる。筆者のひんやりとしたモノローグが、どのようにして西野幸彦という薄気味悪い幻影を生み出したか、「峰不二子という女」(参照)の最終話よろしくメカニカルに解説されている。文学的な推理小説趣向としては面白いといえば面白いし、ゆえにつまらないとも言える。そもそも、西野幸彦が死んだのは2025年あたりのおとぎ話である。
 いや、ほかにも面白い。掌編それぞれの女の視点の錯綜が、掌編を跨ぐことで、まさに女の見る多様な世界という、まるで悪意の万華鏡のように見える。さすがにこれは女でないと描けないだろうなという面白さもある。それらが最終的に一人の作者の視点にきゅっとまとめられて幕を下ろし、静かに読者の心にある悪意の贈り物を残す。
 これを受け取るなら、私たちはニシノユキヒコを生きて来たのだと告白せざるを得ない。ほのぼのとした思い出なのか、夢のなかで絶叫して目覚めるような恐怖としてか。
 
 

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コメント

私はどういう訳か、この種の男性を初体験の相手に選ばなかったです。・・・何故か、思春期に好きになる相手は、父親が不在(か自死)で、母親が強権を持っているタイプばかりだった。そうすると性交の形も至極当然のようにレイプに近くなっちゃうんですね。
今、好きな人はニシノタイプだと勝手に思ってるけど、実は違うのかも知れない。まだ深入りしていないのでよくわからないです。
自分が、どうしてニシノユキヒコを女として求めないのかよくわからないけれども、自分の中に、時代遅れなまでにある種の信仰(ファロス)があるんでしょうね(苦笑)。

投稿: ジュリア | 2012.08.27 10:16

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