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2012.08.26

[書評]死との対面 瞬間を生きる(安岡章太郎)

 先日ふと鶴見俊輔さんと安岡章太郎さんのことが気になって書店でぶらっとしていたら、安岡章太郎さんの「死との対面 瞬間を生きる」(参照)が文庫本で復刻されていたのを見つけた。なぜと思うこともなく読んだ。

cover
死との対面
瞬間を生きる
安岡章太郎
 扉裏には、「本書は『死との対面』(1998年/小社刊)を加筆修正し文庫化したものです」とあるので、現在92歳の安岡先生の近況も含まれているのかと期待したが、初版と比較したわけではないが、ざっと読んだ限りでは、特になかったように思う。前書きも1998年のままだった。
 気がつく加筆がまったくなかったわけではない。近藤啓太郎について触れた段落の末には、括弧で、(註・近藤氏は二〇〇二年没)と追記されている。初版と復刻の間に亡くなった。近藤啓太郎と限らず、あちこち没の追記がある。バトルロワイヤルという趣向でもないが、安岡先生の存命が強調されている。
 1998年に安岡章太郎は78歳。表題の「死との対面」もむべなるかなという印象もある。この年私は41歳。ああ、40歳越えちゃったよ、名実ともに中年だなと暢気なことを考えていた。
 安岡章太郎が生まれたのは1920年、大正九年である。私がよく読んだ著者群の生年のスペクトラムで見ると、山本七平が1921年の年末生まれ、遠藤周作が1923年、吉本隆明が1924年、三島由紀夫が1925年。それと私の父が1926年。山本七平はルソン島に送られ生死をさまよう。安岡章太郎も学徒動員でフィリピンに送られそうになるが、病のために戦地には赴かなかった。私の父も病で戦地に行くことはなかったが、四つほど年上だったか父の兄はインパールで戦死した。そのあたりの生年地点で戦地の実体験と内地経験での語られた体験との差違があり、吉本も三島も戦地経験のなさで焦燥した欠落感から過剰な思いに駆られて、戦後思想の一つの類型的な基盤を形成している。安岡はその中間的な地点に、ぶらっと存在する。この中間性がいわゆる「第三の新人」のバリエーションでもあり、特徴でもある。このあとには、ベタな団塊世代が出現し、これが高齢化して現在の奇妙な日本の風景を描き出している。
 自分に関連するので、戦中派の子の世代も少し触れておきたい。安岡章太郎の娘さんで、光文社からドストエフスキーの新訳なども出されている東大教授の安岡治子さんは、1956年生まれで私より一つ年上。彼女は1月生まれなので学年的には二つ上になるだろうか。ちなみにこのクラスタの生年スペクトラムで象徴的なのは松任谷由実の1954年生まれで、ここのあたりから脱・団塊世代が始まる。と同時に、戦中派の父親をどう継承するかという内省が始まる。高橋留美子が私と同じ1957年生まれで「めぞん一刻」的な世界の背景がある。
 背景の話が多くなってしまったが、本書「死との対面 瞬間を生きる」は普通に、誰にも訪れる老年とその時点で向き合う「死」という点でも面白いし、10年以上たって55歳にもなって死にいっそう近づいた自分が読むとまた思い新たにすることも多い。が、最後の戦中派やそれを父に持つ世代や、「第三の新人」の文脈で読んでいく面白さが、やはりやや上回る印象があるし、自分が年を取った分、戦中派の人々や戦後昭和という時代への思いも深まる。
 安岡章太郎は青年時代、まさに戦中で、「生命というものをそんなに大切なものとは思わなかった」と書いている。戦争といえば、戦後神話のなかで、命の大切さが大書されるようになったが、その大書には、安岡のような思いが裏書きされていた。「いつ死んでもかまわない、という気持ちに馴らされてていたように思う」と安岡は述べる。
 安岡は1941年、慶應大学の文学部予科に入学したものの、卒業前に召集され満州に送られる。が、翌年肺結核で除隊処分で内地送還。病院の様子はひどいものだ。病人たちはばたばたと死んでいった。看護婦が悲哀感もなく甲高い子で「また一丁スーラ(死了)よ」と叫ぶ。
 そうした眼前の死者に対して安岡は「可哀想とは、もちろん思わなかった。そんな余裕は僕にはなかった」と回顧する。「百人ほどの結核病棟の兵隊の、おそらく誰一人、他人の身の上を案じる余裕はもってなかっただろう」とたんたんと語る。戦地で人肉を食ったという話を聞いても、「経験したことのある人にとっては大きな意味はないという」とも語る。現地人や敵兵は捕まえられなかったから食うのは仲間の日本兵だったとも。
 戦後神話の薄皮の向こうが見える。「軍隊に入っただけでは戦友愛など生まれてはこない。軍隊のなかでは同年兵が皆お互いに自分の敵なのである」。
 だが78歳の安岡は本書でこう言うのだった。「ところが今になって年ごとに」「死んでいった連中を本当に可哀想だと思うようになり、すまないという気持ちになってくる」。「かならずしも軍隊へ行って死んだ者だけではない。民間人としてもたくさん死んでいる。それが皆二十歳そこそこの若さなのだ」「自分が生きていて、生きることに価値があり絶対に善いことならば、死んだ人は本当に気の毒だ」。
 こうも言う。「こっちが死にそうな年齢になってきて、散歩に行って多摩川の皮の水面を見ていて、ふと同年兵の顔が浮かんできたりする。じつに可哀想だったなと心の中で呟き、彼らはおそらくたいていは童貞で死んだであろうと、そう思うとき、始めて自分自身の孤独を身にしみて感じる」
 安岡章太郎らしい、さらりとした口調で語られているが、独白に登場する「童貞」の語には奇妙な違和感が残る。文脈も読み直せば、童貞で死んだ若者を思うことがなぜ自分自身の孤独になってくるのだろうかということは、語られていないことに気がつく。
 おそらく、それは戦後神話の向こうでは語るまでもないことだったのだろう。戦後生き延びて童貞を失した老人の孤独というものは、童貞で死んだ若者が投影されているのだろうが、その意味がわかるだろうか。
 何を安岡章太郎は言っているのだろうか。戦後神話の向こうでは当たり前のことではなく、ただの老人の繰り言というだけではないのか。そうではないだろう。生きるということは、生きて子をなして生きるという意味を包括していた。だから、童貞で死んだ若者の死はただの死ではなく、生への特殊な、この世に残る子孫への情念が含まれていた。であれば、若者を童貞で死なすまいというなんらかの配慮のようなものも当時は存在していたに違いない。
 なにか不思議なことが淡々と語られ、安岡章太郎のカトリック入信の話にも繋がっていく。この入信については別に書籍もあるし、縁となった遠藤周作の逸話も興味深いが、それよりも、きっかけが娘の治子さんだというあたりの話には心惹かれる。
 1988年、安岡は遠藤を代父として洗礼を受けるのだが、その前、半年ほど入院していた。30歳をちょうど過ぎたあたりの治子さんも偶然病気で入院していたという。奥さんは夫と娘の看病で大変だったらしい。
 「そこへ何か信仰をもちたいと、娘が言いだした。彼女の場合、信仰といえばキリスト教だから、女房や僕に一緒にキリスト教に入らないかと」いうのだ。家族一緒がよいと奥さんも賛成したので、安岡も成り行きで入信した、とある。「だから、僕の場合、信仰の入り方というのは極く消極的だったわけだ」しかし、「気がつけば、僕は友人ばかりではなく親類たちのキリスト教徒に周囲を囲まれていた」として、安岡家のルーツの関連も語り出し、自身の人生がキリスト教徒になるものと了解するようになる。
 そこでもう一つ奇妙とも言える逸話が語られる。彼がその六年前『流離譚』を書いたおり、小林秀雄がわざわざその評を書いてくれたが、そこで小林が「僕が将来的にはキリスト教に入らざるを得ないだろうと、予言していた」と言う。「その当時、僕は全く気がつかなかったのだが、入信後に何かのために読んで驚いた。六年後の僕を鋭く見抜かれていたのかもしれないと」。
 小林秀雄には、安岡章太郎がキリスト教徒になることは、当然のようにわかっていたことだろう。その意味合いは、山本七平『小林秀雄の流儀』(参照)を読めば、おおよそ察せられる。この話はまたどこかで書こうかと思う。
 
 

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コメント

話がそれますが、よく、聖書やキリスト、少し前に福音書についてたくさん書かれてましたが、御自身は信者ではないのですか?ちょっと疑問に思っていたので。
これだけ書いていたら、信者ですよね‥‥??

投稿: | 2012.08.31 09:00

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