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2012.08.12

IT投資家ミルナーによる基礎物理学賞

 オリンピックの陰に隠れた印象もあるが、ロシア人投資家ユーリ・ミルナー(Yuri Milner)が基礎物理学の賞を創設したというニュースには少し驚かされた。ミルナーでなければ、また賞金が300万ドルでなければ、それほど重要なニュースでもなかったかもしれない。7月31日付けのニューヨークタイムズの記事(参照)を元に日本では朝日新聞社が孫引きで報道していた(参照)。
 賞の名称は彼の名前にちなんでミルナー賞か、あるいは数学のフィールズ賞のようにこの分野の著名人を当てるのかとも思ったが、ニューヨークタイムズの記事や他の報道を見ても"Fundamental Physics Prize"と語頭大文字で記されている。単に「基礎物理学賞」と呼ばれるのだろうか。雑誌エコノミストの本文では参照的な言いまわしではあるが"The Milner prize(ミルナー賞)"とも呼ばれていたが。
 高額な賞金について、ノーベル賞との比較は避けがたい。ノーベル賞の賞金は1000万クローナ(約1億1000万円)だったが、不況もあり今後800万クローナ(約9400万円)に減額される。「基礎物理学賞」の賞金はこのノーベル賞の2倍半。設立に併せた初回の受賞者9人の賞金総額は2700万ドル(約21億円)にもなった。
 受賞9人の顔ぶれは、宇宙のインフレーション理論を提唱したアラン・グース(Alan H. Guth)を筆頭に、プリンストン高等研究所から4人、ナイマ・アルカーニ=ハメッド(Nima Arkani-Hamed)、フアン・マルティン・マルダセナ(Juan Martin Maldacena)、ネーサン・サイバーグ(Nathan Seiberg)、エドワード・ウィッテン(Edward Witten)が選ばれた。他は、スタンフォード大学のアンドレイ・リンデ(Andrei Lind)、カリフォルニア大学のアレクセイ・キタエフ(Alexei Kitaev)、フランス高等科学研究所のマキシム・コンツェビッチ(Maxim Kontsevich)、インド人のアショーク・セン(Ashoke Sen)である。
 受賞者はそのままノーベル賞やフィールズ賞にも相当しそうだが、ノーベル賞と基礎物理学賞の違いははっきりしている。なによりも物理学の基礎理論への貢献が重視されることだ。
 皮肉な言い方になるが、近年のノーベル賞は日本文化の功労賞のように高齢者が何十年前に行った研究に与えられているが、基礎物理学賞では実験成果は待たない。また、ノーベル賞では人類の福利に貢献した影響が重視されが、基礎物理学賞では理論そのものが重視される。
 ノーベル賞との比較で評価が難しいのは選考手法である。ノーベル賞はよく批判されるように政治的な色合いや、選考組織の官僚化の傾向が見られる。これに対して基礎物理学賞は、特定の専門委員とミルナー自身が決め。悪い言い方をすれば、ミルナーの独断という色合いも出やすい。今回の9人の受賞者のうち3人がロシア出身者であったことに、ロシア人のミルナーの思惑がなかったか、今後はどうかなど問題点は残る。
 賞金額の多さには驚かされるが、言い方が悪いが、フェイスブック・バブルの還元と見ることができないわけでもない。彼は実質フェイスブックの黒幕ともいえる人物でもある。
 簡単にミルナーの来歴をまとめておこう。彼の名前は、金正日ことソ連生まれ"Yuri Irsenovich Kim"と同じく"Yuri"である。つまり、「ゲオルギー」。英語でいうと「ジョージ」である。1961年11月11日、モスクワでユダヤ人家系の二人めの子供として生まれた。
 父親は科学アカデミー経済学部の部長を務め、米国の会社経営にも詳しかった。母親は国立の疫病予防研究所で働いていた。家庭はソ連の知的階級に所属していた。
 高校生時代にこの年代らしくパソコンのBASICや、大型機のFortranなどのプログラミングを学ぶ。大学はモスクワ大学に進学し理論物理を専攻。1985年に卒業し、さらに物理学博士号取得を目指して科学アカデミーに入り、ヴィタリー・ギンツブルク(Vitaly Lazarevich Ginzburg)とともに働く。ギンツブルクは2003年にノーベル賞を受賞している。またそこでアンドレイ・サハロフ(Andrei Dmitrievich Sakharov)とも親しくなる。彼は水爆開発から「ソ連水爆の父」と呼ばれ、またソ連時代の人権活動家として「ペレストロイカの父」とも呼ばれた。
 偉大な人物の影響を受けたミルナーの青春だが、博士号は取得できずに挫折した。ソ連解体期の混乱もあって、週給5ドルといった貧困生活にも陥っていた(参照)。しかたなく闇屋のようなビジネスで荒稼ぎを始めたが、父親は息子のそうした生き方を是とせず、ペンシルベニア大学のビジネススクールであるウォートン校にソ連人として正式に留学させ、MBAを取得させた。
 1990年代前半、ミルナーはワシントンDCの世界銀行でロシア担当として働くが、あまり気乗りのする仕事ではなかったらしい。ソ連崩壊後は、ロシア新経済の黎明期を好機として、ミハイル・ボリソヴィッチ・ホドルコフスキー(Mikhail Borisovich Khodorkovskii)と知己を得る。その支援で投資ビジネスで頭角を現すようになった。言うまでもないが、このホドルコフスキーは現在豚箱に入っているホドルコフスキーである。
 2005年、ネット投資社デジタル・スカイ・テクノロジーズ(DST: Digital Sky Technologies)を創設。その無料メール事業部門は"Mail.ru"とした。2009年にフェイスブックに2億ドルを投資し、さらに従業員から1億ドルの株も買い上げた。2011年、ゴールドマン・サックスと一緒にさらにフェイスブックに5億ドルを投資。こうしたIT分野の投資から巨額の財産を築いた(参照)。
 基礎物理学賞の設立は、フェイスブック・バブルからの儲けの社会還元と見えないこともないが、ミルナーにとっては挫折した青春の夢でもあったのだろう。アカデミックな人生とビジネスをつなぎ、自分に似た俊英を引き立てたいという思いもあるだろう。基礎物理の研究から意外なビジネスの展開を見せるかもしれない。


 
 

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「経済」カテゴリの記事

コメント

先日の「マックで並んでいたら、あらら…。私が先ですよ」の記事に爆笑していたら、今度は物理学賞の話題。極東ブログ様の博学に驚きを禁じ得ません。ノーベル賞でも何の賞でも、科学者は賞金が目当てではないと思います。極東ブログ様の「ゲーム理論のその後」の文章を拝見してみたいなーなどと思っています。

投稿: 大東亜 | 2012.08.13 00:21

>基礎物理学賞では実験成果は待たない。
「物理学」であって、「数学」じゃないんですから。観測結果で証明されていない理論などいつ何時ひっくり返されるか判りません。

この9人のうち、今の成果をみるに物理学史に名を残す可能性があるのは、アラン・グースのみ、しかも彼の理論が証明されるのは、多分ずっと先です。
残りの8人の大部分はスーパーストリング理論の関係者ばかりですから、未だにその評価は定まっていません。コケてしまう可能性も高いのです。

ミルナー自身の弁として、理論として証明されていなくとも、衝撃を与えた理論の提唱者を選んだとしていますから、その当りは確信犯でしょう。

投稿: F.Nakajima | 2012.08.13 01:03

>2011年、ゴールドマン・サックスと一緒にさらにフェイスブックに5億ドルを投資。

さすがは渡辺女史。イチロー氏の揶揄が入らないのが不思議なくらいです。
2011年にフェイスブック株を買っているということは、20ドルということはあり得ない。少なくとも30ドル以上で下手をすると40ドル以上もあり得る。(女史は去年は500億ドルで今年は600億ドルだと書いてますけど、この間にどれだけ増資を行ったかは書いてません)
で、今の株価は20ドル近辺で、しかもミルナー氏の持株は99%間違いなくロックアップに引っかかって未だに売ることが出来ていない。
大体、今年に入ってからのグルーポンだのジンガだの株価を見ていると、VBファンドは壊滅的な打撃を受けているはずです。(例外はリンクドインぐらい)
今の、VBを初めとする金融に係わる連中の強欲によってIPOバブルが崩壊した状態で、臆面もなく「将来へ投資」などとよく書けるものです。

投稿: F.Nakajima | 2012.08.13 01:31

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