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2012.07.03

[書評]別海から来た女――木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁(佐野眞一)

 佐野眞一が連続不審死事件の木嶋佳苗被告を描いた。それだけの理由で本書「別海から来た女 木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁」(参照)を読んでみた。北海道の開拓地、別海に視点を求めるところには、まさに佐野らしい技芸があると思える反面、こいつはサイコパスではないかと端から切り捨てているような扱いもあり、以前の佐野とは違う感触もあった。率直なところ、別海という土地の重みがそれほどうまく本書のテーマに統合されていないこともあって、後者の違和感が気になった。

cover
別海から来た女――木嶋佳苗
悪魔祓いの百日裁判
 木嶋佳苗被告による連続不審死事件では、インターネットの婚活サイトを利用した結婚詐欺に加え、練炭自殺を偽装して殺人が行われたと見られている。2009年9月に発覚し、裁判員裁判により2012年4月13日さいたま地方裁判所で死刑となった。一見して美人でもない女性がインターネットを使って結婚詐欺に及んだことに加え、やすやすと殺人を展開していくことから世間の話題にもなった。また警察の捜査が目を覆うばかりの失態であることも暴露された。
 佐野眞一はこの事件の木嶋佳苗被告をどう見ているか。人間が壊れていると見ている。「木嶋にはたぶん大きな欠陥がある。もっと言うなら、木嶋には本人も気づかない深いところで、人間が壊れている」と。
 私も佐野のその観察に同意するが、そうであれば問題は「木嶋には本人も気づかない深いところ」とは何かとなるはずであり、それは本書のタイトルが暗示するように北海の開拓地「別海」という土地とその地域の人間群像に求めていくことになる。たしかにその予想通りに、佐野は本書の第一部で木嶋の生まれ育った土地や、親族の興味深い歴史を引き出していく。その描写は興味深いが、木嶋という女性の深淵をうまく描き切れているとは私には思えなかった。むしろサイコパス(精神病質者)はランダムに発生するという否定的な印象すらもった。
 それでも佐野が足で稼ぐことで気づかされたことは二つある。一つは木嶋被告の首都圏を広範囲に渡って行動する開拓者的な行動力であり、もう一つは木嶋の母という存在だ。彼女については佐野は、周辺の情報やインターフォンを介した肉声しか得ていないが、抑制的ではあるものの、木嶋佳苗のサイコパシーに母との関連を見ている。私の直観でも、ここは大きな部分だと思う。この事件の本質は「母の物語」なのではないのか。
 第二部では百日に渡る裁判が佐野を通して描写されるが、ここでも木嶋被告の人間的な部分は見えてこない。「かつて文学の一大テーマだった殺人は、もはや文学のテーマからもすべり落ちてしまったようにも見える」という佐野の諦観とも憤慨とも言えるものがやすやすと露出してしまう。それを「木嶋佳苗が起こした事件がどんなにグロテスクに見えようと、いやグロテスクに見えるからこそ、いまという時代を正確に映し出している」として、いわば公傷とも言える部分に引き上げようと試みているが、それも上手な結語は得られない。「この事件はこれまでのどんな事件とも異質である。そして木嶋はこれまでのどんな犯罪者とも比べても異質である。譬えて言うなら犯罪者のレベルが違うのである」とつぶやき、行き止まる。挙げ句、嘔吐感や「ぶん殴りたくなる答弁」という反応に至る。比喩でいうなら、ドキュメンタリーであるべき何かが、悪魔と道化の喜劇に転換してくる。その喜劇に読者である自分が誘われているような不快な幻惑感がある。
 木嶋佳苗という人間は、本書の裁判記録からもわかるように、息をするように嘘を吐く人間であり、殺人におそらく何ら抵抗感ももっていない。まさにサイコパスというべき存在であり、それはゆえにきちんと「サイコパス」とラベルした箱に収めておくべきなのかもしれない。だが事件の本質は、彼女をその箱に収めることではない。
 佐野も単純になんども本書でも問う。なんでこんな女にひっかかる男がいるのか? そしてその男女の関わりがなぜ、インターネットという情報の道具なのか?
 この問いに対しては佐野は、ようやく一つの答えの形を描き出す。男の孤独といえばそうだろうが、その奇妙な意味に至るのである。木嶋に殺害されそうになった男が、佐野の問いかけにこう答えている。

――ところで、木嶋と一緒にくらしていて、これは怪しいと思ったことはなかったんですか?
「あのときは、自分は鬱状態で寂しくてたまんなくて、だから一緒に暮らしてくれるなら、会話してくれるなら、それだけでラッキーって、もう誰でもいいっていうか、だからなぜあんなブスとって、思われるかもしれないけど、もう容姿とかどうでもいいっていう感じでした。(後略)

 その感覚を持たない男はいないだろうと中年男の私は思う。なぜ男はそんなに孤独なのか。男とはそういうものさ、としか言えそうにもないが、そこで引っかかるのは、無意識に投影された「母」という存在だろう。
 この事件で殺害された男、そして騙されそうになった男は、常識的に見れば、マザーコンプレックスというくらいに母親から精神的に自立していなかった。佐野もそこにふがいない印象をもっているようだが、では母親から自立すればよいかというと、その先には、誰でもいいからと木嶋と暮らした男のような壮絶な孤独感に向き合うことになる。もちろん、男すべてがそうだとはいうわけではないが。
 佐野が描いた物語を離れて、この事件をもう一度考えてみた。
 男という存在の本質的に救われない部分に、まるで偽の「母」がカチリと嵌ったかのように見えるのがこの事件の隠れた構図なのではないか。そして、偽の「母」ができてしまったのは、木嶋自身に「母」が不在だったからだろう。そう思ってみて、そのカチリと嵌る組み合わせはけして、この事件に限らないとも思い至る。少なからぬ男女の人生はこうした地獄で想像上の殺人を繰り返して生きている。その違いはなにか。本当の殺人に至らないのはなぜか。
 そこに違いなどないのかもしれない。本書に登場する、別の騙されそうになった男は、あっさりと木嶋佳苗を普通の女ですよ、かわいい女ですよと述べてみせる。実際、木嶋は狙った男性やその後気が変わった男であれば、虫でも殺すような行動に変わるが、それでも普通の男女の関係に納まっていることもあった。普通の部分の物語だけ見るなら、木嶋佳苗が普通の女であったことに間違いない。
 彼女は人格障害にも見える虚言癖があるが、彼女自身はそれを虚言だと思ってはいない。自分の語るセレブの物語ではきちんとセレブを生きて、あるいは男によってはかわいい女でもあったりもする。その多様な物語のよじれがあれば、物語のために対処する。カネで解消できるなら、ではと古代の遊牧民が農耕民を狩るように仕事してカネを得る。それが通常の社会という物語からすれば死刑という殺人の物語に反映する。
 私は木嶋佳苗を弁護したいわけではない。ただこれは一つの巨大な騙し絵なのではないかという奇妙な疑念が去らない。
 何かが彼女の嘘の物語を押しとどめない。普通の人間ならそこを押しとどめるものがある。それは普通倫理であると思われているが、私はそれは身体ではないかと思う。
 人の裸の胸のなかに脈打つ鼓動の心臓は物語ではなく、生きるという身体的な唯一性として、身体を通して人に開示されるものだ。そこで人は物語を捨て裸の身体として人と向き合う瞬間を持つ。その瞬間によって自身を物語りから肉体へと取り返す。生きているという限りない愛おしいさのようなものに、死や殺人が抑制される。
 そこが壊れてしまえば、人はただ、多様な物語のなかに消えてしまう。
 
 

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コメント

非常に興味深い書評でした。ここまで読み込まれれば、佐野さんも書いた甲斐があるだろうと思います。とくに偽の母性と男性が抱える現実感(欠落感)との補償関係の指摘は、事件の本質に触れた重要な論点だと思いました。母性の問題。核心的な追及点だと思いました。最後に書かれている倫理と肉体の問題。実質的な倫理とは、肉体を基盤とした仮象である限りにおいて、現実的なものになっている、このような理解では一般的に過ぎるかもしれませんが、素晴らしい指摘だと思いました。

投稿: ボンボン太郎 | 2012.07.06 05:31

私は木嶋被告と同じ北海道、しかも道東、加えて釧根圏の出身なので、見方が違ってしまうが、北海道の真実として受け止めて欲しい部分があるという意味で投稿したい。北海道は最近、猛暑日を避けるためのちょっと住まいが話題だが、避暑地を選ぶ際の一考にもして欲しい。
まず北海道は札幌市を中心にした道央・旭川市を中心にした道北・函館市を中心にした道南・室蘭市を中心にした日胆・帯広市を中心にした十勝・北見市を中心にしたオホーツク・釧路市を中心にした釧根の、7つのいわゆる経済・生活圏が存在する。それも参考にして欲しい。
さて、木嶋被告と私が1つだけ違うのは、出身市町村である。私は釧路市出身で、今も在住だが、木嶋被告は既報の通り別海町出身である。パイロットファーム先進地である根釧台地と太平洋に面して、人口より牛が多い、酪農とホッカイシマエビ漁が主力の1次産業城下町だ。
木嶋被告がなぜ別海町を嫌ったかは分からない部分はあるものの、平成元年秋に開局したテレ東系のTVhと民放ラジオが入らないことを嫌ったのではないかと私は思う。現に別海町は中標津中継局のサービスエリアだが、今入るのはNHKと民放4局、ミニFM局だけである。
お金の話が良く問題になっているが、もちろんこれは木嶋被告に猛省してもらわなければならないことだ。とはいえ、もし私が予想したTVh・民放ラジオ未開局が別海町を出る本当の理由だったら、その気持ちはよく分かるし、お金が代償(?)ということになったのだろう。
現に釧路市を含む釧根・オホーツク・十勝3圏を合わせた道東では、TVhがアナログではカバーされず、デジタルでは当初断念とされていたが、総務省が所管する後発局支援策を使って一昨年の地デジ移行後に一部カバーできたほどだ。とはいえ、基幹局では唯一だったろう。
この話をすると、必ず同じテレ東系のテレQと比較されるが、テレQは送信所や中継局が北海道の半分未満で、ホークス戦を中心とする自社制作番組も好調だし、経営基盤も強固だ。その影響もあって、デジタルで県内全域をカバーしている。対してTVhは、まだ8割程度だ。
佐野さんは一生懸命取材してこの本を作ってくれたが、これに関しては頭が上がらない思いでいっぱいで、決して否定されるべきではない。ただ、佐野さんが取材できる範囲も決まっていただろうから、カバーしきれなかった分を私なりの実体験や感想を交えてコメントにした。
最後に、北海道は地元志向が強い地盤で、木嶋被告のように地元志向を嫌った道民は負け組になることを付け加えたい。私も地元思考を嫌ったため、大学卒業後は長期求職を強いられている。北海道では地域に見合った考え方での進学・就職が必要な真実を、最後に発信したい。

投稿: にっぽんの歌 | 2013.05.30 13:39

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