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2012.07.31

ブルガス空港バス爆破テロの背景

 18日のことだが、ブルガリアの東部のブルガスの空港でイスラエル人観光客を乗せたバスが爆発し、当初6人が死亡すると報道された事件があった。その後、死亡者は7人となった。イスラエル人が国外で犠牲になった事件としては2004年以降最悪のものでもあった。
 日本でもこの事件は報道はされた。AFP「ブルガリアの空港でバス爆発、6人死亡 イスラエル人を狙った攻撃か」(参照)がそれなりに詳しい。


 バスにはブルガリア国内の黒海(Black Sea)沿岸にあるリゾート地に向かう観光客らが乗っていた。ブルガリア内務省当局によれば18日午後5時(日本時間同11時)ごろ、空港に降り立ったイスラエル人観光客らを乗せたバスが爆発し、付近のバス2台も炎上した。首都ソフィア(Sofia)にいる内務省職員は爆発による死者は6人、負傷者は32人だと述べた。
 目撃者によるとパニックを起こした乗客らがバスの窓から飛び降り、地面には衣服が引き裂かれた遺体が散乱。救急車のサイレンが鳴り響き、空港上空には黒い煙が立ち昇った。イスラエルのメディアは、ブルガスの空港に到着したイスラエル人観光客には、学校を卒業して軍隊に入隊する直前の若者たちが多く含まれていたと報じている。

 誰が引き起こしたテロなのだろうか。初報道では、イスラエルからの声明を加えていた。

 イスラエル当局はバスは銃撃され、爆弾を投げつけられたと発表した。ベンヤミン・ネタニヤフ(Benjamin Netanyahu)首相は「イランによるテロには強硬に対処する」と述べ、「ここ数か月で、タイ、インド、グルジア、ケニア、キプロスなどでイランはイスラエル国民に危害を加えようとしてきた」と指摘した。

 その後、自爆テロの疑いは濃くなった。NHK「ブルガリア 自爆テロか」(参照)より。

ブルガリア東部の空港で、イスラエルの観光客が乗ったバスが爆発し、これまでに7人が死亡、30人以上がケガをした事件で、ブルガリア政府はイスラエル人を狙った自爆テロの可能性が高いとみて捜査しています。
 この事件は、ブルガリア東部、ブルガスの空港で、18日夕方、イスラエルのテルアビブからのチャーター便で到着した観光客が、空港からホテルに向かうために乗り込んだバスが爆発し、これまでに7人が死亡、32人がケガをしたものです。
 事件から一夜明けた19日、ブルガリア内務省は、死亡した人たちのうち1人だけ身元が確認できなかったことから、この人物がイスラエル人を狙ってバスの中に爆発物を持ち込んで爆発させた、自爆テロの可能性が高いとみて捜査していることを明らかにしました。
 事件が起きたブルガスは、黒海に面した夏のリゾート地で、毎年、多くのイスラエル人が海水浴を楽しむために訪れています。
 ブルガリア政府はイスラエル当局と連携しながら事件を起こした人物の特定を急ぐとともに、空港や観光地の警備を強化することにしています。

 確定したわけでもないようだが、自爆テロであったとみてよいようだ。犯人と見られる男の写真も公開されている(参照)。
 問題は2つある。
 (1)誰がしかけたテロだったか。イスラエルはイランによるものだとしている。
 (2)他にも同種のテロが「ここ数か月で、タイ、インド、グルジア、ケニア、キプロス……」というのはどう評価したらよいのか。
 1点目の問題はその後も明らかになっていない。少なくとも米国政府としては立場をそれほど明確にしていない。2点にも関連し、イスラエルからの情報を得ている米国にとって、真相についてまったく不明であると見ているかイスラエルの見方を暗に非難しているかというのは不自然である。イランと交渉を進めるための、外交上の配慮だろうと思われる。オバマ大統領は名指しを避けあいまいな非難をしている。20日付けAFP「ブルガリアのバス爆発事件、自爆犯らしき男の映像を公開」(参照)より。

 イスラエルと強い同盟関係にある米国のバラク・オバマ(Barack Obama)大統領は、「米国は他の同盟諸国と共に、この攻撃の実行犯らを特定して裁きを受けさせるために必要なあらゆる支援を行う」と表明した。

 しかし、米国防総省のリトル報道官は事実上ヒズボラの犯行を示唆している。20日時事「ヒズボラの犯行の可能性=ブルガリアのバス爆破事件-米国防総省」(参照)より。

 【ワシントン時事】米国防総省のリトル報道官は20日、ブルガリアで起きたイスラエル人を狙ったとみられるバス爆破事件について、レバノンのイスラム教シーア派武装組織ヒズボラの犯行の可能性があるとの見方を示した。同報道官は記者団に「攻撃にはヒズボラの仕業とみられる特徴がある」と述べた。
 ヒズボラはイランやシリアのアサド政権の支援を受けているとされる。イスラエルは爆破事件について「イランのテロだ」(ネタニヤフ首相)と主張しており、米国が同様の結論を出せば、核開発問題をめぐり対立しているイランとの緊張が一段と高まる可能性もある。(2012/07/21-06:55)

 2点目の扱いが難しい。これら各地のテロは、一つの意味を持つ一連の事件なのだろうか。イスラエルはイランとヒズボラを名指しでそのように主張している。7月23日時事「イラン、20カ国でテロ活動=イスラエル」(参照)より。

 【エルサレム時事】イスラエルの対外情報機関モサドのパルド長官と国内治安機関シャバクのコーヘン長官が22日、閣僚にブリーフィングし、イランとイスラム教シーア派武装組織ヒズボラが過去2年間、20カ国以上でテロを実行するために活動してきたと報告した。(2012/07/23-07:11)

 米報道では関連を示唆しているものが多い。2月のタイでのテロでは発生時点でインド、グルジアのテロと関連付けられていた(参照)。インドが証拠を握っているとの報道もある(参照)。米国の手前黙っているのか、イランからの報復を恐れているのかわからない。
 背後にあるのがイランであるとしても、またイスラエルの言い分がすべて正しいとも思えないが、先鋒にヒズボラがいるというのは概ね西側報道の了解事項となっているようだ。
 ヒズボラは言うまでもなく、レバノンを拠点としているイスラム教シーア派に属する組織である。シーア派としてイランと同様、またシリア政権のアラウィ派にも近い。1982年、レバノン内戦でイスラエル軍侵攻を受けて結成された。
 ここで当然、現在のシリア情勢とヒズボラの関係は連想される。レバノン情勢はどうなっているのか。危ういのである。29日付け毎日新聞「レバノン:宗派対立、シリア内戦化で緊迫」(参照)より。

【トリポリ(レバノン北部)前田英司】シリアの内戦化が隣国レバノンの宗派対立の火に油を注いでいる。シリア反体制派を支持するイスラム教スンニ派とアサド大統領の出身母体のアラウィ派が衝突を繰り返す一方、アサド政権と蜜月関係のシーア派民兵組織ヒズボラが政権擁護に暗躍しているとの観測も飛び交う。シリア主要都市での戦闘激化で大量の難民も押し寄せて、レバノン情勢はシリアの混迷に引きずられて流動化の様相を深めている。

 日本から遠い話のようだが、シリア、レバノン、イスラエルの三方のはざまのゴラン高原には日本から自衛隊が派遣されている(参照)。戦闘地域となれば、民主党政権の対応が求められる。
 さてあらためて、イランやヒズボラによるとするなら、テロの目的はなんなのだろうか?
 明白なのは、イスラエルによるイランへのテロの報復であることだ。イランの核科学者はどう見てもイスラエルの関与で殺害されている(参照)。
 案外、それだけ、つまり、報復の連鎖というだけのことかもしれない。シリア情勢と関連があるとすれば、アサド政権とイランがイスラエルを問題に噛ませてアラブ社会の動向を変えたいということも考えられないではない。が、あまり自然な読みではないだろう。大筋で見るなら、イランの核化を阻止するためのイスラエルの牽制なのだろうが、それほど組織的な意味合いはなさそうだ。
 
 

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2012.07.30

「君は今という時間、不可避の選択をしますかね」

 人生を振り返って、あのとき、これしか選択できなかったということがある。客観的に考えるなら、他の選択もあった。しかし、その可能な選択をしていたら、今の自分ではない。まあ、そこまではいいとしよう。
 今の自分が不幸だとする。その不幸の原因はあの選択にあったと考えるのが合理的だったとする。幸福であるためには、あの選択は間違っていたということになる。そういうこともある。
 そこで悔やむならつらい悔恨でもあるのだが、問題として難しいわけではない。難しいのは、不幸であっても、あの選択の上に生きて来た自分というがまさに自分なのだという自覚だ。これがやっかい。
 この問題でいつも思う挿話がある。「長崎先生」という人の人生だ。歴史に残る有名な人ではないと思う。明治30年頃の生まれではないかと思う。ちなみにグーグルとかで関連キーワードらしいもので検索しても特に情報はなかった。
 「長崎先生」は小樽教会の牧師だった。廃娼運動で逃げてきた女性を若い日の「長崎先生」はかくまったため、暴漢に殴打され聴覚を失い、その結果、職を失ったという。牧師を辞めることになったということだと思う。
 廃娼運動についてちょっと補足すると、と思ったが、意外と難しい。事典的には、売春婦公認制度を廃止の法整備を目ざす運動ということ。現代では当たり前のようだが長い運動の歴史がある。主体となったのは、この運動が世界的に展開されていたのと並行した近代主義者やキリスト教徒などあった。1886年(明治19年)に英国が世界初として公娼制度を廃止し、北欧国がこれに続いた。日本ではキリスト教派の救世軍が熱心に活動し、遊郭街で救世軍に逃れよとするチラシをまいた。
 「長崎先生」が救世軍だったか、あるいは彼のもとに逃げ込んだ女性が「長崎先生」を救世軍と思ったか、救世軍以外のキリスト教として「長崎先生」がこの運動に携わっていたかはわからない。私の印象では、逃げた女性は牧師さんならなんとかなると単純に思っていただけで、「長崎先生」としてもそういう当時の通念を普通に受け止めたくらいの偶然のことではなかったかと思う。
 聴覚を失い、職を失った「長崎先生」と夫人は、その後、彼らを支援してくる人に炭などを売って糊口を凌いだが、「長崎先生」の最期は踏切事故だった。聴覚のない彼は警報が聞こえなかったからである。
 「長崎先生」の人生とは何か?
 彼の元に逃げ込んだ売春婦の女性をかくまわなければ、暴漢に殴打されることもなく、聴覚を失うこともなく、そうであれば、職も失わず、踏切事故死もなかった。
 「長崎先生」にとって売春婦の女性をかくまわないという選択はあったか。牧師という手前、そんな選択はできないことだったかもしれないし、かくまうときは気安かったのかもしれない。どうだろうか。たぶん、「長崎先生」にとって売春婦の女性をかくまうことは自然な行為であり、同時に避けがたい行為でもあっただろう。他の選択はなかっただろう。
 暴漢に殴打されても聴覚を失うというのには偶然という要素も大きい。だが、「長崎先生」とっては、そうなっても違和感はないと思っていただろうし、おそらくそれによって殺害されることになっても、なんらためらうことはなかっただろう。
 これはさらっと聞くと倫理的な美談か、あるいは、牧師さんという宗教者にありがちな例に過ぎないようにも思うし、まあ、それはそうだろう。普通の人はそんな信仰はもたないし、そんな強い信仰は別の面で恐ろしいものだ。
 で、私にとって話の要点は、「長崎先生」って偉いすぎて自分とは関係ないとうことではなく、一つの生き方のなかには、選択に見えて避けがたい道があるということだ。
 それしか生きる道がないよ、ということだ。悲壮であるかもしれないし、諦観であるかもしれないが、いずれにせよ、自分が自分なら一つしか道がない。
 それが自分の欺瞞かもしれないということはある。そこまで自分というものに拘らなくてもいい。人は自分に拘って、英雄気取りで不可避の道を生きてみせることもある。あるいは、内心、躊躇したり、動揺したり、後悔したりする。
 でも、それが過ぎ去ってみると、自分のなかで、これは避けがたい道だったなという自覚に沈んでくるものがある。後悔に彩られていても、今の自分が生きるという前提をなしているとき、まあ、これ以外に生きる道なんてなかったじゃないか、あはは、みたいな部分がある。
 「長崎先生」にしてみれば、傍から見たら、不運で不幸だったかもしれないが、ごく普通の人生というだけだったかもしれない。
 さて、ネタバレというほどでもないが、「長崎先生」の話は、山本七平の「静かなる細き声」に出てくる。彼は「長崎先生」の人生をこう見た。


 人の生涯はさまざまであろう。外面的には、幸運な人もいようし、不運な人もいるであろう。しかし晩年になってみれば、おそらくその人の外面的な運不運に関係ないものが、一言でいえば、振り返って生涯に何の悔いもない「恵まれた生涯か否か」が、自ずとその人に表れてくるのであろう。そしてそれは、求めれば与えられるのでり、その人の幸不幸とは結局それだけであろうと思う。

 若い日にこれを当時の雑誌連載で読んだ私は、深く胸打たれもしたが、「晩年になってみれば」まで生きられた人はそれだけで幸せってもんじゃないか。それって、生存バイアスってもんじゃね、みたいに思った。ブログの記事に罵倒コメントを付けるようなことを思ったのである。
 この話を書いた山本七平は当時60歳で、まあ、晩年に近いという思いはあったのかもしれない。自分も生きていたらあと5年で60歳になるということに、びっくらこいちゃうんだが、晩年を意識してよいお年頃になってきた。
 結局、そんな年まで自分も生きられたんじゃないか、ラッキーと思うし、ラッキーというのは、生涯という何かが、ずずずんと沈んでくるようになった。
 ただ、それも欺瞞だろうな。
 生きられた人間だからラッキーということにすぎないからだ。
 どこまで生きられたらラッキーなのかというと、逆にそういう、なんであれ自分というものを受け取れるようになったということなのだろう。
 そうでない人生もある。
 最初からそうでない人生だってある。
 その意味は何かというと、さっぱりわからないから、「晩年になれば人生は……」という思いは欺瞞である、Q.E.D.と思う。
 それでも、この問題に背後に潜むなにかは、実は、晩年や人生などどうでもよく、「君は今という時間、不可避の選択をしますかね」と問いかけているには違いない。
 
 なにか「君は今という時間、不可避の選択をしますかね」
 わたし「不可避だったら選択じゃないでしょ」
 なにか「これしかないという選択はないんですか」
 わたし「今日はちょっと暑いんでご勘弁」
 なにか「じゃ、また明日ということで」
 わたし「そういうことで、ここはひとつ」
 
 

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2012.07.29

誰が弱者か?

 2ちゃんねるのまとめサイトだろうか、「どっちが弱者ですか?」(参照)というネタが上がっていた。ネタだというのは一目見ればわかるが、この絵はちょっと奇妙な後味を残す。誰が弱者か?という難問の、どこかしら本質を突いているからだろう。

 5人の人がいる。左から。

 (a)貯金4000万円の働かなくても年金生活の老人。
 (b)年収300万円の疲れ切ったブラック会社員。
 (c)年収250万円の派遣社員。
 (d)年収200万円のフリーター。
 (e)旦那が年収1000万円の専業鬼女。

 もちろん、ネタ元の「あなたの優しさで席をゆずりましょう」というときは、妊婦(e)や老人(a)に席を譲ろうという話だったのだが、これを「弱者」に問題をすり替えたとき、譲られるべき老人(a)も妊婦(e)も社会的な「強者」ではないのかというアイロニーである。
 もちろん、とまた言うが、この局面では座っている権利を持っている人が身体的な安逸の権利を持つ強者であって、身体的な安逸を望む弱者は、貯金がいくらあろうが老人であり、旦那の稼ぎがいくらよかろうが妊婦である。この局面でその権利はカネでは買えない。とすると、このことはこのネタの考案者の逆説になっていることがわかる。つまり、社会的な強者は、あらゆる場面で強者でもないということだ。
 しかし、と思う。カネで買えないのか? 貯金4000万円の働かなくても年金生活の老人(a)や旦那が年収1000万円の専業鬼女(e)は、座る場所もない電車を交通手段に使わず、カネを使ってタクシーを使えば、当面の問題は解決するし、そうしたカネを使うこと、消費は他面においてタクシー産業の生産になり、それが経済を潤すなら、この社会的な弱者に回るカネにもなるのではないか。
 あるいは、とさらに思う。貯金4000万円の働かなくても年金生活の老人(a)や旦那が年収1000万円の専業鬼女(e)は、他の空いている時間帯が選べるのではないか。そうすることで逆に弱者に権利を譲ることができるのではないか。そうだなあ、それって、満員電車にベビーカーを乗せるなという問題にも似ている。
 さて、問題はなんだろう?
 ごく簡単にいえば、こうした局面はネタというか問題性を問いかけるトリックであって、問題自身は、年収300万円の疲れ切ったブラック会社員(b)、年収250万円の派遣社員(c)、年収200万円のフリーター(d)といった社会的な弱者を社会的にどうすべきかということであり、さらに言えば、そうした問題が社会問題であるのに、席を譲るといった個人の倫理の問題にすり替えたりそちらを突出させるのではなく、社会に問え、ということだ。
 それはそうだと思う。
 そしてこれらの社会的弱者をどうするかといえば、それは普通に政治的な課題でもあるのだろう。
 それは例えば、昨日の朝日新聞社説「最低賃金―底上げは社会全体で」(参照)にも通じる。


 賃金が安く、雇用が不安定なワーキングプアが増えれば、結局、生活保護費はふくらむ。
 こんな悪循環から脱出するためにも、最低賃金は引き上げていきたい。
 ただ、低い賃金で働く人が多い中小・零細企業ばかりにコストを負わせるのは酷だろう。社会全体で取り組むべきだ。
 経済構造を変えて、まともな賃金を払えるような付加価値の高い雇用をつくる。そこへ労働者を移していくために、職業訓練の機会を用意し、その間の生活を保障する。
 雇用の拡大が見込まれる医療や介護の分野では、きちんと生活できる賃金が払えるよう、税や保険料の投入を増やすことも迫られよう。
 非正社員と正社員の待遇格差も是正する。そのために、正社員が既得権を手放すことになるかもしれない。
 いずれにせよ、国民全体で負担を分かち合わなければならない。私たち一人ひとりにかかわる問題として、最低賃金をとらえ直そう。

 「賃金が安く、雇用が不安定なワーキングプア」の問題を解決するには、朝日新聞的には、「付加価値の高い雇用をつく」り、「そこへ労働者を移していくために、職業訓練の機会を用意し、その間の生活を保障する」というのだ。
 一見正解のようだが、「付加価値の高い雇用をつく」りというあたりで、社会主義の失敗がよく理解されていない。成長産業が何かは大筋で市場が決めることであって、計画経済では基本的に対応はできない。しかもそのために「税や保険料の投入を増やすことも迫られよう」とすれば、ますますその問題を悪化させてしまう。
 朝日新聞の提言はもう一つある。「非正社員と正社員の待遇格差も是正する。そのために、正社員が既得権を手放す」というのだ。それはとても大切だと思うし、よい提言である。ただ、そのことは「国民全体で負担を分かち合わなければならない。私たち一人ひとりにかかわる問題として、最低賃金をとらえ直そう」ということにはつながらない。
 冒頭のネタにあるようなブラック企業の社員も本来はその会社を逃げるべきなのだから非正社員のようなもの。なので、正社員の待遇格差も是正するという政策課題は明確にある。
 しかし、それが現在の政権からはもうまったく見えない。
 経済学的に見るなら、朝日新聞社説は話が逆になっている。

 今年中には報告書がとりまとめられるが、デフレ傾向を反映して保護費が引き下げられる可能性が高い。
 その動きに連動し、最低賃金を抑えようという考え方では、デフレを加速させかねない。賃金が低迷すれば、人々は低価格志向を強め、それが人件費をさらに押し下げる圧力になる。

 デフレは実質的な賃金を押し上げているから、その面でも、固定給のある正社員は守られているし強者である。デフレを解消することで、実質的な賃金を下げることで雇用が促進される。
 具体的な経済状況からすれば、デフレの圧力が掛かるのは非正社員なのだから経済構造的に非正社員が弱者だとは言える。
 しかしこうした考えも、朝日新聞のみならず、現在の政権には可能性が見えない。
 現実を考えると、お先真っ暗だなあという印象ばかり先に立つ。
 弱者はいつまでも弱者なのか。
 個人の倫理なりの面で考えるなら、まさに個人の価値観になる。
 そこで私はどう考えているかというと、弱者というのは偶然だろうなと思っている。
 先のネタ絵の5人しても、誰がそのポジションにあるということは、ただの偶然の采配に過ぎないのではないかと思う。
 むしろカネで解決できる問題に還元することが、弱者という偶然の構造を変えるための解決手段なのだから、モラルに問うより、カネに還元する社会構造が望まれるのではないか。
 貧富や労働という文脈では、経済の問題なのだから、経済の弱者は救済可能に思える。だから政治理念もあるのだろう。
 が、ここで個人の価値観に戻ると、弱者が偶然の産物であるということはもっと深刻な問題なのではないか。
 端的にいうと、人の美醜という問題がある。
 強者・弱者という文脈でいうなら、イケメンとブサメンと言ったところだろうか。人の美醜というのは、強者・弱者に深く関係していて、整形して解消できるという問題でもない。
 こういう問題というのは、いったいなんなんだろうか? 
 哲学で存在や認識を問うなんてことより、よっぽど本質的な課題ではないのか?
 「そうだよ」と言い切ってみせたのが、私の知る限り思想家吉本隆明だけだった。へえ、やっぱりそうかと思ったものだった。人の美醜というのは愛情という個別の人間の距離の関係においては無化されうるが、それでも本質的な問題として残るというふうに彼は言い切った。
 そうなのだろう。
 美醜ばかりではない。頭がいい悪いといったことも、おそらく同じように、やすやすとは解消されない根の深い問題だろう。
 強者・弱者であることが偶然だということを合わせると、およそ個人に帰する権利のようなものは存在しないことになる。むしろ、そういうことになっているから、「努力」によって自己なるものを獲得しようと人はもがくのだろう。
 だが、「努力」で獲得したものが自分だとも、やはり問い詰めていけば、言えないように思う。努力もまた偶然の産出に近いのではないか。
 すると、何が自分なのか? 偶然ではない自分の固有性というのは何なのか?
 これも吉本隆明は実質的に解いていた。この問いの文脈ではないが、人が生きるというのは、それしかないという不可避の道を辿ることだというのだ。
 それをちょっと無理矢理に先の文脈に乗せるなら、強者・弱者の偶然性を生きて、それ以外にはないというあり方を見出せるなら、それはその人の固有性になるということだろう。そこで、おそらく強者・弱者の偶然性は消失するだろう。
 これは奇妙に神学的な問題かもしれない。強者にせよ弱者にせよ、その偶然性がもたらす課題を不可避のものとして受容していく過程にしか、自己の固有性は得られないということだ。
 強者が幸せな人生を送る。弱者が不幸な人生を送る。しかし、どちらもその人生の不可避性に行き当たらなければ、そもそもその人の固有性などないのだから、幸・不幸には偶然的な意味しかない。
 ざらっと書いたが、また、吉本隆明がなぜそう考えたのかという背景を辿るのを省略したので、まるで宗教みたいだが、概ね、人の存在というのはそういうふうに出来ている。
 じゃあ、どうせいと?
 それを自分だけが答えるしかない。そのなかで、弱者も不幸も意味を失うのだろう。
 社会的に弱者であり、他者からは不幸に見えるし、社会的にも不幸というべき状態でも、これだけが自分の人生であったという不可避性にあれば、そこから、弱者の意味も、不幸の意味も剥落する。
 
 

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2012.07.28

シリア問題から西クルディスタン(Western Kurdistan)出現の可能性

 シリア問題に直接関連しているともいいがたいが、間接的に大きな国際問題を引き起こす可能性が高いのがクルド問題である。この部分もそろそろ言及しておくべき事態になってきた。
 クルド問題は、簡単にいうと、トルコ、イラク、イランにまたがる地域のクルド民族が民族自治国家を求めることから生じる紛争である。民族自治国家を持たない最大数の民族としてクルド人は推定2800万人いる。別の言い方をすれば「クルディスタン」として求められるクルド人の国家は、近代西欧による帝国侵略の影響もあり、トルコ、イラク、イランに分割された。現状はこれらの国の国民として建前は統合されているが、実質的には弾圧されている。
 クルド問題は根の深い問題だが、注視しなけれならないほど影響力が増してきた一つの転機はイラク戦争だろう。日本の報道ではイラク戦争は、大義なき間違った戦争と単純に割り切らることが多く、なるほど国連の建前からすれば、国連不正やサウジアラビアの文脈があまり語られないこともあって、そのとおりでもあるだろう。この戦争の結果、イラク内のクルド人自治区は圧政を逃れ実質的に独立に近い状態になった。この事態に隣接するトルコが脅威を覚え、国内のクルド人弾圧を強化したり懐柔しようとしたり、各種の問題が深刻化している。
 以上のように通常、クルド問題はトルコとイラクの国家の視点から民族弾圧や独立闘争といった視点から語られるが、民族自治として渇望されている「クルディスタン」はシリア北部にもまたがっている。日本の報道でもシリア北部の都市アレッポでの状況が伝えらるようになってきたが、この地域の高地はクルド山脈(Kurd-Dagh)とも呼ばれていることからもわかるようにクルド人居住地域であり、ローザンヌ条約(1923年)による分割以降クルド人からは「西クルディスタン(Western Kurdistan)」とも言われる。
 「西クルディスタン」という名称そのものがクルド独立運動の一端として危険視されてもいるので、ウィキペディアなどではどういう扱いなのか覗いてみると、該当項目は簡易英語にはあるが英語のほうにはなく、リンク的には「シリア領内のクルド人(Kurds in Syria)」となっていた。PC(politically correct)ということなのかよくわからないが語感はだいぶ変わる。
 シリアの視点からクルド人を見ると、全容はわからないものの、シリア人口のざっと一割と見てよい。エジプトのコプト教徒くらいの比率のように思えるが、シリア領内のクルド人は大半はスンニ派のイスラム教徒だがキリスト教徒も含まれる。いうまでもないが、またクルド人と強く関連付けられるわけではないが、シリアのキリスト教徒は西欧とは異なり初期教会からの伝統を持つ正教徒が多く、なかでもシリア正教会は正教会なかでも独自の、かつ重要な意味合いを持っている。
 シリア領内のクルド人は概ねトルコ独立時の1920年代、トルコ域から難民として移住してきたものらしい。大半は先にも触れたようにクルド山脈の高地に居住している。この地域はクルド人居住区の意味合いが強い。そこで、シリア北部アレッポを中心とした内戦は、「西クルディスタン」独立闘争の意味合いも出てくる。
 これが国際的に大きな意味をもつのは、イラクにおけるクルド人自治区の事実的な独立とも相まって、実質的な「クルディスタン」へ途上として、トルコにとってやっかいな刺激材料となることだ。トルコが不安定化しかねない。
 シリア内のクルド人問題については、4月18日の時点で日本では毎日新聞が「シリア反体制派: 国民評議会、クルド人と連携協議」で、次のように独自取材から伝えていた。


 【カイロ前田英司】シリアの体制転換を目指す主要組織「シリア国民評議会」が反体制派の連携強化に向け、国内少数派のクルド人の代表らとブリュッセルで協議していることが17日、分かった。評議会幹部が毎日新聞の取材に明らかにした。

 7月27日の「シリア:「クルド人が一部掌握」情報 隣国トルコ緊張」(参照)報道では、もう一段踏み、トルコに視点を当てた。

 【カイロ前田英司】内戦状態に陥ったシリア北部で、「祖国なき最大の民」といわれるクルド人が一部の町を掌握したと伝えられ、隣国トルコが過敏に反応している。トルコ南東部にはクルド人が多く、分離独立を掲げて対トルコの武装闘争を続ける非合法組織「クルド労働者党」(PKK)との長い対立があるためだ。トルコはシリア北部がPKKの新拠点になると警戒しており、シリア情勢は周辺諸国の緊張も高めている。


 シリアは過去、PKK創設者のオジャラン服役囚(トルコで収監中)をかくまっていたほか、クルド人主要組織の一つ「シリア民主統一党」はPKKとの連携が指摘され、トルコの不信感は根深い。
 また、クルド系のメディアは今回の事態を「クルディスタン(クルド人居住領域)のうち二つの地域(イラクとシリア)が初めてクルド民族の支配下に入った」と称賛し、トルコの神経を逆なでした。

 同種の報道は7月24日の時点で国際的には報道されている。例えばロイター「Syrian Kurdish moves ring alarm bells in Turkey」(参照)。こちらの報道では、アサド政権崩壊後の西クルディスタン自治区についての言及もある。
 トルコは北大西洋条約機構(NATO)加盟国として中東における西側の拠点ともある。湾岸戦争のときは重要な空爆拠点も提供もした。トルコが不安定化することは、この地域に対する西側の影響力を失うことでもあり、この地域の国際紛争の穏当な落としどころとしてのトルコを失うことにもなる。
 そもそもアレッポでの紛争では、北部イラクからクルド人戦士が投入されてもいたようだ。関連した報道では、23日の共同「イラク自治区で軍事訓練 シリアから避難のクルド人」(参照)がある。

 【カイロ=共同】イラク北部クルド人自治区のバルザニ自治政府議長は22日までに、内戦状態の隣国シリアの政府軍から離脱し同自治区へ避難してきたクルド人に軍事訓練を行っていることを明らかにした。中東の衛星テレビ、アルジャズィーラが伝えた。
 訓練は数カ月前から実施。バルザニ氏は「シリアの状況に直接介入するつもりはない」としているが、シリア国内での内戦が激化し、治安がさらに悪化した際、治安維持のためクルド人兵士をシリアに送り返すとしている。イラク、シリア両国の少数派であるクルド人同士の連携が明らかになるのは初めて。
 一方、中東の衛星テレビ、アルアラビーヤによると、クルド人自治区で訓練を受けた数百人のクルド人が既にシリア入りし、反体制派に合流しているという。

 共同報道では、イラク北部のクルド人自治区からシリアに戦士の投入はまだ実施されていないように読めるが、非公式にはトルコ内のクルド勢力に援助する程度にはシリアでの紛争にも実質的な援助がすでにあったものと見るのが妥当だろう。
 しかし重要性の点でいえば、シリア内でのクルド人を巻き込んだ紛争の激化よりも、イラク北部の自治区がこれをきっかけに、バグダッドのイラク政府と離反した軍事活動に出ることのほうが大きい。簡単にいえば、イラク崩壊の引き金にもなりかねない。
 どうしたらよいのか。
 相当な難問である。ゆえに短絡的な正義はおっちょこちょいな議論になりかねない。7月26日になってようやくシリアの化学兵器の問題を論じた朝日新聞社説「シリア化学兵器―無法を許さぬ連携を」(参照)では次のような結語としていた。

 化学兵器の脅威が浮上したいま、欧米や日本は、あらためてシリア国民評議会との連携を通して、国内反体制派への関与を強める道を探るべきだ。「アサド後」をにらみ政治的に対応できる受け皿作りが求められる。

 朝日新聞は、リビア政変での影響もあるのかもしれないが、「シリア国民評議会」を持ち上げて、「欧米や日本は、あらためてシリア国民評議会との連携を通して、国内反体制派への関与を強める道を探るべき」としている。おそらく朝日新聞の頭のなかでは、「シリア国民評議会」が4月1日のトルコでの反体制派支援国会合でシリアの「正統な代表」とされたあたりを踏まえ、錦の御旗が掲げられたと認識したのかもしれないが、この会議では「唯一の代表」とは認められなかった。
 そして「シリア国民評議会」はクルド人と連携した。6月10日の同じくトルコでの会議では議長にクルド人活動家アブデルバセト・サイダ氏を選んだ(参照)。とはいえ、「シリア国民評議会」が親クルド人組織とも言いがたい(参照)。
 この事態をどう見るかはむずかしい、日本がどうあるべきかはさらにむずかしい問題であることは、米国のあいまいな対応を見てもわかるだろう。
 いずれにせよ、アサド政権が崩壊すれば、「西クルディスタン」は自治区として成立し、シリアとイラクの国境を変え、さらにトルコを変える。つまり、中東の地図を激変させることにもなりうる。
 そうなることが西側の利益とどうかかわってくるが、おそらく地図の読みに重要になる。ざっと見る印象では西側にとって美味しそうな話であるし、朝日新聞社説はもしかすると、そこまで読んだのかもしれない。


Ralph Peters/Chris Brozによる中東国家変遷の予想図

 
 

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2012.07.27

人は誕生日に死ぬ確率が高い

 人が23人ほど集まると同じ誕生日の人が二人いる確率は50パーセント。半々というところ。本当だと思いますか? これって科学的? あるいは数学的? いや、知っている人は知っているよくある話だが、知らないと、ちょっと奇妙に思いがち。そう思う理由は、自分の誕生日と同じ誕生日の人というふうに暗黙に想定してしまうからだ。ところで、人は誕生日に死ぬ確率が高い、というのはどうだろうか。本当だと思いますか? これって科学的? あるいは数学的? 
 スイスの統計学者が、1969年から2008年までの250万人を対象に統計処理したら、そういう結果になった。論文のタイトルは「死は誕生日を好む(Death has a preference for birthdays)」(参照)。いや、ほんと。これは冗談ではない。"This is not a joke."と、この話題を扱ったBBCも書いている(参照)。偽科学でもない。じゃあ、なんなの?
 もちろん、科学的な事実だから、なんらかの科学的な説明を要する。あるいは科学的だからこそ、科学的に吟味したら非科学的あることがわかることもある。あるいは、「血液型がB型の人は自己チューな人が多い」みたいな血液型性格学のように、偽科学とかよく言われているけど、実際には日本人のように多数の人がそれを信じていると、自己予言のように統計的にその結果が出てしまうという奇妙なものかもしれない。……いや、これもその部類かな。
 科学というのはまず仮説を考える。「人は誕生日に死ぬ確率が高い」なぜなんだろう。うーむ。そうだ。人は誕生日まで死ぬの我慢しているのではないか? 何歳まで生きたいものだとか、思うというのも理解できる。これが誕生日忌日仮説その1。
 他にも思いつくことがあるぞ。誕生日というのはスペシャルデーだ。だから、何か普通の日と違う行動パターンをしがちで、それが死につながるんじゃないか。落とし穴を作っておいて、そこで自分が落ちて窒息しちゃうとか。仮説その2.
 仮説1は却下されている。理由は、もし人が死ぬまで我慢しているというなら、日付の思い違いなども手伝って誕生日当日を中央として死亡の確率が前後の日に偏るはずだが、そういうデータはない。ただ、誕生日に、ころっと死ぬらしい。
 仮説2はどうか? これも却下。これが当てはまるなら、事故死などが多いはずだが、そのデータもない。しかも、誕生日に死ぬリスクは事故や自殺よりも高い。
 なんてこった。
 何か合理的で科学的な説明はできないものか。
 そうそう、あれがありそうだ。統計にありがちなこと。データの収集はそれでいいのか、である。つまり、死亡届を出すとき、誕生日の欄と書き間違えることが多いんじゃないの、ということである。
 はっはっは、なーんだ。それでしょ。
 それも仮説。検証されたわけではない。ただ、誕生日に死ぬ確率は、性別や年齢などの要素に左右されないことから、生体としての人間の特性と関係ないことで発生したとは見られるようだ。
 書き間違え説が正しいのだろうか。科学的に考えるなら、書き間違いがその率で発生するという別の証拠が必要になる。しかも、その扱いがけっこう難しそうだ。というのは、そもそもこの問題は「人は誕生日に死ぬ確率が高い」なのだが、その検証の前提に「人の死は特定日に左右されない」という仮説を置くわけにいかない。
 いや書き間違いじゃないぞ、その書き換えにインセンティブが存在するんじゃないか、という疑念もある。スイスで相続の税法がの変化がありその影響がありそうだというのである。
 その話もへえと思うが、統計学者たるもの、そんな素人考えは考慮しないものだろうか。考慮はされているようだ。どうやら書き間違え説であっても、やはり4パーセントほど「人は誕生日に死ぬ確率が高い」。
 どうして「人は誕生日に死ぬ確率が高い」のか?
 答えは?
 わからない。
 
 

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2012.07.24

米国で一番優れた先生

 教育問題にはあまり関心がない。正確に言うと「日本の教育問題」に関心がない。そう思う理由はシンプル極まりない。教育は元来国家のセクターではないからである。
 教育が国家のセクターになったのは、歴史的に見れば、義務教育は皆兵のため、高度教育は官吏養成のためだった。こうした近代国家の、必然とも言える動向をむげに否定はしない。現代では「皆兵」は軍事的な意味ではなく経済的な意味に転換し、生産力向上の「皆兵化」の意味もあるだろう。いずれにしても、ようするに国家のためであるという点は変わりない。
 だが教育というのは、それ以前には、人が自由になるための技芸であり、なにから自由化といえば、国家的な権力から精神を自由にするためのものであった。その部分こそは変わらず教育の本質だろうと思う。まあ、そういうこと。そういうことであれば、あまり「公」に教育のあり方を議論するのは矛盾している。
 とはいえ、昨日東京新聞社説「教員養成改革 「修士レベル」は要らない」(参照)を読んで、しばし物思いにふけった。この社説の是非ではない。また現在の日本国が推進している「修士レベル」の教員の必要性というものでもない。ちょっといわくいいがたい思いであった。
 きっかけにその社説の要点だが、「子どもへの愛情や信頼、そして教育への情熱を欠いては先生の仕事は務まらない。それは大学院で学んだからといって備わる資質や能力ではない」ということらしい。それもそうだろうと思うが、では「子どもへの愛情や信頼」「教育への情熱」をもった教師はどのように生まれるかというと、社説の議論はあいまいである。文脈からは「先生は教壇に立ってこそ鍛えられるのだ」ということから、教師としての経験によるとしたいのだろう。
 このことについて私は若い頃それなりに考えて、特にクリシュナムルティというインド生まれの教育思想家の影響を受けたのだが、ようするに、教育の必要性を心から痛感する人はその場で教師となる、ということだった。情熱を持った教師が生まれれば学校は自然に生じるとも。20世紀半ばのインドの文脈の議論らしいと言えないこともないし、日本も同程度の社会制度の時代はそうして私塾ができたものだった。現代、しかも日本のような社会ではどうかというと、諸論あってもしかたないだろう。
 だが、と思う。それでも教師は社会のなかの自由な個人から生まれるということは原則ではないかと今でも思う。簡単に言えば、「先生は社会の実相から情熱を得た人だ」と。そんな人が現代にいるのか?と問うなら、私はいるだろうと信じている。
 この手の話はいつもその程度で終わる。この陳腐なエンドポイントに達して動けないからだ。だがこのときは、もうひとつ思ったことがあった。メルマガのネタにしようか思って、米国の「全米最優秀教員選出(National Teacher of the Year Program)」とのことをちょっと調べていたのだった。
 そのころ、朝方、ぼけっと英語ニュースを聞いていたら、全米最優秀教員に選ばれた教員がホワイト・ハウスで、オバマ大統領に招かれて表彰されるという話があった。今年は誰だろ。科目はなんだろ。とつられて思った。
 「全米最優秀教員選出」とは何か。米国教育界でもっとも名誉ある教師を選出する制度である。1952年から実施されている。実施主体は全米州教育長協議会(CCSSO: The Council of Chief State School Officers)で、公立の、幼稚園、小学校、中学校、高校の300万人余の教員中から最優秀者を選び出し、ホワイトハウスで顕彰する。まあ、そういうこと。戦前の日本みたいな印象もないではない。全米で一番優秀な先生というのだから、さぞかしご立派な先生なんだろう。ご老人か?と思っても不思議ではない。
 違うのである。全然違うのである。今年は特に若い女性だった。中学校の国語の先生。レベッカ・メルウォキ(Rebecca Mieliwocki)先生。正確な年齢はわからないけど見た感じまだ30代な感じ。なぜそんな若い先生が全米で一番優秀な先生なんだろうか。
 表彰式のようすはユーチューブに上がっている。オバマ大統領が最初ユーモラスに教師とはみたいな説明をしている、それはね。

 オバマさんの話によると、メルウォキ先生の両親はともに教師だったとのこと。先生の子どもは先生になるというのは日本でもよくあるので、そんなものかと思っていると、そうではない。彼女は最初から教師になったわけではなかった。州立の科学芸術大学を卒業して弁護士になろうとしていた。その後、出版、フラワーデザイン、イベント企画の仕事に就き、それから教師になった。中途の転職組といった感じ、それだけ社会を見渡して教師になった人だった。それはとてもいいじゃないかと私は思ったのだった。社会人経験者が、やっぱり自分は教師をやりたいんだという人が、教師になるというのがいいと思う。
 そういえばと「全米最優秀教員選出」のプロセスもざっと眺めて、ああ、あれかと思った。あれ、というのは、小さなグループが集まって大きなグループになってさらにそれから州の単位となって、そこから私たちのヒーローやヒロインを米国全体に問おうという、あのノリ。大統領選と同じだ。
 選出というと、日本のようになにか足を引っ張り合っても競い合うのではない(米国でも足の引っ張り合いはあるだろうけど)。みんなが信頼できる地元のヒーローやヒロインを見つけたいという情熱を共有していくお祭りだ。そこから今年はメルウォキ先生が出て来た。
 徹頭徹尾、州が基本である。公教育といっても地方自治の教育が基本なのである。そしてそれは、連邦政府に対して、地方として教育の矜持を示す手段でもある。日本のように、70歳過ぎた教員組合上がりのご老体を参議院のボスに据えるのが教師の夢というのではないのである。
 メルウォキ先生のように各州から、また各階層から選ばれた先生が地方の教育の現場を踏まえて、国家に対して教育の提言を重ねていく。すごいなと思う。
 もちろん、それで日本の教育と米国の教育のどっちが優れているかという話に短絡できるわけではない。それに日本人だと、いろいろ米国の教育事情に悪口も言いたいだろうけど。
 
 

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2012.07.22

シリア情勢が一線を越えた。化学兵器流出の危険。

 シリア情勢が一線を越えたようなので、少し言及しておきたい。一線とはなにかというと、化学兵器流出の危険である。
 世界情勢を見つめていて、非道なものだなと思うのは実際に情勢が動き出すのは人道的な危機ではなく、特定の危機の構造である。中東問題で言うなら、あまり端的に言うのもなんだが、サウジアラビアかイスラエルへの脅威が構造的に形成される契機が重要になる。米国が本気で動き出すのは、この二国の安全保障上の、繰り返すが、構造的な危機の可能性である。今回の一線ではイスラエル側にある。化学兵器がイスラム過激派や反イスラエル運動の組織に渡ると、イスラエルで大量殺人が起きかねない。イスラエルが本気になりつつあり、当然米国を巻き込むという構図になる。
 日本ではあまり報道されていないので正確な議論をするのは難しいため、飛躍的な結論のように聞こえるだろうが、現下のシリア危機だが、当初は基本的にサウジアラビアとイランの代理戦争という意味合いが強かった。が、混迷が深まるにつれ、事態の深刻化には反イスラエルのイスラム過激派の拡大がある。西側諸国としては、独裁者アサド大統領を「民衆の力」で倒せばそれで事態が好転するというおとぎ話のようなことはまるで想定されず、むしろ化学兵器の管理のためにアサド大統領の勢力を温存しておいたほうがよいというのが、これまでの実際上の行動判断の基底にあった。それが崩れつつある。そこが一線でもあった。
 アサド政権側も、実際のところ自身の権力基盤はこの化学兵器使用というより、化学兵器管理能力にあることを理解しているため、その管理強化に乗り出した。初報道は7月13日のウォールストリート・ジャーナル(参照)のようだがこの時点ではどのくらい信憑性がある報道が判然としなかった。
 基本的な事実確認だが、シリアは化学兵器禁止条約に署名していない。それ以前に、化学兵器の保有を否定も肯定もしていないためである。しかし、米国のシンクタンクは、シリアは首都ダマスカス、ハマ、ホムスなど約50か所にマスタードガスやサリンを分散して保有させ、アサド政権をもっとも身近に援護するアラウィ派の精鋭部隊で固めていると見ている。
 しかしシリア国防相を含む要人も殺害され、首都に次ぐアレッポでも戦闘が激化し(参照)、アサド政権側の打撃が大きくなるにつれ、化学兵器管理能力に疑問がつき始め、状況が一転しはじめた。
 話が多少前後するが、この状況をさらに変化させるためには、イスラエルと米国がシリアの化学兵器管理介入活動の「大義」を必要とするため、アサド政権が化学兵器を使用するという恐怖報道が先行するはずである。そう思って状況を見ていると、どうやらその時期が来たようである。ロイター報道だが(参照)、反体制武装組織「自由シリア軍」で軍事戦略などを担当する、シリア軍離反元准将ムスタファ・シェイフ軍事評議会議長が「アサド政権は化学兵器を保管場所から出し、使用に備えて分配している」と語ったとしている。
 シナリオが動き始めたようだ。このあと、「大義」のために暴発的に化学兵器の限定的な利用もありうるかもしれない。もちろん、それだけでも危機でもあり、さらに当初の「大義」のシナリオを越えて、大混乱になる可能性もゼロではない。ただし、合理的に見るならアサド政権が維持される限り、アサド政権側から化学兵器を使用する可能性は低い。次に触れるが後ろ盾となるロシアの信頼を損ねるからだ。
 シリア状況をこれまで固定化させてきたのは、表面的には中露だったが、アサド政権側の化学兵器管理能力維持の点でイスラエルと米国は、人道的なそぶりの裏腹で実質的な是認を行っていた。今回の危機構造の変化で、ロシアにとってもイスラエルと同質の危機が共有される可能性が出て来た。つまり化学兵器がロシア内のイスラム過激派に伝搬する危険性がある。その点で、ロシアがようやく国際協調という美談に乗る可能性も出て来ており、ロシアが動けば孤立したくない中国も腰を上げざるをえなくなる。ただ、このロシアの転機はそう近くには想定されない。
 イスラエルと米国が、シリアの化学兵器管理介入に動き出すとなると、リビア騒動のときと同様に報道は抑制されるものの、かなり組織的な活動が始めるし、これを察知してイラク側のなんらかの動きがあるだろう。また、イスラエルと米国の活動はトルコの援助が不可欠だろうと思われるので、そのあたりの動向も気になる。ただし、リビアの時のように、要人をロボットで殺害すれば済むというオバマ流の安直の手法で事が解決するとは思えない。
 むしろアサド政権が崩壊し、化学兵器管理能力維持が崩れた時点で、米国は7万5千人規模の地上部隊のシリア投入が必要になる(参照)。その体制の整備がそろそろ必要になると思われるのだが、報道からははっきりと見えない。オバマ大統領が自身の大統領選挙戦などの配慮から、大量部隊投入のチャンスを逸すると大変な事態になりかねないのだが、米国側としても対イスラエルのチキンゲームかもしれない。
 逆に言うと、リビアでの巧妙な介入やロボットを使った殺戮を拡散しているオバマ政権のことだから、なにかまた奇策のようなものを進めているようにも思われる。リビアを使って介入させたり、あるいはアルカイダの一部と実質組むというようなことがあっても、それほど不思議ではないような薄気味悪い状況である。
 一番穏当なシナリオはというのもなんだが、ロシアを説得して、アサド大統領を表面的に退陣させアラウィ派の権力構造を維持させ、国内争乱を弾圧することだろう。西側としては権力管理ができるならバアス党でもよい。最悪のシナリオは、「大義」の演出の後の7万5千人規模の米軍地上部隊のシリア投入だろう。
 
 

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2012.07.21

昨日の夜のノンアルコールビール

 お酒が飲めなくなったものの、夏の夜にはちょっとビールみたいなものが飲みたいなというときに、偽ビール。ノンアルコールビールを飲むことが多い。実体は炭酸水とさして変わらないが、まあ気分というもの。最近はそれなりに味もいいように思えてきた。昨晩も深夜、ふとノンアルコールビールが飲みたくなって、小雨のなか近所のコンビニに買いに行ったのだ。それだけのために。いつもは、スーパーとかで六缶入りとか買うのだけど。
 深夜のコンビニっていつも人がいる。きみたち寝ないのかねと思うが、そういう人がいるっていうのは、眠れない夜の優しさの部類じゃないか。さてと、とコンビニの冷蔵庫を開けて、キリンのにするかなと手に取ると、きんきんに冷えている。持っているだけで冷たくて指が痛い。これはいいと思って、いそいでレジに持っていく。これね、と言ってレジの台に乗せると、店員、まだ20代のお兄さんだろうか、バーコードでレジして、そこで「パネルにタッチしてください」と言うのだ。え?
 レジの機械のパネルを見ると、20歳以上であることを確認する、OK?みたいになっている。え? 俺、54歳ですよ。酒が飲めないからって、中年太りしてないからって、見りゃ、わかるでしょ。見えないネットですら、爺って言われるくらいなんだから。
 にへと笑って、そのとき僕はちょっと勘違いしたのだ。店員が冗談ではないけど、深夜で手順を間違えたんじゃないかと思ったのだ。これって、そのパネルの表示を見てもわかるけど、20歳以下の人にお酒を売らないというためのシステムですよね、むふっ。それにこれはお酒でもないし。
 で、なんとなく僕はぼけっとして、店員がちょっと困惑げな感じだったので、あ、それ袋に入れてくださいと言ったのだった。シールを貼った缶のまま持って、コンビニを出て、そこで一気にぐびーと飲むおっさんだと思ったんじゃないか。そうじゃないんだよ、家に戻って飲むんだよ。手で持ってると、冷たすぎるじゃないか。
 そうではなかったのだね。
 あの、パネル、と店員の兄さんは言うのだった。
 パネル? ああ、パネルね、そんなのあったよね。あは?
 あれれ、なんか世界が白いぞ。なんでここで凍るんだ?
 パネル確認してください、と店員は言うのだった。さっきのちょっとだけ困惑げな感じで。
 その時になって、わかった。そうか、俺も、これで20歳以上であることの確認するというか。俺、これに、同意するのか? え? 20歳以上の確認を54歳の俺が?
 ここで同意したからって、世間で下げる頭と同じようなもので減るわけでもないし、世の中というのはもともと理不尽の塊だし、じゃあとiPadでも触るようにタッチする。と、なんか、かすかにねちょとしたオーラみたいのが指先を、ちょりり~んと伝わってくる感じがして、なんかヤダなあという感じだった。でも、これでこの変なぷち凍った空気は終わるのでしょう。生きてるってめんどくさいね。
 小さいレジ袋に偽ビールを入れてもらい、受け取る。それでほんとに終わりでもよかったのだけど、他にレジに来る客はなさそうなので、ちょっと聞いてみた。
 これって、僕みたいにあきらかに20歳以上の人でも、タッチするの?
 はい、と店員は言うのだった。そして、それ以上聞くなよという感じもしたので、そこで、本当に終わりにした。こんな些細なことでも、深刻な恋愛でも終わりにするときは、そんなふうに理不尽をごくんと飲み込むものなのだ。
 もちろん、納得は行かないわけですよ。
 仮にですよ、あそこで、この俺が、いやあ、俺っち19歳だぁ、とか抜かして、こんなのタッチできないわ、とかこいたら、どうなっていたんだろう。
 そこまでやる勇気はない。むかし、マクドのお姉さんに、あとスマイル!スマイル!とか言ってたのはもう30年も昔のこと。
 家に帰る。深夜だし、やさぐれているので電気は明るくしない。節電のためでも反原発のためでもない。ただ、やさぐれているときは、薄暗いほうがいいじゃないか。さてと、と、グラスを取り出す。ビアグラスはあるのだった。
 偽ビールのプルリングを引き、どどっとグラスに注ぐ。まるでビールみたいだよなと思う。そして、あれ、僕はいつから缶ビールをグラスに入れて飲むようになったんだっけと思う。いや、そうじゃない。僕はいつまで缶ビールをそのまま缶で飲んでいたんだけっと思った。
 いつもそうしていた。
 いつもって、いつまでだい?
 30代まではそうだったんじゃないか。旅先でもそうだった。マルタ島にはなぜかハイネケンのビール工場があって、そのハイネケンも缶で飲んだ。香港で飲んだ青島はでっかいビンだったが、オリオンは缶だ。
 でも、もうずっとグラスに入れて飲んでいるなあ、俺。
 虚空に、ビールは缶で飲みますか?という架空のパネルが現れる。OKのほうを押してみる。なんか虚空のパネルからすーっと冷たく寂しいものが流れてきて、哀しくなる。
 そのあと、正確にいうと、すごい憂鬱になった。
 いやあ沈むなあと思った。沈む理由はわかっていた。こういうとき、酒が飲めるといいだよなあと思った。
 虚空のパネルに、お酒飲めますか、と出てくるけど、OKはタッチできない。キャンセルのほうをタッチする。
 キャンセル?
 なんだよ、それ。
 
 

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2012.07.20

米国英語と英国英語の発音の違い

 英語を意欲的に学ぶ人が多いみたいだが、米国英語と英国英語の違いはどうしているのだろうか? たまに疑問になる。インターネットを使って英語を学ぶという話題に、よくBBC(英国放送協会)やNPR(ナショナル・パブリック・ラジオ)が出てくるけど、BBCは概ね英国英語、NPRは概ね米国英語。英語国民ならどっちも聴けるだろうし、違いは東京弁と大阪弁くらいなものかとも思うこともあるが、英語を学ぶ日本人としてはどっちかひとつに基点を置いたほうがいいのではないかな。どうしてるんでしょうかね。
 問題意識を浮かび上がらせる意味で、ちょっと○×クイズをしてみたい。発音に絞った。


1 英国英語で"car"の"ar"と"father"の"a"は同じ音?
2 英国英語で"car"の"ar"と"aunt"の"au"は同じ音?
3 英国英語で"sport"の"or"と"door"の"oor"は同じ音?
4 英国英語で"sport"の"or"と"talk"の"al"は同じ音?
5 英国英語で"hot"の"o"と"stop"の"o"は同じ音?
6 英国英語で"hot"の"o"と"want"の"a"は同じ音?
7 英国英語で"teacher"の"er"と"umbrella"の"a"は同じ音?
8 英国英語で"teacher"の"er"と"her"の語末の"er"は同じ音?
9 英国英語で"famous"の"ou"と"America"の語頭の"A"は同じ音?
10 英国英語で"nurse"の"ur"と"work"の"or"はは同じ音?
11 米国英語で"car"の"ar"と"father"の"a"は同じ音?
12 米国英語で"hot"の"o"と"father"の"a"は同じ音?
13 米国英語で"good"の"oo"と"full"の"u"は同じ音?
14 米国英語で"sure"の"ure"と"poor"の"oor"は同じ音?
15 米国英語で"Europe"の"ur"と"plural"の"ur"は同じ音?
16 米国英語で"come"の"o"と"lunch"の"u"は同じ音?
17 米国英語で"teacher"の"er"と"umbrella"の"a"は同じ音?
18 米国英語で"nurse"の"ur"と"work"の"or"は同じ音?
19 米国英語で"teacher"の"er"と"her"の語末の"er"は同じ音?
20 米国英語で"hot"の"o"と"son"の"o"は同じ音?

 クイズの解答は文末に記した。解答が間違っていたらごめんなさい。でも、すぐに答え合わせするのではなく、できたら、以下の議論を読んで再度やりなおしてみるといいと思う。とはいえ、ちょっとややこしい話。
 英国英語と米国英語。学校ではどういう指導をしているのだろうか。たまに気になる。概ね米国英語が多いようだが、それほど違いは意識されていないようにも思える。どっちで学んでも英語力が付けばよいという印象である。
 それでいいのかもしれないが、たとえば、オックスフォード大学の出版部(Oxford University Press)は各種英語学習教材を販売しているが(参照)、簡単に音声で確認できるものを聞いてみると英国英語だった。聖公会系の学校だとこういう教材を使っているのかなと思ったものだ。他方、米国のESL(English as Second Language)だと米国英語が中心のようだ。
 考え方によって米国英語と英国英語の違いはそれほど問題でもなく、最初の決めごとかもしれない。そう思っていたが先日、オックスフォード大学の出版部のELT(English-language teaching)教材の"English File Pronunciation"という発音学習のアプリを見ていたら、英国英語と米国英語の切り替えができる。それはいいなと見ていて、ちょっと驚いた。

 驚いたのは、母音の組織の提示方法だった。英国英語と米国英語の発音が違うのはよく知られていることだが、母音組織として異なる体系にあることが最初に提示されていたのだった。


左が米国英語の母音、右が英国英語の母音

 米国英語の場合、母音組織は、(1)特徴付けなしの母音、(2)R音性母音、(3)二重母音、の3つの範疇で構成されている。
 対して、英国英語の場合は、(1)shortの母音、(2)longの母音、の2範疇が対立してあり、さらに(3)二重母音、の3つの範疇になる。
 そんなことは当たり前ではないかと言う人もいるだろうが、これは「音」としての差違というより、音素体系として提示されている点が重要。母音組織そのものが違うことになる。普通に考えれば、別の言語のようでもある。だが、どちらもラテン語文字という類似の表記法を使っているうえ、それを発音に事実上紐付けしている。その対応がどちらも異常なくらい複雑になっている。
 別の言い方をすると、米国英語ではshortの母音とlongの母音といった組織対立はなく、英国英語では米国英語を特徴付けるR音性母音がない。それでいながら、米国英語のlongの母音は、米国英語を特徴付けるR音性母音と関連がありそうに見える。
 学習者にしてみれば、どちらか決めておいて他方は無視してもよいようなものだが、それでも発音とスペリングの関係をルール化する場合、たとえば、"Silent e"といったフォニックス(Phonics)的なルールを採用する場合、英語がスペリングに使うラテン語の母音文字との関連で、shortとlongの関連が意識されることになる。つまり、米国英語でも、スペリング学習との関連で、shortの母音とlongの母音の関係は暗黙に理解が求められることになる。このことは、言語として見た場合、米国英語学習者にとっても英国英語の母音発音組織が暗黙に意識されることでもある。このあたりに大きな問題が潜んでいる。
 そこでまず、英国英語のshortの母音とlongの母音の組織だが、調音的には次のようになっているし、先のオックスフォード大学教材も暗黙にこの組織性を提示している。


 short  long
 ɪ    iː
 æ    ɑː
 ɒ    ɔː
 ʊ    uː
 ə    ɜː
 e
 ʌ

 これを"Silent e"からラテン語母音字に対応させるフォニックス(Phonics)的なlongとshortに分け直すと次のようになるはずだ。おそらくこれが英国英語ネイティブの発音意識に対応している。簡単にいえば、longはアルファベットの読み方と同じである。

  short  long
I  ɪ    aɪ
E  e    iː
A  æ    eɪ
O  ɒ    oʊ
U  ʊ    uː

 このラテン語母音字の表で短母音として抜けているのが、/ʌ/と/ə/である。後者は英国英語でもschwaと見ていいだろう。つまり、無アクセントの母音が/ə/だろう。こう整理して体系的に残るは、/ʌ/である。これはスペリングから見ると、Uのshortに対応していることが多い。これはあとで再考察する。
 英国英語の調音体系とスペリングとの母音意識体系の差をラテン語母音字に対応で見てきたのは、英語は元来、このラテン語母音字に近い発音だったからだ。それが現在の英語のように大きな変化をしたのは、中世期のグレート・ヴァウエル・シフト「大母音推移」(Great Vowel Shift)のせいである(参照)。チョーサーとシェイクスピアの間で起きたというイメージになる。
 それ以前の英語の場合は、概ね、longの母音は、shortの母音を伸ばしたものだった。日本語の音引きみたいなものである。"name"はそれゆえ、「なーめ」であった。
 グレート・ヴァウエル・シフトをラテン語母音字で整理すると、先のフォニックスのlong/shortの表に近くなる。ただし、以下の説明は正確ではなく。便宜である。ラテン語母音字の5字に"oo"を加えたのは、グレート・ヴァウエル・シフト以前のshortの母音は5母音を越えていたからだらだ。また当時の異スペリングは括弧に補った。

    旧long   現long
I(y)   iː     aɪ
E(ee)   ɛː, eː   iː
A(aa)   aː     eɪ
O    ɔː     oʊ
U(ou)  uː     aʊ
oo    oː     uː

 調音的には舌の位置が構造的に上顎方向にずれた。また、調音的にはみ出した部分は二重母音化した。その他にも段階的に変化した。以下の図は、米国英語ふうに変化を簡略化したもの。

 グレート・ヴァウエル・シフトの全体像は複雑だが、ここではスペリングとの関係だけに絞ってみたい。繰り返すが、そのため、学問的に厳密な話ではなくなる。しかし実際のところ、発音とスペリングに利用されているラテン語母音字との対応が、母音組織というより、英語学習上の問題になるだろうと思う。
 先に残した問題、"oo"と"u"の扱いだが、先ほどは、Uのラテン語母音字に/ʊ/と/uː/ を充てた。現在の英語では、これは"oo"に対応している。そこを整理しなおすと先に余った/ʌ/が当てはまることが多い。例えば、"up"や"nut"など。しかし"put"は異なる。また、/ɔː/の位置がないので、これに対応するスペリングとして"au, al"を含める。/ɑː/も対応しづらい。仮に"A"のlongに併記しておく。次のようになる。


  short  long
I  ɪ    aɪ
E  e    iː
A  æ    eɪ, ɑː
O  ɒ    oʊ
oo ʊ     uː
U  ʌ    uː
au,al 欠  ɔː

 "U"のshort/ʌ/に対応するlongは/uː/としたのでここは重複する。
 以上のように整理してみると、現代英国英語は母音は大きな変化を経たが、ラテン語母音字に対応する母音の構造意識で見ると、古代からの英語の構造をけっこう保持しているとも言えそうだ。おそらく、グレート・ヴァウエル・シフトはlongの母音で顕著でshortの音が保持され、それとスペリングの対応にlongの意識だけ付随したからではないだろうか。
 米国英語ではどうか。スペリングとの意識対応は変わらないので、構造的な違いはないと思われる。だが、米国英語にはlongが音声上は存在しないので、longとして意識されているとして当てはめてみる。

  short  long意識
I  ɪ    aɪ
E  ɛ    i
A  æ    eɪ
O  ɑ    oʊ
oo ʊ    u
U  ʌ    u
au,al 欠  ɔ

 以上の対比から、英国英語と米国英語の母音意識の構造上の差違は、英国英語から見た場合、/ɑː/と/ɔː/に大きく現れている。
 当然これは、英国英語のlong母音と米国英語のR音性母音とに関わり、ラテン語母音字から見ると対照の構造が存在しそうだ。しかし、"ir"と"ur"は英国long母音の対応はない。

ラテン語的表記  英国long母音  米国R音性母音
  ir      欠     ɪr
  ar      ɑː     ɑr
  or      ɔː     ɔr
  ur      欠     ʊr
  er      ɜː     ɜr
〈schwa〉     欠     ər

 米国R音性母音に対応する英国二重母音で見ると対応がはっきりする。グレート・ヴァウエル・シフトでlongが二重母音化したのと類似の構造がある。

ラテン語的表記  英国二重母音
  ir       iə
  ar       ɑː
  or       ɔː
air/ere/ear/are   eə
  oor       ʊə
  er       ə

 簡単にいうと、英国英語の場合、米国英語のR音性母音は、上顎に近い調音の"ir"と"ur"ではschwa(/ə/)を後置する意識となり、"ar"と"or"ではlongとして扱われることになる。ただし、無音でありながら意識の上では存在しているとも言える。
 というあたりで、冒頭のクイズを見直してみると、なんとなく議論の意図が汲んでいただけるのではないか。

[クイズの答え]1○2○3○4○5○6○7○8×9○10○11×12×13○14○15○16○17×18○19○20×
 
 

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2012.07.19

2ちゃんの、英語のfriendを「ふりえんど」って覚えた奴w

 英語学習ネタはしばらくやめようと思っていたのだけど、2ちゃんねるのまとめサイトで「英語のfriendを「ふりえんど」って覚えた奴wwwwwww」(参照)というのを見かけ、いつもどおりざっと笑いながら読んで終わりとしようと思ったけど、もしかしてこれ説明しておいたほうがいいんじゃないか、と思い直したので、ちょっと書いてみますか。それほど正しい説明でもないし、他所で見かけない話というのでもないけど。
 具体的にタイトルにあるように英語の"friend"を「ふりえんど」って覚えるという話だけど、このスペリングはどう見ても、/fɹɛnd/とは読めない。なので強引に覚えるしかない。「ふりえんど」もしかたないということになる。
 それでも英語にはスペリングのルールのようなものがある。例えば、母音が二つ並ぶシラブルの場合は前の方ので代表する。これが当てはまるのは"people"の"eo"で、"e"が発音のカギで、続く"o"は発音しないといった場合。他にもこんなの。どれも、後で説明するlongの母音になる。


fair, paint, wait
dial, trial, vial
dua, fuel, juice
clean, hear, people
boat, coat, four

 ルールとはいっても"people"の場合"e"の後ろが"o"であることはやっぱり覚えないといけない。ついでにいうと、発音しない後続母音字は脱落しやすい。英国英語だと"colour"だけど、米語だと"color"になった。
 "friend"だがこのルールだと「ふらいんど」みたいになるはず。でもそうなっていない。じゃあ、ルールもなんもないじゃん、なのだけど、母音が二つ並ぶシラブルの場合で"i"が先の場合はそれを無視というサブのルールがあるにはある。ただし、"friend"と適用が違う。

field, lied, piece

 "diet"もそれと違う。ああ、残念。
 次。
 2ちゃんの例では、

baseballを「ばせば11」って覚えた奴

 これはスペリングのルールどおり。
 "baseball"は、"base"+"ball"と分ける。
 "base"なんだが、この語末の"e"は英語国民は"Silent e"参照)として習う。意味は「発音しないE」なんだけど、機能はその前のアクセントのあるシラブルの母音をlongにすること。
 で、longって何?だが、ようするに、a・i・u・e・oというラテン語母音字を英語では、longとshortに発音し分ける。longのはいわゆるアルファベット読みになる。発音表記はIPAを借りるとこう。なお、これが英語学習によいというわけではないのはまた別の機会にでも。

   long    short
A   eɪ   æ
I   aɪ   ɪ
U   uː   ʌ
E   iː    ɛ
O   oʊ    ɒ

 以上から、"base"は、b + long a +sで、「べいす」みたいになる。
 "Silent e"のルール例はこんな感じ。

      Without silent e   →  With silent e
slat      slate      /slæt/ → /sleɪt/
grip      gripe      /ɡrɪp/ → /ɡraɪp/
run      rune      /rʌn/ → /ruːn/
met      mete      /mɛt/ → /miːt/
cod      code      /kɒd/ → /koʊd/

 なお、"Silent e"は、頻繁に使う語彙に例外が多い。

come, done, give, love

 次は"ball"だけど、これは"al"と"aw"は/ɔ/と発音するルールから「ぼーる」になる。「ぼうる」みたいに「う」の感じは入らない。日本語だと「あー」に近い。なお、"aw"は語末でないと、"au"になる。"launch"は、「らうんち」ではない。「らーんち」みたいな感じ。
 いずれにせよ、"baseball"は発音ができると、以上のルールからスペリングも決まる。
 ということで、英語を母国語としている人は、子どものころから発音を先に覚えて、それをスペリングにするルールを覚える。
 発音ができて、スペリングの基本ルールを覚えておけば、たいていの英語のスペリングが書けるということにもなり、実際のところ、英語のスペルチェッカーはそれが主目的になっている。まとめると、発音どおりに英文ワープロに入力すればほとんどのスペリングは修正してくれる。もっとも、やばい例外もあるにはあるので注意は大切。
 次。

soccerを「そっけら」って覚えたやつwwww

 これもだいたいルール通り。
 重要なルールは、単語はシラブルで分けるということ。シラブルって何かだけど、母音を1つ含んだ発音の単位。詳しくはこれも別の機会に説明するかもしれないけど、いずれにせよ、"soccer"は、"soc"+"cer"にわけられる。"Silent e"もなく、longの母音もないので、発音の /ˈsɑk.ɚ/ からだいたいスペリングが決まる。
 ただし、英語単語の慣例からすると、"socker"となりかねないし、"sucker" ( /ˈsʌk.ɚ/ )という単語もある。"c"がどういうふうに英語単語に出てくるかというのは、Centum-satem isogloss(参照)という問題がある。GIFを「ぎふ」と読むか「じふ」なども関連する。外来語の語感でだいたい決まる。でも、これらも明瞭化のために変化しやすい。英国英語だと"licence"だけど米語だと"license"になった。
 次。

Favorite ファヴォリテ

 これもだいたいルール通り。ポイントはシラブルに分けてアクセントの位置を確かめること。"favorite"は、fa + vor + iteになる。"Silent e"があるけど、"ite"にアクセントがないので、shortの母音になる。"vor"もshort。そして、"fa"にアクセントが来てlongなので、「ふぇいう゛ぁりと」になる。ちなみに、"ite"は現代語ではschwaになっているようだし、"vor"はr母音ではなくr音だけになっている。
 次。

acquire 
は覚えにくかった
qがマジ曲者

 シラブルで分けると、ac + quireで、"q"は通常"u"伴って"k"の子音を示す。アクセントは二番目になるので、quireが「くわいぁ」みたいになる。で、qの前のshortの"a"を示すために、"ak"なんだけど、Centum-satem isoglossで"c"になる。
 次。2ちゃんではないけど、

フィラデルフィアは「ぴーえいちあい ラデル ぴーえいちあい ア」だお。

 というけど、これもほぼルールどおり。シラブルに分けてアクセントの位置を確かめる。delにアクセントで、fila + del + fia。可能性としては、lを重ねてfillaかもしれないが、そこにアクセントはないのでshort母音でlが一つ。すると、filadelfia。おっとこれはスペイン語。英語ではギリシア語の外来語として、fをphにするので、"philadelphia"になる。
 すべての単語がこういくかというと、発音で覚えるんじゃなくスペリングから覚えやすい単語だとたまに混乱がおきる。たとえば、"jewelry"はネイティブも戸惑う(参照)。

I always said it like "JEW-LER-REE".
Is it suppose to be like " JEW-ELLE-REE"?

 いずれにしても、英語ってどうして発音とスペリングがめちゃくちゃになってしまったのかという大きなテーマがあって、これはまた別の機会にでも。
 
 

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2012.07.18

バターチキン

 バターチキン。そう、インド料理にある、甘くてバターの香りがする、カレーといえばカレーなんだけど、まあ、アレです。英語でもバターチキンというのかふと疑問に思って調べてみたら、むしろ英語圏でそう言ってるみたい。
 パンジャブ州の料理らしく、ベンガル料理を好む私としては、西の食べ物だなあ、というかムガール料理だなあ、シーク教徒とかかなあ、とか適当な印象から遠い感じがしている。日本にあるインド料理は、やたらとナンが出てくるように西の系統が多いんだろうか。まあでも、バターチキンはたまに食べたくなる。
 で、これ、問題なんだよなと思っていたのだった。問題というほどのことではないか。でもなあ、たぶん、と思って、ググってみると、最上位に「簡単おいしい本格派!バターチキンカレー [スパイス&ハーブ] All About」(参照)が出てきたので、レシピを見ると、見方によっては間違いでもないんだろうけど、まあ、どうしてこうなっちゃうんだろうという感じがした。二番目がこれ、「バター・チキン・レシピ」(参照)。読むと、こう書いてある。


 バター・チキンは、現地ではムルグ・マッカーニーMurg Makhaniなどとも呼ばれる。もともとは香ばしく焼き上げたタンドーリ・チキンを一口大にカットし、トマトやたっぷりのバターあるいはギー仕立てのソースで煮込むパンジャブ地方の料理。基本的にたまねぎを使わないのがちょっと変わっている。
 ムンバイやデリーの一流レストランや高級ホテルのダイニングのみならず、日本のインド料理店でもよく見かけるメニューのひとつだが、たいていは生クリームやカシューナッツがきいて、ヘビーな印象のことが多い。
 このレシピはそうしたバター・チキンとは明らかに一線を画するもの。インドの首都デリーにある「カリム・ホテル」(ホテルといっても宿泊施設はない。ムグライ料理の名店として現地の食通にもファンの多いレストランだ。URLはこちら)風の味つけで、みなさんに本場の味を伝道しよう。

 なんか超本格的らしい。本場の味を伝道するのだそうだ。
 そして三番目がクックパッド「バターチキンカレー(チキンマッカニー) by プラバール [クックパッド] 簡単おいしいみんなのレシピが126万品」(参照)である。クックパッドらしい。
 うーむ、と私は思う。この三つのどれが本当なんだろうとも、つい思ってしまうかもしれないし、どれも本物なのかもしれない。うーむ。
cover
はじめてのインド料理
HEALTHY WAY TO INDIAN COOKING
 ついで困惑を足すと「はじめてのインド料理―HEALTHY WAY TO INDIAN COOKING」(参照)に「バターチキン」が載っていない。理由はわからない。
 そもそもバターチキンはインド料理として何かというと、"Murgh makhani"なのだが、これによく似た、ある意味、英国料理に、"Chicken tikka masala"というのがあって、これと「バターチキン」がどう違うのか。
 この似ている"Chicken tikka masala"のほうだけど、"Chicken"はチキン(鶏肉)なのはそのままで、"Chicken tikka"というのは、骨なしタンドリーチキンみたいなもの。これを"masala"(マサラ)というから調合香辛料で味付けしたということだけど、ちょっと乱暴にいうと、マサラというのはカレーのことだから、ようするに「チキンカレー」ということになる。かなり乱暴か。でも、ちょっとBBCの「Chicken curry recipes(チキンカレーのレシピ)」(参照)を覗いたら、インド料理のチキンカレーは"Chicken tikka masala"という感じなので、まあ、いいんじゃないか。
 そこで、バターチキンの"Murgh makhani"とチキンカレーとどう違うのか。
 前提として当然、"Murgh makhani"の意味が重要になる。"Murgh"は鶏肉、"makhani"は"with butter"(バターソース)ということで、「バターチキン」は直訳っぽい。
 たぶん、というくらいなんだが、バターチキンは鶏肉をバター風味のソースでいただくという料理で、他方、"Chicken tikka masala"つまりチキンカレーは、タンドリーチキンをカレー仕立てにしたというものだろうと思う。
 くだくだ書いたのは、これ、どうも先の各レシピで混乱しているか、チキンカレーをバター風味にするとバターチキンということになっているんじゃないかと疑問に思っていたのだった。
 特に、日本のカレーといえばハウスなんだと思うけど、このハウスが出している「英国式バターチキンカレー」(参照)には、こう書いてあるんだよ。

にんにく、しょうがで下味をつけた鶏肉を、じっくり炒めた玉ねぎとアーモンドのまろやかな味わいのカレーで楽しむ、英国式のバターチキンカレー(チキンティカマサラ)です。

 それ、バターチキンではないと思う。ハウスとしてもわかっていて、「英国式」としているのかもしれないけど。
 どうも混乱しているんじゃないか。それって、「チキンティカマサラの作り方:ハムスター速報」(参照)のほう。
 どっちでも美味しければいいじゃんというのはあるんだけど、個人的に、味的に、拘っている点は、トマトである。「バターチキン」にもトマトは入るみたいなんだが、さっきの3レシピにあるように、あんなにトマト入れるかなあ、あんなに入れるとバターのこってり感がなあとか思っていた。
cover
バターチキンスパイスミックス
(75g3人分)
 困ったなあと常々思っていたのだが、先日、たまたま「カレーツリー」という簡易料理のブランドにバターチキンを見かけて(参照)、成分を見ると、「おおっ、トマト少なめ、タマネギたっぷり、コリアンダーのリーフがけっこう入っている」と感動したので、これはうまそうだなと思って、作ってみたら、うまかった。できあがったら、うまくて、ぺろっと食べてしまって、写真とか撮るのをすっかり失念。個人的な印象だけど、近年そこここに見かけるインド料理専門店より、おいしい感じでした。
 箱の中に入っているのはタマネギをスパイスとローストしたもので、これを定量の水で溶けとあるんだけど、けっこう溶けにくい。生クリームは別途50g必要。バターも15g必要。鶏肉はもちろん。
 調べたら他にもこのシリーズのインド料理があるみたいなんで作ってみようかなとか思った。
 
 

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2012.07.17

凍れるコミュニティー

 20代のころだったけどその状況ではその集団にとって重要な意思決定の会議みたいなものに若者の声代表みたいに出席したことがあった。発言を求められて、じゃあというので問題点を整理して回答を述べた。たぶん回答というより、解答だったのではないかと思う。で、どうなったか。ご意見承りました、次、という感じで会議は進んでいった。
 あれれ、と僕は思ったのだった。そりゃ。まあ、でもいろいろ課題があるんだろうと思って聞いていると、どうもこの会議が録画されているなら僕の発言部分をカットしてもなんら違和感がない。その先も同じ問題が蒸し返されている。それ、さっき僕が回答したじゃん、これが巻末の解答集、とかいう感じでもういちど発言しようかと思ったけど、恩義あるかたが馬鹿止めろ視線を投げかけてきたので、黙って置物になった。
 どういうことなんすか、とあとでその人に聞くと、君は会議の意味がわかってないねというのであった。会議の意味って、合理的な解答に合意することじゃないんすかというと、苦笑して若いねというのであった。若い意見が求められていたんじゃないんすかと再度聞くと、君は頭がいいけど馬鹿だねと言われた。怖い者知らずにはメリットとデメリットがあるんだがと言って会議の意味を教えてくれた。
 会議は、えんえんとやることに意味がある。参加者の腹の一物が透けてくるまでやる、というのだった。会議で意思決定なんてしても、どっかで必ず造反者が出るんだ。隙あらば状況は動く。誰がどう動くかという読みが重要なんだ。会議というのはそのためのストレステストだ。あいつは腹に一物ありそうだ。あいつはへたれそうだという顔色を確認する。できたら弱いヤツは潰していく、なんたら。
 合理的じゃないですよ、それ。そんなことしたら参加者全員が不利益になりますよ。対外的に弱体化するための集団行動なんて馬鹿そのものですよ、と僕は言った。彼は苦笑して、まあいいと言っていた。彼も結局、その後干された。
 会議について、うんざりする経験は他にもある。度重なり、僕もうんざりし、できるだけそういう会議に参加しないで年とってしまったのだけど、それでもちょっと前だったが、似たような会議に出席した。特に意見が求められるわけでもなく、僕は愚鈍なんで参加する意味もないんだけど、むしろこの年代のメンツの一人といったふうであった。そこで変な議題が出た。
 その分野については僕には知識があるので、それならこれこれのほうがいいですよと対案を発言をした。たぶん、合理的だろう。どうなったか。承りました、検討しますということだった。意見も言ってみるのだったなと思ったのだが、次回、検討結果が出て、僕の提言は否定されていた。否定された理由が項目になっていたので読んで、ははは、これは違うなと思ったので、これこれは違ってますよ、と発言したら、会議の場が気まずくなった。せっかくお前さんの顔を立ててやったのに蒸し返すんじゃないよ的な雰囲気なのである。でも、合理的な解決がのほうがみなさんのメリットですよと思っていると、これは検討されたものですし、なんたらということで結局僕の提言は否定された。採決ということで賛成しかねるなあと思ったら、僕のために全員一致とならず、それはなんか気まずいという空気だった。全体からすれば些細な話でもあるんで、どうでもいいじゃんと思うには思ったが、些細な話というのは問題が些細ということであって、会議としては些細だったのかよくわからなかった。
 似たような事例がもう一度あって。会議が凍ってしまった。僕が凍らせたということか。すまんな。深く反省した。と同時に、そういえば、こうやって若い頃随分嫌われたものだったなと思った。
 若いころひょんなことで、世界の平和のために、みんなの心を前向きにみたいな会合に参加したことがあった。宗教かよそれ、と思ったが、どうも参加者は、理想の世界のビジョンに、うるうるしているのである。そりゃ、世界がみんな善人になって正しい世界を目指せば世界はよくなるよ。中国みたいに頭のいい奴が政治権力を握って金融政策をすればその場その場では合理的な対応になる。でも、そういうのってそれほど現実的ではないだけなんだがなと、僕は置物化していったのだが、どういうわけか、決議でもないのに、挙手を求められた。僕はそんな宗教みたいな理想には賛同しませんよとじっとしていた。挙手しない人が一人くらいいても気がつかないでしょと高を括っていたのだった。見つかっていた。
 なぜなぜとうるうる組に発言を求められた。いや、みなさんの善意や正しい考え方が意味を持つためには、少しだけ悪い奴とか反論者がいたほうがいいんですよ。でないと何が善意で何が正義なのか、比較できなくなっちゃいますよ。なので僕は気弱な天の邪鬼の役です。かわいい悪魔の代弁者、なんちゃって、と答えた。凍った。
 まただ。時間が止まったように光がくっきりとしちゃうあの凍った時間。で、なんか僕へのバッシングが始まった。バッシングがどうも僕とは関係ない方向で盛り上がっていくみたいなんで、うわこれはご勘弁と思って、置物力を強化したのだった。
 その会合のトイレ休憩のときだった。君に賛成しているんだという人がぽつんぽつんぽつんといた。一人は気弱そうな人で、君くらい勇気があればいいんだけどと言った。別に勇気じゃないんですけどと思ったが、答えるのも可哀想な感じの人だった。一人はにへら笑いして、君は正論だけどこうなっちゃうとしかたないねえ、みたいな感じであった。僕もにへら笑いして、そういう君が最低だんだけどねと思ったが言わなかった。自分のほうが最低力において優るんじゃないかと思い直したのだ。っていうか、僕はいずれ、気弱になるか薄汚いなく状況に立ち回る人間になるのかな、いやはやと思ったものだった。
 
 

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2012.07.16

アメリカ先住民はどのように北米大陸に定住したのか

 アメリカ先住民はどのように北米大陸に定住したのか。この話題に関連して、先週の科学誌「ネイチャー」と「サイエンス」に新説が掲載されていて興味深かった。「ネイチャー」のほうは「Reconstructing Native American population history(ネイティブ・アメリカンの人口史再構成)」(参照)、「サイエンス」のほうは「Clovis Age Western Stemmed Projectile Points and Human Coprolites at the Paisley Caves(ペイズリー洞窟のクローヴィス時代新大陸型有茎尖頭器と人糞石)」(参照)である。
 話題は、同じく「ネイチャー」誌の一般向け報道「Genomes and fossil faeces track the first Americans(ゲノムと糞石から最初のアメリカ人を探す)」(参照)が読みやすい。
 要点は、1万3000年前のクローヴィス時代のペイズリー洞窟にある新大陸型有茎尖頭器と人糞石DNAの分析から、同時代に2つの異なる石器文化が併存したことだ。別の言い方をすると、単一文化の民族がアジアから北米大陸に移住して拡散したのではないということだ。
 これまでの主要説では、最初に北米大陸に定住した先住民族は1万3000年前のクローヴィス人であり、これが拡散し北米各地に尖頭器を残したと考えられていた。しかし近年の調査で、太平洋岸北西部からチリ南部までにクローヴィス人に先行した民族の定住遺跡が発見されている。今回、ペイズリー洞窟にある有茎尖頭器を調べるとクローヴィス人の文化とは異なり、また人糞石からはそれが年代的に同時代であることがわかった。おそらく複数の民族と文化が併存していたのだろう。
 一般向けの報道として、BBCもこの話題に注目していた。「Americas 'settled in three waves'(アメリカ人は3波で定住した)」(参照)である。タイトルからもわかるように、こちらは「3波」が強調されている。3波はどうなったか。後からの2波は言語、エスキモー・アレウト語とディネ族のカナダ・チプウィアン語に影響を残すものの、これらの話者のDNAからは、彼らがその先行波の民族に取り込まれていったようだ。DNAからの関連の度合いはアレウト語話者で50%、チプウィアン語話者で90%とのこと。通常、言語と民族は一致するものではないが、興味深い結果だ。

 なお、アメリカ先住民の定住ついては「銃・病原菌・鉄」(上巻下巻)で、懐疑的にかつ慎重に扱っているので、今後の新説の動向と比較してみるとよいだろう。
 
 

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2012.07.08

[書評]世界でもっとも有名なシェフ カーネル・サンダースの自伝(ハーランド・デーヴィッド・サンダース)

 ケンタッキーフライドチキンの店頭に立っている白髪・白装束・黒ぶちメガネのカーネルおじさん人形の本人が書いた自伝の日本語訳「世界でもっとも有名なシェフ カーネル・サンダースの自伝」が無料で、PDF形式でケンタッキーフライドチキンのサイトからダウンロードできる(参照)というので読んだ。広告みたいなものかなと思っていたら、全然違った。

 やたらと感動しまくってしまった。がんばれ、サンダース。どん底の人生から這い上がって成功しては、またどん底に。そしてまた成功してどん底に。その繰り返しを屁とも思わず、チャレンジしていく。不屈のカーネル。
 なにより驚いたのは、後世、ケンタッキーフライドチキンで著名になるカーネルがこのフランチャイズのビジネスを開始したのは、全財産すって年金暮らしという65歳のときだったということだ。65歳からの再出発でまた人生に成功した。すごいなんてもんじゃない。それに、慈善家。孤児たちに最高級のアイスクリームをおなかいっぱい食べさせるんだという情熱に、読んでて涙が止まらない。
 自伝というのだから、当然書いたのはカーネル・サンダースことハーランド・デーヴィッド・サンダース(Harland David Sanders,1890-1980年)本人で、90歳まで生きたカーネルが65歳のときの作品だった。ということは、現在のケンタッキーフライドチキンのビジネスを開始したころの作品で、本書にもその意気込みが溢れている。と同時に、まだケンタッキーフライドチキンのカーネルじゃない、もうアイアンシェフとしてのカーネルの姿がそこにくっきり描かれている。
 アイアンシェフ、まさに。それを如実に示すのが本書に添付されている33のレシピだ。カーネルが心からおいしいと思い、みんなに食べさせたいと思っていた特上のレシピが公開されている。ただし、ちょっと見るとどってことないようにも見える。ミートローフ、ローストビーフ、煮カボチャ、ローストターキー、スクランブルエッグ……、なーんだと思う。使っている材料もシンプル極まりない。でも、そのとおり作ってみると、愕然とする。ああ、これだと思う。以前長島亜希子さんの「私のアメリカ家庭料理」(参照)を紹介したときに、私はこう書いた。「どこの国の料理が一番食べたいと聞かれて、そして正直に答えてよさそうなら、私はアメリカ料理と答えてしまうかもしれない。それでいいのかなと今一度自分に問うてみて、それほど確たるものはないが、概ねそれいいかなとやはり思う」今もそう思う。カーネルのレシピをみて、ああ、これだと思うのである。
 たいていのレシピはなんとなく想像が付く。想像が付かないのは「豚肉のリンゴ詰め」。いや、これはうまそうだという想像が付くけど、最後の部分がわからない。自分には才能の一種なのかもしれないけど、味覚の想像力とか構成力みたいのがあって、レシピ見るとああなるほどねと味がわかる。でも最後の部分がわからないというのは魅力だ。作ってみるしかないか。作ってみた。初回なんで、きれいにはできなかった。リンゴが違うんだものという泣き言も言いたい。


 

 食った。うまかった。これが食べたかったんだよ、という味がした。豚肉の味に甘酸っぱいリンゴとバターがからむと、こんなにうまいものかと思った。
 フライド・トマトにもびっくりした。青トマトのフライがあるのは知っている。ズッキーニもわかる。赤いトマトでフライができるもんか? 味は……うーむ、これもつめのところが想像できない。できるだけしっかりしたトマトを選んで、作ってみた。

 泣けるほどうまい。カーネルのアドバイスにベーコンの脂を使うといいとあるけど、そうだとしたらこれはもうもう絶品だっただろう。
 あきれたなと思った。レシピには料理人の魂みたいなものがこもっていて、自伝のほうの七転八倒の人生談と合わせて、カーネルさん、人間じゃないよ。いや、あの立像のことじゃない。人間を越えている、すげーなと思った。
 本書は、カーネルの人生という点でも面白いのだが、1890年生まれ、日本でいったら明治23年生まれの米国人の人生として歴史的な観点から読んでも面白い。F・スコット・フィッツジェラルドが1896年の生まれで、カーネルより少し年下なんだが、カーネルの人生談を読んでいるとフィッツジェラルドの小説や映画の風景が浮かんでくる。そういえば映画のベンジャミン・バトンは1918年生まれだったが、原作のほうは1860年で、時代の雰囲気としてはずれるのだけど、あの歴史の空気みたいのは似ている。
 「世界でもっとも有名なシェフ カーネル・サンダースの自伝」は英語版もある。原本だ。KFCのフェイスブックのサイトからこれも無料でダウンロードできる。同じくPDF形式なのだが、こちらはデザイン的にもきれいな仕上がりで、写真も多い。見ていて本当にきれいだ。
 この本、つまりは電子書籍なのだが、これだけ良書だと本棚に置いておきたいんで、書店から購入できないのかと探したが、なかった。1965年の作品だから英語版のほうなら古本でもあるんじゃないかとさらに探したら、驚いたのだけど、英語版のほうも今年発表されたらしい。カーネルのこの自伝、今まで日の目を見ることがなかったらしい。ガーディアンの記事を読んだら、昨年11月にカーネルの遺品から発見されたらしい。
 自伝はけっこうしっかり書かれている。たぶん、都合の悪そうな部分は編集されているのだろうなとも思うけど、全体はしっかりしていて問題はない。カーネルは長生きだったから、後年、その自伝をなぜ出さなかったのか不思議に思えた。なにか理由があるんだろうと思うけど、わからない。フライドチキンで売り出したから、他の極上レシピがあるというのは、フランチャイズ商売としてはまずかったのだろうか。
 PDF本という形式はけっこう読みづらい。特に日本版は横置きで2ページを押し込んでいてめくりづらい。Kindleだとほぼ無理。iPadでもiBookだと日本語の本のめくり方向が指定できないので不自然。i文庫はさすがだった。iPadのi文庫だと読みやすい。
 ああ、これ、英語版なみのデザインで、リアルに出版してくれないだろうか。絶対に買いますよ。
 
 

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2012.07.07

じゃあ、今日は、イジメの話をしよう。

 じゃあ、今日は、イジメの話をしよう。あ、そこでぐったりしている男子、たぶん、君が想像している話をはちょっと違うと思うよ。「「しがらみ」を科学する」(参照)という本にある話をちょっとアレンジしただけなんだけどね。
 まず、30人のクラスを想定しよう。ちょうど、このクラスと同じだ。そこで3人グループが1人の生徒にイジメをしていて、残り26人はイジメが発生していることを知っているとしよう。こういう状況があったとき、どうするかな?
 またぐったりしないって。みんなでイジメを無くしましょうとかいうお説教じゃないんだ。数字に注意を払ってほしいんだ。
 この設定でイジメを傍観している生徒数は……26人。この26人は、イジメの状況をどう考えているだろうか? おれもイジメに参加したい、と思うかな。まあ、それはないとしよう。でも、おれには関係ないし、って思う人は当然いるだろう。そういうとき君たちならどうかな? はい、そこの男子。
 「僕ですかぁ……。イジメをやめましょう、とか答えるといいんですよね」
 そっちの女子はどうかな。
 「私ぃ……ビミョー」
 いい答えが続くね。ちょっと答えづらいというのが本当のところだ。イジメを無くしましょうなんて言わされる教育ってなんか嘘臭いし、そんなことしてもイジメがさっぱり納まらないというのが現実だ。マスコミはなんどもなんどもこの話題でお祭り騒ぎをするけど改善しない。こりゃもうぐったりするしかない。でも今日の話は、そうじゃない。
 イジメが発生しているとき、26人の傍観者の頭のなかでは何が起きているだろうか? イジメってよくないよな、とは思うだろうね。でも、自分1人でイジメグループを抑え込むなんてできなし、ヘタすりゃ自分がイジメの対象になりかねないっていうふうにも思うだろう。1人で行動するのはやだなと思うわけだ。どうかな、こっちの女子。
 「ええ、そうです」
 すると、明確に意識しなくても、何人かイジメ阻止の仲間がいたら、イジメ阻止派に参加してもいいかなとも思うわけだよね。どうかな、こっちの男子。
 「言われてみると、そうですね。反原発デモに何万人参加したとか言っている人は、デモ参加者が多いことで賛同者を増やしたいんですよね、というかそれが目的だったりして」
 その話は置いといて。
 生徒は、何人くらいイジメ阻止の生徒がいるかなと周りを見渡して、頭の中で「イジメやめよう想定人数」を勘定するんだ。あいつは正義感強いから、マル。あいつは他人に関心ないから、バツ。あいつは意外と協力的だから、マル……14人かあ、とかね。
 ここまではいいかな? いいみたいだね。勘定して「イジメやめよう想定人数」が出たとき、これを「イジメやめよう行動基準数」と比較しはじめるんだ。誰もがそういう行動基準数を持っている。そしてある生徒の頭のなかの想定人数行動基準数を越えたら、その生徒はイジメ阻止の行動が開始できる。
 「先生ぇ、そんな数、考えていません」
 たしかにそういう言葉や具体的な数値でそう考えているわけではないよ。でも、このイジメの状況はそういうふうにモデルとして理解できるんじゃないかという話なんだ。そこはどうかな。さっきまでぐったりしていた男子、どうかな?
 「わかりますよ。理系ですから。話はどうなるんですか?」
 じゃ、このモデルで話を考えよう。26人の生徒の頭のなかにぞれぞれの想定人数行動基準数がある。イジメなんか自分には全然関係ないですという傍観者だと行動基準数はマックスだ。でも、みんな、そういうわけではない。10人であったり、13人であったり、16人であったり、生徒によって違う。
 さて、ここからは算数。
 ある生徒の頭のなかで想定人数行動基準数を越えたら、イジメ阻止の行動が開始できる。この生徒たちをイジメ阻止派としよう。行動や発言で自分は阻止派ですと表現した生徒が14人現れたとしてみよう。このクラスのモデルはこうなる。

  ・イジメを受けている……1人
  ・イジメをしている……3人
  ・イジメ阻止派……14人
  ・傍観者……12人

 傍観者は内心イジメを阻止したいとも思っているけど、この状況では阻止派に転じていない。このため傍観者はイジメ継続に機能してしまう。これが12人いる。これにイジメをしている3人を加えると15人になり、結局15人がイジメ継続を支持してしまう。ここまでわかったかな?
 「イジメをやめさせようという人が14人だけど、イジメを継続する人が15人っていうことですよね。この状況では、それぞれの生徒が同じ影響力をもっているなら、イジメは止まらないというわけですよね」
 そのとおり。はい、そこの女子。
 「イジメの状況を変えるには、各人の行動基準数を下げるといいんじゃないですか」
 それもそうだ。だけど、その話の前に、現状のモデルをもう一度見直してみると面白いことがわかる。重要なのは、イジメ阻止派の頭の中の算数だ。イジメ阻止派14人の頭のなかでは、「イジメやめよう想定人数」は、いくつだろうか?
 「14人以下でしょう」
 そう。そこで「イジメやめよう想定人数」がちょうど14人だった生徒はこの状況を見てどう思うだろうか。はい、そこの男子。
 「やべー、イジメ継続派が15人じゃあっちのほうが1人分多くて勝てないじゃん。傍観者のほうがクール、って思うかもしれないです」
 そう。すると、そう思う人は「イジメやめよう行動基準数」を上げて傍観者へと脱落してしまう可能性が高い。この脱落現象は連鎖していくっていうこともわかるよね。
 「わかります。最後に残されたら自分がイジメの対象になる。やべーと思ったら逃げて傍観者になったほうが安全。民主党の崩壊と同じです」
 民主党の話は置いといて。脱落者が連鎖するというのはわかるよね。そして、脱落者が連鎖するとこのクラスのイジメはひどいことになっていくわけだ。
 ではどうしたらイジメを阻止できただろう。
 「さっき言いましたけど、各人の行動基準数を下げるといいんじゃないですか」
 そうだ。でもどのくらいの人数がどのくらい下げるといいだろうか。そこが重要なんだ。仮に1人が行動基準数を1だけ下げて阻止派が1人増えたとしよう。ここで注意してほしいんだけど、たった1人の生徒の頭のなかで行動基準数がちょっとだけ下がったという些細な違いが起きたら全体はどうなるかということなんだ。この些細な変化でクラスのモデルはこうなる。

  ・イジメを受けている……1人
  ・イジメをしている……3人
  ・イジメ阻止派……15人
  ・傍観者……11人

 さっきのモデルとあまり違ってないように見えるよね。でもどうかな。
 「いえ、これは違います。イジメ継続派は傍観者とイジメをしている人を合わせて14人で、少数派に転じています。これだと、生徒が同じちからなら、イジメが阻止できます」
 そのとおり。イジメ阻止派15人に対して、イジメ継続派14人になるから、イジメ阻止の行動が勝って、イジメが抑え込まれることになる。しかも、このイジメ阻止派が多数になったことで、他の傍観者の想定人数と行動基準数の比が変わり、イジメ阻止がより多数になる連鎖が発生しやすくなるんだ。この2つのモデルを比較して、みんなはどう思うかな。
 「傍観者が悪いってもんじゃないんだなと思いました」
 「ほんの少しの違いで天国と地獄みたいな差になってしまうんですね」
 「みんなの行動基準数が小さいとイジメは発生しにくくなるけど、それだけを目標にしなくてもいいんだと思いました」
 そうなんだ。イジメはよくないと大騒ぎするんじゃなくて、全体構造のなかでイジメを抑制するような集団のバランスを見極めることが大切なんだ。
 「先生ぇ。そのバランスを見極めるっていうのは先生の仕事なんじゃないですか」
 うーむ、そのとおりだよ。イジメは特定のクラスに限定されるという問題ではなく、他のクラスの生徒全体で「イジメやめよう行動基準数」を見て、それぞれのクラスで抑制的になるようにクラス編成する必要があるんだ。また、行動基準数が高めな生徒と低い生徒の連帯を深めるような交流を促して、全体のバランスを変えるようにするとかも重要になる。こういうのは、全部先生の仕事でもあるんだよ。
 
 

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2012.07.06

北方領土交渉の「再活性化」は政府の嘘

 野田政権が嘘をついていると騒ぎ立てるほどの話でもないが、北方領土交渉の「再活性化」という話は、実際には嘘だったようだ。政府としては、会談の意図を汲んで「再活性化」としたというのだが、そうだとしても交渉というのは相手あってのことで、相手のロシアにその了解があったということが前提になる。その前提もなさそうなので、これは政府の嘘としてよさそうに思えた。ひどいな、この政権。
 話は6月18日のこと、野田佳彦首相とロシアのプーチン大統領がメキシコで日露首脳会談会談をして、北方領土問題の「再活性化で一致した」と野田首相は語った。外務省「G20ロスカボス・サミットの際の日露首脳会談(概要)」(参照)より。


2 領土問題
 両首脳は,領土問題に関する交渉を再活性化することで一致し,静かな環境の下で実質的な議論を進めていくよう,それぞれの外交当局に指示することとした。そして,領土問題を含め幅広い分野で両国関係の進展につき議論するため,できる限り今夏にでも玄葉大臣をモスクワに派遣することで調整することとなった。

 これをもとに例えば朝日新聞は6月19日「北方領土交渉、「再活性化」で合意 日ロ首脳会談」(参照)はこう報じた。

 野田佳彦首相は18日午後(日本時間19日未明)、メキシコ・ロスカボスでロシアのプーチン大統領と会談し、北方領土交渉を「再活性化」させることで合意した。玄葉光一郎外相が7月にもロシアを訪問する。

 さらに読売新聞は、この「再活性化」の合意を前提にして、4日の社説「露首相国後訪問 交渉の「再活性化」に逆行する」(参照)を書いていた。

 ロシア新政権の対日姿勢は、決して好転していない。
 それを前提に、政府は対露外交を練り直すべきである。
 ロシアのメドベージェフ首相が、北方領土の国後島を訪れた。極東地域の視察の一環というが、「我々の古来の土地だ。一寸たりとも渡さない」と語っている。領土返還を求める日本を牽制するのが狙いだろう。
 先月、野田首相とプーチン大統領が会談し、領土交渉の「再活性化」で一致したのは、一体何だったのか。日露が新たな関係を構築しようという矢先に、ロシアがいきなり日本の主張を一蹴する行為に及んだことは看過できない。

 しかし、「再活性化」の合意がそもそもなければ読売新聞社説のように憤慨する必要もなくなる。
 読売新聞だけの勇み足というわけはない。毎日新聞も同じである。5日「露首相国後訪問 2島決着狙う戦略か」(参照)より。

 ロシアのメドベージェフ首相が3日、北方領土の国後島を訪問した。大統領だった10年11月に旧ソ連・ロシアの国家元首として初めて訪れて以来、2回目の訪問である。
 5月にプーチン大統領の下で首相となったメドベージェフ氏は国家元首ではない。エリツィン政権時代の93年にも当時のチェルノムイルジン首相が択捉島を訪問した。だがメドベージェフ氏は前大統領であり、大統領時代の国後島訪問が「冷戦終結後最悪」と言われるまでに日露関係を悪化させた。その後、両国は関係修復に動き、6月の首脳会談で領土交渉の「再活性化」で合意したばかりだ。日本外務省が駐日ロシア大使を呼んで抗議したのは当然である。

 ついでに5日の日経新聞「北方領土のロシア化を止めよ」(参照)も同じ。

 ロシアのメドベージェフ首相が複数の閣僚を引き連れ、北方領土の国後島を再訪した。
 野田佳彦首相とプーチン大統領は先月の初会談で、領土交渉を再び活性化することで合意したばかりだ。これから本格交渉に乗り出そうという矢先に、ロシアの首相や閣僚が大挙して北方領土入りした。はなはだ遺憾である。

 ところがどうも、その前提になる「再活性化」合意はなかったようだ。
 最初に疑念を出したのは産経新聞のようだ。5日付け「【日露首脳会談】日本政府の「再活性化一致」説明、破綻「外務省の応答要領なぞっただけ」(参照)より。

 先月の日露首脳会談で北方領土問題の「再活性化で一致した」という実際とは異なる日本政府の説明は、あたかも停滞が続いていた日露関係が動き出すかのような印象を国民に与えた。会談から1カ月もたたないうちにロシアのメドベージェフ首相が国後島を訪問したことは、日本政府の説明が早くも破綻したことを意味する。ロシア側の対応は容認できないものの、日本側が誤った情報を内外に発信したツケは大きい。
 会談後の記者団への説明の席上、領土問題に関する大統領の発言を問われた長浜博行官房副長官に、外務省幹部は「正確な細かいことは言えない。ただ、基本的に全部賛成しているし、外務省間で話し合うと指示した」と耳打ちした。
 日露関係筋は、首相が記者団に「再活性化」という言葉を使ったことについて「外務省が用意した応答要領をなぞっただけ」と語る。外務省ホームページも「両首脳は領土問題に関する交渉を再活性化することで一致し、静かな環境の下で実質的な議論を進めていくよう外交当局に指示することとした」と明記した。
 会談で大統領と親交のある森喜朗元首相の訪露が取り上げられたにもかかわらず、記者団には説明がなかったのも「政治家は関与させず外務省ルートだけで話し合いを進めたい」との意図が透けてみえる。
 だが、ロシア側の受け止めは「再活性化」ではなかった。メドベージェフ首相の国後訪問に関し藤村修官房長官は4日の記者会見で「最近醸成されつつある前向きな雰囲気に水を差す事態だ」と非難したが後の祭りだ。別の日露関係筋は「2010年のメドベージェフ大統領(当時)の北方領土訪問がいかに日露関係に悪影響を及ぼしたかプーチン大統領に率直に伝えていればロシア側の対応は異なっただろう」と指摘する。
 会談内容を正確に説明し、領土問題をテコに経済協力を引き出そうとするロシア側の意図を明確にしていたら「水を差された」とうろたえることはなかったはずだ。

 これはどういうことなのだろうか。産経新聞の解釈に過ぎないのではないかという疑念もあったが、その後、藤村官房長官が事実を認める発言をした。毎日新聞「日露首脳会談:北方領土交渉「再活性化」の言葉は使わず」(参照)より。

 藤村修官房長官は5日午前の記者会見で、6月の野田佳彦首相とロシアのプーチン大統領の首脳会談で議題になった北方領土交渉について「会談で、交渉の『再活性化』という言葉自体は使われていなかった」と明らかにした。日露首脳会談後、首相は記者団に「議論を再活性化していこうと一致した」と述べ、同行した長浜博行官房副長官も「再活性化というのは日本側からの発言だ」と説明していた。
 藤村氏は会見で「首脳会談とその後の日露のやり取りで実質的な交渉を新たに進めるという合意は確認された。そのこと全体を説明する際に再活性化という言葉を用いた」と軌道修正した。また「(当時の説明が)実態と食い違っているということは全くなく、言葉を使った、使わないに本質的な意味はない」と述べた。

 これで「再活性化」という言葉が日露首脳会談で使われていなかったという事実は確認された。この確認だけでも、経緯からすると掘り起こしたのが産経新聞であれば、産経新聞の活動は見事なものだったと言っていい。
 藤村長官としては、「実態と食い違っているということは全くなく、言葉を使った、使わないに本質的な意味はない」と述べたのだが、この点についてはどうか。
 これを判断するには、会談の内容が公開される必要があるのだが、そこがわからない。それでも、その後のメドベージェフ首相の国後訪問から察するに、また再活性化合意があったとした前提の読売、毎日、日経各紙の社説が憤慨することから見ても、実際には北方領土交渉で再活性化合意はなかったと見るほうが妥当だろう。つまり、この政権は嘘をついている。
 問題はこれで終わりか。つまり、北方領土交渉は冷え込んだ状態にあるというのが実態かというとどうもそれだけはないようだ。
 これも産経新聞報道をなぞることになるのだが、5日「日露首脳会談で「再活性化」言及せず 政府内で実態反映していないと批判」(参照)より。

 野田佳彦首相とロシアのプーチン大統領が6月18日にメキシコで初めて会談した際、実際には両首脳とも北方領土交渉の「再活性化」とは発言しなかったにもかかわらず、日本側が再活性化で一致したと説明していたことが4日、判明した。複数の日露関係筋が明らかにした。首相の年内訪露で合意したことも、大統領が原子力エネルギー協力を提案していたことも明らかにされていない。これまでの首脳会談でも事後説明と実際の会談内容が異なることはあったが、政府内からも「これほど実態を反映していないのは珍しい」との批判が出ている。


 また、首相は9月にウラジオストクで開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議に加え、年内の再訪露による2回の首脳会談を提案。大統領は「喜んでお迎えする。訪露の際でも、国際会議の際でも友好的に話を進められる」と応じていた。両首脳は森喜朗元首相の訪露についても話したがいずれも明らかにされていない。
 大統領は原子力エネルギー協力も提案していたが、日本側の事後説明ではエネルギー協力との表現にとどまった。

 外交なのだから首脳会議の内容はすべて公開せよというものではないが、「これほど実態を反映していないのは珍しい」とは言えるだろう。
 普通に考えると、森喜朗元首相の訪露は国民に秘しておく必要がなにかあるのだろう。それはいったい何か。さっと思いつくのは、自民党との事実上の大連立が如実に表れているのをおもてに出したくないということではないか。
 プーチン大統領からの原子力エネルギー協力が秘せられている点については、さっと思いつくのは、原発問題で国内を刺激したくないということだろう。だが、そうであるとすれば、この内閣は原発問題をどう考えているのか謎が深まる。
 一事が万事というわけではないが、この政権、外交問題は大丈夫なのだろうか。とても不安に思えてならない。
 
 

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2012.07.05

「デブな彼女」という短編小説を書こうと思ったことがある

 「デブな彼女」という短編小説を書こうと思ったことがある。青年Kがあるときデブな女の子に惚れて彼女にしたのだった。なぜKはデブな彼女に惚れたのか。デブだから惚れたというわけではない、別になんとなくそうなっただけなのだった。貧乳だってよかったかと問われれば、いいよとKは答えるだろう。しばらく彼らは幸せだった。
 この短編のポイントはここから。幸せに過ごすにつれ、デブな彼女は痩せていった。痩せてみたら、げ、なんなのこの美人という彼女になってしまった。彼女としては、幸せなうえに痩せてきれいになってKにもっと好かれると思っていた。Kはここで奇妙な心理的苦境に陥る。彼女と一緒に散歩するだけで、すれ違う男が彼女を見つめているのがわかる。すれ違う女はあこがれか嫉妬の視線を投げる。もちろん、彼女に言い寄る男が増える……。
 この話はどういう結末を迎えるのだろうか。
 いろいろ考えられる。ハッピーエンドがいいなと筆者である私は思う。山本周五郎風味で純文学じゃないんだし。ハッピーエンドにするならちょっとした波乱も欲しい。彼女がイケメンに不倫して失敗してやっぱりKがよいとあらためて思ったとか。おっと、Kはそれでいいのか。不倫された時点でKは死んでるだろ。もうちょっと薄い悲劇で、彼女は痩せてきれいになったが、体臭がきつくなったとか。趣味が違う。あるいは彼女はまたデブに戻り、それって悲劇なのハッピーエンドなの、どっち、みたいにするか。
 結局、この物語は書かなかった。
 これはもしかすると、とんでもない問題なんじゃないかと思った。純文学とかで美男美女がへろへろ繰り広げるドラマなんてもんじゃない人生の深淵がここにこっそりと隠れているんじゃないか。デブと美人と人生の難問。
 デブ女が好きというのはデブ専だとは限らない。Kのような状況に至らないまでも、彼女、デブでいいじゃんというのはありそうだというのは、「だから女はめんどくさい」(参照)という漫画集にもあった。というか、連続不審死事件の木嶋佳苗の謎に関連した文脈だった。

須田「これが美人じゃなくてデブだったら男はコロっとだまされますよね~。まさかデブがそんな腹黒いことを考えているなんて思いもよらないっつーか」
安彦「思いきり気許しそーだよね。これって別に男に限らず女だってだまされるよ。デブは悪いことしなそーに見えるし」

ナレーション「弱り目にデブ。心がささくれて立っている時にはエネルギーを消耗しそうなスレンダーな美女よりも温かくまろやかに包み込んでくれそうなおかゆみたいなデブがうれしい……」

デブ女の看護で病に伏せる男「……ああこんなのも悪くないかも……理想と現実……手に入るはずもない高嶺の花を追い求めるよりこんな身近にこんな幸せが転がっていたんじゃないか。」

ナレーション「……幸せの青い鳥をつかまえたような気持ちになった時……その瞬間……落ちた……こうして男達は女にせがまれるままにカネを渡してそして最後はムシリ取られて用済みになったら……」


 そういう読みね。
 デブも尽きぬ難問だが、美人というのもそもそも難問だ。Kに聞いてみる。

F「彼女は美人だと思う?」
K「痩せたらすごい美人になったと思った」
F「美人が好き?」
K「美人って自分に関係ないと思っていたんですよね」
F「そういうもん」
K「美人って、あれじゃないですか、結局世の中の人が美人だと思う人が美人だということですよね」
F「そうだね。美人投票とかね」

 難しい。美人というのは。その人の好みの女性というのと、その人の心のなかではそれほど区別されていけど、それでも社会が美人だという人が美人だという奇妙な、共同幻想っていうのでしょうか、なんか、ぺっとりくっつき出す。
 としていると、Kから聞かれる。

K「ちょっと僕から聞いていいですか。AKBで言ったら誰が好きですか?」
F「この年になると、JKとか関心ないんだけど、板野友美という子以外は全部同じ顔に見える」
K「板野ですか。へええ。アヒル口、タイプなんですか?」
F「アヒル口、何?」

 うーむ。
 このエントリを書き出したときはなんか、話のオチを考えていたつもりだったんだが、どっかに消えてしまったな。
 まあ、いいや。「デブな彼女」の物語を完成させた人がいたら、ご一報ください。あるいはそういう話ってすでにあるのか?
 
 

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2012.07.04

[書評]だから女はめんどくさい(安彦麻理絵)

 「仕事とアタシ、どっちが大切?」と問われたことがあるだろうか。男性諸君。私は、この言葉どおりではないけど、すっげー、昔、似たような問いになんどか立ちすくんだことがある。以来、この問いにどう答えたらいいのかということに関心を持ち続け、本書、てか漫画集「だから女はめんどくさい(安彦麻理絵)」(参照)に答えが書いてあるというので、それだけでポチっと買いましたよ。なるほど。答えが書いてあった。

cover
だから女はめんどくさい
 答えは、というと、いやネタバレになるの知ってて書きますよ。その前に。
 「オマエに決まっているだろ」ブー。
 「仕事もオマエもどっちも大切なんだよ」ブー。
 では、正解。
 「さびしかったんだね、ゴメン」。
 なんじゃそれ。
 そんなの解答なのか?
 とか疑問に思っている時点で、この難問が解けなかったということを私は理解しましたよ。だめだわ、俺というか。
 あれだなと思った。ある禅の修行の話を思い出した。
 老師が修行僧に問う、「いかなるか、仏?」
 「仏とは、人々が正しく生きたいという願いであります」 バシっつ。老師、修行僧を警策っていうか木の棒で打つ。
 老師が修行僧に問う、「いかなるか、仏?」
 「仏とは、人が生まれ持った本来の心のありかたであります」 バシっつ。老師、修行僧を打つ。
 これを延々と繰り返す。修行僧、ついに黙り込む。老師がそれでも修行僧に問う、「言え、言え」。
 いかなる答えがあっても、バシっと、老師、修行僧を打つ。
 修行僧が音を上げて、「言っても打たれ、言わなくても打たれる、老師、答えは?」と言うと、老師さらに修行僧を打つ。
 どっすか、これ?
 答えを教えましょう。答えは、「逃げろ」。
 草履を頭に載っけて逃げたら、なおよし、というのがわかる人は禅を学びすぎて、それもなんだなあではあるけど。
 つまり、現実は、修行僧を老師が打っているだけ。言葉とか思いとかに迷い込んで現実が見えなくなっている。その現状を理解できないから、打たれ続けている。
 これって人生の根本的な錯誤の比喩なわけだよ。
 「仕事とアタシ、どっちが大切?」と女問う。
 「仕事」バシっつ。
 「オマエだよ」バシっつ。
 「今は大変なときなんだよ」バシっつ。
 同じでしょ。
 逃げるんですよ、答えは。
 逃げるというのは、まあ、そのままの意味でなければ、「さびしかったんだね、ゴメン」Hug!
 でだ。
 いやぁ、そんなのやってられんわと、思うわけですよ。
 でも、その前に、どうしてこういうことを「女」は言い出すのか、というのが、この漫画「だから女はめんどくさい」の本領発揮。なので、難問の答えがわかったら、ぽいというものでもない。(ちなみに、すべての女がそうだというわけじゃないから、「女」と括弧付けにしときますよ。)
 ちなみに、なんでこういうことになるのか。つまり、「仕事とアタシ、どっちが大切?」とか問うんじゃなくて、最初から「さみしかった」と言わないのか?
 これがわかると、本書の要諦はわかると思う。いや、偉そうに言ってしまってなんだが、ああ、そういうことなのかと、読みづらい漫画を読んで私は得心したのだった。
 それはなぜなのか?
 この漫画集は連載をまとめたものだけど、その第5話「意地の数だけ抱きしめて」にあるように、「女」には意地があるからだしプライドがあるから。
 男尊女卑的に言うのではないけど、「男」って普通に生きていると、意地とかプライドとかずたずたにされる過程を少年期から生きているようなもので、おかげで、意地やプライドって状況によって相対的だし、基本、平和がいいっすよね的な生き物になると思うのだが、女性はそのずたずたの過程の結果が違うのかもしれない。まあ、よくわからないが。ついでにいうと、男女と限らず、そういう、ずたずた過程を経ない人がネットで意地とかプライドを発揮しちゃうんじゃないか。
 逆にいうと、女にもてたいなら、その女のもっているプライドに沿ってあげればいいんじゃないか。
 で、第一歩はその女に対してはプライドを捨てるというか。もちろん、捨てるのはその女だけで、他には保っていないと、げー、こいつ最低とか見られるわけだが。
 で、と。
 その手のことをうだうだと考えさせる話が、この漫画集にてんこ盛り。いいですよ、これ。
 読後、二つ、心に残ったことがあるというか、感動した部分がある。
 一つは、これは作者安彦麻理絵さんのこだわりかもしれないけど、おセックス中に、えっとコンドームどこだっけと探しに行く男の後ろケツが萎えるということ。ほぉと思った。
 もう一つは、ちょっとした小説仕立ての独身三十代男女の物語。第14話「独身をこじらせた男女の話」である。
 飲み会で終電を逃して、39独身男のアパートに独身35女がしけこんで、男の趣味人生の部屋を見つめたり、酒飲み直したりして、そのまま、ことなく、男は床に寝落ち。ネタバレになってすまんが、ほいで、女のほうは、しかたないかとそのまま床に横になり、「ヒマならセックスでもすればいいのに」と一人思う。それで男を誘うわけでもなく、寝落ちで終わる。そんだけ。
 まあ、そんだけだから、三十代独身が続くということでもあるのだが、この「ヒマならセックスでもすればいいのに」をなにかどんと背中を押すのが団塊世代とかにはあったし、その後のバブル世代では、メディアの影響で、目的はセックスだぁ!の時代もあった。
 でも、今はもう、そういうのはないから、孤独とか自分とかに向き合うようになって、かくなり、と、あいはて。
 漫画集として見ると、各話は、総じて、ああ、古いなあという印象があった。雑誌連載初出は2007年らしい。もう5年も前になる。5年間で、このくらい古いっていう感じがするのも、すごい。というか、5年は長い月日のようにも思う。30代なら、特に。
 びっくりしたのだが、あとがきに、この5年間、最初作者37歳、今42歳の、この5年間に作者安彦麻理絵さんは3人の子供を産んで、4人の子を持つ母になったというのだ。長女はこの春中学生。その下に4歳と2歳の息子さん、8か月の女の子の赤ん坊。
 ほぇえ。事実は漫画よりも奇なりな感じがするが、もういちど、漫画集の全体をぱらっと見ていると、なんか、それは自然な感じがした。
 いや、もうあてずっぽうに言うのだけど、この漫画読んだ人は、なんとなく結婚して5年後に子供二人いても、なんかとても自然な感じがするんだよ。
 なんかご縁がありませんでしたねという30代くらいの人だったら、縁起ものだと思って、読むといいよ。
 
 

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2012.07.03

[書評]別海から来た女――木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁(佐野眞一)

 佐野眞一が連続不審死事件の木嶋佳苗被告を描いた。それだけの理由で本書「別海から来た女 木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁」(参照)を読んでみた。北海道の開拓地、別海に視点を求めるところには、まさに佐野らしい技芸があると思える反面、こいつはサイコパスではないかと端から切り捨てているような扱いもあり、以前の佐野とは違う感触もあった。率直なところ、別海という土地の重みがそれほどうまく本書のテーマに統合されていないこともあって、後者の違和感が気になった。

cover
別海から来た女――木嶋佳苗
悪魔祓いの百日裁判
 木嶋佳苗被告による連続不審死事件では、インターネットの婚活サイトを利用した結婚詐欺に加え、練炭自殺を偽装して殺人が行われたと見られている。2009年9月に発覚し、裁判員裁判により2012年4月13日さいたま地方裁判所で死刑となった。一見して美人でもない女性がインターネットを使って結婚詐欺に及んだことに加え、やすやすと殺人を展開していくことから世間の話題にもなった。また警察の捜査が目を覆うばかりの失態であることも暴露された。
 佐野眞一はこの事件の木嶋佳苗被告をどう見ているか。人間が壊れていると見ている。「木嶋にはたぶん大きな欠陥がある。もっと言うなら、木嶋には本人も気づかない深いところで、人間が壊れている」と。
 私も佐野のその観察に同意するが、そうであれば問題は「木嶋には本人も気づかない深いところ」とは何かとなるはずであり、それは本書のタイトルが暗示するように北海の開拓地「別海」という土地とその地域の人間群像に求めていくことになる。たしかにその予想通りに、佐野は本書の第一部で木嶋の生まれ育った土地や、親族の興味深い歴史を引き出していく。その描写は興味深いが、木嶋という女性の深淵をうまく描き切れているとは私には思えなかった。むしろサイコパス(精神病質者)はランダムに発生するという否定的な印象すらもった。
 それでも佐野が足で稼ぐことで気づかされたことは二つある。一つは木嶋被告の首都圏を広範囲に渡って行動する開拓者的な行動力であり、もう一つは木嶋の母という存在だ。彼女については佐野は、周辺の情報やインターフォンを介した肉声しか得ていないが、抑制的ではあるものの、木嶋佳苗のサイコパシーに母との関連を見ている。私の直観でも、ここは大きな部分だと思う。この事件の本質は「母の物語」なのではないのか。
 第二部では百日に渡る裁判が佐野を通して描写されるが、ここでも木嶋被告の人間的な部分は見えてこない。「かつて文学の一大テーマだった殺人は、もはや文学のテーマからもすべり落ちてしまったようにも見える」という佐野の諦観とも憤慨とも言えるものがやすやすと露出してしまう。それを「木嶋佳苗が起こした事件がどんなにグロテスクに見えようと、いやグロテスクに見えるからこそ、いまという時代を正確に映し出している」として、いわば公傷とも言える部分に引き上げようと試みているが、それも上手な結語は得られない。「この事件はこれまでのどんな事件とも異質である。そして木嶋はこれまでのどんな犯罪者とも比べても異質である。譬えて言うなら犯罪者のレベルが違うのである」とつぶやき、行き止まる。挙げ句、嘔吐感や「ぶん殴りたくなる答弁」という反応に至る。比喩でいうなら、ドキュメンタリーであるべき何かが、悪魔と道化の喜劇に転換してくる。その喜劇に読者である自分が誘われているような不快な幻惑感がある。
 木嶋佳苗という人間は、本書の裁判記録からもわかるように、息をするように嘘を吐く人間であり、殺人におそらく何ら抵抗感ももっていない。まさにサイコパスというべき存在であり、それはゆえにきちんと「サイコパス」とラベルした箱に収めておくべきなのかもしれない。だが事件の本質は、彼女をその箱に収めることではない。
 佐野も単純になんども本書でも問う。なんでこんな女にひっかかる男がいるのか? そしてその男女の関わりがなぜ、インターネットという情報の道具なのか?
 この問いに対しては佐野は、ようやく一つの答えの形を描き出す。男の孤独といえばそうだろうが、その奇妙な意味に至るのである。木嶋に殺害されそうになった男が、佐野の問いかけにこう答えている。

――ところで、木嶋と一緒にくらしていて、これは怪しいと思ったことはなかったんですか?
「あのときは、自分は鬱状態で寂しくてたまんなくて、だから一緒に暮らしてくれるなら、会話してくれるなら、それだけでラッキーって、もう誰でもいいっていうか、だからなぜあんなブスとって、思われるかもしれないけど、もう容姿とかどうでもいいっていう感じでした。(後略)

 その感覚を持たない男はいないだろうと中年男の私は思う。なぜ男はそんなに孤独なのか。男とはそういうものさ、としか言えそうにもないが、そこで引っかかるのは、無意識に投影された「母」という存在だろう。
 この事件で殺害された男、そして騙されそうになった男は、常識的に見れば、マザーコンプレックスというくらいに母親から精神的に自立していなかった。佐野もそこにふがいない印象をもっているようだが、では母親から自立すればよいかというと、その先には、誰でもいいからと木嶋と暮らした男のような壮絶な孤独感に向き合うことになる。もちろん、男すべてがそうだとはいうわけではないが。
 佐野が描いた物語を離れて、この事件をもう一度考えてみた。
 男という存在の本質的に救われない部分に、まるで偽の「母」がカチリと嵌ったかのように見えるのがこの事件の隠れた構図なのではないか。そして、偽の「母」ができてしまったのは、木嶋自身に「母」が不在だったからだろう。そう思ってみて、そのカチリと嵌る組み合わせはけして、この事件に限らないとも思い至る。少なからぬ男女の人生はこうした地獄で想像上の殺人を繰り返して生きている。その違いはなにか。本当の殺人に至らないのはなぜか。
 そこに違いなどないのかもしれない。本書に登場する、別の騙されそうになった男は、あっさりと木嶋佳苗を普通の女ですよ、かわいい女ですよと述べてみせる。実際、木嶋は狙った男性やその後気が変わった男であれば、虫でも殺すような行動に変わるが、それでも普通の男女の関係に納まっていることもあった。普通の部分の物語だけ見るなら、木嶋佳苗が普通の女であったことに間違いない。
 彼女は人格障害にも見える虚言癖があるが、彼女自身はそれを虚言だと思ってはいない。自分の語るセレブの物語ではきちんとセレブを生きて、あるいは男によってはかわいい女でもあったりもする。その多様な物語のよじれがあれば、物語のために対処する。カネで解消できるなら、ではと古代の遊牧民が農耕民を狩るように仕事してカネを得る。それが通常の社会という物語からすれば死刑という殺人の物語に反映する。
 私は木嶋佳苗を弁護したいわけではない。ただこれは一つの巨大な騙し絵なのではないかという奇妙な疑念が去らない。
 何かが彼女の嘘の物語を押しとどめない。普通の人間ならそこを押しとどめるものがある。それは普通倫理であると思われているが、私はそれは身体ではないかと思う。
 人の裸の胸のなかに脈打つ鼓動の心臓は物語ではなく、生きるという身体的な唯一性として、身体を通して人に開示されるものだ。そこで人は物語を捨て裸の身体として人と向き合う瞬間を持つ。その瞬間によって自身を物語りから肉体へと取り返す。生きているという限りない愛おしいさのようなものに、死や殺人が抑制される。
 そこが壊れてしまえば、人はただ、多様な物語のなかに消えてしまう。
 
 

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2012.07.02

夏草や民主党とやらの夢の痕

 小沢一郎元民主党代表が民主党を離党した。理由は、野田佳彦首相の消費増税方針について「首相の下での民主党は政権交代を成し遂げた民主党ではない」(参照)とのことだ。それはそうだろう。小沢さんらしいなと思った。
 小沢さんは、1993年に自民党を出て新生党を作り、1998年、同党を継承した新進党を出て自由党を作り、一大勢力になるかと思いきや54人とみすぼらしい結果になったものだった。2000年、保守党という分派が出てさらに弱体化した。その年の衆院選、窮地の小沢さんは本人が一人、殴られながら旧体制に突撃していくという、お笑いCMに出た。笑った。そして共感した。私は小沢さんを自覚的に支持するようになった。世論は小沢さんを叩きまくり、二度と目はないと見ていた。そうだろうと私も思っていた。

 小沢さんは「構造改革」「規制緩和」「官僚制打破」を説いていた。郵政の解体も視野にあった。
 2005年の小泉政権下の郵政解散は、市民社会に突出した部分の公務員を「構造改革」し(参照)、また民営化によって「規制緩和」していくという点で、小沢さんの理念に近いものではないか。ここは党派性よりも、まさに小沢さん自身が説いていたように、政策とその実現に大きく賛同する時ではないかと思った。
 が、あのとき、小沢さんは曖昧に民主党を動かなかった。小沢さんでも党派の論理で動くのかと思った。
 あのときの小沢さんの思いはこういうことだった。2003年時点、まだ自由党の時代だったが、週刊エコノミスト9月9日号でこう語っていた(参照)。


――自由党は、「構造改革」「規制緩和」を口にする点で、小泉首相と方向が似ている。
 まったく違う。一緒くたにされることで困っているくらいだ。小泉氏から「あなたとは言っていることがだいたい同じだ」と言われたが、決して同じではない(笑)。
 小泉氏であろうが、自民党が政権にある限りは、何も変わらない。というのは、自民党は高度経済成長期時代から続く既得権益の上に乗っているからだ。われわれが主張している改革というのは、その構造を変えることだから、自民党にとっては自殺行為に等しい。「自民党をぶっこわす」などと言葉は過激だが、自民党である小泉政権に自民党の存在を否定するような改革ができるわけがない。

 その後の小泉首相(当時)は本当に、自民党を自殺に導いた。国会が野合と化そうとしているとき、首相である小泉氏は、国民の声はこれとは違うはずだと蛮勇をふるって国民に声をかけた。民主主義が死にかけた局面でもあった。私は国民としてその声に応えた。
 本当の自民党の自殺は安倍政権から始まった。安倍政権は「高度経済成長期時代から続く既得権益」の構造を改革しようとしたと同時に、旧勢力の復旧を目論んだ。矛盾した政治から安倍氏は難病もあって自滅した。自民党は壊れた。そのあとの自民党の政権は、ただ政治主体の管理であり、それなりに福田さんも麻生さんもよくやっていたと思う。
 なによりリーマンショックのさなか、麻生さんはかなりベストに近い仕事をされていたと思った。が、世論は麻生さんを叩きまくった。いちいちくだらないネタだった。これは不当な話であると私は思ったし、この経済状況下で政権交代をすることはよくないと思い、自分なりの論も述べた。残念なことにその大半の予想は当たった。外れたとすれば、ここまで無残に民主党が崩壊するとまでは思わなかったことだ。
 政権交代が近づくにつれ、私から見れば、小沢さんは変わった。何が変わったかといえば、「構造改革」「規制緩和」を口にしなくなった。代わりに、労組の代弁者のような輿石氏と手を組みだした。私には不思議なことに思えた。さらにそのころから、今まで見たこともないような、小沢のシンパがメディアにわき出したのである。
 「構造改革」「規制緩和」を語らなくなった小沢さん。そして、輿石氏と組むやわきあがる小沢シンパ。なんて変な光景なんだろうと思った。
 さて、今日。小沢さんは、民主党を離れた。輿石氏とも離れたのかというと、そこまではよく見えない。
 「構造改革」「規制緩和」を再び語るようになったというふうもない。時事のまとめた要旨ではあるがこう語っている(参照)。

 先月26日に衆院本会議で消費税の増税だけを先行する社会保障と税の一体改革関連法案の採決に際して、反対票を投じた者のうち38人に加え、消費税増税法案に反対の参院議員12人の計50人の離党届を輿石東幹事長に提出した。
 私たちは、衆院採決の際、国民との約束にない消費税増税を先行して強行採決することは許されない、社会保障政策などは棚上げして、実質的に国民との約束を消し去るという民主、自民、公明3党合意は国民への背信行為だと主張してきた。こうしたことから、われわれは「行財政改革、デフレ脱却政策、社会保障政策など増税の前にやるべきことがある」と主張し、反対票を投じた。
 これまで輿石幹事長には今回の法案の撤回を求めて、何よりも民主党が国民との約束を守り、努力するという政権交代の原点に立ち返ることが最善の策であると、訴えてきた。
 本日まで、3党合意を考え直し党内結束するという趣旨の話はなかった。出てくるのは反対した者に対する処分の話ばかりだった。国民との約束を守ろうとする者たちを、国民との約束を棚上げにする者たちが処分するとは、本末転倒な話だ。
 もはや野田佳彦首相の下での民主党は、政権交代を成し遂げた民主党ではない。民主、自民、公明という3大政党が官僚の言うがままに消費税増税の先行を3党合意で押し通すことは、国民から政策を選ぶ権利を奪うことだ。3党合意は、政策の違いを国民に示し国民に政党を選んでもらうという二大政党政治、われわれが目指してきた民主主義を根底から否定するものだ。
 私たちは、国民の生活が第一の政策を国民に示し、国民が政治を選択する権利を何としても確保することこそ、混迷にあるこの国を救い、東日本大震災で被災した方々をはじめ、国民を守る政治家としての使命であるとの決意を新たにした。
 私たちは今後、新党の立ち上げも視野に入れて、政権交代の原点に立ち返り、国民が選択できる政治を構築するために本日、民主党を離党した。

 小沢さんの新しい旗にはなんと書かれているか。「行財政改革」「デフレ脱却政策」「社会保障政策」である。
 「行財政改革」はかつての「構造改革」と同じとしていいだろう。
 「デフレ脱却政策」はまさに現下政治家に求められるものであって、諸手を挙げて賛成したい。かつての「規制緩和」は広義に「デフレ脱却政策」のなかに吸収されたとしてもよいだろう。
 「社会保障政策」については、残念ながら、技術論的に可能な対応の組み合わせは限られていて政策の余地は実際にはあまりない。この部分に突っ込んでも、無残な結果になるだけだろう。
 政策的に問題となるのは、新しい旗である「社会保障政策」は官僚に頼るしかないことだ。ここで稚拙に「官僚制打破」を言い出してもしかたがない。
 昔の小沢さんに少し戻った気がしないでもない。新党を従えて、小沢さんはかつての小沢さんに戻るのだろうか。
 戻らないだろうと私は思っている。
 小党となり政策政党たらんとしたかつての自由党の党首には戻らないだろう。彼にとって政治とは数である。また数を換算しはじめるのではないか。今回、小沢氏に従った大半は速成の愉快な一年生議員であり、民主党を頼んでの比例区からの当選も多い。率直に言って、この部分は早々にふるい落とされる。そしてその数の分だけ、また小沢さんは焦ることになる。そして、数の取れる変な旗を振るのだろうし、「間違えられた男」をまた演じるのだろう。梶山静六さんのように消えていくのだろう。
 小党が乱立し、他方、国会の熟議を無視した密談で翼賛会が形成されていく。こうした図のなかで、政治主体がまず求められるのはしかたがないが、政治がなんであるかという理念の旗が、どこかでまだ見えていて欲しいとは思う。
 オーキド・ユキナリ先生風に、一句。

 夏草や民主党とやらの夢の痕 
 
 

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2012.07.01

「恋愛は性欲とは違って、唯一の相手を求める」と武者小路実篤先生はおっしゃるが

 僕くらいの年になると恋愛とか性欲とか卒業間近になるとも思われている。世間を眺めるとそうでもない。中原棋聖とかもそうでもなかった。みんな、いずれ、人生の卒業まで引きずるのかもしれないが、先日、武者小路実篤の言葉と称するものをツイッターで見かけて、少し考え込んだ。
 武者小路実篤先生といえば、仲良きことは美しきかなというお言葉が、なすときゅうりの絵に、意味深長に添えた色紙が有名だが、他のお言葉も残しているようだ。こういうお言葉だった。


恋愛は性欲とは違って、唯一の相手を求める。性欲だらけなら結婚は不必要だ。性欲は相手を尊敬しない。
武者小路実篤

 武者小路実篤先生が本当にそんなことを言ったのだろうか。武者小路実篤先生の、時代を先取りした喪男ぶりと転じてのご乱行の数々を知っている文学愛好家だと、くっくくく、苦笑で腹痛ぇ、とか言いそうな感じはするけど。
 ググってみると、ばふぉばふぉとこのお言葉が出てくるが正確な出典はわからない。「人生論」かもしれない。武者小路実篤先生の人生論かあ。懐かしい。私も読んだことがあるが、すっかり忘れている。岩波新書の赤版だったと思う。そうみたいだ(参照)。とはいえ、このお言葉の出典を自分で確認したわけではないので、自分としては不確か情報ではある。
 それはそれとして、このお言葉を読んで、これは逆じゃないかと思ったのだった。逆というのは、つまり、こう。

性欲は恋愛とは違って、唯一の相手を求める。恋愛だらけなら結婚は不必要だ。恋愛は相手を尊敬しない。

 どう?
 ふつーじゃね、とか思いませんか。
 恋愛が唯一の相手を求めないのは、これを純粋にモデル化した二次元嫁な人々を見てもそう思いませんか。いや、二次元嫁な人々を馬鹿にすんな、唯一の相手を求めてるんだ、とおっしゃる? おっしゃるとでも?
 恋愛だらけなら結婚は不必要だというのも、すでにご実践されているアラフォーやアラフィフティのおばさまが、ごろごろとサンダーストームのようにいらっしゃるのでは?
 問題があるとすると、恋愛は相手を尊敬しないということか。尊敬すると恋愛に萌えるじゃないですかぁ、とか、おっとそこのキミ、そーゆー意味じゃないよ。恋愛には相手への敬意が込められているかというと、まあ、それはそうなんじゃないかという気はするな。だ・が・な。
 じゃあ、武者小路バージョンのように、「性欲は相手を尊敬しない」かというと、そこが微妙な感じがする。これはつまり、「性欲は恋愛とは違って、唯一の相手を求める」というテーゼとも関係する。
 「性欲は唯一の相手を求める」というのは、自明なんじゃないかと思う。
 問題はこの「唯一性」にある。プラトンの「饗宴」で描かれるエロスのように、より好ましいものは、至上というイデアをもつに違いないからだ。イエス・キリストも、強欲な商人を称えた。天の御国は良い真珠を捜している商人のようなものだ。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は行って持ち物を全部売り払ってそれを買う、と。その欲望が性欲と異なるものでもない。
 そういう意味だと、唯一性というのは、イデアであったり天の御国であったりとして、この浮き世にはありえぬがゆえ、人生は彷徨するばかりと言えないこともない。
 それでも、唯一性が個人の肉体の限界と同値であるなら、肉体を越えるまでは、自己の身体がこの身体一つである限界に見合った、性の「唯一性」に至るのではないか。
 いや、むずかしいこといいたいわけではない。「性欲は唯一の相手を求める」というのは、唯一の相手を求めるときに性欲が開花されるということではないか、と。
 もうちょっと言う、というか、別の視点になる。武者小路バージョンだと、恋愛が精神性、として捉えられているのではないかと思うが、それは逆で、性欲のほうが精神的なもの、もっと言うと、霊的なものではないか。
 こうも言い換えてみたい。恋愛というのは意識の作用である。その起源は意識の外にあり、人は「汝は恋愛している」と意識に告げられてから意識を介して行動する。性欲はむしろその外来の根にある。性欲は自我を越えさせる精神性の起源……そうです、バタイユがヘーゲルを借りてうだうだ議論するあのエロス論ですよ。
 私たちは意識を自分だと思っている。そして意識によって肉体を縁取り、その舞台の上で恋愛とかを演じているが、その本来の姿は、性欲によって肉体を越えていくことにある。私たちは、肉体という唯一性と交換するための唯一性を与えられると信じて生きている。自分とは、つまるところ、この肉体だと思っているからだ。
 ま、めんどくさい話はどうでもいいけど、性欲が唯一の相手を求めるということが真理のようにどかしら直観しているから、恋愛や愛情にいつも嘘くささが付きまとうし、性欲というのをおとしめるようにした人間はその内奥から崩壊してしまう。
 
 

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