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2012.06.06

砂漠の教父と黙想の祈り、改革者としてのアタナシウス

 1960年代以降に再評価される黙想の祈り(Contemplative prayer)は、英国中世の「不可知の雲」を直接的な源流としているが、それに終始することなく、黙想(Contemplation)を重視したキリスト教信仰の形態として古代の「砂漠の教父(Desert Fathers)」も再考されていた。この再考はキリスト教とは何だったのか、という問題を現代に投げかけている。
 「砂漠の教父」に厳格な定義があるのか私は知らない。またこの視点がどのように生まれたかについてもわからない。一般的には、現在のスーダンに面するエジプトで暮らしたアントニウス(Αντώνιος)(251~356)を代表とするように、3世紀を中心としたエジプトの地のキリスト教の教父(Father)を指している。"Father"の訳語には「教父」の他に「師父」もある。現在的な訳語「神父」はない。この時代には現代的なキリスト教の制度がなかったという含みだが、現代のカトリックでも正教でも「神父」は信徒からの慣例的な呼称だから「神父」を充てても間違いとも言えないだろう。「神父」の「神」は日本語の「神(God)」ではなく中国語の「神(sprit)」に由来する。制度的には「司祭」に相当する。カトリックの司祭は原則独身だが正教の司祭は婚姻者もいる。主教は修道僧からなるが慣例なので独身者が多い。"Father"のみならず、女性もいたことやフェミニズムへの配慮から"Desert Fathers and Mothers"と呼ばれることもある。
 現代のカトリックでは「司祭」を束ねるのが「司教(bishop)」である。カトリックでこの最上位に「教皇」を頂く。日本では「法王」の訳語が充てられることもある。正教には制度としての「教皇」は存在しないが、3世紀にはアレクサンドリア主教に「教皇(Papa)」の呼称があり、コプト教は現在もこの呼称を継いでいるため、2012年3月17日シェヌーダ3世の死去を「教皇」として報じるメディアもあった。正教では司教相当の"bishop"に「主教」の訳語を充てる。この上位に総主教を置きさらにコンスタンティノープル総主教に最上の名誉が置かれる。制度的な教皇には相当しない。正教からはカトリックはローマの主教管轄が歴史的に分化したものとし、教義が異なることからローマ教皇は主教とは見なされていない。
 「教皇(Papa)」の呼称が「父」に由来するように、正教の主教も「父」に関連している。「総主教」を意味する"Πατριάρχης(パトリアルヒス)"は"πατήρ" 「父」と"αρχων (archon)"「長」で「父長」である。70人訳聖書では12支族の「族長」の訳語である。
 五大総主教座は692年の通称トゥルーリ公会議で決められたがそれ以前から、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサリム、ローマの総主教座があった。ローマは後、抜ける。権威を争ってのシスマ(分裂)がその契機であり、1054年の大シスマが大きな目安になるが反目の萌芽は古い。ローマ帝国とキリスト教の関係をざっくりと見たい。
 ローマ帝国でキリスト教を認可したとされるコンスタンティヌス1世の治下、313年、現在のトルコのニコメディアで通称ミラノ勅令によってローマ帝国に信教の自由が保証された。自身もキリスト教徒でもあったコンスタンティヌス1世は自分の名を付けたコンスタンティノープルで330年に開都式を行い、ローマの首都と定めた。実際に都として定住したのはテオドシウス1世からで、その治下392年、キリスト教がローマの国教となった。テオドシウス1世は首都コンスタンティノープルを含むローマ帝国の東半分を長男アルカディウスに、西半分を次男ホノリウスに継がせたが、西側の統治は480年に終わった。これによってローマを含む西欧の地域がローマ帝国から分離された。481年には現在のフランスの地域にメロヴィング朝フランク王国の初代国王クロヴィスが即位し、西欧はローマ帝国からはいっそう独立していく。ローマ主教座もローマ帝国の版図からはずれ、その区域会議単独で495年、ゲラシウス1世を「キリストの代理者」とした。キリスト教帝国ローマを外れることで、西欧に実質的な教皇が生まれ、実質上のカトリック教会が誕生した。
 ローマ総主教座が独自性を強めていった背景には政治的な支配のほかに、正典とラテン語の関係がある。新約聖書はギリシア語で書かれていることからも明らかなように初期キリスト教の言語はギリシア語だった。だがカトリックではラテン語を使用し、言語文化的にも分化していった。カトリックの正典のラテン語翻訳であるウルガタ(Vulgata)の新約部分は382年にできた。それ以前からすでにラテン語聖書(Vetus Latina)は存在していたが、ナグ・ハマディ文書のような正典化以前の文書は含まれていない。その意味でも、カトリックは新しい時代、後に述べるアタナシウスによる創作といった側面が強い。


アタナシウスのイコン

 ローマ主教座が分離し単独の方向に進み出す以前、各地古代主教の活動で重要なのは公会議だった。公会議の起源は伝説としては使徒行伝が伝えるエルサレム会議とされている。実際に主教がローマ皇帝によって招集された第一回公会議は325年の第1ニカイア公会議(First Council of Nicaea)である。ここで三一教義が確認され、これを元にするニカイア信条が採択された。事実上、キリスト教が誕生したことになる。同時に三一に反するとしてアリウス派の教義が異端として排斥された。
 そもそも第1ニカイア公会議が開催された理由は、アリウス派の教義の扱いが最大の課題だった。3世紀にはアリウス派の教義が広まりつつあったが、これが正しい教義なのか議論が起きていた。キリスト教が政治の視点からも重視されつつあるローマ帝国にとっても重要な課題になっていた。アリウス派の教義の元になるのは、その名の元にもなる、アレクサンドリアの教父アリウス(Άρειος, Areios)(250~336) に代表される教義である。アリウスは、神とイエス・キリストの関係において、父たる神は唯一の創造主であり、子たるイエス・キリストは同質ではない異質存在(ヘテロウシオス)であるとし、しかしまったくの異質ではないので、類似存在(ホモイウシオス、ὁμοιούσιος)とした。これを問題視したアレクサンドリア主教アタナシウス(後、総主教)(Αθανάσιος)(298~373)は父と子は同質存在(ホモウシオス、 ὁμοούσιος)と主張してアリウス派と争った。
 類似存在(ホモイウシオス)と同質存在(ホモウシオス)は英語のiに相当するギリシア語のイオタ(ι)の有無の違いであるため、些細なことを大げさに大議論する神学論争の比喩として捉えられることもあるが、神学的には決定的な違いになる。アタナシウスの考えからは「御子は被造物でない」とも言えるし「イエスは神である」とも言える。これが三一でもありニカイア信条でも確認された。キリスト教は唯一神宗教と言われるが、その唯一神は父であり子・キリストでもある。これを奇妙な論理だと思う人がその後も絶えないことから、三一を取らずにキリスト教を称する派は絶えない。
 第1ニカイア公会議にはローマ帝国側の政治的な思惑もあった。キリスト教をローマ帝国統一の道具としたいコンスタンティヌス1世としては、暗黙に神に擬される皇帝の唯一性を強調したい。その意味で三一教義の正統性は好ましい。しかし、コンスタンティヌス1世は自身の信仰としては第1ニカイア公会議以後もアリウス派を擁護しており、結果アリウス派の問題は蒸し返された。政治的な謀略などもあるとされるが、335年、コンスタンティヌス1世が招集したティルス会議でアタナシウスは主教を解かれ追放された。この会議は現在のキリスト教主流派からは公会議とはされていない。またコンスタンティヌス1世は337年の死去前に、アリウス派の司教エウセビオス(Ευσέβιος)から洗礼を受けたため、聖人であるのか疑問も残すことになった。
 アタナシウスはコンスタンティヌス1世の死後コンスタンティヌス2世により一旦恩赦となったが、339年、アンティオキア会議でさらに追放となり、西側のローマ主教座の区域に逃げ込み、346年までの7年余をその地で過ごした。追放とはいえ、当地では歓待され、それがきっかけでアタナシウスの教義がむしろローマ主教座で広がるきっかけとなった。アタナシウスは、356年も、ローマ帝国のコンスタンティヌス2世からの迫害を受け、迫害はユリアヌス帝にも継がれ、363年までエジプトの「砂漠の教父」の元に逃げ込むことになった。365年にはアリウス派のウァレンス帝もアタナシウスを追放した。アタナシウスの長い迫害と追放が終わるのは366年だった。
 こうしてみるとアタナシウスの人生は苦難の連続であったかのようにも見えるが、ローマ主教座の区域では歓待され、また現在のエジプト区域の「砂漠の教父」を配下に納めていく過程でもあった。迫害の時代を終え、強大な力を持つようになったアタナシウスは、367年、聖書に含める事実上の「正典」のリストを含めた書簡を記し、また皇帝の命令の形で焚書にすべき書物を布告した。これで正典以外の当時のキリスト教文書は人類から抹消されたかに見えた。
 アタナシウスが主導したニカイア信条は正しいのだろうか? この問題は長く紛糾したため、信条の確認の意味からも、ローマ皇帝テオドシウス1世が381年、第1コンスタンティノポリス公会議を招集し、ニカイア信条の三一教義を維持しつつ拡張したニカイア・コンスタンティノポリス信条を採択した。以降、これが確立したキリスト教の信条となる。つまり、アタナシウスがキリスト教を作り上げたと言える。さらにアタナシウスは事実上、キリストについて証言する書物のどれが聖書なのかも定めた。彼は聖書も作り上げたと言ってよい。
 アタナシウスによる焚書は完全と見られていたが、1600年後に失敗した。ナグ・ハマディ文書として焚書が発見されたのである。これによってアタナシウスが排除しようとした古代キリスト教が逆に暴露されることになった。公会議の経緯からすると、焚書はニカイア信条や三一に反する、アリウス派の文書のようにも思えるかもしれないが、そればかりではなく、異端を排除しヨハネ福音書をあるべき聖書の中心に据えようとしたエイレナイオス(Ειρηναίος)(130~202)の意志を嗣いだ作業だった。
 迫害と追放の繰り返しに見えるアタナシウスの生涯は、彼を守った、まつろわぬ「砂漠の教父」たちを帝国的な仕組みの管理下に置くという後年の目標に利していた。彼はまず修道女から始め、修道士や教父をキリスト教の組織に組み込んでいった。「砂漠の教父」の代表とされるアントニウスも実際のところアタナシウスの著作が生み出した、彼自身に都合のよい新しいモデルでもあった。かくしてアタナシウスによって、信条、正典、管理の組織ができあがり、キリスト教信仰者が勝手な思いから異端に逸脱することを防ぐ強固な仕組みとして、今日のキリスト教の原形ができあがった。

 アタナシウスは、キリスト教信者が聖書を読む際に、ディアノイア(διάνοια)を強調した。ディアノイアは理性による処理とも言える。アタナシウスの定めた聖書はそのテキストに内在する意味と意図を見分ける能力を理性を通して読まなければならない。これは霊的な直観であるエピノイア(ἐπίνοια)を排除するものでもあった。そうでなければ危険なことになるという含みもあっただろう。
 アタナシウスの改革を「砂漠の教父」たちの「黙想の祈り」という点から見れば、黙想が導くエピノイアに対して、ディアノイアによる歯止めをかけるこということになる。黙想(Comtemplation)が、後、ベネディクト会が推進するレクチィオ・デヴィナ(Lectio Divina)の一過程に収まったことは、アタナシウスの意図を受けつつも、かろうじてエピノイアを残すための仕組みだったとも言えるだろう。
 
 

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