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2012.06.13

[書評]詩篇を歌う(シンシア・ブジョー)

 何かを自習するための教本でこんなに楽しいのは久しぶりだなとシンシア・ブジョー(Cynthia Bougeault)の「詩篇を歌う(Chanting the Psalms)」(参照)を読んだ。

cover
Chanting the Psalms
Cynthia Bougeault
 内容は簡素なタイトルが示すように聖書(旧約聖書)の詩篇を朗詠するための基礎知識や簡素化された技法、さらに現代的な朗詠や歌唱化の手法を扱っている。グレゴリアン・チャントの基本も説明されている。翻訳はないようだが平易な英語だし、読んだだけではわかりにくい部分は添付のCDで聞くことができる。記載されている楽譜も最小限だ。著者ブジョーは、耳で聞いて覚えなさい、耳を信頼しなさいと、鈴木メソッドの例で教示している。
 こういう本で詩篇や英詩の朗詠について若いときに勉強できたらよかったのに、と読後悔みもしたが、著者ブジョーが提示するこの新しい詩篇朗詠の動向は1990年代以降に生じたらしく、この簡素な朗詠法はそれほど広く定着してはいない。それでも本書やその他のメディアから彼女の提言で啓発された人も少なくない。聖なる詩句の朗詠を生活に組み入れて人生が変わっていくことは理解できる。そもそも詩篇が現代的に生き返るというのも驚きでもあった。
 知りたいと思っていたのに知らなかったことも本書にいっぱい書かれていた。単純なところでは、なぜ詩篇がそれほど重視されているのか。私が人生で最初に購入した聖書は新約のみの文庫本サイズで、その後トルコやギリシャを旅行するとき携帯したものだが、これに詩篇が付いていた。なぜ新約聖書に詩篇がついているのかと少年時代から疑問に思っていた。詩篇が重要であるということは知的にはそれなりに理解できる。イエス・キリストを含め新約聖書に描かれる人々にとって詩篇は、私たち日本人にとっての童謡や唱歌のように常識を形成しているからだ。イエス・キリストが十字架にあって「わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまいし」と叫んだとしても、これが絶望ではないことは詩篇を読んでいたら普通にわかる。だが、詩篇の重要性が十分に腑に落ちるというふうでもなかった。
 修道院でもプロテスタントの集会でもよく詩篇が朗詠されているもの知っているが、すっきりと理解したわけでなかった。詩篇の詩の韻律や語句を調整して讃美歌に収録されているのも知っている。逆になぜ詩篇をそのままの形で歌うのだろうか疑問に思っていた。讃美歌を増やしたり、新しい歌集を作ってもよいのではないか。そうした疑問の大半は本書で氷解した。
 詩篇(Psalm)が西欧ではサルター(Psalter)として独立書籍として愛用されていることもわかった。少年の私が愛用した新約聖書はサルター付きだったのだ。聖公会祈祷書(The Book of Common Prayer)がサルター(Psalter)を内包していることも知らなかった(聖公会のガールフレンドがいたのに)。あれはただの祈祷書だと思っていたのである。たしかによい意味でただの祈祷書ではあるのだが、サルターを含んでいることも知らないで英文学とか学んでいたのかと無知に恥じ入る。本書でいろいろと「ああ、そういうことだったのか」と腑に落ちた(失恋についてはそうでもない)。
 本書は三部構成で、一部では現代的でかつ実践的な視点から詩篇と朗詠が概説されている。現代人の感覚からすると古代のユダヤ教の詩には共感しづらい残酷性もあり、そうした側面についてもていねいに対応されている。具体的には信仰として受け取り直すことや、現代的な新翻訳を選ぶことが勧められている。そうしたニーズから新しく現代的なサルターも出版され、人気を得ていることも知った。しかし詩篇を朗詠するという場合、現代的な新訳は内容的には理解しやすく啓発的でも、音楽的に朗詠しやすいかというと、むずかしい。理解をとるか韻律の音楽性をとるか。カトリックの新訳詩篇はバランスがよいとの指摘もあったが、ベストな解答はなさそうだ。
 二部では添付のCDへの参照を含めながら、朗詠の実習が中心になる。いわゆる教本的な部分である。驚いたのは朗詠の基本原理だった。最初に提示されるのは、単音による朗詠。これに句末の音階上げと下げが追加される。著者ブジョーはこの簡素な操作だけでも詩篇が全部朗詠できますよという。なるほどと思った。そしてこれを基本に句末に英国風の音階的な修飾を加えたり、句内に音階的な変化の導入する手法が説明されていく。説明が上手で読みながら目から鱗が落ちる。朗詠向けに基本的な音階フレーズのレパートリーもあるといいとする勧めも頷ける。そういえば讃美歌集の巻末のほうに朗詠の楽譜あったことを思い出した。これは今まで歌ったことはなかった。
 二部の後半ではグレゴリアン・チャントの記法の読み方も説明されている。基本は一通り説明されているがそのままグレゴリアン・チャントを習得しましょうという話ではなく、あくまで朗詠の全体像のなかで示されている。そうした全体像でさらに重要なのは、アンティフォン(antiphon)である。ここでも「こんなことも今まで知らないでいたのか自分は」と悔やんだ。つねづね疑問だったことに、ずばりの解答が存在していた。
 日本語でアンティフォンをなんと呼ぶのか知らない。字引には「交唱歌」とある。掛け合って歌うというイメージになりやすい。たしかに原義はギリシャ語のαντιφωναで、αντιが「対となる」φωνα「音」から二組の合唱隊として組織されることもあるが、歌唱としての意味は取りづらい。著者ブジョーはこれをサンドイッチのパンとして説明している。朗詠の前後から挟む短い歌ということだ。詩篇の詩の朗詠がメインのコンテンツで、これにオープニング曲とエンディング曲が付くといった感じである。
 詩篇の朗読には短いオープニング曲とエンディング曲が付く。言われてみればそうだと理解してさらに、これが聖務日課(Divine Office)を構成するというとき、目から瓦が落ちました。言われてみれば当たり前なのだけど、正教やカトリックを頭で理解し、そしてその音楽を芸術として堪能してきた自分は、かくまで無知であった。著者ブジョーは、詩篇を歌うということは、自分の聖務日課を持つことだとしている。当たり前といえば当たり前だが、そうした精神性のなかで詩篇をきちんと捉えることは重要である。さらに儀礼化した聖務日課をクリエイティブに作り替えていくという発想にも驚いた。驚きの連続の一つは、テゼの歌はアンティフォンですよという指摘だった。まさにそのとおり。テゼに示されるアンティフォンのような短く美しい聖句は、それだけで黙想の祈りともなる。
 第三部ではテゼを含め、いくつか創造的な適用(Creative Applications)が議論されていく。詩篇を歌う各種アプローチから生み出される美しい歌に感動する。これからいろいろ聞きたい分野が増えてきたと嬉しく思えた。
 添付されたCDを聞きブジョーの解説を読んでいくうちに、間接的にだろうが、グレゴリアン・チャントやテゼの歌への感性が変わってきた。本書の直接的な内容ではないのに、自分の持っている正教のCD(ギリシャとかで購入してた)やグルジェフの曲やヒルデガルドの曲への感性が変わる。拡張してく感じだ。自分の内面に今までとは違った音楽の感性が生まれている。嬉しい。若い日にいろいろなことを学んだときの驚きの感覚がよみがえってきた。
 
 

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コメント

とても面白かったです。啓発、刺激を受けました。いつか詩篇をじっくり読みたいと思っていたので、これを契機に触れてみたいと思います。

投稿: ボンボン太郎 | 2012.06.14 07:28

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