ジュネーブ詩篇本について
一連の詩篇関連の話としてジュネーブ詩篇本(サルター)(Genevan Psalter)について触れておきたい。
プロテスタントの形成に大きく寄与し、またマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でも重視されているカルヴァニズムの原点、神学者ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)(1509-1564)は、独自のサルター(詩篇本)も作成していた。ブジョーの「詩篇を歌う」(参照)で詩篇朗詠は聖務日課(Divine Office)の基礎となるとの指摘があったが、カルヴァンも新しい自派の信仰集団に聖務日課のような儀礼を組み込みたかったのがサルター編纂の目的だった。カルヴァンというと質素で儀礼を排するかに理解されることが多いが、詩篇朗詠を信仰生活の基軸にするベネディクト修道院的なコミュニティへの志向もあった。
簡単にカルヴァンについておさらいしておく。カルヴァンはフランク王国時代の1509年、ピカルディ地方ノワイヨンで公証人役人の子供として生まれ、少年時代に教会の庇護を受け、青年期にパリに出てラテン語を学び、さらにオルレアンやブルージュの大学で法学を学んで弁護士となった。最初から神学を志向したわけではなく、当時の進歩的なルネッサンス的な知の圏内の人文学者であった。二十代前半でありながら1532年、セネカの「寛容について(De Clementia)」の注釈書を出版するほど早熟の秀才でもあった。変化は翌1533年に訪れる。彼を宗教者と変える、神秘とも言える体験をした。後に彼はその体験の意味を詩篇解説のなかで語られることになるように、それは詩篇的な情感を伴っていたものだった。

ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)
カルヴァンの回心は彼を取り巻く環境の影響もあっただろう。ルターによる「95か条の論題」(1517)の影響からフランク王国でも1534年に、パリやオルレアンなどの公衆でカトリック批判文書が貼られた。檄文事件(affaire des placards)と呼ばれる事件である。カルヴァンはこの事件のとばっちりを受けて国外に亡命した。この時点でカルヴァンがカトリックに対立する信仰をどの程度もっていたのかはよくわからないが、2年後、1536年には亡命先のスイスのバーゼルでラテン語による神学書「キリスト教綱要(Christianae Religionis Institutio))」を出版し、新しい神学を確立して、一躍欧州の著名人になった。カルヴァンにしてみるとこれも最初はまだ20代の作品だったが、そ後の神学論争を反映して改訂につぐ改訂で最終的な版は1559年になった。この「キリスト教綱要」でもカルヴァンは詩篇朗詠の重要性を説いている。
カルバンの神学は「キリスト教綱要」に表現されているとも言えるが、その神学が後のカルヴァニズムと言えるかについては議論が残る。一般的にはカルヴァニズムは、1618年のドルトレヒト会議で定めれたドルト信仰基準(Canons of Dort)として、(1)全体的な堕落(Total depravity)(2)無条件の選び(Unconditional election)(3)限定的な贖罪(Limited atonement)、(4)拒否できぬ恩恵(Irresistible grace)、(5)聖別者の忍耐(Perseverance of the saints)の5つ、頭文字を取ってTULIPとされている。
「キリスト教綱要」出版後カルヴァンは、イタリア、そしてスイスのバーゼルからジュネーブと流浪した。ジュネーブ市では市の独立に合わせてキリスト教の改革に乗り出したが失敗して追放された。その後1538年、フランスのストラスブールで当地で盛んだった詩篇朗詠の影響を受け、カルヴァン自身も詩篇翻訳に乗り出し、1539年に最初のジュネーブ・サルターが出版された(これには後述するマロ訳も含まれている)。
ストラスブールでカルヴァンは後家さんを世話してもらって結婚した(式は挙げていない)。1541年、追放されたジュネーヴ市ではあったが、同市に残る支持派が盛り返し、カルバンが招聘された。以降彼はジュネーブの地に終生落ち着き、為政者として神権政治を展開し、意にそぐわない者は火あぶりにした。ジュネーブのカルヴァンによるコミュニティの影響からカルヴァン派と呼ばれるプロテスタント派が生まれた。
ジュネーブ・サルターの編纂史で重要なのは、1541年、フランスの詩人クレマン・マロ(Clément Marot)(1496年-1544)が、詩篇の詩50編をフランス語で翻訳して出版し、当時としては大ベストセラーとなったことだ。宮廷貴族から庶民までマロ訳詩篇を朗詠するようになった。マロ訳詩篇は出版以前からかなり流布されていて、最初のジュネーブ・サルターにも収録されていた。
詩篇の翻訳は以前からあるのに、なぜこれほどまでマロ訳詩篇が大ブームになったかというと、それが韻文だったためである。詩篇の詩は元のヘブライ語では韻文であるが、ギリシア語やラテン語に訳された時点で散文化され、さらに他の言語への展開も散文になった。マロ訳はこれをあえて韻文として訳出しため朗詠しやく、しかもメロディが載りやすいので歌唱しやすくもなっていた。このマロ訳韻文詩篇の流行は、当時のフランスのプロテスタントの活動の原動力ともなり、むしろカルバンはこの韻文聖書朗詠の熱気を受け取った側にいた。
ところでマロがなぜ詩篇を韻文に訳したのかだが、信仰上の理由ではなかった。これこそまさにルネサンスという文芸活動だろう。マロ自身、父親が詩人であり当時の人文学を学んでいた。こうした背景や活動のせいで、マロは1534年の檄文事件でも影響を受け、各地を逃げ回ることにもなった。
マロ訳韻文詩篇の人気は、当時の神学者の嫉妬の対象でもあり、またプロテスタントへの普及も苦々しく思われていたため迫害され、1541年、マロはカルヴァンを頼ってジュネーブに逃げ込んだ。カルヴァンはマロの詩篇訳を好み、自身の詩篇訳を断念したほどだが、両者はほどなく断裂し、マロはジュネーブも追われイタリアに逃げ込み、1544年、トリノで客死した。
マロによる詩篇の韻文訳は詩篇全体ではないため、カルヴァンはこれを全150編分完遂しようとして、自家詩集を出したこともある神学者テオドール・ド・ベーズ(Théodore de Bèze)(1519-1605)に韻文訳を依頼した。詩篇全体の韻文訳がジュネーブ・サルターとして完成したのは1562年で、カルヴァンが54歳で死去する2年前であった。なお、カルヴァン死去後、ベーズはその権力を引き継ぐことになる。
ジュネーブ・サルターは、マロの時代からメロディを付けられて歌われてきた。1562年の完成版はグレゴリアン・チャントと同じ記法のメロディも付与されて、事実上、現在の讃美歌集の原形になっている。このことは逆に現代の讃美歌にもその影響を残した。手元の讃美歌集を開くと、メロディは違うが、1番「礼拝 賛美」には"Geneva 1551"とあり、ジュネーブ・サルターが起源となっていることがわかる。
ジュネーブ・サルターの全体の日本語版は2006年に「日本語による150のジュネーブ詩編歌」(参照)として出版されている。英語版については"Genevan Psalter Resource Center"(参照)で無料で配布されている。これらは、フランス語からさらに近年英訳した歌詞に当時のメロディが充てられている。実際に歌われている音楽ファイルも無料で配布されているので聞いてみると、いかにもルネッサンスらしい雰囲気が感じられる。
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コメント
元のヘブライ語原典が韻文なのに、ギリシャ語訳やラテン語訳が散文にされたというのが、理解に苦しむんですよ。
鳩摩羅什漢訳仏典なんか、長行の部分だって、実質的に韻文です。漢訳の韻律は、四声までは計算に入れていないだろうけれど、もしかしたら、サンスクリット原典より見事なくらいかもしれません。
そういうことを考えると、中世(12世紀から13世紀)のアヴィケンナやアヴェロエスのアリストテレス研究書のアラビア語からラテン語への翻訳事業も、アヴィケンナやアヴェロエスの真意を損なうような、ごつい荒っぽい翻訳だったのかなあと思います。
インド人は、非常に文化が高くて、中国人は(もちろん朝鮮人も日本人もベトナム人も)、インド人のすぐれた指導を受けることができて、それに比べるとヨーロッパ人は、意識のあり方が野蛮なのかなあ。そのあたり、東洋と西洋の最大の違いかもしれないですね。韻文の精神と散文の精神という点。今に至るまで影響が連なっているんじゃないでしょうか。日本は現代でも俳句人口が多いですからね。
そういうことを考えると、西洋史におけるゲーテの特筆すべき偉大さというのもわかる気がします。ドイツ人なんて、一番、美しい韻律に乏しい散文的な言語を使用する民族ですからね。ドイツの言語の本音と本質をよく伝えているのが、カントやヘーゲルの著書の読みにくい文体なんだと思います。ゲーテは、きっと特殊なドイツ人ですね。いまでも。
投稿: enneagram | 2012.06.17 06:53