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2012.06.04

黙想の祈りとテオリア

 黙想の祈り(Contemplative prayer)に関連する本を読み考えながら、ぼんやりと見えてきたものがある。気にかかっているうちにブログにメモしておこうかと思う。思うままに書くのであまりまとまったものにはならないだろうが。
 黙想(Contemplation)とは何か? なぜそれがキリスト教において意味があるのか? 疑問の答えとは言えないまでも、いくつか書籍を読みながらぼんやりとした形が見えてきた。逆に言うと、なぜこの疑問がこれまで自分にとって、うまく浮かび上がってこなかったか?としてもよい。それは自分が接したキリスト教からは、そもそも見えづらいものだった。私と限らず近代が結果的に覆い隠してしまった面もある。
 私自身を例にすると、接触したキリスト教には三つの面があった。一つは日本の近代化や敗戦に伴うプロテスタンティズムである。この伝統こそ黙想の祈りを覆い隠してしまうことが多い。クエーカー教徒のような例外はあるが、その集会・教会に黙想は組み込まれていないし奨励もされていない。そこでは祈りとは、なにか願いを唱えたり、唱和することと理解されている。この伝統ではラテン語・ギリシア語を基本とした聖句の祈りも薄れ、チャント(朗詠)も近代的な讃美歌に変化している。私はプロテスタンティズム的な側面から森有正や山本七平などによる著作にも関心を持ち、さらにそこから聖書学や新約学や神学にも関心を移したが、これらはまさに近代の装置として黙想や典礼を覆ってしまっていた。二つめは、ドストエフスキーから垣間見た正教がある。自分がキリスト教と関わりを持つきっかけはその文学でもあり、この面は大きな影響をもった。だがその割に具体的にその実践に触れることはなく(魚を好んで食うことはあるが)、文学から見る正教の知識も断片的にならざるをえない。三つめは一時期深く傾倒した文学者・遠藤周作と神父・井上洋治から見るカトリシズムがある。これらは日本とキリスト教の土着性や歴史の問題、また青春期の恋愛や性の問題の倫理に噛み合っていた。カトリシズムとしての本流やその信仰の生活性には触れることはなかった。
 これらの三つの面は分裂しうあう部分を持ち、特にもっとも傾倒したプロテスタンティズムとその脱神話化的な部分へは他二面を排除しつつ強く愛憎を持つことになってしまった。結局のところ、キリスト教と言っても信仰を持ち得そうにない私は、文献学的・科学的なアプローチに収まった。こうした傾向はシンシア・ブジョー(Cynthia Bourgeault)などの本を読むと、しかし私だけに特有ということでもなく、広義に20世紀のキリスト教全般に問われる傾向でもあり、また東洋の精神性に接した現代キリスト教の反作用地点でもあった。
 基本的にキリスト教というとき、近代では聖書が万人に読まれるというメディア革命を経て結果的にプロテスタンティズムを生み出すが、これは同時に聖書イコール始原という幻想でもあり、そこからは主観解釈による雑多な信仰形態を排出せざるをえない。ところが聖書自体は史的には信条からの逆の構成とも言えるものであり、三一信仰が典型的だが信条の側にむしろ宗教としてのキリスト教が存在する。これはどういうことかといえば、ごく単純には七十人訳聖書からフィロンの哲学を経て生まれてきたものであり、信条が逆に諸聖書を排して正典を作り出した。ナグ・ハマディ文書などが排除されて正典の聖書となったわけである。その意味で聖典化や信条成立以前のフィロン哲学から初期教父への変遷の部分に宗教としてのキリスト教の原初の核があるのだが、そこは同時に祈りなどもその時代の儀礼として含まれていた。そこにキリスト教の黙想の祈りの根がある。
 とはいえ黙想の祈りは正典・共観福音書にも十分見られる。なにより黙想の祈りは「主の祈り」そのものであると言ってもよいからだ。福音書の引用は省略するが、「主の祈り」は、異教徒のようにくだくだ祈るなという、「祈るな」という逆説として示されたものであり、またその祈りの志向は隠れて祈ることが基本であった。誰も知られずに祈るということは、典礼が否定されているという逆説をも孕む。その意味では、キリスト教の祈りは、個人の密かなる黙想の祈りが原形であり、それが「主の祈り」からまたイエス自身も暗唱されたようにユダヤ教において典礼化していた詩編の祈りが補う形になっていた。当然、黙想の祈りが初期教父たちの信仰生活の核をなしていた。個人としては黙想の祈り、また集団としては詩編のような祈りである。信仰の実践は方法論としてレクチオ・デヴィナ(Lectio Divina)として定着し、聖句を経て個人の祈りに接合する典礼的な祈りして定着した。この伝統が積み重なり正教に残るフィロカリア(Philokalia)ができた。

 1960年以降にジョン・メイン(John Main)やトーマス・キーティング(Thomas Keating)が再発見する黙想の祈りは、中世の「不可知の雲」(参照)に直接的な源泉を求めるものだが、「不可知の雲」における黙想は、すでに初期教父たちの黙想の祈りよりも、その簡素な形態からして、現在のカトリックに残る射祷(短い祈り句)からの変形に見える。むしろ射祷はフィロカリアとの接点を残すものだろう。
 ここで初期教父たちにとっての黙想の祈りを考えたいのだが、教父たちがレクチオ・デヴィナに適合する射祷的な黙想の祈りの聖句にまとめる以前、キリスト教とは別にヘレニズム世界に黙想の伝統があったのではないか? これは異教の存在を暗示するというのではなく、ヘレニズムの精神性そのもの原形ではなかったか。そのように考えるのは、黙想をレクチオ・デヴィナの四過程、Lectio(read、読む)、Meditatio(meditate、思う)、Oratio(pray、祈る)、Contemplatio(contemplate、黙想する)で見るとき、二過程目のMeditatioはいわゆるメディテーションではなく「熟考し理解する」と理解してよく、黙想であるContemplatio(contemplate)が祈りのOratio(pray)の後に来る理由はわかりづらいからだ。この修行の過程は、聖句を読み、理解を深め、聖霊に祈り、黙想するということだが、黙想が祈りに次ぐのは、祈りの対象となる聖霊の働きを前提とするからだ。これはいったいどういうことなのか?
 まさにこの問題を黙想していたら、当たり前のことに気がついた。Contemplatio(contemplate)というのは、テオリア(θεωρία, Theoria)なのである。つまり、実在(reality)を観照することであり、実在(真理)を認識するという意味でギリシア哲学の根幹をなすものだ。そして実在とは「原初」としてのアルケー(αρχη)であり、フィロン哲学の時代にはプラトンを経て「イデア」(ιδέα, idea)ともなるものであり、アルケーはまたロゴス(λόγος)である。よって、ロゴスゆえにイエス・キリストそのものであると言える。黙想(Contemplatio)とは、ギリシア・ヘレニズム哲学の根幹のテオリアであり、初期教父にとってはテオリアによって観照することで、ロゴスとしてのイエス・キリストという神の実在(真理)を知る道でもあった。余談だが、テオリアは英語のTheory(理論)やTheater(劇場)の語源でもある。
 このテオリアの「観想的生活」"contemplative life"に対して、英語で"active life"とされることがある「実生活」は、ギリシア哲学ではアリストレスがまとめたように、「実践」のプラクシス(πραξις, practice)によるものだ。対比していうなら、プラクシスが感覚的世界の活動であり、テオリアが超感覚的・形而上的な世界の活動である。実在・真理・神はテオリアを通して知られる。このテオリアのために必要なのが、日常生活から離れたスコレー(σχολή)つまり「余暇」であり、このスコレーが技法としてのスコラ学(Scolaticus)になっていく。なお、アリストレスは、プラクシスを人間の生活様式に関わる倫理・政治の領域として、これに対して存在を生み出す生産の領域をポイエーシス(ποιησιs)としての「制作」とする。芸術もポイエーシスである。
 テオリアに戻ると、テオリアの能力がヌース(νους)「理性」である。アナクサゴラスはヌースを「世界の心性」とし、また新プラトン主義のプロティノスはこれをテオリアの中心に置き、認識のありかたは唯一者(神)の流出(Emanation)として捉えた。その意味では、黙想の祈りは、神の流出・延長としての存在の直覚ということにもなる。
 中世の「不可知の雲」では黙想において、知られざる神の雲のなかに祈祷者が取り込まれるとした。レクチオ・デヴィナのような聖句から祈りを経る階梯は軽視されているようにも見えるが、むしろ聖句を理解し祈る過程において、言葉を離れ神の導きで不可知の雲に取り込まれるという点では、あえて黙想に焦点を置いたと理解できる。
 黙想をレクチオ・デヴィナの伝統に納めるのであれ、不可知の雲のように言葉を排していく黙想とするのであれ、祈りの「心」を経て人の言葉を離れていくことが重要とされる。それをより現代的な意味でいうなら、黙想やテオリアによる真実在の直覚というよりも、沈黙に向き合うということになるだろう。
 
 

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コメント

一連のキリスト教と黙想のおはなし、興味深く拝読しました。
ジョン・メイン・セミナーでダライ・ラマが講義した時の本(The Good Heart「ダライ・ラマ、イエスを語る」)を読んで「キリスト教徒から見た黙想についても知りたい」と思っていたので、ありがたかったです。

難解な神学はとても私の手には負えませんが、「霊性」の捉え方は東西でずいぶん違うものだな、と思い、面白かったです。ありがとうございました。

投稿: nick | 2012.06.04 22:10

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