詩篇と関連した神名などについて
シンシア・ブジョーの「詩篇を歌う」(参照)を読みながら、聖書の詩篇についていろいろ考えた。心に残っているうちに一部をメモしておきたい。
ブジョーの本はよく書けているが、意図的かはわからないにせよ関連しているはずなのに抜け落ちたかに見える話題もある。一つはプロテスタントと詩篇の関わりである。これは別途扱いたい。もう一つは、砂漠の教父たち黙想をカッシアヌスやベネディクトゥスに結びつけていく説明は見事だが、おそらく砂漠の教父たちの信仰にはそれ自体に独立した形式を伴った朗詠が含まれていたことだ。砂漠の教父たちのチャンティングは実際にはどのようなものだったか。
砂漠の教父たちの朗詠の原形の一端は、おそらくイエス・キリストも服しただろうユダヤ教の儀礼があるだろうが、それだけではなく、現代のコプト教会やエチオピア教会に残る、呻るようなチャンティングもあったのではないか。これらは、聴き方にもよるが日本の木曽節のような感じで浪々と呻る。
呻り上げる吟詠はコンスタンチノープル主教座のチャンティングにも残っていて、響きの印象としてはクルアーンの朗詠ともつながっている。これらは砂漠の教父たちの朗詠に起源を持つものではないだろうか。
砂漠の教父たちの朗詠とクルアーンの朗詠について考えつつ、たまたまアメリカ標準訳聖書(ASV: American Standard Version)の詩篇を読んでいたとき、神名"Jehovah"につまづいた。神名の記載は知ってはいたが実際にチャンティングしようとしたら、神名は奇妙にきつく感じられた。「この感じはクルアーンに近い」とも思った。詩篇もそのまま神名で朗詠し、しかも木曽節風の砂漠の教父のうなり声で朗詠すると、印象としてはクルアーンに似てくるだろう。
言うまでもないことだが、ユダヤ教では、砂漠の教父の時代にすでに神名"יהוה"は音読されてはいない。だとすると当時のユダヤ教徒はそもそも詩篇の朗読もできないではないか、ということになりそうだが、朗詠の際には、"אדני"(アドーナイ)を充てていた。アドーナイの意味は「主」である。朗詠には七十人訳聖書のコイネ・ギリシア語に拠っただろう砂漠の教父たちも、"אדני"から訳された"Κύριος"(キュリオス)、つまり「主」を使っていた。呼格は"κύριε"(主よ!)である。
神名が朗詠のなかで露出することは、原始キリスト教にも砂漠の教父たちにもない。その点からすると神名が強調されることはクルアーンの特異性のように思えるが、その神名"الله"は、アラビア語を使う非カルケドン派の地域では旧約聖書の"אדני"(アドーナイ)の代わりに利用されていた。つまりその伝統では"الله"は"יהוה"を指していた。旧約聖書を基礎としているクルアーンの内容からもその同一性は理解できる。別の言い方をすると、"الله"が神名として朗詠のなかで意識されるときにクルアーンが成立したと言えるかもしれない。
話をASVと神名に戻す。なぜ近代になって、ここに神名"Jehovah"が露出したのか。あらためて考えると奇妙な感じがする。これも言うまでもないことだが、欽定訳聖書(KJV: The King James Version, AV: Authorized Version)には神名はなく、詩篇をサルターとして含む聖公会祈祷書にも出てこない。ラテン語のウルガタにも神名はなく("Dominus"である)、それを引くカトリックの聖書にも神名は出てこない。なのになぜASVに出てくるのか。あらためて調べると、KJVに神名はなんどか出ていたことを確認した。ティンダル聖書の影響もあるのだろうが、このあたりはむずかしくまた別の機会に調べたい。
ASVの元になる英国側の改訂訳聖書(RV: Revised Version)はどうかと見ると、やはり神名"Jehovah"は出てくる。しかし私が英訳聖書として使っていた改訂標準訳聖書(RSV: Revised Standard Version)になると神名は消え、大文字の"LORD"が充てられている。RVの旧約聖書が1884年、またASVが1901年だが、RSVは1951年であり、アドーナイの読み換えを継いで"LORD"が復元するまでに半世紀の開きがある。
日本語の聖書はどうか。私が使っていた日本語の聖書、通称口語訳はRSVの翻訳方針を元にしたもので、旧約部分は1955年にできた。私が生まれる2年前になる。口語訳の翻訳作業では、昨年97歳で亡くなったユージン・ナイダ(Eugene Nida)博士が尽力された。私はそのお弟子さんから翻訳と聖書を学んだので懐かしい。話を戻すと、それゆえ通称大正訳ではその当時の英米圏の主流である神名「エホバ」が含まれているが、戦後の口語訳では「主」に戻されている。
なぜ「エホバ」なのか。この読みは、母音を含まない表記のヘブライ語の神名"יהוה"に"אדני"(アドナイ)の母音を当てはめて近い音にしたものとされているが、厳密にはわからない。
衒学的な話のようになってきたが、詩篇を朗読するとき、神名の直接性は非常に大きいとあらためて痛感した。そしてこれをキリスト教徒が"LORD"または「主」として朗詠するとなると、当然ながら、父なる神と子なるイエス・キリストの差はなくなることになる。つまり、ごく素朴なレベルで三一教義が保証されないと、詩篇の朗詠すらできない。もちろん、こうした問題を非三一的に回避するには、ASVのように神名を詩篇に押し込めて読むしかない。三一教義を避ける「ものみの塔」の人たちはRSVや口語訳聖書を使うことができないので、1982年になってようやく神名を保持する新世界訳ができたときは嬉しかったようだ。それまでは大正訳を使わざるをえなかった。
これでこの話はおしまいという雰囲気だが、英語やラテン語、またはギリシア語あるいは原典であるヘブライ語で詩篇を朗詠するなら以上で整理が付くといえば付くのだが、日本語で聖書を朗詠するとなると、日本語独自の問題が生じる。口語訳聖書の詩篇は、まさに戦後詩といったもので朗詠に適さないのである。個人的な感性もあるだろうが、讃美歌と同様、文語でないと様にならない。神名が露出している大正訳で「主」と読み替えてもいいのだろうけど、まいったなあ。みなさん、どうしてるんだろうと思う。「みなさん」って誰?
きちんとした典礼を持つカトリックはどうしているのだろうか? いいもん、もってるんじゃないかともちらと思った。ラテン語のままかな、とかも思ったとき、おっと、第2バチカン公会議(1962-1965)で、ミサなど典礼はその地の母国語になったのだった思い出した。
聖公会の祈祷書はどうかとこれもちょっと調べてみると、口語化されているようだ。それなら戦前の聖公会の祈祷書を探せばよい。立教大学にいけばありそうだ。さて、そこまでしてと、ふと、他に日本の正教にあるんじゃないかと試しにネットを探したら、あった! 正教会訳旧約新約聖書というサイトの「旧約・聖詠(PDF)」(参照)。これは格調高い。
第四十五聖詠神は我等の避所なり、能力なり、
患難の時には速なる佑助なり、故に地は動き、山は海の心に移るとも、
我等懼れざらん。其水は號り激くべし、
其濤たつに依りて山は震ふべし。河の流れは神の邑、
至上者の聖なる住所を樂ましむ。神は其中に在り、其れ撼かざらん、
神は早朝より之を佑けん。諸民は騒ぎ、諸國は撼けり。
至上者一たび聲を出せば地は融けたり。萬軍の主は我等と偕にす、
イアコフの神は我等を護る者なり。來りて主の爲しし事、
其地に行ひし掃滅を視よ、彼は地の極まで戰を息めて、弓を折り、
矛を折き、火を以て兵車を焚けり。爾等止りて、我の神なるを識れ、
我諸民の中に崇められん。萬軍の主は我等と偕にす、
イアコフの神は我等を護る者なり。
オバマさんの詩篇朗読はチャンティングではないし格調という点でもどうかと思うが、この詩の強烈な雰囲気はよく表現されている。ああ、米国!
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コメント
次のエントリーに出て来る「日本語による150のジュネーブ詩編歌」の主な翻訳者は、新改訳聖書の翻訳に関わった牧師です。
又聞きなのですが、彼は大正改訳の旧約版(もちろん実現しなかったものですが)を持っていて、詩編歌の翻訳に参照したのだそうです。
あり得る話だなと聞いておりました。
日本聖書協会も日本聖書刊行会も新しい日本語訳に取り組んでますが、朗唱を考慮した詩編の翻訳まで思いが回るとはおもえません。
投稿: bow-who | 2012.06.17 03:47
KING JAMES BIBLE: PURE CAMBRIDGE EDITION(1900)
では4回JEHOVAHが出現します。
http://www.biblestudytools.com/search/?q=jehovah&c=&t=kjva&ps=10&s=Bibles
投稿: 通りすがり | 2012.08.08 12:46