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2012.06.11

砂漠の教父とコプト教会

 砂漠の教父(Desert Fathers)とコプト教会の関係が気になるので、自分なりに少し整理しておきたい。
 先日のエントリー「砂漠の教父と黙想の祈り、改革者としてのアタナシウス」(参照)で砂漠の教父に言及した。背景の基本構図としては、ローマ帝国の遷都に伴い、ローマ帝国がキリスト教帝国となり、帝国西部崩壊でローマ主教座が独立・分離する以外は、各地の総主教座はコンスタンチノープルの主教座を名誉的な頂点として統合された。現在のエジプトに居住していた砂漠の教父らも基本的にはこの構図から、アレクサンドリア総主教座に以降、納まることになった。だが、砂漠の教父とアレクサンドリア総主教座と後のコプト教会の三者の関係は、現在のキリスト教史観からはわかりづらい。この領域は、正教でもプロテスタントでもカトリックでもないためだろう。
 コプト教会は東方諸教会の「非カルケドン派」と呼ばれることがある。451年のカルケドン会議を公会議として承認しない派という意味である。「非カルケドン派」はコンスタンチノープル主教座を頂点とするキリスト教ローマ帝国からは逸脱したことになり、また「非カルケドン派」を継ぐコプト教会も正教会から分離したことになっている。しかし、この分離は歴史学的には、カトリックの分離のようなシスマとしては理解されていないし、実際のところシスマ、特に大シスマは、1054年とずっと後のことになる。「非カルケドン派」が歴史的に実際、何を意味していたかは、存外にわかりにくい。
 カルケドン会議では、単性説(Monophysitism)が排斥され、正統キリスト教は両性説(Dyophysite)とされ、カルケドン信条が採択された。すると「非カルケドン派」および現在のコプト教会は、単性説を支持し、カルケドン信条を採用しないというようにも思える。だが、これは間違いである。
 まずカルケドン信条だが、そもそもこれは正統キリスト教を規定する信条なのだろうか? カルケドン信条を承認しないと異端となるのだろうか? 現状、カルケドン信条は、カトリック、正教会、およびプロテスタント教会の長老派や改革派で承認されているが、積極的に受洗に唱えられているというふうでもなく、他の儀礼に組み込まれているふうでもない。教義上の補助といった位置づけのように見える。
 カルケドン信条は歴史的には、原ニカイア信条、またこれを確認したニカイア・コンスタンティノポリス信条の次に位置し、この二つの信条の関係は、厳格化および事実上の改訂化である。このことからすると、これに後続するカルケドン信条はニカイア・コンスタンティノポリス信条をさらに厳密化し改訂化したものと想定してよさそうなものだが、原文を比較してもそう判断することは難しい。ニカイア・コンスタンティノポリス信条と比べてカルケドン信条が目立って異なるのは「われわれの救いのために、神の母、処女マリアから生まれた」として「神の母」を明記し追加している部分だが、これはキリスト教に必須の教義と言えるかは疑問だろう。重要点は三一信仰を両性説から詳細化している部分であり、正統を支える両性説の明確化にある。
 両性説は、ごく簡単に言えば「イエス・キリストは神性において父と同一本質であり、人間性において私たち人間と同一本質のものである」という主張である。二つの位格に二つの本性を持つ。これに対して排斥された単性説は、エウティケス(Eutyches)によって提唱された考え方では、「イエス・キリストの人間性は、父たる神の神聖によって吸収され、一つの本性になった」とする考え方だ。イエス・キリストの性質は神であって人間ではないとする考え方、つまり、イエス・キリストは人間に見えるけど人間の心や思いなど人間らしい特性をもっていない特殊な存在だと理解してよいだろう。
 奇妙なことに「非カルケドン派」はこうした単性説を採ってはいない。彼らは合性説(Miaphysitism)を採っている。これは「イエス・キリストは、三一の位格において、神性と人間性という二つの本性は、分割されず、混ぜ合わされることなく、変化することなく、結びあわされている」とする考え方である。このコプト教会の合成説と正統とされた両性説がどう違うのか、わかりづらい。同じかあるいは合性論のほうが三一において明確であるように思える。コプト教会の分裂はおそらく神学的な問題ではなく、政治的また歴史的な問題だろう。「非カルケドン派」は、カルケドン信条による、異端などを扱う神学上の問題ではなく、この会議の歴史的な制約によっているものだろう。
 次に疑問となるのは、アレキサンドリア総主教座と非カルケドン派の関係である。一見すると、ローマ総主教座が後に教義的に分裂していくように、アレキサンドリア総主教座も教義的に変化したようにも思える。しかし、合性説を見るのであれば教義的な問題とも思えない。
 歴史的に理解できることは、現在のコプト教会の主教が教皇(Pope)の称号、つまりアレクサンドリア総主教の称号を持っていることで、普通に考えれば古代アレクサンドリア総主教座を現代に維持しているのが、エジプトのコプト教会の教皇であると言えるだろう。ただし、正教側にも形の上ではアレクサンドリア総主教座が存在している。

 ローマ帝国というキリスト教帝国を神学面で実質的に作り上げたのは、三一教義をまとめ聖書正典を整備したアタナシウスであるが(参照)、彼はアレキサンドリアの主教から総主教になった人物でもある。すると、帝国キリスト教はアレキサンドリア、つまりエジプトから発生したとも言えるし、彼自身も迫害の過程にありながら、エジプトの砂漠の教父との親交を持ち、権力を掌握して以降は砂漠の教父たちの組織化を図った。しかし、完全に組織化されたわけでもなく、シンシア・ブジョーなどはむしろキリスト教の精神性は以降も砂漠の教父らに残ったと見ている。この指摘には、修道会史から頷ける面もある。
 カトリック最古の修道会と言われるベネディクト会を創設したのはヌルシアのベネディクトゥス(Benedictus de Nursia)(480年頃-547年)だが、この修道会の原形を作ったのが、彼に大きな影響を与えたヨハネス・カッシアヌス(Johannes Cassianus, John Cassian)(360-435)であった。黒海沿岸小スキュティアに生まれたカッシアヌスは青年期にキリスト教を学ぶために中東からエジプトの砂漠に向かい、砂漠の教父のもとで学び、彼自身も砂漠の教父となった。その意味で、ベネディクト会もまた、エジプトの砂漠の教父の教統に生まれたものであり、特に、その修道院的な組織や祈りのありかたは、砂漠の教父の信仰実践につながるものである。
 砂漠の教父の神学的な基礎は、アレクサンドリア学派と呼ばれる新プラトン主義のオリゲネス(Origenes Adamantius)(182頃-251)神学によるところが大きい。カッシアヌスも神学的にはその系統にあったのではないかと思われる。カッシアヌスは後年、この地の多数のオリゲネス神学者ともに迫害を受け、コンスタンチノープルから追放され、ローマに送られた。ここで砂漠の教父的修道院の原形がラテン語圏で作られることになった。
 と、まとめてみて、うかつにもはっと気がついたことがあった。新プラトン主義オリゲネスは、その著作「諸原理について(De Principiis)」で知られている神学者であることから、アレクサンドリアのフィロンのように著作の人であるという思い込みがあったが、そうではない。オリゲネスはまず教師であった。彼がまだキリスト教ゆえに迫害された時代、アレクサンドリアにキリスト教を教える学校としてディダスカレイオンを開いた。オリゲネスもまたアレクサンドリア学派の神学者アレクサンドリアのクレメンス(Titus Flavius Clemens)(150頃-215頃)によるディダスカレイオンで学んでいる。ディダスカレイオンはギリシア市民の知識教育の場でもあり、これを市民社会のなかに形成することは、まさにヘレニズムの知の活動そのものだった。アリストレスやプラトンが弟子を教育するのと同じ私塾の機能だったとも言える。
 修道院に残る黙想の起源がギリシア哲学のテオリア(観想)であったように、修道院に至る、古代エジプトの砂漠の教父たちの教えの組織は、古典ギリシア時代から続く私塾の伝統だった。しかもこれは、キリスト教が信条によって言明化されて教義化されキリスト教帝国が出現したときに、その影のように別の流れを作っていった。
 
 

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