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2012.06.27

国会の壮絶な茶番の陰で繰り広げられている対決

 昨日の国会は壮絶だった。これまで国会の怒号・乱闘だの深夜の牛歩だとフルコースでひどいものを見てきたと思っていたが、昨日は格別の一品だった。そもそも国会の体をなしてなかった。定員削減の司法判断を反映しないからそもそも違法だという斜め上の話ではない。まずもって国会が国民代表の熟議の場になっていないのである。国会の議論でも民主党党内の議論でもなく、党間の密談でやっちゃえって、なんですか、これ。
 戦前の大政翼賛会ってこういうものだったのだろうなと感動を新たにしたのだった。
 マニフェストを自ら堂々とご破算にした民主党は今後どんな政策を打ち出してもギャグにしかならないから、もう二度と国政に復活する目はないと思う。麻生さんがあれだけ景気に配慮していたのにそれを忘れて、弾力条項打ち消した消費税増税をそのまま飲む自民党も、自滅。なにが野党だよ。政権受け皿になってないじゃん。
 こんな国会には参加できないとして賢者タイムを取った民主党原口一博議員や自民党中川秀直議員が実に賢者だったかというと、うっぷす、いやすまん、笑った。
 みんなの党もなんだかなと思うことがことが多いが、さすがにこの国会で唯一まともだったのは、みんなの党代表渡辺喜美議員だけだった。

 手間かけて書き起こしてもいいのかもしれないが、しかし、まあ、本当の対決はこんなところにはないんだよという意味では、昨日の国会は壮大な目くらましというか茶番に過ぎなかった。
 じゃあ、対決はどこにあるのか?
 国会の一部と日銀が対決しているのである。フィナンシャルタイムズが17日付けの社説「日本の対決(A Japanese duel)」(参照)が書いたとおりだった。


Like two samurai facing each other in a duel, the Bank of Japan and parts of the Diet, Japan’s parliament, are fighting over how to revive the country’s long-ailing economy. While growth was fast in the first quarter of 2012, this spurt was the result of several one-off factors which are unlikely to lead to a more sustained acceleration.

二人のサムライが決闘で向き合っているかのように、日銀と国会の一部が、この国の長期経済成長活性の方法について戦い合っている。2012年の第一四半期成長は速かったが、偶然が重なった結果であってこれ以上継続するはずもない。

To get the economy going again, some in Japan’s parliament would like the central bank to loosen its monetary policy even more than it has done so far. The BoJ should add to its existing Y70tn ($890bn) asset-purchasing programme and stretch it in ever more unorthodox directions. The International Monetary Fund has backed this position, arguing that the BoJ should buy long-term government bonds.

経済を再度推進させるために、中央銀行にこれまで以上の金融緩和策を望む国会議員がいる。日銀は、既存の70兆円の資産買い入れ枠を増強し、非正統な方向に拡張性すべきである。国際通貨基金(IMF)もこの立場を後押し、日銀は長期国債を買い入れるべきだと論じた。

Such calls have so far been ignored by the BoJ, which last week decided to leave its easing programme untouched. This may have been a way for the BoJ to keep its powder dry, were the situation in the eurozone to degenerate and cause financial turmoil. But the BoJ is also worried that bolder action may be seen as a monetisation of the country’s debt.

こうした提言を日銀は無視しづけている。日銀は先週、金融緩和策を放置すると決めた。もしかすると日銀としては火薬を湿らせまいとしたのかもしれない。ユーロ経済圏が悪化の状況にあり、経済混乱が起こす状況でもあったからだ。しかし、日銀は大胆な行動がこの国の債務の貨幣かと見られるのを恐れてもいた。


 国会で本当に争われていたのは、日銀と日銀に金融緩和を求める国会議員の対決だったのである。それに壮大な煙幕をはったのが、昨日の壮大な茶番だった。
 考えすぎ?
 実は昨日の茶番の陰で本当の対決は進展したのである。昨日6月26日21時16分のNHKニュース「金融機関の日銀預金 過去最高に」(参照)より。

 金融機関が手元資金として日銀の口座に預けたままになっている資金の残高が、過去最高を更新し、日銀が続けている金融緩和による資金が、企業への貸し出しなどに十分回っていない実情を浮き彫りにしています。
 銀行や信用金庫などの金融機関は、企業に貸し出したり債券などの金融商品に投資したりしていない資金を、日銀に開いている「当座預金」の口座に預けています。
この当座預金の残高が、26日、前日に比べて9400億円増え、43兆4900億円に達したことが分かりました。
 これは東日本大震災のあと、日銀が市場の動揺を抑えるために大量の資金を供給したときの残高を上回って、過去最高を更新しています。
 日銀の「当座預金」は、預けても金利が低いため、本来、金融機関は、より高い金利が見込める企業への貸し出しなどに回し、「当座預金」の残高は少なくとどめようとするのが一般的です。
 しかし、この残高が過去最高を更新したことで、日銀がデフレからの脱却を目指して金融市場に供給した大量の資金が、貸し出しなどに十分回らずだぶつき、「当座預金」の口座に滞留している実情を浮き彫りにしたものと言えます。企業側が、財務体質の改善を優先し、貸し出しへの需要が弱いなかでは、金融緩和を強化して景気浮揚を図ることに、限界があるという指摘も出そうです。

 さすがNHK。これも感動すら覚える。煙幕に映し出されるイルミネーションだった。
 「金融緩和を強化して景気浮揚を図ることに、限界があるという指摘も出そうです」とか、あの国会のあとで、ドヤ顔で言っているのである。
 もうネット上から消えているが、フィナンシャルタイムズが伝えたIMFによる日銀への要請のときもNHKはものすごい報道をしていた。6月12日「IMF幹部 消費増税を支持」である。

 来日中のIMF=国際通貨基金のリプトン筆頭副専務理事は、安住財務大臣と行った会談で「日本の財政再建に重要なのは、消費税率の引き上げだ」と述べ、社会保障と税の一体改革で政府が目指している消費税率の引き上げを支持する考えを示しました。
 IMFナンバーツーのリプトン筆頭副専務理事は、日本の財政政策などについて定期的な調査を行うため、日本を訪れており、11日、安住財務大臣と会談しました。
 この中で安住大臣は「消費税率引き上げ法案の国会での議論がヤマ場にさしかかっており、よいときに来ていただいた」と述べました。これに対し、リプトン筆頭副専務理事は「財政再建に向けて重要なのは、消費税率の引き上げであり、IMFとして全面的に支持している」と述べ、社会保障と税の一体改革で政府が目指している消費税率の引き上げを支持する考えを示しました。
 会談では、このほかヨーロッパの信用不安の問題も取り上げられ、不良債権を抱えるスペインの金融機関の適切な情報開示と迅速な対応が重要であること。
 信用不安の拡大に歯止めをかけるため、今月18日からメキシコのロスカボスで開かれるG20サミットで、ヨーロッパに一段の対応を促していくことを確認しました。

 これだけだとなにがすごいかわからないかもしれない。でも、あれれ、さっきフィナンシャルタイムズが言ってことと違うんじゃないのと疑問が浮かぶでしょ。そのとおり。テレビ朝日「「日本は消費税15%にすべき」IMFが声明」ではこうだった。

 IMF=国際通貨基金は、日本経済に関する定例の審査を行い、日本政府の増税に向けた取り組みを支持する一方で、消費税をさらに引き上げ、15%にするべきだとする声明を発表しました。
 日本政府との年に一度の定例協議を終えたIMFのデビッド・リプトン筆頭副専務理事は、消費税の引き上げは「非常に重要なステップ」だとして、日本の財政再建の重要性を強調しました。声明は、消費税率について今の日本政府案に5%上乗せし、少なくとも15%にすべきだとしています。
 ただ、増税だけではなく、医療などサービス分野の規制緩和や女性の労働力を活用することなど、経済成長のための構造改革も求めました。また、金融政策については、日銀が掲げた1%のインフレ目標の達成に向け、一層の金融緩和や資産の買い入れに期待感を示しました。

 こっちは日銀の金融緩和の話が入っている。
 NHKは会談を取り上げて、その会談には金融緩和の話はなかったということなのかもしれないけど、フィナンシャルタイムズの社説から見てもわかるように、IMFが伝えたかったという点では、重要点を見事にすっぽかした報道だった。
 ブルームバーグだと手短だったが明瞭だった。6月12日「IMFリプトン氏:介入は無秩序な為替市場の回避で活用可能」(参照

6月12日(ブルームバーグ):国際通貨基金(IMF)のリプトン筆頭副専務理事は、日本の金融政策が一段と緩和されるべきだと述べた。
・日銀の緩和拡大は物価目標達成を支援しよう
・日銀が物価目標達成のため行動することが重要
・日本の財政改革を支持
・消費税引き上げが日本政府の優先課題
・中国はしっかりと成長している

 これが日本ではきちんと報道されていないし、フィナンシャルタイムズのあの社説も翻訳されてないように思える。
 NHKの報道なんかが典型だけど、メディアも一丸となって、この部分の情報に偏りが起きている。なぜかって、そこが、本当の政治の論点だから。
 情報が国民にうまく伝えられていない。これもまた、へなへなになるくらい戦前と同じ大政翼賛会の風景である。
 話を先のフィナンシャルタイムズの社説に戻すと、この先、日銀の懸念はさして根拠がないことや、日銀を攻める国会議員もそれを安易なスタンスにしてはいけないという、なにやら日本風喧嘩両成敗みたいな話が続くが、割愛。
 そして、消費税についてだが、フィナンシャルタイムズもそれ自体を問題にしているわけではない。
 では何が日本の政治に必要なのか。

These include measures to raise women’s labour force participation, as well as incentives to get corporations to invest more. Then there is the issue of stabilising the country’s public debt, the second largest in the world. Parliament is raising the consumption tax from 5 per cent now to 10 per cent in 2015. This could be complemented by wealth taxes targeted at the cash-hoarding elderly, which would help fiscal consolidation with a lesser impact on consumption.

これに含まれるのは、女性の労働力増強であり、企業にもっと投資をもたらす動機づけである。その後、世界第二の規模の国家債務の安定化も問題になる。国会は2015年までに消費税を10%に上げようとしているが、この増税は、カネを貯め込んだ高齢層への富裕税で補えるし、それによって消費低迷を抑えて財政再建を助けるだろう。


 重要なのは、なんかよくわからない謎の「一体改革」よりも、女性の労働環境を整備し、企業投資ができる環境が必要だということ。消費税は消費低迷として打撃を与えることになるから、これを緩和するために、カネを貯め込んだ高齢層への富裕税を強化しないといけないということ。
 ごくあたりまえの提言だけど、このあたりまえが、どんだけ日本の現状から乖離しているかというあたりで、くらくらしてくる。
 消費税はいずれ上げなくてはならないのはわかる。しかし、名目成長率が2%も越えないでやろうというのはむちゃくちゃだし、消費を活性化させる施策がなんらこの政府にはない。消費がなければ生産もない。
 あと、左翼と自称するかたが「消費税増税はいかん、無駄はこんなにある」論を展開しているのも見かけたけど、それは重要な論点ではない。
 もともと欧州的な左翼の感覚でいえば、消費税を上げることは国家を肥大させる点で左翼万歳であって、個別の減税に心を砕くというところなんだが、そういう方向性も日本には見えない。いわゆる左翼終了の風景でもあった。
 国政に批判勢力が見えなくなる、これも大政翼賛会の風景。
 じゃあ、絶望的なのか。国家があるだけましだと思えよということなのか。
 フィナンシャルタイムズ社説の締めはなかなか明るい。

The BoJ should not dig its heels in and avoid the further monetary loosening that is beneficial to the economy. But if politicians want to prompt the BoJ to act, showing commitment to reform is more helpful than a series of pep-talks.

金融緩和は日本の経済にメリットをもたらすのだから、日銀は、自身の考えに固執すべきではないし、金融緩和を避けるべきではない。国会議員が、日銀に仕事をするように促したいなら、叱咤激励をくだくだ言っているより、改革への関わりを示すほうが役立つ。


 政治ブロガーさんや経済ブロガーさんみたいに、威勢のいいことをくだくだ言い続けているより、国家議員さんは、きちんと日銀改革に手を染めてくださいなということである。
 まあ、そういうことなんで、総選挙の際には、そのあたりを指針にして見ていこうと思う。
 
 

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2012.06.24

曖昧母音が英語発音のポイント。"April"の発音は「エイプリル」ではないよ

 もひとつだけ英語発音の話。曖昧母音が英語発音のポイントということ。これはけっこうあちこちで言われていることだけど、ちょっと書いみたい。
 ちなみに、"April"の発音は「エイプリル」ではないよ。「米国英語だとそうだけど英国英語だと……」という人は英国英語も確認してみるといいけど、違うよ。"April"の"ril"のところは曖昧母音になる。米語だと「エイプラ」に聞こえる。英国英語だと「エイプゥ」みたいになる。いずれにしても、「リル」みたいな「i」の音はない。でまあ、それはなぜなのかという話なんだが。たぶん、ややこしいので、この手の話がお好きなかたは、どうぞ。

マイクロソフトの"Surface"は「サーフェイス」?
 久しぶりに曖昧母音のことを考えたのは、先日、マイクロソフトが"Surface"という新端末装置を発表したのがきっかけ。これ、なんて発音しますか? 英語に詳しそうな人が「サーフェイス」みたいに発音していて、え?と驚いて、ちょっと考えこんでしまった。
 ちなみに、私はといえば、「サーフィス」だと思っていた(音引きのところはR母音だけど)。つまり、"face"ところは「イ」に近い音ということ。
 「プログレッシブ英和中辞典」(参照)を見ると発音として[sə'ːrfis]とあり実際の音声も確認できる。聞くと「サーフィス」のように、つまり「フィス」のように聞こえる。Dictionary.comでは、発音は[sur-fis]とあってはやり「サーフィス」のように聞こえる。まあ、そうじゃないかと思っていたのだが……。
 ま・て・よ。

"Surface"の発音は「サーフィス」でいいのかな?
 さすがに、"interface"みたいに「サーフェイス」みたいに発音はないとしても、これ「i」じゃないんじゃないかと思いなおした。「プログレッシブ英和中辞典」やDictionary.comが間違っているとまではいわないが、違うんじゃないか。
 手元のロングマンの英英を見ると、やっぱり、['sɜːf'əs]だった。曖昧母音だ。 すると、発音的には「サーファス」に近いはず。辞書には音声もついているので聞いてみると、たしかに曖昧母音で「サーファス」に近い。
 ただ、聞きようによっては「サーフェス」に聞こえないでもない。これはあれだ、マクガーク効果(参照)ではないけど、単語的ないし日本語母語のフレームワークの意識が先行しているイルージョン現象かもしれない。

"Surface"の発音は……わからん
 すると、この"Surface"の"face"の部分の音は現在、曖昧母音化が進んでいる途上かとも思って、他の辞書と、たまたまロングマンの英和を見たら、[səː(r)fIs]だった(最初の/ə/の上にアクセントが付くが)。日本語だと「え」に近い「い」の音。
 ロングマンの英英と英和で扱いが違うのもなんだろうか。疑問に思って英和のほうの発音を聞いたら、英英と同じ。実際には['sɜːf'əs]だった。なんじゃ、これ。
 ちなみに英辞郎Proも見たら[sə'ːrfəs]とあり、曖昧母音にしていた。音があるので聞いてみると、これはかなり「サーフェス」のように「エ」に近い音に聞こえる。
 Cambridge Dcitionaryを引くと、/ˈsɜr·fəs/ (参照)と /ˈsɜːfɪs/ (参照)が混在。とはいえ、この前者は米語、後者は学習者用。ここには英国発音もあり、それを聞くと、「サーフィス」に近く、けっこう「イ」に聞こえる。

マイクロソフトは"Surface"をなんて発音してるか?
 そういえば、オリジナルはどうかな。マイクロソフトのプレゼンテーションを聞いてみる。
 最初の入道の発音は「サーフェス」っぽいが、二番目の雲水の発音は「サーファス」に近い。

 他のビデオを見ると「サーフィス」ふうの発音もあり、どれが正しいというものでもないそうではあるが、概ね、曖昧母音化していく途中とは言えそうな感じ。

日本のメディアは「サーフェス」ってことで、ここはひとつ
 日本のメディアは"Surface"をどう伝えるのか。
 マイクロソフト自身のサイトをみたら日本語表記の情報が見当たらなかった。
 日本語版ウォールストリートジャーナルや日本語ロイターはどっちも「サーフェス」としていた。他のメディアで「サーフェイス」や「サーフィス」はなかったので、日本のメディア的には「サーフェス」で定着したもよう。知らなかったが、"Surface"で「サーフィス」と読む男性歌手ユニットがあった。

/fəs/の/ə/っていうのが、シュワ
 この曖昧母音、英語では、schwa(シュワ)と呼ばれる。
 日本語の「あいうえお」でいうと、「う」や「お」に近い音でもあり、「サーファス」というほど「あ」に近くはないが、じゃあ、「サーフス」かというとそこまで「う」ではなく、じゃあじゃあ、というと「え」にも近い。
 「サーファス」と表記すると「あ」が強調されかねないし、「サーフェス」あたりが日本語に近いのかもしれない。

"face"の発音はその部分の意味理解に関係していそう
 さて、なんで"surface"の"face"がシュワ化したのか?
 これ、言語学的には、音声学でも音韻論でもなく形態論な問題かな。あー、簡単にいうと、その部分をネイティブが意味としてどう理解しているかに関わってくるという話。
 たとえば、"interface"の場合は、「顔(face)」を付き合わせるという意味の意識があるから、「フェイス」がくずれない。「インタフェス」っていうのはない。
 "typeface"なんかも活字の「面(face)」だから「フェイス」。
 ところが、それらと形態素として区別される"preface"の"face"なんかだと、"surface"と同じ現象が起きる。これも、「プリフィス」から「プリファス」へシュワ化が起きているみたいだ。

"Surface"の"face"のシュワ化はなぜ?
 次に問題なのは、['səːfIs]が['səːfəs]へというように、変化しちゃったのはなぜか。つまり、「サーフィス」と「サーフェス」どう違うかということ。
 まず、人によって違うというのはある。それでも、「サーフィス」という発音の場合は、シュワ化はしていない。なぜなのか?
 これは、別の視点を取ると、アクセントの問題なのだな。

アクセントが消えると母音字はみんなシュワ化する
 英語の辞書だと、2シラブルの語にはアクセント位置を示す記号が付く。4シラブルだと第2アクセントの記号も付く。
 "anniversary"は5シラブルのan·ni·ver·sa·ryで、[æ`nivə'ːrsəri]のように、第1アクセントが「ヴァ」で、第2アクセントが冒頭の「ア」になる。まあ、ここまでは学校とかでも教える。
 あまり教えられていないのが、英語っていうのは、アクセントを失うと、みんなシュワになっちゃうということ。
 これがさ、どんなスペリングであっても、シュワになるというのが英語のすごいところ。ウィキペディアにいい例があった(参照)。


like the 'a' in about [əˈbaʊt]
like the 'e' in taken [ˈteɪkən]
like the 'i' in pencil [ˈpɛnsəl]
like the 'o' in eloquent [ˈɛləkwənt]
like the 'u' in supply [səˈplaɪ]
like the 'y' in sibyl [ˈsɪbəl]

 スペリングからだと、発音が想像付かないのが英語の面白いところ。
 "April"なんかも。[e'iprəl]、つまり、「エイプラゥ」になってしまう。日本語で料理の「レシピ」とかいうあれ、"recipe"は[re'səpi]、つまり、「レサピー」。
 さらに、シュワは流音に結合するとき消えちゃうんで、ウィキペディアには、 "pencil"に[ˈpɛnsəl]とあるけど、これは実際には[pe'nsl]になる。「ぺぬそぅ」ですな。エル(l)の音はシュワを吸収しちゃう。
 「ライトノベル」とかの"novel"は、[nɑ'vl]、日本語っぽくいうと「ナヴォ」。
 鼻音もシュワを吸収することがある。"student"は「スチューデント」じゃなくて、[stju'ːdnt]となって、これ、日本語で書きづらいが、「スチューウン」になる。
 で、こっからがさらにややこしい。

シュワ化されないのはアクセントがあるから
 "surface"を[sə'ːrfis]のように、「サーフィス」と読むということは、実は「フィス」の部分になんか微妙なアクセントがあるということだ。(なお、英国英語だとshwaはR母音と同じ発音表記になるけど、これは音韻としては、schwaではなくR母音とみたほうがいい、と思う。)
 どういうことなのか?
 "surface"のような2シラブルの単語だと、第1アクセントは必ず存在するが、それ以外は、辞書には表記されないが、そのシラブルのアクセントは、第1ではないけど、無アクセントでもないかもしれないということ。
 なんか奇妙なことを言っているみたいだけど。
 例えば、"accident"という単語、第1アクセントは冒頭のaにある。これが"accidental"だと、第1アクセントは"den"に移り、冒頭のaは第2アクセントになる。アクセントが残るから冒頭の"a"はシュワ化されない。

そこにあるのは、ステルス・アクセント!
 そこで、"ambassador"だが、辞書には、[æmbæ'sədər]のように、第1アクセントしか表示されない。けど、冒頭の"a"がシュワ化されていないということは、ここに、なんかアクセントがある。これをなんと言うのか知らないので、ステルス・アクセントとしときます。
 "surface"の発音に戻ると、「サーフィス」として発音されているときは、話者の意識に、「フィス」のところにステルス・アクセントの意識が残っている。
 これが、"interface"のように「面(face)」という意識なら、「サーフェイス」になるのだけど、そうじゃないんだろうなという意識がある。
 しかし、「じゃあ、そのフィスってなんだよ、僕にはわかんないなあ、どうでもいいや」に意識が変わると、意味を担う形態としての意識が薄れてシュワ化する。
 ただ、この部分はなかなかシュワ化しづらいのかもしれない。
 「しかし、いや、どうでもよくないんじゃないの」という意識を"sur"が引っ張っている。「"sur"は"surrealism"(サーリアリズム)のように、"over"という意味あるよね、"face"がなんだかわからないけどさ、面かなんかの上だよ」みたいな意識が、シュワ化を押しとどめるのではないか。
 余談だけど、"sirloin"(サーロイン)というのは、語源的には、この"sur"が付いた"surloin"、つまり、"loin"の「上(sur)」の部分という意味。でも、無教養なのか洒落なのか、"loin"の尊称(sir)のように意味が勘違いされて、"sirloin"になってしまった。

まとめ
 なんかひどくめんどくさい話になってしまったけど、要点は2つだけ。ついでに1個付け足してとく。

  1. 英語は綴りを見てローマ字風に発音しちゃだめだよ。アクセントがなければ、なんでもシュワ(曖昧母音)になっちゃうから。
  2. RやLなど声が続く子音の前にシュワ(曖昧母音)がくると、シュワも消えちゃうよ。
  3. 英単語の聞き取りに一番重要なのは、シュワの聞き取りだよ。もちろん、発音するときも大切だけど。
   

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2012.06.20

音引きと促音をやめるとジャパニーズ・イングリッシュ臭さが抜ける

 昨日のついで英語の発音の話。このネタ、他所で見かけたことがないので、ちょっと書いておこう。どういうことかというと、音引きと促音をやめるとジャパニーズ・イングリッシュ臭さが抜ける、という話。何、それ?
 皆さんご存じだと思うけど、確認から。音引きというのは、伸ばし音。長音ともいう。たとえば、「おばーさん」の「ー」が音引き。そして、促音というのは、詰まる音。例えば、「がっかり」の「っ」のところ。
 これがどうして英語の発音に関係するのか。関係するんですよ。簡単にいうと、英語には長音も促音もないのに、日本人が英語で発音するとこれ無意識に入れちゃいがち。ちょっくら説明しみよう。

英語に長音はない
 車(car)は「カー」。The internetは「インターネット」。印刷機(printer)は「プリンター」。少女(girl)は「ガール」。「スポーツ」(sports)。というように、英語をカタカナで表現すると、音引きで長音になる。この長音というのは英語には、ない。
 なんとなく、"r"や"er"が長音っぽい印象を与えるけど、これらは"R-Controlled Vowel"といって、簡単にいうと、"ar"とかひとつの母音になっていて、長音ではない。
 "been"は「ビーン」みたいだけど、これ、"bin"と同じ発音。"bean"は長音ぽく聞こえるけど、これも母音が違う(同じになってしまうこともあるけど)。いずれにせよ、長音化ではなく母音の質が変わる。母音の質で覚えること。
 カタカナ英語で音引きのあるところは、音引きで読まないように注意。

日本語の長音は音程変化を示すことが多い
 日本人は「おばさん」と「おばーさん」の違いを、音引きの有無だと思っている。音の長さで区別されると思っているわけだが、これ、違うのですよ。この音引きは音の長さではなく音程変化を示している。「おばさん」のときは「ば」で音程が変わらないけど、「おばーさん」のときは、「ば」と「-」で音程が違う。わかる? これを意識すれば、逆に「おばさん」の「ば」の音を物理的に伸ばして、逆に「おばーさん」を伸ばさずに言うこともできる。
 日本人はこの長音の音程変化をカタカナ英語の音引きに反映しちゃうことが多い。こうした音程変化を英語でやっちゃダメ。

英語に促音はない
 "stop"をカタカナで書くと「ストップ」になる。英語発音の学習では、「ス」や「プ」に"su"や"pu"みたいな余計な母音を入れないようにという指導は多い。だけど、英語には促音がないということはあまり指導されない。ここが要点なのに。
 英語には促音がない。「ッ」にあたる音はない。では日本人は、この「ッ」でなにをしているかというと、喉の奥をくいっと軽く絞めていることが多い。"glottal stop"という。訳語は「声門破裂音」とかいう恐ろしげなもの。実態はおならするときの息みたいな感じなのに。
 別の言い方をすると、日本語で「ストップ」、「ストット」、「ストック」、というとき、「ストッ」まではまったく同じ発音ができる。"glottal stop"で息を止めているから。
 これが英語にはない。米国人はこういう発音ができない。おならはできるのに。
 米人はどうしているかと、"sto"(スト)と母音を発音したまま、喉を絞めず、"p"で唇を閉じる。あるいは、"t"で歯茎と舌で閉じるか、"k"で舌の奥で閉じるか、いずれも閉じるに任せる。英語には「ッ」にあたる音はないから。
 英語らしく発音するには、これを真似ればいい。"stop"というのを英語で発音するときは、カタカナで「ストップ」と思わないで、「スト」を"p"で閉じる。閉じた後、ちょっと息を残して"p"を少し吐く。"stock"なら"k"で閉じて、"k"を少し吐く。喉の奥で閉じないようにする。「少し吐く」のは、これ、弱い"s"が追加できるくらいということ(実はこれが"s"の正体)。
 このとき、「すとー」と音引きみたいに意識すると、日本人は音程を変えやすいのでご注意。
 例を挙げよう。"bread"は「ブレッド」ではなく、「ブレェ」を"d"で閉じる。"plot"は「プロット」ではなく、「プラァ」を"t"で閉じる。
 余談だけど、日本人は"glottal stop"が上手にできるから、「あいうえお」とはっきり言うことができる。「あ」と「い」の間にこっそりちっこい「っ」を無意識に入れているから。米人はこれができないので、「えいぉぉお」みたいにだらけた発音になる。

閉じる音は自体はほとんど聞こえない
 英語の聞き取りで難しいのは、語末の音がほとんど発音されないということ。これは歌を聴くとよくわかる。"stop"なら"p"は聞こえない。"stock"なら"k"が聞こえない。まったく聞こえないわけではないけど。
 じゃあ、"stop"と"stock"と同じじゃんと思うでしょ。日本語だと「ストッ」で同じだから。
 ところがそうではなくて、英語だと、"stop"と"stock"では、"sto"の部分の音の響きが違う。響きを変えるのは、この閉じ方。
 米国人は、"p"や"k"の息で聞き分けているのではなく、"p"や"k"の閉じ方によるその前の母音の音質で聞き分けている。
 だから、"stop"や"stock"の語末の発音を子音らしく、「ぷっ」「くっ」みたいにするのではなく、その前の母音の音質に注意することが聞き取りで大切。

まとめ
 日本人はどうしても英語がカタカナに聞こえてしまう。しかたないけど、音引きと促音はないのだというのを、意識しておくといい。
 

 

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2012.06.19

3分間でLとRの発音をテケトーにマスターする

 たまたま、はてなブックマークで「はてなブックマーク - 3分でLとRの発音を完璧にマスターできる5つの音声トレーニング | わいわい英会話」(参照)というのを見た。私が見たときは400くらいブックマークがついていた。人気が高いと言えるのではないかと思う。ネットとかで英語を学びたい人は多いのだろう。その程度の印象でいつもならこうした話題は通り過ぎて、元記事を開くことはないが、タイトルの「LとRの発音を完璧にマスター」を見てつい、そうだなあ、あれは意外に難しいんだよなと思ったので、どう教えているのか元ネタ(参照)を開いてみた。ざっと目を通して、え?と思った。
 簡単にいうと、ダークエル(dark L)の解説がなかった。このサイトの他の部分で説明されているのかもしれないが、英語のエル(L)の発音を学ぶときには、ライトエル(light L)とダークエル(dark L)を区別したほうがいい。いや、非英語国民の大半は区別しないからどうでもいいという意見もあるかもしれないけど。
 英語の発音なんか、どうでもいいか、とも思ったのだけど、「RとLの発音が両方含まれる英単語で発音練習をしてみましょう」という例文に「girl letter girl letter girl letter」とあって、うーむ、これはギャグサイトかもしれないので、ダークエル(dark L)がどうたらという野暮な話はなしってことかな。
 たいていの人は知っていると思うので、ごく簡単にいうと、英語のエル(L)の発音は、語頭にあるときはライトエル(light L)でそれ以外ではダークエル(dark L)になる。そうだなあ、ついでなんで私なりにLとRの発音をテケトーに説明しときましょうか。もっともよくブコメに書かれているように、極東さんは英語できないですから、なので、間違いも多いと思うので、テケトーに受け取ってくださいね。

英語のエル(L)の発音は、語頭にあるときはライトエル(light L)で語末ではダークエル(dark L)
 "list"のエル(L)は語頭にあるので、ライトエル(light L)。これはいちおう日本語の「リスト」の「リ」の音に近い。舌先が歯茎に付く。あと、母音が続く場合もライトエル(light L)になる。"slip"や"play"とか。
 これに対して、"people"のエル(l)は語末にあるのでダークエル(dark L)。なので「ピーポウ」。"battle"も同じで「バトウ」。あと、子音の前に来るときもダークエル。"milk"のエル(l)は子音前の語中にあるのでダークエル。米語だと舌先は歯茎に付かないので、「ウ」の音に近くなる。「ミウク」ですね。
 以前米人がエル(L)の発音を日本人に説明しているところに遭遇したことがあり、"Milk"を「ミ・ウー・ク」みたいに分けていて、エル(L)の発音がライトエル(light L)に近かったので、あ、それ、違いますよ、舌歯茎に付かないですよ、自然に発音してみてくださいよ、と言うと、米人さん、怪訝な顔して、なんどからつぶやいて、ほんとだ、と発見して驚いていた。米人のネイティブでも発音勉強したことない人は、ライトエル(light L)とダークエル(dark L)の違いを知らないもんです、きちんと発音できるのに。

"al"は「オー」
 "talk"や"walk"はエル(l)の字が入っていても、エル(l)の発音はしません。"al"で固まっていると思っていい。同じなのが、"au"で、これも「オー」。実際は「ア」に近い。"caution"は「カション」ですね。ちなみに、"u"は語末に来るとスペリング上は"w"なので、"saw"は「サ」。これでやっかいなのが、"also"で、辞書には「ɔ'ːlsou」みたく、ダークエル(dark L)を表記していることが多いのだけど、現代米語ではダークエル(dark L)なしが多い。

「ら」の正体
 LとRの発音をテケトーにマスターする上で大切なのは、日本語の「ら」の正体だと思う。これ、エル(L)でもアール(R)でもない、フラップ(flap)という子音。正確には、"Alveolar lateral flap"という子音。flapはパチンと叩くという意味があるように、舌で歯茎のあたりに軽くタップするように触れて出す子音。Tapとも言う。で、日本語の場合、「た」「だ」「な」も舌のタップと接触が近いので、似た音になる。このため、「ダメー」が「らめー」になるし、日本語勉強してない米人に「ただなら、もらう」と言うとうまく聞き分けできない。
 あと、英語のティー"T"の音が語中の特定の環境ではフラップになる。"water"が「わら」となる。

LとRの正体
 これに対して、ライトエル(light L)は、リクィド(liquid)という子音。液体というか、「ぐんにょり」するということで、音が母音のように流れる。このあたり、流れるからliquidなのか、詩の韻律上の用語なのか今一つわからない。簡単にいうと、ライトエル(light L)が歯茎に付いたまま舌の横から母音が流れ漏れる音なわけ。ただし厳密にはもうリクィド(liquid)という用語ではなく、"Alveolar lateral approximant"のはず。
 語頭のアール(R)はなにかというと、米語だと"Alveolar approximant"という子音。私が学校で学んだころは、"retroflex"とか言って「そり舌音」と訳していた。なので「舌を巻くように」みたいな説明だった。そういう発音もあるけど、米語は"retroflex"を使ってなくて、"Alveolar approximant"を使っている。うーむ、なんじゃ、それ。
 簡単にいうと、舌を巻くという意識なしに舌先を歯茎に近づける(approximate)する音。日本語のflapを寸止めにして少し母音を流す感じになるが、舌の奥も顎の内側で盛り上がるというかそのついで舌先が歯茎に近づく。この発音のとき米人は口をすぼめることが多い。"write"みたいに"w"がスペリングに付くからか、もともと米語の"Alveolar approximant"は口すぼめ(rounding)が附帯しがちだからなのかよくわからないが。日本人の感覚だと犬が「ぅぅぅぅ」と呻るような音。いずれにせよ、米語の語頭アール(R)というのは英語という視点からは奇妙な音で、たぶん移民の影響でドイツ語やフランス語のアール(R)がなまったんでねえの。

後続するR
 母音に続くアール(R)、例えば、"car"とか。これは米語だと"ar"で一つの母音として扱う。発音としては舌を喉のほうに引き込むような感じ。ただし、これにさらに母音が続くと語頭のアール(R)のようなリエゾン(結合)が起きる。"for a few minutes"だと"ra"のように聞こえる。
 このあたり、米語ではなく英語だとリエゾンがないとアール(R)はないのに、後続に母音が来ると現れるという現象がある。で、これが意識化されるために、母音が続くときに"r"を挿入してしまう現象もある。"I saw a film"だと、"I saw-r-a film"になる。古典日本語でも、"村(mura)"に"雨(ame)"が続くと、途中に"s"が入って、「むらさめ」になるのと似た現象。
 ティー(t)やディー(d)に続くアール(R)は、子音の音色を少し変える。"tree"はツリーじゃなくて「チュリイ」"。日本人の感覚だと、"tr"という一つの子音があるような印象になる。
 ちなみに、"free"だと"f"と"r"の間は詰まるが、"flee"だと間が空いて分離した印象になる。ただし、日本語の「フリイ」のように"fu"のような母音は入らない。


 そんな感じ。
 なんか重要なこと書き落としているような気がするけど。ああ、発音だけ話して聞き取りのことを書いてなかったけど、まあ、いっか。
 この手の話は「手づくり英語発音道場 対ネイティブ指数50をめざす (平凡社新書)」(参照)が比較的詳しい。著者、専門家ではないけど、だからこそいろいろ疑問に思って調べたらしい。

cover
手づくり英語発音道場
対ネイティブ指数50をめざす
(平凡社新書)
 英語については、英語の発音や文法の専門家は教育の分野に手を出さないんですよ。正しいこと知っていても、英語教育には出てこない。なぜか説明すると長くなるんで、興味ある人がいて機会があったら書くかもしれないけど。心理学の専門家が人間心理について語らないと同じようなものなんで、特段に不思議なことでもないけど。
 
 

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2012.06.18

高橋克也容疑者、逮捕

 地下鉄サリン事件に関わったとされた高橋克也容疑者が15日逮捕された。その前日のこと、私事だが出先の駅の改札で警官が通行人にビラを配っていた。ああ、あれは高橋克也容疑者逮捕のためのビラだろうと察しがついた。警官は配るべき人を見極めているようでもあったので、彼が配ろうと思えば届くゾーンへ歩いてみた。彼はもちろん、私を見ただろう。高橋克也容疑者と同じ年齢のおっさんなのだから。そして比較的痩身という体型も似ているはずだ。だが彼は私を無視した。おお、そうか。まあ、いいや。そう思って通り過ごしたが、どんなビラを配っているのか、ちょっと気になって、引き返し、それもらえますか、と素直に警官に言った。彼はそっけなく私に渡した。私に不審を抱くふうもなかった。ビラはテレビなどでもこの数日見かける、つまらない代物で、こんなものを配っても意味はないから、退屈な捜査のノルマみたいなものだったのだろう。
 その翌日、高橋克也容疑者が逮捕された。知らなかったのだが、前日に逮捕の噂は流れていたらしい。警察としてはそれなりに動向を把握していたのかもしれない。その後、通報者の話をメディアで聞くと、通報しても警察は取り合わず、危うくまた逃すところでもあったという。何が本当なのかよくわからない。逮捕劇の内実もいまひとつわからないところがある。
 高橋克也容疑者について私はほとんど知識がない。同い年なんだと思うくらいで、どこの生まれでどこの大学を出たのかも知らない。調べてみると、神奈川県横浜市港北区に生まれ、最寄りの高専を出たあと1979年に電機会社に務めたとのこと。大卒ではなかった。私も中学生のときは高専に行きたいなと思っていたので親近感を感じる。私はたまたま自分が思っているよりも成績がよくて普通科しか進学できなかった。
 高橋克也容疑者がオウム真理教の前身、オウム神仙の会に入信したのは1987年のことだったという。29歳。30歳直前。おそらく結婚もせず30歳を迎える男であった。その点も私と同じ。現代だと30歳で未婚というのはなんの不思議もないが、私の世代、女性はクリスマスケーキと呼ばれ、25歳を過ぎると売れ残りとされていた。男性からすると嫁さんが2歳くらい下というのが多く、つまり男性は27歳、28歳には結婚するものだった。私の友だちもそのころばたばたと結婚したので、ふーん、私の番はいつだろうかと思った。なんということはなく30歳を迎えたころ、あれれ、このまま私は独身なんだろうかと思った。高橋克也容疑者もそう思ったのではないか。
 高橋克也容疑者は、麻原彰晃教祖(松本智津夫死刑囚)の身辺警護で10歳近く年下の井上嘉浩死刑囚の補佐役となった。世間を離れても出世に取り残されていくタイプの男だが、そのことに違和感も感じてはいなかったのではないか。1995年の公証人役場事務長逮捕監禁致死事件では拉致の実行犯であり、地下鉄サリン事件ではサリン散布役の豊田亨の送迎を務めたらしい。サリン事件ではいかにも下っ端っぽい仕事でもあり、監禁致死事件ではその名前のとおり殺人罪ではなく逮捕監禁致死罪でもある。伝え聞く容疑が固まっても死刑となるものでもないだろう。もし私が彼の境遇なら、刑を換算して世間の空気を察し、さっさと逃走をやめてさっさと刑に服しただろう。いや、そもそも私のようなひねくれた心情の男が、10歳年下の補佐役が務まるわけもない。そもそも麻原教祖への反感もじくじくと秘めていただろう。高橋克也容疑者はそういう私みたいな嫌ったらしさはない男だったということになる。
 捕まった高橋克也容疑者の風体は54歳とは思えないほど若々しいものだった。生まれつきの要素もあるだろうが、こりゃ、オウム真理教修行の御利益かもしれないとふと思い、まさかねと思い直して苦笑したが、その後の報道を聞くに、麻原彰晃教祖を今も崇拝し、オウム真理教の修行を続けているらしい。捜査員との雑談では、彼はオウム真理教の呼吸法や禅定などで「修行を積むとパワーがみなぎる」と話しているらしい。留置場では蓮華座も組んでいる。平田信容疑者も長い逃亡生活でマントラを唱えていた。
 私も蓮華座を組むことができる。保つのは10分くらい。ヨガの呼吸法も最近はしないが、一通り知っている。高橋克也容疑者がどういう修行をしているかわからないが、蓮華座で行うこととオウム真理教にはそれほど深い修行の体系はないので、ごくそこいら辺のアラフォーおばさんのヨガ教室などで学べる程度のものではないだろうか。それでも、きちんと継続すれば健康効果はあるのだろう。
 愚かしいものだなと思う。愚かだからそんなことができるのだろうなと思う。そう思いつつ、自分も平時、あぐらよりも半跏趺坐で座っていることが多く、気がつくと、キリエ・エレイソンとかつぶやいている。そんな自分のことは忘れている。愚かさというのはそういうものである。先日読んだ「詩篇を歌う」(参照)に、修道院の近代化で聖務日課が省略されて病気になる僧侶の話があった。試しに昔通りの厳しい聖務日課に戻して未明から深夜まで定期的にグレゴリアン・チャントとか歌わせる生活にしたら、病が癒えたそうだ。
 高橋克也容疑者が逃走生活に入ったのは1995年である。その前年私は沖縄へ出奔した。凡庸なる私には反社会的な意味合いはなく、ただ自分の人生の都合にすぎないが、それでも心の中では、逃げたと言ってもいいだろう。私もそのころ自分の逃亡生活を始めた。そして17年経った。で? いや私は別に逃げ続けたわけではないと心の中で言ってみる。それに今年が転機というわけでもないだろうとも言ってみる。それはそう。でも、どこかにちょっと心に引っかかることはある。そろそろお前も自首するころじゃないのかと誰かが言う。誰だよ。何を自首しろって言んだよ。そう答えても、何か心が晴れるわけではない。
 
 

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2012.06.17

民主党・自民党・公明党の三党合意で描く日本の近未来

 報道を聞いているかぎり日本の政治はお先真っ暗という印象がぬぐえない。民主党の自滅はとうの昔に済んだ話だが、野党自民党も民主党の毒饅頭である三党合意を食って頓死してしまった。主要二政党が滅んで生まれ出たのが国民の血税を啜る増税翼賛会である。こんなろくでもない戦前政治の怪物みたいなものはさっさと滅ぼしてしまえと言いたいところだが、その後には「万人の万人に対する闘争」しかないだろう。国家の混乱である。それよりは隣国と仲よく独裁政治であれ国家に政治が存在しているほうがまだましかという気すらしてくる。これはもうどうしようもないなと落胆していたのだが、ちょっと気を取り直して事態を冷静に見てみようか。
 要は三党合意である。実際にはどのような合意だったのか。民主党サイト「社会保障・税一体改革で民主・自民・公明の3党実務者合意案まとまる」(参照)に歪んだスキャン画像として、次の3文書がある。(1)3党実務者確認書、(2)社会保障・税一体改革に関する確認書、(3)税関係協議結果、である。
 政策的に重要なのは、(2)社会保障・税一体改革に関する確認書、であり、具体的な項目が書かれている。


社会保障・税一体改革に関する確認書(社会保障部分)
 一、社会保障制度改革推進法案について
 別添の骨子に基づき、社会保障制度改革推進法案を速やかに取りまとめて提出し、社会保障・税一体改革関連法案とともに今国会での成立を図る。
 二、社会保障改革関連5法案について
 政府提出の社会保障改革関連5法案については、以下の通り修正等を行い、今国会での成立を図る。
 :(以下略)

 これを読むと、よくここまで詳細な合意ができたものだと感心したのだが、おっと、ここで(1)3党実務者確認書を見ると、がっちょ~んなことが書かれているのだった。

3党実務者確認書
別添の「社会保障・税一体改革に関する確認書」に加え、以下を確認する
1. 今後の公的年金制度、今後の高齢者医療制度にかかる改革については、あらかじめその内容などについて3党間で合意に向けて協議する。
2. 低所得高齢者・障害者などへの福祉的な給付に係る法案は、消費税率引き上げまでに成立させる。
3. 交付国債関連の規定は削除。交付国債に代わる基礎年金国庫負担の財源については、別途、政府が所要の法的措置を講ずる。
平成24年6月15日

 「社会保障・税一体改革に関する確認書」に加え、「以下を確認する」とあるので、普通の日本語ならその後に追加的な内容が来るはずだが、この文書で後続しているのは、「その内容などについて3党間で合意に向けて協議する」ということだ。追加事項ではなく、「なーんちゃってね」である。「あ、今言ったのなしなし、これから話合って決めようね」という打ち消しの確認であった。かくしてこの二文書は相殺して意味が消えた。というか、政策なんて意味ないよねというのを民自公三党で確認したというのである。
 では具体的に何について合意したのかというと、税である。消費税増税と報道されている。実態はこの文書、(3)税関係協議結果、である。

税関係協議結果
 政府提出の税制抜本改革2法案については、以下の通り修正・合意した上で、今国会中の成立を図ることとする。
 (注)*は法改正に関わるもの
○第4条(所得税)について
・(*)所得税に係る規定(第4条)は削除するが、最高税率の引き上げなど累進性の強化に係る具体的な措置について検討し、その結果に基づき平成25年度改正において必要な法制上の措置を講ずる旨の規定を付則に設ける。
 具体化に当たっては、今回の政府案(課税所得5000万円超について45%)および協議の過程における公明党の提案(課税所得3000万円超について45%、課税所得5000万円超について50%)を踏まえつつ検討を進める。
○第5条、第6条(資産課税)について
・(*)資産課税に係る規定(第5条、第6条)は削除するが、相続税の課税ベース、税率構造等、および贈与税の見直しについて検討し、その結果に基づき平成25年度改正において必要な法制上の措置を講ずる旨の規定を付則に設ける。
 具体化に当たっては、バブル後の地価の大幅下落等に対応して基礎控除の水準を引き下げる等としている今回の政府案を踏まえつつ検討を進める。
○第7条(消費税率引き上げに当たっての検討課題等)について
・消費税率の引き上げに当たっては、低所得者に配慮した施策を講ずることとし、以下を確認する。
(1)(*)「低所得者に配慮する観点から、給付付き税額控除等の施策の導入について、所得の把握、資産の把握の問題、執行面での対応の可能性等を含めさまざまな角度から総合的に検討する」旨の条文とする。
 また、「低所得者に配慮する観点から、複数税率の導入について、財源の問題、対象範囲の限定、中小事業者の事務負担等を含めさまざまな角度から総合的に検討する」旨の条文とする。
(2)(*)簡素な給付措置については、「消費税率(国・地方)が8%となる時期から低所得者に配慮する給付付き税額控除等および複数税率の検討の結果に基づき導入する施策の実現までの間の暫定的および臨時的な措置として実施する」旨の条文とする。
 その内容については、真に配慮が必要な低所得者を対象にしっかりとした措置が行われるよう、今後、予算編成過程において、立法措置を含めた具体化を検討する。簡素な給付措置の実施が消費税率(国・地方)の8%への引き上げ条件であることを確認する。
・(*)転嫁対策については、消費税の円滑かつ適正な転嫁を確保する観点から、独占禁止法・下請法の特例に係る必要な法制上の措置を講ずる旨の規定を追加する。
・医療については、第7条第1号ヘに示した方針に沿って見直しを行うこととし、消費税率(国・地方)の8%への引き上げ時までに、高額の投資に係る消費税負担について、医療保険制度において他の診療行為と区分して適切な手当を行う具体的な手法について検討し結論を得る。また、医療に関する税制上の配慮等についても幅広く検討を行う。
・住宅の取得については、第7条第1号トの規定に沿って、平成25年度以降の税制改正および予算編成の過程で総合的に検討を行い、消費税率(国・地方)の8%への引き上げ時および10%への引き上げ時にそれぞれ十分な対策を実施する。
・自動車取得税および自動車重量税については、第7条第1号ワの規定に沿って抜本的見直しを行うこととし、消費税率(国・地方)の8%への引き上げ時までに結論を得る。
・(*)扶養控除、成年扶養控除、配偶者控除に関する規定を削除する。
 ただし、成年扶養控除を含む扶養控除および配偶者控除の在り方については、引き続き各党で検討を進めるものとする。
(*)歳入庁に関する規定を「年金保険料の徴収体制強化等について、歳入庁その他の方策の有効性、課題等を幅広い観点から検討し、実施する」とする。
○附則第18条について
・以下の事項を確認する。
(1)第1項の数値は、政策努力の目標を示すものであること。
(2)消費税率(国・地方)の引き上げの実施は、その時の政権が判断すること。
・消費税率の引き上げに当たっては、社会保障と税の一体改革を行うため、社会保障制度改革国民会議の議を経た社会保障制度改革を総合的かつ集中的に推進することを確認する。
・(*)「税制の抜本的な改革の実施等により、財政による機動的対応が可能となる中で、わが国経済の需要と供給の状況、消費税率の引き上げによる経済への影響等を踏まえ、成長戦略や事前防災および減災等に資する分野に資金を重点的に配分することなど、わが国経済の成長等に向けた施策を検討する」旨の規定を第2項として設ける。
 原案の第2項は第3項とし、「前項の措置を踏まえつつ」を「前2項の措置を踏まえつつ」に修正する。
○その他
(*)上記の見直しに関連し、題名と第1条について以下の修正を行う。
 題名 「社会保障の安定財源の確保等を図る税制の抜本的な改革を行うための消費税法の一部を改正する等の法律案」とする。
 第1条(趣旨規定) 所得税、資産課税の見直しに係る箇所および「により支え合う社会を回復すること」を削除する。「わが国が」を「わが国の」に修正する。
・国分の消費税収の使途のうち年金、医療、介護に係るものについては、平成11年度以降、国分の消費税収は高齢者3経費に充当されてきた経緯等を踏まえるものとする。
・上記の国税改正法の修正に伴い、地方税改正法についても所要の修正を行うものとする。
 以上、確認する。
平成24年6月15日

 税制全般にわたり、けっこう詳細に書かれているではないか……よく読め。
 所得税も資産課税も検討課題であり、税制改革の根幹である歳入庁も検討課題に過ぎない。実質、合意されているのは、消費税である。「低所得者に配慮」のために「簡素な給付措置」として低所得層向けのバラマキをしたら、「消費税率(国・地方)が8%となる時期」が決まるというのである。まあ、バラマキはお手盛りだからそれほど高いハードルではないので、消費税増税が三党で合意できたということになる。
 だが、実際の増税時期については「その時の政権が判断する」とのみで合意文書にはない。8%以上への増税の言及もない。10%という話も含まれていないのである。
 このあたり、報道とは印象が違う。例えば読売新聞記事「一体改革、3党合意…会期内の採決目指す」(参照)ではこう書かれている。

 民主、自民、公明3党は15日、消費税率引き上げを柱とする社会保障・税一体改革関連法案を修正し、今国会で成立させることで合意した。
 消費増税に慎重だった公明党が容認に転じた。税制、社会保障それぞれの合意内容を確認する文書に、3党の実務者が署名した。これにより、2014年4月に8%、15年10月に10%に引き上げる消費税率引き上げ関連法案は成立に向けて大きく前進した。民主党内には増税に慎重な意見が根強く、野田首相は民主党の了承を取り付け、21日までの今国会会期内の衆院採決に全力を挙げる。

 この記事だが、よく読むと、消費税増税については「向けて大きく前進した」ということであって、「2014年4月に8%、15年10月に10%」は合意文書で表面的に確認できる部分としては三党合意には含まれていない。16日付け産経新聞社説「3党合意 社会保障抑制は不十分だ 「決められぬ政治」回避したが」(参照)でもこの数値と期日が入っている。

 平成26年4月に8%、27年10月に10%と消費税率を2段階で引き上げることは民主、自民両党間で早々に合意された。

 16日付け日経新聞社説「首相は消費増税の実現へひるむな」(参照)も同様である。

 3党は現行5%の消費税率を2014年4月に8%、15年10月に10%まで引き上げることで一致した。日本経済にかかる負荷を和らげるため、2段階で税率を引き上げるのは妥当である。

 他方、同日の朝日新聞と読売新聞の社説にはこの期日と数値への言及はなかった。
 二段階消費税引き上げの話はどこから出て来たかといえば、合意文書にある「政府提出の税制抜本改革2法案について」ということで、その法案「社会保障の安定財源の確保等を図る税制の抜本的な改革を行うための消費税法等の一部を改正する等の法律案」(参照)が前提となる。そこには、以下のようにきちんと期日と増率が記されている。

2.消費税法の一部改正
(1) 平成26年4月1日施行(第2条)
○消費税率を4%から6.3%に引上げ(地方消費税1.7%と合わせて8%)。
○消費税の使途の明確化
(消費税の収入については、地方交付税法に定めるところによるほか、毎年度、制度として確立された年金、医療及び介護の社会保障給付並びに少子化に対処するための施策に要する経費に充てるものとする)
○課税の適正化(事業者免税点制度の見直し、中間申告制度の見直し)
(2) 平成27年10月1日施行(第3条)
○消費税率を6.3%から7.8%に引上げ(地方消費税2.2%と合わせて10%)

 この「第2条」の扱いが、今回の三党合意でどういう扱いになっているのかだが、よくわからないのである。単純に考えれば、そもそも合意事項には含まれていないようだが、政治的な文脈からすれば、「第2条」は異論がないから最初から合意されていたとも理解できる。
 だがそうであっても論点は「第2条」を問題化する「7.附則」であることは合意文書からでも明白である。ここは法案ではこうなっている。

7.附則
○消費税率の引上げに当たっての措置(附則第18条)
消費税率の引上げに当たっては、経済状況を好転させることを条件として実施するため、物価が持続的に下落する状況からの脱却及び経済の活性化に向けて、平成23年度から平成32年度までの平均において名目の経済成長率で3%程度かつ実質の経済成長率で2%程度を目指した望ましい経済成長の在り方に早期に近づけるための総合的な施策の実施その他の必要な措置を講ずる。
この法律の公布後、消費税率の引上げに当たっての経済状況の判断を行うとともに、経済財政状況の激変にも柔軟に対応する観点から、第2条及び第3条に規定する消費税率の引上げに係る改正規定のそれぞれの施行前に、経済状況の好転について、名目及び実質の経済成長率、物価動向等、種々の経済指標を確認し、前項の措置を踏まえつつ、経済状況等を総合的に勘案した上で、その施行の停止を含め所要の措置を講ずる。

 この部分に対応する合意文書をもう一度対比のための引用しよう。ここが消費税増税論のキモである。

○附則第18条について
・以下の事項を確認する。
(1)第1項の数値は、政策努力の目標を示すものであること。
(2)消費税率(国・地方)の引き上げの実施は、その時の政権が判断すること。
・消費税率の引き上げに当たっては、社会保障と税の一体改革を行うため、社会保障制度改革国民会議の議を経た社会保障制度改革を総合的かつ集中的に推進することを確認する。
・(*)「税制の抜本的な改革の実施等により、財政による機動的対応が可能となる中で、わが国経済の需要と供給の状況、消費税率の引き上げによる経済への影響等を踏まえ、成長戦略や事前防災および減災等に資する分野に資金を重点的に配分することなど、わが国経済の成長等に向けた施策を検討する」旨の規定を第2項として設ける。
 原案の第2項は第3項とし、「前項の措置を踏まえつつ」を「前2項の措置を踏まえつつ」に修正する。

 さて、消費税率の引上げにあたっての措置という「附則第18条」と今回の合意文書の対応部分はどのように理解したらよいのだろうか。
 まず明白なのは、法案の「名目の経済成長率で3%程度かつ実質の経済成長率で2%程度」は合意文書で「政策努力の目標」となったことだ。つまり、どうでもよくなった。「名目の経済成長率で3%程度かつ実質の経済成長率で2%程度」は無効になってしまった。消費税増税よりひどい話である。率直にいって、この時点で日本のデフレは終わることはないということが、民主党・自民党・公明党で合意されたのである。
 次に、消費税増税時期は「その時の政権が判断する」ということで、いかにも民主党後の政権が受け持つかのようだが、これはようするに、民主党・自民党・公明党がどのような組み合わせで政権を取っても、その政権がガチで消費税を上げますよという話である。増税翼賛会宣言であった。
 この増税翼賛会はどのような日本を目指すのかというと、「財政による機動的対応が可能となる中で、わが国経済の需要と供給の状況、消費税率の引き上げによる経済への影響等を踏まえ、成長戦略や事前防災および減災等に資する分野に資金を重点的に配分する」というのだが、つまり、消費税増税で財政にゆとりができたら、その分を成長戦略や社会保障に回すというのだ。それも「わが国経済の需要と供給の状況、消費税率の引き上げによる経済への影響等を踏まえ」というのは、「デフレだったらやめます」というわけでもない。
 現実的に見れば、「名目の経済成長率で3%程度かつ実質の経済成長率で2%程度」の放棄を三党で合意した時点で日本の未来のデフレは確定になり、そのなかでいくら消費税を上げても財政のゆとりなんか生まれるはずもない。日本はじわじわと地獄図へと変わっていくというのがこの三党、民主党・自民党・公明党の合意の描く未来であった。
 冷静に政治を見つめ直してもショボーンな日本であったとさ。
 

 
 

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2012.06.15

ジュネーブ詩篇本について

 一連の詩篇関連の話としてジュネーブ詩篇本(サルター)(Genevan Psalter)について触れておきたい。
 プロテスタントの形成に大きく寄与し、またマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でも重視されているカルヴァニズムの原点、神学者ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)(1509-1564)は、独自のサルター(詩篇本)も作成していた。ブジョーの「詩篇を歌う」(参照)で詩篇朗詠は聖務日課(Divine Office)の基礎となるとの指摘があったが、カルヴァンも新しい自派の信仰集団に聖務日課のような儀礼を組み込みたかったのがサルター編纂の目的だった。カルヴァンというと質素で儀礼を排するかに理解されることが多いが、詩篇朗詠を信仰生活の基軸にするベネディクト修道院的なコミュニティへの志向もあった。
 簡単にカルヴァンについておさらいしておく。カルヴァンはフランク王国時代の1509年、ピカルディ地方ノワイヨンで公証人役人の子供として生まれ、少年時代に教会の庇護を受け、青年期にパリに出てラテン語を学び、さらにオルレアンやブルージュの大学で法学を学んで弁護士となった。最初から神学を志向したわけではなく、当時の進歩的なルネッサンス的な知の圏内の人文学者であった。二十代前半でありながら1532年、セネカの「寛容について(De Clementia)」の注釈書を出版するほど早熟の秀才でもあった。変化は翌1533年に訪れる。彼を宗教者と変える、神秘とも言える体験をした。後に彼はその体験の意味を詩篇解説のなかで語られることになるように、それは詩篇的な情感を伴っていたものだった。


ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)

 カルヴァンの回心は彼を取り巻く環境の影響もあっただろう。ルターによる「95か条の論題」(1517)の影響からフランク王国でも1534年に、パリやオルレアンなどの公衆でカトリック批判文書が貼られた。檄文事件(affaire des placards)と呼ばれる事件である。カルヴァンはこの事件のとばっちりを受けて国外に亡命した。この時点でカルヴァンがカトリックに対立する信仰をどの程度もっていたのかはよくわからないが、2年後、1536年には亡命先のスイスのバーゼルでラテン語による神学書「キリスト教綱要(Christianae Religionis Institutio))」を出版し、新しい神学を確立して、一躍欧州の著名人になった。カルヴァンにしてみるとこれも最初はまだ20代の作品だったが、そ後の神学論争を反映して改訂につぐ改訂で最終的な版は1559年になった。この「キリスト教綱要」でもカルヴァンは詩篇朗詠の重要性を説いている。
 カルバンの神学は「キリスト教綱要」に表現されているとも言えるが、その神学が後のカルヴァニズムと言えるかについては議論が残る。一般的にはカルヴァニズムは、1618年のドルトレヒト会議で定めれたドルト信仰基準(Canons of Dort)として、(1)全体的な堕落(Total depravity)(2)無条件の選び(Unconditional election)(3)限定的な贖罪(Limited atonement)、(4)拒否できぬ恩恵(Irresistible grace)、(5)聖別者の忍耐(Perseverance of the saints)の5つ、頭文字を取ってTULIPとされている。
 「キリスト教綱要」出版後カルヴァンは、イタリア、そしてスイスのバーゼルからジュネーブと流浪した。ジュネーブ市では市の独立に合わせてキリスト教の改革に乗り出したが失敗して追放された。その後1538年、フランスのストラスブールで当地で盛んだった詩篇朗詠の影響を受け、カルヴァン自身も詩篇翻訳に乗り出し、1539年に最初のジュネーブ・サルターが出版された(これには後述するマロ訳も含まれている)。
 ストラスブールでカルヴァンは後家さんを世話してもらって結婚した(式は挙げていない)。1541年、追放されたジュネーヴ市ではあったが、同市に残る支持派が盛り返し、カルバンが招聘された。以降彼はジュネーブの地に終生落ち着き、為政者として神権政治を展開し、意にそぐわない者は火あぶりにした。ジュネーブのカルヴァンによるコミュニティの影響からカルヴァン派と呼ばれるプロテスタント派が生まれた。
 ジュネーブ・サルターの編纂史で重要なのは、1541年、フランスの詩人クレマン・マロ(Clément Marot)(1496年-1544)が、詩篇の詩50編をフランス語で翻訳して出版し、当時としては大ベストセラーとなったことだ。宮廷貴族から庶民までマロ訳詩篇を朗詠するようになった。マロ訳詩篇は出版以前からかなり流布されていて、最初のジュネーブ・サルターにも収録されていた。
 詩篇の翻訳は以前からあるのに、なぜこれほどまでマロ訳詩篇が大ブームになったかというと、それが韻文だったためである。詩篇の詩は元のヘブライ語では韻文であるが、ギリシア語やラテン語に訳された時点で散文化され、さらに他の言語への展開も散文になった。マロ訳はこれをあえて韻文として訳出しため朗詠しやく、しかもメロディが載りやすいので歌唱しやすくもなっていた。このマロ訳韻文詩篇の流行は、当時のフランスのプロテスタントの活動の原動力ともなり、むしろカルバンはこの韻文聖書朗詠の熱気を受け取った側にいた。
 ところでマロがなぜ詩篇を韻文に訳したのかだが、信仰上の理由ではなかった。これこそまさにルネサンスという文芸活動だろう。マロ自身、父親が詩人であり当時の人文学を学んでいた。こうした背景や活動のせいで、マロは1534年の檄文事件でも影響を受け、各地を逃げ回ることにもなった。
 マロ訳韻文詩篇の人気は、当時の神学者の嫉妬の対象でもあり、またプロテスタントへの普及も苦々しく思われていたため迫害され、1541年、マロはカルヴァンを頼ってジュネーブに逃げ込んだ。カルヴァンはマロの詩篇訳を好み、自身の詩篇訳を断念したほどだが、両者はほどなく断裂し、マロはジュネーブも追われイタリアに逃げ込み、1544年、トリノで客死した。
 マロによる詩篇の韻文訳は詩篇全体ではないため、カルヴァンはこれを全150編分完遂しようとして、自家詩集を出したこともある神学者テオドール・ド・ベーズ(Théodore de Bèze)(1519-1605)に韻文訳を依頼した。詩篇全体の韻文訳がジュネーブ・サルターとして完成したのは1562年で、カルヴァンが54歳で死去する2年前であった。なお、カルヴァン死去後、ベーズはその権力を引き継ぐことになる。
 ジュネーブ・サルターは、マロの時代からメロディを付けられて歌われてきた。1562年の完成版はグレゴリアン・チャントと同じ記法のメロディも付与されて、事実上、現在の讃美歌集の原形になっている。このことは逆に現代の讃美歌にもその影響を残した。手元の讃美歌集を開くと、メロディは違うが、1番「礼拝 賛美」には"Geneva 1551"とあり、ジュネーブ・サルターが起源となっていることがわかる。
 ジュネーブ・サルターの全体の日本語版は2006年に「日本語による150のジュネーブ詩編歌」(参照)として出版されている。英語版については"Genevan Psalter Resource Center"(参照)で無料で配布されている。これらは、フランス語からさらに近年英訳した歌詞に当時のメロディが充てられている。実際に歌われている音楽ファイルも無料で配布されているので聞いてみると、いかにもルネッサンスらしい雰囲気が感じられる。


 
 

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2012.06.14

詩篇と関連した神名などについて

 シンシア・ブジョーの「詩篇を歌う」(参照)を読みながら、聖書の詩篇についていろいろ考えた。心に残っているうちに一部をメモしておきたい。
 ブジョーの本はよく書けているが、意図的かはわからないにせよ関連しているはずなのに抜け落ちたかに見える話題もある。一つはプロテスタントと詩篇の関わりである。これは別途扱いたい。もう一つは、砂漠の教父たち黙想をカッシアヌスやベネディクトゥスに結びつけていく説明は見事だが、おそらく砂漠の教父たちの信仰にはそれ自体に独立した形式を伴った朗詠が含まれていたことだ。砂漠の教父たちのチャンティングは実際にはどのようなものだったか。
 砂漠の教父たちの朗詠の原形の一端は、おそらくイエス・キリストも服しただろうユダヤ教の儀礼があるだろうが、それだけではなく、現代のコプト教会やエチオピア教会に残る、呻るようなチャンティングもあったのではないか。これらは、聴き方にもよるが日本の木曽節のような感じで浪々と呻る。

 呻り上げる吟詠はコンスタンチノープル主教座のチャンティングにも残っていて、響きの印象としてはクルアーンの朗詠ともつながっている。これらは砂漠の教父たちの朗詠に起源を持つものではないだろうか。

 砂漠の教父たちの朗詠とクルアーンの朗詠について考えつつ、たまたまアメリカ標準訳聖書(ASV: American Standard Version)の詩篇を読んでいたとき、神名"Jehovah"につまづいた。神名の記載は知ってはいたが実際にチャンティングしようとしたら、神名は奇妙にきつく感じられた。「この感じはクルアーンに近い」とも思った。詩篇もそのまま神名で朗詠し、しかも木曽節風の砂漠の教父のうなり声で朗詠すると、印象としてはクルアーンに似てくるだろう。
 言うまでもないことだが、ユダヤ教では、砂漠の教父の時代にすでに神名"יהוה"は音読されてはいない。だとすると当時のユダヤ教徒はそもそも詩篇の朗読もできないではないか、ということになりそうだが、朗詠の際には、"אדני"(アドーナイ)を充てていた。アドーナイの意味は「主」である。朗詠には七十人訳聖書のコイネ・ギリシア語に拠っただろう砂漠の教父たちも、"אדני"から訳された"Κύριος"(キュリオス)、つまり「主」を使っていた。呼格は"κύριε"(主よ!)である。
 神名が朗詠のなかで露出することは、原始キリスト教にも砂漠の教父たちにもない。その点からすると神名が強調されることはクルアーンの特異性のように思えるが、その神名"الله"は、アラビア語を使う非カルケドン派の地域では旧約聖書の"אדני"(アドーナイ)の代わりに利用されていた。つまりその伝統では"الله"は"יהוה"を指していた。旧約聖書を基礎としているクルアーンの内容からもその同一性は理解できる。別の言い方をすると、"الله"が神名として朗詠のなかで意識されるときにクルアーンが成立したと言えるかもしれない。
 話をASVと神名に戻す。なぜ近代になって、ここに神名"Jehovah"が露出したのか。あらためて考えると奇妙な感じがする。これも言うまでもないことだが、欽定訳聖書(KJV: The King James Version, AV: Authorized Version)には神名はなく、詩篇をサルターとして含む聖公会祈祷書にも出てこない。ラテン語のウルガタにも神名はなく("Dominus"である)、それを引くカトリックの聖書にも神名は出てこない。なのになぜASVに出てくるのか。あらためて調べると、KJVに神名はなんどか出ていたことを確認した。ティンダル聖書の影響もあるのだろうが、このあたりはむずかしくまた別の機会に調べたい。
 ASVの元になる英国側の改訂訳聖書(RV: Revised Version)はどうかと見ると、やはり神名"Jehovah"は出てくる。しかし私が英訳聖書として使っていた改訂標準訳聖書(RSV: Revised Standard Version)になると神名は消え、大文字の"LORD"が充てられている。RVの旧約聖書が1884年、またASVが1901年だが、RSVは1951年であり、アドーナイの読み換えを継いで"LORD"が復元するまでに半世紀の開きがある。
 日本語の聖書はどうか。私が使っていた日本語の聖書、通称口語訳はRSVの翻訳方針を元にしたもので、旧約部分は1955年にできた。私が生まれる2年前になる。口語訳の翻訳作業では、昨年97歳で亡くなったユージン・ナイダ(Eugene Nida)博士が尽力された。私はそのお弟子さんから翻訳と聖書を学んだので懐かしい。話を戻すと、それゆえ通称大正訳ではその当時の英米圏の主流である神名「エホバ」が含まれているが、戦後の口語訳では「主」に戻されている。
 なぜ「エホバ」なのか。この読みは、母音を含まない表記のヘブライ語の神名"יהוה"に"אדני"(アドナイ)の母音を当てはめて近い音にしたものとされているが、厳密にはわからない。
 衒学的な話のようになってきたが、詩篇を朗読するとき、神名の直接性は非常に大きいとあらためて痛感した。そしてこれをキリスト教徒が"LORD"または「主」として朗詠するとなると、当然ながら、父なる神と子なるイエス・キリストの差はなくなることになる。つまり、ごく素朴なレベルで三一教義が保証されないと、詩篇の朗詠すらできない。もちろん、こうした問題を非三一的に回避するには、ASVのように神名を詩篇に押し込めて読むしかない。三一教義を避ける「ものみの塔」の人たちはRSVや口語訳聖書を使うことができないので、1982年になってようやく神名を保持する新世界訳ができたときは嬉しかったようだ。それまでは大正訳を使わざるをえなかった。
 これでこの話はおしまいという雰囲気だが、英語やラテン語、またはギリシア語あるいは原典であるヘブライ語で詩篇を朗詠するなら以上で整理が付くといえば付くのだが、日本語で聖書を朗詠するとなると、日本語独自の問題が生じる。口語訳聖書の詩篇は、まさに戦後詩といったもので朗詠に適さないのである。個人的な感性もあるだろうが、讃美歌と同様、文語でないと様にならない。神名が露出している大正訳で「主」と読み替えてもいいのだろうけど、まいったなあ。みなさん、どうしてるんだろうと思う。「みなさん」って誰?
 きちんとした典礼を持つカトリックはどうしているのだろうか? いいもん、もってるんじゃないかともちらと思った。ラテン語のままかな、とかも思ったとき、おっと、第2バチカン公会議(1962-1965)で、ミサなど典礼はその地の母国語になったのだった思い出した。
 聖公会の祈祷書はどうかとこれもちょっと調べてみると、口語化されているようだ。それなら戦前の聖公会の祈祷書を探せばよい。立教大学にいけばありそうだ。さて、そこまでしてと、ふと、他に日本の正教にあるんじゃないかと試しにネットを探したら、あった! 正教会訳旧約新約聖書というサイトの「旧約・聖詠(PDF)」(参照)。これは格調高い。


第四十五聖詠

神は我等の避所なり、能力なり、
患難の時には速なる佑助なり、

故に地は動き、山は海の心に移るとも、
我等懼れざらん。

其水は號り激くべし、
其濤たつに依りて山は震ふべし。

河の流れは神の邑、
至上者の聖なる住所を樂ましむ。

神は其中に在り、其れ撼かざらん、
神は早朝より之を佑けん。

諸民は騒ぎ、諸國は撼けり。
至上者一たび聲を出せば地は融けたり。

萬軍の主は我等と偕にす、
イアコフの神は我等を護る者なり。

來りて主の爲しし事、
其地に行ひし掃滅を視よ、

彼は地の極まで戰を息めて、弓を折り、
矛を折き、火を以て兵車を焚けり。

爾等止りて、我の神なるを識れ、
我諸民の中に崇められん。

萬軍の主は我等と偕にす、
イアコフの神は我等を護る者なり。

 オバマさんの詩篇朗読はチャンティングではないし格調という点でもどうかと思うが、この詩の強烈な雰囲気はよく表現されている。ああ、米国!

 
 

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2012.06.13

[書評]詩篇を歌う(シンシア・ブジョー)

 何かを自習するための教本でこんなに楽しいのは久しぶりだなとシンシア・ブジョー(Cynthia Bougeault)の「詩篇を歌う(Chanting the Psalms)」(参照)を読んだ。

cover
Chanting the Psalms
Cynthia Bougeault
 内容は簡素なタイトルが示すように聖書(旧約聖書)の詩篇を朗詠するための基礎知識や簡素化された技法、さらに現代的な朗詠や歌唱化の手法を扱っている。グレゴリアン・チャントの基本も説明されている。翻訳はないようだが平易な英語だし、読んだだけではわかりにくい部分は添付のCDで聞くことができる。記載されている楽譜も最小限だ。著者ブジョーは、耳で聞いて覚えなさい、耳を信頼しなさいと、鈴木メソッドの例で教示している。
 こういう本で詩篇や英詩の朗詠について若いときに勉強できたらよかったのに、と読後悔みもしたが、著者ブジョーが提示するこの新しい詩篇朗詠の動向は1990年代以降に生じたらしく、この簡素な朗詠法はそれほど広く定着してはいない。それでも本書やその他のメディアから彼女の提言で啓発された人も少なくない。聖なる詩句の朗詠を生活に組み入れて人生が変わっていくことは理解できる。そもそも詩篇が現代的に生き返るというのも驚きでもあった。
 知りたいと思っていたのに知らなかったことも本書にいっぱい書かれていた。単純なところでは、なぜ詩篇がそれほど重視されているのか。私が人生で最初に購入した聖書は新約のみの文庫本サイズで、その後トルコやギリシャを旅行するとき携帯したものだが、これに詩篇が付いていた。なぜ新約聖書に詩篇がついているのかと少年時代から疑問に思っていた。詩篇が重要であるということは知的にはそれなりに理解できる。イエス・キリストを含め新約聖書に描かれる人々にとって詩篇は、私たち日本人にとっての童謡や唱歌のように常識を形成しているからだ。イエス・キリストが十字架にあって「わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまいし」と叫んだとしても、これが絶望ではないことは詩篇を読んでいたら普通にわかる。だが、詩篇の重要性が十分に腑に落ちるというふうでもなかった。
 修道院でもプロテスタントの集会でもよく詩篇が朗詠されているもの知っているが、すっきりと理解したわけでなかった。詩篇の詩の韻律や語句を調整して讃美歌に収録されているのも知っている。逆になぜ詩篇をそのままの形で歌うのだろうか疑問に思っていた。讃美歌を増やしたり、新しい歌集を作ってもよいのではないか。そうした疑問の大半は本書で氷解した。
 詩篇(Psalm)が西欧ではサルター(Psalter)として独立書籍として愛用されていることもわかった。少年の私が愛用した新約聖書はサルター付きだったのだ。聖公会祈祷書(The Book of Common Prayer)がサルター(Psalter)を内包していることも知らなかった(聖公会のガールフレンドがいたのに)。あれはただの祈祷書だと思っていたのである。たしかによい意味でただの祈祷書ではあるのだが、サルターを含んでいることも知らないで英文学とか学んでいたのかと無知に恥じ入る。本書でいろいろと「ああ、そういうことだったのか」と腑に落ちた(失恋についてはそうでもない)。
 本書は三部構成で、一部では現代的でかつ実践的な視点から詩篇と朗詠が概説されている。現代人の感覚からすると古代のユダヤ教の詩には共感しづらい残酷性もあり、そうした側面についてもていねいに対応されている。具体的には信仰として受け取り直すことや、現代的な新翻訳を選ぶことが勧められている。そうしたニーズから新しく現代的なサルターも出版され、人気を得ていることも知った。しかし詩篇を朗詠するという場合、現代的な新訳は内容的には理解しやすく啓発的でも、音楽的に朗詠しやすいかというと、むずかしい。理解をとるか韻律の音楽性をとるか。カトリックの新訳詩篇はバランスがよいとの指摘もあったが、ベストな解答はなさそうだ。
 二部では添付のCDへの参照を含めながら、朗詠の実習が中心になる。いわゆる教本的な部分である。驚いたのは朗詠の基本原理だった。最初に提示されるのは、単音による朗詠。これに句末の音階上げと下げが追加される。著者ブジョーはこの簡素な操作だけでも詩篇が全部朗詠できますよという。なるほどと思った。そしてこれを基本に句末に英国風の音階的な修飾を加えたり、句内に音階的な変化の導入する手法が説明されていく。説明が上手で読みながら目から鱗が落ちる。朗詠向けに基本的な音階フレーズのレパートリーもあるといいとする勧めも頷ける。そういえば讃美歌集の巻末のほうに朗詠の楽譜あったことを思い出した。これは今まで歌ったことはなかった。
 二部の後半ではグレゴリアン・チャントの記法の読み方も説明されている。基本は一通り説明されているがそのままグレゴリアン・チャントを習得しましょうという話ではなく、あくまで朗詠の全体像のなかで示されている。そうした全体像でさらに重要なのは、アンティフォン(antiphon)である。ここでも「こんなことも今まで知らないでいたのか自分は」と悔やんだ。つねづね疑問だったことに、ずばりの解答が存在していた。
 日本語でアンティフォンをなんと呼ぶのか知らない。字引には「交唱歌」とある。掛け合って歌うというイメージになりやすい。たしかに原義はギリシャ語のαντιφωναで、αντιが「対となる」φωνα「音」から二組の合唱隊として組織されることもあるが、歌唱としての意味は取りづらい。著者ブジョーはこれをサンドイッチのパンとして説明している。朗詠の前後から挟む短い歌ということだ。詩篇の詩の朗詠がメインのコンテンツで、これにオープニング曲とエンディング曲が付くといった感じである。
 詩篇の朗読には短いオープニング曲とエンディング曲が付く。言われてみればそうだと理解してさらに、これが聖務日課(Divine Office)を構成するというとき、目から瓦が落ちました。言われてみれば当たり前なのだけど、正教やカトリックを頭で理解し、そしてその音楽を芸術として堪能してきた自分は、かくまで無知であった。著者ブジョーは、詩篇を歌うということは、自分の聖務日課を持つことだとしている。当たり前といえば当たり前だが、そうした精神性のなかで詩篇をきちんと捉えることは重要である。さらに儀礼化した聖務日課をクリエイティブに作り替えていくという発想にも驚いた。驚きの連続の一つは、テゼの歌はアンティフォンですよという指摘だった。まさにそのとおり。テゼに示されるアンティフォンのような短く美しい聖句は、それだけで黙想の祈りともなる。
 第三部ではテゼを含め、いくつか創造的な適用(Creative Applications)が議論されていく。詩篇を歌う各種アプローチから生み出される美しい歌に感動する。これからいろいろ聞きたい分野が増えてきたと嬉しく思えた。
 添付されたCDを聞きブジョーの解説を読んでいくうちに、間接的にだろうが、グレゴリアン・チャントやテゼの歌への感性が変わってきた。本書の直接的な内容ではないのに、自分の持っている正教のCD(ギリシャとかで購入してた)やグルジェフの曲やヒルデガルドの曲への感性が変わる。拡張してく感じだ。自分の内面に今までとは違った音楽の感性が生まれている。嬉しい。若い日にいろいろなことを学んだときの驚きの感覚がよみがえってきた。
 
 

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2012.06.12

非カルケドン派とキリスト教王国

 あまり読む人もなさそうなキリスト教史のような話を連ねていくのもなんだなが、あるところまで書いたら自分のなかで終わるだろうとも思っていたが、だいたい終わり、一区切りかなという感じもしたが、朝方ぼんやりと、なぜ非カルケドン派はカルケドン会議を認めなかったのかとつらつら考えていて、そうだ、そのとおりではないか、と気がついた。そうだ、そのまま「非カルケドン派はカルケドン会議を認めなかった」ということ。何となく、公会議で非カルケドン派が排斥されたかのように思っていた。その思い込みは何から来たか。「東ローマ帝国」という詐術である。
 カルケドン会議は、ローマ皇帝マルキアヌス(Marcianus)が召集し、コンスタンチノープル総主教アナトリオス(Anatolios)が主導した。このあたり通説はどうなっているかと、ウィキペディアを見ると、「東ローマ皇帝マルキアヌス(Marcianus)によって召集され」と無造作に「東ローマ皇帝」とある。英語はどうかと見ると、"the emperor Marcian"は文脈上「東ローマ帝国(Eastern Roman Empire )」に参照されていた。同じである。私は「東ローマ帝国」というものは存在しなかったと考えている。当然「ビザンチン帝国」だの「西ローマ帝国」だのも存在しない。これらはある歴史観から創作された歴史術語に過ぎない。もちろんその歴史観を採用してもよいが、私はそれは近代西欧による偏見の反映に過ぎないと考えている。存在したのはローマ帝国だけで、その統治で大きく西側の財産管理権が分離してその部分が早々に滅亡したと見ている。
 ローマ帝国は一貫してローマ帝国だった。7世紀に入ってもヘラクレイオス(Ἡράκλειος)までは皇帝尊称も公用語も変化はなかった。そもそもローマ帝国というように「帝国」とされているが、元来は共有財産(res publica)の管理権とそれに付随する市民権であった。
 ウィキペディアなどに採用されている西欧的な史観では、「東ローマ帝国」はコンスタンティヌス1世(272-337)から始まるとしている。理由はコンスタンチノープル遷都なのであろうが、歴史的には遷都と呼べるような実態はなく、皇帝が居住するのは、わずか一年間の皇帝ではあったがテオドシウス1世(347-395)からである。にもかかわらずコンスタンティヌス1世が称賛されるのは背景があるのだろう。おそらく彼がローマ帝国をキリスト教化したということではないか。実際に彼がしたのはキリスト教の認可にすぎないのに。
 と考えていて、わかったのだが、コンスタンティヌス1世称賛は、実質的には彼が初めて「公会議」を招集したことによるのではないか。これによって、ローマ帝国と関連付けられた「正しいキリスト教」が成立する。別の言い方をすると、ローマ帝国の統治の手法をキリスト教に導入するということである。目的は、ローマ帝国が地上を支配する王国であり、これを天国を支配するキリスト教と結合させることだ。第一公会議である第1ニカイア公会議では、アタナシウスによる三一教義が採択されたが、これは、天国の神=父、地上の皇帝=子、そして加えておそらく市民支配=聖霊といった暗喩が込められていた。権威はすべて「父」に帰することなり、キリスト教帝国としてのローマ帝国が完成する。
 ギリシア語を公用語にしたヘラクレイオス以降のローマ帝国では、皇帝尊称は、古来の皇帝尊称に「バシレイウス(Βασιλεύς)」が優先する。このあたりの話はキリスト教を知らないとわからないかもしれないなと、ふと気になってウィキペディアを見るとこの項目に以下の話が書かれている。


古代ローマ帝国後期においては「インペラトル、カエサル、フラウィウス、アウグストゥス」が皇帝の称号であり、初期の東ローマ帝国でもそれが引き継がれていた。ギリシア語版の勅令でも「アウトクラトール(支配者の意。インペラトルに相当)、カイサル、フフラウィオス」や「アウグストス(ないしは、同じ意味のギリシア語であるセバストス)」と記されていた。

ところが629年にサーサーン朝に勝利して首都コンスタンティノポリスヘ凱旋した皇帝ヘラクレイオス(在位:610年 - 641年)は、「キリスト信者のバシレウス」とだけ名乗った。のちに「アウトクラトール、カイサル、フラウィオス、セバストス(またはアウグストス)」といった伝統的な称号も復活し、併記されるようになった[1]が、以後これが東ローマ帝国における皇帝の称号として定着することになった。

当時、ゲルマン民族などの侵入によってラテン語使用地域の大半はローマ帝国の支配領域から離れてしまっており、新設された官位などもギリシア語の名称を使用するようになっていたことなどから、このことは帝国の公用語のギリシア語化、「ローマ帝国のギリシア化」を象徴するものとされているが、具体的になぜこの時期にヘラクレイオスが急に称号を変えた(即位時には伝統的な称号を使用していた)のかは定かではない。一説によればそれまで「バシレウス」は「諸王の王(シャーハンシャー、ギリシャ語では「バシレウス・バシレオーン」)」と称していたサーサーン朝の君主をさす用語であったものだったが、サーサーン朝を降したことによってヘラクレイオスが新たな「諸王の王」であると宣言した、とも言われている。

なお、本来「王」を示すバシレウスが皇帝を示す用語に変わったことから東ローマ帝国では他国の王を示す言葉として、ヨーロッパ諸国の王には「レークス」(ラテン語の "rex" 由来か)、アジア系民族には「カガノス」(可汗由来か)が使用されたという[2]。[3]


 ここを書いた人はキリスト教に詳しくないのだろう。というのは、これは「主の祈り」からすぐにわかることなのである。

Πάτερ ἡμῶν ὁ ἐν τοῖς οὐρανοῖς·
ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου·
ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου·
γενηθήτω τὸ θέλημά σου,·
ὡς ἐν οὐρανῷ καὶ ἐπὶ γῆς·

 ただし日本語訳だと多少わかりづらい。

天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ

 この「み国」が「バシレイア」であり、その王が「バシレウス」なのである。キリスト教の考え方では、天の王国の王(バシレイウス)が父=神であり、この王国が「地にも」及べ、ということで、天の王国の父と合意した地の王としての「バシレイウス」が希求される。これがキリスト教ローマ帝国である。日本人にはこじつけた考え方にも聞こえるかもしれないが、日々主の祈りをギリシア語で唱えていた当時のローマ帝国の市民には、ごく当たり前の感覚だっただろう。
 こうしたキリスト教帝国の端緒となったのがコンスタンティヌス1世であり、その天と地の整合として、つまりキリスト教帝国の権威の顕現として「公会議」が仕組まれていった。だが、コンスタンティヌス1世の時代ではまだ権威の意識は各総主教座には認知されていなかったのではないだろうか。
 話が冒頭に戻るが、「非カルケドン派」と後にされた神学者らにしてみると、神観・神学は多様にあり、神学的な正さからの理解と承認はあっても、それが地の王国であるキリスト教帝国の権威によって認可されるという事態はそもそも理解できなかったのではないか。ごく簡単にいえば、「非カルケドン派」にしてみると「公会議」と称するカルケドン会議の人々は「単性説か両性説かだけで議論するなんてキリスト教がわかってないなあ」ということだったのではないか。カルケドン会議のその後を追ってみると、合性説の扱いが微妙になっていく。
 両性説問題はカルケドン会議(451)で神学的な決着がついたとは言いがたいことから、ほぼ100年後「第2コンスタンティノポリス会議」(553)に蒸し返しが起こる。ここでは「三章問題(τρία κεφάλαια)」として三つの問題が議論されたが、この過程で合性説の厳密化が提示された。これがコプト教会などが持つ合性説とほぼ同じ形に見える。この議論が深まれば「非カルケドン派」が合理的に正統に回帰した可能性もあるだろう。しかし、そうならなかった。理由は「非カルケドン派」の多い地域がイスラム圏化し、政治的に分離していったためである。
 余談だが、イスラム圏を創始したムハンマド(Muhammad Ibn `Abd Allāh Ibn `Abd al-Muttalib)(570頃-632)はアラム語を母語とし、砂漠の教父のように黙想を信仰に取り入れていた。610年頃、マッカ郊外のヒラー山の洞窟で黙想していると、かつてイエス・キリストの誕生を告げた天使ガブリエルが現れた。驚いたムハンマドは、15歳年上の、以前雇い主だったが今では嫁となったハディージャに相談すると、彼女は従兄弟のキリスト教僧ワラカ・イブン・ナウファル(Waraka ibn Nawfal)に相談した。こうした逸話から推測するとムハンマドも砂漠の教父に根を持つキリスト教徒だったのだろう。
 

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2012.06.11

砂漠の教父とコプト教会

 砂漠の教父(Desert Fathers)とコプト教会の関係が気になるので、自分なりに少し整理しておきたい。
 先日のエントリー「砂漠の教父と黙想の祈り、改革者としてのアタナシウス」(参照)で砂漠の教父に言及した。背景の基本構図としては、ローマ帝国の遷都に伴い、ローマ帝国がキリスト教帝国となり、帝国西部崩壊でローマ主教座が独立・分離する以外は、各地の総主教座はコンスタンチノープルの主教座を名誉的な頂点として統合された。現在のエジプトに居住していた砂漠の教父らも基本的にはこの構図から、アレクサンドリア総主教座に以降、納まることになった。だが、砂漠の教父とアレクサンドリア総主教座と後のコプト教会の三者の関係は、現在のキリスト教史観からはわかりづらい。この領域は、正教でもプロテスタントでもカトリックでもないためだろう。
 コプト教会は東方諸教会の「非カルケドン派」と呼ばれることがある。451年のカルケドン会議を公会議として承認しない派という意味である。「非カルケドン派」はコンスタンチノープル主教座を頂点とするキリスト教ローマ帝国からは逸脱したことになり、また「非カルケドン派」を継ぐコプト教会も正教会から分離したことになっている。しかし、この分離は歴史学的には、カトリックの分離のようなシスマとしては理解されていないし、実際のところシスマ、特に大シスマは、1054年とずっと後のことになる。「非カルケドン派」が歴史的に実際、何を意味していたかは、存外にわかりにくい。
 カルケドン会議では、単性説(Monophysitism)が排斥され、正統キリスト教は両性説(Dyophysite)とされ、カルケドン信条が採択された。すると「非カルケドン派」および現在のコプト教会は、単性説を支持し、カルケドン信条を採用しないというようにも思える。だが、これは間違いである。
 まずカルケドン信条だが、そもそもこれは正統キリスト教を規定する信条なのだろうか? カルケドン信条を承認しないと異端となるのだろうか? 現状、カルケドン信条は、カトリック、正教会、およびプロテスタント教会の長老派や改革派で承認されているが、積極的に受洗に唱えられているというふうでもなく、他の儀礼に組み込まれているふうでもない。教義上の補助といった位置づけのように見える。
 カルケドン信条は歴史的には、原ニカイア信条、またこれを確認したニカイア・コンスタンティノポリス信条の次に位置し、この二つの信条の関係は、厳格化および事実上の改訂化である。このことからすると、これに後続するカルケドン信条はニカイア・コンスタンティノポリス信条をさらに厳密化し改訂化したものと想定してよさそうなものだが、原文を比較してもそう判断することは難しい。ニカイア・コンスタンティノポリス信条と比べてカルケドン信条が目立って異なるのは「われわれの救いのために、神の母、処女マリアから生まれた」として「神の母」を明記し追加している部分だが、これはキリスト教に必須の教義と言えるかは疑問だろう。重要点は三一信仰を両性説から詳細化している部分であり、正統を支える両性説の明確化にある。
 両性説は、ごく簡単に言えば「イエス・キリストは神性において父と同一本質であり、人間性において私たち人間と同一本質のものである」という主張である。二つの位格に二つの本性を持つ。これに対して排斥された単性説は、エウティケス(Eutyches)によって提唱された考え方では、「イエス・キリストの人間性は、父たる神の神聖によって吸収され、一つの本性になった」とする考え方だ。イエス・キリストの性質は神であって人間ではないとする考え方、つまり、イエス・キリストは人間に見えるけど人間の心や思いなど人間らしい特性をもっていない特殊な存在だと理解してよいだろう。
 奇妙なことに「非カルケドン派」はこうした単性説を採ってはいない。彼らは合性説(Miaphysitism)を採っている。これは「イエス・キリストは、三一の位格において、神性と人間性という二つの本性は、分割されず、混ぜ合わされることなく、変化することなく、結びあわされている」とする考え方である。このコプト教会の合成説と正統とされた両性説がどう違うのか、わかりづらい。同じかあるいは合性論のほうが三一において明確であるように思える。コプト教会の分裂はおそらく神学的な問題ではなく、政治的また歴史的な問題だろう。「非カルケドン派」は、カルケドン信条による、異端などを扱う神学上の問題ではなく、この会議の歴史的な制約によっているものだろう。
 次に疑問となるのは、アレキサンドリア総主教座と非カルケドン派の関係である。一見すると、ローマ総主教座が後に教義的に分裂していくように、アレキサンドリア総主教座も教義的に変化したようにも思える。しかし、合性説を見るのであれば教義的な問題とも思えない。
 歴史的に理解できることは、現在のコプト教会の主教が教皇(Pope)の称号、つまりアレクサンドリア総主教の称号を持っていることで、普通に考えれば古代アレクサンドリア総主教座を現代に維持しているのが、エジプトのコプト教会の教皇であると言えるだろう。ただし、正教側にも形の上ではアレクサンドリア総主教座が存在している。

 ローマ帝国というキリスト教帝国を神学面で実質的に作り上げたのは、三一教義をまとめ聖書正典を整備したアタナシウスであるが(参照)、彼はアレキサンドリアの主教から総主教になった人物でもある。すると、帝国キリスト教はアレキサンドリア、つまりエジプトから発生したとも言えるし、彼自身も迫害の過程にありながら、エジプトの砂漠の教父との親交を持ち、権力を掌握して以降は砂漠の教父たちの組織化を図った。しかし、完全に組織化されたわけでもなく、シンシア・ブジョーなどはむしろキリスト教の精神性は以降も砂漠の教父らに残ったと見ている。この指摘には、修道会史から頷ける面もある。
 カトリック最古の修道会と言われるベネディクト会を創設したのはヌルシアのベネディクトゥス(Benedictus de Nursia)(480年頃-547年)だが、この修道会の原形を作ったのが、彼に大きな影響を与えたヨハネス・カッシアヌス(Johannes Cassianus, John Cassian)(360-435)であった。黒海沿岸小スキュティアに生まれたカッシアヌスは青年期にキリスト教を学ぶために中東からエジプトの砂漠に向かい、砂漠の教父のもとで学び、彼自身も砂漠の教父となった。その意味で、ベネディクト会もまた、エジプトの砂漠の教父の教統に生まれたものであり、特に、その修道院的な組織や祈りのありかたは、砂漠の教父の信仰実践につながるものである。
 砂漠の教父の神学的な基礎は、アレクサンドリア学派と呼ばれる新プラトン主義のオリゲネス(Origenes Adamantius)(182頃-251)神学によるところが大きい。カッシアヌスも神学的にはその系統にあったのではないかと思われる。カッシアヌスは後年、この地の多数のオリゲネス神学者ともに迫害を受け、コンスタンチノープルから追放され、ローマに送られた。ここで砂漠の教父的修道院の原形がラテン語圏で作られることになった。
 と、まとめてみて、うかつにもはっと気がついたことがあった。新プラトン主義オリゲネスは、その著作「諸原理について(De Principiis)」で知られている神学者であることから、アレクサンドリアのフィロンのように著作の人であるという思い込みがあったが、そうではない。オリゲネスはまず教師であった。彼がまだキリスト教ゆえに迫害された時代、アレクサンドリアにキリスト教を教える学校としてディダスカレイオンを開いた。オリゲネスもまたアレクサンドリア学派の神学者アレクサンドリアのクレメンス(Titus Flavius Clemens)(150頃-215頃)によるディダスカレイオンで学んでいる。ディダスカレイオンはギリシア市民の知識教育の場でもあり、これを市民社会のなかに形成することは、まさにヘレニズムの知の活動そのものだった。アリストレスやプラトンが弟子を教育するのと同じ私塾の機能だったとも言える。
 修道院に残る黙想の起源がギリシア哲学のテオリア(観想)であったように、修道院に至る、古代エジプトの砂漠の教父たちの教えの組織は、古典ギリシア時代から続く私塾の伝統だった。しかもこれは、キリスト教が信条によって言明化されて教義化されキリスト教帝国が出現したときに、その影のように別の流れを作っていった。
 
 

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2012.06.09

人類祖先のアジア起源

 先日雑誌「サイエンス」のニュースに人類祖先のアジア起源の話があった(参照)。その手の話は以前にもあるし中国の学者とかが好みなので、またその類かなとも思っていたが、「サイエンス」誌でもあるしネタ元の論文を見たらPNASだったので、それほどネタ臭いというわけでもなさそうだった。記事は「サイエンス」から「ワイヤード」にも転載されていたので、日本でも翻訳も出るんじゃないかと思うが、今のところなんとなく見当たらない。ニュースとして取り上げているところもなさそうので、簡単にブログで拾っておきたい。
 あらためて言うまでもなく、人類の直接的な祖先はアフリカで発生したというのが定説である。だが今回のPNAS掲載の論文「ミャンマー発祥の始新世中後期霊長類と初期類人のアフリカ植民地化(Late Middle Eocene primate from Myanmar and the initial anthropoid colonization of Africa)」(参照)によると、約3700万年前にミャンマーの古代沼沢地に人類祖先の類人猿が生息し、ここから、この系統がアフリカ大陸へ旅をして、そこを「植民地化」したのではないかというのだ。
 信じたがたい印象はあるが、サルの発生がアジアというのは不自然でもないし、1990年代には中国を含め、アジアで類人猿の化石も発見されてきた。逆にこれに相当する類人猿の起源をアフリカに求めることは難しい状況のようでもある。すると人類が発生の元になる類人猿は、いったんアジアからアフリカへ向かったという道筋もありうるかもしれない。
 推測の元になっているのは、2005年にミャンマーで発見されたアフラシア・ジジディ(Afrasia djijidae)の臼歯である。ここから一気にアフリカ大旅行説というのも突飛な話に思えたが、リビアから発掘された、従来メガネザルの系統と見られていたアフロターシウス・リビカス(Afrotarsius libycus)と酷似しており、これがアフラシアと同系である可能性が高まっている。アジアとアフリカ間での、こうした類似性の発見も初めてらしい。


アフラシアとアフロターシウス(臼歯)

 アフラシアのほうが古いことから、むしろアフロターシウスはアジアからリビアにやってきた類人猿と推測されるが、単純にこのアフラシアが祖先とも言えなさそうだ。アフラシアに類似の類人猿がアジアからアフリカに到達し、ここで外敵がないことで多様な進化を遂げたようだし、その多様性の進化の爆発が人類への道だったようだ。今回発見されたミャンマーの系統はその後絶滅したのだろう。


系統図

 それにしても、どうやってミャンマーからリビアにやってきたのか不思議だ。当時は陸続きでもない。気の遠くなるような時間をかけたとしても、時間が経てば移動するというものでもないので、依然不思議である。ひょっこりひょうたん島みたいなもので流れ着いたという考えもありそうだが、それも空想が過ぎるようには思える。
 
 

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2012.06.06

砂漠の教父と黙想の祈り、改革者としてのアタナシウス

 1960年代以降に再評価される黙想の祈り(Contemplative prayer)は、英国中世の「不可知の雲」を直接的な源流としているが、それに終始することなく、黙想(Contemplation)を重視したキリスト教信仰の形態として古代の「砂漠の教父(Desert Fathers)」も再考されていた。この再考はキリスト教とは何だったのか、という問題を現代に投げかけている。
 「砂漠の教父」に厳格な定義があるのか私は知らない。またこの視点がどのように生まれたかについてもわからない。一般的には、現在のスーダンに面するエジプトで暮らしたアントニウス(Αντώνιος)(251~356)を代表とするように、3世紀を中心としたエジプトの地のキリスト教の教父(Father)を指している。"Father"の訳語には「教父」の他に「師父」もある。現在的な訳語「神父」はない。この時代には現代的なキリスト教の制度がなかったという含みだが、現代のカトリックでも正教でも「神父」は信徒からの慣例的な呼称だから「神父」を充てても間違いとも言えないだろう。「神父」の「神」は日本語の「神(God)」ではなく中国語の「神(sprit)」に由来する。制度的には「司祭」に相当する。カトリックの司祭は原則独身だが正教の司祭は婚姻者もいる。主教は修道僧からなるが慣例なので独身者が多い。"Father"のみならず、女性もいたことやフェミニズムへの配慮から"Desert Fathers and Mothers"と呼ばれることもある。
 現代のカトリックでは「司祭」を束ねるのが「司教(bishop)」である。カトリックでこの最上位に「教皇」を頂く。日本では「法王」の訳語が充てられることもある。正教には制度としての「教皇」は存在しないが、3世紀にはアレクサンドリア主教に「教皇(Papa)」の呼称があり、コプト教は現在もこの呼称を継いでいるため、2012年3月17日シェヌーダ3世の死去を「教皇」として報じるメディアもあった。正教では司教相当の"bishop"に「主教」の訳語を充てる。この上位に総主教を置きさらにコンスタンティノープル総主教に最上の名誉が置かれる。制度的な教皇には相当しない。正教からはカトリックはローマの主教管轄が歴史的に分化したものとし、教義が異なることからローマ教皇は主教とは見なされていない。
 「教皇(Papa)」の呼称が「父」に由来するように、正教の主教も「父」に関連している。「総主教」を意味する"Πατριάρχης(パトリアルヒス)"は"πατήρ" 「父」と"αρχων (archon)"「長」で「父長」である。70人訳聖書では12支族の「族長」の訳語である。
 五大総主教座は692年の通称トゥルーリ公会議で決められたがそれ以前から、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサリム、ローマの総主教座があった。ローマは後、抜ける。権威を争ってのシスマ(分裂)がその契機であり、1054年の大シスマが大きな目安になるが反目の萌芽は古い。ローマ帝国とキリスト教の関係をざっくりと見たい。
 ローマ帝国でキリスト教を認可したとされるコンスタンティヌス1世の治下、313年、現在のトルコのニコメディアで通称ミラノ勅令によってローマ帝国に信教の自由が保証された。自身もキリスト教徒でもあったコンスタンティヌス1世は自分の名を付けたコンスタンティノープルで330年に開都式を行い、ローマの首都と定めた。実際に都として定住したのはテオドシウス1世からで、その治下392年、キリスト教がローマの国教となった。テオドシウス1世は首都コンスタンティノープルを含むローマ帝国の東半分を長男アルカディウスに、西半分を次男ホノリウスに継がせたが、西側の統治は480年に終わった。これによってローマを含む西欧の地域がローマ帝国から分離された。481年には現在のフランスの地域にメロヴィング朝フランク王国の初代国王クロヴィスが即位し、西欧はローマ帝国からはいっそう独立していく。ローマ主教座もローマ帝国の版図からはずれ、その区域会議単独で495年、ゲラシウス1世を「キリストの代理者」とした。キリスト教帝国ローマを外れることで、西欧に実質的な教皇が生まれ、実質上のカトリック教会が誕生した。
 ローマ総主教座が独自性を強めていった背景には政治的な支配のほかに、正典とラテン語の関係がある。新約聖書はギリシア語で書かれていることからも明らかなように初期キリスト教の言語はギリシア語だった。だがカトリックではラテン語を使用し、言語文化的にも分化していった。カトリックの正典のラテン語翻訳であるウルガタ(Vulgata)の新約部分は382年にできた。それ以前からすでにラテン語聖書(Vetus Latina)は存在していたが、ナグ・ハマディ文書のような正典化以前の文書は含まれていない。その意味でも、カトリックは新しい時代、後に述べるアタナシウスによる創作といった側面が強い。


アタナシウスのイコン

 ローマ主教座が分離し単独の方向に進み出す以前、各地古代主教の活動で重要なのは公会議だった。公会議の起源は伝説としては使徒行伝が伝えるエルサレム会議とされている。実際に主教がローマ皇帝によって招集された第一回公会議は325年の第1ニカイア公会議(First Council of Nicaea)である。ここで三一教義が確認され、これを元にするニカイア信条が採択された。事実上、キリスト教が誕生したことになる。同時に三一に反するとしてアリウス派の教義が異端として排斥された。
 そもそも第1ニカイア公会議が開催された理由は、アリウス派の教義の扱いが最大の課題だった。3世紀にはアリウス派の教義が広まりつつあったが、これが正しい教義なのか議論が起きていた。キリスト教が政治の視点からも重視されつつあるローマ帝国にとっても重要な課題になっていた。アリウス派の教義の元になるのは、その名の元にもなる、アレクサンドリアの教父アリウス(Άρειος, Areios)(250~336) に代表される教義である。アリウスは、神とイエス・キリストの関係において、父たる神は唯一の創造主であり、子たるイエス・キリストは同質ではない異質存在(ヘテロウシオス)であるとし、しかしまったくの異質ではないので、類似存在(ホモイウシオス、ὁμοιούσιος)とした。これを問題視したアレクサンドリア主教アタナシウス(後、総主教)(Αθανάσιος)(298~373)は父と子は同質存在(ホモウシオス、 ὁμοούσιος)と主張してアリウス派と争った。
 類似存在(ホモイウシオス)と同質存在(ホモウシオス)は英語のiに相当するギリシア語のイオタ(ι)の有無の違いであるため、些細なことを大げさに大議論する神学論争の比喩として捉えられることもあるが、神学的には決定的な違いになる。アタナシウスの考えからは「御子は被造物でない」とも言えるし「イエスは神である」とも言える。これが三一でもありニカイア信条でも確認された。キリスト教は唯一神宗教と言われるが、その唯一神は父であり子・キリストでもある。これを奇妙な論理だと思う人がその後も絶えないことから、三一を取らずにキリスト教を称する派は絶えない。
 第1ニカイア公会議にはローマ帝国側の政治的な思惑もあった。キリスト教をローマ帝国統一の道具としたいコンスタンティヌス1世としては、暗黙に神に擬される皇帝の唯一性を強調したい。その意味で三一教義の正統性は好ましい。しかし、コンスタンティヌス1世は自身の信仰としては第1ニカイア公会議以後もアリウス派を擁護しており、結果アリウス派の問題は蒸し返された。政治的な謀略などもあるとされるが、335年、コンスタンティヌス1世が招集したティルス会議でアタナシウスは主教を解かれ追放された。この会議は現在のキリスト教主流派からは公会議とはされていない。またコンスタンティヌス1世は337年の死去前に、アリウス派の司教エウセビオス(Ευσέβιος)から洗礼を受けたため、聖人であるのか疑問も残すことになった。
 アタナシウスはコンスタンティヌス1世の死後コンスタンティヌス2世により一旦恩赦となったが、339年、アンティオキア会議でさらに追放となり、西側のローマ主教座の区域に逃げ込み、346年までの7年余をその地で過ごした。追放とはいえ、当地では歓待され、それがきっかけでアタナシウスの教義がむしろローマ主教座で広がるきっかけとなった。アタナシウスは、356年も、ローマ帝国のコンスタンティヌス2世からの迫害を受け、迫害はユリアヌス帝にも継がれ、363年までエジプトの「砂漠の教父」の元に逃げ込むことになった。365年にはアリウス派のウァレンス帝もアタナシウスを追放した。アタナシウスの長い迫害と追放が終わるのは366年だった。
 こうしてみるとアタナシウスの人生は苦難の連続であったかのようにも見えるが、ローマ主教座の区域では歓待され、また現在のエジプト区域の「砂漠の教父」を配下に納めていく過程でもあった。迫害の時代を終え、強大な力を持つようになったアタナシウスは、367年、聖書に含める事実上の「正典」のリストを含めた書簡を記し、また皇帝の命令の形で焚書にすべき書物を布告した。これで正典以外の当時のキリスト教文書は人類から抹消されたかに見えた。
 アタナシウスが主導したニカイア信条は正しいのだろうか? この問題は長く紛糾したため、信条の確認の意味からも、ローマ皇帝テオドシウス1世が381年、第1コンスタンティノポリス公会議を招集し、ニカイア信条の三一教義を維持しつつ拡張したニカイア・コンスタンティノポリス信条を採択した。以降、これが確立したキリスト教の信条となる。つまり、アタナシウスがキリスト教を作り上げたと言える。さらにアタナシウスは事実上、キリストについて証言する書物のどれが聖書なのかも定めた。彼は聖書も作り上げたと言ってよい。
 アタナシウスによる焚書は完全と見られていたが、1600年後に失敗した。ナグ・ハマディ文書として焚書が発見されたのである。これによってアタナシウスが排除しようとした古代キリスト教が逆に暴露されることになった。公会議の経緯からすると、焚書はニカイア信条や三一に反する、アリウス派の文書のようにも思えるかもしれないが、そればかりではなく、異端を排除しヨハネ福音書をあるべき聖書の中心に据えようとしたエイレナイオス(Ειρηναίος)(130~202)の意志を嗣いだ作業だった。
 迫害と追放の繰り返しに見えるアタナシウスの生涯は、彼を守った、まつろわぬ「砂漠の教父」たちを帝国的な仕組みの管理下に置くという後年の目標に利していた。彼はまず修道女から始め、修道士や教父をキリスト教の組織に組み込んでいった。「砂漠の教父」の代表とされるアントニウスも実際のところアタナシウスの著作が生み出した、彼自身に都合のよい新しいモデルでもあった。かくしてアタナシウスによって、信条、正典、管理の組織ができあがり、キリスト教信仰者が勝手な思いから異端に逸脱することを防ぐ強固な仕組みとして、今日のキリスト教の原形ができあがった。

 アタナシウスは、キリスト教信者が聖書を読む際に、ディアノイア(διάνοια)を強調した。ディアノイアは理性による処理とも言える。アタナシウスの定めた聖書はそのテキストに内在する意味と意図を見分ける能力を理性を通して読まなければならない。これは霊的な直観であるエピノイア(ἐπίνοια)を排除するものでもあった。そうでなければ危険なことになるという含みもあっただろう。
 アタナシウスの改革を「砂漠の教父」たちの「黙想の祈り」という点から見れば、黙想が導くエピノイアに対して、ディアノイアによる歯止めをかけるこということになる。黙想(Comtemplation)が、後、ベネディクト会が推進するレクチィオ・デヴィナ(Lectio Divina)の一過程に収まったことは、アタナシウスの意図を受けつつも、かろうじてエピノイアを残すための仕組みだったとも言えるだろう。
 
 

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2012.06.04

黙想の祈りとテオリア

 黙想の祈り(Contemplative prayer)に関連する本を読み考えながら、ぼんやりと見えてきたものがある。気にかかっているうちにブログにメモしておこうかと思う。思うままに書くのであまりまとまったものにはならないだろうが。
 黙想(Contemplation)とは何か? なぜそれがキリスト教において意味があるのか? 疑問の答えとは言えないまでも、いくつか書籍を読みながらぼんやりとした形が見えてきた。逆に言うと、なぜこの疑問がこれまで自分にとって、うまく浮かび上がってこなかったか?としてもよい。それは自分が接したキリスト教からは、そもそも見えづらいものだった。私と限らず近代が結果的に覆い隠してしまった面もある。
 私自身を例にすると、接触したキリスト教には三つの面があった。一つは日本の近代化や敗戦に伴うプロテスタンティズムである。この伝統こそ黙想の祈りを覆い隠してしまうことが多い。クエーカー教徒のような例外はあるが、その集会・教会に黙想は組み込まれていないし奨励もされていない。そこでは祈りとは、なにか願いを唱えたり、唱和することと理解されている。この伝統ではラテン語・ギリシア語を基本とした聖句の祈りも薄れ、チャント(朗詠)も近代的な讃美歌に変化している。私はプロテスタンティズム的な側面から森有正や山本七平などによる著作にも関心を持ち、さらにそこから聖書学や新約学や神学にも関心を移したが、これらはまさに近代の装置として黙想や典礼を覆ってしまっていた。二つめは、ドストエフスキーから垣間見た正教がある。自分がキリスト教と関わりを持つきっかけはその文学でもあり、この面は大きな影響をもった。だがその割に具体的にその実践に触れることはなく(魚を好んで食うことはあるが)、文学から見る正教の知識も断片的にならざるをえない。三つめは一時期深く傾倒した文学者・遠藤周作と神父・井上洋治から見るカトリシズムがある。これらは日本とキリスト教の土着性や歴史の問題、また青春期の恋愛や性の問題の倫理に噛み合っていた。カトリシズムとしての本流やその信仰の生活性には触れることはなかった。
 これらの三つの面は分裂しうあう部分を持ち、特にもっとも傾倒したプロテスタンティズムとその脱神話化的な部分へは他二面を排除しつつ強く愛憎を持つことになってしまった。結局のところ、キリスト教と言っても信仰を持ち得そうにない私は、文献学的・科学的なアプローチに収まった。こうした傾向はシンシア・ブジョー(Cynthia Bourgeault)などの本を読むと、しかし私だけに特有ということでもなく、広義に20世紀のキリスト教全般に問われる傾向でもあり、また東洋の精神性に接した現代キリスト教の反作用地点でもあった。
 基本的にキリスト教というとき、近代では聖書が万人に読まれるというメディア革命を経て結果的にプロテスタンティズムを生み出すが、これは同時に聖書イコール始原という幻想でもあり、そこからは主観解釈による雑多な信仰形態を排出せざるをえない。ところが聖書自体は史的には信条からの逆の構成とも言えるものであり、三一信仰が典型的だが信条の側にむしろ宗教としてのキリスト教が存在する。これはどういうことかといえば、ごく単純には七十人訳聖書からフィロンの哲学を経て生まれてきたものであり、信条が逆に諸聖書を排して正典を作り出した。ナグ・ハマディ文書などが排除されて正典の聖書となったわけである。その意味で聖典化や信条成立以前のフィロン哲学から初期教父への変遷の部分に宗教としてのキリスト教の原初の核があるのだが、そこは同時に祈りなどもその時代の儀礼として含まれていた。そこにキリスト教の黙想の祈りの根がある。
 とはいえ黙想の祈りは正典・共観福音書にも十分見られる。なにより黙想の祈りは「主の祈り」そのものであると言ってもよいからだ。福音書の引用は省略するが、「主の祈り」は、異教徒のようにくだくだ祈るなという、「祈るな」という逆説として示されたものであり、またその祈りの志向は隠れて祈ることが基本であった。誰も知られずに祈るということは、典礼が否定されているという逆説をも孕む。その意味では、キリスト教の祈りは、個人の密かなる黙想の祈りが原形であり、それが「主の祈り」からまたイエス自身も暗唱されたようにユダヤ教において典礼化していた詩編の祈りが補う形になっていた。当然、黙想の祈りが初期教父たちの信仰生活の核をなしていた。個人としては黙想の祈り、また集団としては詩編のような祈りである。信仰の実践は方法論としてレクチオ・デヴィナ(Lectio Divina)として定着し、聖句を経て個人の祈りに接合する典礼的な祈りして定着した。この伝統が積み重なり正教に残るフィロカリア(Philokalia)ができた。

 1960年以降にジョン・メイン(John Main)やトーマス・キーティング(Thomas Keating)が再発見する黙想の祈りは、中世の「不可知の雲」(参照)に直接的な源泉を求めるものだが、「不可知の雲」における黙想は、すでに初期教父たちの黙想の祈りよりも、その簡素な形態からして、現在のカトリックに残る射祷(短い祈り句)からの変形に見える。むしろ射祷はフィロカリアとの接点を残すものだろう。
 ここで初期教父たちにとっての黙想の祈りを考えたいのだが、教父たちがレクチオ・デヴィナに適合する射祷的な黙想の祈りの聖句にまとめる以前、キリスト教とは別にヘレニズム世界に黙想の伝統があったのではないか? これは異教の存在を暗示するというのではなく、ヘレニズムの精神性そのもの原形ではなかったか。そのように考えるのは、黙想をレクチオ・デヴィナの四過程、Lectio(read、読む)、Meditatio(meditate、思う)、Oratio(pray、祈る)、Contemplatio(contemplate、黙想する)で見るとき、二過程目のMeditatioはいわゆるメディテーションではなく「熟考し理解する」と理解してよく、黙想であるContemplatio(contemplate)が祈りのOratio(pray)の後に来る理由はわかりづらいからだ。この修行の過程は、聖句を読み、理解を深め、聖霊に祈り、黙想するということだが、黙想が祈りに次ぐのは、祈りの対象となる聖霊の働きを前提とするからだ。これはいったいどういうことなのか?
 まさにこの問題を黙想していたら、当たり前のことに気がついた。Contemplatio(contemplate)というのは、テオリア(θεωρία, Theoria)なのである。つまり、実在(reality)を観照することであり、実在(真理)を認識するという意味でギリシア哲学の根幹をなすものだ。そして実在とは「原初」としてのアルケー(αρχη)であり、フィロン哲学の時代にはプラトンを経て「イデア」(ιδέα, idea)ともなるものであり、アルケーはまたロゴス(λόγος)である。よって、ロゴスゆえにイエス・キリストそのものであると言える。黙想(Contemplatio)とは、ギリシア・ヘレニズム哲学の根幹のテオリアであり、初期教父にとってはテオリアによって観照することで、ロゴスとしてのイエス・キリストという神の実在(真理)を知る道でもあった。余談だが、テオリアは英語のTheory(理論)やTheater(劇場)の語源でもある。
 このテオリアの「観想的生活」"contemplative life"に対して、英語で"active life"とされることがある「実生活」は、ギリシア哲学ではアリストレスがまとめたように、「実践」のプラクシス(πραξις, practice)によるものだ。対比していうなら、プラクシスが感覚的世界の活動であり、テオリアが超感覚的・形而上的な世界の活動である。実在・真理・神はテオリアを通して知られる。このテオリアのために必要なのが、日常生活から離れたスコレー(σχολή)つまり「余暇」であり、このスコレーが技法としてのスコラ学(Scolaticus)になっていく。なお、アリストレスは、プラクシスを人間の生活様式に関わる倫理・政治の領域として、これに対して存在を生み出す生産の領域をポイエーシス(ποιησιs)としての「制作」とする。芸術もポイエーシスである。
 テオリアに戻ると、テオリアの能力がヌース(νους)「理性」である。アナクサゴラスはヌースを「世界の心性」とし、また新プラトン主義のプロティノスはこれをテオリアの中心に置き、認識のありかたは唯一者(神)の流出(Emanation)として捉えた。その意味では、黙想の祈りは、神の流出・延長としての存在の直覚ということにもなる。
 中世の「不可知の雲」では黙想において、知られざる神の雲のなかに祈祷者が取り込まれるとした。レクチオ・デヴィナのような聖句から祈りを経る階梯は軽視されているようにも見えるが、むしろ聖句を理解し祈る過程において、言葉を離れ神の導きで不可知の雲に取り込まれるという点では、あえて黙想に焦点を置いたと理解できる。
 黙想をレクチオ・デヴィナの伝統に納めるのであれ、不可知の雲のように言葉を排していく黙想とするのであれ、祈りの「心」を経て人の言葉を離れていくことが重要とされる。それをより現代的な意味でいうなら、黙想やテオリアによる真実在の直覚というよりも、沈黙に向き合うということになるだろう。
 
 

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2012.06.03

[書評]トーマス・マートンの黙想の祈り(トーマス・マートン)

 現代的なキリスト教瞑想・黙想の基点の一つとしてシンシア・ブジョー(Cynthia Bourgeault)がトーマス・マートン(Thomas Merton)について言及していたので(参照)、彼の数多い作品から関連するものとして「トーマス・マートンの黙想の祈り(Contemplative Prayer)」(参照)を読んでみた。マートンはベトナム戦争時代の平和論者として日本でも注目され、また米国でも過去半世紀においてはもっとも有名な宗教的著述家としても知られていたこともあり、宗教的な著作でも比較的翻訳書はある。同書も既に翻訳されているかもしれないが見当たらなかった。

cover
Contemplative Prayer
Thomas Merton
 ブジョーの語るトーマス・キーティング(Thomas Keating)やジョン・メイン(John Main)(参照)と比べ、マートンの瞑想観は、その精神性や神学観では類似ているし、その面においてキーティングやメインの展開に影響を与えているように思えた。だが、マートンの視点には、例えば、「20分間、瞑想・黙想する」といった具体性はなく、十字架のヨハネ(Juan de la Cruz)の現代的な考察が中心に置かれている。本書を読むこと自体が一つの黙想的な祈りとなる、深みのある書籍でもあった。
 瞑想・黙想の技法についえば、聖なるイメージは排され、むしろ積極的に否定している。アトス山やシナイ修道院に残る、ヨガにも似た正教の瞑想・黙想の技法に言及している部分もあり、マートン自身それらについて一通りの知見を持っているが、正教の技法より、その「心の祈り」という本質に焦点を置いている。

 ジョン・メインは、そのマントラ的なキリスト教瞑想の基点にヨハネス・カッシアヌス(Johannes Cassianus, John Cassian)を取り上げていたが、本書のマートンもカッシアヌスを重視している。しかし、メインのように焦点的あるいは例証的にカッシアヌスに注目するというより、その師にあたるエヴァグリオス・ポンティコス(Evagrius Ponticus)を含め、いわばキリスト教の黙想的な潮流のなかで取り上げている。これにヌルシアのベネディクトゥス(Benedictus de Nursia)が続く。
 こうした歴史的な考察のなかで、砂漠の教父たちの時代から修道会が形成される時代において、黙想の祈りと典礼の祈りの変遷とその変わらぬ本質が議論されていく。
 マートンとしては、典礼の祈りを儀礼として退けるのではなく、黙想の祈りに共有する心の祈りの本質から現代的な、結果的にカトリシズムではあろうが、より現代的な宗教的な精神性に導きたいとしたのだろう。このことは彼が、仏教やイスラム教と実質的にまた深い精神的に交流をもったこととも関係しているが、本書は再びマートン自身の原点に戻ろうとする、ある情熱が感じられる。そこは、十字架のヨハネの「暗夜」の考察とあいまって、マートン自身の深い苦悩も垣間見られ、また深い考察でありながら、ある種の途上感として残されている。

 これはどういうことなのだろうか? これというのは、このキリスト教原点への回帰と著作に暗示される彼の懊悩の二面であり、後者がむしろ前者のスタンスを取らせたものだろうと思える。
 読後、この問題に黙想し、それがある明瞭な形が私自身の心に形作るに至り、ぱらぱらと棒線部を読み返しているうちに、明白な見落としに気がついた。本書の出版時のタイトルは「修道会祈祷の風土(Climate of Monastic Prayer)」であった。本書冒頭、「修道会の祈りが興隆した風土は砂漠であった。そこには人の慰めもなければ、市街で守られる安全な生活もなく、神への純真な信仰で支えられた祈りを必要としていた」とあり、そこから付けられたものだろうが、そのタイトルはマートン自身の意図であっただろうか。また、してみると「黙想の祈り」も適切なタイトルであろうか。
 見落としがもう一つあった。本書が出版されたのは1969年であり、マートンの死の翌年であった。本書こそがマートンの遺作であったのかもしれない。もちろん、本書がマートンの死後に出版されたことは、マートンと親交の深かったティク・ナット・ハン(釈一行、Thich Nhat Hanh)が巻頭に寄せた長文の紹介文や、神学者・哲学者でもありクエーカーでエキュメニストのダグラス・ステア(Douglas V. Steere)の序文からわかる。だがマートンには著作が多いこともあり、まさか本書がマートンの最後の思想点であったとは思ってもいなかった。
 マートンの年譜を見直し、私はさらにうかつにも、彼の享年を失念していたことに気がついた。60歳は越えていただろうと思っていたのだが、彼が死んだのは53歳だった。現在の私より若いのである。呆然とした。
 ダグラスの序文にも事故死であることは書かれていたが、どういう事故だったと見ると、バンコクでの宗教会合に出席の旅先、ホテルの浴室で感電死したらしい。ああ、神様! 神に仕えた人生の余りに早く、そしてこの無念な断絶はなんなのだろうか。それが人生の実相というものさ、ということはあるのだが。
 つられてマートンのエピソードを調べていくと、彼の、結果的に晩年の恋のことも知った。1966年というから、51歳のときであろうか、腰痛で手術し入院しているとき、看護婦学生の少女と恋に落ちた。僧籍を捨てることも考えていたようだ。
 呆れたと言っていいのかよくわからない。お相手の看護婦学生さんは、へたすると10代ということはないんだろうか。51歳の男が10代の女性と恋に落ちるか? しかも、マートンはすでに確固たる名声を極めていたというのに、それをすべて、かなぐり捨ててしまうものなのか。いや、捨てるだろう。
 その恋は彼にとって、僧としての純潔の問題よりも信仰上の苦悩であったようだ(参照)。と同時に、それは誘惑というより、むしろ神の招命の一環をなしていたと見るべきだろう。本書の十字架のヨハネの暗夜に比されているものは、修道会への再回帰的な考察さえも、そうした恋と懊悩が背景にあったと見てよいのではないか。
 本書を越えたところから、本書を解するのは間違いでもあるが、本書のもつ静謐な叙述には、ある種奇妙な情熱と未達成感が裏打ちされているように思えた。

  Accende lumen sensibus,
  Infunde amorem cordibus.
 
 

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