[書評]不可知の雲(The Cloud of unknowing)
「不可知の雲(The Cloud of unknowing)」は、14世紀末中世の英国で書かれた瞑想のガイドブックあるいは指導書である。かなり割り切って言えば、瞑想のハウツー本である。
なんのための瞑想か。神を知り、原罪の苦しみを軽減するいうことだが、現代人にとって精神的に得るところ部分だけ取り上げれば、つらい気持ち、鬱、怒りといった心に安らぎをもたらすことである。その点では、禅やその他の宗教の瞑想とそれほど変わらないとも言えるだろうし、道元の禅によく似ているとも思った。
当然、なんともスピリチュアルな本であるし、実際にキリスト教神秘主義の有名な著作でもある。作者の名前は伝わっていない。匿名ということだが、これは謙遜として名を残さなかったということなのだろう。
![]() The Cloud of Unknowing A New Translation |
かくして読んでみたいとまで思ったが、英語を読むのはめんどくさい。有名な古典なら、翻訳書がありそうなものだと探すとすでに二種類ある。一つはエンデルレ書店から出ているので版元にも訊いてみたが在庫はなかった。
絶版でも古書くらいはあるだろうと探すと、どちらもたいそうなプレミアム価格がついていた。そこまでして訳本を読む気はないなと思った。じゃあ、原文?
中世英語は学んだことがあるが、注釈なしで読めるほどの実力はない。結局、縁のない本だなと諦めようとしたところ、どうやら現代の欧米人も現代語訳で読んでいるらしい。そりゃそうだろうな。
探すというまでもなく、イーヴリン・アンダーヒル(Evelyn Underhill)が1922年(大正11年)に翻訳した英文が現在ではパブリック・ドメインになっていた。それをするっと入手した。1875年生まれのアンダーヒルは、1882年生まれのヴァージニア・ウルフとだいたい同年代の人なので、そんなに読みづらい英文でもないだろうと思ったし、序文はそういう印象だったのだが、本文に入るや、冒頭こんな感じである。
GHOSTLY friend in God, thou shalt well understand that I find, in my boisterous beholding, four degrees and forms of Christian men's living: and they be these, Common, Special, Singular, and Perfect.
また。
What art thou, and what hast thou merited, thus to be called of our Lord?
欽定訳聖書を読んでいるような、なんとも擬古文的な英語。
それでも17世紀の英語といったものではないので、意味がとれないほど難しくはない。おそらく英米人にとっては、その擬古的な雰囲気がいい味わいなのかもしれない。だが、私としては、引いてしまった。
余談だが、アンダーヒル訳の「不可知の雲」はジェファーソン聖書(参照)と合本になっているものもある。かたやキリスト教神秘主義、かたや理神論的聖書と、まるで水と油のような組み合わせのようにも見えるし、合本は近年のことではあるのだろうが、意外とこの組み合わせは、日本でいうと大正時代から昭和の時代の英米人の宗教性に合致していたのかもしれないとも思った。日本人でいうと、新渡戸稲造の時代でもある。彼も、クエーカーだからということではないが、似たようにスピリチュアルな印象はある。
いずれにせよアンダーヒルの擬古文は苦手だなと思っていた。そう思う現代英米人もいるらしく、アマゾンを調べたら現代語の意訳が見つかった。いくつかあるようだが、カーマン・アセベド・バッチャ(Carmen Acevedo Butcher)現代語訳「The Cloud of Unknowing: A New Translation」(参照)が一番読みやすそうだった。たとえば、先と同じ部分はこうなっている。
DEAR SPRITUAL FRIEND in God, I want to tell you what my humble searching has found true about growing as a Christian. You'll experience four stages of maturity that I call the ordinary, the special, the singular, and the perfect.
Who are you? What have you done to deserve being called by our Lord to this work?
これならいいんじゃないかと思って、こちらを買って、ぽつぽつと読んだ。
短い章が75章もある。全体としては小冊子というくらいの本なので、さっと読めばさっと読めるのだが、読みつついろいろ思うこともあって、まさにぽつぽつと読んでいた。
読んでいて、奇妙に幸せな気分になる。そしてどうもオリジナルのメンター(師匠)の精神性が親しみやすい肉声として感じられてくる。
さらに言い回しと内容が「奇跡講座」(参照)に似ているようにも思えてくる。なんでだろうかと不思議に思っていたのだが、考えてみると、どちらも思想としては、ディオニシウス(偽ディオニシウス・アレオパギタ; イベリアのペトルス)的な新プラトン主義だし、「奇跡講座」を記述したヘレン・シャックマン(Helen Schucman)はその思想的な傾向からして、アンダーヒル訳の本書を読んでいた可能性は高い。直接的な影響もあるのかもしれない。
思想的な部分以外にも、「不可知の雲」と「奇跡講座」では論述のしかたが似ている。なんというのだろうか、同じテーマと思える部分が何度も変奏して、ぐるぐる登場してくる。両書、構成が悪いということはなく、簡素で堅固な構成になっているのだが、わからせようとする意識のあり方が、これはさすがに現代人の思考法ではない、という感じがする。
「不可知の雲」の内容なのだが、瞑想のハウツー本でもあるので、その面ではわかりやすい。だが、独自の瞑想の伝統を持つアジア人としては、坐法や呼吸法といったその形式性に着目しがちになるが、その面についてはほとんど言及はない。逆に、どうやら当時存在していたらしい、瞑想的な身体技法への反論が後半部に縷々と展開している。東洋的な宗教にありがちな観想(イメージ形成)というのも痛烈に否定されている。
仏教でいう三業、つまり身口意という面で言うなら、「不可知の雲」は「意」の部分の技法に集約されている。これがキリスト教神秘主義らしさで上手に統合されている。簡単に言えば、雑念・妄念をどのように払うかというのが論点になっている。といっても、繰り返すが、難しい内容ではない。
本書全体のもつ中世的な精神性はそのまま現代語で通じるというものでもないが、内容の実技的な部分は現代人にも十分に通用するし、私が読んだバッチャの現代語訳もそのまま現代の英米人に有意義なものとして受け止められているようだ。そのようすを見ていると、結果として心の病を癒すという効果もありそうに思える。
その意味で、簡素な現代日本語訳で「不可知の雲」の小冊子があれば、現代日本人にも役立つ、本当の意味でスピリチュアルな書籍になるだろう。岩波文庫とかに入っていてもよいのではないか。
ただ、「不可知の雲」というタイトルそのものが現代的ともいいがたい。「知りえない雲」とでもするか。それだと気が抜けたようでもあるが。
ところでなぜ「不可知の雲」なのかというと、人の思いと神の間には、人知の及ばない雲のようなものに覆われているためである。瞑想の技法としては、いかに不可知の雲を扱うかというより、その対極にある「忘却の雲」が重視される。感覚、記憶、思い、いっさいを忘却の雲のなかに投げ捨てると、あとは神のはからいによって感覚を越えた世界に導かれるという。
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コメント
面白かったです。タイトルの雲という暗喩も詩的ですけど、ある種、俗っぽさも感じさせ、分かりやすい啓蒙的内容をイメージさせました。キリスト教というと、自分のような門外漢には静的瞑想というよりも超越的対象に向かった動的な激しい印象を抱かせます。欲望(意志)を(東洋的)止観によって無化するのではなく、祈りによって感情を強烈に純化することにより超越的根源に帰一するというイメージです。最近、キリスト教神秘主義の祖、プロティノスの存在はキリスト教思想史、西欧思想史において、どれほど重要だったのかと思うこと頻りです。そんな背景もあって本稿には関心を惹かれました。
投稿: ボンボン太郎 | 2012.05.09 20:53