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2012.05.25

[書評]英知のイエス 心の変容、キリストとそのメッセージについての新しい見方(シンシア・ブジョー)

 センタリングの祈りについて書かれたシンシア・ブジョーの本を読んだあと、彼女自身の思想を追ってみたい思いがして、もう一冊何か読んでみた。「英知のイエス 心の変容、キリストとそのメッセージについての新しい見方(The Wisdom Jesus: Transforming Heart and Mind--A New Perspective on Christ and His Message)」(参照)である。

cover
The Wisdom Jesus
Transforming Heart and Mind
-A New Perspective
on Christ and His Message
 私自身、似たテーマを考えてきたこともあり、内容の少なからぬ部分については既知ではあったが、著者ブジョーが整理した視点(パースペクティブ)は類書では得がたいものだった。
 タイトルになっている「英知のイエス(The Wisdom Jesus)」は、ともすれば、「イエスの英知(The Wisdom of Jesus)」として理解されやすい。ジェファーソン聖書のように、理性的に受け止めやすく、正しい倫理の道を説いたイエスの言行録といった理解である。
 マックス・ヴェーバーも指摘しているが、聖人の言行録を好む中華圏の影響を受けた日本では、イエスもその正しい言行を学ぶ手本として理解されやすい。もちろん、カトリックの伝統でも、トマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて(De imitatione Christ)」(参照)はそれに近いし、アッシジのフランチェスコの聖痕もそれに近い。
 規範的な言行録的な意味合いがまったくないわけではないが、ブジョーの言う「英知(Wisdom)」は、言明される命題でも量化しうる知識でもない。古武道的な体得や禅の悟りにも近く、実際ブジョー自身も本書でなんども禅の「公案」との比喩を示している。
 端的にいうなら、この英知はグノーシス(Γνῶσις)であり、ブジョーは「グノーシスのイエス」の現代的な意味を、本書で平易に説き明かそうとしている。この作業が難しいのは、グノーシスには異端というレッテルが付きまとう点である。
 ブジョーは触れていないが、グノーシスに対応するのは、ケリュグマ(κήρυγμα)であり、従来のキリスト教は「ケリュグマのイエス」を宣教してきた。ケリュグマは、語義的には「伝令が告げる布告」の意味だが、新約聖書学では、原始キリスト教会によるキリスト証言、つまり、福音であるイエスを意味している。単純にいえば、イエスの復活という福音によって描かれるイエスである。キリスト教信仰の核となるものであり、信条の核と言ってもいいだろう。
 しかしそれだけであれば、表層的なケリュグマの意味は単にドグマでしかない。新約聖書学において重要な、ほぼ公理とも言えるのは、ケリュグマが宣教であるという点である。それでもわかりづらいかと思うので、別の側面でいうなら、「ケリュグマのイエス」というのは、「歴史・実在的なイエス」とは異なるものであるということだ。
 聖書を大衆が読むことによって、文字・知識を通してイエスを知りうる可能性が開けたとき、これが「真理としての擬古」を招き、「本当のイエス」が問われるようになり、さらにはプロテスタントというありかたが生まれた。しかし聖書は、正典化されたとき、それ自体がケリュグマの枠組みにあって、そこから歴史的な意味でのイエスというのは見出しえないように構成されている。
 そのチェックメイトともいえる作業がルドルフ・ブルトマンの非神話化であり、カール・バルトの弁証法神学でもあった。が、逆にこのことは、実際には、聖書をキリスト教に再び収納することになり、キリスト教の躍動をいびつな形で封じ込めることになったと私は見ている。
 というのも、聖書はケリュグマでもありながら、微妙な形で、歴史文書でもあり続ける。その最たる矛盾点は、福音書特に共観福音書に示されるケリュグマとパウロに伝えられたケリュグマに、正典化されてなお、相違があることだ。
 特にこの点については、Qや原マルコにケリュグマの根幹である復活の言及が明示的に見当たらないことでも明らかであり、信条によって定式化される三一より大きな問題をもっている。神学者八木誠一などはこの難問をケリュグマのタイポロジーとして3種に分け、その根底における全一のリアリティなるものを想定したが、神学的な失敗と見てよいだろうと私は考えている。
 ケリュグマと聖書の矛盾は本質的に解消しえないと割り切り、ブルトマンやバルトのようにケリュグマのみをキリスト教に帰していくのがよいのだろうし、世俗的にはそこから導出されるリベラルな立場が妥当のようにも思われる。むしろ、リベラルというなら、ケリュグマを薄めて、聖書という古代文書を他の古代文書と並べ、ジェファーソン聖書よろしく倫理教説を読むということもあるだろう。先日のNewsweekにもこうした「理性的な」立場が再録されていたし、私も、その方向のなかで生きて来た。だが、それは違うのだろう。
 ケリュグマと聖書の矛盾は「トマス福音書」によって決定的なものになったと言っていい。ようやくそのことに納得した。私としては、それでもブルトマンやバルト的な側にいるのだが、ブジョーは、やすやすということでもないが、「トマス福音書」を自然に正しい位置に置き直している。
 「トマス福音書」を巡る、そのブジョーの手つき、信仰のありかたに、率直なところ、私は衝撃を受けた。「ああ、それでいいのか」という落胆にも似たものである。「トマス福音書」のグノーシスの視点は、むしろ、Qへの親和性をもっているし、ブジョーが本書で説明しているように、そもそもナグ・ハマディ文書時代、あるいはその後のシリア教会の教父などでも、グノーシスとしてのイエスはきちんと生き続けていた。バルトがイエスの復活をとりあえず史的な一回性の啓示として見るなら、ナグ・ハマディ文書の登場も、グノーシスとしてイエスの啓示であろうかという冗談も脳裏にも浮かんだ。

 本書に戻る。ブジョーは、「英知のイエス」のありかたを、聖公会の女司祭らしくていねいにとりあげ、第一部「イエスの教え」では、従来解釈として語られてきたイエスの言行、ブルトマンのいうアポフテグマをグノーシスの文脈に置き直そうとする。大衆向け書籍らしくさらりと描かれているが、グノーシスの本質をケノーシス(κένωσις)に収斂される部分は、魂の美そのものを表現している。ここは凡百のスピリチュアル志向が踏み間違うところでもある。
 第一部の最後では、ケノーシスを「タントラ師としてのイエス(Jesus as Tantric Master)」とする。仏教的な比喩が返って誤解を招きやすい面はあるが、まさにグノーシスの真骨頂でもあるだろう。当然だが、仏教の空(śūnya)への言及もある。
 第二部「イエスの神秘(The Mystery of Jesus)」では、ケリュグマとして構成されるアポフテグマへのグノーシス的な逆転が語られる。いわゆるキリスト教の教義というものの、グノーシス的な側面が語られる。とはいえ実際のこの部分は、頭でこじつけた感じもあり、それほど面白いものではない。それでも、神秘に秘蹟(sacrament)の意味があることは見逃せない。結論からいえば、秘蹟はタントラであるというのだ。当たり前といえば当たり前だが、それはケリュグマではなくグノーシスとして前提とされるものである。ブジョーはこららの秘蹟的な問題について、特に復活の身体を実在的な意味合いで説く。率直に言えば、オカルトの領域にも足を踏み込んでいると私は見えるので、そこまで踏み込む勇気はない。私はどちらかというと、「奇跡講座」におけるケネス・ワプニクの「修正」に近い立場にある。
 第三部「キリスト教徒の英知の実践(Christian Wisdom Practices)」は、グノーシスのタントラ的な修法的な側面として、センタリングの祈り、レクチオ・ディヴィナ、チャンティング、歓待の祈り、そして秘蹟、が語られる。
 秘蹟とチャンティングを除けば、前回読んだ書籍(参照)と同じとも言えるのだが、むしろ本書の説明のほうが簡素ですっきりと理解できた。また、秘蹟については先に触れたように、ブジョーの思索から当然の帰結であるだろうし、意地悪い言い方をすれば、聖公会の優位が実質的に語られている。
 チャンティングについては、不意を突かれた。グレイゴリアン・チャントの原形的なあり方への示唆も驚かされたし、テゼ(Taizé)がこの文脈で現れることも驚いた。
 テゼについてはその共同体的ないわば集団の、新しい信仰の運動として見てきたし、それはそれで正しい理解ではあるのだが、黙想の祈りからチャンティングを通してテゼを見直すとき、テゼのチャント(歌)そのものの、ケノーシスとしての圧倒的な美しさというものに出会った思いがする。言い方は変だが、そんなことを気がつかなかった自分をうかつだったと思ったし、聖霊がきちんと自分を導いているじゃないかと、聖霊的なユーモアも感じた。
 話は前後するが、センタリングの祈りについてブジョーの師であるキーティングはトラピストらしくレクチオ・ディヴィナの発展として捉えているが、そこは少し違うようにも思えた。どこかに正しい修法があるというわけではないが、この部分は宿題に残った。
 自分にとっては懐かしいエキュメニズムに思いを新たにした。テゼの黙想が暗示するように、エキュメニズム、つまり本当の意味でのキリストの身体は、理性の上にではなく、より精神的な充足のなかに築かれるのかもしれない。


 
 

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コメント

漢訳仏典や文語チベット語訳仏典を用いない仏教の信仰が格調が欠けて腰砕けなように、読誦聖書にラテン語のウルガタ版や校訂ギリシャ語原典を使わないキリスト教の信仰も、そろそろ行き詰るころだと思います。

マヌの法典やヴェーダやウパニシャッドやバガバッド・ギータだって、子供向けならいざ知らず、サンスクリットでなく、英語由来の外来語まじりの現代語のヒンドゥー語やパンジャビー語に現代訳してしまったら、ヒンドゥー教徒の信仰心をひきつけられないと思います。

final先生みたいな人が立ち上がって、ラテン語聖書復活運動をしてくださいよ。私は応援します。みずがめ座の時代には、みずがめ座の時代にふさわしい、宗教作法があるはずです。ルターはルターで当然功績は大きいわけですが。

投稿: enneagram | 2012.05.25 15:39

中華圏には、易経も詩経も道家文献も仙術を記す道教聖典も用意されていました。漢方薬の中医学の考え方も神秘主義的といえば神秘主義的です。

イスラム圏でも、占星術や錬金術は大発展をしました。

仏教も、マントラやダラニは、ヒンドゥー教から早くから取り入れました。お経も主として韻文です。

そういうのと比べると、プロテスタントのキリスト教は、ろうそくの炎を見ることと歌を歌うことだけなので、私などには面白みに欠けると思っています。

日本の場合、のちに修験道や、曹洞宗の加持祈祷に吸収された、かつての漢字渡来以前の、神道とはとてもいえない山岳信仰や民俗信仰の根っこの部分がとても重要であろうと思っています。

上記のコメント、「ヒンドゥー語」より「ヒンディー語」のほうが適切ですね。訂正させてください。

投稿: enneagram | 2012.05.27 09:01

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