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2012.05.30

[書評]沈黙に至る言葉:キリスト教瞑想のためのマニュアル(ジョン・メイン)

 キリスト教黙想としてシンシア・ブジョー(Cynthia Bourgeault)の著作で、ジョン・メイン(John Main)がよく言及されているので、比較的わかりやすそうに思えた、ジョン・メイン著「沈黙に至る言葉:キリスト教瞑想のためのマニュアル(Word Into Silence: A Manual for Christian Meditation )」を読んでみた。タイトルは仮訳で、本書の翻訳があるかについては知らない。ないのではないかと思う。副題にマニュアルとあるように修法も簡素に書かれている。メイン自身の実践的な経験に裏打ちされた部分の解説は興味深い。

cover
Word into Silence
A Manual for
Christian Meditation
John Main
 ブジョーが師事したトーマス・キーティング(Thomas Keating)とジョン・メインはともに、現代的なキリスト教の黙想的・瞑想的祈りの指導者として有名で、メイン存命時には本人同士の交流があり、その後も両者のコミュニティの交流はあるらしい。「不可知の雲」(参照)の現代的な再評価から直接的な影響を受けたという点でも両者は共通するし、メインによる本書を読んでも、教理的な解釈で、キーティングとメインに大きな差があるわけではなかった。
 修法については、キーティングは「センターリングの祈り」(参照)として伝統的なキリスト教修法のレクチオ・ディイナ(Lectio divina)から、その祈りを黙想(Contemplation)に位置づけているが、メインはその祈りの修法に特段の名称を付けず、単に「キリスト教瞑想(Christian meditation)」としている。本書でも、瞑想(Meditation)として言及されている。
 修法としては、キーティングの「センターリングの祈り」が「不可知の雲」の原形に近いのに対して、メインのキリスト教瞑想は、超越瞑想(Transcendental Meditation)のようにマントラを使うという点で東洋的・インド的な修法のように見える。しかし、超越瞑想やスワミ・ラマ(参照)の教説のようにマントラの神秘性といったものは排除されている。キーティングにしてもメインにしても、黙想・瞑想の道具としての聖句は、その簡素から、八福(Beatitude)における「霊の貧しさ」の象徴に模されている。
 実際のメインの修法としてはしかし、マハリシ・マヘーシ(Maharishi Mahesh Yogi)の超越瞑想とほぼ同じと言ってよさそうだが、マヘーシのシステムは、スワミ・ラマのシステムでもそうだが、階梯の指導があるという点で、同じではありえない。
 実際のところメインの瞑想には東洋瞑想の影響がありそうだ。メインは28歳のとき英国植民地行政官としてクアラ・ルンプールに派遣されている際、マントラを使う東洋的な瞑想を、同地で孤児院を営んでいたインド人僧スワミ・サッチャナンダ(Swami Satyananda)から学んでいる。本書にはその部分についてはあまり描かれていない。このサッチャナンダだが、同名のグルが数名いてよくわからないが、著名な一人はヨガナンダの師匠にあたるスワミ・ユクテスワ・ギリ(Yukteswar Giri)の弟子なので、もし同一人物であれば、サッチャナンダ自身がキリスト教への造詣を持っていてメインに接したのかもしれない。


John Main

 クアラ・ルンプールから戻り、メインは33歳のときベネディクト会に入り僧となる。この際、東洋的な瞑想はしないように指導されていたらしく、彼もそれを守っていたとのことだ。その後、1970年代に入り、自身がベネディクトゥスの師匠にもあたるヨハネス・カッシアヌス(Johannes Cassianus)の研究のなかで、カッシアヌスによる瞑想的な祈りを再発見し、これが若い日のマントラを使う東洋瞑想との近似性として理解を深め、そこからメインによるキリスト教瞑想へと発展したようだ。
 それゆえ、三一教義とメインのマントラ的な瞑想は、本書においてはカッシアヌスの教説において結びつけられている。その部分は、読みながら思ったのだが、ブジョーによるキーティングの教説にも近く、むしろキーティングの「センタリングの祈り」の教義的な深まりはメインのカッシアヌス理解によるのではないかとすら思えた。
 メインにおける後年の東洋との再会は、ベネディクト会僧アンリ・ルソー(Henri le Saux)によるインド神秘主義への融合的な傾倒とも関連付けられている。アンリ・ルソーは深くインド神秘主義に傾倒し、むしろヒンズー僧のスワミ・アビシュクタナンダ(Swami Abhishiktananda)として著名になった。メインは、瞑想の神秘的なありかたについては、アビシュクタナンダの直観から学ぶところも多かったようだ。

 本書だが、メインの弟子にあたるローレンス・フリーマン(Laurence Freeman)が、メインの講義の録音をもとに編集したものなので、口語的で理解しやすい。反面、メイン自身の思索の深みは当然欠けざるをえない。

 メインによるキリスト教瞑想のキリスト教的な位置づけだが、超越瞑想にも似た面があり、ブジョーなども実践には抵抗感があるらしいが、そうした表層的な問題よりも、教義的な部分での、ヨハネス・カッシアヌスによる神人協力説(Synergism)との関係が重要になるだろう。ややこしいのは、神人協力説は現代においては、ルター派との関連の神学者のフィリップ・メランヒトン(Philipp Melanchthon)の文脈で語られやすいが、カッシアヌスはメランヒトン時代の原罪概念を元にしているわけではない点だ。
 神学として見た場合の評価についてはわからないが、キリスト教瞑想が恩寵に対する自由意志であっても、その自由意志はケノーシス(κένωσις)つまり、無となる意志でありむしろ恩寵の受け入れの様態として捉えられるので、メランヒトン的な神人協力説の問題とは異なる。
 それでも、カルバン的な恩寵からすれば異端的には見え、それゆえに、世俗的なあり方については議論が残るだろう。この点、つまり、活動的な生活と黙想的な生活については「不可知の雲」にも議論があるが、キリスト教瞑想の現代的な意義は、まさに現代生活における黙想の、恩寵的な意味ということになる。
 
 

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