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2012.05.30

[書評]沈黙に至る言葉:キリスト教瞑想のためのマニュアル(ジョン・メイン)

 キリスト教黙想としてシンシア・ブジョー(Cynthia Bourgeault)の著作で、ジョン・メイン(John Main)がよく言及されているので、比較的わかりやすそうに思えた、ジョン・メイン著「沈黙に至る言葉:キリスト教瞑想のためのマニュアル(Word Into Silence: A Manual for Christian Meditation )」を読んでみた。タイトルは仮訳で、本書の翻訳があるかについては知らない。ないのではないかと思う。副題にマニュアルとあるように修法も簡素に書かれている。メイン自身の実践的な経験に裏打ちされた部分の解説は興味深い。

cover
Word into Silence
A Manual for
Christian Meditation
John Main
 ブジョーが師事したトーマス・キーティング(Thomas Keating)とジョン・メインはともに、現代的なキリスト教の黙想的・瞑想的祈りの指導者として有名で、メイン存命時には本人同士の交流があり、その後も両者のコミュニティの交流はあるらしい。「不可知の雲」(参照)の現代的な再評価から直接的な影響を受けたという点でも両者は共通するし、メインによる本書を読んでも、教理的な解釈で、キーティングとメインに大きな差があるわけではなかった。
 修法については、キーティングは「センターリングの祈り」(参照)として伝統的なキリスト教修法のレクチオ・ディイナ(Lectio divina)から、その祈りを黙想(Contemplation)に位置づけているが、メインはその祈りの修法に特段の名称を付けず、単に「キリスト教瞑想(Christian meditation)」としている。本書でも、瞑想(Meditation)として言及されている。
 修法としては、キーティングの「センターリングの祈り」が「不可知の雲」の原形に近いのに対して、メインのキリスト教瞑想は、超越瞑想(Transcendental Meditation)のようにマントラを使うという点で東洋的・インド的な修法のように見える。しかし、超越瞑想やスワミ・ラマ(参照)の教説のようにマントラの神秘性といったものは排除されている。キーティングにしてもメインにしても、黙想・瞑想の道具としての聖句は、その簡素から、八福(Beatitude)における「霊の貧しさ」の象徴に模されている。
 実際のメインの修法としてはしかし、マハリシ・マヘーシ(Maharishi Mahesh Yogi)の超越瞑想とほぼ同じと言ってよさそうだが、マヘーシのシステムは、スワミ・ラマのシステムでもそうだが、階梯の指導があるという点で、同じではありえない。
 実際のところメインの瞑想には東洋瞑想の影響がありそうだ。メインは28歳のとき英国植民地行政官としてクアラ・ルンプールに派遣されている際、マントラを使う東洋的な瞑想を、同地で孤児院を営んでいたインド人僧スワミ・サッチャナンダ(Swami Satyananda)から学んでいる。本書にはその部分についてはあまり描かれていない。このサッチャナンダだが、同名のグルが数名いてよくわからないが、著名な一人はヨガナンダの師匠にあたるスワミ・ユクテスワ・ギリ(Yukteswar Giri)の弟子なので、もし同一人物であれば、サッチャナンダ自身がキリスト教への造詣を持っていてメインに接したのかもしれない。


John Main

 クアラ・ルンプールから戻り、メインは33歳のときベネディクト会に入り僧となる。この際、東洋的な瞑想はしないように指導されていたらしく、彼もそれを守っていたとのことだ。その後、1970年代に入り、自身がベネディクトゥスの師匠にもあたるヨハネス・カッシアヌス(Johannes Cassianus)の研究のなかで、カッシアヌスによる瞑想的な祈りを再発見し、これが若い日のマントラを使う東洋瞑想との近似性として理解を深め、そこからメインによるキリスト教瞑想へと発展したようだ。
 それゆえ、三一教義とメインのマントラ的な瞑想は、本書においてはカッシアヌスの教説において結びつけられている。その部分は、読みながら思ったのだが、ブジョーによるキーティングの教説にも近く、むしろキーティングの「センタリングの祈り」の教義的な深まりはメインのカッシアヌス理解によるのではないかとすら思えた。
 メインにおける後年の東洋との再会は、ベネディクト会僧アンリ・ルソー(Henri le Saux)によるインド神秘主義への融合的な傾倒とも関連付けられている。アンリ・ルソーは深くインド神秘主義に傾倒し、むしろヒンズー僧のスワミ・アビシュクタナンダ(Swami Abhishiktananda)として著名になった。メインは、瞑想の神秘的なありかたについては、アビシュクタナンダの直観から学ぶところも多かったようだ。

 本書だが、メインの弟子にあたるローレンス・フリーマン(Laurence Freeman)が、メインの講義の録音をもとに編集したものなので、口語的で理解しやすい。反面、メイン自身の思索の深みは当然欠けざるをえない。

 メインによるキリスト教瞑想のキリスト教的な位置づけだが、超越瞑想にも似た面があり、ブジョーなども実践には抵抗感があるらしいが、そうした表層的な問題よりも、教義的な部分での、ヨハネス・カッシアヌスによる神人協力説(Synergism)との関係が重要になるだろう。ややこしいのは、神人協力説は現代においては、ルター派との関連の神学者のフィリップ・メランヒトン(Philipp Melanchthon)の文脈で語られやすいが、カッシアヌスはメランヒトン時代の原罪概念を元にしているわけではない点だ。
 神学として見た場合の評価についてはわからないが、キリスト教瞑想が恩寵に対する自由意志であっても、その自由意志はケノーシス(κένωσις)つまり、無となる意志でありむしろ恩寵の受け入れの様態として捉えられるので、メランヒトン的な神人協力説の問題とは異なる。
 それでも、カルバン的な恩寵からすれば異端的には見え、それゆえに、世俗的なあり方については議論が残るだろう。この点、つまり、活動的な生活と黙想的な生活については「不可知の雲」にも議論があるが、キリスト教瞑想の現代的な意義は、まさに現代生活における黙想の、恩寵的な意味ということになる。
 
 

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2012.05.29

野田政権「社会保障と税の一体改革」をフィナンシャルタイムズはどう見ているか

 野田政権「社会保障と税の一体改革」をフィナンシャルタイムズはどう見ているか。5月21日の社説に興味深い指摘があった。日本経済について言及されているので翻訳が出なければブログで拾っておこうかと思っていたら、案の定、出た。JB Pressからだった。「Financial Times 社説:日本経済、1~3月期の伸びは続かない」(参照)である。
 この社説、どのくらい注目されているのかと見ると、ツイッターでの言及が34、はてなブックマークが12、フェイスブックのいいねが37。どちらかというとあまり振るわない。しかも、それらのコメントを見ると、ネットにありがちとも言えるのだが、否定的なものであったり、本論とは関係ない部分に釣られていたりするものが多い。まあ、しかたがないのかもしれない。
 JB Pressの訳文を原文とざっと照合したが、訳漏れもなさそうで、プレーンに訳されている。なかなかするどい指摘ではないかと私は思うので、ちょっとツッコミを入れて解説代わりにしたい。
 まずタイトルなのだが、JB Pressの「日本経済、1~3月期の伸びは続かない」は意訳。悪い意訳ではないが、内容を読むとわかるように、今後日本経済、特に、野田政権「社会保障と税の一体改革」はどうあるべきかということが課題になっているので、ネットにありがちなんだが、タイトルに釣られると中身が精読されにくい。というか、ネットだとタイトルしか読まない人やタイトル中のトリガーワードに反応して終わるだけの人が少なくない。
 ただ、これ、意訳はしかたがないだろうと思う。元のタイトルは「Flash in Japan」。直訳すると、「日本のフラッシュ」で、では「フラッシュ」って何? なのだが、これは、カメラのフラッシュのような「閃光」の意味を核に「news flash(速報)」がかけてある。そこで、「現下の日本の速報」ということで、「日本の第1四半期の国内総生産(GDP)1%、年率換算で4.1%という高成長」を速報として伝えるという意味合いがある。
 そこで翻訳者としては諦めざるを得ない。だが、これ、「Flash in Japan」は、「a flash in the pan」の駄洒落なんですよ。こういうフィナンシャルタイムズの駄洒落を見る度に、うへぇと思うのだけど。
 で、「a flash in the pan」の意味は、これは辞書には、「線香花火的な企て(をする人), 竜頭蛇尾(に終わる人) 」というふうに説明されているはず。
 この「pan」って何? なんだが、普通の英語だと、Panというと日本語でいうフライパンのことだけど、これは、天秤皿の皿みたいな皿で、「a flash in the pan」というときのその皿は、火縄銃(Arquebus)の火薬を入れる皿状の"Flash pan"のこと。図のBのところ。この皿から弾のとこまで火薬が入ると実弾がでるが、皿のことで、パーンと発火、フラッシュですね、しても、弾は出ない。不発になる。

 どうも余談が長くなりすぎたけど、日本経済の現下の成長に見えるのは不発のパーンで終わるという含みが、フィナンシャルタイムズのこの社説にある。
 さて、中身。
 日本経済が一発屋で終わらないためにはどうあるべきかが、フィナンシャルタイムズ社説の論点になる。まさに、そこは当の日本人にとっても関心を持つべき部分である。


 とりわけ日本は、潜在成長率を実質と名目の両方で引き上げる必要がある。名目成長率の引き上げには適度なインフレが必要だが、この国ではもう15年間もごぶさただ。その意味では、日銀が渋々ながらも、1%というインフレの「目途」を導入したことは前進である。

 日本の経済にとって重要なのは、実質成長率と名目成長率の両方で、経済成長する必要があるということ。
 実質成長率というのは、ふつうに経済の成長と呼ばれているイメージに近い。人気のブロガーさんとかネットで人気のご先生がたが、毎回毎回手を替え品を替え、日本には経済成長が必要だ、経済成長をしないとなんたらかんたら、とネタを投下している経済成長のイメージに近い。
 多少難しいのが名目成長率かもしれないし、あるいはこっちのほうがわかりやすいかもしれないが。製品・サービスの伸び率を時価で示したもの。実質成長率はこれから物価上昇を引いたもの。
 名目成長率だと「時価」が重要になる。おカネの価値というのは変化するので、その時でのおカネの価値で伸び率を見るということ。なので、おカネの価値が下がっていると、名目成長率は伸びやすいし、その状態は、おカネの価値が下がる分、物価が上がっていくことでもあるから、インフレにもなる。
 ということで、フィナンシャルタイムズが言っているのは、名目成長率を上げるには、多少インフレが必要だよということで、日銀が1%であれ、インフレに向けた金融政策をやってくれてよかったねというのである。
 だた、これね、読みようによっては爆笑ものの皮肉かもしれない。1%というのは誤差の範囲だし、以前から日銀はそれを知っていて1%は暗黙に織り込まれていたものだった。なので、今回の日銀の政策は、実は「なんちゃってインフレターゲット」という面白い代物。
 続けてフィナンシャルタイムズはこう述べていく。

 日銀がこの目標を達成するには、利用する手段の面でもっと創意工夫が必要になるだろうし、いずれはこれを2%に引き上げることも検討すべきだろう。3~4%の名目成長率が数年続けば、すでにGDP比200%という心配な水準に達している政府債務残高の引き下げにも確実に寄与するだろう。

 ここがポイントで、フィナンシャルタイムズは、日銀に向けて、インフレ目標を「いずれは2%にしなさい」と言っているのである。
 「利用する手段の面でもっと創意工夫」のあたりの原文はこう。

The bank needs to be more imaginative in the instruments it deploys to meet that goal – and should consider raising it to 2 per cent in due course.

 意訳すると、こうなるかな。

日銀は、中央銀行に任されている手段の独立性から、その行使できる手段に頭を使って、インフレ目標を達成する必要がある。つまり、所定の時期には2%に上げることを考慮すべきなのだ。

 ということで、フィナンシャルタイムズは日銀に対して、近い時期にインフレ目標を2%にしなさいよと勧めているのである。頭を使えよと。
 そして、インフレ目標が、3~4%なれば、数年のうちに、政府債務残高の引き下げが見えてくるというのである。
 つまり、人気のブロガーさんとかネットで人気のご先生が毎回毎回手を替え品を替え、莫大な赤字を抱えた日本はいずれ大変なことになるなんたらかんたら、とネタを投下いるけど、フィナンシャルタイムズは、それ、3~4%のインフレ目標でなんとかなりますからぁ、と言っているのである。
 わかっている人にとっては、「別にどってことない普通の話」ということなので、それでネットでもこのフィナンシャルタイムズの社説はさほど注目されなかったのかもしれない。
 ただ、この社説、そのあとに、野田政権の増税もいいんじゃないのと、一見、転調している。

 野田佳彦首相が消費税率引き上げ法案(現行の5%を2014年に8%に引き上げ、2015年に10%に引き上げる)を提出したことは幸先のよいスタートだと言える。もしこの法案を通す対価が首相の地位の喪失であるなら、野田首相はこの対価を払うべきだ。

 しかも、その増税のために、野田ちゃんは切腹しても浮かばれるよ、という雰囲気なのだ。
 へえと思うかもしれないけど、実は、これ、世界が野田政権に向ける目を、けっこう赤裸々に表現していて面白いところ。野田ちゃん、哀れだなとも思うけど、世界が君に求めているのは、ご切腹なんですよ。ひどいなあと思うけど。
 なので、ここでフィナンシャルタイムズが、インフレ目標の意味をわかっていながら、増税もまた善し!、なんてなぜ言っているのか、不可解でもあるけど、それは、長期的に日本には増税は必要だと見なしているから。

 長期的には、日本は若い労働者たちの負担を軽減し、裕福な高齢者や現金をため込んでいる人々の負担を増やすべきだろう。消費税率の引き上げはその一助になる。何らかの富裕税や、投資や利益配当を促す法人税の導入も必要だろう。また女性の労働参加率は48%とあまりに低く、英国を約7ポイントも下回っている。

 つまり、フィナンシャルタイムズとしては、今回の消費税引き上げよりも、政府が増税にシフトすることで、高齢者からカネを吸い上げろよ、と言っている。
 その意味では、だったら、逆進性の高い、しかも歯止めの利かない消費税というのは、筋、悪すぎじゃね、と私などは思うのだが、まあ、そこはフィナンシャルタイムズはぐっと目をつぶってしまう。
 そして、話の締めで、海外労働者の受け入れを提言するから、これに反感をもつ人の多いネット民には受けが悪い。そこだけ注目されることにもなる。

最後に、日本は移民の受け入れをもう少し増やしてもよいのではないか。確かに、深刻な人手不足は生じていない。だが若い世代や女性の待遇を良くする場合と同様に、日本は移民の受け入れからフレッシュなアイデアや活力を得ることができるだろう。

 しかしこの締めは、現下の日本とっては、英国風なジョークと聞き流してもいい部分。そこだけ着目して釣られてしまうのもなあ。
 さてと。
 このフィナンシャルタイムズの要点をまとめると、こうなる。

(1) 政府のカネをばらまいて見せかけの成長を演出しても線香花火に終わるから、日本は成長戦略が必要になる。
(2) 特に名目成長率が重要なので、日銀は2%のインフレ目標を掲げる時期を考慮せよ。
(3) おカネを貯め込んだ高齢層からカネをむしり取るために増税が必要になるという文脈で、消費税増税もしかたない。
(4) 日本が国家として増税をきっかけに成長戦略に転じることを世界は注目している。

 とま、そんなところです。
 
追記
 「a flash in the pan」の説明についてコメントをいただき、なるほどと思い、その部分を訂正した。

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2012.05.28

野田政権「社会保障と税の一体改革(消費税増税)」の見取り図

 謎と言ってもよいのではないかと思う。野田現政権「社会保障と税の一体改革」が、である。わずかではあるが自分なりの整理と見通しを書いておきたい。

今回の消費税増税は、増税日本の第一歩
 「社会保障と税の一体改革」といっても根幹は、村山内閣以降18年ぶりの消費税増税法案である。3月30日に閣議決定され、国会に提出された。閣議決定とはいえ、政権交代のマニュフェストにもなく、与党民主党のなかで合意されているわけでもない。民主党の有力者と騒がれている小沢一郎代議士も反対している。野党自民党としては、与党民主党内の合意ができてから審議に応じようとしている。与党がまとまっていないければ、野党の対応もできないのは当然だろう。
 閣議決定された消費税率引き上げ法案は、消費税率を二段階に分け、現行の5%から10%に引き上げることが表向きの目的である。一段階目は2年後の2014年4月でここで8%になり、二段階目は2015年10月に10%に引き上げることになる。ようするに3年後には消費税が10%になる。おそらくその後も上がる。各種の試算からしてそれでは足りないからだ。消費税があと5%上がるというより、増税日本の突破口となるのがこの法案の本質である。

「景気弾力条項」は意味を持つのか
 自民党政権時代、特に最後となった麻生政権時代でも消費税増税は検討されていたが、日本経済の回復を待って実施するという常識ある方針であった。民主党はその点の配慮もないのかというと、さすがにそうもいかない。自民党時代の政策を真似て、消費税増税は「経済状況の好転」を条件とした。これが「景気弾力条項」である。
 具体的に「経済状況の好転」が何を意味するか。これは、2020年度までの平均で「名目3%、実質2%の経済成長率」を「政策運営上の努力目標」とする、としたことである。
 このあたりから、謎が忍び寄る。
 まず疑問。2015年には消費税は10%に上がるが、その時点で2020年度までの「名目3%、実質2%の経済成長率」はどういう扱いになるのか。
 とりあず消費税を上げてしまって、その後の5年間でなんとかなるさ、あるいは、消費税を上げれば「名目3%、実質2%の経済成長率」となるさ、ということなのか。と、書いていて吹き出してしまうが、冗談のような話である。
 謎としてまとめるとこうなる。2020年までの「名目3%、実質2%の経済成長率」という「景気弾力条項」は、2020年以前の時点でどの程度、条件としての拘束力を持つのか。まったくわからない。たぶん、無視されるのだろう。

「名目3%、実質2%の経済成長率」は日銀が変わらない限り無理
 謎はふくらむ。「景気弾力条項」である「名目3%、実質2%の経済成長率」はどのような具体的な政策課題となっているのか。まともな人間なら物事を計画するにあたって条件を整えようとするものだ。当然、消費税増税以前に、条件を満たすための政策課題が議論されなければならないはずだ。
 ところが、野田政権、これが皆目見当たらない。謎である。
 簡単に考えてみよう、実質2%の経済成長率というのは普通に成長戦略である。名目3%の経済成長率は、日本の通貨の価値が関係しているから、日銀の金融政策、つまり金融緩和が関わってくる。
 だが、その2面が見えない。いや、1面は明確に見えている。日銀は断固として金融緩和を拒んでいるからだ。日本の名目成長率は2000年以降マイナス0.6%なので、大きな政策転換なくして名目3%になりうるわけがないのだが、その政治プロセスはすでに途絶している。あー、つまり、ダメダメじゃんということ。

なぜ野田民主党政権は、増税に爆走したのか?
 現状、野田政権は、消費税問題の条件整備をすっとばして、なによりも消費税増税に邁進している。なぜこういうことになってしまったのだろうか。
 この謎、つまり野田政権の爆走理由については、それほどむずかしくない。解いてみよう。ポイントは、貧乏人対策である。
 現状、「社会保障と税の一体改革」で大きな課題になっているかに見えるのが、貧乏人対策である。そして、この部分、「社会保障と税」が、消費税増税と一体になるから、「一体改革」なのである。あなたが貧乏人なら、話はさらにわかりやすい。
 国家が消費税増税に突っ走ってしまうと、貧乏人は振り捨てられる。金持ちは高い物も買うから消費税を多く支払うともいえるが、金持ちはどの価格帯の物を買うかは選択可能だ。ところが貧乏人は基本、安い物しか買えない。それにがっつり、消費税が付く。つまり、消費税というのは貧乏人イジメの政策である。これを「逆進性」と言う。
 なお、消費税は逆進性ではないのだという、あたかも増税で経済成長するみたいな面白い屁理屈がないわけではない。だが現状の国政の状況としては、消費税の逆進性を対処するかという課題になっているので、面白い話題はネットで人気のご先生がたに任せて、ここでは現実を見ていこう。

逆進性の補正は「給付付き税額控除」か「複数税率」か
 消費税の逆進性、つまり、貧乏人には重税になるという傾向を補正・是正するには、基本、二つの政策がある。その二つがまさに現在、議論されている。
 一つは、消費税増税で貧乏人に重税になった部分、補正としてお金を上げましょうということだ。これが「給付」。他の税を軽減するという「控除」もある。2つを含めて「給付付き税額控除」という対処方法になる。これが、野田政権側が対処として提示している政策だ。機能するなら悪くないといえるし、採用している国もある。
 もう一つの政策は、貧乏人が買う物の消費税は安くしとけ、という方式である。食品は貧乏人の生死に直結する。だから食品の消費税は軽減し、学生はブログなんか見てないで書籍で学ばないとますます阿呆になるから書籍の消費税は軽減する、といった政策である。消費税が複数になる。これが「複数税率」である。自民党がかつて掲げたわりに、現下の党としての政策としてまとまっている印象はない。
 自民党と民主党って、もはやなんの違いもないというか、民主党はかつての自民党の単なる劣化版になってしまった現状はあるが、それでも理念としては、自民党は人が働いてそれでも所得が少なければ税金を軽くしましょうという政党である。これに対して、民主党は貧乏人には国がお金を上げましょうという政党である。
 当然、民主党は、貧乏人が増えるならじゃんじゃん、バラマキしょうということになる。さて、そのカネどこから? というのが問題になる。
 民主党はバラマキのための財源が欲しい。だから、消費税に血道を上げているのである。
 これは、国家に寄生する官僚制度にも都合がいい。特に財務省が野田政権を全面的に支援しているという図ができあがる。
 「でも、民主党のバラマキ方式でいいじゃん。私、貧乏人だし」という人もいるだろう。そこで、「複数税率」ではなく「給付付き税額控除」なのか。

「給付付き税額控除」は無理
 話を簡単にすると、「給付付き税額控除」は無理。なぜかというと、貧乏人がどのくらい貧乏なのかというのは、その所得の情報を国家が知っておく、つまり捕捉する制度が必要になる。逆に言えば、国民の所得捕捉の制度ができてから、「給付付き税額控除」が可能になる。だったら、今議論すべきは、国民の所得捕捉の制度ではないかとなる。ところがそうなっていない。
 この時点で、実は野田政権はまともな政治プロセスとしては、終了になっているはずなので、なんでこのゾンビが、かくまでがんばっているのかよくわからない光景ではある。輿石先生のフォースであろうか。
 消費税を上げるというなら、「複数税率」にするしかない。
 だが、これは無理ではないが、困難。なぜ困難かというと、流通での計算が複雑になるからということもだが(もともと日本の消費税にはインボイスがないという欠陥がある)、官僚がそこまで仕事をしたくないのである。もっと官僚さん働いてよという感じでもあるが、だって人手が足りませんと答えらるのがオチになる。
 だったら、できるだけ、簡素な「複数税率」の制度から始める、まず、食品から、となりそうなものだが、現状の自民党にはそうした議論はほとんど見かけない(あるのかもしれないが)。かろうじて目立つところでは5月28日の産経新聞社説「軽減税率 与野党で導入を議論せよ」で提言されている。
 結論からいうと、消費税を上げるなら食品を基本とした簡素な「複数税率」から着手すべきだが、現状では誰もやる気がない。原発廃止というもっと重要な課題があるからもしれない(冗談)。

こりゃびっくりの奇手登場
 じゃあ、どうなるの。ダメじゃん、ということになる。
 ところが、それでも野田政権は暴走しようとして、奇手の政策を出してくる可能性がある。おっと、その手があったかと。日本の官僚は、「兵は詭道なり」の孫子を学んでいるのである。これが政治を面白くしてくれる。眺めていると二つ、奇手がありそうだ。
 その一。目眩ましの折衷案。「複数税率は好ましいが、いずれ消費税は10%を越えるのだから、その時点で食品など貧乏人につらい消費税を10%に抑えよう」というのである。これは名案。朝日新聞が5月20日の社説「消費増税と低所得層―軽減税率は将来の課題に」で掲げ、旭日旗をばたばたと振って支援している。なるほど、この理屈なら複数税率の議論は、野田政権消費税を上手に救ってくれるではないか。
 ご冗談でしょ、朝日新聞社さん。
 いくら、目先の10%が大増税国家への一里塚とはいえ、現段階から10%を越える消費税を国民的合意にせよというのですかね。そりゃ無体な。
 そしてこの奇手は、その後の軽減税率が空手形であるということからしても、現状の議論のまさに目眩ましそのもの。
 その二。カナダで実施されている「GSTクレジット」という直接給付制度の真似がある。消費税増税に合わせて、貧乏人、つまり、低所得世帯に直接お金を給付するのである。それって、民主党の「給付付き税額控除」と同じではないかと思えるし、同じなのかもしれない。しかもそれって「子ども手当」の本質だったんじゃないとも思えてくる。それもそう。
 だが、現下の消費税増税ならなんでもするという状況での直接給付は、所得の捕捉なんて細かい制度はどうでもよく、どんぶり勘定で貧乏人にバラマキということになる。おそらく、安価な食品の増税分は試算しやすいだろうから、その分はカネで渡してしまえば、貧乏人も消費税増税に文句はあるまい、ということである。
 この奇手で問題となるのは、貧乏人を詐称する人である。これを防ぐには、現在貧乏人詐称をするとひどい目にあわせておくといい。というか、昨今の貧困騒ぎは生活保護の文脈ではなく、直接給付の下準備なのではないか。


 いずれにせよ、野田政権は失費税増税に爆走しているものの、そして、「景気弾力条項」も実質消えてしまっているものの、貧乏人対策なしでは、消費税増税は難しいだろうなというのが最後の関所になっている。
 自民党としては簡素な複数税制で、民主党としては大ざっぱな直接給付で乗り切りたいところだろう。
 財務省的には乗り切ればいいので、どっちでもいいよ。
 日銀的には金融緩和がなければ、どっちでもいいよ。
 

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2012.05.27

「努力」とはなにか

 「努力」とはなにか、について考えたら、文字認識のゲシュタルト崩壊じゃないけど、意味のゲシュタルト崩壊を起こして、えっ?えっ?、「努力」って何? 意味わかんねー状態になってきた。
 「努力」とはなにか? なんて考えるのが間違いの元だというのは、わかっているんだが、気になるとダメ、もう。
 話のきっかけは、これ、「「努力できる人」は脳が違う」(参照)というワイヤードの記事。へえと思った。そう思う人も多いんじゃないか。ネット界のゴミ箱とも呼ばれアルファーブロガーなら閲覧禁止指定がデフォでしょとされるブコメを覗くと予想通り、たんまり食いついている(参照)。
 私はというと、いや頭を抱えて、そして冒頭のゲシュタルト崩壊に至った。ちょっと説明させてくれ。
 記事の冒頭を引用するから、読んで味噌。

退屈な作業をやりとげようとする意欲の強い人と、途中であきらめてしまう人がいる。彼らの「脳の違い」を明らかにする研究が行われた。

この文章を書いているわたしは、そのうち退屈し始めるだろう。文字を見続けることに飽きて、気晴らしを求め始めるのだ。この画面から去って、どこか別のページへ行き、まったく関係ないサイトで楽しむ。そうした無駄な時間をしばらく費やしたあと、罪悪感が大きくなってきて、再びこの文章に戻ってくるはずだ。

それは、われわれの内にある「動機」と、外から来る「退屈」との果てしない闘い、意志と快楽のせめぎあいだ。何をしなければならないかは知っているが、したいことをするほうがずっと簡単なのだ。


 え?と思ったのだった。それって、「努力」?
 添付写真では"effort"が下線で強調されている。"effort"=「努力」という翻訳記事なんだろう。
 疑問は、ですね、「退屈を乗り越える能力」のことを「努力」って言いますか? なんか変じゃないか。再びはてブを見る。あった。

raitu これは「退屈我慢能力」というよりは「どんなものにもゲーム感覚を見出して楽しめる能力」の話。短期的には損得勘定上「やるだけ損」な作業でも愉しみを見出せるかどうか。自分は普段ちゃんと寝てるとそうなりやすい
m-tanaka 「退屈な作業をやりとげようとする意欲の強い人」は「努力の出来る人」とは違うと思う

 記事読んで、それって、「努力」?と疑問に思う人は300人に1人くらいはいそうな感じ。
 ええと私はですね、ゲシュタルト崩壊から0.5秒後に立ち直った後で、これ、誤訳じゃないのと思った。いや、英語的に誤訳とか思わないし、ネットでありがちな誤訳の指摘という話ではない。
 「努力」とはなにか? 大辞林を引いてみるとこう。

心をこめて事にあたること。骨を折って事の実行につとめること。つとめはげむこと。 「目標に向かって-する」 「-のたまもの」

 なるほど。「心を込めて」するわけですよ。「骨を折って」するわけです。痛そう。
 ロングマンで"effort"を引いてみた。

1 physical/mental energy
the physical or mental energy that is needed to do something

 「何かをするために必要な気力または体力」
 なーる!
 気力だから、どこまで続くかという話なわけですよ。納得。
 でもそれって日本語で「努力」っていいますかね。
 ロングマンをさらに見ると。

2 attempt
an attempt to do something, especially when this involves a lot of hard work or determination

 「何かに挑戦すること」が"effort"なわけか。
 学生援助募集サイト!とか挑戦するのも"effort"か。それに、困難や決意が伴うとより"effort"らしくなる、と。やっちまってから困難や決意が求められるというのはちょっと違う。なーんて冗談を書いてみたんだが、ロングマンの用例に"a fund-raising effort"というのもあった。やっぱ、"effort"なのか
 日本語の「努力」と英語の"effort"とでそれほど意味が違うということでもないといえばそうなんだろうが、現代英語だと、エネルギー量みたいなイメージが先行するとは言えそうだ。
 実際、この記事も、そうした量的概念を前提とした実験モデルになっている。
 今まであんまり考えてなかったが、語源も見ると、"esfort"とあり、"force"というがコアになっている。もとから、「力の発揮」みたいな言葉なわけか。というか、英語のウィキペディアだと"effort"で"energy"に飛ばされた。あっ! てこの原理で力点のことを"point of effort"というのだったな。

 ベタに、ぐいっとする「力」というわけか。
 ついでなんで、ボードゲームのタイトルで気にもなっていた"endeavor"も見ると。


attempt to do something new or difficult

 これは「努力」というより「挑戦」と訳したほうがいいような感じ。
 日本人だと「努力」というと心や精神の構えのような、徳目として考えがちがだが、欧米人の"effort"というのは、「レバ刺し食っていっちょやったるかぁ」みたいなノリなんじゃないか。(欧米人がレバ刺し食うか知らんが)
 
 

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2012.05.26

河本準一さんをめぐる生活保護費の不正受給疑惑について

 お笑いコンビ「次長課長」の河本準一さん(私はこの人全然知らないのだけど)の母親に生活保護費が不正受給されていたのではないか、とする疑惑問題がツイッターで沸騰していた。何かが発動しているんだな、なんなんだろうかと、蟻の生活を観察するように(参照)眺めてみた。よくわからないせいか、自分の印象は浮きまくった。うむ。だったら異論の一つとしてブログに書いてみてもいいんじゃないか。ごく簡単に書いてみたい。
 当の疑惑問題だが、NHK的にはこうまとめていた。「河本準一さん 生活保護費返還へ」(参照)より。読むとわかりやすい口調でありながら、「それって不正なの?」という構図は、いい案配にボカされている。


 この問題は、テレビや舞台などで活躍する河本準一さんが一定の収入があるにもかかわらず、母親が生活保護を受けていると、先月、週刊誌で報じられ、批判されていたものです。
 河本さんは25日、東京都内で記者会見を開き、母親が生活保護を受けていた状況について説明しました。
 それによりますと、河本さんの母親は15年ほど前に病気で働けなくなりましたが、河本さんは当時、年収が少なく、養うことができなかったため、母親が生活保護を受けるようになったということです。
 その後、河本さんがテレビなどで活躍するようになると、福祉事務所から母親に援助できないか相談を持ちかけられるようになり、5年ほど前からは河本さんが生活費の一部を援助し、その分、生活保護費が減額されていたということです。

 今回の話の発端は、サイゾーというネット媒体と女性セブンという週刊誌で今月上旬あたりで話題となり、その後、片山さつき議員と世耕弘成議員が関心を持って話を膨らまし、週刊新潮でも小ネタで扱われたという経緯のようだ。5月11日の時点の電凸話がユーチューブにあり(参照)、その時点の空気を残している。

不正受給なのか?
 現状の報道からは、不正受給とは言えそうにない。つまり、違法性は確認されない。NHK報道ではこう言及されている。


河本さんは「福祉事務所と話し合って決めていたので、母親が生活保護を受けていることは法的には問題ない」という考えを示したうえで、「芸人は収入が不安定なため、今は高い収入があっても母親の生活保護を打ち切ることはできなかった。甘い考えだったと深く反省している」と謝罪しました。

 河本さん側としては、違法性はないとして、しかし、「甘い考えだったと深く反省」したというのである。
 ツイッターなどでは、「違法性がないなら謝罪する必要はないではない」「生活保護は堂々と受ければよいではないのか」という意見が沸騰していた。さらに、「こうしてメディアで河本さんを吊し上げるのは、魔女裁判であり、メディアによるリンチだ」という意見も流れていた。
 違法性はないのだから、それはそうなんだろう。
 では、河本さんの意識としては何を謝罪したのか?
 実はそこが、よくわからない。現実が認識されず沸騰するのが昨今のネットだからというのもあるのだろうが。
 「法的な責任はないが、有名人として道義的な責任はある」みたいな理解がなんとなくされているが、そう理解する根拠もない。これが今回の問題と騒ぎの一つの軸になっている。
 謎の謝罪に関連して、返金の示唆がまた謎である。

また、母親は先月から生活保護の受給をやめたということで、河本さんは今後、福祉事務所と話し合って、母親が受け取っていた生活保護費の一部を返金す るということです。

 ここも疑問点である。不正でないのに、生活保護費の一部を返金するということがどういうことなのか。別の言い方をすると、返金はどういう名目になるのか。
 ツイッターで疑問を出したら「寄付」という答えを得た。福祉事務所に寄付ですかというと、「総務省」とのことだった。民主党政権下で思わぬ行政改革が進んでいるのかもしれない。それはさておき。
 いずれにせよ、返金がどのような名目となるのかはわからない。「貰いすぎたのだから、返せばいい」というふうに一見すると理解できそうに思うのだが、だとすると、「貰いすぎた」という判断が前提となる。
 すると、不正ではないけど、貰いすぎたということになる。よくわからない。しいて考えれば、福祉事務所のミス・落ち度ということになるだろう。
 だとすると、謝罪すべきは、福祉事務所、ということではないのか。ますますわからない。

不正受給の疑いはないのか?
 福祉事務所が了解していた以上、現状、「不正受給ではない」としか言えないようだが、それをもって疑念はすべてぬぐい去れたかというと、ここに奇妙な問題がある。結論からいうと、どんなに疑念があっても、解消できない仕組みになっている。
 まず疑念だが、この事態で「不正」はどこで判定されるのかというと、河本準一さんの所得である。そして、福祉事務所に開示されている河本準一さんの所得からは、不正はないと判断されてきたということである。
 疑念は実は、不正受給ではなく、福祉事務所に開示されている河本準一さんの所得は正確なのか?という点にある。
 豪奢な生活ぶりではないか、福祉事務所に開示されている以上の収入があるのではないか、という疑念から発したものだ。売れない芸人のままなら、疑念もないし、所得が正確に公開されていても疑念はない。
 繰り返すと、不正受給は波及であって、論点は、福祉事務所に開示されている河本準一さんの所得は正確なのか?という点にある。
 この問題についてだが、河本準一さんには福祉事務所以外に開示する義務はない。プライバシーの問題である。よって、この問題はここで簡単にデッド・ポイントに達する。
 ところが今回問題になったのは、国政調査権を持つ国会議員二名がこの疑念に首を突っ込んだからだ。つまり、国政上の調査対象であることが暗黙にちらつかされたことがある。市民的に考えれば、一時期豪奢な生活をしてようが芸能人の所得が国政上の問題になりうるわけもなく、権力の不当行使にしかならない。そのあたりは二議員も心得ているために、曖昧に影響力を行使していた。
 同時にこの問題は、実は機構上は河本準一さんの意志のように見えるが、河本準一さん自身はこうした経理方針を熟知しているわけもなく、現実の収入の開示については、ようするにその部分を担っていた吉本興業の子会社クリエイティブ・エージェンシーの問題だった。端的にいえば、吉本が問題だった。
 以上の背景から、二議員に吉本興業の代理人弁護士が訪問していた(参照)。片山さつき氏はこう語っている。事実関係についての疑念はないとしてもよいだろう。


片山さつき氏(以下、片山) まず、最初に先方に確認したんです。「今回、私のほうから、(吉本さんを)呼んだわけではないですよね」と。5月2日(※片山議員が、自身のブログで、今回の問題を追及する旨を報告した日)の夜遅い時間に、吉本の代理人弁護士から私の携帯電話に直接「河本さんの一件で説明したい」という連絡をいただき、受給を認めた上でいくつか理由のようなことをおっしゃるので、「その説明ではとても納得はできない」と伝えたら、日を改めて議員会館に伺いたいと先方がおっしゃった。翌日から私は米国出張だったんですが、「では、6日に帰国してから時間設けますから、できるだけ早くご連絡いただければ、こちらも対応します」と答えたところ、帰国後もなかなか連絡が来ない。で、やっと返事が来て、いくつか希望日を出されてましたが、いちばん早い18日に私と世耕さんが万障繰り合わせて対応しました。つまり、こちらとしては事情説明があるなら、一刻も早く聞こうという姿勢で対応したんです。18日にお会いした時、「なんでこんなに遅れたのですか?」と聞くと、「誰が行くかなどを調整していました」と言っていましたね。

 吉本の弁護士側はどう対応したか。議員を信頼して内密に河本準一さんの収入の開示があっただろうか。

――収入については所得証明や納税証明などの証拠書類は提示してきたのですか?
片山 そういうものは一切持ってこなかったですし、口頭でも「年収はいくら」という具体的な開示はなかったですね。あと、福祉事務所から毎年一回、河本さんに電話で「仕送りをもう少し増やすなりできないか」などの照会があったそうで、そのたびに「今はまだ無理」と対応していたそうです。福祉事務所からは電話だけだったのかと聞いたら「そう聞いています」と。一回だけ仕送りを増額したと言っていましたが、その額も具体的には言いませんでした。
――せっかくの説明の機会だったのに、証拠書類も出さずに、正確な数字も把握していなかったと。
片山 とにかく具体的な提示はなかったし、我々を納得させる新しい材料もなかったですね。所得証明はないのかと聞くと黙ってしまうし。あと、母親以外に他の親族の面倒も見ていて、その親族が海外で治療を受けなければならなくて、それに多額の費用がかかるんだという話を、最初に電話がかかってきた時に弁護士から説明を受けたわけなのですが、「その方は河本さんにとってどういう立場の方ですか?」と聞いたら、「私はそんなことは言ってない」と言う。「いや、聞きましたよ」と言ったけど、「言ってない」と言う。「でも録音記録に残っていますよ」と言うと、また黙ってしまう。もしかしたら、吉本や弁護士側も情報が取れていないのかもしれませんが、都合が悪いことは黙るという繰り返しでしたね。結局、今回の説明でも「不正受給ではなかった」と我々が納得できる材料はなかったので、「本件は黒ではなくグレーということはあっても、『白』ということはできません」と申し上げました。引き続き、この問題は追及していくことになります。ただし、報道されているように、世耕さんが「道義的責任をとって、全額返済すること」を提案し、それを持ち帰ったので、その返答にもよりますが。

 かくして国会議員への、河本準一さんの所得の開示はなく、二議員は「不正受給」の疑惑を残した形になった。
 まとめると、所得が開示されず「不正受給」の疑惑は残る、としたのが国民の代議士である以上、国民にも疑問は残る。
 もう一点、片山氏の証言で興味深いのは、福祉事務所の対応の不備の疑惑である。

謝罪会見は何を意味していのか?
 謝罪会見前の状況としては、国会議員が権力をちらつかせて所得開示を迫るが、吉本側はそれを拒むという緊張した状態にあった。
 この緊張は継続することで両者にダメージも与えることになる。国会議員側としては不当な権力行使に見えるし、吉本側では経理上の不正の疑念が増していく。どこかで手打ちをする状況的な圧力が増しており、それが、結果として今回の謝罪会見となった。
 手打ちの様式は片山氏の証言のなかで指示されていた。


引き続き、この問題は追及していくことになります。ただし、報道されているように、世耕さんが「道義的責任をとって、全額返済すること」を提案し、それを持ち帰ったので、その返答にもよりますが。

 二議員側としては、「道義的責任をとって、全額返済すること」を吉本側が飲めば、事態は納めるということである。露骨にいうと、これ以上、吉本への追究はしないという約束だったと言ってもいい。
 かくして、お笑い芸人に吉本側から泣きの演出の依頼が出て、この謝罪会見となった。吉本の所業を一身に背負って磔刑ともなれば、相応のご利益も期待できそうに見える。

問題の意味はなにか?
 今回の問題の経緯はそれだけのことで、緊張する両者は手打ちとなって終わった。
 生活保護費の不正受給という問題でいうなら、今回の事例は、そもそも問題ですらない。
 生活保護費の制度には不正受給が付きものなので、制度設計の当初から組み込まれている。実際、この制度の不正の率は異様なほど低い。
 なにより最大の不正抑止として、そもそも受給が少ないということがある。こんな少ない額で生活保護になるのかと平成生まれの人が疑問に思うだろうが、戦後日本人の歴史体験として、死活問題は貨幣経済じゃなかったというのがあった。現在でも農業が維持されている地方で暮らしてみるとわかるが、貨幣がそれほどなくても生きていける。別の言い方をすれば、高度成長期に農村から都市に出た人間は失敗したら農村に帰れ、という指示でもあった。
 その制度が特定の技能集団でしか利用できなくなるまでに進化し、現実に困窮している人にも対応しなくなっている。
 今回の事例でいうなら、吉本側としては従来どおりのお約束で進行しているのに、「なにこの議員、わかってねーの?」ということだ。自民党が政権与党なら、それなりに「ここは、まあ、わかれよ。吉本っていうのはそもそもなぁ……」の仲裁が入ったものだが、没落した現状の自民党では無理。
 同時に没落した自民党としても、このまま昭和な世界に浸かって復活する見込みもないのだから、制度の改善は提案したいし、財務省側はかねてより、国民の所得を捕捉する制度を欲している。これ、いいじゃないか、と食ってみたという話。
 では、制度をなんとかしたらということもある。それだけいうと正義のようだが、今回の事態の核心のように、そもそも現行の制度では所得の捕捉ができないし、その制度の見込みもない。それがどのくらい絶望的なのかは、消費税増税に伴う所得ベースの補償もできないことからわかる。
 もっとも、片山・世耕議員に対して、困窮者を虐めるなとここぞとばかりに批判する側も、国民の所得捕捉の制度が必要だとは言えない弱みでもあるような振る舞いしかしていない。
 
 

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2012.05.25

[書評]英知のイエス 心の変容、キリストとそのメッセージについての新しい見方(シンシア・ブジョー)

 センタリングの祈りについて書かれたシンシア・ブジョーの本を読んだあと、彼女自身の思想を追ってみたい思いがして、もう一冊何か読んでみた。「英知のイエス 心の変容、キリストとそのメッセージについての新しい見方(The Wisdom Jesus: Transforming Heart and Mind--A New Perspective on Christ and His Message)」(参照)である。

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The Wisdom Jesus
Transforming Heart and Mind
-A New Perspective
on Christ and His Message
 私自身、似たテーマを考えてきたこともあり、内容の少なからぬ部分については既知ではあったが、著者ブジョーが整理した視点(パースペクティブ)は類書では得がたいものだった。
 タイトルになっている「英知のイエス(The Wisdom Jesus)」は、ともすれば、「イエスの英知(The Wisdom of Jesus)」として理解されやすい。ジェファーソン聖書のように、理性的に受け止めやすく、正しい倫理の道を説いたイエスの言行録といった理解である。
 マックス・ヴェーバーも指摘しているが、聖人の言行録を好む中華圏の影響を受けた日本では、イエスもその正しい言行を学ぶ手本として理解されやすい。もちろん、カトリックの伝統でも、トマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて(De imitatione Christ)」(参照)はそれに近いし、アッシジのフランチェスコの聖痕もそれに近い。
 規範的な言行録的な意味合いがまったくないわけではないが、ブジョーの言う「英知(Wisdom)」は、言明される命題でも量化しうる知識でもない。古武道的な体得や禅の悟りにも近く、実際ブジョー自身も本書でなんども禅の「公案」との比喩を示している。
 端的にいうなら、この英知はグノーシス(Γνῶσις)であり、ブジョーは「グノーシスのイエス」の現代的な意味を、本書で平易に説き明かそうとしている。この作業が難しいのは、グノーシスには異端というレッテルが付きまとう点である。
 ブジョーは触れていないが、グノーシスに対応するのは、ケリュグマ(κήρυγμα)であり、従来のキリスト教は「ケリュグマのイエス」を宣教してきた。ケリュグマは、語義的には「伝令が告げる布告」の意味だが、新約聖書学では、原始キリスト教会によるキリスト証言、つまり、福音であるイエスを意味している。単純にいえば、イエスの復活という福音によって描かれるイエスである。キリスト教信仰の核となるものであり、信条の核と言ってもいいだろう。
 しかしそれだけであれば、表層的なケリュグマの意味は単にドグマでしかない。新約聖書学において重要な、ほぼ公理とも言えるのは、ケリュグマが宣教であるという点である。それでもわかりづらいかと思うので、別の側面でいうなら、「ケリュグマのイエス」というのは、「歴史・実在的なイエス」とは異なるものであるということだ。
 聖書を大衆が読むことによって、文字・知識を通してイエスを知りうる可能性が開けたとき、これが「真理としての擬古」を招き、「本当のイエス」が問われるようになり、さらにはプロテスタントというありかたが生まれた。しかし聖書は、正典化されたとき、それ自体がケリュグマの枠組みにあって、そこから歴史的な意味でのイエスというのは見出しえないように構成されている。
 そのチェックメイトともいえる作業がルドルフ・ブルトマンの非神話化であり、カール・バルトの弁証法神学でもあった。が、逆にこのことは、実際には、聖書をキリスト教に再び収納することになり、キリスト教の躍動をいびつな形で封じ込めることになったと私は見ている。
 というのも、聖書はケリュグマでもありながら、微妙な形で、歴史文書でもあり続ける。その最たる矛盾点は、福音書特に共観福音書に示されるケリュグマとパウロに伝えられたケリュグマに、正典化されてなお、相違があることだ。
 特にこの点については、Qや原マルコにケリュグマの根幹である復活の言及が明示的に見当たらないことでも明らかであり、信条によって定式化される三一より大きな問題をもっている。神学者八木誠一などはこの難問をケリュグマのタイポロジーとして3種に分け、その根底における全一のリアリティなるものを想定したが、神学的な失敗と見てよいだろうと私は考えている。
 ケリュグマと聖書の矛盾は本質的に解消しえないと割り切り、ブルトマンやバルトのようにケリュグマのみをキリスト教に帰していくのがよいのだろうし、世俗的にはそこから導出されるリベラルな立場が妥当のようにも思われる。むしろ、リベラルというなら、ケリュグマを薄めて、聖書という古代文書を他の古代文書と並べ、ジェファーソン聖書よろしく倫理教説を読むということもあるだろう。先日のNewsweekにもこうした「理性的な」立場が再録されていたし、私も、その方向のなかで生きて来た。だが、それは違うのだろう。
 ケリュグマと聖書の矛盾は「トマス福音書」によって決定的なものになったと言っていい。ようやくそのことに納得した。私としては、それでもブルトマンやバルト的な側にいるのだが、ブジョーは、やすやすということでもないが、「トマス福音書」を自然に正しい位置に置き直している。
 「トマス福音書」を巡る、そのブジョーの手つき、信仰のありかたに、率直なところ、私は衝撃を受けた。「ああ、それでいいのか」という落胆にも似たものである。「トマス福音書」のグノーシスの視点は、むしろ、Qへの親和性をもっているし、ブジョーが本書で説明しているように、そもそもナグ・ハマディ文書時代、あるいはその後のシリア教会の教父などでも、グノーシスとしてのイエスはきちんと生き続けていた。バルトがイエスの復活をとりあえず史的な一回性の啓示として見るなら、ナグ・ハマディ文書の登場も、グノーシスとしてイエスの啓示であろうかという冗談も脳裏にも浮かんだ。

 本書に戻る。ブジョーは、「英知のイエス」のありかたを、聖公会の女司祭らしくていねいにとりあげ、第一部「イエスの教え」では、従来解釈として語られてきたイエスの言行、ブルトマンのいうアポフテグマをグノーシスの文脈に置き直そうとする。大衆向け書籍らしくさらりと描かれているが、グノーシスの本質をケノーシス(κένωσις)に収斂される部分は、魂の美そのものを表現している。ここは凡百のスピリチュアル志向が踏み間違うところでもある。
 第一部の最後では、ケノーシスを「タントラ師としてのイエス(Jesus as Tantric Master)」とする。仏教的な比喩が返って誤解を招きやすい面はあるが、まさにグノーシスの真骨頂でもあるだろう。当然だが、仏教の空(śūnya)への言及もある。
 第二部「イエスの神秘(The Mystery of Jesus)」では、ケリュグマとして構成されるアポフテグマへのグノーシス的な逆転が語られる。いわゆるキリスト教の教義というものの、グノーシス的な側面が語られる。とはいえ実際のこの部分は、頭でこじつけた感じもあり、それほど面白いものではない。それでも、神秘に秘蹟(sacrament)の意味があることは見逃せない。結論からいえば、秘蹟はタントラであるというのだ。当たり前といえば当たり前だが、それはケリュグマではなくグノーシスとして前提とされるものである。ブジョーはこららの秘蹟的な問題について、特に復活の身体を実在的な意味合いで説く。率直に言えば、オカルトの領域にも足を踏み込んでいると私は見えるので、そこまで踏み込む勇気はない。私はどちらかというと、「奇跡講座」におけるケネス・ワプニクの「修正」に近い立場にある。
 第三部「キリスト教徒の英知の実践(Christian Wisdom Practices)」は、グノーシスのタントラ的な修法的な側面として、センタリングの祈り、レクチオ・ディヴィナ、チャンティング、歓待の祈り、そして秘蹟、が語られる。
 秘蹟とチャンティングを除けば、前回読んだ書籍(参照)と同じとも言えるのだが、むしろ本書の説明のほうが簡素ですっきりと理解できた。また、秘蹟については先に触れたように、ブジョーの思索から当然の帰結であるだろうし、意地悪い言い方をすれば、聖公会の優位が実質的に語られている。
 チャンティングについては、不意を突かれた。グレイゴリアン・チャントの原形的なあり方への示唆も驚かされたし、テゼ(Taizé)がこの文脈で現れることも驚いた。
 テゼについてはその共同体的ないわば集団の、新しい信仰の運動として見てきたし、それはそれで正しい理解ではあるのだが、黙想の祈りからチャンティングを通してテゼを見直すとき、テゼのチャント(歌)そのものの、ケノーシスとしての圧倒的な美しさというものに出会った思いがする。言い方は変だが、そんなことを気がつかなかった自分をうかつだったと思ったし、聖霊がきちんと自分を導いているじゃないかと、聖霊的なユーモアも感じた。
 話は前後するが、センタリングの祈りについてブジョーの師であるキーティングはトラピストらしくレクチオ・ディヴィナの発展として捉えているが、そこは少し違うようにも思えた。どこかに正しい修法があるというわけではないが、この部分は宿題に残った。
 自分にとっては懐かしいエキュメニズムに思いを新たにした。テゼの黙想が暗示するように、エキュメニズム、つまり本当の意味でのキリストの身体は、理性の上にではなく、より精神的な充足のなかに築かれるのかもしれない。


 
 

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2012.05.23

職業別労働組合が奨学生を支援するといいんじゃないの

 ネットで学費援助を募集するというような話題がこのところネットにあって、公的なセクターが関わる話でもなさそうなので、私にはあまり関心が向かない。なので、そうだったら、関連した話なんかも書かなくてもいいじゃないかとも思うのだけど、まあ、雑談くらいにちょっとだけ。
 以前、米国の職業別組合みたいなのものに所属していて、それなりに面白い体験でもあった。団体のプレジデントとか選ぶときも、米国の大統領選挙みたいな仕組みだったりした。規約の改定の手続きともかも、宗教的な大義みたいなものを打ち出したりして、米人は奇妙な考え方をするもんだなとか思った。そんななかで、組合のミッションとして、「今年の奨学生」というのもあった。組合で奨学生を選出して支援しているようだった。
 他の組合というかユニオンがどうなっているのか知らないし、ざっとネットで調べた感じだとよくわからないのだが、そこのユニオンだと、将来学生がその職業に就くときの励みになるような支援をするという感じだった。奨学生も、その職業にどう意義を見出して、自分が貢献できるかみたいなエッセーを書かされたり、スピーチをさせられていた。
 いいんじゃないの、そういうのと思ったものだった。
 日本でも、いろいろ就職が問われていて、いろいろな模索をする時代になったので、そういう職業別の労働組合が主体になって、学生にその分野の仕事を伝えようとしたり、奨学金を出すようにしたらいいんじゃないか。
 日本だと、よくわからないのだが、労組というかユニオンというのは、職業別というより、業界とかあるいは大手一社の結束という印象があるけど、もっと自分たちのやっているプロフェッションを自覚して、その仕事に就いてくれるように学生にアピールするとよいのではないか。すでにそういう試みがあるのか、知らないので、とんちんかんなことを書いているのかもしれないが。
 もちろん、すでに日本の労組でも奨学金を出すところはあるのは知っているけど、そういうのとは少し違って、例えば、ネットの業界だったら、ネット業界で特定の社会貢献の意識を持つ人たちが集まって、その仲間で自分たちのミッション(使命)とエシックス(倫理)を掲げ、そこから、自分たちあるいは世間などにも募金を求めて、そこから、自分たちの仕事のミッションを理解する学生に奨学金を出す。そのためにエッセイのコンテストなどをする。奨学金を得た学生は、その後、同じ労組のなかに入って活躍する……というようなことがあっていいんじゃないか。
 まあ、そんだけの話。
 もしかすると絵空事のような響きを持つのかもしれないけど、学生さんたちが、なんのために勉強をするかというとき、もちろん、自分の教養を高めるためというのもあるけど、職業技能の基礎を得るというのもあるわけなので、そういう志向に対して、社会の側で、現役のプロフェッショナルから、その集団の意志として、支援する仕組みがもっとあるとよいように思う。
 
 

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2012.05.19

[書評]毒婦。木嶋佳苗100日裁判傍聴記(北原みのり)

 本屋で見かけてぱらっと手にしてから、連続不審死事件の木嶋佳苗被告(37)がどういう人間だったのか、事件に関わる事実と裁判の具体的な情景はどのようなものだったのだろうか、という、いわば週刊誌的な関心を今頃になってもち、読んでみた。
 1974年生まれの木嶋被告を、1970年生まれと年代の近い女性として筆者、北原みのりがどう描くのかというのにも関心をもった。書籍は「週刊朝日」の連載を元にしたらしく、読みやすく書かれ、実際さっと読み終えることができた。書籍としては、面白いとしかいいようがない。

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毒婦。
木嶋佳苗100日裁判傍聴記
 で、木嶋被告はどうだったのか? 事件はどうだったか? それ以前に、筆者北原みのりはどう彼女を見たか?
 答えは出てないと言っていい。著者北原は大きな不可解な謎に直面して呆然と立ち尽くしている。無理して大衆受けのする結論みたいなところから引っ張るのではなく、同じ時代を生きた女性としてどう理解できるのかと懸命にアプローチをして、わからないと踏みとどまっている。その筆致に共感できる。
 それゆえに、事件の真相といった部分についてはあまり踏み込んで書かれていない。証拠がないといわれたこの事件で、著者は木嶋が犯人なのかという問いは極力抑制している。その仕掛けによって木嶋という女性をなんとか浮かび上がらせようともしている。
 きちんと描写されればされるほど、木嶋被告という女性は謎である。著者北原が繰り返し言うように共感できない。裁判に現れる木嶋被告は、そのプロセスの大半で罪悪感のかけらも示さない。無罪だ、冤罪だとと絶叫するふうもない。もちろん起訴されている犯行は否定しているのだが、その否定の言明は常識的に見ても支離滅裂なものだし、裁判で取り出される彼女の過去の言行は嘘だらけである。だが、嘘を指摘されても木嶋被告は別段困るわけでもない。何か問題でも?といったふうである。
 犯行は別にしても、木嶋被告は、多数の男性からカネをせびり、ゆえにその心をもて遊ぶ。性関係を多数もちながらも、そこに情感はない。むしろ、彼女は上質な性行為を提供したのだから多額の対価を得るのは当然だし、対価はどのようにでも付けていいのだとしている。
 木嶋被告は男性にそもそも関心がないのかというと、そうでもない。本命に近い男性もいるにはいる。だが、およそ常人に想定される、愛情や情感というものはない。なんなのだろうか、この怪物的な人物は、と奇っ怪に思う。
 と同時に、そうして謎の人物として描かれてみると、そもそも他者というのはそういうものだよ、愛情というものはそういうものだよと、何かが私の脳裏につぶやく。
 私が過去に見た女性――性関係もそもそも恋愛関係もないけど、それなりに会話したり、仕事をしたり、同じ場を過ごしたりした女性たち――も、他者としての本質という点で、木嶋被告となんら変わらないなと思える人がいく人もいた。
 他者というのはそういうものだし、女性というのはそういうものだと私は思ったし、思ってもいる。
 他者としての彼女たちから見える男性は、木嶋被告がする次の描写と変わらない。そこに描かれる薄汚い男は私と変わりない。木嶋佳苗被告は後この事件で死ぬことになる寺田さん(当時53)の家に泊まりに行く。

 佳苗によると、約束の時間から30分遅れて帰宅した寺田さんは「待たせたね」の一言もなく、段ボールを持とうともせず、「オジサンの匂い」がしたという。また、部屋に入ると寺田さんはすぐに着替えたが、ワードローブのスーツは全て古くさくて、センスのないものばかりだった。佳苗が料理を始めると、寺田さんはなぜか下半身だけシャワーを浴び、無言のまま書斎でパソコンを始めた。佳苗がお風呂場をのぞくと、床や壁には赤カビ黒カビがこびりつき、シャンプーのボトルがぬめっていた。これまでも寺田さんの家を訪れるたびに注意してきたのに、塩や油などが冷蔵庫に入っていて、冷凍庫に入れたほうがいいとアドバイスしたはずの食パンが冷蔵庫に入っていた。
 佳苗が容赦なく、冷静な視線で寺田さんを観察する様子が浮かび上がる。

 木嶋被告からの話が事実であるかはわからないが、そう見えた像であることは間違いないし、53歳の寺田さんの風体や生活の感触は、同い年くらいの私と変わらない(余談だがなぜか私は老人臭はないようだが)。
 この冷ややかな視線のなかで、特にきついのは、食パンのくだりだ。「冷凍庫に入れたほうがいいとアドバイスしたはずの食パンが冷蔵庫に入っていた」という意味である。これは「ワードローブのスーツは全て古くさくて、センスのない」ではすまされない、なんとも愚劣なものを見る視線なのである。木嶋被告はパン作りにも熱心だったということもあるが、このように愚劣に見られた男性は、およそ感性というものはないと理解される。木嶋被告は感性のある対象としてこの男を見ていない。
 私もそういうふうに他者としての女性から見られてきた。そう見られる視線のなかで、その女性たちは私とって理解不能な他者でもあった。
 ただ違いもあると言えばある。木嶋被告はそうした他者と性交渉をして、対価を得た。対価を得ることで他者との「正しい」関わりを持つことができた。
 私の前に現れた他者たる女性たちはそういう関わりをしなかった。あるいは、私はそういう「正しい」関わりをしなかった。いや、私はただ、ある意味、恵まれていただけなのかもしれない。
 他者としての女性というのはそういうものだし、おそらく普通に婚姻関係のある男女でも、妻が夫に「冷凍庫に入れたほうがいいとアドバイスしたはずの食パンが冷蔵庫に入っていた」のを見たとき、そしてそれが繰り返されたとき、夫は妻の目から遠い他者に移されていく。
 他者というのはそういうものであり、そうなることを愛情といったものが押しとどめることはできない。そうであれば、木嶋被告は、普通に生きていたというだけではないのか。
 本書を読みながら、死に至ることになる大出嘉之さん(当時41)と自分と重ねてみることもあった。

 驚くべきスピードだった。佳苗が男性からお金を引き出していることは、もちろん知っていた。でも、これほどスピーディな荒技だったとは思わなかった。メールで徐々に信頼させ、少しずつお金を引き出した……とどこかで思っていたのだ。ところが佳苗は、太田さんからメールが来たその日のうちに、お金を要求し、セックスの話をするのである。
 実際、佳苗は大出さんと婚活サイトで出会った2日後に、大出さんの済む東京都千代田区のJR神田付近で会い、その8日後にセックスをし、翌日に470万円を受け取っている(佳苗は否認)。大出さんは税理士を目指していたこともあり、お金の管理にも厳しく、学生時代の友人との会食でも2千円以上は使わない倹約家だった。そういう男から、あっという間にお金を引き出したのだ。
 大出さんがこの世を去ったのは佳苗と出会ってから、23日後のことだった。このわずかな期間で、佳苗からは、大出さんの心を射貫くような熱いメールが怒濤のように日に何通も送られていた。

 私ならどうだろうと自分を大出さんと重ねあわす。「心を射貫くような熱いメールが怒濤のように日に何通も送られていた」らどうだろう?
 わからないというのが第一の答えで、次に自分という人間は奇妙に嫌な人間なのでそれによってその状況を免れるかもしれないとも思う。
 私は、私に向かってくる人に気をつかいながら疲れていく。私は男女の愛よりも人間の基本的な愛のようなものをおもてに立てて演じる偽善者であり、そのことでまた男女の愛情をすり減らすような人間なのである。
 私は木嶋被告のような女性との関係で、そのような奇妙な偽善者の劇を演じるのではないだろうか。そしてそういう薄気味悪い演技をする男である私と、大出さんを比べたとき、大出さんはどれほど純朴であろうかと思う。私は、たぶん、木嶋被告のようになにか、人間性が壊れている。
 車のなかで練炭の一酸化中毒で死んだ大出さんを、木嶋被告は自殺だと言った。大出さんの母はこう証言している。

 第8回公判の午後は、大出さんのお母さんが再び証言台に立った。「嘉之は照れて、にやにやしながら、出ていきました」とあらためて自殺を否定する証言をした。また、それより前の公判では、佳苗との旅行のために下着や靴下やシャツを母親がすべて用意したことや、大出さんが佳苗に会う前に、精力ドリンク「マカの元気」を2本買っていたことが検察側により明らかにされた。
 大出さん。男はバカですね。哀しいですね。
 きっとそんなふうに大出さんの肩を抱きたくなる男もいるだろう。

 肩を抱くことはないが、まあ、私も、そう思う。そして、そう書く著者北原のなかに木嶋被告と同じような女性の、ひんやりとしたものも感じる。
 女性である著者はこうも語る。

 しかし不思議だったのは、男性たちが次々に亡くなっているのに、この事件からは、全くといってほど、凄惨な暴力のにおいがしなかったことだ。亡くなった男性たちは皆、佳苗に恋をしていた。そして練炭が焚かれる中、一酸化酸素中毒で眠るように亡くなったと言われている。亡くなった晩に、佳苗がつくったビーフシチューを食べていた男性もいた。絶望や恐怖や諦観の中、死を迎えたのではないことは、残されたものの救いであると共に、「殺人」の悲惨さを薄れさせた。

 大出さんは、その死を迎えることになる晩、木嶋被告のビーフシチューを食べ、うっとりと愛の夢を見ながら死んでいったのではないか。
 本書を読んだ後、私は悪夢を見た。
 内容は覚えていないが、女性との性交渉があるという夢ではなく、愛もなく、木嶋被告のような女性と対立するような夢だった。私はいらだち苦悩していた。目覚めてから、自分の本性の、愛情の欠落に唖然する感触も残った。
 それで君ならその女性に会っても殺されなかったわけかい?と問われるなら、不幸という形が生なら、そうなのかもしれないと答える。
 木嶋被告という人間が何者であるかは本書を読んでも皆目わからなかった。ただ、自分の本質が奇妙に映し出される機会ではあった。
 その像から見える自分の薄汚さを、たとえば木嶋被告はおカネを出せばサービスとして私に愛情の夢を提供してくれるだろうかとも問い、そうもいくまいとすれば、彼女は自分を選ばないだろうとも思った。
 著者北原は、木嶋被告がどのように男性を選んだのかと問いながら、背丈が重要ではなかったか、と問う部分がある。それはある決定的な洞察を持っている。もちろん、背の低い男性でも暴力は振るうし、とてつもない暴力沙汰になることはある、が、それでも、ある動物的な暴力性は抑制される。
 著者は問うていないが、小さい男性を選び出すとことと、木嶋被告の肥満は釣り合っていたのではないかとも思った。言葉ではなかなか語れない、奇妙に生物的な次元での、奇妙な市場のチャネルがあったのではないか。そうしたよくわからない生物的なチャネルは、実は、愛情という虚構の本質なのではないか。
 地裁判決が出たあと、木嶋被告は朝日新聞に手記を発表する。本書は「週刊朝日」に連載され「朝日新聞出版」で出されたこともあり、著者北原は抑制的ではあるが、この手記にある決定的な違和感を嗅ぎつけている。そこに、おそらく控訴審への問題も秘められているように思えた。
 
 

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2012.05.18

心のボットネットについて

 「心のボットネット」ということを、このところ考える。私が考えた概念だけど、きっと他にも考えている人は、そういう言葉ではないにせよ、いるんじゃないかと思う。これがわかると、たぶん、ネットの世界の見方が変わるんじゃないかと思う。いやそんな大したことじゃない、かもしれないけど。
 ちなみに、まんまでグーグルで検索したら「"心のボットネット"との一致はありません。」とか言われた。へえ。
 まあ、一度わかってしまえば難しい術語ではないんだけど、じゃあ、説明してよと言われると、できそうにもないので、黙っていた。こっそりいうと、そういう自分が作った自分だけの概念みたいのが私にはいくつかあって、これはたぶん、狂気への道なんだろうなと思う。
 「心のボットネット」を説明するためには、前提となる「ボットネット」を説明しないといけない。うへぇ。
 いや、そうなんだ、ほんと、ウエーならぬ、ここは敵地だ、うへぇな感じ。
 でも、やってみますかね。もしかしたら、それ面白い考えかもしれないと思う人は以下をどうぞ。メンドクセーとか思うかたは、どうでもいいよ(ちなみに、そういう人が心のボットネットになっちゃうと思うんだけど)。
 さて、元になる「ボットネット」とは何か? なんだが、たぶん、ウィキペディアとに説明があって、正しいけどよくわからんことが書いてあるんだろうな、と予想して見ると、そのとおりなんで笑った(参照)。


ボットネット(Botnet)とは、サイバー犯罪者がトロイの木馬やその他の悪意あるプログラムを使用して乗っ取った多数のゾンビコンピュータで構成されるネットワークのことである[1]。サイバー犯罪者の支配下に入ったコンピュータは、使用者本人の知らないところで犯罪者の片棒を担ぐ加害者(踏み台など)になりうる危険性がある[2]。ボットネットにおいて、指令者(ボットハーダーまたはボットマスターもしくは単にハーダーという)を特定することはボットネットの性質上、非常に困難である。そのため、近年では組織化された犯罪者集団がボットネットを構築し、それを利用して多額の金銭を得ている[3]。

 簡素に重要なことを伝えているという点では、ウィキペディアのこの説明、いいんじゃないかと思うけど、意味わかりますか? まあ、私なりに以下解説するんで、このエントリのケツまで読めたら、もう一度、この説明を読み直すといいと思いますよ。
 じゃ、私の説明、開始。
 まず、コンピューターウイルスというのはもう特に説明いらないだろう。人間の身体に侵入する病原体のウイルスの比喩で、コンピューターウイルスと呼ばれている。パソコンとかスマホとかに侵入してくる。「誰からだろうこのメール?」とか不審なメールが届いて、添付ファイルを開けたら「わけのわかんないことが書いているなあ」と思った瞬間、感染とあいなりました、みたいになる。
 で? この侵入したウイルス君、何をするか?
 病気みたいな破壊? 情報の盗み出し? 乗っ取り?
 いや、最近のコンピューターウイルスの多くは何にもしない、しばらくは。潜伏期間と言ってもいいかもしれないけど、とりわけ活動しないことが多い。パソコンを破壊もしない。情報の盗み出しもしない。乗っ取りはするけど、乗っ取られたことがパソコンの利用者には気がつかない。
 なんというのか、ウイルスに感染したというより、あなたもこれでフェースブックの会員登録ができました、みたいに、会員になる。もちろん、パソコンの利用者が知らない間に会員にされてしまうのだけど、何の会員かというと、これがボットネットの会員。多くのウイルスはボットネットの招待状みたいなものなのだ。
 このボットネット会、何をするかというと、たまにイベントをする。握手会みたいな感じで、二つのことをする。一つは、メールの送信、もう一つは、サイトのアクセス。
 一つ目の、メールの送信というのは、ボットネット本部から、「このメール他の人に送信してね」という依頼のようなもの。送信依頼されたのはどんなメールかというと、ボットネット会員募集のウイルスも当然あるけど、半数以上が医薬品の広告。2ちゃんねるみたいに違法な薬物の情報をお届けします、というのはあまりない。なんで医薬品の広告かというと、これは話せば長くなるので別に機会があったら説明するけど、まあ、そんな感じ。他に、アダルト情報とか。
 ようするに、迷惑メールの送信代理、ということ。ボットネット会員のお仕事は、たまに迷惑メールを送信するだけの簡単なお仕事です、ということ。
 もう一つはサイトのアクセス。パソコン利用者が知らないうちに勝手に本部が指定したサイトにアクセスする。で、何をするかというと、特に何もしない。ただ、アクセスするだけ。ええ?
 いやこれが、一秒間に10万ボルト、みたいに大量のボットネット会員が特定のサイトにアクセスする。
 と、どうなるか、短時間に集中アクセスされたサイトは死じゃう。銀行のオンライン取引とかがダウンする。ドス攻撃とか呼ばれるもの。短刀でぐさりとするみたいだからドス攻撃(これは嘘)。
 ひどいことするじゃないかと思うかもしれないけど、ボットネット会員にこうしたお仕事依頼が来るのは多くないので、会員のかたの大半は気がついていない。
 でも、いちど本部からお仕事の依頼がくると、ウイルスによってボットネット会員にされたパソコンは、拒絶できない。命令に従うだけのロボットになってしまう。
 この「ロボット」の頭の「ロ」が略されて「ボット」。つまり、ロボットをたくさん引き連れたネットが「ボットネット」ということ。ちなみに、ブログは「ウェブログ」の「ウェ」が略されたもの。うぇっ。
 そして、「命令」といっても、ごく短いコマンド。行動を誘発するトリガーとなる言葉。
 普通のパソコンなのに、トリガーを受けると、ロボットになってしまって、迷惑情報を拡散させたり、特定の事業者の業務を頓死させる、これがボットネット。
 もう察しがついた人もいると思う、「心のボットネット」。
 「心のボットネット」は、トリガーを受けると、ロボットになってしまって、迷惑情報を拡散させたり、特定の事業者の業務を頓死させる人々の集まり。
 コンピューターがコンピューターウイルスに感染するように、人の心(マインド)がマインドウイルスに感染して、普段は普通に生活しているのに、トリガーを受けると、本人も気づかずにロボットになってしまう。
 あなた、「心のボットネット」の会員ではありませんか?
 知らないうちに、マインドウイルスに感染してませんか?
 そう問われても、答えられない。ボットネットのコンピューターを日頃使っているのに気がつかないように。
 でも、行動から、わかる。
 迷惑情報を拡散させたり、特定の事業者に集中的に言及してその業務を頓死させる、という行動から、わかる。「トリガー」を受けると、迷惑情報拡散や特定業務頓死活動、こういう行動を取る。
 ツイッターやフェースブックみたいな会員構造をもつSNSの内部に、マインドウイルスが拡散して、「心のボットネット」が形成される。トリガーになる特定の言葉がこの「心のボットネット」に投げ込まれると、一斉に、迷惑情報を拡散させたり、特定者を頓死させるようになる。
 今の、ネットってそうなっているんじゃないかと思う。
 困ったね。
 でも、そうだったら、命令者がいるはずじゃない。そしてそれは集中システムなんだから、集中を壊せば、マインドウイルスがあっても、「心のボットネット」は崩壊するんじゃないか?
 そうとも言える。
 でも、このボットネットは、一種、P2P構造をもっている。P2Pというのは、集中部をもたずに一対一の関係を単位にネットワークが形成できるようになっている仕組みだ。
 マインドウイルスが対人関係みたいな小さい構造に収まるように仕組まれていたら、そこからできる大きなネットワーク全体は、トリガーさえ知っていれば、隠れて制御できる。
 「マインドウイルスが対人関係みたいな構造に収まるように仕組まれる」というのは、「私たち、これが正義だと思います」と言い合う二人の関係このと。
 だから、互いにその正義で相手を監視しあい、制御して、それが全体ネットワーク制御になる。
 この「正義」の部分こそ、マインドウイルスそのもの。
 じゃあ、「心のボットネット」を背後で操る人がいるのか?
 いるんじゃないかと思う。といっても、陰謀論みたいに、氏ね氏ね団みたいなものじゃなくて、その集団に利害を集約させるような集団や階層だと思う。
 というか、そういう特定利益の集団の暗黙の規約が、そのままマインドウイルスの形態をしていて、「寂しい寂しい私たち群れたい」という多数の人々に、「正義」のふりしてマインドウイルスを埋め込むのだろうと思う。
 この「心のボットネット」状態、どうしたらいいんだろう。
 どうしたらいいんだろう、というのは、これやっていたら、全体の利益が公正に配分されないし、全体の正義が機能しなくなる。
 構造から見ると、ネットワークの「寂しい寂しい私たち群れたい」という受け皿みたいな欲望が解体できればいいけど、それはむずかしい。
 ウイルスチェッカーで検知して除去するというのもありかもしれないけど、それこそ心のボットネットの敵なんで、集中砲火を浴びることになる。
 ロボットから集中砲火を浴びるなんて、やなもんだよね。
 
 

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2012.05.17

ブログはどこまで嘘をついていいのか

 まあ、話題の虚構新聞の「橋下市長、市内の小中学生にツイッターを義務化」(参照)について、私も結局釣られるということなんだが、ネットでは話題といっても知らない人もいるだろうと思うので、概略から、で。
 試しに、グーグルニュースでこの件を検索したらエックスドロイドというサイトの「「虚構新聞に怒る人はバカ」とひろゆき氏が断言」(参照)という記事があって、ざっと読んだら、それがわかりやすいように思えたので、概要の代わりに引用。


 現実の事件や出来事のパロディ記事を配信するジョークサイトとして有名なのが「虚構新聞」。個人サイトとは思えないPVを叩きだしており、一昨年に今までのネタを集めた単行本『号外!!虚構新聞』(笠倉出版社)が発売されるほどの人気サイトだ。
 記事には背景色に隠れた文字を反転させると「これは嘘ニュースです」と書かれており、虚構新聞というサイト名からもジョークであることは分かるのだが、「ありそうでないこと」をネタにしている上に新聞記事の体裁を模した書き方であるため、よく確認せずに事実と誤認してしまう人が絶えない。
 5月14日、同サイトが「橋下市長、市内の小中学生にツイッターを義務化」という記事を公開すると、これがTwitterなどで爆発的に拡散。ウソ記事であったことが判明すると、釣られた人々が「混乱させられて迷惑」「デマを流しているのと同じ」などと虚構新聞に怒りをぶつける事態となった。

 簡単にいうと、「虚構新聞」が嘘記事を書いて人気を集めているブログだということを知らないで、記事のタイトルだけ見て釣られた人が、「ほら見たことか橋下市長は」と怒りだすということがあり、そしてその怒った人たちに対して、ひろゆき氏のように「バカ」だなと、あざけるという人がいたという話である。
 「冗談と言っているのに、冗談だとわからない人は、バカで困るよね」というのがブログとかネットカルチャーでの一般的な受け止めかたなのだが、それでいいのかというのが当の問題提起である。
 私はというと、いろいろ考えて、結論としては、これはいかんなと思うのでちょっと書いてみる、ということだが、この問題、いろいろ錯綜している。
 まず、虚構新聞というのはこの手の嘘記事を書いて、それを嘘だとして面白がるブログなので、そう人だけで、つまり一部の人だけで楽しんでいるなら問題ないとは言える。
 また、タイトルだけで釣られてしまう人というのは、ネットの情報を判断できない人なので、ひろゆき氏のように「バカだ」とまでは言えないものの、困ったものだなというのも言えるだろう。
 後者については、私も昨日、JBPressの「国に期待する者はバカを見る、自分を磨きなさい 竹中平蔵・慶應義塾大学教授インタビュー」という記事の7ページ目(参照)を備忘にブックマークしてツイッターに流したところ、「よく言うね。竹中平蔵。裏切り者の売国奴が。本当に恥じを知らん奴だ」という反応があった。私は、さほど竹中氏自身には関心なく、7ページ目中央銀行について彼がこう述べていたところが気になったのだった。

 そもそも、政府とは別にわざわざ中央銀行をつくる理由には2つあります。
 1つは国会でやっていたらどうしても対応が遅くなること。スピーディに手を打たないといけませんからね。もう1つは金融が難しい分野だからです。専門家にしか任せられません。
 オバマ大統領がFRBのポリシーボードに、マサチューセッツ工科大学の教授でノーベル賞も取ったピーター・ダイヤモンドを入れようとした。しかし議会に拒否されたということがありましたが、理由は単純です。彼は確かにノーベル賞を取りましたけど、金融で取ったのではないからです。
 中央銀行のポリシーボードというのはそれくらい専門性が要求されるのに、日銀はPh.D.(博士号)を持っている人が少ない。しかもどこかの会社の社長とかジャーナリストとかが、いきなりポリシーボードに入ったりする。そんな国はほかにありませんよ。

 日本の中央銀行はそういうもんだよなと思ったのだった。どうもツイッターでの反応はリンク先を読まずに、「竹中平蔵」で「裏切り者の売国奴」という反応が出てしまった。
 私としてはその反応にちょっと驚いたのだが、まあ、ネットのカルチャーを見ていると「小泉純一郎」「TPP推進」とかいうキーワードにすぐにこの手の反応が出るのは知っているし、「石原都知事」「南京虐殺」「従軍慰安婦」「靖国神社」でも似たようなことになるのも知っている。「竹中平蔵」もそういうキーワードだったわけだ。
 でだ、「竹中平蔵」はさておき、この手の発狂トリガーのキーワードに「橋下徹」が含まれているようになっていることは知っていた。私は彼にはほとんど関心はないのだけど。
 ツイッターとかして多数の人をフォローしているなら、「橋下徹」が発狂トリガーのキーワードとして、タイムラインが時として発狂ツイートだらけになるのは何度もあったはず。
 で、ここが肝心なのだが、虚構新聞ブログの運営さんもそのことを知っていたと思う。
 つまり、「橋下徹」は発狂トリガーのキーワードだから、「こいつぁネタになるぜ、しかも、その発狂ポイントはいかに彼が全体主義者みたいな言論を出すところだ、してみると、嘘ネタの方向性はこれだな」……というので、今回のネタが出来たというのは、まあ、ブログやネットカルチャーにいる人にはごく常識の部類。
 だから、その常識の部類を口をぬぐってすっとぼけて「虚構新聞だから嘘を楽しむサイト」「嘘を嘘と楽しむのが自由だ」とか言うのは、まあ、私にしてみると、その態度というのが薄汚いじゃないですか、と思う。
 別の言い方をすると、「橋下徹」を「全体主義者みたいな言論を出す」発狂トリガーのキーワードとして遊ぶというのが、極めて偏向した政治的な立場じゃないですか、それを明確にしてないならひどい話じゃありませんかね、と思う。
 いや、政治家など公人を批判することができるのが、言論の自由であり、虚構新聞の今回のネタだって、そういう言論の自由であり、「橋下徹」批判として許されるものだという議論もある。米国でブッシュ元大統領だってお猿に模されて揶揄されていたものだったというのである。
 一見、そんなふうに思えるかもしれないけど、では、と思う。
 オバマ大統領を嘘ネタやデマで揶揄するとき、「オバマ大統領はイスラム教徒(ムスリム)だ」というのはどうだろうか。それも自由だろうか? もちろん、言論の自由。そう言うことはできる。では、それも嘘サイトと看板掲げておけば、嘘として楽しむサイトで言いまくっていいのだと言えるだろうか?
 もちろん、言論の自由はある。
 しかし、それは批判されなくてはいけない。
 もうちょっという、「オバマ大統領はイスラム教徒(ムスリム)だ」という言論があるなら、それは間違いですよ、嘘を楽しむとかいって、そういう政治的な意図を込めたデマを飛ばすのは間違っています、と、誰かが対抗の言論を起こすところに、言論の自由の真価がある。
 「オバマ大統領はヒットラーのような独裁者だ」というのなら、それは誰が見ても意見だとわかる。「オバマ大統領はイスラム教徒(ムスリム)だ」というのは事実言明のフリをしたデマでしかない(ここでめんどくさい余談をいうのもなんだが、イスラム教の解釈によってはオバマ大統領はイスラム教徒だと言えないこともないが、その話は別としますよ)。
 だから、ちょっと、自分をいい子めかして言うことになるかもしれないし、おそらくそれゆえに私も批判を受けるだろうけど、虚構新聞の今回のネタについては、政治家に対してデマに基づく偏向した言論を流布させるのは間違ってますよと、私は批判しなければいけないし、私が信じる言論の自由というのはそういうもの。
 嘘と看板を掲げるなら、なんでも言っていいのか? どこかの政治家が賄賂をもらっているとかいうデマ話も自由に書いていいのか? もちろん、書いていい。言論の自由だ。でも、言論が自由でありつづけるのは、誰かが「それはデマだよ」と対抗言論を起こして、読む人々にもう一つの視点を喚起する場合だけ。
 虚構新聞の今回のネタについては、こういう画面の表現で「橋下徹」本人の写真を掲載していたのも同じく問題だと思う。これが虚構新聞のロゴのように、あははと笑えるような漫画イラストならまだ救いようがあっただろう。

 デマ記事に本人の写真を貼られるというのも、公人としては許容範囲だろうか。違うと思いますよ。そして、ブログとかネットの世界で、こういうデマ記事に本人の写真を貼り込むのはよくないですよと私は思う。
 で、私の言いたいことはそのくらいなんだが、いや、もう一つ。
 今回、虚構新聞の記事はタイトルだけで流れて釣られた人が出て来た。ちなみに、同記事のタイトルをHTMLにそって取り出すと、「橋下徹市長 : 橋下市長、市内の小中学生にツイッターを義務化」となっていて、どこにも虚構新聞とも嘘ともデマとも書いてない。つまり、"http://kyoko-np.net/"というドメインを知らなければ、虚構新聞のネタだとはわからない。でだ、話はこの先。
 虚構新聞というのは、こうしてタイトルだけ流して、人をひっかけるというのも、読者の楽しみの一つだった。「わー、また虚構新聞のネタにひっかかってら」というので笑うわけである。
 これが、仲間内なら、いい。
 仲間内を越えたら、「ひっかかってバカ」といって笑って済む話ではない。
 で、ここが肝心なのだが、こういうふうにタイトルを流して人をひっかける人というのは、仲間内を意識してやっていたのか? 違うでしょ。最初から、このネタを使って、仲間内以外をひっかけようとしたのだし、今回の虚構新聞の事例では、「橋下徹」という発狂トリガーのキーワードなら誰かひっかかるだろうと思ってばらまいたのだ。
 ひどい話。
 なにがひどいかというとそういう意図があるのに、虚構新聞にひっかるのはバカだとか言う悪意のバラマキである。
 ただ、率直に言って、こうした悪意のバラマキという点でいうなら、ネット文化にどっぷりつかった私も無罪だとは思えない。ちょっと思いつかないが、すでにいくつか結果的にやっているじゃないかと思う。
 自分も投石できないしょぼん団に加えて、それでも教訓はなんだろ? というなら、一つには先にも挙げたように「釣られたやつバカ」とか言ってすますのはアカンだろ、であり、もう一つは、発狂トリガーのキーワードの扱いには気をつけたほうがいいということだ。
 なにがその発狂トリガーのキーワードにノミネートされているかは、曖昧なこともあるし、それを全面的に避ければいいというわけでもない。
 発狂トリガーのキーワードの臭いがするときは、人気ブログを運営しているなら、政治的な立場を明確にしているというのでもなければ、ちょっと引いとけよとは思う。
 
 

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2012.05.15

米国で話題の同性婚とか

 ちょっと立て込んでいて今週はメルマガの試作品は出せそうにない。ということは、やっぱり毎週は難しいなという感じがする。軽げなコラム風とかなら、へろへろっと書けないことはないけど、私の書いたものなんか読んで面白いと思う人はそんないないんじゃないかと思う。書籍とかはなにげに読んでいるけど、クザーヌスの本とか紹介するのものいかがなものかで、やっぱし勝間さんの本とかでないと。
 「このネタはメルマガに回そうかな」とか各ネタのこと思うとブログを書くのがおっくうになる。それもどうでもいいような感じではあるけど、ブログが空いちゃうのもなんなので、その手のネタを軽く書いてみたい。米国で話題の同性婚についてである。
 なんで米国で同性婚が話題かというと、きっかけは、オバマ大統領が9日、ABCのインタビューで同性婚を支持すると発言したことだ。で、なんでそれが話題になるのかというと、それが米国人の関心事だからだ。ぐるぐる。
 私とか、あるいは北欧の人なんかもそうだけど、結婚というのはもともと国家という意味での「公」ではなく、教会という共同体としての「公」の問題だから(だから集会で異議あるものはおるかぁと問うわけね)、国家の「公」という点からは「私」の問題だと考える。そういう人にとって、結婚制度というのは、財産に対する規制というくらいの意味しかない。
 それもだ、私を含めてたいていの貧乏人にしてみると、さほど財産を気にすることもない。となると、カンケーネーという話になりそうだが、実際のところ、現代の国家は貧乏人に対する福祉制度でもあり、それに結婚制度も組み込まれているので、そうカンケーネーというもんでもないかうんぬん、ということにはなる。でも、そのくらい。いずれにせよ、同性婚だからという話題には、関心が向かない。
 余談だけど、そもそも現代国家における結婚というのはそういう財産に対する規制なんで、じゃ、それをもうちょっと共同体における「公」の問題に接近させてみましょうか、みたいなアプローチもあっていいわけで、フランスとかだとそれがPACSとして実現していたりする。
 ええと、なんの話だったけ。同性婚か。
 で、余談だが、同性婚ならぬ同姓婚が韓国で公式に認められたのは1997年だったかと思う(違憲判断だったかな)。日本統治下ではどうであったかというと、基本的に日本の近代的な民法の適用ではあったと思うが実質はよくわからない。創氏改名が可能だったというのもそれに準じることかもしれない。でも光復で同姓婚は禁止になったのだったか。余談終わり。
 米国で同性婚が話題となるのは、おそらくキリスト教的な文化によるものだろうと見られている。で、いいんじゃないかと思うが、本当にそうなのか、再考するとよくわからない。キリスト教文化というなら欧州でもそうだが、それほど問題になっているふうもない。やはり公私の議論に吸収されるか、あるいは、欧州では伝統のなかに実質の同性婚が存在しているからなのではないかと思う。
 で、今回のオバマ大統領の発言なのだが、実は私は、これが話題になったのは、オバマさんの発言が、面白かったからではないか、と思っていたのだった。
 彼、大統領選挙の時は、世の中の趨勢を読んで同性婚に反対していた。それからはノーコメントにしていた。
 世の中の趨勢が潮目に来たし、それにそれまでノーコメントとして注意を払っていた層の票が中絶問題などですでに反オバマに回ったので、これ捨ててもいいんじゃね、それに副大統領のバイデンがまたとちっちゃったみたいだし、そもそもバイデンがすべった元の、ノースカロライナ州での同性婚を違憲とする州憲法改正案をめぐる住民投票だが、違憲となって大騒ぎした人々を見て、こっちの票が案外食えるそうだと見たのだろう。で、オバマさん、自分の考えは「進化(evolve)した」と言ってのけたのだった。
 これって、笑いのツボではないですか。状況の利得を見ての「変節」はオバマ用語では「進化」。



Rob Rogers' Cartoons


 ねーよ、と思って笑っていたら、世の中、そういう受け止めではなくて、けっこうマジな議論で報道されているので、引いた。
 さらにロムニー大統領候補が高校生時代、ゲイの学生の長髪を無理に切ったという話題が続報。笑った。ロムニーも覚えてないがそういうことがあったらすまなかったと謝罪したが、そもそも、ロムニー少年の話も事実なのか、よくわからないし、今となっては、それ以外にどう対応していいかわからないような人格攻撃をリベラル陣営という言われる人々が繰り出してくるあたりも面白い。
 いったい何を大騒ぎしているのかよくわからない事態だったが、まじめに政治の文脈だけ取り出してみるなら、本来の問題は、「ノースカロライナ州での同性婚を違憲とする州憲法改正案」をどう扱うかということで、これをオバマさんはどう考えているのかというのが問われなければならない。
 愚問に見えますか? つまり、ノースカロライナ州の今回の住民投票にオバマさんが反対の意見を持っているのは当然ではないか、と。
 とこが、そこがまたまたオバマ流曖昧。
 そういう法制度的な文脈は消えて、個人的見解として進化しただけ。つまり、公的な提言の含みはない発言だったようだ。なにそれ。
 米国では、同性婚を州法で禁じているのは38州で、認めているのは6州とワシントンDCだが、こうした各州の法制度に対して連邦からの提言なり、あるいは民主党の政策上の課題として、オバマさんの意向が今回浮かび上がったわけではなかった。
 
 

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2012.05.12

[書評]センタリングの祈りと内面の目覚め(Centering Prayer And Inner Awakening)(シンシア・ブジョー)

 詳しく調べたわけではないが日本語の訳本はないのではないかと思う。シンシア・ブジョー(Cynthia Bourgeault)による「センタリングの祈りと内面の目覚め」というタイトルはオリジナル「Centering Prayer And Inner Awakening」(参照)の仮訳である。内容はそのまま、「センタリングの祈り」についての簡易な解説であり、その歴史と神学的な背景も平易に説明されている。彼女の語りくちも興味深く、英語も平易で読みやすい。

cover
Centering Prayer And
Inner Awakening
Cynthia Bourgeault
 「センタリングの祈り」とは何か? 公式な説明ではないが、「人が存在の中心(センター)である神に立ち返る祈り」としてよいのではないかと思う。
 命名したのはシンシアの師でもありこの祈りの現代的な提唱でもあるトーマス・キーティング(Thomas Keating)である。彼は当初は、黙想の祈り(contemplative prayer)としていたようだ。
 一般的に「祈り」というと、「祈りの言葉」というように、言葉がおもてに立つが、黙想の祈りでは、聖なる言葉(a sacred word)を道具として使うものの、言葉を廃し、沈黙のなかで、ありのまま(naked intent)に神に向かう。禅にも近く、瞑想にも近い。
 私がこの本を読んだのは偶然からで、先日読んだ「不可知の雲」(参照)を現代の人がどう受け止めているだろうかと関連のものを読んでトーマス・キーティングを知り、彼が提唱する「センタリングの祈り」を知った次第である。
 であれば、キーティングの書籍を読むべきなのだろうが、もっと簡便な本がないかと物色していて、評判の高い本書を試しに読んでみた。序文はキーティングが寄せていることから本書がキーティングの教えに沿っている点も安心できた。読み出すと、面白くてつるつると読み終えてしまった。
 著者であるシンシアにすぐに心を奪われたと言っていい。彼女が若い日にグルジェフのワークをしていたというあたりにも共感を持った。家庭的な環境がクエーカーであったことも興味深かった(三田の教会を懐かしく思った)。アーシュラ・ルグウィンの「ゲド戦記」もいくどか本文に引かれているが、そうういう感性も自分にとってはツボだった。
 私自身はこのテーマについては「不可知の雲」からの関心だったが、キーティングは別途、ベネディクト会などの伝統から、黙想の祈りに接していたのではないかと思っていた。もちろん、キリスト教の実践であるレクチオ・デヴィナ(Lectio Divina)という、読み・理解し・祈り・黙想する(read, meditate, pray and contemplate)というところに、しかも最終の過程に黙想があるので、そうした伝統的な部分からの改革と思っていた。が、本書によれば、1960年代に「不可知の雲」の再理解から直接的に発生した運動のようだ。むしろ、「不可知の雲」が20世紀の後半に突然のように新しく理解されるようになったと言ってよいもののようだ。またキーティングとは異なる黙想の祈りの現代化についても言及があり、初期教父たちの詩編による実践の再現などの指摘も興味深いものがあった。
 本書で、ハウツーとして語られている「センタリングの祈り」は「不可知の雲」にきちんと沿っている。ただし、これは自分にとって幸いだったのかもしれないが、「不可知の雲」から「センタリングの祈り」を見ると、考え方によればではあるが、少し違うところも感じられた。
 例えば、後半で「センタリングの祈り」から生まれた、「歓待の祈り」(Welcome Prayer)があるが、これはシンシアの解説が正しいのだろうと思うので「センタリングの祈り」の運動から付随的に生まれたと見ていのだろうが、「不可知の雲」にもそれに等しい部分が含まれている。また、「センタリングの祈り」がヒーリングとして機能する部分についても、「不可知の雲」には別途深い洞察がある。まさに「不可知の雲」がたぐいまれな名著であることが類書から実感される。
 キーティングによると見られる「偽りの自己」(False Self)についても、シンシアも本書で原罪との関連を述べ、これを「分離」と見ているが、この部分の洞察は「奇跡講座」のほうが深いようにも思えた。いや、本書に欠点があるというのではない。「不可知の雲」や「奇跡講座」の価値も再認識したというだけだ。
 本書のメリットは実践面においてわかりやすいこと、さらに、類似の修法との差違が明確に描かれている点だった。というのは、「センタリングの祈り」は、マハリシ・マヘーシュによる超越瞑想のキリスト教版のようなものと理解されやすいのだが、「聖なる言葉」はマントラとは異なり、それ自体に聖性がないことは強調されている。また、ヨガの八枝や禅との違いも明確になっていた。そのあたりの説明はかなり明晰であった。
 特に説明として使われる「アポファティック(apophatic)」と「カタファティック(cataphatic)」の対立は説得的だった。前者は訳語的な「否定」ではなく「非言語的な・明示的な」ということであり、端的に「God is unknowable(神は不可知)」ということであり、不可知のままに祈りによって向き合うこととしている。このあたりは、なるほど、アポファティックなものをカタファティックに表現したようなクザーヌスなどを思っても頷ける。
 また、アポファティックだから「ケノーシス(kenosis)」が理解できることにもなる。kenosisは、英語としては、empty(空無)やsurrender(降伏)として理解されるが、これは、言うまでもなく、人となりし神、イエス・キリストそのものである。このあたりの議論は、理神に至ってしまった現代文明に向き合う不可知としての神の存在が際立っている。
 とま、私の関心にそってだらだら書いてしまったが、むずかしい書籍ではなく、現代人の生活のなかで生かし、また癒しをもたらす「センタリングの祈り」のハウツー書として読まれるようにも書かれている。
 黙想の祈りは、外的には、じっと静かに20分(20分が標準であった)すごしているというだけに過ぎない。ただ、そこで想念を凝らしたり、作仏ならぬ作神をせず、まさに己を「無」にして不可知の神に向かうだけである。
 余談だが、シンシア自身はグルジェフの教えを否定したわけでも、それを変形したわけでもないようだが、センタリングとして神に立ち返る部分に、グルジェフの「自己留意」(Self remebering)が意識されているようにも読めた。「自己留意」については、ウスペンスキーの解釈(double arrow)が流布しているが原形はクリシュナムルティの「受動的な気づき」(Passive Awareness)に近いものであり、まさに本書で説かれるセンタリングにも近い。

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2012.05.10

[書評]「しがらみ」を科学する 高校生からの社会心理学入門(山岸俊男)

 すでに社会人となった人間でも、社会のなかで生きていくのはどういうことなんだろうかと立ち止まって悩むことがある。まして学生だと、実際の社会はよく理解できない。だから、怖いようにも思える。どうしたらよいのか。
 なるほど、こういう本を読んでおくとよいのだというのが、本書「「しがらみ」を科学する 高校生からの社会心理学入門」(参照)である。社会人が読んでも得るところが多い。

cover
「しがらみ」を科学する
高校生からの社会心理学入門
(ちくまプリマー新書)山岸俊男
 著者、山岸俊男氏は、これは名著と言ってよいと思う、「安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)」(参照)の著者でもあるが、本書「「しがらみ」を科学する」のほうは、社会を見るための原則論がわかりやすく書かれている。
 冒頭、経済学者トーマス・シェリングが出したクイズが引用されている。クイズ自体を理解することはそれほどむずかしくはないので、ちょっとしたパズルだと思って、ちょっと立ち止まって考えてみるといいだろう。私はこのクイズの解答にちょっと驚き、その驚きから本書の主旨をうまく理解できたように思う。
 こういうクイズだ。トニックウォーターについては、普通に「水」と理解していいし、ジンは「アルコール」と理解していい。均質に混ざり合う2種の液体が等量2つのコップに入っているという状態だ。

 さて、ここに二つのコップがあります。左側のコップにはジンが入っています。同じ大きさの右側のコップにはトニックウォーターが入っています。左側のコップに入っているジンの量と、右側に入っているトニックウォーターの量は全く同じです。

 そこで、左のコップからスプーン一杯のジンをすくい出して、右のコップにそそぎます。

 そして少しジンの混じった右側のコップの中身をよくかき回して、今度は、ジンが少し混じった右のコップから、同じスプーン一杯のジン+トニックウォーターをすくって、左側のコップにそそぎます。

 こうすると、左側のコップにはジンに少しトニックウォーターが混じることになる、右側のコップには、トニックウォーターにジンが少し混じることになります。

 さて、ここで問題です!

 左側のコップに入っているトニックウォーターと、右側のコップに入っているジンでは、どちらが多いでしょう?


 問題は理解できただろうか?
 理系ならこう考えるかもしれない。初期値の双方の量をx、スプーンの量をyとする。最初のスプーン一杯の移動によるジンの比率はy/(x+y)。そして次に……として式を立てる。そして計算すると答えが出る。
 ところが、このクイズ、計算しなくても直感的に即座に答えが出る。文系的な発想? いえ、文系理系ということではない。
 この解答が即座に理解できるなら、本書を読む意味の半分はないだろう。即座に答えが出なかった人は、この本を読む価値がある。このクイズで本書が読者に考えさせるのは、むしろ問題をどのように見るかということで、そこに本書の重要性があるからだ。
 もう一つ本書のクイズを紹介したい。離婚の統計を見て、その推移の理由を考えるというものだ。1883年から2010年までの、千人あたりの離婚数の推移をグラフ化するとこうなる。

 注目したいのは、1983年の離婚率のピークから、1988年にかけて離婚率が17パーセント低下している部分だ。なぜ、ここで離婚率が減ったのだろうか?
 この問いに対して、学生は3種類の答えを出した。

(1)民主主義的な教育を受けた戦後世代の夫婦関係がよくなったから。
(2)結婚しなくても自立できる女性が増えたので離婚率も減ったから。
(3)バブル好況だったので離婚の原因が減ったから。

 どれだろうか。
 答えは、3つのどれでもない。
 どの答えも根本的に間違っている。なぜか。
 本書はそれぞれの答えを吟味したのち、それが根本的に間違っている理由として、問題を個人の心理的な原因に求めている点をあげている。
 つまり、ある社会問題が提示されたとき、それを「心」の問題として答えようとすることが根本的な間違いなのだ、ということが本書で説明されていく。
 問題を心に求めて解答とする傾向を著者は、「心でっかち」と呼ぶ。
 なるほど、私たちは、社会的な問題が提出されると、それをまず心理的な問題に還元しがちだ。そしてそれから精神論に移ってしまう。
 そういう考え方が根本的に間違っているのだというのが本書の主張であり、むしろ、精神論で社会を見つめていくことをやめれば、社会が理解できるようになる。
 なるほどと思う。
 では、本書には含まれていないが、こういう問題はどうだろうか。
 読売新聞に8日「就活失敗し自殺する若者急増…4年で2・5倍に」という記事が掲載された。


 就職活動の失敗を苦に自殺する10~20歳代の若者が、急増している。
 2007年から自殺原因を分析する警察庁によると、昨年は大学生など150人が就活の悩みで自殺しており、07年の2・5倍に増えた。
 警察庁は、06年の自殺対策基本法施行を受け、翌07年から自殺者の原因を遺書や生前のメモなどから詳しく分析。10~20歳代の自殺者で就活が原因と見なされたケースは、07年は60人だったが、08年には91人に急増。毎年、男性が8~9割を占め、昨年は、特に学生が52人と07年の3・2倍に増えた。
 背景には雇用情勢の悪化がある。厚生労働省によると、大学生の就職率は08年4月には96・9%。同9月のリーマンショックを経て、翌09年4月には95・7%へ低下。東日本大震災の影響を受けた昨年4月、過去最低の91・0%へ落ち込んだ。

 記事にある「就職活動の失敗を苦に自殺する10~20歳代の若者が、急増している」ということは事実である。では、なぜ、急増したのだろうか?
 読売新聞の記事では、「背景には雇用情勢の悪化がある」としている。が、その答えは、記事からすると警察庁の見解か、読売新聞記者の見解か判別したいが、後者と見てよいだろう。
 事実として「就活失敗し自殺する若者を4年で2.5倍に押し上げた」がある。そして、読売新聞が出した答えとして「雇用情勢の悪化」がある。
 これは、はたして答えになっているだろうか。答えというのは、「雇用情勢の悪化が就活失敗し自殺する若者を4年で2.5倍に押し上げた」と言えるだろうか。
 
 

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2012.05.09

極東ブログ・メールマガジン 試作品 No.3 (2012.5.9)

 とりあえず、前回と同じ方針で試作。この形式で続けていくかは未定。
 実は、一昨日できていたのだけど、最新情報の変化があるかと気になって遅れた。予想外のことはあまりなかった。


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極東ブログ・メールマガジン 試作品 No.3 (2012.5.9)
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目次
[フランス] オランド新大統領の財政緩和策は失敗する
[ギリシャ] ギリシャの混乱は小休止しEUには緩和な危機が続く
[イスラエル] イスラエルはオバマ再選を織り込んだ
[ベネズエラ] チャベス大統領死去には政変の可能性
[アフガニスタン] アフガニスタン戦争敗戦に向けてアヘン利権が問われる
[米国] オバマ政権はエジプト支援でも失敗した
[書籍] 手づくり英語発音道場 対ネイティブ指数50をめざす (平凡社新書)
[テレビ] キティ・沖縄・アメ横
[コラム] Evernoteの中国データセンター建設でささやかれること
[コラム] オランド氏の恋人とフランスにおける少子化対策について
[コラム] 近視が増えるアジア人の子供
[コラム] 環境中の電子音が気になる
[コラム] 豆腐餻(とうふよう)

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[フランス] オランド新大統領の財政緩和策は失敗する
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 フランス大統領選挙の決選投票は、社会党のオランド前第1書記が得票率51.62%で、現職サルコジ大統領を48.38%に押さえて勝利した。オランド氏の勝利は予想通りだったが、決選投票が近づくにつれ予想の差は狭まり最終的には3.24%になった。オランド氏当選に危機感を抱いた層の動向と見てよい。オランド氏の勝利の結果が出ると、為替市場も織り込み済みだったのに、ユーロが売られ円が買われた。
 オランド氏は、ドイツのメルケル首相とサルコジ大統領が欧州連合(EU)の政策として推進してきた緊縮財政に反対し、「ユーロ圏共同債」発行などで財政緩和策を提唱している。実現にはユーロを融通する必要があるが、それ決めるのはドイツである。
 ドイツのメルケル首相も予想外ではないので、儀礼上オランド氏を立てる演技として経済成長も必要だという立場に立つだろう。欧州中央銀行(ECB)も同様である。具体的には、個々の国向けに「成長促進措置を推奨する」といった方針を出すことになる。だが、これは財政協定に付随する形になるだろう。
 「ユーロ圏共同債」については、ドイツの中央銀行であるドイツ連邦銀行が現状では否定的だがいずれ、その方向を強いられるだろう。ドイツ国民の意識から、ECBが高めのインフレ目標を設定する可能性は低い。
 オランド氏もドイツを巡る困難な事情を知らないわけではないが、来月の下院選挙(国民議会)に向けた態勢固めとして、支持層を幻滅させないためにもったいぶった演技をしばらく続けるはめになる。
 その後だが、成長戦略を掲げながらも実質的な政策をもたず、反サルコジだけで選挙を過ごしたオランド政権は、日本の民主党のように内部から崩れ、未熟なオランド氏を取り残す形で実質サルコジ時代と同じ路線に戻るだろう。


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[ギリシャ] ギリシャの混乱は小休止しEUには緩和な危機が続く
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 ギリシャの議会選挙の結果、緊縮策を進めてきた連立与党の議席が過半数を2議席不足で割り込み、連立政権の樹立もまた困難になった。大統領令で再選挙が実施されることになるだろう。今回の混乱に懲りて緊縮策を進めてきた連立与党が再結成されれば、ギリシャのユーロ離脱と国家破綻は避けられ、当面はなんとか持ちこたえる。
 中長期的に見ればギリシャがユーロを維持できる見込みはなく、一定の時間をかけてユーロ離脱の方向を取ることになるだろう。欧州連合(EU)側にしてみると、ギリシャは歴史上名誉欧州国または欧州専属リゾート地といった位置づけで、国家経済の規模も小さく重要性も低い。むしろ、ギリシャのユーロ離脱と国家破綻が及ぼす他国への影響の懸念が大きい。
 このため、時間をかけつつ、多少のコストを払ってギリシャの痛みを軽減しつつ離脱を誘導することが合理的な選択になる。ギリシャにしても自国通貨を復活させれば金融政策もやりやすい。


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[イスラエル] イスラエルはオバマ再選を織り込んだ
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 イスラエルのネタニヤフ首相は、来年10月に予定されていた総選挙を今年の9月に前倒しにすると与党リクードの会合で発表した。9月4日が有力視されている。国内向けには政権の安定を求めるとのことだが、11月の米国大統領選挙で二期目を迎える米国オバマ政権への対応と見てよい。オバマ政権はイスラエルの対外活動に慎重な姿勢を求めているが、二期以降この傾向がさらに強まると予想されている。
 今回の決断はネタニヤフ政権として、米国共和党のロムニー大統領候補の敗北を織り込んだ動向とも読める。イスラエルロビーによるロムニー氏支援となるような仕込みも軽減され、イラン攻撃といった大きな決定も秋以降に延期されるだろう。
 それまでは一種のモラトリアムとも言えるが、このためパレスチナ和平交渉の再開も困難になる。その前提のようにイスラエルは4月24日、ヨルダン川西岸に建設された三つの違法ユダヤ人入植地を合法化した。こうしたイスラエル国内の動向はさらに続く。


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[ベネズエラ] チャベス大統領死去には政変の可能性
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 ベネズエラのチャベス大統領の健康を巡り不穏な話題が続いている。チャベス氏は10月7日に予定されている大統領選で4選を目指し出馬を表明しているが、現在癌治療中であり、それまで大統領職がまっとうできるのか疑問視されている。万一の場合、権力移譲がどのように実施されるのかについても重大な関心が寄せられている。
 チャベス大統領が4月13日から10日間ほどテレビから姿を消した際、死亡したとの噂が流れた。放射線治療でキューバに滞在して後、報道が絶えていたのが噂の元だった。チャベス氏は国営テレビの番組に電話を通じて出演して噂を否定した。
 現状、チャベス氏の健康状態と万一の際の権力移譲について明確な情報はない。噂は二分されている。チャベス大統領死去による圧政からの解放の期待と、チャベス大統領の死期に備えた特別体制が用意されているというものだ。
 独裁者にまつわる健康状態の噂は珍しいものではないが、今回の場合、10月7日という明確で正当な権力移譲の期限が設定されているので、期日に近づくにつれ、問題が可視になっていく。ベネズエラについて言えば、クーデターを含む、かなりやっかいな問題が起きる可能性は高い。


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[アフガニスタン] アフガニスタン戦争敗戦に向けてアヘン利権が問われる
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 アフガニスタン戦争の報道が散漫になってきた。再選を目論むオバマ政権の失態が浮上しないような配慮からだろう。
 オバマ米大統領が選挙戦時代から重視し、大統領就任後も注力してきた「オバマの戦争」ともいえるアフガニスタン戦争だが、2010年6月にマクリスタル司令官を事実上更迭した時点でベトナム戦争と同様な敗戦に向かっていた。大失態と言える事態なので、再選に向けての大きなつまづきにもなりかねない。1日、 野田首相と会談を形式的にそそくさと終了させ、アフガニスタンに電撃訪問したのもその懸念からだった。
 アフガニスタン訪問でオバマ大統領は、米国民には「撤退する」と述べ、アフガニスタン政府には「撤退しない」と述べた。この手の矛盾した話芸で彼にかなう人はいない。
 アフガニスタンの戦争はどのようになっているのか。米国防総省はタリバンが弱体化していると述べ、米民主党のファインスタイン上院議員は勢力を拡大していると述べた。実態はオバマ大統領流の修辞の問題ではなく、見解の相違によるもので、総じて見れば膠着状態にある。
 オバマ政権は和平交渉として敗戦処理を進めているし、タリバンの穏健派も同意しているため、たびたびリークされる米兵の侮辱行為についても、直接的な反感がアフガニスタンで沸き起こっているわけではない。
 和平工作の障害となっているのは、力の均衡というよりもアヘン栽培の利権の問題である。アフガニスタンにおけるアヘン生産は順調に増加していて、アフガニスタン政権を支える地方権力とタリバンとで上手に配分する必要がある。
 事態の危うい均衡を崩しかねないのは、アフガン駐留仏軍約3千300人の年内撤退を公約としていたフランスの新大統領オランド氏である。このため、オバマ政権は早々に米仏首脳会談の早期開催を打診した。米仏直接対話が、ワシントン郊外で開催予定の主要八カ国(G8)首脳会議の後に回るようだと両国関係は水面下にこじれているというメッセージになる。が、その事態は回避された。


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[米国] オバマ政権はエジプト支援でも失敗した
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 中国の盲目の人権活動家・陳光誠氏の事件では、米国オバマ政権の人権問題棚上げ外交が大きな失態を招いた。同様の失態がエジプトでも展開されている。
 米国外交は表向き人権擁護を掲げるが、現実にはキッシンジャー流外交を典型とするように、他国の人権問題には目をつぶる。オバマ政権もその方向で優等生的な外交を展開してきたことが裏目に出た。
 外貨準備が減少し経済が困窮しているエジプトの軍事政権だが、オバマ政権は3月23日、民主化を条件にせよとする議会を押し切って、年次13億ドルの軍事・経済援助を延長した。オバマ政権としては、軍事援助を停止すれば、エジプト情勢のさらなる不安定が懸念されるとした。
 だがその後の動向を見ると、援助によってエジプト軍政はむしろ悪化した。エジプトで活動している人権団体への弾圧は強まり、イスラエルに対しても天然ガス輸出契約を破棄した。


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[書籍] 手づくり英語発音道場 対ネイティブ指数50をめざす (平凡社新書)
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 英語の発音について、いわゆる音声学といった専門書を除けば、これほど徹底的に議論した本はないのではないか。著者は大学で英米学を学んだ経歴はあるが、その筋の専門家ではなく、自力で英語を学習していった人。その苦労の過程が独自の体系としてまとめられている。読本的であるが、実習書としても使える。つまり、この本を読んで口ずさめば、基本は米語発音であるが、その回数分だけ英語の発音が向上する。
 例を上げよう。発音してみてほしい。やさしいものからというと、これ、"internet"。「インターネット」と聞こえるようではダメ。「ター」の音は聞こえない。どう聞こえるかというと、「え」にアクセントを置いて、「えなね」。言われてみると、実際米人はそう発音していることに気がつくだろう。
 第二問。"Israel"。「イスラエル」は当然ダメ。「イズラエル」かな。いえいえ、「ラ」とか聞こえる時点でアウト。どう聞こえるか。「え」にアクセントを置いて「エズリアゥ」。本書はこれを「エズイウ」としている。いずれにせよ、そんな音。
 英語の発音をきびしく矯正した人なら、本書は不要かもしれないし、多少音声学を学んだ人にも疑問は残る。それでも、え?そうだったのと思えるような指摘がいくつかあるはずだ。
 興味深い主張もある。私にとって意外だったのは、フォーニックス教育を否定しているところだった。本書の説明を読むと説得力はあった。
 雑談的な話も楽しい。TOEICへの批判やコウビルドやロングマンなどを含めた辞書論なども納得できる。
 本書の、いわば日本人向け発音矯正論は、きちんとした教育メソッドにまとめ上げることができそうにも思える。だが、私の知る限り類書は見当たらない。[ http://goo.gl/RtH9O ]


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[テレビ] キティ・沖縄・アメ横
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 5月15日は沖縄の本土復帰記念日ということでその特集番組が2点ほどあった。「テレビが見つめた沖縄」を見たいと思っている。他に、イラン生まれのタレントさんが「アメ横」の紹介をするという番組にも関心をもった。一時期エスニック料理に凝って、アメ横通いをしたことがあり、懐かしく思う。

◆NHKスペシャル「追跡!世界キティ旋風のナゾ」
NHK総合5月12日(土) 午後21時00分~22時13分
 世界の情報を見ていて、ときたまあらぬところで「ハローキティ」に出会う。アラブ圏や社会主義国。いったいどうなっているのかと疑問に思っていたが、そのライセンスによるビジネスの実態を紹介する番組 [ http://goo.gl/D9ebE }

◆テレビが見つめた沖縄 アーカイブ映像からたどる本土復帰40年
Eテレ5月13日(日) 夜10時
 沖縄の本土復帰40年をテレビはどのように描いてきたか。映像を掘り出し、現地での証言を交えて構成。ちょっと偏向した内容になるのではないかと懸念するけど、気になる番組。 [ http://goo.gl/jMqhc ]

◆おふっ、「サヘル・ローズ わたしの街“アメ横”」
BS3 5月15日(火) 19:30-20:00
 イラン生まれのタレントのサヘル・ローズさんお気に入りの「アメ横」の紹介。中学時代からの親友とアメ横へ出かけるという番組。きっと大津屋とか出てくるのではないかと期待。


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[コラム] Evernoteの中国データセンター建設でささやかれること
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 Evernote(エバーノート)は、スマーフォンなど各種の装置で作成した個人データをインターネット上に保存して、いつでもどこでも参照できるようにするというサービス。日本でも人気が高い。というか、日本で人気が高くてこのビジネスが復活した。当初は、手書き文字認識技術の会社で、創設者は懐ゲーのテトリスの関係者だった。
 インターネット上に保存するといっても、実際にはデータセンターに保存する。それはどこにあるのか。利用者は気にしなくてもよい、ということになっているのだが、中国となると話は別。言うまでもなく中国語に「自由」はない、ということはないが、中国政府はいかようにも個人の自由を蹂躙できる。陳光誠氏の事件でも明らかだった。かくして、Evernoteの中国進出も問題となった。
 ネットビジネスにとって、多数の人口を抱えている中国は魅力的な市場だが、同時に「危ない」市場でもある。公正なルールはない。中国政府は身勝手に行動するので利用者の権利も守れない。妨害行動だってしちゃう。Googleが苦渋の決断で撤退したものだった。そこにがっつりEvernoteである。なんでも記憶するEvernoteは、Googleの困難を忘れている。
 Evernoteの言い分はというと、リスクはわかっているが中国だって無法なわけじゃない、心配しすぎはよくないよ、である。ツイッターやフェイスブックはこれまで中国政府にブロックされてきたけど、Evernoteは大丈夫だった。それって安心に聞こえますか?
 中国人のネット利用者はどう受け止めているか。これを話題に取り上げたBBCの記事で読んだ声だと、普通の利用者が個人上を蓄積するにはいいじゃないの、とのこと。でも、活動家とかなら蓄積したデータが安全だと過信しないほうがいいよ、という感じ。
 日本人利用者のデータが中国のデータセンターに蓄積されるということは、現状のニュースからはなさそうだが、この話題、英語圏ではいろいろ取り沙汰されている。なぜか日本では話題に上ってない。ちょっと不気味なほど。

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[コラム] オランド氏の恋人とフランスにおける少子化対策について
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 フランスの新大統領はオランド氏に決まった。彼は1954年生まれ。エリート中のエリートを養成するフランス国立行政学院を卒業した。そのエリート校で、前回の大統領選挙でサルコジと争った候補ロワイヤル氏と熱愛。二人は二男二女、四人の子をもつに至った。
 それだけ聞くと、今回の大統領選挙、前回のカミさんのカタキを今回はダンナが取ったようにも思える。が、二人は2007年に関係を解消している。
 離婚? 婚姻関係がないと離婚とは言いがたい。事実婚だったのか。そうでもない。PACS(パクス: 市民連帯協定)という婚姻に近い関係にあった。PACSは元来は同性愛者のための事実上の婚姻制度として進められたようだが、婚姻よりはゆるく、一方的に破棄できるので普及した。さて、オランドとロワイヤルどっちが破棄を言い出したか。
 きっかけは、オランドの浮気である。ロワイヤルが社会党公認の大統領候補に選出されて話題になったころ、取材に来た社会党担当の美人記者ヴァレリー・トリエルヴィエールにオランドが夢中になる。で、ロワイヤルは嫉妬。こんな女性記者は外せ、とトリエルヴィエール記者の上司に圧力をかけた。
 ロワイヤルはオランドとの関係が最悪の時期に前回サルコジと戦っていた。負けた。選挙戦が終わって、関係が終わったことを書籍「敗北の舞台裏」で明かした。オランドは今回、若い恋人とウキウキして勝利した。かくしてファーストラヴァーとなるトリエルヴィエールだが、離婚経験もあり、子供も三人とのこと。
 関係する子供、えーと、都合七人。少子化対策ってこういうものなんですね。


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[コラム] 近視が増えるアジア人の子供
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 先日ネットで「近視の原因は日光に当たる時間の短さという研究結果」という話題を見かけた。ネタ元は定評ある医学誌「ランセット」とのことなので、該当論文の概要(http://goo.gl/KJpkd)を読むと、アジア都市部の子供に見られる近視に関係するのは、「戸外で過ごす時間が減少してきたという生活習慣の変化に伴う教育のプレッシャー」とある。戸外で当たる光も関係あるが、論文の要旨としては、過剰な教育の問題とされていた。
 ネットで話題となったネタはAFP通信の記事からだった。そちらの英文を読むと、太陽光に当たることでドーパミンの産出がよくなり、これが近視を妨げるという話が強調されている。「近視の原因は日光に当たる時間の短さ」と伝言ゲームにしてしまうのはしかたがない面はありそうだ。
 この話題、BBCも拾っていたが、現代のアジア人の子供が置かれている状況に重点が置かれていた。いわく、アジアの主要都市の子供の近視は90%にも上るが、英国だと20-30%ほどという。アジアの子供たちがまだ現代的な生活様式でない時代には、近視の率は英国と同じだったという指摘もある。イギリス人に言われると、ちょっとね。
 近視を正すのに、どの程度の光が必要なのかというと、明確にはわからないが、1万から2万ルクスとルックスとのことだ。曇の日の多い英国でも満たされる光量になる。それだと、英国と日本の子供とで、それほど環境差はないようには思えるのだが。


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[コラム] 環境中の電子音が気になる
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 昨年の震災以降、緊急地震速報の電子音に敏感になった。電車の中や人混みで、例のピロリンピロリンという音が鳴ると身構えてしまう。そういうふうに反応してしまう自分もとてもいやだ。やがて来る恐怖に束縛されているような気がする。
 もちろんあの音は、そういうふうに身構えるためにある。それは理解している。でも、と思う。私が身構えたいために、私が用意した音ではない。
 気にしすぎかもしれない。緊急地震速報以外にも、この手の電子音が増えたように思うのだ。ピー。ピロン。ピロロン。注意を払え。注意を払え。電子音が環境に増えているように感じられる。誰の関心が欲しいのだろう。私?
 繰り返すけど、人によっては有益な注意喚起の音声なのはわかる。それでも電子音が環境にだだ漏れという感じがしてならない。
 このだだ漏れという感じは他にも影響しているんじゃないか。テレビのニュース速報でもそう感じる。突然、ニュース速報が出る。なにかと思うと、東電の社長に誰が決まった、ということ。それって重要なニュースなのか。30分、1時間待って聞いたら遅いニュースなんだろうか。
 これは勝負の世界なのかもしれない。聞くんだ、ジョー! メディアで勝つというのは、聴衆者の気を引いてその時間を奪うことだ。
 いろいろ工夫して気を引かせるようにするのはわからないではないが、自分については電子音が溢れてくるのは耐えがたくなっていく。音量としてはそれほどでもないけど、なにか、ごく基本的なゆるい規制というか、ルールみたいなものはできないものだろうか。
 この提言にそれほど賛同が得られるとは思っていない。この手の音に困ったなあと感じている人をあまり見かけないからだ。若い人ほどそうみたいだ。なぜ? 生まれたときからあったとかゲームで慣れたとか。
 ひとつわかったことがある。若い人たちとだらっと過ごしたときに、わかった。ケータイとかスマートフォンのメールの通知音が、しょっちゅう鳴る。彼らはいやだなという感じはなく、自然に反応している。アライグマがいる。ピロロン。芋も落ちている。ケータイを見る。小川が流れている。返信を書く。芋も洗う。自然な反応。
 機械的な音で呼び出されるというのは、私は身体の深いところから不愉快だ。歩道を歩いていて、後ろから自転車でチンとかされるのもいやだ。どけ!とか声をかけてもらうほうがまだいい。そこで人間と向き合える。


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[コラム] 豆腐餻(とうふよう)
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 沖縄の郷土料理に豆腐餻(とうふよう)というものがある。沖縄の豆腐(島豆腐)を米麹、紅麹、泡盛に漬けて発酵させ、熟成させた食品で、麹と泡盛の甘い香りに、チーズのような、たんぱく質の発酵食品らしいこってりとした味わいがある。赤い色は紅麹の色素である。苺を模したお菓子の成分に着色で紅麹を使ったものがたまにある。毒性はないとされている。ここからコレステロールを抑える薬剤の開発が始まった歴史もある。
 豆腐餻は琉球時代、明から伝わった腐乳が元になっていると言われる。京都、宇治、隠元禅師開祖の黄檗山万福寺の普茶料理にも豆腐羹がある。同種のものだろう。
 沖縄の豆腐餻は、現在中華食材屋で安価に購入できる腐乳とは味が違う。こちらは塩味の調味料だ。現在の沖縄の豆腐餻が出来たのか。あるいは腐乳のほうが変化したのか。それとも最初から豆腐餻のような腐乳があったのか。疑問になる。はっきりとはわからないが、沖縄の豆腐餻は、辻(遊郭)で饗される珍味ではなかったかと私は思っている。
 珍しい食品ということもあって自作しようとする人もいる。沖縄の豆腐を入手し、塩をして干し、麹と泡盛に漬ける。豆腐を風晒しに陰干しするというのが奇妙な、秘伝の手順のようにも思える。
 干した段階で出来るものが「るくじゅう」である。漢字は「六十」または「六条」と充てる。するとこれは、六条豆腐のことではないかと私は推察している。六条豆腐もまた豆腐に塩をまぶして陰干しにする。酒に浸したりまたは吸い物の具にしたりもする。京都六条に由来すると言われる。月山にも同種の六浄豆腐がある。
 六条豆腐はかちかちの乾物のようなものなので、沖縄の「るくじゅう」とは異なるかのようだが、そうでもない。沖縄染色工芸「紅型(びんがた)」で彫りの台座に「るくじゅう」を使うが、これがやはり固い。同じ物である。紅型は13世紀に始まる。そのころ「るくじゅう」を使用していたのだろうか。
 こうしたことから、沖縄の「るくじゅう」は六条豆腐に起源をもつ本土の文化ではないかと私は思っている。沖縄の文化は、中国的に覆われた部分を除くと本土の室町時代の文化が起源と見られるものがいくつかある。

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極東ブログ・メールマガジン 試作品 No.3 (2012.5.9)
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2012.05.06

[書評]不可知の雲(The Cloud of unknowing)

 「不可知の雲(The Cloud of unknowing)」は、14世紀末中世の英国で書かれた瞑想のガイドブックあるいは指導書である。かなり割り切って言えば、瞑想のハウツー本である。
 なんのための瞑想か。神を知り、原罪の苦しみを軽減するいうことだが、現代人にとって精神的に得るところ部分だけ取り上げれば、つらい気持ち、鬱、怒りといった心に安らぎをもたらすことである。その点では、禅やその他の宗教の瞑想とそれほど変わらないとも言えるだろうし、道元の禅によく似ているとも思った。
 当然、なんともスピリチュアルな本であるし、実際にキリスト教神秘主義の有名な著作でもある。作者の名前は伝わっていない。匿名ということだが、これは謙遜として名を残さなかったということなのだろう。

cover
The Cloud of Unknowing
A New Translation
 この本を読むきっかけは偶然だった。先日、スワミ・ラマの自伝(参照)を読んで、近代インドにおけるキリスト教神秘主義を知り、その関連の本を見ていたり、テレビでケン・フォレットの「大聖堂」(参照)を見て、中世英国のキリスト教ってどうなんだろとも思っている際に、幾つかの側面からこの本「不可知の雲(The Cloud of unknowing)」に遭遇した。なんというのか、いろいろな符牒がこの本を読めと促しているような印象でもあった。
 かくして読んでみたいとまで思ったが、英語を読むのはめんどくさい。有名な古典なら、翻訳書がありそうなものだと探すとすでに二種類ある。一つはエンデルレ書店から出ているので版元にも訊いてみたが在庫はなかった。
 絶版でも古書くらいはあるだろうと探すと、どちらもたいそうなプレミアム価格がついていた。そこまでして訳本を読む気はないなと思った。じゃあ、原文?
 中世英語は学んだことがあるが、注釈なしで読めるほどの実力はない。結局、縁のない本だなと諦めようとしたところ、どうやら現代の欧米人も現代語訳で読んでいるらしい。そりゃそうだろうな。
 探すというまでもなく、イーヴリン・アンダーヒル(Evelyn Underhill)が1922年(大正11年)に翻訳した英文が現在ではパブリック・ドメインになっていた。それをするっと入手した。1875年生まれのアンダーヒルは、1882年生まれのヴァージニア・ウルフとだいたい同年代の人なので、そんなに読みづらい英文でもないだろうと思ったし、序文はそういう印象だったのだが、本文に入るや、冒頭こんな感じである。

GHOSTLY friend in God, thou shalt well understand that I find, in my boisterous beholding, four degrees and forms of Christian men's living: and they be these, Common, Special, Singular, and Perfect.

 また。

What art thou, and what hast thou merited, thus to be called of our Lord?

 欽定訳聖書を読んでいるような、なんとも擬古文的な英語。
 それでも17世紀の英語といったものではないので、意味がとれないほど難しくはない。おそらく英米人にとっては、その擬古的な雰囲気がいい味わいなのかもしれない。だが、私としては、引いてしまった。
 余談だが、アンダーヒル訳の「不可知の雲」はジェファーソン聖書(参照)と合本になっているものもある。かたやキリスト教神秘主義、かたや理神論的聖書と、まるで水と油のような組み合わせのようにも見えるし、合本は近年のことではあるのだろうが、意外とこの組み合わせは、日本でいうと大正時代から昭和の時代の英米人の宗教性に合致していたのかもしれないとも思った。日本人でいうと、新渡戸稲造の時代でもある。彼も、クエーカーだからということではないが、似たようにスピリチュアルな印象はある。
 いずれにせよアンダーヒルの擬古文は苦手だなと思っていた。そう思う現代英米人もいるらしく、アマゾンを調べたら現代語の意訳が見つかった。いくつかあるようだが、カーマン・アセベド・バッチャ(Carmen Acevedo Butcher)現代語訳「The Cloud of Unknowing: A New Translation」(参照)が一番読みやすそうだった。たとえば、先と同じ部分はこうなっている。

DEAR SPRITUAL FRIEND in God, I want to tell you what my humble searching has found true about growing as a Christian. You'll experience four stages of maturity that I call the ordinary, the special, the singular, and the perfect.


Who are you? What have you done to deserve being called by our Lord to this work?

 これならいいんじゃないかと思って、こちらを買って、ぽつぽつと読んだ。
 短い章が75章もある。全体としては小冊子というくらいの本なので、さっと読めばさっと読めるのだが、読みつついろいろ思うこともあって、まさにぽつぽつと読んでいた。
 読んでいて、奇妙に幸せな気分になる。そしてどうもオリジナルのメンター(師匠)の精神性が親しみやすい肉声として感じられてくる。
 さらに言い回しと内容が「奇跡講座」(参照)に似ているようにも思えてくる。なんでだろうかと不思議に思っていたのだが、考えてみると、どちらも思想としては、ディオニシウス(偽ディオニシウス・アレオパギタ; イベリアのペトルス)的な新プラトン主義だし、「奇跡講座」を記述したヘレン・シャックマン(Helen Schucman)はその思想的な傾向からして、アンダーヒル訳の本書を読んでいた可能性は高い。直接的な影響もあるのかもしれない。
 思想的な部分以外にも、「不可知の雲」と「奇跡講座」では論述のしかたが似ている。なんというのだろうか、同じテーマと思える部分が何度も変奏して、ぐるぐる登場してくる。両書、構成が悪いということはなく、簡素で堅固な構成になっているのだが、わからせようとする意識のあり方が、これはさすがに現代人の思考法ではない、という感じがする。
 「不可知の雲」の内容なのだが、瞑想のハウツー本でもあるので、その面ではわかりやすい。だが、独自の瞑想の伝統を持つアジア人としては、坐法や呼吸法といったその形式性に着目しがちになるが、その面についてはほとんど言及はない。逆に、どうやら当時存在していたらしい、瞑想的な身体技法への反論が後半部に縷々と展開している。東洋的な宗教にありがちな観想(イメージ形成)というのも痛烈に否定されている。
 仏教でいう三業、つまり身口意という面で言うなら、「不可知の雲」は「意」の部分の技法に集約されている。これがキリスト教神秘主義らしさで上手に統合されている。簡単に言えば、雑念・妄念をどのように払うかというのが論点になっている。といっても、繰り返すが、難しい内容ではない。
 本書全体のもつ中世的な精神性はそのまま現代語で通じるというものでもないが、内容の実技的な部分は現代人にも十分に通用するし、私が読んだバッチャの現代語訳もそのまま現代の英米人に有意義なものとして受け止められているようだ。そのようすを見ていると、結果として心の病を癒すという効果もありそうに思える。
 その意味で、簡素な現代日本語訳で「不可知の雲」の小冊子があれば、現代日本人にも役立つ、本当の意味でスピリチュアルな書籍になるだろう。岩波文庫とかに入っていてもよいのではないか。
 ただ、「不可知の雲」というタイトルそのものが現代的ともいいがたい。「知りえない雲」とでもするか。それだと気が抜けたようでもあるが。
 ところでなぜ「不可知の雲」なのかというと、人の思いと神の間には、人知の及ばない雲のようなものに覆われているためである。瞑想の技法としては、いかに不可知の雲を扱うかというより、その対極にある「忘却の雲」が重視される。感覚、記憶、思い、いっさいを忘却の雲のなかに投げ捨てると、あとは神のはからいによって感覚を越えた世界に導かれるという。
 
 

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2012.05.03

盲目の人権活動家・陳光誠氏をめぐる事件

 中国当局によって自宅軟禁に置かれていた、盲目の人権活動家・陳光誠氏の奇跡の脱出、そして米大使館駆け込みの事件だが、最新の報道では、人権弾圧を続けている中国と人権擁護を一応は掲げている米国とで政府レベルの手打ちとなった。
 陳氏は米国亡命を求めたがかなわず、「米国に裏切られた」と発言したとの報道もあった(参照)。だが米国オバマ政権の高官は、「亡命を要請したことは一度もなかった」とまるで中国政府高官のようなことを述べて米大使館から陳氏を結局放り出した(参照)。
 事態の真相はよくわからないが、中国政府下に戻された陳氏に言論の自由などありようもなく、真相解明の大半は不可能になった。オバマ政権、グッジョブ。
 表立った報道からわかる範囲で経緯を見ると、中国政府がこの事件を嫌うのは当然として、オバマ政権もこの事件を嫌っていたようだ。クリントン米国務長官は5月3日、北京で開催された米中戦略・経済対話の開会式でこの事件については言及もしなかった。人権問題よりも外交や経済が重視されているのだ。
 米中両国ともに内政に大きな問題を抱えつつ、大きな政権交代または交代の可能性があるなか、やっかいな事を起こしたくない。それでも今回の事態は米国の大義である人権問題に触れるため、オバマ政権にイヤイヤ感が滲むのはしかたがない。
 なによりタイミングが良すぎる。クリントン米国務長官とガイトナー財務長官が、米中戦略・経済対話で北京入りする予定にドンピシャで北京の大舞台が大騒ぎが繰り広げられた。普通に考えると偶然なわけないだろうと思える。
 人権弾圧主義の中国の化けの皮が剥がれるし、山東省臨沂地区から遠く離れた北京の米国大使館に駆け込むところから見て、奇跡脱出劇に西側の人間が関与していたことは疑いないのに最後は米国大使館から放り出すという結末で、人権擁護国として米国の顔もつぶれた。
 陰謀論で見るのは避けたいが、どう見てもこれ、なんか裏はあるだろうと考えざるをえないような一幅の絵に仕上がっている。この絵を眺めながら、さてどうしたものかと考える。もちろん、中国の人権弾圧は非難されなければならない。これまでこのブログではなにかと批判を浴びながらも人権問題ををけっこう扱ってきたつもりだが、チベットやウイグル問題を見てもわかるように中国の人権弾圧はひどすぎて、どこから非難してよいかわからない。
 裏はあるだろうか。裏といっても英国タブロイド紙デーリーメールの記事みたいな愉快な話をこさえてもなあとは思う。一応経緯と日本であまり報道されていない情報をちょっとまとめてみますか。
 直接的な事件の経緯だが、陳氏が自宅軟禁から脱出したのは4月22日とのこと(参照)。情報は、実際に山東省から北京にまで560キロの道のりに自動車で陳氏を乗せた何培蓉(He Peirong)自身のツイートからだった。その後、彼女は南京にいたと確認されたが(参照)、直後、公安当局に拘束された(参照)。彼女は4月27日の時点で、「何が起こったか詳しいことは言えないが、われわれの勇気を見てほしい。米国務省にも接触するが、日本政府に支援の声明を出してほしい」と時事通信に伝えた。そういえば日本政府、中国の人権問題になんか発言しましたことってありましたかね。



 何氏から陳氏を引き取って北京の米国大使館に渡したのは、テキサス州に拠点を置く人権弾圧チャイナエイド(CHINAaid)(参照)のボブ・フー(Bob Fu)氏である。

 とりあえず表に立っているのは、何培蓉氏とチャイナエイドのボブ・フー氏である。これだけでも両者にはつながりがあると見て妥当だし、実際つながりはあった。だが今回の事件の立案者がどちらかであるかは、これだけではよくわからない。仮に何氏側が立案の主体であるとしても、彼女はいわば中国における人権と解放のジャンヌ・ダルク的なシンボルでもあり、さらに背景または支援があるかもしれない。
 他方チャイナエイドとはどのような団体か。もちろん非営利の中国における人権擁護団体であるが、そのミッション(参照)を読むとわかるように、信教の自由に力点が置かれている。設立者がボブ・フー氏である。
 フー氏自身、かつて北京でキリスト教徒として迫害に遭っていたが、チャイナエイドもキリスト教系の団体と見られている。MSNBCにもフー氏についての記事(参照)があるので気になる点をまとめておこう。
 フー氏は元はキリスト教徒ではなかった。1989年の天安門事件に加わり、その後の弾圧下で米国戦教団から英語を学び、彼自身も北京で英語教師となりながら、精神の自由をもとめてキリスト教徒となり、さらに地下教会の牧師となった。おかげで「違法な福音派」として投獄もされている。ということは福音派のようだ。
 1996年、妻と子供と米国に亡命し、2002年の中国でのキリスト教弾圧をきっかけに米国でチャイナエイドを創設した。近年の活動としては、劉暁波のノーベル平和賞受賞にも貢献した。中国の地下教会の支援金も多く集めている。陳氏もフー氏も中絶反対を求める米国福音派から支援を受けやすいし、フー氏の経験からすると陳氏も亡命が想定されていたのではないか。
 フー氏の米国亡命のきっかけは妻の妊娠だった。彼にとっては初子だったが出産には中国政府の許可が必要で、妻の妊娠が発覚すると中絶を強いられる状況だった。そこで地下教会の信徒の力を借りて二階の浴室窓から夫婦で逃げ出した。陳光誠氏の活動も中国の一児政策に違反した妊婦に対する、中絶や不妊の強制に戦うものだったし、必死の逃走という点でもフー氏には陳氏への共感が強くあっただろう。
 フー氏自身、今回の事件について4月30日、ワシントンポストに意見を掲載している(参照)。それによると事件は数か月前から立案されていた。当初、俳優のクリスチャン・ベールが陳氏に面会しようとし、その勢いで中国での活動を喚起しようとしたがうまくいかなかった。今回助けとなったのはネチズン(ネット市民活動家)だった。またそのなかで重視されたのが何培蓉氏だった。彼女は今回の脱出劇で、陳氏のような清い心をもった人のためには死んでもかまわないとの決意をもっていた。事件の時期については、陳氏救出に米政府を巻き込む必要性からだったようにも読める。
 心を打つ物語であるが、話は救出の後半部ということで前半部は別にある。山東省での陳氏救出はクリスチャン・ベール以外にも試みられていた。
 2011年10月5日、女性民主活動家の劉沙沙氏の呼びかけで、ネチズンら数十名が陳氏が拘束されていた村に集結しようと計画し、10人前後が拘束された(参照)。その後も試みられたようだが、今回の陳氏の脱出劇でもネチズンが陽動作戦に出たのだろう。
 そこで、劉沙沙氏やネチズンの思想や背景が気になる。
 劉氏もまた何氏のように運動の看板ということがあるかもしれないが、劉氏のツイッターでの発言を追うと、欧米などに多い人権活動家とさほど違った印象はうけない。むしろ、劉氏についてはチベットやウイグルの独立には反対の考えを表明している(参照)。


反对藏独和疆独的原因(1)对领土的眷恋,对“弱小”的恐惧。从小到大看到的地图都是这广袤的样子,失去西部三分之一甚至二分之一的领土,对我们来说,是一种难以承受的痛,这样的领土让我们感觉安全,只剩下一半的领土,让我们恐惧。RT @tengbiao RT @degewa:
lss007 2012/01/15 13:47:03 Content from Twitter
lss07 劉沙沙
チベット独立と新疆独立に反対する理由その1:領土への未練とはすなわち、“弱小になる”ことへの恐怖。幼いころから大きくなるまで見慣れた地図は全部この広大な面積の状態だったわけで、西側の3分の1ないし2分の1の国土を失うなんて、私たちに言わせれば、ある種受け入れ難い痛みなわけ。こういう(今のような広大な面積の)領土があって私たちは安心できているのであって、もし半分の領土しか残らなかったら、もう恐怖でガクブルよ。

 宗教についても基本的なところで嫌悪感を持っているようだ。

你们反抗中共,反抗什么?为何反抗?千万别提宗教,宗教对你们很神圣很美好,对内地民众则很奇怪。你们越虔诚越激烈,汉人看着越恐惧。也别提酷刑——我受的酷刑在一般网友面前都很少谈,因为离他们的生活印象太远,他们不会相信,越哭诉越不信。@degewa @tengbiao @kungat
返信する RTする ふぁぼる lss007 2012/01/15 21:28:18
Content from Twitter lss07 劉沙沙
あなたがたは中国共産党に反抗しているけど、いったい(共産党の)何に反抗しているの? 何のために反抗しているの? くれぐれも宗教を挙げないでくださいね、宗教はあなたがたにとっては神聖で美しいものかもしれないけど、内地民衆にとってはおおよそ怪しげで不気味に感じるものなんだから。あなたがたの信仰がより敬虔に、より激烈になるのを、漢人は見るほどに怖くなってくるの。それから、拷問も挙げないでくださいね――私も、自分が受けたひどい拷問について一般のネット友達の前で口にすることはほとんどありません。なぜなら、(拷問は)彼らの生活の中でイメージできることからかけ離れすぎていて、信じられないものだから。私が泣いて訴えれば訴えるほど、信用されなくなるんです。

 これらは案外気軽な発言ではなく政治的な発言なのかもしれない。だが、普通に読んでうけた印象では、劉氏のネチズンとしての活動は、チベットやウイグルの解放運動とも米国キリスト教徒の関連も見られそうにない。
 何氏や劉氏の背景から、なにか政治的な勢力が潜んでいるとは思えない。むしろ、陳氏の問題は基本的にフェミニズムの問題ではないか。これについて日本や米国のフェミニズムの思想家がどう考えているかはまるでわからない。
 結局、今回の大騒ぎに大した裏はないのかということだが、全体の利害の構図でいえば、陳氏による温家宝への糾弾発言(参照)からすると、この権力交代時に現政権側への反発を強めることは、共青団的な勢力への批判ともなる。すると、太子党的な富裕層による政治の動きかというと、そこまでも見られない。

 むしろ、中国の若い世代には、共青団的な勢力と近代化したネチズンとの対立があるのかもしれない。ただ、そのネチズンは概ね、ナショナリズムに彩られているとはいえそうだ。
 

追記(同日)
 19時24分のNHKニュースで陳光誠氏が米国出国の意向をNHKに明らかにした。「陳光誠氏 一転出国の意向示す」(参照)より。


 中国の盲目の人権活動家、陳光誠氏は、保護されていた北京のアメリカ大使館から病院に移ったあと、一転して出国したいという意向を示し、一応の決着が図られたかに見えた問題で、米中両国が再び対応を迫られています。
 北京のアメリカ大使館で保護されていた陳光誠氏は、米中両国の交渉の結果、3日、北京市内の病院に移され、アメリカ政府は、今後、中国国内の安全な場所に、家族と共に移されると発表しました。
ところが、陳氏は、NHKの電話インタビューに応じ、「中国を離れて体を休めたい」と述べ、中国にとどまりたいとしていた当初の希望を変えて、家族と共にアメリカに出国したいという意向を示しました。
 その理由について、陳氏は、母親が残っている山東省の自宅に新たな監視カメラが設置されていることや、自分の携帯電話の通話が制限されていること、それに、病院で友人との面会が許されないことなどを挙げ、「中国では人権が保障されないからだ」と述べました。
陳氏の扱いを巡り、中国との交渉に当たったアメリカのキャンベル国務次官補は、ラジオ局のインタビューで「陳氏は、中国で普通の暮らしを送ることができるかどうかが重要だと考えていた。亡命や訪米については一度も口にしていなかった」と述べています。
 ただ、別のアメリカ政府高官は「陳氏は意向が変わり始めたが、まだ考えが十分整理できていないようで、把握するためにも、本人と話し合いを続ける」と述べて、陳氏の意向を改めて確認していることを明らかにしました。
 一方、中国外務省の劉為民報道官は、3日の定例会見で「アメリカ大使館が、正常でないやり方で陳氏を大使館に連れ込んだことに、強い不満を表明する」と、従来の立場の説明を繰り返しました。
 陳氏を巡る問題は、いったんは一応の決着が図られたかに見えていましたが、陳氏が一転して国外に出たいという意向を示したことで、米中両政府は再び対応を迫られています。


追記(2012.5.5)
 陳氏は留学が名目で亡命可能。NHK「NY大学 陳氏迎える用意ある」(参照)より。

 盲目の人権活動家、陳光誠氏は、保護されていた北京のアメリカ大使館から市内の病院に移されたあと、家族と共にアメリカに出国したいという意向を示し、中国政府は4日、留学を目的とする形であれば、出国を認める考えを示しました。
 こうしたなか、ニューヨーク中心部、マンハッタンにある私立大学の「ニューヨーク大学」は4日、声明を発表し、「陳氏を客員研究員として迎える用意がある」として、本人に伝えたことを明らかにしました。

 何培蓉さん、釈放。個人的にはこの報道に安堵した。これが重要な問題だった。時事「陳氏の自由「うれしい」=拘束の女性活動家釈放-中国」(参照)より。

中国の盲目の人権活動家・陳光誠氏の脱出を支援し、先月27日以降拘束されていた女性人権活動家・何培蓉さん(40)が釈放され、4日、時事通信の取材に「陳氏が自由を得られたことが最も重要でうれしいことだ」と語った。

 事態の転機は、陳氏による米議会直訴だったのだろう。CNN「陳氏、渡米支援を米議会に直訴 米中対話では人権が議題に」(参照)より。

 中国の人権活動家、陳光誠氏(40)は4日、入院先の北京の病院から電話を通じて米議会の委員会で証言し、中国を出て米国へ行きたいとの要望を伝えた。

 今回の事件だが、当初エントリーに書いたように、オバマ政権の大失態と見てよい。ロムニーが言うように「オバマ政権の恥」と言ってもよいだろう。オバマ政権も事実上議会を握る共和党側に押された形になった。その意味では、共和党的な勢力の勝利ともいえるし、やや選挙戦絡みの陰謀めいた読みが含まれることは否定しがたい。
 陳氏の今後の活動だが、氏に強いビジョンがあるふうでもないので、率直なところそれほど期待できるものではないだろう。だが、大きなシンボルとはなりうる。
 報道での分析はないが、経緯の詳細を見ると、キリスト教福音派や中国ネチズンもだが、天安門事件のネットワークがいろいろ動いていたようには思えた。
 
 
 

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2012.05.02

みなさん中央銀行について何かご存じですか?

 みなさん中央銀行について何かご存じですか? 「中央銀行ですよね。山梨県?」なるほど山梨中央銀行ってありますね。ほかのみなさん、どうですか?「あたし知ってます。偉い人が使う銀行です」 みなさんが使ってるんですよぉ。「使ってませ~ん」ほかにお答えはありますか?「お札刷っているところです」そうです。はい、この千円札をよく見て下さい。カメラさん寄って。日本銀行券って書いてありますよね。日本の中央銀行である日本銀行が刷ったからんです。「あ、ほんとだ。書いてある。知らなかった」そうなんです。「銀行ってお札刷るんですか?」いえいえ。「中央銀行だけはいいんですよね。でもなぜいいの?」いい質問ですね。では中央銀行ついてご説明いたしましょう。
 中央銀行は英語でセントラバンクといいます。パネルを見てください。中央に英語で"Central bank"とありますね。そしてまわりに銀行があります。

 「やっぱり偉いんじゃないですか」偉いというより、銀行を相手におカネを貸す銀行なんです。銀行のなかの銀行と言う人もいます。「さっきの説明だと、貸すおカネは、お札として刷ったものなんですか?」いいとろこに気がつきましたね。中央銀行はお札を刷って貸すことができます。「いいなあぁ、あたしも欲しーい」ははは。できたらいいですよね。
 「質問いいですか?」はい、どうぞ。「日本はおカネが足りなくて困って消費税を上げようとしてますよね?」それで?「中央銀行がお札を刷れるなら、じゃんじゃん刷ればおカネが足りるんじゃないですか?」実にいい質問ですね。どうすか、みなさん。「変! そんなことしていいわけなーい。働かないでおカネなんてラメー」もちろん勝手にお札を刷っていいわけではないんです。「犯罪ですよ、それ」
 では、次の絵を見て下さい。なんの絵かわかりますか?

 「おじいさん、目が行ってる」なにをしているかわかりますか。「頭がおかしくなって飛び降りたいんでしょ」お札、見えますか?「これ、お札なのぉ?」そうです。お札をヘリコプターでまいているところです。「ひどーいっていうか、ほしーい」この絵の人は……「孫さんでしょ。ソフトバンクの」いえ。アメリカ人。「原発の人ですよね」あー、名前はバーナンキさん。アメリカの中央銀行で一番偉い人です。「仕事がきつくて、頭がおかしくなった人ですよね」いえ。でもこんなふうにみんなにおカネを配りましょうということです。「ほしーい!でも、いいのぉ?」
 では、説明しましょう。次の写真を見て下さい。

 「知ってます。クルーニー。映画俳優ですね」いえ。ノーベル経済学賞を受賞したクルーグマンです。彼は子守り組合という例え話をしています。赤ちゃんの面倒を見る組合サービスです。「それ、あったらいいです。うちの姉なんかもう誰か子守りしてくれないかっていつも言ってます」そうですよね。そこで子守り組合は、子守りをするポイントの券を作って組合員で分けて、他の子の子守りをしたらポイントが貯まるような仕組みにしたんです。「他の子の子守りをしたらそのポイントが増えて、それで誰かに子守りが頼めるんですよね」そうです。理解が早いですね。正確には利子とかの話なんですがちょっとアレンジしました。「それが中央銀行に関係があるんですか?」
 こう考えてください。子守り組合の人がポイントあまり使わなくて、貯めることに熱心になったら、どうなるでしょう?「たくさん貯めておくと、いざというときに便利」そうですね。でも子守り組合の活動はどうなりますか?「暇になる」そうです。暇になるとすると……「サービスがうまくいかない」そうなんです。
 「わかったー! お札も子守りポイントの券と同じなんだ」どうですか。「わかんないです」お札というのもいつか使うためのものですよね。ということは、それなのにみんなが貯め込むとどうなりますか。「サービスが暇になる」そうです。サービスが暇になるということは仕事が減るということです。お札が行き渡れはもっとサービスも行き渡るはずなのに、出回るお札が足りないとサービスも行き渡らない。困りました。
 「わかったー! だからヘリコプターでお札をまこうとしてたんだ」そうです。もっとお札を使ってくだいってお札を増やせば、サービスが受けやすくなりますね。
 「ちょっと待ってください。そんな話は変です」どう変ですか?「ただでお札が増えたということは、以前のお札の価値が減ったということにならないですか。せっかく貯めたのに、ただ券が増えたら、もとの券の価値が下がりますよ」いいところに気がつきましたね。そうです。するとどうなりますか?「どうなるって? えーとどうなるんだろう?」お札の価値が下がるとサービスの値段は?「上がる」そうです。物価が上がります。「困るじゃないですか。お札をまいたら、物価があがりますよ。やっぱりダメですよ」でも、サービスが利用しやすくなり働く人も増えますよ。
 「わかったー! あまり物価が上がらない程度にお札をまけばいいんじゃないですか」そのとおり。そこで物価の上昇率、これをインフレ率というのですが、これを2%くらいすればちょうどいいということなんです。
 「2%じゃなくて1%じゃないんですか。ニュースで言ってましたよ」そうです。日本の中央銀行である日本銀行は、なぜか1%と言っているんですね。「どうしてぇ?」
 はい。では、次のパネルを見て下さい。これはフィナンシャルタイムズといって国際的に有名な経済新聞の一部です。経済の専門家なら誰でも読んでいます。


ヨーロッパの中央銀行のジャン・クロード・トリシェ総裁は任期終了のとき、この10年間のインフレ率は1.98%だったと指摘した。これは目標の2%以下だが非常に近い値で、これ以上に目標に近づけることはできない。

 ヨーロッパのユーロという通貨、お札ですね、これを刷ることができる中央銀行で一番偉い人だったトリシェ総裁が、自分の実績は目標をほぼ達成したことだと誇っているのです。この目標は、インフレ目標、または、インフレターゲット、というんですけれど、それが理想の2%にほとんど近かったというのです。ヨーロッパでも中央銀行は、2%のインフレ目標を掲げているわけです。
 もう少しフィナンシャルタイムズを読んでみましょう。中央銀行の仕事で一番大切なのは、インフレを行きすぎにしないこと。物価がどんどん上がるようではいけないということです。そして二番目に大切なことがこれです。

第二番目は、インフレ目標を下回ることは、上回ることと同様に悪いということを、明確にすることだ。ユーロを使う国々の経済の健全性にとってデフレが深刻な脅威となっているとき、インフレ目標を下回って安心しているとしたら、上回るよりもスキャンダルである。

 経済がデフレの状況にあるとき、中央銀行が2%のインフレ目標以下で手を打たないでいるというのは、スキャンダルだというのです。わかりますか? 手を打つというのは、お札を刷るということです。実際には、いろいろな手法を使ってお札を刷るのと同じ効果があるようにします。
 「え-?でも、日本の中央銀行は2%ではなく、1%のインフレ目標を掲げているんでしょ。それじゃ、最初からスキャンダルじゃないですか?」いいところに気がつきましたね。ヨーロッパよりも深刻なデフレが続けているの、なぜ日本の中央銀行である日銀は1%のインフレ目標と言っているのでしょう。
 はい。最後にもう一箇所、フィナンシャルタイムズを読んでみましょう。

中央銀行の独立性とは、政治家が決めた目標を達成するのに、政治家自身がするよりも、中央銀行が自律的にしたほうが上手する能力があるということだ。民主主義の社会では、中央銀行の目標が社会の経済の健全性に合っていないと人々が感じるようだと、中央銀行の能力も実行できない。

 これはどういうことかと申しますと、まず、中央銀行の目的は政治家が決めるということ、そして決めた目標を実行するときに、政治家が口をはさむとうまくいかないので、まかせてください、というのが中央銀行の独立性だということです。わかりますか?よく誤解されるのですが、中央銀行の目的を中央銀行が定めてしまうのが中央銀行の独立性ではないんです。
 次に、中央銀行がきちんと仕事をすること、具体的には2%のインフレ目標に努力するためには、みなさん、日本の国民がひとりひとり、ああ、中央銀行がいい仕事をしているなあ、と理解する必要があるということです。
 「しつもーん!」はい。「わたしたちは、日銀はいい仕事をしていると思っているのに、なぜ1%のインフレ目標なんですか?」はい。そこがむずかしい問題です。というはですね。中央銀行のいい仕事というのは、2%のインフレ目標に努力するということなんですが、日本銀行がそうしてこないのは、日本人がそうしないほうがいい仕事だと思っているからなんです。「わかりませーん。だって、それだと日本人はデフレが好きみたいじゃないですか?」ええ、そうなんです。
 はいっ、時間が来たようです。ではまた。

参考
FT "A job description for Frankfurt"(Apr 29, 2012)


At the end of his ECB presidency, Jean-Claude Trichet liked to point out that inflation averaged 1.98 per cent in the euro’s first decade. It is impossible to come closer than this to the target of “below, but close to two per cent”.


Second, they should make absolutely clear that undershooting the target is as bad as overshooting it. At a time when deflation is a real threat to the eurozone’s economic wellbeing, it is a scandal that the ECB should be more comfortable below the target than above it.


The value of independence is that an autonomous central bank is better able to achieve goals set by elected leaders than those leaders themselves. In a democratic society, this ability cannot be sustained if the population feels that the central bank’s goal is at odds with their economic wellbeing.

 
 

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2012.05.01

極東ブログ・メールマガジン 試作品 No.2 (2012.5.1)

 というわけで、試作品その2。少し方針を変えようかと思ったのだけど、やってみるとなかなかうまくいかない。前回よりちょっとコラムというかボケネタを増やした。個人的にはインフォ系のネタを増やしたいなという感じはあるけど、うまくいかない。で、うまくいかなとやっていくと結局、進まないので現状は進めてみる。
 そういえば、「finalventさんはメルマガに向かないのでは」という指摘もいただく。そうかもしれないとは思っているし、それほど意気込んでいるわけでもない。実際のところ、取り組むスタンスが続くかなという要因のほうが大きい。
 書きながらブログと違うなという実感はあって、それはそれなりにまだ面白い(きついなという感触もある)。書き方の面では、さらりとではあるが踏み込んだ解釈を出すようになった。実際のメルマガということであれば、さらに踏み込むかもしれないなという感じはある。いいのか悪いのかわからないけど。
 成功しているメルマガ例という話を聞いたのだけど、自分から見ると、意外とトンデモが多い。それも商品価値ということなのかもしれないし、エンタテイメントかなとは思う。で、自分でも試作品を作っていて思うは、そういうトンデモ傾向に引っ張られる感じはちょっと共感するなとは思った。
 情報ソースが少ないなか、面白い話を書こうとすると、トンデモにはなりそうだ。ただ、普通のトンデモなら自然に淘汰されそうなものだけど、そうでもないというのは、むしろ、メルマガとしてはトンデモというのが正しい道なのかもしれない。ブログというのが、ゴミになりがちなのと同じように。
 では。


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極東ブログ・メールマガジン 試作品 No.2 (2012.5.1)
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目次
[南スーダン] 中国を脅してケニア側パイプラインを建設
[北朝鮮] 核実験のニュースは権力の混乱を示している
[EU危機] オランダが押したユーロ自爆ボタン
[エジプト] 本命はムスリム同胞団追放のアブールフトゥーフ氏
[中国] 薄煕来失脚は太子党への締め付け
[書籍] 英語となかよくなれる本 (高橋茅香子)
[テレビ] おじゃる丸15周年特番がこどもの日に
[コラム] 観光に来た外国人が日本で知ったこと
[コラム] 自分より若い医者にあって年を取ったなと思う
[コラム] 讃美歌を聴きたくなった
[コラム] 島らっきょうのてんぷらを塩で


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[南スーダン] 中国を脅してケニア側パイプラインを建設
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 日本が国連平和維持活動(PKO)として陸上自衛隊を派遣している南スーダンは現在、スーダンとの軍事的に衝あるが、この事態が進展するなか、南スーダンのキール大統領は23日から中国を訪問していた。交渉である。28日に「道路などインフラ整備」の名目で今後2年間中国から総額80億ドル(約6400億円)の融資を受ける合意に達した。なぜこの時期に? またインフラ整備だけなのか? BBCを含め西側報道では、ケニアを経由する石油パイプライン計画との関係を指摘している。
 南スーダンから産出される原油は、北側で敵対しているスーダン国内のパイプラインを経由して輸出される。このためスーダンは原油産出を南スーダンが停止することを恐れ、南スーダンはパイプラインを理由にスーダンに譲歩しなければならない関係にある。
 南スーダンの原油がスーダンを経由しない南側のケニア側から輸出できれば、南スーダンはスーダンへの依存関係は解消できる。すでに今年の1月24日、南スーダンとケニアのパイプライン建設は合意に達していて、あとは資金や建設受注企業の選定が問題となっていた。日本政府もこの建設に関心を寄せ、そのために南スーダンにおける日本の存在感をPKOで示す必要があった。
 中国は南スーダンの分離独立前からスーダンの原油事業に多額の投資を行っているので、スーダンと南スーダンの間で戦争が再開されれば原油調達も投資回収もできなくなる。この弱みを突いて、南スーダンはキール大統領の訪中前にスーダンと軍事衝突を起こし、原油生産を停止させたようだ。つまり、南スーダンが中国を脅して資金提供を飲ませたものだろう。
 スーダンとしてはケニア側パイプラインは許し難い。紛争の再燃につながるだろう。


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[北朝鮮] 核実験のニュースは権力の混乱を示している
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 北朝鮮が3回目の核実験をすると見られ、国際原子力機関(IAEA)の元事務次長オリ・ヘイノネン氏も高濃縮ウラン型を使用するとの見方を示している。韓国メディアは21日、実験坑道の土砂が埋め戻され、準備は完了した可能性があるとも伝えている。本当だろうか。
 大方の見方では、核実験は2週間以内に実施されるとのこと。ロイターも2006年の核実験を事前に伝えた筋から情報を受け、正確な予想だろうと見ている。NBCは北朝鮮の軍創設80年記念式典に合わせて核実験を実施するとの予想を立てていた。だが、これはすでに外はずれている。
 米ジョンズ・ホプキンス大学の研究グループは、27日に公開した、北朝鮮北東部の核実験場衛星写真の分析を示し、核実験の実施時期は判断できないとしている。
 北朝鮮内で核実験に向けたなんらかの動きがあることは確実だろう。報道は錯綜している。奇妙に思えるのは北朝鮮自身からの公式なメッセージがないことだ。それ以前に、核実験をするメリットが明確になっていない。
 代わりに北朝鮮「特別作戦行動小組」は23日、韓国政府や韓国メディアを標的とした「革命武力の特別行動がまもなく開始される」と発表した。北朝鮮の窓口機関「祖国平和統一委員会」は26日、「特別活動」は一昨年の延坪島砲撃を越えるとしている。
 「特別行動」の内実も「特別作戦行動小組」の実体も不明だが、軍最高司令部や総参謀部報道官ではなく、情報とその経路は錯綜している。
 核実験や「特別行動」が今週も延期されているなら、こうした混乱は北朝鮮権力の内部に対立によるものと推測してよいだろう。おそらく、表立ってきた張成沢国防委副委員長と軍部の対立だろう。


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[EU危機] オランダが押したユーロ自爆ボタン
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 国債格付けトリプルAのオランダがユーロの自爆ボタンを押してしまったようだ。
 深刻な財政問題を抱えるギリシャの財政赤字GDP比は9.1%、同じく問題視されるイタリアだが3.9%と少ない。フランスは5.2%、英国は8.3%。オランダはというと、4.6%で少ない部類になる。EU諸国と比較して差し迫る問題ではないのに、財政規律の面から3%以下を義務づけたEU協定に従おうとしてオランダ政府は、財政赤字削減策の問題を引き起こし、政権を崩壊させてしまった。
 中道右派・自由民主党ルッテ首相は、キリスト教民主勢力(CDA)と右派・自由党の閣外協力で連立政権を維持してきたが、財政赤字削減政策を自由党に拒否され、内閣は総辞職し議会は解散した。現状はベアトリックス女王の要請でルッテ氏が首相代行となっている。
 総選挙は9月12日に予定されているが、EU財政規律を維持しようとする政権は生まれそうにない。解散前の水準で見ると、自由民主党とCDAの議席数は52で、財政緊縮策を可決する過半数にはさらに24議席足りないが、EU規律に反発している自由党からの議席は得られない。
 自由党ウィルダース党首は「総選挙は欧州連合やオランダの主権に関する国民投票になる」と主張しているが、これにオランダ国民が賛同すればユーロ危機が再燃する。
 なお、自由党ウィルダース党首は2008年、イスラム教を批判する短編映画「フィトナ(Fitna)」をネットに公開し国際的な批判を招いた経緯があり、極右と警戒されている。


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[エジプト] 本命はムスリム同胞団追放のアブールフトゥーフ氏
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 エジプト昨年2月にムバラク政権が崩壊して以降、はじめての大統領選挙が5月23日から25日にかけて実施が予定され、6月末に結果が出る。現状の段取りである。どのようになるだろうか。
 23人が立候補の届けを出したが、選管当局が出馬を認めたのは13人。この過程で有力候補が失格となり混戦となった。イスラム勢力と軍が双方、強権を行使しそうな有力候補を相殺したと見てよい。
 議会選挙の勢いからすると第一党「ムスリム同胞団」傘下の自由公正党が擁立するモルシー氏が有力に思えるが、すんなりとは決まらない。事実上、4氏の争いとなる。

 ムハンマド・モルシー氏(ムスリム同胞団傘下・自由公正党党首)
 アブドルムネイム・アブールフトゥーフ氏(同胞団元幹部)
 アムル・ムーサ氏(アラブ連盟前事務局長)
 アハマド・シャフィーク氏(ムバラク前政権の閣僚・空軍出身)

 モルシー氏とアブールフトゥーフ氏がイスラム票を割る。モルシー氏はイスラム法に基づく国家を求めている(女性や非イスラム教徒の権限を縮小する)。イスラエルにも敵対的である。保守的なイスラム教徒の支持があるが反発を買う原因になっている。
 対する同胞団元幹部のアブールフトゥーフ氏はイスラム教徒だが、国家運営は寛容であるべきだとしてムスリム同胞団を昨年事実上追放された。
 ムーサ氏は非イスラム教徒やリベラル派の支持を得ると見られるが、割れたイスラム票に優る支持は得られない。
 シャフィーク氏は、失格したスレイマン前副大統領支持を多数食うと見られている。
 現下のエジプトの最大問題は困窮していく経済であり、その点からすれば、経済問題を重視するムーサ氏が魅力的に見える。また、エジプト最大権力者・軍最高評議会のタンタウィ議長も、元ムバラク派のシャフィーク氏を排除する意味からも、75歳の高齢で御しやすいムーサ氏を内心支持している。なお、タンタウィ議長にしてみれば、アブールフトゥーフ氏も御しやすい部類であり、2氏いずれであっても安全なポジションをすでに固めている。
 浮動票が大きいので予想が難しいが、全体動向としては、ムーサ氏の支持が伸びず、アブールフトゥーフ氏あたりに落ち着き、タンタウィ議長の思惑どおりに「アラブの春」という体裁が整えられる。
 同時にこれはモルシー氏を担ぎ出した同胞団側の失態にもなる。そのため、大統領選挙以前に失態部分の先取りが起きれば、同胞団と軍の対立は深まる。


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[中国] 薄煕来失脚は太子党への締め付け
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 謎が謎を呼ぶ薄煕来・前重慶市党委書記の失脚事件だが、細分化された謎こそが真相を曖昧にするトリックとも言える。全体から見れば事件の構図はむずしくない。なによりこの事態が最高指導者の転換期に起きたことは、次期中国の最高指導者習近平氏に関係した事件であることを示している。習近平氏を含めた太子党を巻き込む権力闘争であることは明らかである。
 太子党は共産主義青年団のように政治理念をもった政治集団ではないため「党」と呼ぶのは適切でないと言われるが、力の源泉は親の代から築いた資金源なので、攻撃理由も資金源になる。薄煕来氏の資金源を解明する過程で太子党が依存している闇の資金源を潰すことは、次期中国の最高指導者習近平氏を含め太子党の権限を縮小することにつながる。
 中国では政府の各部門で不正が拡大している。特に国家事業は不正蓄財の温床である。象徴的なのは2011年7月浙江省温州市で発生した高速列車追突だった。前鉄道相や運輸局長が不正蓄財に問われた。
 さらに闇融資や銀行不良債権問題が重く中国にのしかかっている。2009年に償還を迎えた国債は借り換えによって一時的に隠蔽されているだけだし、銀行は危険性のあるローンを闇市場に移している。これらが手に負えなくなる事態に備えるには、中央に一枚岩となる強力な権力を集中させる必要があり、権力移譲問題もこの方向で推移していく。


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[書籍] 英語となかよくなれる本 (高橋茅香子)
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 文春文庫の「英語となかよくなれる本」の後書きに、「この本を読んで、自分の好きなことを窓口にして英語と親しんでいくヒントを見つけてくださると嬉しい」と意図が書かれている。「『英語は苦手』という人にこの本をささげたい」ともある。
 読んだからといって英語が上手になるという本ではない。英語の先生が英語を説明して書いた本でもない。でも、英語が楽しいと思えるようなヒントがこれほど溢れた本はめずらしい。
 著者、高橋茅香子さんは、朝日新聞に入社し企画部に配属された当時、仕事の合間には好きなミステリー小説を読んでいた。すると年配の人から「英語で読むべきだな」と勧められ、そのまま素直に丸善に行ってアガサ・クリスティのペーパーバックを一冊買った。毎ページに知らない単語が10個も20個もあったが、好きで読み通した。気がつくと60冊に及んだ。後に、彼女は朝日ウィークリーの編集長になった。
 本書には、いわゆるお勉強やビジネスといった固さのない英語の世界が展開する。「ハウツー書をあなどるなかれ」という章には、英語の実用書の面白さが紹介されている。私もけっこうそのタイプの英書が好きなので、とても共感できた。
 本書は最初、晶文社から出た。その後文春文庫になった際「オンラインを上手に使って」としてインターネットの話が追加された。もう一度増補されるときは、キンドルの話がきっと追加されるだろう。[ http://goo.gl/PWSDp ]

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[テレビ] おじゃる丸15周年特番がこどもの日に
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 ご紹介が遅れた。4月30日21時からBS3で映画「かいじゅうたちのいるところ」をやっていた。すでに見ていた人もいるだろう。iTunesでも配信されている。原作はモーリス・センダックの有名な絵本。映画は絵本のイメージをけっこう忠実に再現していた。
 以下今週の予約予定番組。

◆ 5月5日(土)NHK総合 映画「ウォーリー」
 「ファインディング・ニモ」のアンドリュー・スタントン監督が、人間が住めなくなった29世紀の地球に取り残されたロボットの愛と冒険を描く。アカデミー長編アニメーション映画賞受賞作。気になっていたアニメである。

◆ 5月4日(金)NHK Eテレ午前9:00 「おじゃる丸でおじゃる!放送開始15年」
 アニメ「おじゃる丸」15周年記念特番。名場面やなつかしい映像や小ネタなど。いろいろ面白い裏話などが出てくるのではないかと期待している。[ http://goo.gl/1WQXF ]

◆ 5月5日(土)NHK Eテレ19:00 地球ドラマチック・選「トカゲもヘビも空を飛ぶ~マレーシア“滑空”動物の森~」
 2011年9月12日の再放送。トカゲやヘビやヒヨケザルが木々の間を「滑空」するという。通常ありえないような動作をする生物というが、どうにも魅力的に思えてしかがたない。そういう人はよいかも。[ http://goo.gl/A5bQF ]


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[コラム] 観光に来た外国人が日本で知ったこと
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 いわゆる観光とはちょっと違った観光がしたいという人が利用する「Gアドベンチャー」という観光サービスがある。これで日本を旅して外国人がメモした「日本について知った61の事実」という話を見かけた。日本を詳しく知らなかった外国人さんの、日本発見という話である。日本でなにを興味深く思ったのか。
 その前に、メモの元になった日本旅行だが、14日間で東京、京都、広島・宮島、金沢・高山を巡るというもの。費用は4万99ドル(33万円)から。すると1日2500円くらい。それでよく宿泊できるもんだなと思う。食費も入っているのかと見ると、朝食2回、ディナー1回とある。朝食2回の意味がよくわからないが食事も「込み」のようだ。私の安い旅行の感覚だと、格安ホテルは一泊3000円で食事は1000円ほど。
 日本についての61の事実だが、大半はつまらない。「日本は米国、中国に続く世界第3位の経済大国である」そのとおりなのだが、つまり、それまでそうは思われていなかったわけだ。以下、ツッコミを入れてみる。
 「日本の人口は1億2700万人」ええ、そのとおり。「日本の建国は紀元前660年。その記念日は2月11日」それは伝説ですよ。「日本国土の7割は山岳地帯」言われてみればそう。「火山が220個もある」まあね。「一番高い山が富士山でこれは活火山」いや休火山だなのだが。「仏教では禅がもっとも普及している」曹洞宗は浄土心真宗に次ぐけれど禅とはやや言い難い。「文字は4種類ある」これは外国人さん、よくびっくりますね。
 つまらない話が続くのだが、なんだろう?と思う話もある。「日本はジャマイカのコーヒーの85%を輸入している」本当かと調べるとそうらしい。「日本で野球が人気なのは戦後の米国の影響」そうかなあ。「ずるずると音を立てて食べるのは美味しくて調理人に感謝するという意味だ」違います。「馬刺しはよく食べられている」微妙。「日本はアマゾンの材木を世界で一番輸入している」そうかも。「日本人は米国人より4年長生き」まあね。「カラオケは、空っぽなオーケストラの略語」伴奏が録音だから演奏者のオーケストラはいないという意味なんだけど。
 考えさせる話もある「日本のATMは外国のカードを受け付けない」しかたがないのだけど観光立国を目指すなら便宜を強化したい。「レストランでは食事前におしぼりとお茶をくれる」これには感動している外国人さんが多い。チップ不要というのに感激する人もいる。こうした面を強調してもいいかも。
 メモを読んでいると、この外国人さん、多分、旅先でこの手の説明を受けて、ふんふんと聞いている姿が目に浮かぶ。だとすると、もうちょっと面白い説明とかもあってもいいし、もっと日本人の実生活に近い側面を見る旅行者が増えると、日本の国際理解に役立つだろう。[http://goo.gl/sH4yn]


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[コラム] 自分より若い医者にあって年を取ったなと思う
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 自分も年を取ったなと最初に思ったのは成人式のときだった。小学校や中学生の同級生と再会したら、みんな大人になっていた。特に女がね。
 それから、年を取ったと思ったのは、25歳を過ぎたとき、30歳を過ぎたとき。30歳を過ぎたときは、ウソだろと思った。それからはもう、35歳とか40歳とかで思う。でも、そういう年齢とは違って、ああ、年を取ったなあと実感するのは、自分より若いお医者さんに診察してもらうときだった。
 なんかバイトのようなお兄さんが出て来て、「この人、医者なのか?」と疑問に思った。白衣を着ているし、周りを見回すと、そのようだ。というか周りをつい見回してしまった。それから考える。インターンが終わった若い医者がいても不思議ではない。医者の経験が足りないから医療の質が低いというわけもないだろう。思いがぐるぐる回る。医者のほうは、患者の私がそんなことを思っていると気がつくふうはない。若い医者だなと思われることにも慣れているのだろう。そこでまた気がつく。この医者さん、私を自分より年上と見ているんだろう。それはそうだ。
 こういう経験をなんどか繰り返していくと、いやもう、45歳も過ぎると見るからに自分はおじさんなので、若いお医者さんからすっかり中年の人に接するように、接してもらうようになる。こういうのを受け入れていくのが人生というものかと思う。50歳を過ぎたら、もうけっこうな年だし、普通にお医者さんも自分より若い。若い女医さんとかだとなんとなく、年寄りとしていたわってもらえることもある。微妙な感じだ。
 先日だったが、医者に行くことがあり、出て来た医者がおじいさんだった。おおっ、これは立派なおじいさんのお医者さまだ、と感動した。
 問診はよぼよぼとしているので、この年で診察できるのかと疑問に思うこともないではないが、心なごませるものがある。問診で不調をたずねられ、ちょっと気になる略語を言ってみた。勉強してないお医者さんだと知らない略語なのだが、おじいさん医師は知っていた。研究医だったことがあるらしい。
 年を取るというだけで、なんとなく社会に安心を与えるような職業というのもあるのだろう。仕事と人格が年齢相応になって円熟する。若い頃にそういうのを知っていたら、もっとマシな大人になったかなと反省もした。
 本当に反省したんだよ。反省しかできないし、今だと。


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[コラム] 讃美歌を聴きたくなった
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 教会に通っていたことがあるから有名な讃美歌なら歌える。教会に通わなくなってからは歌ったことはない。クリスマスシーズン、街に讃美歌のメロディが流れると、ふと歌詞を口ずさむことはある。季節が季節だしと、心のどこかで許している。許している? 振り返って考えると、信仰儀礼めいたことはいつからか、できるだけしないと決めていた。
 なにかがゆるんだのか、先週だったか、讃美歌が聴きたくなった。CDでも買いに行くかと思ったが、それってiTunesにもあるんじゃないか。
 ありました。いくつかある。どれにしようか。試聴してわかったのは、私みたいな思いで讃美歌を聴きたいという人が少なからずいることだった。
 「懐かしの讃美歌BEST40」というのを買った。新日本合唱団という人たちの声はバランスが取れていて聞きやすい。「懐かしの」がまさに自分の心情にぴったりくる。
 私みたいな人もいるから「懐かしの」とついているのかというと、そうではない。文語の讃美歌ということらしい。現代の教会で、口語の讃美歌を歌っている人もいるんだろう。
 購入した40曲はiPodに入れた。しばらくして、クリスマスの歌は季節感に合わないので抜いた。寝る前とかに聞くと安らかな心になる。文語の響きが美しいなと思っている自分がいる。そう思う自分を不思議に思う。
 私は古典は好きだったが、明治時代以降の文語はきらいだった。大正訳聖書と言われる文語の聖書も好きでなかった。でも今、文語の讃美歌を美しいと思う自分がいる。もしかしてと、大正訳聖書をこの年になって開いてみたら、美しかった。
 このところ毎日iPodで聞いているせいか、ぼんやりしていると、「わーがーしゅイエース」とかつぶやいている自分がいる。素直なクリスチャンにもなったような気分。ひょっこりひょうたん島のマシンガン・ダンディになったような気分だ。
 そういう自分もまあいいんじゃないかと思っていたら、136番の「血しおしたたる、主のみかしら」が受け付けない。ちょっと、グロいな、と思っている。辛子粒にも満たない我が信仰!


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[コラム] 島らっきょうのてんぷらを塩で
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 島らっきょうがたまに食べたくなる。島らっきょうとは、沖縄を示す「島」が「らっきょう」についたものだから、沖縄特有のらっきょうという意味だ。植物としては本土のらっきょうと変わりはないらしい。野菜として見るとずいぶん違う。見た目が違う。根の球が細く、葉の青みも見える。エシャロットのようだ。
 本土のらっきょうといえば、カレーに添えるような甘酢漬けにする素材だが、島らっきょうは、そのまま生で食べたり(味噌は付けるけど)、塩で浅漬けにしたりして食べる。塩をふって二、三日漬けおいて食べるのだ。これがうまい。調べたことはないが、たぶん日本でも中世くらいまでは、らっきょうはこうして食べていたのではないか。
 島らっきょうの外観はエシャロットに似ていると書いたが、日本ではエシャレットという根ラッキョウも売られている。ご注意。「ロット」ではなく「レット」である。らっきょうを早獲りにしたものだ。エシャロットをシャレてエシャレットとにしたのだとも言われる。ではこのエシャレット、島らっきょうとは同じものなのではないのか。
 いまだに判別ができないでいる。だから、エシャレットが売られていたら、島らっきょうとして買って食っている。軽く塩漬けにしたり、てんぷらにしたりする。てんぷらもうまい。
 沖縄のてんぷらは、あれはフリッターというべきではないか。衣がぼってりとつく。魚の切り身とかも、ぼってりとてんぷらにする。そしてウスターソースで食う。後に知ったが、中華料理にそういうものがあった。甘酢やケチャップをつけたりもしていた。
 島らっきょうのてんぷらは、本土風の衣がいいと思う。そして塩で食う。

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極東ブログ・メールマガジン 試作品 No.2 (2012.5.1)
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訂正
 (1)コメント欄で指摘していだきましたが、日本旅行の金額の理解が一桁間違っていました。
 (2)現在では「休火山」という分類はないようです。
 ご指摘ありがとうございました。
 
 ブログだと、訂正が楽ですが、メルマガだと、出してしまうと訂正が難しいので、そのあたりも難しいものなだと実感します。もちろん留意してないほうがよいのですが、間違いは出てくると思います。そのあたりの対応も今後の課題です。


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